太政官指令後の竹島=独島認識
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/17 22:18 投稿番号: [14772 / 18519]
半月城です。
Re:14725, ahirutousagi2さん、
> 私にはそもそも半月城さんが、どうして太政官判断で「現在の竹島」を放棄したと考えうるのかよく分からないのです。
この発言の真意をはかりかねています。文面から察すると ahirutousagi2さんは、太政官が「現在の竹島」を版図外にしたとは考えていないように読めます。その一方で ahirutousagi2さんの発言から下記だけは確認できるでしょうか。
1.島根県が内務省に提出した伺書に記されている「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島である。
2.それは島根県伺書の付属文書である地図「大谷家図面」からも確認できる。
3.太政官は、内務省経由で提出された上記 (1),(2)の資料などから判断して、島根県伺書および内務省伺書に書かれた「竹島」と「松島」を版図外とした。
内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論になると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。
念のために書くなら、こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。
時間的には、逆に太政官指令が天城の調査に影響を与えた可能性はありえます。しかし、その明らかな痕跡は見出せないようです。それも無理ないようです。
太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。
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1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。
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外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正しさを認識したためと思われます。
かつての外務省は、同省宛に民間から提出された「松島開拓願」をめぐって、その松島がどこをさすのか明確な判断ができずに混乱しました。そこで同省は独自の調査を元禄時代にまでさかのぼって徹底的に行い、1881年8月、開拓願にいう「松島」は古来の竹島、すなわち欝陵島であると結論づけ、『竹島版圖所属考』にこう記しました。
「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す 韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此なり・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖の地たるや知るべし(注2)」
外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したのみか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑誌からほぼ正確に知りました(注3)。
軍艦・天城は、1978年に松島(欝陵島)へ立ち寄り、その時の停泊位置を測量しましたが、その経度や緯度が水路雑誌に記されたのでした。外務省はその資料により、松島(欝陵島)の位置を正しく認識し、同島の位置についてはなんの疑問もなくなりました。
(つづく)
Re:14725, ahirutousagi2さん、
> 私にはそもそも半月城さんが、どうして太政官判断で「現在の竹島」を放棄したと考えうるのかよく分からないのです。
この発言の真意をはかりかねています。文面から察すると ahirutousagi2さんは、太政官が「現在の竹島」を版図外にしたとは考えていないように読めます。その一方で ahirutousagi2さんの発言から下記だけは確認できるでしょうか。
1.島根県が内務省に提出した伺書に記されている「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島である。
2.それは島根県伺書の付属文書である地図「大谷家図面」からも確認できる。
3.太政官は、内務省経由で提出された上記 (1),(2)の資料などから判断して、島根県伺書および内務省伺書に書かれた「竹島」と「松島」を版図外とした。
内務省や太政官判断の決め手になった資料である島根県伺書の内容を考えるなら、太政官が版図外にした「竹島」は現在の欝陵島、「松島」は現在の竹島=独島という結論になると思うのですが、どうやら ahirutousagi2さんの考えは違うようです。
念のために書くなら、こうした太政官の「版図外」指令に軍艦・天城の「松島」調査はまったく影響しません。時間的にいうなら、太政官の判断は1877(明治10)年であり、天城の調査はそれ以後のこと、すなわち翌年および1880年の出来事だからです。
時間的には、逆に太政官指令が天城の調査に影響を与えた可能性はありえます。しかし、その明らかな痕跡は見出せないようです。それも無理ないようです。
太政官が竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)を版図外とした指令は、伺書が提出された内務省に対して回答されたので、外務省や海軍などがそれを直接知るのは困難です。他部署がそれを公式に知ることができるのは、内務省からそれについての通知があった場合のみです。実際、外務省はそうした公式通知で太政官指令を知ったようで、堀和生氏はこう記しました。
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1881年11月29日、内務省が竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書を付して、外務省に欝陵島の現状を照会したことがあった(25)。それに対して、外務省は何ら全く異論を申したてていない。そしてその後も1905年に至るまで、外務省が竹島と松島の領有権を分けて扱うようなことは決してしなかったのである(注1)。
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外務省が太政官指令書に異論をとなえなかったのは、独自の調査で太政官指令の正しさを認識したためと思われます。
かつての外務省は、同省宛に民間から提出された「松島開拓願」をめぐって、その松島がどこをさすのか明確な判断ができずに混乱しました。そこで同省は独自の調査を元禄時代にまでさかのぼって徹底的に行い、1881年8月、開拓願にいう「松島」は古来の竹島、すなわち欝陵島であると結論づけ、『竹島版圖所属考』にこう記しました。
「竹島 一名は磯竹島 又 松島と称す 韓名は欝陵島 又 芋陵島と称する者 此なり・・・今日の松島は即ち元禄十二年 稱する所の竹島にして 古来 我版圖の地たるや知るべし(注2)」
外務省は開拓願いの「今日の松島」が「古来の竹島」と同じであることを確信したのみか、1878年には「今日の松島」すなわち欝陵島の緯度や経度の情報までも海軍の水路雑誌からほぼ正確に知りました(注3)。
軍艦・天城は、1978年に松島(欝陵島)へ立ち寄り、その時の停泊位置を測量しましたが、その経度や緯度が水路雑誌に記されたのでした。外務省はその資料により、松島(欝陵島)の位置を正しく認識し、同島の位置についてはなんの疑問もなくなりました。
(つづく)
これは メッセージ 14725 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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