明治期の鬱陵島侵略1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/05 11:26 投稿番号: [1571 / 18519]
半月城です。
前回「島名の混乱」において、1876年ころから「松島(鬱陵島)開拓願」が外務省に出されたと書きましたが、これを朝鮮側からみると、そのころから日本人の鬱陵島への侵入が目にあまるようになったことを意味します。
それからさまざまな紆余曲折を経て、やがて 1905年、日本は竹島=独島を「無主地」という口実でこっそり領土編入するのですが、これはとりもなおさず日本の鬱陵島への侵略から派生したものでした。領土編入は、決して日本がある日突然に無主地を発見して自国領に組み入れたというようなものではなく、それなりの背景がありました。今回は領土編入の前史である日本の鬱陵島侵略を具体的にみることにします。
1881年、朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見するや、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求しました。日本外務省は、前回書いたように、すでに松島開拓問題で鬱陵島を朝鮮領と認めていたので、その非を素直に認めて朝鮮に謝罪しました。
しかしこの時、外務省は謝罪のみで何ら対策を講じなかったので、日本人の鬱陵島侵入はその後もつづきました。朝鮮の抗議がくり返されるや、やっと日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻しました。
しかし、木材や漁業資源が豊富な未開の鬱陵島はよほど魅力的だったとみえ、そこへ渡航する日本人はその後も跡を絶ちませんでした。当初は木材を伐採するのが主な目的でしたが、やがて乱伐のために運びやすい沿岸の木材が枯渇するや、次第に漁業が中心になっていきました。
日本政府も朝鮮への出漁を後押しするため 1889年、治外法権や種々の不平等規定をもつ「日朝両国通漁規則」を朝鮮に押しつけました。そのため必然的に日本人の鬱陵島侵入が激化し、それにともない朝鮮政府の日本人退去要求は 1888年、95年、98年、99年、1900年としばしば出されました。95年以降、間隔が短くなったのは、日清戦争(1994)に勝利した日本で対外進出の気運が一層高まったためです。
鬱陵島に侵入した日本人の中には悪質な人もいたようで、業を煮やした鬱陵島の島監・蠔季周は取締を要請するため、はるばる鳥取県や島根県の警察署にまでやって来たくらいでした。その時の記録が外務省にこう残されました。
1898年、鳥取県 吉尾万太郎、島根県 田中多造、大分県 神田健吉の三名が「年々同島に赴き、刀剣銃砲を携え島内を横行し、人民を脅迫し婦女子を追廻り、物品を盗奪する等不法の行為を為し、為めに島民非常に迷惑を感ずるを以て、之が制止を求むると云ふにあり(注1)」(カナをかなに変換、以下同様)
さらに蠔季周は、何人かの日本人を材木の盗伐と窃取のとがで松江地方裁判所に提訴しました。その事件を調べた日本の検事は「本邦人多数在住し その勢力は更に島民を圧し横暴を極め 殆んど無政府の有様」で、「時に在て乱暴を以て彼れを威圧する徒も有之由(ありしよし)将来 此勢増長するに於ては如何なる珍事惹起するや量り難き」と記すほど日本人の乱暴狼藉はひどいものでした(注2)。まるで、やくざが街を闊歩して威圧しているようなさまです。
一方、このころ日本政府は遠洋漁業政策をさかんに推し進めていました。日清戦争勝利の勢いに乗った日本は 1898年「遠洋漁業奨励法」を実施し、奨励金まで出して海外進出を奨励しました。さらに1902年には「外国領海 水産組合法」を制定し、従来の単なる通漁から外国における移住漁村の建設へと移行するようになりました。
こうした流れから日本は、鬱陵島在住の日本人退去を要求する朝鮮政府に謝罪するどころか、逆に定住を後押しするようになっていきました。そのような潮流が鬱陵島における乱暴狼藉を生む一因になったのですが、そうした事態に日本と韓国はともかくも鬱陵島の実態を共同で調査することになりました。それを堀氏はこう記しました。
(つづく)
前回「島名の混乱」において、1876年ころから「松島(鬱陵島)開拓願」が外務省に出されたと書きましたが、これを朝鮮側からみると、そのころから日本人の鬱陵島への侵入が目にあまるようになったことを意味します。
それからさまざまな紆余曲折を経て、やがて 1905年、日本は竹島=独島を「無主地」という口実でこっそり領土編入するのですが、これはとりもなおさず日本の鬱陵島への侵略から派生したものでした。領土編入は、決して日本がある日突然に無主地を発見して自国領に組み入れたというようなものではなく、それなりの背景がありました。今回は領土編入の前史である日本の鬱陵島侵略を具体的にみることにします。
1881年、朝鮮政府は鬱陵島で日本人が伐木しているのを発見するや、日本政府へ正式に照会して鬱陵島渡航禁止を要求しました。日本外務省は、前回書いたように、すでに松島開拓問題で鬱陵島を朝鮮領と認めていたので、その非を素直に認めて朝鮮に謝罪しました。
しかしこの時、外務省は謝罪のみで何ら対策を講じなかったので、日本人の鬱陵島侵入はその後もつづきました。朝鮮の抗議がくり返されるや、やっと日本政府は鬱陵島への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻しました。
しかし、木材や漁業資源が豊富な未開の鬱陵島はよほど魅力的だったとみえ、そこへ渡航する日本人はその後も跡を絶ちませんでした。当初は木材を伐採するのが主な目的でしたが、やがて乱伐のために運びやすい沿岸の木材が枯渇するや、次第に漁業が中心になっていきました。
日本政府も朝鮮への出漁を後押しするため 1889年、治外法権や種々の不平等規定をもつ「日朝両国通漁規則」を朝鮮に押しつけました。そのため必然的に日本人の鬱陵島侵入が激化し、それにともない朝鮮政府の日本人退去要求は 1888年、95年、98年、99年、1900年としばしば出されました。95年以降、間隔が短くなったのは、日清戦争(1994)に勝利した日本で対外進出の気運が一層高まったためです。
鬱陵島に侵入した日本人の中には悪質な人もいたようで、業を煮やした鬱陵島の島監・蠔季周は取締を要請するため、はるばる鳥取県や島根県の警察署にまでやって来たくらいでした。その時の記録が外務省にこう残されました。
1898年、鳥取県 吉尾万太郎、島根県 田中多造、大分県 神田健吉の三名が「年々同島に赴き、刀剣銃砲を携え島内を横行し、人民を脅迫し婦女子を追廻り、物品を盗奪する等不法の行為を為し、為めに島民非常に迷惑を感ずるを以て、之が制止を求むると云ふにあり(注1)」(カナをかなに変換、以下同様)
さらに蠔季周は、何人かの日本人を材木の盗伐と窃取のとがで松江地方裁判所に提訴しました。その事件を調べた日本の検事は「本邦人多数在住し その勢力は更に島民を圧し横暴を極め 殆んど無政府の有様」で、「時に在て乱暴を以て彼れを威圧する徒も有之由(ありしよし)将来 此勢増長するに於ては如何なる珍事惹起するや量り難き」と記すほど日本人の乱暴狼藉はひどいものでした(注2)。まるで、やくざが街を闊歩して威圧しているようなさまです。
一方、このころ日本政府は遠洋漁業政策をさかんに推し進めていました。日清戦争勝利の勢いに乗った日本は 1898年「遠洋漁業奨励法」を実施し、奨励金まで出して海外進出を奨励しました。さらに1902年には「外国領海 水産組合法」を制定し、従来の単なる通漁から外国における移住漁村の建設へと移行するようになりました。
こうした流れから日本は、鬱陵島在住の日本人退去を要求する朝鮮政府に謝罪するどころか、逆に定住を後押しするようになっていきました。そのような潮流が鬱陵島における乱暴狼藉を生む一因になったのですが、そうした事態に日本と韓国はともかくも鬱陵島の実態を共同で調査することになりました。それを堀氏はこう記しました。
(つづく)
これは メッセージ 1569 (hangetsujoh さん)への返信です.
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