竹島
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2006/07/25 20:35 投稿番号: [14800 / 18519]
PALMASの判例では、近接性は権原にはならないが「先占の場合、いきなり全ての領域を実効支配するのは困難なため、実効支配の範囲として群島(groups of islands)として近接性を考慮しうる」としてますな。実効支配の権原の場合は全ての領域で実行支配しなければならないともしている。また、先占の領有意志についてgroups of islandsの適用は記述されてないから、通常どおりspecificな証拠が必要でしょうな。
まぁミンダナオ島から90km程度離れたPALMAS島は個別の島(ミンダナオ島のgroups of islandsとは見なされない)であり、実効支配が必要とのことですがね。
竹島と鬱綾島の間も90km程度だよね。
これは メッセージ 14799 (quo_vadis256 さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2006/07/25 19:17 投稿番号: [14799 / 18519]
横レス失礼。
>単に鬱陵諸島の構成問題であり、島の数に関係なく一括して取り扱われるべき問題と思われます。
「モット砕いていえば、単に鬱陵島の構成問題であり、
于山島付属の島礁として一括して取り扱われるべき
問題と思われます。」という方が論理的だろう。
竹島は距離がありすぎ鬱陵付属の島礁に入れるに無理がある。
地質学的にも、同一群島?と呼ぶべきエヴィでンスはない。
半島大陸棚の延長の上にもない。
証明できるならしてごらん。
これは メッセージ 14798 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2006/07/25 09:04 投稿番号: [14798 / 18519]
>文部省や陸軍の地図で鬱陵島が二つに画かれ、アルゴノートとダジュレー島の面影が見えているらしい(実物未見)ことも、一つの合理的な根拠となりうることでしょう。
当時の陸軍の地図では、烏有の島として破線で描かれているはずですね。
何れにしても、それらは重要な話ではなく、単に鬱陵諸島の構成問題であり、島の数に関係なく一括して取り扱われるべき問題と思われます。
これは メッセージ 14796 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/24 23:20 投稿番号: [14797 / 18519]
>『大日本沿海略図』と『大日本全國略圖』がほとんど同様に記されているか、あるいは大谷家地図が『大日本全國略圖』に近いのかどなたか判定していただけないでしょうか。
アホさんにせよ、半月城さんにせよ、『大日本全國略圖』の竹島・松島の位置が『大日本沿海略図』とは全く異なっており、大谷家地図のほうがそれに近いとする(アホさんはそこまで言っていませんが)のが私には到底理解できません。
隠岐ー(80里)ー松島ー(40里)ー竹島ー(50里)ー朝鮮
これが『大日本全國略圖』に近いと仰る。ちなみに、隠岐から鬱陵島(『大日本全國略圖』の松島の位置)までの実際の距離は230km程度。
私には理解不能です。
これは メッセージ 14796 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/24 23:09 投稿番号: [14796 / 18519]
>肉眼でパッと見には似ているように思えても、定規を当てると、明らかに違う事が歴然としており、『大日本沿海略図』と『大日本全國略圖』とでは、全く別の位置に描かれていると判定すべきでしょう。
どうやら第三者の方に判定していただくほかはなさそうです。『大日本沿海略図』と『大日本全國略圖』がほとんど同様に記されているか、あるいは大谷家地図が『大日本全國略圖』に近いのかどなたか判定していただけないでしょうか。
>そもそもが『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したと思われる経緯もなく、また、参照すべき合理的根拠も考えづらい事から、両図を結びつけるべき理由すら不明とするのが、慎重な科学的態度と云うべきと思われます。
文部省や陸軍の地図で鬱陵島が二つに画かれ、アルゴノートとダジュレー島の面影が見えているらしい(実物未見)ことも、一つの合理的な根拠となりうることでしょう。
『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したということが大事なのではなく、鬱陵島付近で二島が認識されたこと、おそらくはこの時期の明治政府においてアルゴノートとダジュレー島の位置で二島が認識されたことが大事なのです。
これは メッセージ 14795 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2006/07/24 19:40 投稿番号: [14795 / 18519]
>例として、勝海舟の地図を上げましょう。この地図のアルゴノート(竹島)・ダジュレー(松島)に注目してください。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html>一方、「大日本全國略圖」を半月城さんのHPからお借りしてみます。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/chirikyoku.pdf
以前、それらの地図に定規を当ててみる事をお奨めしたのですが、未だ実行されておられないようです。
『大日本沿海略図』に描かれた松島と『大日本全國略圖』の松島とでは、描かれた位置が全く違います。
わかりやい例としては、『大日本全國略圖』の松島の経度は、筑前国とほぼ同じですが、『大日本沿海略図』に描かれた松島は、豊前または長門と同経度になります。
肉眼でパッと見には似ているように思えても、定規を当てると、明らかに違う事が歴然としており、『大日本沿海略図』と『大日本全國略圖』とでは、全く別の位置に描かれていると判定すべきでしょう。
『大日本沿海略図』と『大日本全國略圖』とでは、地図の描き方が異なることが錯覚の原因だろうと思われます。
結論として、島嶼の位置に関して『大日本全國略圖』から『大日本沿海略図』の影響を見いだす事は出来ないと云うべきでしょう。
そもそもが『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したと思われる経緯もなく、また、参照すべき合理的根拠も考えづらい事から、両図を結びつけるべき理由すら不明とするのが、慎重な科学的態度と云うべきと思われます。また、『大日本全國略圖』が描かれた当時は、アルゴノートは烏有の島として、その存在を否定されており(描かれたとしても疑存の島として破線で描くのが通常)、『大日本全國略圖』の竹島をアルゴノートに比定できる可能性はゼロです。
これは メッセージ 14793 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束2
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/24 17:58 投稿番号: [14794 / 18519]
>これは曲解が過ぎます。私の考えを正しく理解したいのなら、まず私の語った言葉を正しく引用することから始めてください。私の考えをいうなら、そもそも太政官のありようは「・・・・と分からなかったはずがない」などと云々するような性格の部署ではありません。
これは、何度も半月城さんは仰っていますが、たとえば、
>明治政府は「版図の取捨は重大之事件」との緊張感を持って竹島、松島を版図外にしました。それを ahirutousagi2さんは「その地理的な位置理解は、いわゆるアルゴノートとダジュレーに該当」と決めつけていますが、それでは明治政府の官僚をあまりにも見くびりすぎるのではないでしょうか。かれらはそれほど無能ではないと思います。14664
こういう発言のことを指しているのですよ。
>しかし、73年に内務省が設置されたのに伴い、臨時の太政官地誌課は同省へ移管され、前述の地理寮になりました(注3)。したがって、その時から太政官の「地理(位置)的な理解」はそのままそっくり内務省へ移りました。
内務省の地理的な理解でよろしいのではないでしょうか。その内務省が竹島・松島を鬱陵島・リアンクール岩には比定しておらず、しかも、当時の外務省、文部省、陸軍、海軍までもそうは捉えていないと申し上げているのです。
>結局、1877年、太政官は内務省の伺書を承認したことにより、内務省の松島・竹島に関する認識をそのまま承認して版図外と布告したのでした。
それでよろしいかと。
今、時間が無いので「明治政府の島名混乱の収束3」についてはのちほど返事をいたします。
これは メッセージ 14791 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/24 17:50 投稿番号: [14793 / 18519]
>同図における松島・竹島の位置は、内務省伺「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じです。
計算のやり直しをお勧めします。
>これは当然の流れであり、同省がダジュレー島や存在しないアルゴノートを記した誤った地図を参照した形跡は見られません。
大谷家地図とアルゴノート・ダジュレー島のどちらが「大日本全國略圖」に近いか、判断ができないのでしょうか。
例として、勝海舟の地図を上げましょう。この地図のアルゴノート(竹島)・ダジュレー(松島)に注目してください。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html一方、「大日本全國略圖」を半月城さんのHPからお借りしてみます。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/chirikyoku.pdfただし、両方を比較するに当たっては、緯線・経線の単位が異なりますので、それぞれの緯線・経線を読み替えて下さい。
>といっても、内務省は両島を日本領と認識したわけではありません。両島は、それまでの同省の地図同様に日本領とは認識されていないので、各府県の詳細図にはどこにも画かれませんでした。
何の不思議もありません。すでに竹島・松島は版図外とされたのですから島根県の地図には含まれません。一方で竹島・松島を大日本国全図に記したことは無主地を意識した暫定的な措置と考えてよいでしょう。
ともあれ「大日本全國略圖」が「大谷家地図」と近く、「同省がダジュレー島や存在しないアルゴノートを記した誤った地図を参照した形跡は見られません」と仰るのは、ほとんどごり押しの域に達しているのではないでしょうか。
これは メッセージ 14790 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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明治政府の島名混乱の収束3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/23 22:23 投稿番号: [14792 / 18519]
ahirutousagi2さん、Re:14799,
>
また、太政大臣三条実美が1883年に鬱陵島を松島(一名竹島)としていることの整合性も無視なさっています。
これは何を問題にしたいのでしょうか?
同年の太政大臣の布告は欝陵島に関する外務省の伺書をそのまま承認したものなので、太政官は欝陵島に関する外務省の認識をそのまま認めたといえます。
外務省の認識は、伺書に添付した「竹島版圖所属考」(1881)に示されましたが、そこに両島はこう記されました。
「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す
韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此なり・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖外の地たるや知るべし(注4)」
外務省は、朝鮮領である竹島(欝陵島)の名を、海軍水路部の表記にしたがって松島と改めましたが、これは81年に内務省から同省へ送られてきた「竹島外一島地籍編纂方伺」関係の資料と矛盾しません。内務省資料でも江戸時代の竹島は朝鮮領の欝陵島であるとされており、外務省の認識に一致しました。
このころ、新島名・松島(旧島名・竹島)に日本人が入り込み「禁令を犯し 密商をなす者」「樹木を討伐する者(注5)」などが現われ、1882年、朝鮮政府から抗議を受ける事態になりました。
これに対処するため、外務省は上に述べた伺書「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」を83年に提出したのですが、注目すべきは、それを受けた太政官の対応です。外務省の伺書を裁可すれば、その渡航禁止令は内務省から出すことになるので、内務省への根回しが必要でした。
その根回しの過程で内務省は「日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」の位置を「北緯37度30分 東経134度49分」と知らされたのでした。この時、初めて「日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」の位置に関する認識が太政官、外務省、内務省、水路部間で一致したのでした。
こうした手順を踏んで、1883年、太政官は下記の指令を内務省へ発しました。
「北緯37度30分 東経134度49分の洋上に位する日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島の儀は従前 彼我政府議定の儀も有之 日本人民妄りに渡航上陸不相成候条 心得違の者無之様 各地方長官に於て諭達可致旨 其省より可相達 此旨及内達候也(注6)」
これを受けた内務大臣は、単に渡航禁止の通達を各地方に出すにとどまらず、松島(欝陵島)に在住する日本人を強制的に連れ戻しました。
なお、松島の固有名を欝陵島に取られてしまった古来の松島(竹島=独島)ですが、その後の明治政府関係の公文書にはその名が見られなくなってしまったようでした。太政官が同島を版図外と布告したため、その後ほとんど関心を持たれませんでした。わずかに『朝鮮水路誌』(1894)にリアンコールト列岩の名で記されました。当然の成りゆきでした。
(注1)国会図書館「近代デジタルライブラリ」
http://kindai.ndl.go.jp/index.html「大日本全國略圖」
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/chirikyoku.pdf(注2)半月城通信「磯竹島略圖」(大谷家地図)
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf(注3)日本地圖選集刊行委員会『大日本管轄分地圖』人文社,1990
(注4)「朝鮮國蔚陵島ヘ邦人渡航禁止ノ件」附屬書二、北澤正誠「竹島版圖所属考」『日本外交文書』第14巻 P390,1951(原文はカタカナ)
前回の書き込みの一部を「我版圖外の地」と訂正します。
(注5)「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」
(公文録・明治十六年・第十三巻・明治十六年三月〜四月・外務省)
(注6)外務省『日本外交文書』第16巻、原文のカタカナを平仮名に変換
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 14791 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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明治政府の島名混乱の収束2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/23 22:05 投稿番号: [14791 / 18519]
ahirutousagi2さん、Re:14778
>
太政官たるもの鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分からなかったはずがない。そう仰る半月城さんの理解は、私の理解の限界の幅をいささか超えたものであると言えそうです。
これは曲解が過ぎます。私の考えを正しく理解したいのなら、まず私の語った言葉を正しく引用することから始めてください。私の考えをいうなら、そもそも太政官のありようは「・・・・と分からなかったはずがない」などと云々するような性格の部署ではありません。
ahirutousagi2さんの考えを察するに、太政官は明治政府の最高機関であり、海軍や内務省などを統括する立場であるので、各省からの松島・竹島に関する地理情報を総合して独自の「地理(位置)的な理解」をもっていたというのでしょうか。
そうした理解は、1871(明治4)年から2年間だけはあり得たことでしょう。この期間は、民部省の廃止にともない、同省におかれていた地理司が太政官地誌課へ臨時に移ったので、その地誌課を核に太政官独自の「地理(位置)的な理解」も可能だったことでしょう。
しかし、73年に内務省が設置されたのに伴い、臨時の太政官地誌課は同省へ移管され、前述の地理寮になりました(注3)。したがって、その時から太政官の「地理(位置)的な理解」はそのままそっくり内務省へ移りました。
その結果、「抜け殻」の太政官では、ahirutousagi2さんのいうような独自の「地理(位置)的な理解」を持つことはなくなりました。
ここで一旦、太政官の性格をより理解するために、太政官への伺書について少し書くことにします。
内務省が太政官に提出した問題の「竹島外一島地籍編纂方伺」には「十六」という番号が付されました。これは内務省が1877年3月中に出した数ある伺い書の中で16番目に相当することを意味します。この月の一カ月間だけでも内務省から太政官へ提出された伺書は、私がざっと確認しただけでも29になります。
明治政府の代名詞である太政官には内務省のみならず、他の省庁、外務省、大蔵省、司法省、海軍省、工務省など、10省庁から毎月のように相当数の伺書が提出されました。その数は、毎月おそらく数百に達したことでしょう。
当時、太政大臣、左大臣、右大臣、参議からなる太政官は、そうした多くの伺書を決裁するにあたって、伺書に矛盾点がないかどうか、他部署との調整が必要かどうか、政策的に妥当かどうかなどを検討して裁可しました。内務省の「竹島外一島地籍編纂方伺」もそうした伺書のひとつにすぎません。
そうした国策・政策の最終決定をおこなう機関である太政官が、松島・竹島について独自の「地理(位置)的な理解」を組織的にもつというのは、地誌課という専門の担当部署を欠いた太政官においては微塵もあり得ないことでしょう。
結局、1877年、太政官は内務省の伺書を承認したことにより、内務省の松島・竹島に関する認識をそのまま承認して版図外と布告したのでした。つまり、下條正男氏すら自説を覆して認めたように、竹島=独島を版図外として布告したのでした。
(つづく)
これは メッセージ 14790 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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明治政府の島名混乱の収束1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/23 22:04 投稿番号: [14790 / 18519]
半月城です。引きつづき、ahirutousagi2の質問に答えることにします。
ahirutousagi2さん、Re:14777
>2.竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で示されている内務省地理局「大日本府県分轄図」(1881)をどう考えるか。
質問に答える前に、簡単に地理局の地図をレビューすることにします。1875(明治9)年、島根県に竹島(欝陵島)の地籍編纂伺いを出した内務省の地理寮は、その二年後に省内で地理局と名を改め、79年に初めて『大日本府縣管轄圖』を、ついで 80年に『大日本國全圖』を出版しました。
ただ、タイトルは「大日本」とはいえ、北海道は前者の地図では記載がなく、後者の地図では南端のみ画かれました。北海道の調査が遅れていたのでした。
その両図において、竹島(欝陵島)・松島(竹島=独島)はもちろん記載されませんでした。1877年、両島を版図外とする布告が太政官から内務省に通知されたので当然です。
1881年、地理局は北海道を含めた日本地図『大日本府縣分割圖』を出版しました。そのデジタル版が国会図書館から公開されましたが、その冒頭に極東全体を描いた地図「大日本全國略圖」が挿入され、そこに「竹島」「松島」の二島が隠岐の沖合に記載されました(注1)。
といっても、内務省は両島を日本領と認識したわけではありません。両島は、それまでの同省の地図同様に日本領とは認識されていないので、各府県の詳細図にはどこにも画かれませんでした。
同図における松島・竹島の位置は、内務省伺「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じです。これは当然の流れであり、同省がダジュレー島や存在しないアルゴノートを記した誤った地図を参照した形跡は見られません。
もし誤った地図を参照したとしても、隠岐の沖合には二島しか存在しないということを内務省も大谷家地図などをとおして信頼していたので、三島を画いた誤った地図の信憑性を疑ったことでしょう。
ちなみに、大谷家地図に記された竹島・松島の位置関係は次のようになります(注2)。
隠岐ー(80里)ー松島ー(40里)ー竹島ー(50里)ー朝鮮
このように、大谷家地図では竹島が実際よりかなり朝鮮寄りに描かれました。日本には海路の測量技術や器械が普及していなかった時代の地図なので、正確な距離は望むべくもありません。海路の距離は不正確で当たり前でした。
それでも大谷家は実際に両島へ渡航して経済活動をした実績を持つので、同家の地図に描かれた竹島、松島が今日の欝陵島と竹島=独島をさすことは、ここの会議室でも誰しも異存はないようです。
(つづく)
これは メッセージ 14777 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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『磯竹島略圖』をアップロード完了
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/22 21:16 投稿番号: [14789 / 18519]
これは メッセージ 14664 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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よく分かる『朝鮮水路誌』
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/21 23:14 投稿番号: [14788 / 18519]
半月城氏へ
先般、貴国の暴挙に対し、日本は即日で経済制裁を発動しました。たまたまですが、ミサイル発射数日前に、石破元防衛庁長官が著した「国防」を読みました。その彼の著書に「亡国のイージス」という映画の話が出てきたので、昨日レンタルビデオで借りて見ました。同映画に出てきた工作員は、貴国をモデルにしたものであると理解しています。
イージス艦とパトリオット(PAC3)があれば、ノドンもテポドンもかなりの確立で打ち落とせることが分かりました。この掲示板をご覧の方で、この映画もお薦めだよというのがありましたらご紹介下さい。
さて、掲題の件ですが、皆さんからご好評頂いている"よく分かるシリーズ"の第2弾です。ご高覧下さいませ。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/hydrograph1894/chosen.html(後日上記ページを強化予定)
これは メッセージ 14771 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14788.html
Re: 半月城さんも、ある意味すごい!
投稿者: yukitanhanatan 投稿日時: 2006/07/21 02:56 投稿番号: [14787 / 18519]
コレクションは豊富なようですが、
理論構成が「〜だと思われます。」ですね。
ようするに、ご自身の希望的推論でなりたっているのです。
半月城さんへ
事実(推論抜き)資料を年表化するなどして整理すると本質がみえて
くると思いますよ。
今のままでは、他界されるまでなんら進展はないでしょう。
皆さまへ
お暇な人はどうぞ彼の理論にお付き合いください。
彼はかれこれ10年以上は、しこしこやってますからね。♪
やりがいはあると思いますよ。
これは メッセージ 14783 (tydkemvo さん)への返信です.
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ついでながら
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/21 00:15 投稿番号: [14786 / 18519]
半月城さんとのやりとりで唯一つ、成果はありました。それは日系韓国人の保坂教授の外一島の理解の仕方(距離を海里とする理解)を半月城さんが完全に否定なさったことです。
私としては海里説を否定してよいものかどうかためらいがありましたが、半月城さんが保坂教授の意見を否定することで、保坂教授の意見が韓国領派でも認められないものだということを知りました。
これはこれで私としては納得できました。
これは メッセージ 14784 (atsui4444 さん)への返信です.
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Re: ahirutousagi2さん凄い!
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/21 00:10 投稿番号: [14785 / 18519]
お恥ずかしい限りで、竹島問題に関心を持ってたしかまだ二年半ほどです。読んでいない資料も随分とあります。時間にも限界がありますしプロ野球とかサッカーとかほかに関心が移って竹島のことをすっかり忘却しているような時期もしばしばあるような状態です。
このたびの「外一島」の件ですが、残念ながら半月城さんとは話がまったくかみ合いません。私の書き方がまずいのか、どれだけ丁寧に書いたつもりでも言っていることさえ理解していただけない状況です。
そもそもの出発点が違うせいなのではないかと感じています。
半月城さんは演繹法的(こういう言い方が正しいのかどうか分かりませんが)に外一島を規定しているのではないでしょうか。つまり、島根県から提出された一連の資料はどう見ても現在の鬱陵島・竹島を画いているとしか思えない。したがって、太政官が放棄したのは鬱陵島・竹島にほかならないと。
これが大前提。そして、それ以外の天城の調査や外務省の態度、その他のことはすべてこの大前提から論じられていくのです。
大前提「太政官は鬱陵島・竹島を放棄したのだ」
小前提「外務省・海軍は鬱陵島=松島、竹嶼=竹島としている」
結論「外務省・海軍は間違っている」「内務省から照会があっても外務省は何も言わなかった」「内務省の正しさを外務省も理解していた」
しかし、この話では内務省地理局の地図が矛盾し、また「内務省の正しさを外務省も理解した」にもかかわらず数年後には太政大臣三条実美が鬱陵島を松島に規定していたりおかしな現象が発生します。
演繹法の危なさは先入観による誤った大前提を適用してしまうことにあるといいます。半月城さんも例外ではないのではないでしょうか。
一方、私が考えていたのは「太政官は果たしてどの島を版図外としたか」という問いにほかなりません。そして、その根拠となる資料を、島根県の資料および前後の政府関係の資料・前後の明治政府のさまざまな態度や記述などから整合的に結論を導きました。
こうしたやり方はある意味で帰納法的とも言えるやり方かもしれません(こういう言い方が正しいかどうか知りません)。
事例収集「島根県の資料を含む前後の政府関係の資料」
因果関係「1878年の天城調査までは竹島・松島の位置認識は一定していなかったが、その後、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島とされた」
結論「太政官の理解は島根の資料が「現在の目」からどう見えるかではなく、事例の整合性からそれはアルゴノート・ダジュレーであったと考えるのが妥当」
といったところでしょうか。
半月城さんが私の話を理解できないのは、分からないでもありません。「太政官は鬱陵島・竹島を放棄したのだ」が半月城さんの出発点なのですから、そこからはずれることは想像の範疇にもないことなのかと思います。
私は半月城さんはそれでもいいかという気もしています。しかし、どうにも分からないのが堀和生というお方の立場です。彼の論文はどうも学術的な客観性を喪失しているように見えるのです。
これは メッセージ 14781 (atsui4444 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14785.html
Re: ahirutousagi2さん凄い!
投稿者: atsui4444 投稿日時: 2006/07/20 23:29 投稿番号: [14784 / 18519]
僕は竹島がどちらのものかは
テレビやネットで見る程度の知識しかないです。
日本のものかな?と薄く思っていたのですが
半月城さんの投稿やHPを見ると
そうでもないのか?と思っていました。
でも最近はやっぱり日本のものかなと。
それはここでのやり取りを見て。
ただどちらのものかは別として
韓国の態度は異常だし、于山島の捏造は
そりゃないだろ思いますね。
これは メッセージ 14782 (quo_vadis256 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14784.html
半月城さんも、ある意味すごい!
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2006/07/20 19:27 投稿番号: [14783 / 18519]
(本文なし)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14783.html
Re: ahirutousagi2さん凄い!
投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2006/07/19 01:08 投稿番号: [14782 / 18519]
アヒルさんは立派な論理家で物書きです。
ジョーさんは、神学者です。独島教の教祖でしょう。
半月ジョー通信は、宗教通信です。
信者には真理ですが、あなたから見たらどうでしょうか。
ahirutousagi2さん凄い!は支持します。
これは メッセージ 14781 (atsui4444 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14782.html
ahirutousagi2さん凄い!
投稿者: atsui4444 投稿日時: 2006/07/18 23:39 投稿番号: [14781 / 18519]
職業が何かは分かりませんが、その知識は凄いです!
半月城さんとの一連のやり取りは一冊の本にする価値があると思います。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14781.html
おまけ(要約)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/18 23:02 投稿番号: [14780 / 18519]
流れ:
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年
太政官判断(島根の資料類は鬱陵島・竹島をうかがわせる[距離は出鱈目])
1878年
軍艦天城による実測調査あり。竹島=竹嶼、松島=鬱陵島
1880年
軍艦天城の調査で竹嶼が竹島、鬱陵島が松島。
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島[島根県には含まれず])
1881年
内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1883年
鬱陵島渡航禁止
1883年
太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
以上、1878年までは日本政府で竹島・松島の地理的な理解について必ずしも一定した理解があったわけではないようですが、さて、こうした状況の中、
半月城氏の理解:1877年の太政官判断は太政官が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と正しく理解したものである。判断において資料となった資料類に鬱陵島・竹島が反映されているように見えるから。他省の地図などとは合わないことについては、太政官判断と外務省・海軍・陸軍・文部省・内務省地理局の理解は別ものである。太政官たるもの判断を誤るはずがない。1881年に内務省が外務省に鬱陵島の照会をしたとき、反応はなかった。外務省も内務省の正しさを認識したのであろう(?)。
アヒルの理解:地理的理解の一定しなかった当時において分かることは、太政官が竹島と松島を版図外とした事実のみ。島根の資料が「現在の目で」どの島に見えるかはこの時点においては問題にはならない。太政官が版図外としたと考えうる二島の位置は前後の資料からアルゴノートとダジュレーと考えるのが妥当。その二島はのちに正式に鬱陵島(松島)・竹嶼(竹島)に比定されることとなる。1881年に内務省が外務省に鬱陵島の照会をしたときも当然、反応ははあるわけもない。1881年の地理局の地図はアヒルの理解の裏づけにもなる。
これは メッセージ 14779 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 太政官指令後の竹島=独島認識(2)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/18 22:15 投稿番号: [14779 / 18519]
>その後、竹嶼の名は 1894年版の『朝鮮水路誌』にも「欝陵島(一名 松島)」の項目の中に記されました。「竹島」の名はありません。一方、現在の竹島=独島は「リアンコールト列岩」の名で同書に記されました。この島がかつて松島と呼ばれていたという知見が水路部にはなかったようです。
堀氏の論文まで引用して半月城さんが何を仰りたいのかどうにも意味が分からなかったのですが、太政官と外務省・海軍の理解はそれぞれ一致しておらず別ものであるということでしょうか。
私の質問にある「天城の調査と太政官判断の整合性をいかに図るか」については半月城さんの見方は「整合性は関係なし。太政官判断は太政官判断。島根の資料はどう見ても鬱陵島・竹島だ」に尽きるのだと理解いたします。
では、内務省地理局「大日本府県分轄図」(1881)をどう考えるか、という私の二番目の質問につきあたることになります。(この地図については9509で提示された地図の4ページ目参照。)これは無視ですか。
また、太政大臣三条実美が1883年に鬱陵島を松島(一名竹島)としていることの整合性も無視なさっています。私には「太政官判断だけは別なのだ」となさる半月城さんの話がどうしても理解できないのです。
半月城さんは、前後の資料はすべて無視して「島根県の資料はまさに鬱陵島・竹島に見える」から、太政官は鬱陵島・竹島を放棄したとすべきと仰っているに過ぎないようです。
そして、外務省・海軍・陸軍・文部省の地図や記述は太政官判断とは別もので、1881年の内務省地理局の地図も関係がないと。
太政官たるもの鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分からなかったはずがない。そう仰る半月城さんの理解は、私の理解の限界の幅をいささか超えたものであると言えそうです。
>この理屈をそのまま朝鮮の南方へ適用すると、朝鮮の南の限界は『朝鮮水路誌』で北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになります。
距離があまりに違いますよ。馬羅島は位置から見て明らかに済州島の附属の島と考えられる島でしょう。済州島に含められたと考えて違和感はありません。
リアンクール岩をそれに比定するのはなんとも乱暴な話です。朝鮮の東の限界は鬱陵島であった、と素直に読めばよろしいことです。
仰りたいことは、つまり「朝鮮水路誌」は日本政府の考える朝鮮の領土を規定するものであり、しかも「総記」は小島を無視した概略値に過ぎず、本文に言及があるから朝鮮領であると理解していたことは「疑いない」ということでしょうか。
あまり説得力があるとも思えません。
私は「朝鮮領の範囲を示すのではなく、航行の安全確保」が目的とする舩杉助教授の見方が普通であると思いますよ。当時の日本として明確な領有意識がなかったリアンコールト列岩についてその航行の問題から朝鮮水路誌に言及されたことは違和感がありません。
この際、領土を規定するのは基本的には総記に則るべきです。
また、リアンクールは無主地であったからこそ、後に日本は竹島を領土編入したのでしょう。堀氏にせよ半月城さんにせよ「朝鮮水路誌」(しかも本文での言及のみ)に則ってリアンクールを朝鮮領と規定するのは、ちょっと「ごり押し」に過ぎるのではないでしょうか。
これは メッセージ 14778 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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Re: 太政官指令後の竹島=独島認識(1)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/18 22:08 投稿番号: [14778 / 18519]
質問への返事はいただけないようですのであきらめましょう。半月城さんの理解の仕方では答えられないものと理解しておきます。私の意見ですが、ご提示の文章は長文なので要約して考えてみることにします。
>内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論になると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。
太政官判断の対象となった資料に「現在の目で見て」鬱陵島・竹島が反映されていることと、太政官判断で版図外とされた二島がほかならぬ鬱陵島・竹島に該当するということは別問題です。
太政官が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と考えて判断したという根拠・脈絡はなにもありません。ただ「現在の目から」島根の資料が「それらしく見える」というだけです。
こうした理解は、二島の地理的認識に何ら混乱がない場合、この時期太政官が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と認識しえた根拠を島根の資料とは別に提示できる場合などにおいてのみ成り立つものです。
この時代、二島に明確な位置認識を伴わなかった以上、二島がどの島を指すかはこの時期の明治政府の竹島・松島に対する位置理解が前提となるはずであり、それは、結局は天城の調査に収斂されたと見るべきです。
>こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。
影響します。太政官の判断(二島放棄)の二島については、その前後の資料から明治政府の立場を規定すべきであり、島根県資料の二島が現在の目から見てどこを指しているかがその「意味」なのではありません。
>1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。
天城の調査に則って外務省が竹島を竹嶼、松島を鬱陵島と確定していたのであれば、内務省からのご指摘の指令(二島版図外)があったところで、何の異論もないのは当然のことです。何の疑問もありません。
当たり前ではないですか。
>外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正しさを認識したためと思われます。
一体、どうしてこういう理解になるのか私にはさっぱり分かりません。
>外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したのみか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑誌からほぼ正確に知りました(注3)。
ありがとうございます。太政官判断の翌年、1878年においてすでに外務省が松島=鬱陵島と実測の上で理解していたことが分かりました。
これは メッセージ 14772 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 太政官指令後の竹島=独島認識4
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/17 22:56 投稿番号: [14777 / 18519]
レスに感謝します。ただ、
>2.竹島・松島がアルゴノート・ダジュレーの位置で示されている内務省地理局「大日本府県分轄図」(1881)をどう考えるか。
が抜けています。引き続き、よろしくお願いします。私の見方についてはまた返事をいただいてからにいたします。
これは メッセージ 14776 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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太政官指令後の竹島=独島認識4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/17 22:39 投稿番号: [14776 / 18519]
海軍水路部は、戦争によって新たに獲得した領土を日本の『水路誌』に組み入れるのに際し、どこまでが日本領であるのか、正確に知る必要がありましたが、そうした『水路誌』の編纂をとおして、水路部は日本における国境画定機関に成長しました。
1904年、竹島=独島を朝鮮領と信じていた隠岐の中井養三郎が同島の所属を最終確認したのも水路部でした(注1)。また、1905年、内務省が竹島=独島を領土編入を閣議にはかる際、竹島=独島の所属に関する水路部長の回答書を添付しました(注6)。水路部が実質的な国境画定機関になりました。
その水路部が竹島=独島など朝鮮領の区分けを『水路誌』においていかに行ったのか、その変遷はすでに下記に書いたとおりです。1905年以前、水路部は竹島=独島を朝鮮領として扱ったことは明白です。
半月城通信<明治の国境画定機関の竹島=独島認識と『水路誌』>
http://www.han.org/a/half-moon/hm103.html#No.754(注1)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号 1987
影印版は(注5)
原著注(25)「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」外務省記録3824 外務省外交史料館所蔵
(注2)「朝鮮國蔚陵島ヘ邦人渡航禁止ノ件」附屬書二、北澤正誠「竹島版圖所屬考」『日本外交文書』第14巻 P390,1951(原文はカタカナ)
(注3)同上書における天城の記述
「海軍水路局の水路雑誌に拠れば 明治十一年六月 海軍少佐 松村安種 天城艦を以て朝鮮海へ回航の際 其乗員 海軍大尉山澄直清
海軍少尉補小林春三
同福地邦鼎等と松島に赴き吉田中尉は正午 本艦の所在を実測し 北緯三十七度四十八分を得 又 午前七時五十八分に大陽高度を測りて本艦所在の東経一百三十度三十二分を得」
(注4)北澤正誠『竹島考證』下、内閣文庫「外務省記録」
(注5)堀和生「一九〇五年 日本の竹島領土編入」影印版
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/shiryou/ronbun/hori1987.pdf(注6)『公文類聚』第29編、明治38年、巻一
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 14775 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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太政官指令後の竹島=独島認識3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/17 22:37 投稿番号: [14775 / 18519]
たったこれだけの記述から「朝鮮国の東の境界を鬱陵島と認識していた」と主張しているようですが、そうだとすると、これは重箱の隅をつつくようなアラ探しといわざるを得ません。
この理屈をそのまま朝鮮の南方へ適用すると、朝鮮の南の限界は『朝鮮水路誌』で北緯33度15分とされたので、朝鮮の限界は済州島までであり、その南にある韓国領の馬羅島(北緯33度7分)などは含まれないことになります。
こうした簡単な指摘からもわかるように、「総記」の経度や緯度は小島を無視した概略値を示したものにすぎません。そうした小島が範囲に含まれるのかどうかは、具体的に本文を見ればすぐわかることです。
『朝鮮水路誌』の本文では、前に書いたように竹島=独島は「リアンコールト列岩」の名で取りあげられました。もし「リアンコールト列岩」が朝鮮に無関係であるなら、本文に取りあげられるはずもありません。このように「総記」の経度や緯度は主要な島を表記したにすぎないとみるべきではないでしょうか。
また、舩杉助教授は『朝鮮水路誌』に関して、これは「朝鮮領の範囲を示すのではなく、航行の安全確保」が目的としていますが、同氏は水路誌の歴史をよくご存じないようです。水路誌は、歴史的な領土の範囲と密着して作成されてきました。それを堀和生氏はこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属については、その解説書たる水路誌を重視しなければならない。
日本海軍は、八〇年三月より全世界を対象とした『寰瀛(かんえい)水路誌』の編纂を始めた。そのうちの露韓編である第二巻第二版(一八八六年)には、欝陵島とリヤンコールト列岩が載せられている。しかし、これは世界の水路誌であるが故に、その所属の決め手にはならない。
ところが、八九年三月その『寰瀛水路誌』の編纂は中止され、日本を中心とした東北アジア海域を重視する方針に転換した。まず、日本領海を他と区別して『日本水路誌』として独立させ、九二年から順次刊行していった。
この水路誌には、九五年の下関条約による日本の新領土台湾や澎湖島、さらにほ千島列島最北端の占守島まで載せられているが、反面台湾の対岸やカムチャッカ半島は全然含まれていない。すなわち、この『日本水路誌』の扱う範囲は、あくまで日本の領土・領海に限定されていたのである。
そして重視すべきは、この水路誌の日本海のところで、リャンクール島=独島に全く触れていない点である。当時の日本の海図には、同島は正確に位置づけられており、その所在を知らなかったわけではない。
図2のとおり(注5)、この水路誌の一八九七年版の付図と、同島を日本に領土編入した後の水路誌の付図を対照させれば、事態は明白である。即ち、一九〇〇年時点で日本の海軍水路部当局は、明らかに同島を日本領から除いていたのである。
そして他方、日本海軍の
『朝鮮水路誌』一八九四年版と九九年版には、欝陵島と並んでリアンコールト列岩が載せられている。つまり一九世紀末に、日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領だと認識していたことは、疑いのないところである。
以上要するに、明治維新以後日本の政府が、竹島=独島に独自の関心を示したことは全くなかった。そして、認識の程度に強弱はあっても、日本政府の関係諸機関のすべてが、同島を欝陵島と合わせて朝鮮領だとみていたことは明らかなことであった(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 14773 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14775.html
おひさしぶりでございます
投稿者: mekatarami 投稿日時: 2006/07/17 22:25 投稿番号: [14774 / 18519]
最近はとんとここから離れてしまいましたが、
半月さんだけは、あの頃とちっとも変わらはらしまへんなァ(笑)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14774.html
太政官指令後の竹島=独島認識2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/17 22:18 投稿番号: [14773 / 18519]
なお、天城は竹島=独島にはついに立ち寄らなかったようでした。それでも水路部は両島の位置をイギリスから提供された海図により正確に把握していたようで、堀和生氏はこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日本の海軍が主に依拠していた英国版の海図では、六〇年代既に二島の所在が確定していた。そのため、日本の海軍も七〇年代末にはその点を充分認識していたようで、八〇年代の日本製の海図には二島が正確に画かれていた。
しかし、海図は地理的な認識を示すだけなので、海図中の島の所属については、その解説書たる水路誌を重視しなければならない(注1)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
外務省が欝陵島を「今日の松島」と呼んだことからわかるように、同島の名は、その位置を測量した海軍水路局が松島と呼んだことことから、次第に「松島」の呼び名が主流になっていきました。
海軍は竹島(欝陵島)の歴史にうとかったのか、あるいは世間の趨勢にしたがったのか、欝陵島を当初から松島とよんでいたようです。そして欝陵島のすぐ東にある竹嶼をどうやら「竹島」であると混同していたようです。北澤正誠はこう記しました。
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明治十三年 天城艦の再び松島に航するに及び海軍少尉 三浦重郷等 親しく其地に至り 実見測量するに及び 該島東岸に假泊の地を発見し 又 松島は古代韓人称する處の欝陵島にして 他に竹島と称する者あるも サイジたる小島に過ぎざるを知り 事情愈明了なり由(注2)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三浦少尉が画いた略画で「松島 一名 欝陵島」の東に「竹嶼 Boussole Rk」と記されましたが(注4)、「竹嶼」の名は、あるいは三浦少尉の早合点によって名づけられたのかも知れません。竹嶼の名は、島根県士族・戸田敬義の欝陵島への渡海願い「竹島渡海ノ儀」に付属する詳細な地図にすらないようです。
その後、竹嶼の名は 1894年版の『朝鮮水路誌』にも「欝陵島(一名 松島)」の項目の中に記されました。「竹島」の名はありません。一方、現在の竹島=独島は「リアンコールト列岩」の名で同書に記されました。この島がかつて松島と呼ばれていたという知見が水路部にはなかったようです。
最近、この『朝鮮水路誌』に関する「新事実」の報道が注目されます。これについても書くことにします。山陰中央新報(7/12)は「竹島領有権で新事実」と題してこう記しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
国立国会図書館が今春、朝鮮水路誌をインターネット上で公開したのを機に、島根大学法文学部の舩杉力修助教授(歴史地理学)が調べたところ、冒頭の総記で、朝鮮国の東の境界は「東経130度35分」と記していることを確認。位置関係から、鬱陵島を指しているのが分かった。
・・・
水路誌や海図について、島根県の竹島問題研究会の委員を務める舩杉助教授は「水路部は大前提として、朝鮮国の東の境界を鬱陵島と認識していた」と強調。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=797329006
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朝鮮国の東の限界が鬱陵までで、竹島=独島が含まれないという根拠は『朝鮮水路誌』の「総記」にあるとのことなので、その部分を下記にぬき出しました。ただし、カタカナは平仮名に変換しました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
総記
形勢
朝鮮国は亜細亜の東部にあり 其地勢たる狭長なる一大半島を成し 数多の島嶼 之を圍繞す 其位置は北緯三三度一五分より同四二度二五分 東経一二四度三〇分より同一三〇度三五分に至る・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)
これは メッセージ 14772 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14773.html
太政官指令後の竹島=独島認識
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/17 22:18 投稿番号: [14772 / 18519]
半月城です。
Re:14725, ahirutousagi2さん、
>
私にはそもそも半月城さんが、どうして太政官判断で「現在の竹島」を放棄したと考えうるのかよく分からないのです。
この発言の真意をはかりかねています。文面から察すると ahirutousagi2さんは、太政官が「現在の竹島」を版図外にしたとは考えていないように読めます。その一方で
ahirutousagi2さんの発言から下記だけは確認できるでしょうか。
1.島根県が内務省に提出した伺書に記されている「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島である。
2.それは島根県伺書の付属文書である地図「大谷家図面」からも確認できる。
3.太政官は、内務省経由で提出された上記 (1),(2)の資料などから判断して、島根県伺書および内務省伺書に書かれた「竹島」と「松島」を版図外とした。
内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論になると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。
念のために書くなら、こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。
時間的には、逆に太政官指令が天城の調査に影響を与えた可能性はありえます。しかし、その明らかな痕跡は見出せないようです。それも無理ないようです。
太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。
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1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。
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外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正しさを認識したためと思われます。
かつての外務省は、同省宛に民間から提出された「松島開拓願」をめぐって、その松島がどこをさすのか明確な判断ができずに混乱しました。そこで同省は独自の調査を元禄時代にまでさかのぼって徹底的に行い、1881年8月、開拓願にいう「松島」は古来の竹島、すなわち欝陵島であると結論づけ、『竹島版圖所属考』にこう記しました。
「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す
韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此なり・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖の地たるや知るべし(注2)」
外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したのみか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑誌からほぼ正確に知りました(注3)。
軍艦・天城は、1978年に松島(欝陵島)へ立ち寄り、その時の停泊位置を測量しましたが、その経度や緯度が水路雑誌に記されたのでした。外務省はその資料により、松島(欝陵島)の位置を正しく認識し、同島の位置についてはなんの疑問もなくなりました。
(つづく)
これは メッセージ 14725 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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朝鮮水路誌 鬱陵島(一名松島) (4)
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/17 21:30 投稿番号: [14771 / 18519]
島の北濱に接して孔岩あり岩を貫きて一大孔あるを以て其形甚奇なり此岩と相對せる陸岸に高さ大凡八〇〇呎の花崗岩山あり滑面禿兀峻険にして形糖塔の如し。
※「兀」は音読みで「ゴツ」「ゴチ」
こまめに投稿してすみません。資料を見ながらやると疲れます。
これは メッセージ 14770 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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朝鮮水路誌 鬱陵島(一名松島) (3)
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/17 16:45 投稿番号: [14770 / 18519]
島岸殊に東北両岸に沿うて数個の峻岩分立し其中に四〇〇呎及至五〇〇呎の高さに達するものあり。何れも鬱陵島の如くX界にして錘測も恃みとするに足をす然れも竹嶋(此嶼は島の東??を距る七鏈の處にあり)を除くの外、皆本島の崖岸を距る1/4里以上に出る者なし。
(注意)Xは古語漢字ですが、この掲示板では文字化けしてしまいますので、別途対応します。
※「錘」は音読みで「スイ」「ツイ」、訓読みで「つむ」
※「恃」は音読みで「ジ」「シ」、訓読みで「たの」む
※「鏈」は音読みで「レン」「テン」
ついにここで竹嶼(チュクド)が出てきました。
これは メッセージ 14763 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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Re: よく分かる『隠州視聴合記』
投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2006/07/16 22:21 投稿番号: [14769 / 18519]
te2222000さん
発言を誤解することを防止するために、先ず相手の元の発言を注意深く、出来る
だけ正確に読み取ることが大切です。次に、相手の元の発言に分かり難い点がある
場合、どこが分かり難かったかを取り上げ、自分にとってより分かり易くなるよう
相手に発言を補足して貰うことです。このプロセスを繰り返すことによって誤解は
ほぼなくなります。これが普通です。
例え話に近いので好みませんが、te2222000さん#14720の対話例をお借りします。
「ふたえに曲げてくびに掛ける数珠」とあった場合、注意して読み取れば「ふたえに
曲げ、てくびに掛ける」と、「ふたえに曲げて、くびに掛ける」の二通りあることに
気付きます。どちらであるかを問い、相手から「ふたえに曲げ、てくびに掛ける」の
答えを得れば、これで誤解は生じません。
先ずは相手の発言を理解すること。次に分からなかったら質問すること。これらを
飛び越えて、相手の発言を変形して言い直しするのは、新たな混迷の種をまくことに
なりかねません。言い換えして意味は変わっていないと思っても、実際は意味を変えて
しまっていることもあり得ます。
ところで、元の発言を変形して言い直した後の文章の責任は、元の発言をした側と
言い換えた側のどちらにあるとお考えですか。或いは、te2222000さんはその責任を
元の発言をした相手に持たせようとしているのではありませんか。
これは私の創作ですが、言い換えした受け手が、言い換えした文章と、元の発言者
からの訂正をもとに「二重に折り手首に掛ける」で理解したとします。ところがのち
のち受け手の中で、元の発言の「曲げる」の意味が言い換えにより「折る」の意味に
変わり、そしてこの違いによってある別の誤解が生じたものとします。
te2222000さんはこの誤解の責任はどちらにあるとお考えですか。受け手は、言い
換えして確認した際、元の発言をした相手は、「首」と「手首」については指摘したが、
「折る」と「曲げる」の違いについて何も言わなかったと、元の発言者に責任があると
考えるかも知れません。しかしそもそも種をまいたのは、言い換えした受け手です。
発言を変形して言い直しされた場合、元の発言者は、受け手は何故もとの発言の通り
に受けとめようとしないか。受け手はどのような意図で元の発言を変形して言い直して
いるか。変形して言い直しされた文章を認めた場合、のちに元の発言とは異なる意図を
主張していることにされないか。このようなことを考慮することになります。このような
ことを考慮させることはte2222000さんの本意ですか。
shuku_remus
これは メッセージ 14768 (te2222000 さん)への返信です.
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Re: よく分かる『隠州視聴合記』
投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/07/16 07:52 投稿番号: [14768 / 18519]
shuku_remusさん
>>>>>>
>私は、文章を考える手間さえ惜しまないなら、毎回言い換えをしても良い位だと
>思っています。
ご自身の発言をご自身の責任において言い換えることについて、私は何も申しません。
しかしここで問題にしているは、相手の発言を変形して言い換えすることです。
te2222000さんが毎回しても良い位とするのは、相手の発言を言い換えすることですか?
<<<<<<
はい、そうです。
#14720の対話例で言えば、相手の書いた「ふたえに曲げてくびに掛ける数珠」という表現を「二重に折って首に掛ける数珠」と言い換えることです。
>>>>>>
>それに対して、shuku_remusさんは前回「必要はあまりない筈」とおっしゃったし、
>今回も「そうした必要がもしあるなら」という言い方をされています。しかし、
>そう考える理由については相変わらず教えて下さらないのですね。
#14734には、既に理由を書いています。相手の発言をよく読み、お考え下さい。
|
しかし不必要な言い直しを
|して、例えば、似たような二通りの言い方により、かえって議論を混迷させることにも
|なりかねません。
<<<<<<
最後に引用していただいた文が、その理由ということでしょうか。
これは言い換えによって生ずる問題の一例を挙げただけです。「言い換えが不要な、あるいは有害なこともある」理由にはなりますが、「言い換えの必要が少ない」ことの理由にはなりません。
私は既に言い換えをすることの利点を挙げていますので、その利点と shuku_remusさんの考える言い換えの欠点を比較して、総合的に考えた時に欠点の方が大きいことを述べなければ、言い換えの必要が少ない理由を示したことにはなりません。
たとえば、仮に「かえって議論を混迷させることにもなりかねません。」の後に次の文があれば、私も言い換えの必要が少ない理由が述べられているものと認識したでしょう(その理由に納得はしませんが)。
『それに比べて、te2222000さんの示した言い換えの利点がそれほど有益なものとは思えません』
しかし、そのような考察が何もないのでは、「理由については相変わらず教えて下さらないのですね」という結論になっても仕方無いことはご理解いただけませんか。
ついでに、「似たような二通りの言い方により、かえって議論を混迷させる」という意見に反論しておきます。
まず私が論じているのは、「配慮の欠けた不用意な言い換え」ではなく、「相手の意図を出来る限り文章表現の通りに理解した上で、その意図を変えないように別の表現で記述すること」だということを確認しておきます。もしこの点で認識が食い違っていたら教えてください。
さて、もし、そうして行なった言い換えが、実は相手の意図とずれていて議論を混迷させたとすれば、そもそも相手の意図を誤解していた可能性が高いでしょう。
そのような場合、果たして言い換えをしないことで混迷を避けられるのでしょうか。結局、誤解した内容に基いて意見を書く訳ですから、どこか議論が噛みあわず、議論が混迷することは同じだと私は思います。
むしろ、言い換えをしている方が、どこで誤解が生じているかを発見し易くなり、混迷した議論を元に戻すことに役立つと考えています。なお、今、述べたのは、既に #14720 で書いたことと同じ内容のつもりです。
これは メッセージ 14765 (shuku_remus さん)への返信です.
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「独島」という名前の由来
投稿者: uyokujanaimonn 投稿日時: 2006/07/15 21:43 投稿番号: [14767 / 18519]
おそらく19世紀末に朝鮮人が日本漁船で労働者として雇われ、竹島海域での漁労に従事するようになり、この頃に、朝鮮人漁民の間ではじめてリアンクール(今日の竹島)を「独島(ドクト)」と呼ぶようになったのだろう。
下條教授の前掲書にこうある。
「リャンコ島が韓国側で独島と呼称されるのは、1904年9月25日付けの軍艦新高の日誌に『韓人之を独島と書し、本邦漁夫等略してリアンコ島と称せり』と記されているように、1904年ごろからである。」(前掲書、p.114)
現在の韓国政府や韓国マスコミは、「独島」が朝鮮で古くから普及していた呼称であるかのごとく語っているが、それでは2重に矛盾が起こってくるのだ。
第一に、ではなぜ1900年の「勅令41号」は、当時国際的に共通呼称として皆に知れ渡っていた「リアンクール」や「リャンコ」等の名称を用いず、また、自分たちの古くからの呼び名だと主張する「独島」の名すら用いずに、「石島」と記したのか。これはまったく道理に合わない。(単に韓国が石島=独島とデタラメを言い張っているにすぎないのだが、笑)
第二に、1900年の「大韓帝国勅令41号」発布の約1月前、1900年9月23日付け『皇城新聞』(朝鮮の新聞)は鬱陵島に付属する島について「小六島中で最も顕著な島は、于山島と竹島」と報じたとされるのだが、なぜリアンクール(リャンコ)とも「独島」とも書かれていないのか、まったく道理に合わない話だ。(ここに「竹島」とあるのは、鬱陵島の東側に隣接する小さな島のことで、リアンクールとは無関係。そもそも、リアンクールに竹島の名が付されたのは、1905年の島根県編入以降のことである。)(下條教授、前掲書p.115)
「独島」の名前は、たしかに19世紀末に朝鮮人漁民や漁業労働者の間で、リアンクールのことという認識で用いられていた可能性は高い。しかし、当時の朝鮮政府(大韓帝国政府)がその島を領土として認識していた可能性はまったくなかったことが以上のことからも明らかだろう。100歩譲って考えてみて、当時の漁民の間での「民衆的な認識」(国際法上の領土の認識とは全然関係のない、民衆レベルの思い込み)としては、安龍福による勘違い・錯覚に基づいた「于山島=日本の松島」と同じく、19世紀末の朝鮮民衆レベルには「独島=リアンクール=朝鮮領」の思い込み(民衆的認識としての領土観)はあったかも知れない。しかし、上で見たとおり、当時の朝鮮政府や朝鮮メディアは、むしろそうした民衆の思い込みとしての領土認識(←断っておくがそれは私が勝手に想像してみただけ)を、真っ向否定している形になっている。
喩えて言うとこういうことだろう。今、日本に迷信的な世界観を奉じる政治結社があったとして、それが「ハワイは日本の領土」と勝手に主張していたとしよう。何十年かたって、気がつくとそれが政府の公式の見解になってしまっていて、それがためにアメリカとマジの領土紛争を起こす原因になってしまった・・・・・といったことが、韓国における「独島は我が領土」運動なのです。「日本海」を否定して「東海」にするというデタラメ民族運動も本質的には同じです。
韓国の政治に興味のある学生なら、これを見ておられるプロの研究者でもいいですが、そのあたりのこと(民間信仰や民衆の思い込み・錯覚が、民族主義運動を通じて、いつのまにか政府の公式見解となり、政府の重要政策になっていくプロセス)を研究テーマにしたらいいと思います。
これは メッセージ 14766 (uyokujanaimonn さん)への返信です.
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19世紀末頃の大韓帝国の東限
投稿者: uyokujanaimonn 投稿日時: 2006/07/15 21:01 投稿番号: [14766 / 18519]
竹島(リアンクール)が日本領であり、朝鮮の領土であるはずもなかったことは、すでに下條正男『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書、2004年)で、17世紀の鬱陵島をめぐる江戸幕府と朝鮮との争い(とくに安龍福の一件)をはじめ、19世紀末から1905年の明治政府による島根県編入に至る時期の、朝鮮自身の領土認識の検討、等々によってすでに十分すぎるくらい明確に実証されていることだ。
たとえば1905年、日本が竹島を行政区域として島根県に編入する時期より数十年さかのぼる時期の、朝鮮での領土認識については、同書の105〜116ページに詳しい。
現在の韓国政府およびマスコミが「1905年の竹島の島根県編入は、朝鮮侵略の第一歩」などという、おきまりのデマがあるが、これについては、当時の大韓帝国政府自身が、その領土の東限を明確に「東経130度」としていたほか、今日の竹島(リアンクール)の存在を知りもしなかったことが明確に述べられている。
竹島(当時、国際的にリアンクールと呼ばれていた)は、東経131度55分にあり、大韓帝国自身の認識する領土の範囲の外にあったことを、韓国は19世紀末以来、自ら認めていたのである。
これは メッセージ 14736 (quo_vadis256 さん)への返信です.
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Re: よく分かる『隠州視聴合記』
投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2006/07/15 20:33 投稿番号: [14765 / 18519]
te2222000さん
>私は、文章を考える手間さえ惜しまないなら、毎回言い換えをしても良い位だと
>思っています。
ご自身の発言をご自身の責任において言い換えることについて、私は何も申しません。
しかしここで問題にしているは、相手の発言を変形して言い換えすることです。
te2222000さんが毎回しても良い位とするのは、相手の発言を言い換えすることですか?
>それに対して、shuku_remusさんは前回「必要はあまりない筈」とおっしゃったし、
>今回も「そうした必要がもしあるなら」という言い方をされています。しかし、
>そう考える理由については相変わらず教えて下さらないのですね。
#14734には、既に理由を書いています。相手の発言をよく読み、お考え下さい。
|
しかし不必要な言い直しを
|して、例えば、似たような二通りの言い方により、かえって議論を混迷させることにも
|なりかねません。
shuku_remus
これは メッセージ 14764 (te2222000 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14765.html
Re: よく分かる『隠州視聴合記』
投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/07/15 08:22 投稿番号: [14764 / 18519]
shuku_remusさん
>>>
>shuku_remusさんは、私の示した理由には何も触れず、また独自の理由を示すこと
>もなく「相手の発言を変形して言い直しする必要はあまりない筈です」と書かれて
>いますが、これでは、私には納得のしようがありません。
どんな時でもやるべきでないとは言ってません。相手の発言を変形して言い直しを
する。そうした必要がもしあるならやればよいと思います。
<<<
そりゃ分かってますって。
「相手の発言を変形して言い直しする必要はあまりない筈です」という文を「どんな時でもやるべきでない」という意味に解釈するほど私はバカじゃないですよ。
問題は、言い直しが必要な場合の「有無」ではなく「頻度」でしょう。
私は、文章を考える手間さえ惜しまないなら、毎回言い換えをしても良い位だと思っています。理由は #14720 を読んでいただければ分かると思います。
それに対して、shuku_remusさんは前回「必要はあまりない筈」とおっしゃったし、今回も「そうした必要がもしあるなら」という言い方をされています。しかし、そう考える理由については相変わらず教えて下さらないのですね。
これは メッセージ 14734 (shuku_remus さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14764.html
朝鮮水路誌 鬱陵島(一名松島) (2)
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/15 07:27 投稿番号: [14763 / 18519]
鬱陵島の北東側に於て竹嶼を、南南東1/4里西凡そニ3/4里に望むの處に一岩あり、岩上の水深僅にニ呎及至三呎(日聞蒸気船「ウィマル」号の報告に據る)
※「僅」は音読みで「キン」「ゴン」、訓読みで「わず」かに
※「據」は音読みで「キョ」「コ」、訓読みで「よ」る
ここで一旦掲載します。
これは メッセージ 14760 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14763.html
AHOさん
投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2006/07/14 23:34 投稿番号: [14762 / 18519]
>単なる岩は、近接した最寄りの領土の付属物であり、領有の対象にはなりませんから、何ら争うことなく、自動的に所属が決定するので、争いの火種には為りません。
>単なる鬱陵島の付属物に過ぎず、従って、経済水域も持てない「岩」を「島」と言い張るのは、良くない。
条件さえ良ければ鬱陵島から視認することが可能であるとしても、鬱陵島から約92kmという距離はわたしの感覚では鬱陵島の付属物とも思えません。
わたしには現在の竹島(韓国名:独島)が鬱陵島の付属物というよりは絶海の孤島のように思います。
これは感覚の問題なので議論してもしかたのないことですが・・・
>元来、独立した経済活動を営めない岩礁は、最寄りの有人島の付属物に過ぎなかったものが、そこに乗り込んで既成事実化すれば、我が物に出来るとする、いわば泥棒の論理ですね。
>韓國の「真の」国益を考えれば獨島の領有権主張を放棄すべきでしょう。
上記のAHOさんの投稿は評価します。
元来、独立した経済活動を営めない岩礁に乗り込んで既成事実化しようとした韓国の姿勢を批判するというのはさすがです。
日韓両国でこんな岩礁のようなちっぽけな岩はどちらの領海の起点ともしないでおこうという了解ができればいいのですが・・・
これは メッセージ 14750 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14762.html
朝鮮水路誌 鬱陵島(一名松島) (1)
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/14 19:00 投稿番号: [14760 / 18519]
『朝鮮水路誌』第二弾を書き込みます。今日は鬱陵島です。
鬱陵島(一名松島)海軍海図第五四号第九五号を見よ
隠岐島を距る北西3/4西凡一四〇里朝鮮江原道海岸を距る凡八十里の海中に孤立す全島嵯峨たる圓錐山の集合にして樹木鬱然繁茂す而して其中心北緯三〇分東経一三〇度五三分に、高さ四〇〇〇呎の一峯あり。巍然天に聳ゆ。此島周廻十八里にして形幾と半圓を成す。
※「距」は訓読みで「へだ」てる
※「凡」は訓読みで「すべ」て、「およ」そ
※「圓錐」は音読みで「エンスイ」
※「巍」は音読みで「ギ」、訓読みで「たか」い
※「聳」は音読みで「ショウ」「シュ」、訓読みで「そび」える
※「廻」は音読みで「カイ」「エ」、訓読みで「めぐ」る、「まわ」る
まだ続きがありますが、ちょっとここで一旦掲示板に掲載します。
これは メッセージ 14747 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/14760.html
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