Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②
投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 03:45 投稿番号: [2892 / 3669]
●では植民地朝鮮において、学校はどのように成立していったのであろうか。
植民地朝鮮の場合も同様に、植民地支配権力は、植民地の民衆に支配者日本への従順を植え込むために、
学校が主要な道具であることは当然認識していた。
だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、
すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。
日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から
切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていない
ということではなかった。
被支配の意識の植え込みには腐心していたといえる。
だだしその費用、効果の問題を考え、逆に民衆自身の教育活動の抑圧に意を用いていた時期であるということができるであろう。
朝鮮における日本の教育の導入時期には、日本における抵抗と同じく「日本人教師は、生徒を教育して卒業の後は日本に
拉致して兵卒となすのであるとか従僕奴隷となすのである」等の抵抗の声が上がり、学生募集は困難であった。
しかし学校が開設され、社会の中である程度定着してしまうと、日本の中では就学率は上昇し、貧困等により不就学に
なることはつらいことだ、との意識が民衆の中にも出てくる。
この間、学校の本質自体は変わるところはない。
ではこの学校の民衆への浸透、支配力強化は何に由来したのであろうか。
同じ現象が、植民地朝鮮では、どのように展開しただろうか。
日本において「学制」までの主な教育機関であった寺子屋は、近代学校の義務設置、義務就学のため、急速に
近代学校制度に取って代わられていった。
植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。
朝鮮では1910年5月の段階で、日本支配の教育機関在籍者が一万二千名余りであった一方、学部設立認可済私立学校には
八万名が在籍し、伝統的教育機関である書堂も引き続き存続していた。
書堂の学生数は日本植民地下において、1911年の十四万人から1916年の二十六万人へという増加をみせている。
このため、朝鮮総督府の初期の教育政策は、それらの民族的教育機関の取り締まりが主であった。
このように朝鮮民衆にとって近代学校は、近代学校としての国家支配と、植民地の異文化支配を示すものとして、
二重に外的なものとして登場した。
しかし、日本の支配の浸透の中で、ただ民衆と無縁のもとしてだけは存在していない。
一方で、作られていった学校は事実として存在し、人々の中にもそのことを事実として認め、それを求める動き
もでてくる。
例えば「東亜日報」1922年1月の記事は、忠清南道の高等普通学校の開設位置について道内で争奪戦のあったことを、
同じく5月の記事、その高等普通学校定員100名に対して、190名の応募があったことを、報じている。
(近代日本の教育と朝鮮 佐野 通夫著 社会評論社発行)
植民地朝鮮の場合も同様に、植民地支配権力は、植民地の民衆に支配者日本への従順を植え込むために、
学校が主要な道具であることは当然認識していた。
だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、
すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。
日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から
切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていない
ということではなかった。
被支配の意識の植え込みには腐心していたといえる。
だだしその費用、効果の問題を考え、逆に民衆自身の教育活動の抑圧に意を用いていた時期であるということができるであろう。
朝鮮における日本の教育の導入時期には、日本における抵抗と同じく「日本人教師は、生徒を教育して卒業の後は日本に
拉致して兵卒となすのであるとか従僕奴隷となすのである」等の抵抗の声が上がり、学生募集は困難であった。
しかし学校が開設され、社会の中である程度定着してしまうと、日本の中では就学率は上昇し、貧困等により不就学に
なることはつらいことだ、との意識が民衆の中にも出てくる。
この間、学校の本質自体は変わるところはない。
ではこの学校の民衆への浸透、支配力強化は何に由来したのであろうか。
同じ現象が、植民地朝鮮では、どのように展開しただろうか。
日本において「学制」までの主な教育機関であった寺子屋は、近代学校の義務設置、義務就学のため、急速に
近代学校制度に取って代わられていった。
植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。
朝鮮では1910年5月の段階で、日本支配の教育機関在籍者が一万二千名余りであった一方、学部設立認可済私立学校には
八万名が在籍し、伝統的教育機関である書堂も引き続き存続していた。
書堂の学生数は日本植民地下において、1911年の十四万人から1916年の二十六万人へという増加をみせている。
このため、朝鮮総督府の初期の教育政策は、それらの民族的教育機関の取り締まりが主であった。
このように朝鮮民衆にとって近代学校は、近代学校としての国家支配と、植民地の異文化支配を示すものとして、
二重に外的なものとして登場した。
しかし、日本の支配の浸透の中で、ただ民衆と無縁のもとしてだけは存在していない。
一方で、作られていった学校は事実として存在し、人々の中にもそのことを事実として認め、それを求める動き
もでてくる。
例えば「東亜日報」1922年1月の記事は、忠清南道の高等普通学校の開設位置について道内で争奪戦のあったことを、
同じく5月の記事、その高等普通学校定員100名に対して、190名の応募があったことを、報じている。
(近代日本の教育と朝鮮 佐野 通夫著 社会評論社発行)
これは メッセージ 2891 (whiterose20051 さん)への返信です.
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