Re: 巡査の居る風景一の2
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:46 投稿番号: [2899 / 3669]
電車の中は混んで居た。スケートをぶら下げた学生。鼻を真赤にした会社員風の男、買物包をかかえた奥さん。子供を尻にのせたオモニ、厚い茶色の毛皮に襟を埋めた両班達。
しばらくすると、突然其の中から何か言い争う声が聞えて来た。乗客の視線は一斉に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な姿をした一人の日本の女と、その前の吊革につかまって居る白い朝鮮服をつけた学生らしい青年とが言い合って居るのであった。
――折角、親切に腰かけなさい、いうてやったのに。――と女は不平そうに言って居るのだ。
――併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ、――
――だから、ヨボさんいうてるやないか、
――どっちでも同じことだ。ヨボなんて、
――ヨボなんていやへん。ヨボさんというたんや、
女には何も分らないのだ。そして怪げんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかの様にあたりを見まわして、
――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいうてやったのに何をおこってんのや。
車内には所々失笑の声が起った。青年はもう諦めて了って、黙って此の無智な女を睨みつけた。教英は又しても憂鬱になって行った。 何故此の青年はあんな争論をするのだ。此の穏健な抗議者は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを恥じねばならないのだ。………彼は其の日の午後の出来事を思い出した。
其の日の午後、府会議員の選挙演説を監視するため、彼は同じ署の高木という日本人の巡査と共に会場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演説についで、たった一人の朝鮮人候補の演説が初まった。商工会議所の頭もやったことのある、内地人の間にも相当人望のあるこの候補者は巧みな日本語で自分の抱負を述べ立てて居た。が、その最中に、一番前に居た聴衆の一人が立上がって「黙れ、ヨボの癖に。」と怒鳴ったのだ。二十にもならぬ位の汚ないなりをした小僧であった。高木巡査はいきなり、其奴の襟首をつかまえて場外に引ずり出して了った。と、その時此候補は一段と声を高くして叫んだのだ。
――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
では、何故怖いのだ? 何故だ?
その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。
しばらくすると、突然其の中から何か言い争う声が聞えて来た。乗客の視線は一斉に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な姿をした一人の日本の女と、その前の吊革につかまって居る白い朝鮮服をつけた学生らしい青年とが言い合って居るのであった。
――折角、親切に腰かけなさい、いうてやったのに。――と女は不平そうに言って居るのだ。
――併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ、――
――だから、ヨボさんいうてるやないか、
――どっちでも同じことだ。ヨボなんて、
――ヨボなんていやへん。ヨボさんというたんや、
女には何も分らないのだ。そして怪げんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかの様にあたりを見まわして、
――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいうてやったのに何をおこってんのや。
車内には所々失笑の声が起った。青年はもう諦めて了って、黙って此の無智な女を睨みつけた。教英は又しても憂鬱になって行った。 何故此の青年はあんな争論をするのだ。此の穏健な抗議者は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを恥じねばならないのだ。………彼は其の日の午後の出来事を思い出した。
其の日の午後、府会議員の選挙演説を監視するため、彼は同じ署の高木という日本人の巡査と共に会場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演説についで、たった一人の朝鮮人候補の演説が初まった。商工会議所の頭もやったことのある、内地人の間にも相当人望のあるこの候補者は巧みな日本語で自分の抱負を述べ立てて居た。が、その最中に、一番前に居た聴衆の一人が立上がって「黙れ、ヨボの癖に。」と怒鳴ったのだ。二十にもならぬ位の汚ないなりをした小僧であった。高木巡査はいきなり、其奴の襟首をつかまえて場外に引ずり出して了った。と、その時此候補は一段と声を高くして叫んだのだ。
――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
では、何故怖いのだ? 何故だ?
その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。
これは メッセージ 2898 (monju_jz さん)への返信です.
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