『高宗実録』と鬱陵島検察1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:03 投稿番号: [1523 / 18519]
半月城です。
「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。
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ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければなりません。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにします。
考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりです。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきです。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがでしょうか。
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この提案は承認され、李奎遠は王に召されました。そのときの様子が『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への上言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
さて、李奎遠は鬱陵島へ出発前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。
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王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」
李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」
王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」
李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
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(つづく)
「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。
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ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければなりません。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにします。
考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりです。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきです。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがでしょうか。
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この提案は承認され、李奎遠は王に召されました。そのときの様子が『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への上言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
さて、李奎遠は鬱陵島へ出発前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。
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王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」
李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」
王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」
李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
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(つづく)
これは メッセージ 1400 (hangetsujoh さん)への返信です.
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