竹島

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「竹島一件」後の于山島認識2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/09 13:27 投稿番号: [1400 / 18519]
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   なお、安龍福は前述のとおり元禄6年に日本へ連れ帰られているが、同人を連れ返った船は松島(今日の竹島)に立ち寄っている。したがって、同人は記録上今日の竹島に赴いた最初の朝鮮人ということになる。
   同人はその際今日の竹島を見、その名称(松島)も聞いたと考えるのが自然であるが、そうであれば後に同人が「松島はすなわち于山である」と述べたのは、この時の体験に鬱陵島・于山島があるという朝鮮における伝承を当てはめた結果であると考えられる(注4)。
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   塚本説は下條説よりはるかに説得力があります。下條氏は文献考証が恣意的なのか、安龍福の取り調べ時における3、4年前の手柄話をそのまま真実であるかのように採用し、我田引水的な主張を行っているようです。同氏の傾向を如実に示した例といえましょう。これでは学術論文に同氏の主張が引用されないのも無理はありません。

   さて「竹島一件」以降、朝鮮政府は日朝間で問題になった鬱陵島を定期的に捜討するようになりました。これは必然的に鬱陵島周辺の関心をよびおこしました。『粛宗実録』40年条によれば 1714年、江原道御使の趙錫命が嶺東地方の海防を論議しましたが、そこで鬱陵島周辺のことがこう記されました。
  <浦人の話をくわしく聞いてみると、「平海、蔚珍は鬱陵島からもっとも近い距離にあって、海路が少しもさえぎられることがない。鬱陵島東側から島嶼が続いて倭の境界と接している」ということである>
   この一節は日本との国境付近に朝鮮領の島があったことを示唆していると同時に、日本との境界付近まで浦人が行った可能性を語っています。国境付近のその島は名前が記されませんでしたが、これは于山島と考えるのが妥当なところです。もし、そのように『粛宗実録』に記されていたなら、竹島=独島問題に重要な史料になったことは疑いありません。

   さて「東国文献備考」に書かれた于山島=松島という認識は、その後の官撰史料でも再確認されました。まず『萬機要覧』(1808)をあげることができます。宋炳基氏はこう記しました。
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  「東国文献備考」に続いて19世紀はじめ(1808・純祖8年頃)には王命により『萬機要覧』が編纂された。そしてその軍政編4,海防東海条には『増補文献備考』に載せられた「東国文献備考」蔚珍条の付録記事、すなわち鬱陵島・于山島の位置と沿革、鬱陵島領有権紛糾、安龍福渡日事件等を余すところなく無くそのまま転載している。
   これは、于山島は朝鮮領であり、日本側で呼んでいる松島であるという「東国文献備考」の見解を『萬機要覧』でもそのまま継承使用していたことを意味しているのである。『萬機要覧』は国王が座右に置いて参考にする目的で編纂された政務指針書であった(注3)。
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  『萬機要覧』にも「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である」と書かれ、于山島=松島という認識は朝鮮でも盤石になりました。

(注1)下條正男「竹島問題、金炳烈氏に再反論する」『現代コリア』1999,5月号,P59
(注2)李燦「韓国古地図にみる獨島」(韓国語)『鬱陵島・獨島學術調査研究』韓国史學會,1978,P119
(注3)宋炳基『鬱陵島と獨島』(韓国語)檀国大学校出版部,1999
(注4)塚本孝「竹島領有問題の経緯(第2版)」『調査と情報』第289号、国会図書館,1996

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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