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船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー3

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:39 投稿番号: [2927 / 3669]
仁川港で乗船することにして乗船前日、みんな仁川のある酒場に集まり‘仁川のマッチ工場♪’も歌い‘姉はきんちゃくマンコ、妹は白いマンコ云々♪’と歌い、箸で食卓を叩きながら遊んでいた。実家が釜にあるストーキは上さんを連れて来て旅館に泊まっていて相席したものの、その上さんが、気分良く躍りながら‘姉は・・・’を歌う1航士を苦虫をかみつぶしたような顔で睨んでいては唄が終ると‘若い人の唄が何それ?’と叱った。照れ臭くなった1航士が自分の座布団に座ると“この婆が男たちが遊んでる所に来て何やってるの?”とストーキが止めるふりをするけど上さんは“若い人があまりにも生意気しないで”と本音を出す。相手にする価値がないと思うが1航士の表情は固くなっていた。歳上の夫に上司格の1航士に密かにコンプレックスを感じていただろうか。

翌日、交替船員が全員乗船した後、その夜も1航士は酒パーティを開いていたのに酒に相当酔うとストーキに不満を暴発させた。妻教育を間違ってさせた罪でストーキは鼻白んで目の前の酒だけ飲んでいた。つい彼らが初めて対面した時節に話は溯っていて1航士が“最初当直をしていたとき、あまりにも居眠っているから前面をみていこう’というとストーキは‘みている’というが居眠りながらみえるはずないじゃ?”という。そしたらストーキも負けずに“見ているのにいつもみろというとどうしたらいいんだ?”と反問する。そこで1航士“よし。全部いいけど頭を傾けてみているというと目が頭についているとのことか?”といって皆大笑いをした。

東南アジアと中近東を向かって航路を決めた本船は先ず日本で雑貨を載せた。50代の甲板長が荷役作業中にはメガフォンを取って甲板員たちに叫びながら甲板を縦横無尽縫う。彼より2才上のストーキは悪口をしながらも従わなければならない。その際、甲板部会食でもあれば酒酔いふりをしたストーキは上司の甲板長に悪口をやりまくり喧嘩を売る。周りの人が止めないと力では甲板長が勝てないのでもう会食の席を避けながら一人で遊ぶ。ストーキの考えでは経歴にせよ歳にせよ自分が上なのに甲板長だと威張るのが目障りらしい。甲板長は酒も飲めず、喫煙もできない。ただしある港に入港したらあっという間に消えてしまう。調べたらどこかで取った情報を元にして女のいる家を早速捜し出し個人プレイをするそうだ。そういえば酒、タバコが駄目なら何か他のことでも趣味を持たなければならないだろう。

ストーキのうるさがらせるせいか個人事情があったわけか、ある日、東南アジアのどっかの港で甲板長が下船を宣言した。甲板部船員が全員集まった所で甲板長はストーキに言った。“この機会できっと昇進しなさい”と。突然の下船で会社では後任者を探して送る時間的な余裕もなく、韓国から東南アジアまで飛んでいく航空券代も手強いためか後任者なしで中近東まで行ってくるように電文を送ってきた。やがて皆の視線はストーキに集中された。今度こそ彼が甲板長昇進の0順位だと。そういえば経歴だけでも彼みたいな適任者は他にいない。それに1航士が連れて来たし1航士の後輩たちが会社の船員人事件を取っているから期待するのも無理ではないはずだ。(つづき)

いや、ここは

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:32 投稿番号: [2926 / 3669]
";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙t,
     彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
     イ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;r''ソ~ヾ:;;;;;;゙i,
     t;;;;;;;リ~`゙ヾ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ      i,;;;;;;!
     ゙i,;;;;t      ヾ-‐''"~´_,,.ィ"゙    ヾ;;f^!     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   ここは、倭寇の手淫場所だ。
      t゙ヾ;l    __,, .. ,,_     ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.    \____________
      ヽ.ヽ   ー=rtσフ= ;   ('"^'=''′   リノ  
    ,,.. -‐ゝ.>、   `゙゙゙゙´   ,'    ヽ     . : :! /
  ~´ : : : : : `ヽ:.     ,rf :. .   :.: j 、   . : : ト、.、
  : : : : : : : : : : ヽ、   /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/   ヽ\、  
  :f: r: : : : : : : : !丶   r-、=一=''チ^   ,/    !:: : :`丶、_
  : /: : : : : : : : :!   ヽ、   ゙ ''' ''¨´   /    ,i: : : l!: : : : :`ヽ、
  〃: :j: : : : : : : ゙i    `ヽ、..,,__,, :ィ"::     ,ノ:: : : : : : : : : : : :\
  ノ: : : : : : : : : : :丶     : : ::::::::: : : :    /: : : : : : : : : : : : : : : :\

巡査の居る風景四

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:04 投稿番号: [2925 / 3669]


  客を引く女が四五人、白粉の禿げた顔を震わせながら、例の横町の壁に倚りかかって居た。屈折した街燈の光の中で、立てかけた土管の影が黙々と囚人達の様に並んで居た。
  ――あんた、どう?   一寸。
  ――駄目、駄目。――男はズボンのポケットに手を入れて振って見せて笑った。毛糸の頭巾を帽子の上から冠ったその青年の顔が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、静まりかえった空気の中に、何処からか壁の破れる音がピンと響いて来るのだ。
           ×            ×            ×
  ――私?   何でもないさ、亭主が死んで身寄りがなくって、外に仕事がなければ仕方がないじゃないか。
  ――亭主って、何してたんだ。
  ――鐘路で毛皮を売ってたんだよ。
  淫売婦の金東蓮の部屋では、温突の油紙の上に敷いた薄い汚れた蒲団の下に足をつっこんで、色の白い職人風の男が話して居た。
  ――で、何時、死んだんだい?
  ――此の秋さ。まるで突然だった。
  ――何だ。病気か?
  ――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
  男は手を伸ばすと、酒の瓶を掴んでごくりと一ロ飲み込んだ。
  ――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
  ――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだ。
  男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
  ――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
  ――エ?   何を。
  ――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。

  一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照し出された顔がちらついた。
「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。

  数時間の後、やっと夜の明けた灰色の鋪道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
  ――みんな知ってるかい?   地震の時のことを。
  彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。
  ――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。
  到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。
  ――オイ、静かにせんか、静かに。
  彼女はその巡査に武者振りつくと急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。
  ――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………。

  彼女が刑務所に行って了ってからも、S門外の横町では、相変らず真黒な生活が腐った状態のまま続けられて行った。
  寒いというより、痛かった。身体の中で心臓の外はみんな凍死して了って居る様な気持だった。道傍には捨てられた魚の鰓が赤く崩れ、日蔭の雪溜りの上には生々しい豚の頭が噛り散らされて居た。屋内では人々は、溝から上る瓦斯の様な韮と、蒜で腐った空気を彼等の不健全な肺臓に呼吸して、辛うじて生きて居た。
  凡てが変らなかった。
  毎日四時頃になると、東蓮の友達だった福美がいつもの様に青い腕をまくって注射をした。そういう時だけ彼女は何処かに居なくなった東蓮のことをかすかに思い出すのだった。それから夜がくると、きまって、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油の切れた車輪の軋る様な音を立てて流して行った。
  明け方になると、まだ暗い中に、よく此処に来る背の高い支那人が此の横町から出て行った。
  ――おっかない星だな。――
  彼はまだ暗い空を見上げて、そう云った。それからポケットに手をつっこんで金を探して見た。
  ――ふん。おっかねえ星だな。
  も一度無意味に繰返すと、彼は又凍てついた路を、高く履の音を立てて、よろめきながら帰って行った。

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巡査の居る風景三

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:02 投稿番号: [2924 / 3669]


  漢江人道橋の上を、砲車がカラカラ勢よく駈けて行った。永登浦の砂の上で、龍山師団の兵士達の剣尖が青い氷を映して寒々と冬日に光った。夜毎夜毎に演習の野営が砂上に張られて、篝火が赤々と燃え盛った。

  [ノロ]を担いだ学生の一団が、街上を滑りながら走って行った。ショウ・ウィンドウの中では土偶の地下女将軍の赤い顔が重々しく笑った。半分以上出来上った朝鮮神社の鎚の音が、カラカラに乾いた空の下で高らかに響いた。

  高等普通学校の校庭では、新しく内地から赴任した校長が、おごそかに従順の徳を説いて居た。(今迄居た内地の中学校で、彼が校規の一つとして、独立自尊の精神を説いたことを、幾分くすぐったく思い浮べながら。)

  普通学校の日本歴史の時間、若い教師は幾分困惑しながら遠慮がちに征韓の役を話した。
  ――こうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。――

  だが、児童達の間からはまるで何処か、ほかの国の話しででもあるような風に鈍い反響が鸚鵡がえしに響いてくるだけなのだ。
  ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
  ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
           ×            ×            ×
  其の午後は冷たく晴れて居た。
  枯れた褐色の刺ばかりになった、アカシヤの立木が北風の中で鳴って揺れた。
  南大門駅の前には群衆が風にふかれて、立並んで居た。彼等は一様に駅の入口に眼を注いで居た。自働車は勢よくその降車口に馳けつけて出迎えの高官達を吐き出した。
  ――総督のお帰りなんだよ。
  ――総督が東京から帰られたんだよ。
  警官は、佩剣をがちゃつかせながら厳重にあたりを警戒して居た。趙教英も彼等の中にまじって人々の背後から附近を見廻わして居た。彼は風に吹きよせられた新聞紙を底の破れた靴でふみつけながら、いつかも見たことのある総督の白髪の童顔を思い浮べた。此の総督は今迄の総督達と同じ様に軍人出身ではあったけれども、今迄の誰よりも一番評判がいいようであった。鮮人達の中にも心服して居るという者が可成あるのだ。だが…………
  其時厚い黒い外套に包まれて肥満した総督の人なつこい童顔が降車ロから現われた。すると出迎えの役人達あ一斉に機械の様に頭を下げた。総督は鷹揚にそれに会釈して用意の自働車に乗りこんだ。続いて、ひどく痩せて貧弱な政務総監も次の車に乗りこんだ。そしてすぐに二台の車は、セブランス病院の角から南大門の方に滑り出した。
  すると其の時だった。突然群集の中から白衣にハンティングを着けた男が躍り出したかと思うと、矢庭にピストルを持った手を伸ばして前の車をめがけて引金を引いた。弾丸は発なかった。男はあわてて第二の引金を引いた。
  今度は轟然たる音響と共に弾丸が後の車の硝子を破壊して斜めに車内を横ぎって炸裂した。と気のついた二台の自働車は急に速力を増して、疾駆し去った。
  一瞬間、群集は呆然として、此の事件を眺めた。が、次の瞬間に、警官達は本能的に此の暴漢のまわりに馳せつけた。が、兇漢はまだピストルを持って居る。彼等は兇漢と睨みあった。兇漢は二十四五の痩形の青年だった。彼もピストルを握りしめたまま血走った眼でしばらく警官の方を睨んで居た。が突然帽子をとって甃石に力一杯たたきつけて、カラカラと自棄的に笑い出すと、いきなり手にした武器を群衆の中に抛り投げた。群集はさっと退いた。警官達も思わずギョッとして身を引いて、投げ出されたピストルを見た。………が次の刹那には彼等は既にとびかかって兇漢を押えて居た。彼は少しも抵抗しなかった。青ざめて幾分小刻みにふるえる口許に蔑すむ様な微笑を浮て彼は警官達を見た。青白い額には乱れた髪が長くたれ下って居た。眼にはもう周章と昂奮の跡が消えて、絶望した落着きと憐憫の嘲笑とが浮んで居るだけだった。
  彼の腕を捕えて居た趙教英はとてもその眼付きに堪えられなかった。その犯人の眼は明らかにものを言って居るのだ。教英は日頃感じて居る、あの圧迫感が二十倍もの重みで、自分を押しつけるのを感じた。
  捕われたものは誰だ。
  捕えたものは誰だ。

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巡査の居る風景二

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:00 投稿番号: [2923 / 3669]


  銅色の太陽は其凍った十二月の軌道を通って、震えながら赤く禿げた山々に落ちて行った。北漢山は灰色の空に青白く鋸形に凍りついて居る様に見えた。其頂上から風が光の様にとんで来て鋭く人の頬を削いだ。全く骨も砕けて了いそうに寒かった。
  毎朝、数人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切った鳶の蔓を浮かんだまま死んで居た。
  ある者は紫色の斑点のついた顔をあおむけて、眠そうに倒れて居た。
  漢江の氷の上では、爺さん達が氷に穴をあけて、長い煙管で煙を吹きながら寒そうに鯉をつついて居た。その岸の林からは貧しい人達が温突にくべる薪をどんどん盗って行った。薄青い山の様に氷を満載しても曳いて行く牛の顎には、涎が氷柱になって下って居た。
  雪は余り降らなかった。路はカチカチに凍り固まって了った。其路の上を色々な足が滑ったり、転んだりして歩いて行った。
  朝鮮人の船の様な木履。日本のお嬢さんのピカピカした草履。支那人の熊の足の様な毛靴。今にも転びそうな日本の書生の朴歯。磨き上げた朝鮮貴族学生の靴。元山から逃げて来た白色ロシヤ人の踵の高い赤靴。それから足も大分出かかった担手―荷物を背にのせて運搬する朝鮮人―のぼろ靴。まれにはいざりの乞食の膝から下の断たれた大腿部。その足は寒さのため、街頭で赤くはれ上って居た。
  一九二三年。冬が汚なく凍って居た。
  凡てが汚なかった。そして汚ない儘に凍りついて居た。殊にS門外の横町ではそれが甚しかった。
  支那人の阿片と蒜の匂い、朝鮮人の安煙草と唐辛子の交ったにおい、南京虫やしらみのつぶれたにおい、街上に捨てられた豚の臓腑と猫の生皮のにおい、それ等がその臭気を保ったまま、此のあたりに凍りついて了って居る様に見えた。
  でも朝方だけは流石に空気もいくらか澄んで居た。夜が明けかかって枯れたアカシヤの枝に鵲が鳴き初める頃になると、少しは清らかな呼吸も出来るのであった。いつも其の頃になると、此の横町から沢山の男がぼんやりして併し寒そうに手をこすりながら帰って行った。

  其処には色々な女が集って居た。金東蓮もそうした女の一人であった。彼女はまだ新米で友達がなかった。ただ彼女と仲がよかったのは福美という女だけだった。姓は誰も知らなかった。其の女はいつもひどく青い顔を――彼女達はみんなそうだが、殊に――して居た。「あの人は中々えらい人なんだよ。」とその女のことを隣の婆さんが彼女達に話して居た。併し、どう、えらいのだか誰も知らなかったし、彼女も又言おうとはしなかった。そして毎日きまって四時頃になると腕をまくって注射をした。
  東蓮には、どうして、此の女にそんな金がはいるか不思議だった。そこである時、聞いて見た。すると彼女は悲しそうに笑いながら言った。
  ――お前なんか、まだ新米だから、私みたいに稼げるもんか。――

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京城帝国大学

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 05:28 投稿番号: [2922 / 3669]
1924年の京城帝大設立は、朝鮮人による民立大学設立運動の事前遮断と、朝鮮人の高い教育熱が与える日本帝国に対する圧力という二つの要因が背景で作用したためだったが、それとは状況を異にする。



もちろん、城大にダークな部分があるのも事実だ。植民地朝鮮に建てられたとはいえ、やはりそれは、どこまでも支配者である帝国日本と日本人のための大学だった。それは、忠実な帝国臣民を養成して国家に貢献する人物を養成する大学であり、学問の独立と自由とは、距離があった。日本帝国は、朝鮮の秀才らに、この大学で教育を受ける機会を付与することで、植民統治に必要な支持層を作っておくのに成功する。教授陣は、100%日本人で、学生の数においては、日本人対朝鮮人の比率は、始終2:1[29]だった。

http://homepage2.nifty.com/tsukaken/koza-2.htm

ありがとうございます。

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 05:00 投稿番号: [2921 / 3669]
土下座外交などといいますが、日本政府は日韓協約等の条約は対等の立場で
合意の上締結、戦後の日韓条約締結においての援助も独立の祝い金であり
しかも分割の10年払いでお金ではんく役物等の提供です。
つまり日本政府はいまだに賠償などする必要はないという立場です。

「遺憾であった・・・」とのこのまるで第三者でもあるかのような言葉をいうだけでどこに土下座などしているといえるのでしょうか

嫌韓サイトは私も参考にしますし、ここでとりあげられている著作も読んでいます。
当然事実に反することを隣国から言われて認める必要はありません。
必要以上に謝罪する必要もありません。

イデオロギ−といいますが、この著作者の見方であり、これを読んでどう考えるかは当然自由です。

国家の支配と考えるかどうか   私はこのような考え方もあるのかとおもいましたが。

日朝の近代史は日本側にはプラスであっても朝鮮側にはマイナス面が多い
その結果反韓、反日になっていると思います。

京城大学に関しては具体的な数字の根拠とのことですが
分かり次第また投稿いたします。

ありがとうございました。

近代日本の教育と朝鮮 ⑥

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 04:11 投稿番号: [2920 / 3669]
教育制度にみる日本人・朝鮮人の差別的処遇

本節においては、植民地朝鮮における日本の教育を、教育制度と政治、経済、社会の変遷
を中心に時期区分し、其の中での日本人と朝鮮人の位置をあきらかにする。

時期区分に関しては教員養成制度にのみ着目すれば、自ずと別の区分もあり得るが、
教育政策全般の中でとらえ返したほうが、より位置付けしやすいと考えた。

各期の最初に、各時期の特徴を概観するので、各区分の意味はそこに譲る。

A.1894年(甲午改革)〜1910年(韓国併合)

この期は、いわゆる韓国「併合」以前であり、本来「日本教育史」として観察することは不遜なことである。

しかし、その後の準備過程として、明かに日本政府の意思が働いており、かつ1905年以降
に至っては、完全に「併合」後の施策に連続する政策をみることができる。

また植民地学務官僚の意識においてもこの時期は連続したものとしてとらえられている。

近代における日本と朝鮮の関係は遅くとも1870年から見て行かねばならないが、ここでは
近代的学校法令等がだされる1895年前後から見て行く。

ただし「大日本国大朝鮮国終好条規」が調印された翌1877年には、すでに釜山に日本人小学校が開設されていること、そのために、1927年には釜山及び釜山教育会によって「釜山教育50年史」
なるものがだされていることは、覚えておくべきであろう。

1894年、金弘集政権による「甲午改革」がなされた。

これは一面、封建的制約を取り除く「近代化」であったが、あくまでも日本の資本の利益のためのもの以外にはなり得なかった。

つづく1895年に「漢城師範学校官制」「同校規則」「小学校令」「小学校教即大綱」等、一連の近代学校法制が出されている。

しかし、このとき、庶政の改革にすでに日本人顧問が関与し、例えば「漢城師範学校規則」において
、その「教育の要旨」として示されているところを見れば、当時日本で通用していた1892年文部省令第八号
「尋常師範学校ノ学科及其程度改正ノ事」による尋常師範学校の教育の要旨との類似を見て取ることが出来る。

1905年、日韓協約により日本の介入は制度的にも確立され、学部には幣原担が参与官として参画した。

「統監府」の設置された1906年、学校制度も改編された。

この時点から普通学校(小学校を改称)の教科に日本語が加えられ、地理、歴史において「隣邦」が強調
される等、日本への隷属の意識がはかられている。

一方、教育年限の短縮に見られる「愚民化」など「「併合」後、朝鮮でおこなわれた日本の植民地支配の前提
となるようなものが、すべてこの過程でできている」といわれている言葉が、教育に関しても妥当している。

師範学校をめぐる法令をとり上げてみれば、先の「漢城師範学校規則」に代わる「師範学校規則」において
、その「教育の要旨」に新たに四項が追加され、日本の1892年尋常師範学校の教育の要旨と完全に一致して
しまったこと、「尊王愛国」の語が「尊君愛国」にかわっている点などに、日本の意図と、その法令整備の
過程がみてとれる。

また、「教育」の実質的担当者という側面からみるとき、各普通学校には朝鮮語も知らない日本人が「教監」
として派遣され、事実上校長として朝鮮人教員の上に力をふるっていた。

当時の言葉でいうところの「高等程度諸学校」すなわち成均館、法学校、漢城師範・高等・外国語・高等女学校.、
平壌高等学校等の教員構成を見てとれば、1908年、日本人32人対朝鮮人61人、1909年、42人対74人、1910年、
48人対71人と、日本人教員が三分の一を占める割合であった。

しかし、このように制度の制定に際し、日本が力をふるい、その意図を実現したといっても、未だそれは表層
に留まるともいい得るものであった。

1910年時点で普通学校は、官立一、公立五九、私立(補助指定私立学校-政府より日本人教員一人と朝鮮人教員もしくは
二人を派遣)四一、計101校、その生徒数は官公立あわせて12,732人、私立4,214人であり、その中には当局者が
「所謂模範教育の範囲に入らなかった」という「乙種公立普通学校」も含まれている。

それに反し、学部の設立認可済私立各種学校は2100余校、生徒数八万余、伝統的教育機関である書堂に至っては
1911年で16,540、生徒数141,604人と、普通学校など比較の対象ではなかった。

民衆の間では「子供を普通学校に入れると男の子は卒業後内地に連れて行って兵隊にして鉄砲の玉除けにするのだ。
女子は内地に連れて行ってカルボに売るのだ」という言われ、入学勧誘も困難であった。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①(追加です)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/16 00:11 投稿番号: [2919 / 3669]
>明治政府の学校設置の動きに対して、国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」のような反乱も起こった。

学校設置に対して農民らの不満が発生したのは「国家に支配された学校の必要を感じなかった」からでしょうか。むしろ明治政府の政策全般への批判の一環であり、また重要な働き手である子供を学校に出し、さらに授業料まで払うとはとんでもないとの「国家の支配」とはやや問題が異なる、生活感情があったのではないでしょうか。

公教育=国家に支配され統括された教育であり、それは民衆とは相反するものであり、しかも最初の目的が「対外侵略の兵隊作り」、女性の就学は「工場労働者形成のため」のものであったという理解は、一定のイデオロギーのもとに規定された、きわめて図式的な歴史理解の枠組みを出ていないのではないか、という気がします。

どうも、一見この本はそれらしく見えつつも、よくよく読んでみると(部分しか読んでいませんが)、民衆の名を借りて自らの政治的な意図を目隠しした、粗末な部分があるように感じますね。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2006/06/15 22:56 投稿番号: [2918 / 3669]
>朝鮮も開国以後西洋の文化、文明を取りれることに努力し   教員を養成、学校も設立しました。調べればそれぐらい分るでしょう。

具体的に資料の提出を頼む。俺の知っている限り近代的初等教育の学校は無く、1905年に日本の保護国になった時点から始まったが、5年経過後の1910年にはわずか40校しかなかったくらい、のんべんだらりとした情況であった。
ま、一、二の極少数の例を取り上げ全体がそうであったような詭弁は止めろ。

君は近代教育がどんなものか、きちんと分かってカキコしてるのか。

其れまで東洋に全く無かった政治制度や社会制度などの考え方のみならず、
自然科学=即ち化学、工学、生物学、地理学、数学、水産学、農学、物理学等々、
社会科学=哲学、法学、社会学、教育学、心理学、人類学、考古学、経済学等々

これらは近代的学問は東洋には無かった。従って日本は国民に近代教育を施し、近代国家として独立する為、東洋に無い西洋の言語を日本語に翻訳するために苦労し、和製漢字を創出した。其れが哲学、科学、化学、経済学、共産主義、社会主義、国民、等多岐に亘り、現在中国語にある自然科学用語の殆ど、社会科学用語の70%は日本人が創った和製漢字である。当然朝鮮も同様で和製漢字をハングル読みにしたに過ぎない。

中国語の中に日本語漢字がある理由は、日清戦争でアジアの超大国が小国日本に敗れた原因が日本と比べ近代化が遅れたと気が付き日清戦争後10年間で2万数千名の留学生を日本に派遣し勉強し祖国に持ち帰ったことによる。これをして計画的に国家が留学生を大量に派遣した最初の例とされている。

清国人を欧米に送り、翻訳で苦労する時間と費用を考えれば同じ漢字を使った和製漢字であれば、中国人は喋る事は難しいが6ヶ月で読み書きできるという発想からであった。

中国語の中の日本語
http://web.archive.org/web/20030622024010/http://www.nichibun.ac.jp/text/fn91.html

文字化けしてる場合は、表示バーのエンコードの日本語自由選択をクリックすれば読める。

従って、この主要な要素を知らずか、無視した中国を含め朝鮮の近代教育問題における君のカキコは意味をなさず、単なる感情論。

>いいか日本は侵略し   朝鮮から絞りとり   朝鮮人を塗炭の苦しみに陥れたのだよ。

馬鹿が、他の日本人もつい最近資料を添付して説明したカキコがあるが、それを見ずに無視し、朝鮮から搾り取り途端の苦しみに陥れたとまだ言うか。

日本は絞りとったものは無い。寧ろ日本からは大金を投じて朝鮮に経済、社社会インフラ、教育インフラ、医療インフラ、近代的農法を朝鮮に投下した。併合前の朝鮮は経済的に破綻しそれらを整備する財資さえなく、民間には工業資本はおろか工業資本へ移行する前段階の商業資本さえ蓄積がなく、貨幣経済が発達せず物々交換経済であったことをしっかり認識しろ。朝鮮人が途端の苦しみにあったのは横暴な両班階級と人民の生活を考えぬ李王朝政府の奢侈と党争による。

併合より随分前の時代でも1492年に来日した朝鮮通信使は、その報告書の中で、「銭が盛んに用いられ、布や米による支払いを凌駕している。だから、千里の旅をするものであっても、ただ銭貨を帯びるだけでよく、穀物を携帯しなくてよい」 (『李朝世宗実録』巻46)

朝鮮王朝は経済から没落した。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=130000&biid=2004091845668

4人の外国人が見た併合前の朝鮮
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html

ついでに、併合前と併合後の朝鮮の写真集
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary

下へスクロールすれば併合前と併合後の写真がある。

これらの資料で君の言ってる事が嘘であると、君がまともな人間ならば認識できるだろう。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/15 22:20 投稿番号: [2917 / 3669]
>京城帝国大学も朝鮮人学生は非常に少なく内地からの日本人学生が多かった。この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府がそのような運動を押さえるためにやむおえず設立した。

なるほど日本人が多かったのはその通りですが、では数字としてはどれくらいでしょうか。ちょっと資料をご提示いただければ助かります。内地からの学生、朝鮮の日本人学生、朝鮮人学生、それぞれの割合、そして実際に京城帝国大学がその当時、帝国大学の中でどれほどの水準であったかも教えていただければ幸いです。

それから「この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府がそのような運動を押さえるためにやむおえず設立」とのことですが、民立大学期成運動のことでしょうか。これは第二次朝鮮教育令を契機として京城帝国大学創設の方針が確定してから期成会ができたとのことのようですが、運動そのものはもう少し前にありえたとしてもそれによって「総督府がやむをえず」というのは事実に即しているのでしょうか。教えていただければ幸いです。

>普通学校卒業後専門学校などの高等教育機関へは朝鮮人はほどんど少数しかいません。

専門学校などでは「比較的」朝鮮人学生の比率も高かったような印象が私にはあるのですが「ほとんど少数」だったのでしょうか。何か資料があれば幸いです。よろしくお願いいたします。

>そのような恩恵を受けることができたのはほんの少数

もちろん限界はありますし、人口比率で言えば微々たるものでしょう。しかし日本で学んだ朝鮮人留学生の数は相当の数にのぼったはずです。その後、大韓民国で活躍した知識人たちを見ても戦前の留学帰りの人士は少なくありません(自費留学が多いでしょうが)。

当時の状況はなかなか複雑な部分があるように思いますよ。

>嫌韓サイトの日本がいかにも善政をおこなったかのごとく書き立てているがほとんど間違いだよ。

私たちに必要なことは、過去を断罪したり土下座したりすることではなく、できるだけ正確に過去を把握し、それを自らの国の歴史として受け容れていくことであると思います。ただ、そこにはあくまで「できるだけ正確に」という但し書きがつくのです。

私は嫌韓サイトで必要な情報があれば受け容れればよいし、左翼本に受け容れる部分があればそれも受け容れればいい。幅広く、事象を追及して、吸収することが必要であると考えます。

私は個人的には、韓国の歴史観も日本のやや偏り気味の歴史観も、どっちもどっちであるという印象を持っていますよ。たとえば、韓国の竹島認識など普通に考えればひどいものです。

以上、横から失礼しました。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/15 22:15 投稿番号: [2916 / 3669]
横から失礼します。書き込み興味深く拝見させていただいています。ちょっと、いくつか意見と質問を申し上げます。(二回に分けます)

>佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

私はこれは佐野氏の考え方がおかしいと思います。(佐野の冒頭の「国家によって統轄された近代公教育(制度化された学校教育)は、それ自体が国家による民衆の支配である。」に関係します。)

日本の近代教育(学制)の原点にある「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」とする「被仰出書」の実学教育を中心とした理念をそのままに民衆支配へとつなげるにはどこかに無理があるのではないかと。

教育における国家の管理統制はもう少しあとの話です。

また、佐野は「最初の目的は対外侵略の兵隊作りであり」と書いているように、「富国強兵=対外侵略の兵隊作り」という認識のようですが、私は富国強兵とそれをイコールにすべきものであるとは思いません。

正直なところ、佐野は「民衆」と言う名を自らの理屈の都合のよいようにイデオロギー化して用いている嫌いがあるように感じます。

>原因は多く民族、多言語でそのうえ国家財政が乏しいし、大国のエゴに振り回されている等   さまざまな原因があります。

だからこそ、日本はその後、明治13年の改正教育令と教育勅語を経る中で富国強兵と、国語教育に重点をおいた教育へと転換したのではなかったでしょうか。

>それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。当時保持していた植民地の経営で経済力の大きな負担になり新しく領地を獲得する余力はなかったということです。

私はよく知りませんが、これは歴史学において、ある程度定説として認められているものでしょうか。ロシアの南下政策もこの時点ですでに余力はなかったと。ほかの列強も勘違いの日本以外は同様であったと。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2006/06/15 21:38 投稿番号: [2915 / 3669]
>教育を取り入れる方法は国家が行うべきなのか
民衆があつまりどのような教育を行うか民衆の自治に任すという方法もあり
ます。

こういうのを詭弁という。ある程度の教育インフラが揃い近代教育を教える事が出来る教師が十分揃わない事には、教育をしようにも不可能に近い。

発展途上に於いては基本的な義務教育は国家が行う。又、官僚養成の為には国家が行うのは間違いではない。日本は当初お抱え外国人の教師を雇った。寧ろ民間に人材や其れを雇う資金が無い状態にあっては国家が教育に乗り出すのは当然の事。

東京大学は明治10年、1868年に法、理、文、医学部の4学部で発足した。しかし教師はお抱え外国人

私学の慶応義塾大学は私塾として明治元年に発足したが、文学、理財、法律の3科をおいて大学となったのは明治23年、しかし、私塾出身者で教師となれる者がおらず、内外の外国人教師を雇った。米国ハーバード大学総長エリオット博士の推薦によりリスカム(文)、ドロッパース(理財)、ウィグモア(法)の3名が教師となった。大学部を設けるまで23年を要し、しかも日本人教師はいない。それで明治32年に教員養成を目的とした海外留学生制度を理事会で決定したくらいだ。同じく私学の名門である早稲田大学は1882年に東京専門学校として発足し1902年に大学となった。教員養成にはそのくらい時間が掛かる。初等教育においても同様である。

従って、民衆の自治とかの議論は近代教育導入時期においての議論にはならない。民衆自身に近代教育が備わって無いからから自治なる発想も出来ない。

>佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

富国強兵策の何処が悪い。当時は欧米列強がアジアの植民地化に狂奔し、中国は欧州列強に蚕食され半植民地国家、米国はハワイ王朝を倒し、米西戦争で勝ちスペインの植民地であったフィリピンを植民地に、フランスはベトナムを、そして女真族の土地満州を実質支配したのがロシアと枚挙に暇が無い。日本が富国強兵策をとったのは、日本が欧米からの植民地化を防ぐ為。佐野は自己のみすぼらしいイデオロギーを満足させる為に富国強兵ーアジア侵略と言いたいのだろうが、当時の国際情勢を無視した屁理屈に過ぎない。他方、当時の国際情勢を無視した清国が半植民地化されたのも近代国家へ脱皮できなかった主たる理由。

>当時の列強には再度新しく侵略する力はなかったでしょう。
朝鮮が開国以前なぜ外国の武力行動に対し日本のように開国に応じず追い払うことができたのか

又国際情勢を無視してるな。例えば米国にしろフランスにしろ国内問題を抱え、特に米国は南北戦争に突入した再度朝鮮に迫る時間がなかった事と、さして資源的に魅力の無い朝鮮であったために放置しただけ。

従って、
>それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。

この言い分は史実に即さぬ観念論故却下。

>ではあなたは右翼ですか

君の右翼の定義は何?俺は右翼ではない。史実に基づき日本の伝統文化を守る保守派だ。

以下右翼に関する君のカキコも却下。

Re: おい、早く

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:35 投稿番号: [2914 / 3669]
恥じヲ知れ

馬鹿もん

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:33 投稿番号: [2913 / 3669]
>事実を全く無視。当時の朝鮮には西洋の自然科学、社会科学を体系的に教育できるものがいなかった。なぜって?そういう教育を受けてないのが教師になれるはずが無いのは自明の理。

そのようなことはありません。朝鮮も開国以後西洋の文化、文明を取りれることに努力し   教員を養成、学校も設立しました。
調べればそれぐらい分るでしょう。

>近代教育を行うのが愚民化とは恐れ入ったね。馬鹿だよこの佐野は。史実さえも無視している。愚民化とは西洋列強が植民地で原住民の教育を受けさえなかったことを言う。

教育内容が日本より低く、終業年限も当初4年であったことから愚民化と
いっている。


>ほう、日韓併合時代に小学校は各邑に一校という目標を制定し、日本敗戦までの間にほぼ0に近い数から5千数百校出来たがそれは無視か。

0ではない。朝鮮は文明3000年の歴史を誇る国家です。
当然教育制度もあり日本が0からすべて学校を作ったと言うことは間違い

学校を作っただけで朝鮮人は貧しさのために就学率は30%前後と言われている。卒業性も入学時よりはるかに少ない

施設を作っただけで義務教育制度は1943年に1946年より実施するという計画
があっただけです。

>それから高等学校や更に最高学府の京城帝国大学を1924年に創設したことは無視か。それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

普通学校卒業後専門学校などの高等教育機関へは朝鮮人はほどんど少数しかいません。

京城帝国大学も朝鮮人学生は非常に少なく内地からの日本人学生が多かった
この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府が
そのような運動を押さえるためにやむおえず設立した。

>それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

そのような恩恵を受けることができたのはほんの少数

少数に対し援助したから朝鮮人全体に対して行ったようにいうのは間違い

植民地にした日本人が朝鮮人のために朝鮮を運営するわけがあるはずがない。

いいか日本は侵略し   朝鮮から絞りとり   朝鮮人を塗炭の苦しみに陥れたのだよ。

嫌韓サイトの日本がいかにも善政をおこなったかのごとく書き立てているが
ほとんど間違いだよ。

日本の都合の悪いことはほとんど記載されていない。

おい、早く

投稿者: mousoutanosiika 投稿日時: 2006/06/15 19:24 投稿番号: [2912 / 3669]
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      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   オナニーやれよ、見ててやるからよ
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Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:04 投稿番号: [2911 / 3669]
>近代教育とは西洋の科学的教育だ。それは明治維新以前において東洋には一切無かった西洋の概念、自然科学や社会科学だ。これらの科学的教育がなされ無ければ国家は発展せず、他国から良いようにやられる。現在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた

教育を取り入れる方法は国家が行うべきなのか
民衆があつまりどのような教育を行うか民衆の自治に任すという方法もあります。

佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

近代教育とは西洋の科学的教育だとのことですが、
なにもこの西洋の科学的教育を取り入れることに対して疑義を言っているのではない。

>在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。

原因は多く民族、多言語でそのうえ国家財政が乏しいし、大国のエゴに
振り回されている等   さまざまな原因があります。

>日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた

当時の列強には再度新しく侵略する力はなかったでしょう。
朝鮮が開国以前なぜ外国の武力行動に対し日本のように開国に応じず
追い払うことができたのか

それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。
当時保持していた植民地の経営で経済力の大きな負担になり新しく領地を獲得する余力はなかったということです。

日本にはそれが分らず被害者意識が高く列強の植民地を逃れるためには
列強と同じく新しい領土をもつべきだとして朝鮮侵略を行いました。

ではあなたは右翼ですか

日本は素晴らしい国と何でも考え都合の悪いことは認めず
日本を非難するひとたちを左翼だと決めつけ   ある種の言論弾圧を
平気で行う。

軍隊や軍人に憧れ強ものが正しいう論調で罵倒する   これが右翼の正体

戦前の戦争もこのような右翼と軍人と金儲けだけ考える財閥が結びつき
日本を戦争へ向かわせた

右翼には何の価値もないと

何だ?ここは?

投稿者: mousoutanosiika 投稿日時: 2006/06/15 19:00 投稿番号: [2910 / 3669]
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      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   ここは、鮮人のオナニー場所か?
      t゙ヾ;l    __,, .. ,,_     ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.    \____________
      ヽ.ヽ   ー=rtσフ= ;   ('"^'=''′   リノ  
    ,,.. -‐ゝ.>、   `゙゙゙゙´   ,'    ヽ     . : :! /
  ~´ : : : : : `ヽ:.     ,rf :. .   :.: j 、   . : : ト、.、
  : : : : : : : : : : ヽ、   /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/   ヽ\、  
  :f: r: : : : : : : : !丶   r-、=一=''チ^   ,/    !:: : :`丶、_
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  〃: :j: : : : : : : ゙i    `ヽ、..,,__,, :ィ"::     ,ノ:: : : : : : : : : : : :\
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船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:37 投稿番号: [2909 / 3669]
後で個人的なことを話し合ったりして分かったことだが二人は同郷の人で1等舵手は3等航海士の家柄を知っていると言うから3等航海士はいぶかしく思い、休暇をとって下船した時お父さんに聞いてみると、1等舵手の名前を聞いて、‘昔隣の町に住んでいた下人の部落の人のようだ’との答えをきいたそうだ。1等舵手は海運公社の初創期から対米航路を走るKタイプの船舶に乗船したことにはなはだ自負心をもっていたそうだ。

当時海運公社が政府所有の船舶会社として発足した時、米国の‘余剰農産物援助計画’によって米国から夥しい量の米を長期間に渡って運んだ時期があった。韓国戦争が終わって何もなくて飢え死にするところに援助米が大切な庶民の糧として配給された時があった。それが米運搬を受け持った海運公社が国内ではほとんど唯一の船舶会社として急成長できた背景である。後で作曲家で元私立H大学長であるK氏が引き受けて民間企業として運営するようになった。K氏も海運事業でお金をたくさん設けて蓄積した財力で荘厳な家屋を建てたりして人目をひいたこともあった。

話がそれるが、そのK氏の財産を目当てにしたいか妖婦みたいな女がK氏の自宅に家政婦を志願、接近して誘惑したので普段、女が好きでスキャンダルを起こしていたK氏が嫌うわけがなかった。結局、女のシナリオどおり彼はあの女に手を出してしまって、噂を出すと脅迫されて、相当なお金をとられてその事件は終わった。あの女はおそらく近代韓国のそのすじの女の始祖だったのか。

当時、対米航路がめずらしかった時期だったから韓国で知られていた俳優など有名人たちはK氏に頼んで、海運公社の船で渡米することもまれなことではなかった。この頃になっては半日でソウルからAに行けるけどその当時は船舶を利用して2~3週かけていくことも平気に思う程外国に出かけること自体がものすごくむずかしかった。

その以降、朴大統領の開発独裁に便乗し、船舶会社がだんだん増えてきて海運公社は古い船舶だけでは競争しきれなくなって廃船とか売船で船乗りの仕事先が減ってくるとこの二人を含めた多くの船員たちがK船舶会社のユニホォムに着替えることになった。

二人はK海運へ移った後、再び同じ船舶に乗船するようになった。2等航海士へ進級し、B号をはじめ、乗船経歴を積んだ後、1等航海士で発令を受け、待機中、釜山の中央洞にある会社に寄ったとき、当直をいっしょにしていた1等舵手に出会った。1舵手もストーキ(英語でstore keeper, 甲板長補)へ昇進したが休暇を終えてからも船が取れなく会社に出て来て人事担当者と口喧嘩をしていた。“アイゴ、初士(1航士)、お久しぶりですね・・・俺、船に乗せてくれませんか?”印象派の顔をしたストーキが1航士に哀願した。人事担当者の海務代理は1航士の2年後輩であり在学中、内務訓練のとき、バットを打ちながら訓練した先・後輩関係だった。“船しらべてみろ”と先輩がいうのに拒否する後輩はいない。配置をしていたら、つい又、同じ船に乗るようになった。(つづき)

船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテーその1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:34 投稿番号: [2908 / 3669]
船窓夜話ー第25話ードンキホテーその1 2003/ 6/13 17:45
メッセージ: 4532 / 6027

投稿者: ilkuji
その船舶の1等航海士は子供の時から数学の天才だと噂されて 高校の時、数学時間に教師が黒板に問題を出すと、教師が解く前にライバルの友達と誰が早く問題を解くか試合をして負けたらプルパン(20年程前は食べ物があまり豊富でなくって、素朴な形で簡単にパンを作った。)を奢ってくれる賭事をよくしたものだ。頭はよいが、家庭の経済の事情がよくなくて、国のお金で衣食住が解決できて、授業料もほとんど免除される国立商船大の航海科を志望し、合格した。そして卒業と同時に当時、船舶会社の士官学校といわれた大韓海運公社に堂々と3等航海士と発令を受けた。乗船する日、白い帽子にユニホォムも伊達に着飾ってトラップを踏んだものだ。

始めの日、航海当直をするためにブリッジに上がると相当年取った1舵手が立っていた。挨拶をして船舶の位置を海図上で確認した後、見視のためにヴュウスクリンで前方を眺めていた。1舵手はもう乗船経歴20年の古参船員として年から見て新参3等航海士のお父さんくらいの年代だ。しかし、命令に生き、命令に死ぬきびしい階級社会の商船の世界では年齢なんかかまうものか。

1等舵手は前日飲んだお酒からまだ醒めていないらしく、まどろみはじめた。学校から原則少尉として教育を受けた3等航海士がそれをただでおくはずがない。“1等舵手、居眠りしないで前を見て進行しましょう”、でも1等舵手は自分の息子くらいの年齢の当直士官に叱られていい気持ちいるはずがない。“見ていますよ”と答えてすぐまた今回は前向きに凭れてまどろみ始めたものだ。“気をつけて、真っ直ぐに立ってください”怒りはじめた3等航海士の催促もただことじゃなかった。

初めの当直4時間を神経戦で過ごした1等舵手が愚痴をこぼしながら次の当直舵手の2等舵手に仕事を引き渡して下に降りては船員用の食堂にどっかと身を投げって座って3等航海士の悪口をいいはじめる。釤息子くらいおさないやつがくそ、口だけ多い。畜生“ 近くで食事中の若い3舵手に”おい、これからは君が3等当直にあがれ、わしと当直を変えよう“といいながら当直をかえることを要求する。

元々、商船の当直の体系は経験のない3等航海士が経験の豊富な1等舵手と共に当直をして、2等航海士は2等舵手、1等航海士は3等舵手と一緒にすることになっていた。航海士と舵手が経歴の相互補完体系で当直をするが、新参の3等航海士が乗るといつもトラブルが起きて相当年取った1等舵手としてもなかなかうまくやっていきそうもなかった。それで3等航海士が2、3ヶ月船の生活になれてきてある程度融通がきくようになるとその時を待って自分の元々の当直の時間に戻っていくパタンーをとった。それからお酒を一緒に飲むチャンスも作ったりして私的にも親しくなると当直がずっとしやすくなったりもある。

(続き)

近代日本の教育と朝鮮 ⑤

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 18:34 投稿番号: [2907 / 3669]
ここでは、そのようなこれまでの教育研究が欠落させてきたものの一つとして、日本の旧植民地、特に朝鮮における
「教育」を取り上げて見る。

方法としては、植民地朝鮮の「教育」の場における、日本人と朝鮮人の制度的差別と、そこにおける日本人教員の
姿を明かにしていく。

このことは、植民地という形で、日本の「教育」が「地域的」な拡張をしていること、そこにおける「教育制度」
は朝鮮教育史の中で位置付けられるものではなく、あくまで日本人にとっての問題としてとらえられるべきもの
であること、その意味で植民地朝鮮における「日本教育史」を見なければ、「日本教育史」は完結しないことを示して
くれる。

特に本章では、初等教員養成政策を軸に考えて見る。

当時の教員養成制度は、官費養成による就職義務がともなっており、一種の教員雇庸政策的側面をもあわせてもっていた。

そのため、そこに日本の「支配」の「浸透」と、その形態を、明かに見ることが出来る。

また、その教員雇庸の形態を通して、初等教育のあり方も観察することができる。

なお、師範学校は制度の建前としては、日本人・朝鮮人を共に受け入れる学校となっていながら、
その実態は差別的に構成されていた。

このことも、植民地における「教育制度」の本質を明かに示すであろう。

教員養成制度を探ることのもう一つの意味として、次ぎの点を挙げることができる。

今までの研究では教員に関して明かにされているとはいえない。

そこで教員養成制度を明かにしていくことが、その姿に接近する一つの手がかりともなり、同じ制度を経ながらも、
大きく違っている日本人教員と朝鮮人教員の姿を見ることには、我々に植民地朝鮮における日本の教育制度が、
日本の問題としてとらえられねばならないことを明かにしてくれる。

近代日本の教育と朝鮮 ④

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 18:32 投稿番号: [2906 / 3669]
一、植民地朝鮮における日本の教育政策

従来、教育研究は、国家、民族等を単位として行われてきた。

しかし、そのために他地域、他民族との交流についての考察が、軽んぜられたことはないだろうか。

具体的に日本教育史研究の場合で考えてみよう。

他民族との交流のうちでも、受けたものと与えたものではその扱いが違う。

例えば古代における朝鮮、中国からの文物の輸入、新しくは占領期教育改革等、他との交わり
が、その域内における変化の要因となったものに関しては、それを語ることを欠くことはない。

しかしその反面、自らが他に影響を及ぼしたことについては、どれだけ反省的でありえたであろうか。

例えば、植民地支配という関係にあった日本と朝鮮の場合である。

日本教育史研究と朝鮮教育史研究はまったく別個に行われており、それには相応の根拠も存在はする。

しかし両者で扱いは違う。

植民地と去れていた側、ここでいえば朝鮮の歴史が記述される場合には、其の抵抗運動に主眼が置かれるなり、
植民地支配の虚構性がいわれるなりという形であっても、とにかく何らかの形で植民地支配の存在は
語られている。

それに反して、その植民地支配を行った側、日本の歴史を語る場合には、その植民地支配を行ったことに
対する言及がないままに、その歴史が記述されることが少なくない。

このような歴史のとらえ方は、その対象を地域、民族に限定する場合であっても、正当なものとなり得る
であろうか。

植民地支配に関しては、次の諸点を考えてみても、植民地支配を行った側において植民地支配を
記述することの重要性がわかるであろう。

一.植民地支配を押し進めた政策決定過程には、それを進めた為政者におけるそれなりの必然性があるはずである。

   そこには国内外におけるすべての情勢が反映し、そのすべての政治、経済、社会活動によって
   植民地支配は成立したといえよう。

   そうであれば、植民地支配という結果をもたらした当時の日本の状況、歴史を語るときに、その結果を抜きに語る
   ことはできないはずである。

   このことは教育の分野についても妥当するであろう。

ニ.植民地の存在は、必然として、植民地人民の植民本国への流入、移入を生んでいる。

   研究を地域的に限定する場合でも、植民地をもっている以上、他民族との関わりを無視することはできない。

   具体的に日本の場合でいえば、在日朝鮮人・台湾人の存在であり、彼らがどのように処遇されたかという問題である。

   多くの日本教育史研究、特にその教育政策としての研究は、日本国民の大多数を対象とする教育政策・制度に
   その意味、特質を求めようとした。

   そのため植民地における政策への言及だけでなく、国内における問題であっても、在日朝鮮人・台湾人の教育、
   アイヌの教育など、その社会に存在する多くの「少数者」の問題を切り捨ててきた。

   しかし、このような「周辺」からこそ、近代における「教育」の形態である、国家によって組織される
   「教育」の本質は明かにされ得ると考えられる。

船窓夜話ー第二十四弾ーバットと酒と男と

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:31 投稿番号: [2905 / 3669]
船窓夜話ー第24話ーバットと酒と男とサウジ 2003/ 6/ 5 18:14
メッセージ: 4512 / 6027

投稿者: ilkuji
「海上を飛ぶ首」という題名の絵を見たことがある。文字とおり海上を人間の首が飛んでいるひやっとする絵だった。画家の名前は忘れたが何故こういう絵が生まれたかその事由を調べたらば遠洋漁船に乗って出ていった船員が失足、溺死したのに船は死体を捜し出せなく帰って、一人ぼちの溺死者の霊魂が故郷がこいしくて、首だけ海上を飛んでいくとの話を素材で描いたとのことであった。

私は商船の航海士生活だけやったので漁船の状況はよく知らないが、近海または遠洋漁船ではとんでもないことが度々起こるという。なので、この話は筆者の体験じゃなく漁船出身の商船の普通船員たちの体験談を聴いて移したことである。陸地と遠く離れて孤立した世界で漁労をするのは先ず苦労で苦しい状況を頻繁に接する。何件か思い出すまま移してみる。

釜山の南港で出航する漁船では五六島を曲がって出るとき紐バット儀式がある。当直者以外の全員が甲板上に集合したら船長がバットを持って現れる。そして一等航海士の尻を打つ。そしたら今度は一等が2、3等と甲板長を打ち、甲板長が甲板員たちをバットで殴る。これを「五六島バット」というのだ。苦しい漁労をする中で気合がないと仕事ができないので最初から気合を入れさせてやるとの意味だろう。商船の場合、円筒形上下構造だが漁船は士官以下の船員はみんな同じ職責なので船上反乱など問題が発生する確率が高いから。

カムチャカ半島から遠くない北太平洋上で漁労作業をしていた韓国国籍の漁船が一隻あった。ある日、その水産会社の会長が漁労実態を視察するため、飛行機を数回乗換え、その漁船を訪ねたことがあるけど日が暮れて船で寝ることにして船員たちと酒パーティを開いた。ところが海上で長く浮かんでいたため、出航するとき載せていった焼酎はすぐ払底し、パーティが洒落気がなく割れる状況だった。

このとき、あるボケ船員一人が自分なりの忠誠心を発揮し、一つ提案した。「工業用メチルアルコールを機関室で使ってるけどそれでも持ってきて飲もう」と。誰かが「それは人体に危険だから駄目だ」と止めようとしたが既に酒に酔っていたため、もっと飲みたいとの一念だけだったので大丈夫だから取りあえず持って来るように合意した。結局それを飲んだ後、会長と何名が即死し、残りの船員は重態に落ちてしまった事件が起こった。

酒話になったので思い出したが、筆者が商船で働いたときも酒のために経験したエピソードがある。7月の暑さが猛威を振っていたとき中近東のサウジのダンマン港に入ったけど回教国家なので飲酒はさておき、酒製造自体が禁止されている国なので酒は載せて行ったものの、飲むことができなかった。自国の法律はともかく外国人にさえ飲まないようにするって笑わせる国である。入港したとだん、税関員が来て全ての酒を倉庫に入れ、封してしまった。そして銃を肩にかけた軍人二名が乗船しては一名は廊下で、もう一名は食堂で目を怒らして監視しているので敢えて飲酒はできない状態だった。

上陸もできずに毎日45度を維持する猛暑に酒も飲まさないなんて耐えられなかった。酒好きの一等航海士は「チンポみたいな奴等」と呟いては夜間にサロンを呼んで作戦を立てた。倉庫のある廊下で監視している軍人の奴を一旦誘引し、部屋に入れてはタバコをやりながら話し掛けて時間を稼いでいる間、他のチームが紙で封した倉庫の戸を開けて焼酎を出した後は再び紙を貼っておいた。そのあと皆、秘密裏に一等航海士の事務所に集まり、冷凍マグロをつまみにして酒を飲んだ。まるで戦利品を分けで楽しむような気持ちだった。

船窓夜話ー第二十三弾ー3機士と1機士

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:28 投稿番号: [2904 / 3669]
船窓夜話ー第23話ー3機士と1機士 2003/ 5/24 17:16
メッセージ: 4456 / 6027

投稿者: ilkuji
香港船主のリベリア船籍の本船。3等機関士(以下機士)は人間性が良く
男前なので人気があった。彼は木浦商船学校出身で甲種免許であった。反面、
1機士は釜山のFAO(国連傘下の食糧機具)船員養成所出身で乙種だった。
狭い空間で荒い男だけの生活なのでストレスが溜まってお互い神経が高ぶって
喧嘩するケースが多い。特に1機士は人に言えない劣等意識を隠すために自分の
職位を誇示したりして船員同士に反感を持たせたりした。特に細かいことで
いつも3機士と衝突した。結局用便をして遅く機関室に降りていった3機士を
口喧嘩の末に殴った事件が起こった。

不満を吐露する3機士を卑劣にも、いきなり顔面を殴りかけては逃げたのだ。
顔が脹れ、鼻が潰れた3機士は追いかけていったが、1機士は機関長の部屋に
入っては機関長の後ろに隠れて救援を要請したのだ。2、3航士と2、3機士に
電気師が集まり、船長と1航士に1機士の処罰を強力に要求するように決めた。
しかし1航士は筆者が「水士」という別名をつけたほど主体性もないくせに
部下に威張るビンシンだった。それに1機士と同じ養成所出身の2機士があとで
裏切ったために「当事者二人共、上陸禁止」という軽い処罰で終えようとした。
筆者は腹が立って「チンポみたいな処罰処置を無視しろ」と助言し、
インドネシアのスラバヤに入港したとき、3機士を連れて出て女を買ってHを
させたり楽しく遊んだ。

顔に痣が出来たまま女に出会って、それでも喜んで笑う3機士の姿が
可笑しかった。スラバヤは全国のホステス集散地であり、奇麗な女が沢山いた。
売春街に行って一人づつ買っては三輪自転車(運転手が後ろでペダルを踏み
運転)に乗せ、市内を縫いかけた。そしてその店に戻っていって朝までやり
まくった。筆者の女はあまりにも陰門が小さくて挿入に苦労した。珍しいケースで
中国人と原住民の合いの子だったな。後で聴いたらあの女は既に船長と
やったとか誰かが言ってた。いわば穴兄弟だったのか。いい気分ではないが
知らんぶりをするしかない。

とにかく船長と1航士も3機士の上陸禁止処置の違反を知らんふりをするしか
なかった。3機士が無実だと知っていたので。反面、1機士は3機士が恐くて
自分の部屋から出られなく、鍵を締めて寝る状況だった。私は厚顔無恥の
あいつの行為にどうしても耐えられなく、夜遅く1時頃1機士部屋のベッドが
ついてる壁を外から靴の足で力一杯で蹴った後、寝室に戻って来て寝ようとした。
そしたら1機士がノックして入っては「寝てるのに誰かがいきなり壁を蹴って
行くので驚いて起き、出て見たら後ろ姿が君らしかった」という。しらばくれて
「あなた何いってるんですか」と反問したらば、こっそりとドアを閉じて出て
いくのだった。未だ乗船生活を続けてたら機関長になっているはずの1機士。
今はどんな姿で生きているだろうか。

船窓夜話ー第二十二弾ーサイクロン

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:26 投稿番号: [2903 / 3669]
船窓夜話ー第22話ーサイクロン 2003/ 4/21 15:34
メッセージ: 4093 / 6027

投稿者: ilkuji
豪州北部、ポート・ヘドランドを離れた本船は気勢強い嵐を正面に受けながら船首をアフリカ大陸の東南部を向かっていた。1月中旬、サイクロンが海賊のように豪州北部を攻める時期だった。案の定、振れる船舶を飲み込むように波がだんだん荒くなり、もう山を作りはじめた。船は既に左右30度に揺れながら疲れた旅に立っていた。もう陸地はレーダー上からも消えていて印度洋の真ん中を落葉のように浮かんでいる模様だった。ただし落葉と違うなら微弱ながら白い泡沫を起こしプロペラーが回ってるくらいかな。

2―3日その状態で進行したが海は納まる気配は見えずにベッドに横なってる船員たちを床に落しながら青い筋肉質で本船を揺り動かしていた。ある程度船乗りに履歴のあると思っていた船員たちももううんざりしていた。船長がブリッジで前方を眺めながら船首にぶつかる波が船首を超えて甲板が水に沈むたびに“アイグ、アイグ”と悲鳴たけ上げていた。大自然の力の前で人間はいくら偉くてもただの微物に過ぎないのだ。

昼間に雨が少し止んで波たけ船舷を打っていたとき、船尾に結んでいたロープが波に荒らされて海に落ちてしまって末だけ甲板のビットについてる状態になった。海に落ちたロープがプロペラーに巻き込まれたら船は転覆される。一等航海士は急いで甲板部全員を船尾に呼び、ロープを揚げていた。昼食後、船尾に出て来た機関部船員たちがその光景を見ながら爪楊枝で歯を刺していた。ロープがほぼ半分上がって来たとき、いきなり巨大な波が船尾を撃った。というより船がピッチングをし、船尾が水面まで降りてきたとき、波が溢れてきたのだ。あっという間にロープを取っていた甲板部船員4名と機関部3名が波に荒らされ海に落ちた。

非常ベールを押して全員を集合させ失踪された人たちの名前を呼んでも既に誰も海上には見えない。こんな状況で船を止めたらすぐ覆るはずだ。なぜなら推進力が波を突破して進む役割をするので推進力が切れたら船は波により転覆するのだ。船長は悲壮な表情で継続前進を命じた。その状態で一日が過ぎたら皆負けず嫌いしか残らない。それから我らだけが生き残ったという罪意識に耐えられないほどだった。生きても、死んでも一緒にすべき同僚じゃないか。我らだけ生き残って死んだ遺家族を何の顔で対面するだろうか。

甲板長は一等航海士に船長との面談を要請し、甲板部船員たちと一緒にブリッジへ上がってきた彼は、失踪した船員たちを捜し出すまでには行けないから船を戻どうと提案した。そしたら他の船員も皆泣きながらこのまま行くより皆一緒に死のうと叫んだ。筆者も胸がいっぱいになり「船長!このままじゃ行けません。帰りましょう!」と言った。船長は暫く耐え難い表情で遠い眼をしてから舵手に命じた。「船首を回せ」と。波を船首でぶつかってる状態でっ船首を回すと三角波が来たらそのまま転覆する。舵手は少しづつ舵を回しはじめた。大きな円を描きながら船舶が針路を変えて道を引き返した。そして今度は波を後ろから受けながら進んだ。

丸一日を走っても失踪した人たちの姿はみえない。もうサーチを諦めるしかない。貨物荷役予定日に合わせて目的地に到着できないと船主はその分の損失を弁償しなければならない。予定日より二日遅く到着し、荷役を終えた後、次の寄港地の台湾へ向かった。キーリュン港で失踪者の代わりに乗船交替しに来た船員たち。その連中の中では前航海のとき、起こった事件について話だけ聴いては航海中恐くて海の見える廊下を歩けなく、のっそのっそはる者がいた。そして船長にどうぞ下船させてほしいと哀願し、乗船一ヶ月ふりに次の寄港地で降りたのだ。

釜山の影島に行けば太宗台公園の入口に船員慰霊搭が立っている。全世界を航海途中、殉職した船員たちの霊を慰めるタワーという。陸地に住むように作られた人間が海で惜しい命を犠牲した同僚たちのことがこれで清算できるかと思うと胸が痛くなる今、この頃である。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/06/15 15:51 投稿番号: [2902 / 3669]
>だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。

事実を全く無視。当時の朝鮮には西洋の自然科学、社会科学を体系的に教育できるものがいなかった。なぜって?そういう教育を受けてないのが教師になれるはずが無いのは自明の理。

>日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていないということではなかった。

近代教育を行うのが愚民化とは恐れ入ったね。馬鹿だよこの佐野は。史実さえも無視している。愚民化とは西洋列強が植民地で原住民の教育を受けさえなかったことを言う。

>植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。

ほう、日韓併合時代に小学校は各邑に一校という目標を制定し、日本敗戦までの間にほぼ0に近い数から5千数百校出来たがそれは無視か。

それから高等学校や更に最高学府の京城帝国大学を1924年に創設したことは無視か。それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

白薔薇君、いい加減な駄文をこれ以上乗っければ笑われるだけだから止めたほうが良い。それとも佐野の屁理屈でなくきちんとした資料を基に、自分の言葉で反論できるかい。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/06/15 15:25 投稿番号: [2901 / 3669]
佐野通夫と言うのは売文サヨクで松山地裁に首相の靖国参拝がこの世界秩序を否定することであり、自分達サヨク等が積み上げてきた共同研究を破壊すると言った原告だね。確か敗訴したはず。

こんな奴は今のまともな日本人は全く相手にしていない。

だからイデオロギーありきの↓のような表現をする。

>国家によって統轄された近代教育は、それ自体が国家による民衆の支配である。

近代教育とは西洋の科学的教育だ。それは明治維新以前において東洋には一切無かった西洋の概念、自然科学や社会科学だ。これらの科学的教育がなされ無ければ国家は発展せず、他国から良いようにやられる。現在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた。

そのサヨクが信奉する過去、現在の共産主義国家、ソ連、東欧諸国、中国、北朝鮮、ベトナムなどは国民の教育を国家が行わなかったのかねぇ。共産主義国家は国家じゃないのかね。

だから佐野は自己崩壊している。それから近代教育の何たるかも判ってない。ただ日本の侵略のためのものとしている処に悪質な意図が感じられる。

こんな駄文を載せるとは、愚かとしか言いようが無い。

>国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」
のような反乱も起こった。

新しい物にたいする無知ゆえの不安からくる反発、朝鮮でも無学な親はなかなか子供を小学校に行かせようとしなかった。

しかし、この佐野通夫は韓国が受験大国で大学進学率が高いことを知らないのかね。韓国は佐野流で言えば国家による民衆の支配になる。全く、現実無視の観念論とはいえぬ自己のイデオロギーを正当化したいが為の屁理屈文あり、およそ書物とは言えない。

Re: 巡査の居る風景一の3

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:47 投稿番号: [2900 / 3669]
  電車は昌慶苑前で下りた。
  横町では強いアセチリンの光に肺病やみの売卜者の顔が闇から浮び上った。古本屋の店先で手をぶるぶる慄わせながら、老人が声を立てて諺文を読んで居た。
  角を一つ曲がると、突然彼は向うから来た一人の男にお辞儀をされた。彼も一つ鸚鵡返しに頭を下げてから見ると猟虎の襟の外套をつけた立派な紳士だった。
  ――一寸お尋ね致しますが。――と、その人は彼に非常に丁寧な言葉で、××氏――総督府の高官――の住居を尋ねたのだ。(××氏の所へ行くなら此の人も高官かもしれない。)紳士にそんな丁寧な言葉をかけられたことのない彼は、一寸まごつきながらその××氏の住居を教えた。彼の返事をきくと一度丁寧に頭を下げて教えられた方に曲て行った…………。
  と、その時だった。彼はある一つの大発見をして愕然として了ったのだ。
  ――俺は、俺は今知らない中に嬉しくなって居はしなかったか。――と彼はぎょっとしながら自分に尋ねて見た。
  ――あの日本の紳士に丁寧な扱いを受けたことによって極く少しではあるけれども喜ばされて居たのだ。丁度子供が大人に少しでもまじめに相手にされると、すっかり喜んで了うように、俺も今無意識の中に嬉しがって居たのだ………………。もう先刻の青年も笑えなかった。府会議員の候補のことも云えなかった。
  ――これは俺一人の問題ではない。俺達の民族は昔からこんな性質を持つように歴史的に訓練されて来て居るんだ。
  ふと横を見ると男が道傍にしゃがんで小便をして居るのだ。彼は何げなく「立小便」することを知らない此の半島の人達の風習を考えて見た。
  ――此の一寸した習慣の中にも永遠に卑屈なるべき俺達の精神がひそんで居るのかも知れぬ。――彼はそんなことを、ぼんやり考えて見た。

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Re: 巡査の居る風景一の2

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:46 投稿番号: [2899 / 3669]
  電車の中は混んで居た。スケートをぶら下げた学生。鼻を真赤にした会社員風の男、買物包をかかえた奥さん。子供を尻にのせたオモニ、厚い茶色の毛皮に襟を埋めた両班達。
  しばらくすると、突然其の中から何か言い争う声が聞えて来た。乗客の視線は一斉に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な姿をした一人の日本の女と、その前の吊革につかまって居る白い朝鮮服をつけた学生らしい青年とが言い合って居るのであった。
  ――折角、親切に腰かけなさい、いうてやったのに。――と女は不平そうに言って居るのだ。
  ――併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ、――
  ――だから、ヨボさんいうてるやないか、
  ――どっちでも同じことだ。ヨボなんて、
  ――ヨボなんていやへん。ヨボさんというたんや、
  女には何も分らないのだ。そして怪げんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかの様にあたりを見まわして、
  ――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいうてやったのに何をおこってんのや。
  車内には所々失笑の声が起った。青年はもう諦めて了って、黙って此の無智な女を睨みつけた。教英は又しても憂鬱になって行った。   何故此の青年はあんな争論をするのだ。此の穏健な抗議者は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを恥じねばならないのだ。………彼は其の日の午後の出来事を思い出した。
  其の日の午後、府会議員の選挙演説を監視するため、彼は同じ署の高木という日本人の巡査と共に会場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演説についで、たった一人の朝鮮人候補の演説が初まった。商工会議所の頭もやったことのある、内地人の間にも相当人望のあるこの候補者は巧みな日本語で自分の抱負を述べ立てて居た。が、その最中に、一番前に居た聴衆の一人が立上がって「黙れ、ヨボの癖に。」と怒鳴ったのだ。二十にもならぬ位の汚ないなりをした小僧であった。高木巡査はいきなり、其奴の襟首をつかまえて場外に引ずり出して了った。と、その時此候補は一段と声を高くして叫んだのだ。
  ――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
  すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
  彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
  事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
  では、何故怖いのだ?   何故だ?
  その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
  彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。

巡査の居る風景一の1

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:44 投稿番号: [2898 / 3669]
中学時代をソウルで過ごしたことのある中島敦の短編−巡査の居る風景−を紹介します。
場所は1923年のソウル。ある朝鮮人巡査の眼を通して、街のスケッチとともに朝鮮人であることの悲しみを描いています。

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巡査の居る風景
中島敦

―   一九二三年の一つのスケッチ   ―



  甃石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った。
  町角には飲食店の屋台が五つ六つかたまって盛に白い湯気を立てて居た。赤黒くカチカチに固くなった乳房を汚れたツルマキの上から出した女が一人、その前に立って湯気を吹きながら真赤に唐辛子をかけた饂飩を啜って居た。
  署から帰ろうとして巡査の趙教英は電車を待ちながら、それをぼんやり眺めて居た。彼の前を急いで二人の浅黄服を着た支那人が、天秤棒をかついで過ぎて行った。彼等の籠の中には売れ残りの大根が白く光って居た。そろそろ潮の様に人混みが出始める頃であった。薄氷を張った様な暮方の空の下で、仏蘭西教会の鐘が寒む寒むと響き出した。
  趙教英は寒そうに鼻をすすって首を縮めると、制服の詰め襟の前を一度かけなおして電線の青白い火花を見上げた。その電車が行って了った後の線路を背の高い男が一人大股に歩いて来た。彼の署の課長であった。彼が恭しく敬礼すると、其男も鷹揚に一寸手を挙げて、又人混みの中に紛れ込んで了った。

  電車に乗ると、職業上無料の彼はいつもの様に運転手台に立って、両手をズボンのポケットにつっこんだ儘、硝子に倚りかかった。彼は電車に乗る度に屹度一人の日本人の中学生のことを思い出すのだ。………ある夏の朝だった。署に出る途中彼がいつもの運転手台に立って居ると、登校の途中の其中学生が乗り込んできたのだ。そして多分涼しい風にあたりたい為らしく、其中学生は運転手台に立って居て中に入らなかった。が、元来立つべき所ではなし、運転の邪魔にもなるというので、運転手は中学生に中に入ってくれと言ったのだ。所が彼は傲然として運転手に喰ってかかった。
「オイ、其の人を。」と、中学生は其処に立って居た巡査の彼を指さして、
「其の人を中へ入れないんなら、俺もいやだよ。」――(勿論、其の運転手も朝鮮人であるからなのだ。)――そして当惑した運転手と巡査との顔を面白そうに見比べながら其処に立続けたのであった………。彼は今も此の中学生の目付を思い出して不愉快に思った。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/15 14:22 投稿番号: [2897 / 3669]
>(近代日本の教育と朝鮮   佐野   通夫著   社会評論社発行)

佐野通夫かあ。(笑)

白薔薇ちゃんの意図が読めました。

----------------------------------------
青丘文庫月報・174号・2002月10月1日
<巻頭エッセー>
真の名   佐野 通夫

2002年9月17日に小泉首相が北朝鮮を訪問することになっています。不思議なことは、日朝の国交回復という、日本が過去100年の間、朝鮮半島に対してどのようなことを行なってきたのか、ということを反省しなければならないときに、「拉致」疑惑云々が言われることです。最近有本惠子さんなる人物が主に登場していますが、「拉致」だと主張している人たちの話によっても、ロンドン留学後、自宅に「仕事が見つかる   帰国遅れる   恵子」という電報が届き、そしてヨーロッパを経由して、朝鮮に滞在しているらしいとの話です。この話がなぜ「拉致」なのでしょうか?「拉致」とは手もとの国語辞典では「むりにひきつれてゆくこと」とあります。英国の警察はそのような粗暴犯として事件化したのでしょうか。確かに朝鮮行きの背景には「北朝鮮工作員」の接触があったのかもしれませんけど、それがあったとしても、成人が自分の判断で、居住地、仕事を選択しています。これが「拉致」だというならば、アメリカ合州国に「拉致」されている日本人の方がはるかに多いはずです(人によっては「頭脳流出」という言葉が使われます)。
  同じように不思議なのは2002年9月4日の「不審船」騒動です。日本の排他的経済水域の外を共和国旗をあげて航行している船がなぜ「不審船」なのでしょうか。これも同じく日本近海にはアメリカ合州国や日本の「不審船」の方が多いはずです。

http://72.14.203.104/search?q=cache:sixwa8pqG9UJ:www.ksyc.jp/sb/200210geppou.html+%E4%BD%90%E9%87%8E%E9%80%9A%E5%A4%AB&hl=ja&ie=UTF-8

近代日本の教育と朝鮮 ③

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 14:00 投稿番号: [2896 / 3669]
民衆が学校を「受容」するとは、どのようなことを意味するであろうか。

鄭承博の「奪われたことば」は、1923年生まれのこの作家の自伝的小説である。

普通学校三年になった主人公が、(であるから1930年代半ば)、学校の中で朝鮮語
を使ったことをきっかけに退学となり、日本人の牧場で働き、そして日本へ渡っていく
物語である。

学校に通う主人公にとっては、「日本語と朝鮮語を自在にあやつって、偉そうな管吏や
むずかしい世間を、冷ややかに見下ろす。

この素晴らしさ」と日本語使用による実利的側面が意識されている。

しかし、この「利便性」を通じて主人公は、父母や祖父の待つ朝鮮人としての意識、
民族性から離れていってしまう。

例えば「色服着用」について、主人公は白い朝鮮服を着ようとする人々の思いが理解できない。

「白地の朝鮮服を止めて、命令通りに、日本服と同じ色(カ−キ色)に染めれば良いのである。

真っ白が自慢で、洗たくに明け暮れする女たちが、むしろ滑稽でならなかった」
と否定する評価しかできない。

これに対して母は言う

「ゆくゆくお前も流れ者になるのさ。学校を中退して家に居着いた者はいないよ。
川下にある酒屋の一人息子は、ちゃんと卒業したに、それでも家出した、いまだ行方が
わからないんだもの。
だから学校なんか反対だったんだよ。」

祖父も言う

「そうだ。漢文こそが本当の学問だ。寺子屋をやめたのが間違いだ。田を耕し蒔を取るのが
人間の営みである。

明日からでも、野良へ出て働きながら、寺子屋に戻りなさい。それが幸せというものだ」。


日本国内の学校も、学校の基本的構造は故郷を捨てる教育である。

学校は地方の人材の中央への吸い上げ機構として働く。

明治以来の「立身出世」の構造である。

植民地において、其れは民族を捨てる教育として働く。

学校へ行ったことで、少年と父母、祖父母との間には文化観の断絶が生じている。

現在においても、こどもたちにとって、あるいは大人にとってさえ、学校は大きな権威をもっている。

「奪われた言葉」に示されている体罰のような直接暴力は、学校制度としては本来へたな統制方法だといえるだろう。

支配者はこどもたちが違和感無く、自ら支配に服する「半島の子ら」の世界を理想としていたはずである。

植民地という場にあって、その支配を行った日本人と朝鮮人の明確な賃金差別、教育条件の差別、朝鮮人に対しては初等教育中心(あるいは初頭教育まで)という教育内容の差別、
何よりも言葉を奪って
二重言語状態においたという、植民地教育の問題点は明らかである。

しかし、現代日本の教育の支配の中で、現代日本の子供たちも、植民地朝鮮の子供たちと同様に、
人間性、人格、さらには生命まで破壊されている。

「同じ」民族による教育の支配が、現在これほど多くの問題を生じている。

日本においては、当初から教育による民衆支配が意図された。

それでも、山間の地、極貧世帯など、その費用の過大なところは、教育免除地、等として切り捨てられた
(1961年学校教育法改正まで)。

国家による教育支配という観点から見れば、植民地朝鮮における教育も、この費用のさらに過大な地という
扱いであったのではないか。

日本においては、寺子屋の切り替え等で、学校を作ることができた。

植民地朝鮮においては書堂は、例えば教員の問題があって、そのままでは植民地学校とはならなかった。

また、日本化教育のための多数の日本人教員を一度に移入することができなかった。

植民地朝鮮において1930年代末、40年代になって学校拡大が図られたことの原因を次ぎの二点に求める
ことが出来るのではないだろうか。

一つには日本の対外侵略戦争の激化により、朝鮮人を日本人の補充に使う必要が高まったという、
日本国内において学校制度がつくられた初期に似た状況が生じた。

第二には植民地化後一世代た経ったこどで、植民地支配者は朝鮮人をも朝鮮人児童の日本化教育の教員として
用いることができると考えた

(しかし、これが支配者の誤算であったことは、第Ⅰ部にみてほしい)。

この意味で、植民地教育は、民衆にとぅて国家支配の一環でああるという近代公教育の本質を備えている。

しかし、それは近代公教育のもう一つの特質である国民国家形成という影響はとれない。

植民地本国における民衆支配と、植民地における民衆支配の異同を、さらに明かにしていくことが課題として残っている。

Re: 意味がわかりませんが

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/15 12:59 投稿番号: [2895 / 3669]
>どのような体験されたのでしょうか   良ければお聞かせください。

自分は都合が悪い問いかけからは逃げ回るくせによく言うよ(嘲笑)

意味がわかりませんが

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 12:57 投稿番号: [2894 / 3669]
>白薔薇さんの投稿は,そうした人間の体験とかは無視したものですね.

後知恵でモノを言うのは見苦しい.

意味が分りません。   書物の内容を紹介しているだけですが

>私の祖父は大正時代から朝鮮で教員をしていましたが

どのような体験されたのでしょうか   良ければお聞かせください。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: grosser770 投稿日時: 2006/06/15 05:43 投稿番号: [2893 / 3669]
私の祖父は大正時代から朝鮮で教員をしていましたが,

白薔薇さんの投稿は,そうした人間の体験とかは無視したものですね.

後知恵でモノを言うのは見苦しい.

さっさと,おやめなさい@G

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 03:45 投稿番号: [2892 / 3669]
●では植民地朝鮮において、学校はどのように成立していったのであろうか。

植民地朝鮮の場合も同様に、植民地支配権力は、植民地の民衆に支配者日本への従順を植え込むために、
学校が主要な道具であることは当然認識していた。

だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、
すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。

日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から
切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていない
ということではなかった。

被支配の意識の植え込みには腐心していたといえる。

だだしその費用、効果の問題を考え、逆に民衆自身の教育活動の抑圧に意を用いていた時期であるということができるであろう。

朝鮮における日本の教育の導入時期には、日本における抵抗と同じく「日本人教師は、生徒を教育して卒業の後は日本に
拉致して兵卒となすのであるとか従僕奴隷となすのである」等の抵抗の声が上がり、学生募集は困難であった。

しかし学校が開設され、社会の中である程度定着してしまうと、日本の中では就学率は上昇し、貧困等により不就学に
なることはつらいことだ、との意識が民衆の中にも出てくる。

この間、学校の本質自体は変わるところはない。

ではこの学校の民衆への浸透、支配力強化は何に由来したのであろうか。

同じ現象が、植民地朝鮮では、どのように展開しただろうか。

日本において「学制」までの主な教育機関であった寺子屋は、近代学校の義務設置、義務就学のため、急速に
近代学校制度に取って代わられていった。

植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。

朝鮮では1910年5月の段階で、日本支配の教育機関在籍者が一万二千名余りであった一方、学部設立認可済私立学校には
八万名が在籍し、伝統的教育機関である書堂も引き続き存続していた。

書堂の学生数は日本植民地下において、1911年の十四万人から1916年の二十六万人へという増加をみせている。

このため、朝鮮総督府の初期の教育政策は、それらの民族的教育機関の取り締まりが主であった。

このように朝鮮民衆にとって近代学校は、近代学校としての国家支配と、植民地の異文化支配を示すものとして、
二重に外的なものとして登場した。

しかし、日本の支配の浸透の中で、ただ民衆と無縁のもとしてだけは存在していない。

一方で、作られていった学校は事実として存在し、人々の中にもそのことを事実として認め、それを求める動き
もでてくる。

例えば「東亜日報」1922年1月の記事は、忠清南道の高等普通学校の開設位置について道内で争奪戦のあったことを、
同じく5月の記事、その高等普通学校定員100名に対して、190名の応募があったことを、報じている。

(近代日本の教育と朝鮮   佐野   通夫著   社会評論社発行)

近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 03:42 投稿番号: [2891 / 3669]
序論   教育の支配と植民地の支配

国家によって統轄された近代教育は、それ自体が国家による民衆の支配である。

日本の場合、明治政府は国民国家形成の方途として、1872年、まだその権力
掌握過程にありながら、「国民皆学」を掲げた「学制」を発布し、各地に
学校を作らせた。

以後、その就学率は1873年の28パ−セントから35年の歳月を要して、1908
年頃に、98パ−セントへと上昇していく。

国家による教育はまず、国家語である共通語、すなわち「国語」の普及を
第一の課題とし、同時に国民イデオロギ−を注入していく。

最初の目的は対外侵略の兵隊作りであり、そのため、まず男子就学率が上昇し、
其の後に工場労働者形成のため、女子就学率が上昇するという経緯をたどった。

一方で、教育は、もともと人間の生活それ自体として存在し、人間が生活実践
を通して自然に働きかけ、社会関係を取り結んでいく中で、自然をかえ社会を
変革していくとともに、自らつくりかえていく、人間の自己形成の意図化されたものとして
も存在する。

そのような教育の組織化として、明治政府の「学制」以前にも、寺子屋等、さまざまな
形態での教育機関が存在した。

明治国家の学校形成過程は、この民衆の教育機関の自らの権力のもとへの取り込みであるとも、
いうことができる。

事実、「学制」によって作られた学校の中には、それまでの寺子屋の校舎等を転用したものも少なくない。

国家のもとに統轄された教育は、国家によって作成されるカリキュラムと、国家によって資格をあたえられた、
あるいはそのもとで訓練された教員の存在をもって完成する。

日本における義務教育の普及に40年近い年月が必要であった事の一端には、この教員養成の問題も存在する。

明治政府の学校設置の動きに対して、国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」
のような反乱も起こった。

Re: 隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/14 17:10 投稿番号: [2890 / 3669]
おい、それ全部朝鮮の教科書の内容じゃないか。

そんなのが、現在通用すると思ってるのは、世界中で朝鮮族だけだよ。

Re: 隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/14 16:42 投稿番号: [2889 / 3669]
>貴殿は朝鮮人により何か被害をうけたことがあるのでしょうか

貴殿自身は日帝の支配とやらで何か被害を受けたのですか?(笑)

隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/14 16:41 投稿番号: [2888 / 3669]
貴殿は朝鮮人により何か被害をうけたことがあるのでしょうか

日本は明治以後1870年代から1945年まで   隣国朝鮮に大きな苦しみ、被害を
与えましたが、朝鮮は日本に大きな被害をあたえましたでしょうか

日本が与えた被害

1.米の収奪

  朝鮮を日本への米の供給基地として米を買占め内地へ移出した。

2.土地の収奪
  高利の貸付により土地を収奪した。

3.低賃金・長時間労働で朝鮮人労働者を酷使した。

4.日清、日露戦争において武力で無理やり戦争に協力させ
  朝鮮の土地を収用し、朝鮮農民を酷使した。

5.朝鮮人の私学等をほとんど認めず   朝鮮は日本の弟というような
ありもしない歴史をおしえた。

6.日本人教師を朝鮮人教師の上位におき
  朝鮮語の学習時間を減少させ日本語の国語の授業時間を増やした。

7.朝鮮語の使用に制限を加え公的書類、入学試験などはすべて日本語であり
  朝鮮語を奪った。

8.武力を背景とした商売や言論統制を加え朝鮮人の意思を蹂躪した。

9.日本人の住む住宅地域のみ税金を投資し、朝鮮人の住む住宅地域は何ら改善しなかった。

10.多くの朝鮮人独立運動家を弾圧し、根拠地の町を焼き払い一般朝鮮人まで
虐殺した。

簡単に思いつくだけでも日本や日本人が行った過酷な朝鮮支配の実体がこれだけある。

人口が増加したのは生活向上とは何ら関係ない。
増加が生活向上の証明となるなら   現在日本は人口減少に転じていますが
日本は生活低下しつつあるのでしょうか?

日本が朝鮮支配の費用は特別会計で毎年1200万投資しただけ。
あとは日本の借款である。

つまり朝鮮に金を貸しつけ利息をとって朝鮮から利益をあげたということ

港の整備、鉄道の建設等の近代化は朝鮮を兵站基地として、又朝鮮から収穫
物を日本へ移出するためになされたことであり。
朝鮮人にとっては何ら役立つものではなかった。

これだけひどい目に合いながら朝鮮人は在住日本人約70万が引き揚げるときは
何ら日本人に被害をあたえず、約1年ほどで日本人の大半は帰国できました。




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