島名の混乱と竹島=独島認識1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:20 投稿番号: [1551 / 18519]
半月城です。
前回予告したように、今回は島名の混乱について書くことにします。これは、以前書いた竹島=独島問題レビューのつづきにあたります。
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三 島名の混乱と「松島」開拓願い
元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などをのぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混乱する事態に発展した。
混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混乱をもたらした。
正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのである。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易ではなかった。
アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシーボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルトの比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた(21)。
一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フランスの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホーネットとかリアンコールト、リアンクール、リヤンコなどと呼ばれるようになった。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されることはなかった。
こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネット 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまったが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空のアルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空のアルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の『日本輿地路程全図』の系統によるものである。ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空のアルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指したり、鬱陵島を指したりした。
(つづく)
前回予告したように、今回は島名の混乱について書くことにします。これは、以前書いた竹島=独島問題レビューのつづきにあたります。
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三 島名の混乱と「松島」開拓願い
元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などをのぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混乱する事態に発展した。
混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混乱をもたらした。
正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのである。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易ではなかった。
アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシーボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルトの比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた(21)。
一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フランスの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホーネットとかリアンコールト、リアンクール、リヤンコなどと呼ばれるようになった。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されることはなかった。
こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネット 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまったが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空のアルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空のアルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の『日本輿地路程全図』の系統によるものである。ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空のアルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指したり、鬱陵島を指したりした。
(つづく)
これは メッセージ 793 (hangetsujoh さん)への返信です.
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