巡査の居る風景四
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:04 投稿番号: [2925 / 3669]
四
客を引く女が四五人、白粉の禿げた顔を震わせながら、例の横町の壁に倚りかかって居た。屈折した街燈の光の中で、立てかけた土管の影が黙々と囚人達の様に並んで居た。
――あんた、どう? 一寸。
――駄目、駄目。――男はズボンのポケットに手を入れて振って見せて笑った。毛糸の頭巾を帽子の上から冠ったその青年の顔が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、静まりかえった空気の中に、何処からか壁の破れる音がピンと響いて来るのだ。
× × ×
――私? 何でもないさ、亭主が死んで身寄りがなくって、外に仕事がなければ仕方がないじゃないか。
――亭主って、何してたんだ。
――鐘路で毛皮を売ってたんだよ。
淫売婦の金東蓮の部屋では、温突の油紙の上に敷いた薄い汚れた蒲団の下に足をつっこんで、色の白い職人風の男が話して居た。
――で、何時、死んだんだい?
――此の秋さ。まるで突然だった。
――何だ。病気か?
――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
男は手を伸ばすと、酒の瓶を掴んでごくりと一ロ飲み込んだ。
――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだ。
男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
――エ? 何を。
――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。
一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照し出された顔がちらついた。
「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。
数時間の後、やっと夜の明けた灰色の鋪道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
――みんな知ってるかい? 地震の時のことを。
彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。
――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。
到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。
――オイ、静かにせんか、静かに。
彼女はその巡査に武者振りつくと急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。
――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………。
彼女が刑務所に行って了ってからも、S門外の横町では、相変らず真黒な生活が腐った状態のまま続けられて行った。
寒いというより、痛かった。身体の中で心臓の外はみんな凍死して了って居る様な気持だった。道傍には捨てられた魚の鰓が赤く崩れ、日蔭の雪溜りの上には生々しい豚の頭が噛り散らされて居た。屋内では人々は、溝から上る瓦斯の様な韮と、蒜で腐った空気を彼等の不健全な肺臓に呼吸して、辛うじて生きて居た。
凡てが変らなかった。
毎日四時頃になると、東蓮の友達だった福美がいつもの様に青い腕をまくって注射をした。そういう時だけ彼女は何処かに居なくなった東蓮のことをかすかに思い出すのだった。それから夜がくると、きまって、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油の切れた車輪の軋る様な音を立てて流して行った。
明け方になると、まだ暗い中に、よく此処に来る背の高い支那人が此の横町から出て行った。
――おっかない星だな。――
彼はまだ暗い空を見上げて、そう云った。それからポケットに手をつっこんで金を探して見た。
――ふん。おっかねえ星だな。
も一度無意味に繰返すと、彼は又凍てついた路を、高く履の音を立てて、よろめきながら帰って行った。
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客を引く女が四五人、白粉の禿げた顔を震わせながら、例の横町の壁に倚りかかって居た。屈折した街燈の光の中で、立てかけた土管の影が黙々と囚人達の様に並んで居た。
――あんた、どう? 一寸。
――駄目、駄目。――男はズボンのポケットに手を入れて振って見せて笑った。毛糸の頭巾を帽子の上から冠ったその青年の顔が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、静まりかえった空気の中に、何処からか壁の破れる音がピンと響いて来るのだ。
× × ×
――私? 何でもないさ、亭主が死んで身寄りがなくって、外に仕事がなければ仕方がないじゃないか。
――亭主って、何してたんだ。
――鐘路で毛皮を売ってたんだよ。
淫売婦の金東蓮の部屋では、温突の油紙の上に敷いた薄い汚れた蒲団の下に足をつっこんで、色の白い職人風の男が話して居た。
――で、何時、死んだんだい?
――此の秋さ。まるで突然だった。
――何だ。病気か?
――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
男は手を伸ばすと、酒の瓶を掴んでごくりと一ロ飲み込んだ。
――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだ。
男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
――エ? 何を。
――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。
一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照し出された顔がちらついた。
「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。
数時間の後、やっと夜の明けた灰色の鋪道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
――みんな知ってるかい? 地震の時のことを。
彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。
――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。
到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。
――オイ、静かにせんか、静かに。
彼女はその巡査に武者振りつくと急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。
――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………。
彼女が刑務所に行って了ってからも、S門外の横町では、相変らず真黒な生活が腐った状態のまま続けられて行った。
寒いというより、痛かった。身体の中で心臓の外はみんな凍死して了って居る様な気持だった。道傍には捨てられた魚の鰓が赤く崩れ、日蔭の雪溜りの上には生々しい豚の頭が噛り散らされて居た。屋内では人々は、溝から上る瓦斯の様な韮と、蒜で腐った空気を彼等の不健全な肺臓に呼吸して、辛うじて生きて居た。
凡てが変らなかった。
毎日四時頃になると、東蓮の友達だった福美がいつもの様に青い腕をまくって注射をした。そういう時だけ彼女は何処かに居なくなった東蓮のことをかすかに思い出すのだった。それから夜がくると、きまって、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油の切れた車輪の軋る様な音を立てて流して行った。
明け方になると、まだ暗い中に、よく此処に来る背の高い支那人が此の横町から出て行った。
――おっかない星だな。――
彼はまだ暗い空を見上げて、そう云った。それからポケットに手をつっこんで金を探して見た。
――ふん。おっかねえ星だな。
も一度無意味に繰返すと、彼は又凍てついた路を、高く履の音を立てて、よろめきながら帰って行った。
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これは メッセージ 2924 (monju_jz さん)への返信です.
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