日本外務省内の混乱と結論3
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/30 22:32 投稿番号: [1569 / 18519]
田邊も渡邊と同様に、古来の松島は竹島=独島であると正しく認識していたのですが、しかし開拓願いに書かれた「松島」がどこであるかについてはやはり確信を持てなかったようでした。
その一方で田邊は、元禄の「竹島一件」の結果、古来の松島は朝鮮領の鬱陵島に付属する于山島であると正しく認識していたようでした。その帰結として、かれは朝鮮領である松島に調査や巡視の船を派遣すべきではないとして、渡邊の意見に反対し、こう書きました(注2)。
「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数えるといういうものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除かれていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌み嫌うところである」
こうして「松島」を実地調査する案は保留になり、同時に「松島開拓願」も保留になりました。その間に内務省伺いを認める形で「竹島外一島」すなわち竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)を放棄する太政官指令が1877年に発令されました。
1881年、内務省はこの指令書を添付して鬱陵島の現状を外務省に照会しましたが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした(注4)。これは外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島(竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識もその後の公的資料には見られなくなりました。
そうした背景には、鬱陵島の現地調査結果が明らかになっていたことも影響したのかもしれません。開拓願いに書かれた「松島」の実地調査は、1880(明治13)年に軍艦・天城を廻航して行われました。その結果、「松島」は朝鮮の鬱陵島であることが判明し、外務省はこう結論づけました(注3)。
「明治13年、天城艦を松島に廻航して、その地に至って測量し、はじめて松島は鬱陵島で、その他竹島なるものは1個の岩石にすぎないことを知り、ことは初めて明らかになった。さすれば、今日の松島はすなわち元禄12年にいうところの竹島であり、古来、日本の版図外の地であることを知るべきである」
この調査報告書で、鬱陵島の日本名は竹島から松島に置きかわってしまいました。そして竹島は、鬱陵島北方の岩石にされてしまいました。同時に「松島」開拓願いはことごとく却下されました。
これを機に、1905年にいたるまで鬱陵島の日本名は次第に松島に、竹島=独島はリエンコールト(リャンコ)とよばれるようになりました。そして公的な資料でそれらの島が日本領として認識されることはほとんどありませんでした。
(注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注2)下記(注3)より引用
「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ 鬱陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我有トセサルヲ約シ 載テ両国ノ史ニ在リ 今 故ナク人ヲ遣テ コレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ宝ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ 如此一挙ヨリシテ再ビ一隙ヲ開カンコト 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ・・・」
(注3)北沢正誠『竹島考證』明治14年、エムテイ出版(復刻版)1996
(注4)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
その一方で田邊は、元禄の「竹島一件」の結果、古来の松島は朝鮮領の鬱陵島に付属する于山島であると正しく認識していたようでした。その帰結として、かれは朝鮮領である松島に調査や巡視の船を派遣すべきではないとして、渡邊の意見に反対し、こう書きました(注2)。
「いま、理由もなく人を派遣して松島を巡視する、これは他人の宝を数えるといういうものである。いわんや、隣境を侵越するするようなもので、日本と韓国との交わりがその緒についたといっても、猜疑や嫌悪がまだまったく除かれていないとき、このように一挙に再び隙間を開くことは外交官のもっとも忌み嫌うところである」
こうして「松島」を実地調査する案は保留になり、同時に「松島開拓願」も保留になりました。その間に内務省伺いを認める形で「竹島外一島」すなわち竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)を放棄する太政官指令が1877年に発令されました。
1881年、内務省はこの指令書を添付して鬱陵島の現状を外務省に照会しましたが、それに対して外務省は何ら異論を唱えませんでした(注4)。これは外務省も太政官指令書を了承したと考えられます。すなわち、外務省も松島(竹島=独島)を日本領でないと認めたと解されます。もちろん、渡邊流の竹島、松島は「暗に日本所属と見なしたるべし」という認識もその後の公的資料には見られなくなりました。
そうした背景には、鬱陵島の現地調査結果が明らかになっていたことも影響したのかもしれません。開拓願いに書かれた「松島」の実地調査は、1880(明治13)年に軍艦・天城を廻航して行われました。その結果、「松島」は朝鮮の鬱陵島であることが判明し、外務省はこう結論づけました(注3)。
「明治13年、天城艦を松島に廻航して、その地に至って測量し、はじめて松島は鬱陵島で、その他竹島なるものは1個の岩石にすぎないことを知り、ことは初めて明らかになった。さすれば、今日の松島はすなわち元禄12年にいうところの竹島であり、古来、日本の版図外の地であることを知るべきである」
この調査報告書で、鬱陵島の日本名は竹島から松島に置きかわってしまいました。そして竹島は、鬱陵島北方の岩石にされてしまいました。同時に「松島」開拓願いはことごとく却下されました。
これを機に、1905年にいたるまで鬱陵島の日本名は次第に松島に、竹島=独島はリエンコールト(リャンコ)とよばれるようになりました。そして公的な資料でそれらの島が日本領として認識されることはほとんどありませんでした。
(注1)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院,1996
(注2)下記(注3)より引用
「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ 鬱陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我有トセサルヲ約シ 載テ両国ノ史ニ在リ 今 故ナク人ヲ遣テ コレヲ巡視セシム 此ヲ 他人ノ宝ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ 如此一挙ヨリシテ再ビ一隙ヲ開カンコト 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ・・・」
(注3)北沢正誠『竹島考證』明治14年、エムテイ出版(復刻版)1996
(注4)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 1568 (hangetsujoh さん)への返信です.
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