竹島=独島の軍事的価値
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/12 16:26 投稿番号: [1574 / 18519]
半月城です。竹島=独島に関する小論のつづきを掲載します。
四 竹島=独島の軍事的価値
竹島=独島に対する明治政府の認識は日露戦争を機に転換点を迎えることになった。その背景を知るために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみる。日本は韓国を勢力圏におさめるべくロシアと「満韓交換」交渉をしたが不調に終わり、一九〇四年二月八日、ロシアに対し戦闘行動を開始した。
連合艦隊が旅順で停泊中のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけるとともに、韓国では仁川に臨時派遣隊が上陸、漢城に入り首都を制圧した。その軍事的威圧のもとで韓国に軍事協力を強要し、二月二十七日「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スル」と規定した日韓議定書の調印を強制した。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設けるようになった。
しかし、その日韓議定書もほどなく日本により踏みにじられるようになった。議定書では「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及領土ノ保全ヲ確実ニ保障」とうたっていたが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定した。その方針のもと、九月には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしていった(27)。
他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まった。ロシアのウラジオ艦隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていったのである。これに対処するため、海軍は監視や通信施設の増強をはかった。
九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結していった。朝鮮内の望楼は約二十か所にもおよんだが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領であった。そしてそれらの戦略の一環として、七月五日、鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定された。
堀によれば、鬱陵島の望楼は東南部(松島東望楼、配員六人)と西北部(松島西望楼、配員六人)の二か所で、八月三日に建設着工、九月二日から活動を始めた。海底電信線の方は、九月八日からウラジオ艦隊に脅かされながらも敷設が進められ、同月二十五日に完成した。
これによって鬱陵島の望楼は朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになった。さらに、リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画された。十一月二十日、軍艦対馬の予備調査で望楼の建設が可能であることが確認された。翌一九〇五年一月、後記するように明治政府はリアンクール島の領土編入を閣議で決定し「竹島」と命名した。
さらに六月十三日、軍艦橋立を同島に派遣し、望楼建設の詳細な調査をおこなった。そのうえで海軍は六月二十四日、鬱陵島、リアンクール島を含めた日本海同水域の総合施設計画を立てた。その計画にしたがい、リアンクール島の望楼は七月二十五日に着工、八月十九日から活動に入った。
海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール島と隠岐との間ではなく松江との間に敷設されることになった。この工事は十月末に開始され、鬱陵島からリアンクール島を経て、十一月九日松江との結合が完了した。つまり、朝鮮本土(竹辺)から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信線の体系がつくりあげられたのである。
このように、日本政府にとって日本海中のリアンクール島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占領と密接不可分なものであった(28)。
(27)海野福寿『韓国併合』岩波新書、一九九五、一三二頁
(28)堀和生、前掲稿、一一四頁
四 竹島=独島の軍事的価値
竹島=独島に対する明治政府の認識は日露戦争を機に転換点を迎えることになった。その背景を知るために、ひとまず当時の東アジア情勢をふり返ってみる。日本は韓国を勢力圏におさめるべくロシアと「満韓交換」交渉をしたが不調に終わり、一九〇四年二月八日、ロシアに対し戦闘行動を開始した。
連合艦隊が旅順で停泊中のロシア艦隊に奇襲攻撃をかけるとともに、韓国では仁川に臨時派遣隊が上陸、漢城に入り首都を制圧した。その軍事的威圧のもとで韓国に軍事協力を強要し、二月二十七日「軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スル」と規定した日韓議定書の調印を強制した。日本はこの条項を拡大解釈して韓国に思うがまま軍事施設を設けるようになった。
しかし、その日韓議定書もほどなく日本により踏みにじられるようになった。議定書では「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及領土ノ保全ヲ確実ニ保障」とうたっていたが、日露戦争の本格化にともない、日本は韓国の独立を保証するどころか、早くも五月には韓国を半植民地化する「対韓施設綱領」を閣議決定した。その方針のもと、九月には第一次日韓協約を強引に承諾させ、保護国化を着々と実行にうつしていった(27)。
他方、戦局は六月になると日本海で一挙に緊張が高まった。ロシアのウラジオ艦隊が朝鮮海峡に出現、日本の輸送船を次々と沈めていったのである。これに対処するため、海軍は監視や通信施設の増強をはかった。
九州・中国地方の沿岸各地と並行して、朝鮮東南部の竹辺湾、蔚山、巨文島、済州島等に望楼を建設し、それらを海底電信線によって連結していった。朝鮮内の望楼は約二十か所にもおよんだが、それらはすべて有無をいわせぬ軍事占領であった。そしてそれらの戦略の一環として、七月五日、鬱陵島に望楼を建設して、そこと朝鮮本土の日本海軍碇泊地である竹辺湾との間を軍用海底電信線で結ぶことが決定された。
堀によれば、鬱陵島の望楼は東南部(松島東望楼、配員六人)と西北部(松島西望楼、配員六人)の二か所で、八月三日に建設着工、九月二日から活動を始めた。海底電信線の方は、九月八日からウラジオ艦隊に脅かされながらも敷設が進められ、同月二十五日に完成した。
これによって鬱陵島の望楼は朝鮮本土を経由して、佐世保の海軍鎮守府と直接交信できることになった。さらに、リアンクール島(竹島=独島)にも望楼の建設が計画された。十一月二十日、軍艦対馬の予備調査で望楼の建設が可能であることが確認された。翌一九〇五年一月、後記するように明治政府はリアンクール島の領土編入を閣議で決定し「竹島」と命名した。
さらに六月十三日、軍艦橋立を同島に派遣し、望楼建設の詳細な調査をおこなった。そのうえで海軍は六月二十四日、鬱陵島、リアンクール島を含めた日本海同水域の総合施設計画を立てた。その計画にしたがい、リアンクール島の望楼は七月二十五日に着工、八月十九日から活動に入った。
海底電信線の方は、九月に講和が成立したため当初の計画が変更され、リアンクール島と隠岐との間ではなく松江との間に敷設されることになった。この工事は十月末に開始され、鬱陵島からリアンクール島を経て、十一月九日松江との結合が完了した。つまり、朝鮮本土(竹辺)から鬱陵島、リアンクール島、松江に到る一連の軍用通信線の体系がつくりあげられたのである。
このように、日本政府にとって日本海中のリアンクール島とは軍事的な利用対象にほかならず、またそれは当時朝鮮各地でおこなった軍事的占領と密接不可分なものであった(28)。
(27)海野福寿『韓国併合』岩波新書、一九九五、一三二頁
(28)堀和生、前掲稿、一一四頁
これは メッセージ 1553 (hangetsujoh さん)への返信です.
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