竹島

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明治政府の島名混乱の収束2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/23 22:05 投稿番号: [14791 / 18519]
   ahirutousagi2さん、Re:14778
>   太政官たるもの鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分からなかったはずがない。そう仰る半月城さんの理解は、私の理解の限界の幅をいささか超えたものであると言えそうです。

   これは曲解が過ぎます。私の考えを正しく理解したいのなら、まず私の語った言葉を正しく引用することから始めてください。私の考えをいうなら、そもそも太政官のありようは「・・・・と分からなかったはずがない」などと云々するような性格の部署ではありません。
   ahirutousagi2さんの考えを察するに、太政官は明治政府の最高機関であり、海軍や内務省などを統括する立場であるので、各省からの松島・竹島に関する地理情報を総合して独自の「地理(位置)的な理解」をもっていたというのでしょうか。

   そうした理解は、1871(明治4)年から2年間だけはあり得たことでしょう。この期間は、民部省の廃止にともない、同省におかれていた地理司が太政官地誌課へ臨時に移ったので、その地誌課を核に太政官独自の「地理(位置)的な理解」も可能だったことでしょう。
   しかし、73年に内務省が設置されたのに伴い、臨時の太政官地誌課は同省へ移管され、前述の地理寮になりました(注3)。したがって、その時から太政官の「地理(位置)的な理解」はそのままそっくり内務省へ移りました。
   その結果、「抜け殻」の太政官では、ahirutousagi2さんのいうような独自の「地理(位置)的な理解」を持つことはなくなりました。

   ここで一旦、太政官の性格をより理解するために、太政官への伺書について少し書くことにします。
   内務省が太政官に提出した問題の「竹島外一島地籍編纂方伺」には「十六」という番号が付されました。これは内務省が1877年3月中に出した数ある伺い書の中で16番目に相当することを意味します。この月の一カ月間だけでも内務省から太政官へ提出された伺書は、私がざっと確認しただけでも29になります。

   明治政府の代名詞である太政官には内務省のみならず、他の省庁、外務省、大蔵省、司法省、海軍省、工務省など、10省庁から毎月のように相当数の伺書が提出されました。その数は、毎月おそらく数百に達したことでしょう。
   当時、太政大臣、左大臣、右大臣、参議からなる太政官は、そうした多くの伺書を決裁するにあたって、伺書に矛盾点がないかどうか、他部署との調整が必要かどうか、政策的に妥当かどうかなどを検討して裁可しました。内務省の「竹島外一島地籍編纂方伺」もそうした伺書のひとつにすぎません。

   そうした国策・政策の最終決定をおこなう機関である太政官が、松島・竹島について独自の「地理(位置)的な理解」を組織的にもつというのは、地誌課という専門の担当部署を欠いた太政官においては微塵もあり得ないことでしょう。
   結局、1877年、太政官は内務省の伺書を承認したことにより、内務省の松島・竹島に関する認識をそのまま承認して版図外と布告したのでした。つまり、下條正男氏すら自説を覆して認めたように、竹島=独島を版図外として布告したのでした。
(つづく)
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