竹島

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Re: 太政官指令後の竹島=独島認識(1)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/18 22:08 投稿番号: [14778 / 18519]
質問への返事はいただけないようですのであきらめましょう。半月城さんの理解の仕方では答えられないものと理解しておきます。私の意見ですが、ご提示の文章は長文なので要約して考えてみることにします。

>内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論になると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。

太政官判断の対象となった資料に「現在の目で見て」鬱陵島・竹島が反映されていることと、太政官判断で版図外とされた二島がほかならぬ鬱陵島・竹島に該当するということは別問題です。

太政官が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と考えて判断したという根拠・脈絡はなにもありません。ただ「現在の目から」島根の資料が「それらしく見える」というだけです。

こうした理解は、二島の地理的認識に何ら混乱がない場合、この時期太政官が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と認識しえた根拠を島根の資料とは別に提示できる場合などにおいてのみ成り立つものです。

この時代、二島に明確な位置認識を伴わなかった以上、二島がどの島を指すかはこの時期の明治政府の竹島・松島に対する位置理解が前提となるはずであり、それは、結局は天城の調査に収斂されたと見るべきです。

>こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。

影響します。太政官の判断(二島放棄)の二島については、その前後の資料から明治政府の立場を規定すべきであり、島根県資料の二島が現在の目から見てどこを指しているかがその「意味」なのではありません。

>1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。

天城の調査に則って外務省が竹島を竹嶼、松島を鬱陵島と確定していたのであれば、内務省からのご指摘の指令(二島版図外)があったところで、何の異論もないのは当然のことです。何の疑問もありません。

当たり前ではないですか。

>外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正しさを認識したためと思われます。

一体、どうしてこういう理解になるのか私にはさっぱり分かりません。

>外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したのみか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑誌からほぼ正確に知りました(注3)。

ありがとうございます。太政官判断の翌年、1878年においてすでに外務省が松島=鬱陵島と実測の上で理解していたことが分かりました。
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