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↓楽しいか?

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/10 02:16 投稿番号: [2832 / 3669]
こういった事しても日本人はもう騙されないよ。

はっきり言って、無駄な努力。

壊れたラジオ状態。

夜中までごくろうなこった。(嘲笑)

植民地朝鮮の日本人 釜山開港(1)

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/10 02:04 投稿番号: [2831 / 3669]
釜山開港(1)

1976年2月の日朝修好条規の主な内容は次ぎのようなことであった。

釜山を開港すること。

今後20ヶ月以内に他の二港を開港すること。

それらの港では「地面を賃借し家屋を造営し、又は所在朝鮮人民の居宅を賃借するも
各其随意に任す」こと。

「日本国人民、朝鮮国指定の各口に在留中、若し罪科を犯し朝鮮人民に交渉する事件は、
総て日本国官員の審断に帰す」こと(治外法権)

そして、同年8月には「修好条規に付属する往復文書」と「修好条規付録」とを
結んで、輸出入品に関税をかけないこと。

朝鮮において日本貨幣の通用を認めることを決めた

いづれも、日本にとって、はなはだ有利な取り決めであった。

幕末の日本に対してアメリカなどが強要した不平等条約は、アメリカなどの治外法権を認め
日本の関税自主権を認めなかったことでしられているが、

日本は朝鮮に対して、関税自主権どころか、関税そのものを認めなかったのである。

そして、アメリカなどが日本に対してもたなかった、自国貨幣の通用させる権利まで

手にいれたのである。

植民地朝鮮の日本人 ⑧

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/10 01:37 投稿番号: [2830 / 3669]
1937年7月日中戦争が全面化すると、威鏡南道の朝鮮窒素興南工場も軍需産業に
転換していった。

そして、「朝鮮人が死んだって風が吹いたほどにも感じない」ように
なっていった。

日本人は朝鮮人を押さえ指導していく民族だという自覚を会社は徹底して植えつけた

残業で疲れ果て座り込んでいる労働者を木刀で殴って働かせた。

岡本達明・松崎次夫編   「聞書   水俣民衆史」第5巻   草風社

Re: 植民地朝鮮の日本人 ⑦

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 18:05 投稿番号: [2829 / 3669]
京城白樺派

日本人の多くは朝鮮および朝鮮人を食い物に
するために朝鮮へ渡った。

しかし、ごく少数ではあるが、朝鮮および朝鮮人を理解するために
朝鮮へ渡った人もいた。

淺川   伯教・巧兄弟らは後者にぞくする稀有な日本人であった。

彼らは白樺派のメンバ−ではなかったが、柳宗悦を通じて白樺派と
言動をともにした「京城白樺派」とも呼ぶべき人々であった。

小学校の教師で、彫刻家でもあった伯教は、故郷・山梨県の友人の
集めた朝鮮陶磁器に魅かれた。

また、東京帝国大教授・関野貞が紹介した朝鮮美術についての
報告書を読んで朝鮮に憧れた。

そして、1913年に朝鮮へ渡った。

本業は京城の南大門小学校訓導であった。
そこでは教師がサ−ベルを堤げていた。

三・一運動が起こる1919年まで、朝鮮における教師は、それが義務で
あった。

伯教は、さっそく李王家の博物館を訪れた。

そして、高麗青磁の美にうたれた。

骨董屋で買い求めようとしたが、高くて手が出なかった。

そうしたとき、朝鮮白磁に出会った。

骨董屋は白磁をさして、「こんな白い壷は漬物でも入れるには
よいかも知れぬが、骨董の仲間入りするものではない。」と言った。

しかし伯教は、「高麗の青磁は過去の冷たい美しさだが、この白磁は
現在の私の血に通う生きた友である。これには間違いない。

私の眼が開けたのだ、よい物を見た」と思った。

白磁に対する高い評価は、その後、柳宗悦の支持を得て、やがて一般の
物になった。

伯教は、朝鮮陶磁器の歴史を研究し、700余箇か所の窯址を調査して
著作や論文をまとめ、その美を日本人と朝鮮人に紹介した。

「釜山窯と対州窯」などは、蔑視や偏見とは無縁の愛情あふれたものであった。

敗戦後の1946年、日本へ戻るときには、それまで収集してきた約3000点
の美術品を朝鮮博物館に引き渡した。

それらの品々は今、韓国中央国立博物館に所蔵されている。

2001年、故郷の山梨県高根町に淺川伯教・巧兄弟美術館が建設された。

ところで、「日本は朝鮮で悪いこともしたが、良いこともした。
その一つは植林である」と信じている人は多い。

しかし、植林をしたのは、より多くの森林資源を収奪するためであり、

、朝鮮の山を緑にすることを目的にしたものではなかったことを忘れてはならない。

巧は、朝鮮に来た1914年以来、林業試験所で朝鮮唐松の育苗を試み、露天埋蔵法などの開発に取り組んだ。

また、伯教の影響で朝鮮の工芸の研究を始め、「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁名考」などの名著を残した。

巧は、1931年亡くなり、京城郊外の忘憂里共同墓地に葬られた。

そして、2002年今も、3万人の朝鮮の死者たちとともに、日本人として
ただ一人そこに眠っている。

墓は林業試験場の朝鮮後輩たちによって守られているのである。

それは、巧が職場の朝鮮人同僚と分け隔てなく付き合い、その子弟を援助
していたというようなことが、職場で語り継がれているからである。

「朝鮮の土となった日本人」高崎   宗司   著   1998年

http://www.gilink.co.kr/sjc2/sjcnews/society/0319.htm

Re: 日本が支配した朝鮮の実体

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/08 12:53 投稿番号: [2828 / 3669]
>お前らと議論しても時間の無駄

じゃあ、何で来るの?

>蔑視観を根底に罵倒することで自己満足している連中と議論しても

あんたはコピペしまくって自己満足してるだけじゃん。

>何も得られない

じゃあ、来るなよ。

韓国人は、そもそも出発点からして間違っている。
国を失った方が悪い。国を奪われるほうが悪い。それだけのこと。

悔しいんだろうけど、日本を恨むのは筋違いだね。
とてつもなく弱かったご先祖様を恨めよ。

孤高宣言かいな?

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/06/08 12:19 投稿番号: [2827 / 3669]
>お前らと議論しても時間の無駄

正確には、あんた、議論が「できない」だけでしょ。文章の都合のいい箇所だけを引きまくっているだけで相互矛盾してくることにも気付かない。(いや頬かむりしているだけなのかも)
ああ、それと文章書き写しにしても入力後に校正はかけてるのかい?あの体たらくじゃ司馬遼の文章も台無しだ。

>蔑視観を根底に罵倒することで自己満足している連中と議論しても
何も得られない

今いいこと言った!

他投稿者への蔑視感を根底に議論を回避し、ひたすら文章の書き写しで自己満足している輩とは、議論しても何も得られないばかりか、議論自体が成立しない。

日本が支配した朝鮮の実体

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 11:16 投稿番号: [2826 / 3669]
お前らと議論しても時間の無駄

蔑視観を根底に罵倒することで自己満足している連中と議論しても
何も得られない

Re: 植民地朝鮮の日本人 ⑥

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 09:27 投稿番号: [2825 / 3669]
排人の高浜虚子が夫人を同伴して朝鮮を旅したのは、
韓国併合の翌年、1911年であった。

高浜がそこで見たのは、横暴な日本人、あるいは賎しい日本人の姿であった。

釜山では、日本人の男が、足りない料金を請求する荷物運びの朝鮮人少年
に対して、5銭しか払わず、「もう其れ無い」と言って
「子供を突きのけるようにした」

このころ、2003年生まれの梅根悟は、大丘で石炭商・梅根商店を営む
叔父を訪ねて朝鮮へ行った。

そこでみたものは高浜が見たものよりひどいものだった。

迎えに来てくれた叔父の会社の使用人は、人力車に金を払うだんになると、
「さも汚らわしというように、金を道に投げつけた。

車夫が「足りない」と抗議すると、罵倒しながら」ひっぱたいたのである
(潮   1971年   9月号   P113)

平城新聞の記者であった中西伊之助は、藤田組の鉱山における
労働者虐待を暴露して投獄された。
そして「多くの朝鮮人と接触する機会をもち、日本支配の実情を
より底辺から認識した。

Re: 植民地朝鮮の日本人 ⑤

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 09:06 投稿番号: [2824 / 3669]
銭鎮漢が京城の本町にあった寺田商会に勤めはじめたとき、
主人は、銭より年下の山木には、「この子は、銭と呼びなさい」
と言い、銭には山木を「山木さま」と呼ぶように、と言った。

そして、夜間中学入学のために勉強をしていた銭に対して
、「朝鮮人のくせに!」と言いながら、電灯の使用を禁じた。

銭は耐えられずに店をやめた
その時銭は、「肌着1枚」で追放された。
銭が「日本打倒」を決意したのはこの日だったという

「朝鮮人のくせに」というせりふもずいぶん吐かれた

Re: 植民地朝鮮の日本人 ④

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 08:48 投稿番号: [2823 / 3669]
「朝日新聞」の京城特派員であった中野正剛は、「我が観たる満鮮」
(政教社、1915年)
で、日本の「同化政策は殆ど不可能」だと述べた。
「内地人の鮮人に対する言語の如きは、不都合千万のものにて、彼等は
如何なる朝鮮人に対するも、一律に「ヨボ」と呼び捨つるを常とす。

「ヨボ」なる語は、元来呼びかけの言語にて、決して侮蔑の言に非ざれども、
内地人の朝鮮人に対する時は、
必ず其声調に一種侮蔑的脅迫的意味を含まざるはなし。

耐して交渉の面倒となり、言語の通じ難きに至るや
内地人は必ず「ヨボ」に次ぐに、
「馬鹿」「野郎」「イヌマ(朝鮮語で「このやろう」)等の語を以てする。」

使用人に日本名をつけて呼んだり、年下の日本人店員が年上の朝鮮人店員
を呼びつけにしたり、というようなことも多かった。

読む気もしないからw

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2006/06/08 01:26 投稿番号: [2822 / 3669]
ダラダラと書き写しに膨大なエネルギーを浪費して、気を紛らわしてるってか。(笑)

ムダだな。

つうか、逃げるなって。弱虫め。

読む気もしない。

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 01:11 投稿番号: [2821 / 3669]
どうせ何を書いているか想像できるから読むきもしないよ。

植民地朝鮮の日本人 ③

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 01:08 投稿番号: [2820 / 3669]
贋金作り

  山口県で8人兄弟の末っ子として生まれた浦尾文蔵は、
裁縫と貸家をしていた姉のいる漢城へ旅立った。
漢城で1896年には「一穫千金の朝鮮人参買い入れに没頭した。
高瀬商会の代人から資金を調達し、漢城の薬屋・満岡文三郎の
家に宿泊し、日本領事館の巡査2人を帯同して買収に臨んだ
人参の売買は朝鮮政府の許可なしに行えないことになっていたから、
朝鮮の兵隊がこれを阻止しようとしたが、浦尾は「刀を抜きはなって」
強行した。

同業者のなかには「偽造契約書をつくり、すでに参価を払ったうふうに
よそおい、片っぱしから、めぼしい人参を採掘しはじめた」
人もいた。
人参畑を視察するために江原道に行ったときは、「右手にピストルを握り
左手に刀を握って」いた。

1899年1月には、三人の仲間と共謀して、贋金を作った。
大阪に行って二銭五輪の偽造白銅貨を七厘で作って朝鮮に持ち込んだ
のである。
5000円の出資で2万円近くなるはずであったが、刑事に捕まり、贋金は
没収、立ち退きを命じられた。
帰国船には、「同じような事件で同船したもの、わたしをいれて14名」
というからいかに多くの居留民が贋金をつくり、流通を混乱させたかが推測
できよう。

植民地朝鮮の日本人   P86

逃げ回ってないで。(苦笑)

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/08 01:03 投稿番号: [2819 / 3669]
こんなところにコソコソ書き込んでないで、「日韓歴史論争」トピはどうするの?
無責任だなあ。
あちこちのトピに書きなぐって、反論されればトンズラばかり。

whiterose20051ちゃんは、皆さんに論破されて、負けを認めた。
これで、いいんですね。

↓末チャンよう♪

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2006/06/08 00:33 投稿番号: [2818 / 3669]
書き写しでで膨大なエネルギーなんか使うなって。(苦笑)

そんなの、「○○っていう本の何ページに書いてある」で済むだろうが。

それに、長々と引用すると、文芸春秋社や、福田みどり未亡人がクレーム付けるぞ。

坂の上の雲 日清戦争 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 00:25 投稿番号: [2817 / 3669]
やがて日本が徳川家というただ一軒の家の権力を永久に守るために
対外関係をきりすて、鎖国をしたころ、ヨ−ロッパにあっては
30年戦争がつづいている。

以後、日本には奇蹟のような平和がつづいたが、しかしヨ−ロッパ
はそのまま戦争の歴史であり、さらに国富の増大のための植民地獲得競争
の歴史であった。

この間、ヨ−ロッパではあらゆる方面の「人智」がいよいよ発達した。

たとえば国家が君主のもちものであるという性格が変質し、君主権が
後退し、国民の国家というものにかわってゆく

とはいえあいかわらずの帝国主義はつづくが、そういう国家的利己主義も、
国際法的にも思想的にも多くの制約をうけるようになり、
いわばおとなの利己心というところまで老熟した時期、「明治日本」が
このなかまに入ってくるのである。

「明治日本」というのは、考えて見れば漫画として理解したほうが早い。
すくなくとも、列強はそうみた。
ほんの二〇余年前まで腰に大小をはさみ、東海道を二本すねで歩き、
世界中のどの国にもないまげと独特の民族衣装を身につけていたこの国民が
いまはまがりなりにも、西洋式の国会をもち、法律をもち、ドイツ式の陸軍と
イギリス式の海軍をもっている。

「猿まね」と、西洋人はわらった。
模倣を猿というならば、相互模倣によって発達したヨーロッパ各国民こそ老舗
のふるい猿であるにちがいなかったが、しかし猿仲間でも新点の猿は笑いもに
なるのであろう。

自分こそ猿ではなく、世界の中華であるとおもっている清国は清国で、日本人の
欧化をけいべつした。
もっとも日本人をけいべつしたのは、大清帝国の文明を信じ、その属邦でありつづけようとする
朝鮮であった。

朝鮮は日本に対し「倭人なるものは唾棄すべきことにおのれの風俗をすてた」
というそれだけの理由で日本を嫌悪し、日本の使節を追い返したことさえある。

明治初年の征韓論は、そういう、双方のこどもじみた感情問題が、口火となった。

いずれにしても、維新後国をあげて欧化してしまった日本と日本人は、先進各国から
みれば漫画にみえ、アジアの隣国からみれば笑止な、小面憎い存在としてしかみえず
どちらの側からも愛情や好意はもたれなかった。

しかし、当の日本人と日本人だけは、大まじめであった。
産業技術と軍事技術は、西洋よりも四百年おくれていた。

それを一挙にまねることによって、できれば、一挙に身につけ、それによって
西洋同様の富国強兵のほまれを得たいとおもった。

いや、ほまれというようなゆとりある心情ではなく、西洋を真似て西洋の力を
身につけねば、中国同様の亡国寸前の状態になるとおもっていた。

日本のこのおのれの過去をかなぐりすてたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国
の存亡が懸けられていた。

西洋が興隆したそのエネルギ−源はなにか、
と言う点では、日本の国権論者はそれが帝国主義と植民地にあるとみた。

民権論者も「自由と民権にある」とは言いつつも多くのものが帝国主義をも
あわせて認めた。

帝国主義と自由民権運動は渾然としていて西洋諸国の生命であると見、
当然ながらそれをまねようとした。

西洋の帝国主義はすでに年季を経、複雑で老獪になり、かっては強盗であったものが
商人の姿をとり、ときに変幻してヒュ−マニズムのすがたをさえ仮装するまでに
熟していたが、日本のそれは開業早々だけにひどくなまで、ぎごちなく
、欲望がむきだしで、結果として醜悪な面がある。


坂の上の雲   第2巻   P30   司馬   遼太郎著   文春文庫

植民地朝鮮の日本人 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/07 20:03 投稿番号: [2816 / 3669]
激増する在朝日本人(1905〜10)韓国保護化〜朝鮮併合

韓国が日本の保護下にあった05年から10年にかけて、
在朝日本人によって盛んにおこなわれていた悪行の一つに、高麗
の古都・開城における古墳の盗掘と、掘り出した高麗青磁の密売買があった。
それに関連して逮捕され、裁判で有罪を言い渡された人も多かった。
李亀烈「韓国文化財受難史」に紹介されている事例は10件に満たないが

それは氷山の一角に過ぎない。

なにしろ、後に開城を行脚した人が、

「彼の王陵郡のあたりに行くと、無数の墓榮があばかれて、
どの山もどの丘も一面の巣の如くに穴だらけとなっている」

と書くような状態であったのである。

「朝鮮古蹟行脚」P189   秦東書院   1930年

坂の上の雲 日清戦争 ①

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/07 19:44 投稿番号: [2815 / 3669]
日清戦争とは、なにか。
「日清戦争は、天皇制日本の帝国主義による最初の植民地獲得戦争である」
という定義が、第二次世界大戦のあと、この国のいわゆる進歩的学者たちのあいだで
相当の市民権をもって通用した。

あるいは
「朝鮮と中国に対し、長期に準備された天皇制国家の侵略政策の結末である」
ともいわれる。

というような定義があるかとおもえば、積極的に日本の立場を認めようとする
意見もある。

「清国は朝鮮を多年、属国視していた。さらに北方のロシアは、朝鮮に対し、
野心を示しつつあった。日本はこれに対し、自国の安全という立場から
朝鮮の中立を保ち、中立をたもつために朝鮮における日清の勢力均衡をはかろう
とした。が清国は暴慢であくまでも朝鮮に対するおのれの宗主権を固執しようと
したため、日本は武力に訴えてそれをみごとに排除した。」

前者にあっては日本はあくまでも奸悪な、悪のみに専念する犯罪者のすがたであり、

後者にあってはこれとうってかわり、英姿さっそうと白馬にまたがる正義の騎士のようである。

国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、
いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなく
しかもっていないか、もとうにも持ち得ない重要な欠陥が、宿命としてあるようにもおもえる。

他の科学に、悪玉か善玉かというようなわけかたはない。

例えば水素は善玉で酸素は悪玉であるというよなことはないであろう。

そういうことは絶対にないと言う場所ではじめて科学というものが成立するのだが、

ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉とわける地点から成立してゆくというところがある。

坂の上の雲   2巻   P26   司馬   遼太郎   文春文庫

ある朝鮮引き上げ日本人のことば

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/07 03:35 投稿番号: [2814 / 3669]
たしかに日本の支配下にあった朝鮮は、当時の日本にくらべて
近代化がおくれ、暗くて貧しかった。
日本が唱えた停滞論・落語論は、そういう現実の姿を基礎につくりだされたと思う。
もとより、これは大きい誤まりを犯している。
日本の支配が朝鮮の進歩を阻止したことを知ろうとしなかった点
、また先進・後進は永久不変なものでないのに朝鮮のおくれを
宿命のように考えた点は、不等な見解であった。
今朝鮮の変貌をみると、かって日本人が唱えた停滞論や落後論は
通用しなくなっている。

旗田   巍   (植民地朝鮮の日本人)

植民地朝鮮の日本人

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/06 21:12 投稿番号: [2813 / 3669]
激増する在朝日本人(1905〜10)韓国保護化〜朝鮮併合

日本人の横暴

後に詩人となる丸山薫は、05年5月、6歳で、母と一緒に漢城へ渡った。
04年に締結された第一次日韓協約に基づいて、父・丸山重俊が韓国政府に
警察顧問として送り込まれていたからである。

薫は、08年夏、小学校三年の一学期までを朝鮮ですごした。
そのころ、次のような光景をみた。
電信柱が折れて上がっていた朝鮮人が地面にたたきつけられて死んだ。

「日本人工夫がチェッと舌打ちしながら、そのからだをずるずると曳きすっていった」。

また、日本人の荷車が坂を暴走し、朝鮮婦人を電柱の間に押しつぶして悶絶させた。
荷車の男は、「倒れた婦人をそのままにして」行ってしまった。
(丸山   薫全集   第四巻   324ペ−ジ)

キリスト教伝道で朝鮮に渡った二人の牧師酷天生と上田義男とは、そろぞれこう書き残している。
「邦人の演じたる暴行は実に吾人と雖も悲憤の涙に暮れざるをえざるものあり。
所謂貸金政策なるものは、統監府設立以前に於いて我国民の彼人民に対し
て取れる常套手段にして、一ヶ月一割二割の高利を付せしめ、期限が来る時は故意に外出して之を受取らず、
後に之を口実として其土地家屋を略奪せること、其数少なからずと聞く」

金の指輪を盗んでつかったった朝鮮人を、「イキナリ裏庭に引きづり、後手に縛り、
背と手の間に玉突の「キウ」を念じこみ、拷問にかけ、遂に気絶させした」

「当事鮮人に同情するものなどはナゼ朝鮮人を贔屓する、日本人を押潰してよいのか、この非愛国者奴が!」

それが当時の在鮮日本人気分と云うも、必ずしも過言でなかった」
小川圭冶・池明観編「日韓キリスト教関係史資料」1984年

Re: ◆コリア関連書籍◆

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/06/03 08:48 投稿番号: [2812 / 3669]
他トピで宿題残したまますりかえ・遁走しておいて、議論向きでなく自然反論も少ないであろうトピを選んで攻めるとはな。
その頭脳を宿題対応に使ってほしいものだ。(嘲笑)

末チャン♪

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2006/06/03 03:59 投稿番号: [2811 / 3669]
まあ、喚く前に、相手の投稿をエヴィデンス付きで論破してからネ♪

OK?

捏造?Re: >朝鮮独立運動血史

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/03 03:41 投稿番号: [2810 / 3669]
色々な書物があります。

自分の考えと違うからといって捏造と決めつけ否定するのは
いかがなものでしょうか

朝鮮の悲劇も読みました。

李朝時代がひどい時代と強調するまえに

日本の進出により朝鮮人の人たちがどれだけ苦しみをうけ

自由が抑圧されたかみなければなりません。

朝鮮は日本の弟といいながら日本の法律は適用されず

日本の利益だけ考えた朝鮮総督令により統治されました。

裁判官・検事・弁護士はほとんど日本人であり日本軍隊が駐留・警察も

日本人   組織の上部は日本人ばかりで朝鮮人は実質高い教育を受けることもできず、組織の下部ばかり配置され   言論   結社の自由もなく
地主は日本人が多く小作人でも生活できず、海外へ400万も移住した状態に
陥ったことは何をあらわしているのでしょうか

親日派の文献は当事の朝鮮人の状態を表したものとはとても思えません。

Re: >朝鮮独立運動血史

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/03 03:12 投稿番号: [2809 / 3669]
>朝鮮独立運動血史1   朴   殷植   東洋文庫

こんな捏造本は、結構です。(大笑)
李朝末期、解放・独立後の韓国と日本統治時代を比較してみましょう。
日本統治時代は、法治主義で、日本の有能な官吏によって平和な暮らしだったことがよく分かります。

---------------------------------------------------------- -
「悲劇の朝鮮」グレブスト(スウェーデンのジャーナリスト)
併合前の李朝の処刑を描写して。
『囚人は足を縛られ、腕は両脇にしばられ少しも身動きできぬようになっていた。囚人の脚の内側に棒を挟んで、執行人たちは自分の体重のすべてを棒の片端にかけた。囚人が続けざまに吐き出す声は聞いていて実に凄絶なものだった。脚の骨が砕けつぶれる音が聞こえると同時に、その痛さを表現する声さえもはやないかのように、囚人の凄絶な悲鳴も止まった。気絶した囚人はややあって意識を取り戻した。力なく首を左右にゆすりながらうめき声を出し、その場に身を横たえている。執行人らは囚人の腕の骨と肋骨を次々と折ってから、最後に絹紐を使って首を締めて殺し、その死体をどこえやら引き摺っていった。
(中略)
とりわけ私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃するだろうという事だ。』

今村鞆著『歴史民俗朝鮮漫談』(昭和3年)には、『朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる』

ヘンダーソンは著書『韓国渦巻きの政治』のなかで、1947年半ばに南朝鮮で7000人の政治犯を含む、2万2000人が投獄されていたが、「日本時代の2倍近くに当たる」といい、また、1950年の韓国財務部の発表を引用して、全国21ヵ所にある刑務所に、5万8000人が収監されているが、「国会の調査によれば、このうち50〜80%が国家保安法違反によって捕らえれた者である」と述べている。
そして、「拷問――腎臓を殴打する、水漬け、電気ショック(「電話」と呼ばれる)、親指を縛って、身体を天井から吊るす(「飛行機」)、唐辛子を無理やりに大量に食べさせる」ことが、ひろく行なわれていた、と書いている。また、警察の腐敗が目にあまり、1948年には警察官の賄賂収入が、給料の「50倍から80倍に当たった」とも。

1945年9月10日、米駐留軍司令官ホッジ、安部朝鮮総督と会見。安部総督を米軍統制下における朝鮮政府暫定主席に指名。ホッジは「現行政府(総督府)の機構を通じて」統治すると声明。
のちの公開文書によれば、軍政部は日本総督府と日本人官僚を留任させようとしたが、本国の軍・政幹部の一致した反対により挫折。その後の数ヵ月で7万5千人の朝鮮人が政府職員として採用されるが、その資質・能力は絶望的に低かったという。

48年4月、済州島蜂起3万人虐殺。
48年11月1日、麗水反乱を指導した将校27人を含む関係者89人が、即決裁判で処刑される。
48年12月、国家保安法の成立。その後の1年で12万人が検挙。国軍の一割以上、8千人の将兵を「アカ」と認定し粛清。
48年12月、南労党指導部、人民遊撃隊の組織を指示。地方小都市を中心に3市78郡で遊撃隊が組織される。軍はパルチザン行動地域の焦土作戦。45万戸が焼かれ、400万人が家を失ったといわれる。
49年10月19日、李承晩政権、133の政党・団体にたいし一斉に強制解散を命令。
49年12月、李承晩の10月団体解散令により50万人近くが逮捕される。15万人が投獄され、刑死・獄死者は10万人におよぶ。

賃金② >朝鮮独立運動血史

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/03 02:23 投稿番号: [2808 / 3669]
総督府の官制は旧韓国政府官吏を解散し、
一部の朝鮮人のみ採用、
1.できうるかぎり朝鮮人を登用しないこと
2.やむをえない事情により朝鮮人を任用する場合は、科学技術をもつものは
必ず排除すること。
3.朝鮮人官吏には重要な地位に任用しないこと
4.朝鮮人高等官の俸給は100円に止め、判任官の履歴者が俸給30円ならば、かならず退職せしめること。
5.裁判所、検事に朝鮮人を任用しないこと
地方13道の長官のうち、朝鮮人で任用されたのはわずか5人だけであり
郡守および面長など下級地方官ははじめ朝鮮人が多用されたが、そのうち日本人で郡守、面長となる者もまた多くなってきた。
日本人官吏の俸給は、もともと朝鮮人の3倍以上が多かった。
物価が騰貴すれば、比例して増俸された。
日本人官吏の原俸(基本給)年額900円以上の者はには100分の25を加俸し
900円未満の者には100分の40を加俸し月俸20円以上の物には9円50銭を加俸
した。
しかし朝鮮人官吏の月俸20円の者には7円を加俸し、月俸10円の者には1円加俸した。

監獄には典獄と分監長がおかれ、分監長は看守長をもってこれにあてた。
各監獄あわせ典獄9人、看守長・技手・通訳など100人
典獄医17人、教戒師12人、教師6人、薬剤師10人、看守1149人、女監取締46人
の職員がいた。朝鮮人は看守長わずか4人、通訳9人だけで、典獄、分監長およびその他の職員はことごとく日本人が任命されていた。
朝鮮人は、かれらの補助者として隷族したにすぎなかった。
俸給の差はとくに甚だしかった。日本人看守には月俸15円から50円まで
で加俸(手当)は8割に達し、それに住居手当10円がついた。
女監取締は月棒10円から35円、住居手当10円が加算された。
これに対し朝鮮人看守は月俸10円から18円で
女監取締は月棒8円から15円にすぎなかった。

朝鮮独立運動血史1   朴   殷植   東洋文庫
(1920年   上海維新社   中国文で発行されたものです。併合時代は総督府の
検閲があり、朝鮮人には自由に発行できませんでした。)

賃金Re: >日本統治下の朝鮮

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/03 02:08 投稿番号: [2807 / 3669]
1929年にはストライキや小作争議がじつに多くおこっている。

いまその大きなものをあげると、4月に忠清南道公洲の丸山清涼工場の女子20名、
太田の太田資料株式会社の女子45名のストライキ、6月に平安南道鎮南浦
の新興漁業同業組合の漁夫200名が、手数料徴収反対、固定給製等を要求
してストライキ。
そして威鏡南道新興の朝鮮水力電気会社工事場の従業員200名が賃金値上げ、
作業中の負傷にたいする治療費支給、解雇の一ヶ月前予告という
近代的労働者らしい要求をかかげてストライキをやったことが注目される。

また釜山では、8月に釜山陶器、9月に慶南印刷株式会社、釜山内国通運会の
ストライキがおこっており、全体として運動の高揚期にあった。

1930年に入ると釜山紡績2000名の労働者が、
①最低賃金を日給80銭にせよ。
②8時間労働制の実施
③食事の改善
④罰金制度の撤廃
⑤少年工の夜間作業廃止
⑥負傷者への見舞金支給
⑦民族差別待遇撤廃
⑧寄宿職工の外出の自由
⑨争議団の解雇反対
等々の要求をかかげて、1月10日からストライキにはいった。
交渉中に警察が干渉してストライキ指導者逮捕した。
21日には、寄宿舎の女子従業員たちは武装警官隊の監視で全員強制就業に
狩り出され、応援の労働者も全員逮捕されて、ストライキは敗北した。

釜山紡績は従業員約2000名の工場であったが、大部分は女子労働者である。
この工場に日本人労働者もいたが、会社は日本人労働者に対しては賃金
その他で待遇をよくして労働者間の対立をつくりだしていた。

賃金にしても、朝鮮人男子は最低30銭最高70銭、女子は25銭から50銭くらいで、
機械を破損させれば罰金を課し、作業で負傷しても治療費は出していない。
これは工場法が朝鮮には施行されていないためである。

朝鮮に施行スヘキ法令に関する法律

第一条   朝鮮に於いては法律を要する事項は朝鮮総督の命令を以て之を規定することを得
第二条   前条の命令は内閣総理大臣を経て直裁を請ふへし
第三条   臨時緊急を要する場合に於いて朝鮮総督は直ちに第一条の命令を発することを得
前項の命令は発布後直ちに勅裁を請ふへし若勅裁を得さるときは朝鮮総督は直ちにその命令
の将来に向て効力なきことを公布すへし。
第四条   法律の全部又は一部を朝鮮に施行する要するものは勅令を以て之を定む

上記のように併合後の朝鮮に対して日本帝国憲法及び法律は適用されず。
司法、行政、立法三権は朝鮮総督府が持ち天皇の裁可を経て施行する
制度になっていた。
日本の内閣からは独立し天皇の裁可のみ必要とし自由に法令を作成施行することができた。

このため日本の法律が適用されたない地域だったので   外地   と呼ばれた。

山辺健太朗   日本統治下の朝鮮

京城日報Re: >新朝鮮事情

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/02 17:21 投稿番号: [2806 / 3669]
寺内総督の言論弾圧

寺内総督の武断政治については定評のあるところだが、
当事朝鮮にいた日本人記者釈尾東邦は、
「各種の取締令を乱発して之を極端に励行し、一般人民の自由を拘束して
全く軍隊に在るかの思ひあらしむるに至り、
朝鮮半島は全く軍営化されたり」(朝鮮併合史)
といっているが、まことにそのとおりであった。

そこでかれのやったことを具体的にあげてみよう。
まず第一がいっさいの政治結社を解散したことであった。
結社には一進会、大韓協会、西北学会、国民同志賛成会、国民協成会、儒生協同会
合邦賛成建議所、進歩党、政友会、平和協会、国民遊説団、国民大演説会が
あったが、一週間の残務整理猶予期間をあたえて解散させている。

つぎにいっさいの政治集会、講演会、演説会を禁止した。

新聞をやたら発売禁止としたが、たんに記事取締りだけでなく、
御用新聞以外を朝鮮から一掃しようとしたのである。

そのためにまず「大韓毎日申報」というもっとも強硬な反日新聞を、
経営者ベッセルの死後買収し、
これを改組して「京城日報」という御用新聞にしてしまった。

以来この新聞はその主幹も総督がかわるたびに替わり、総督府の補助金に
よって運営されるようになった

そのほか「セウル・プレス」という対外宣伝用の御用英字新聞をつくり、
また朝鮮人の経営する「毎日申報」を御用新聞として、
これで日本人むけ、朝鮮人むけ、対外宣伝用の
三新聞が総督府の御用新聞となったわけである。
(山辺健太朗   日本統治下の朝鮮)

Re: >新朝鮮事情

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/02 15:25 投稿番号: [2805 / 3669]
>労働者の約50%を占める日本人との賃金差別はひどく,米を入手することは極めて困難だった


大正8年の時点で朝鮮人労働者の賃金は内地人の3分の2程度だったようです。
でシナ人よりも安い。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00728513&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00728513
京城日報 1919.2.20(大正8)
大工一日二円二十銭
全鮮の労賃銀=農商工部の調査
朝鮮は情勢で昂進を続けた

大工(内)2.195円   (鮮)1.465   (支)1.773
石工(内)2.585円   (鮮)1.661   (支)1.800
木挽(内)2.294円   (鮮)1.883   (支)1.583
車夫(内)2.044円   (鮮)1.790
人夫(内)1.490円   (鮮)0.895

ついでに貼っておきます。参考になれば・・・
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00728502&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00728502
京城日報 1919.1.26(大正8)
問題となれる労働者の生活状態研究 (一・二)
平壌商業会議所 間城調査主任談

>一般物価騰貴の趨勢に伴ない労銀の昂騰を来し彼等労働者の収入は著しく増加せるを以て自然生活程度の向上を馴致し住居衣食等次第に贅沢に流れ来れるは鮮人向雑貨の売行の良好並に穀価の騰貴に拘らず栗の売行減退せる事実に徴して明瞭なり、尤も一般文化の向上は単に労働者に限らず一般に生活程度を昂むるに至れるは勿論なるが殊に労働者階級に於て其の甚だしきを見るは全く収入の激増より来る自然の帰趨と言うべし昨今結氷期に属し労働界は閑散時代にして随って収入激減し一般労働者中生活の困難を来すもの多き時期なるに拘らず右の如きもの甚だ僅少なるは一面廉売米の関係もありと雖も全く昨年来の好景気に伴う労働収入増加の反映と見るを得る也

>粟以外にトウモロコシ,ジャガイモ説が出ましたね。

あと外米も輸入していたようです。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00494350&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00494350
京城日報 1914.7.30(大正3)
満州粟と鮮米
鮮米移出増額策

Re: >新朝鮮事情

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/02 00:44 投稿番号: [2804 / 3669]
フランス人の目②
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000年9月03日 午前12時09分
メッセージ: 197 / 197
農産物増産については

「増産は,新しい農地の開拓よりは,農業技術の進歩に基づく生産性の向上という形をとって行われた。冬の気候の許すところでは二毛作によって収穫の倍増が図られた」。合理的灌漑システムの拡大,種子の改良,寄生虫や害虫の駆除にも重点がおかれた。化学肥料(国内で生産される)が教えられた。
米を日本に送りだす政策によって,朝鮮における米の消費は減少を余儀なくされ,満州や朝鮮北部で生産された粟,トウモロコシ等の雑穀や,ジャガイモにより代用されることとなった」

粟以外にトウモロコシ,ジャガイモ説が出ましたね。18世紀に日本から入ったといわれる救荒作物のサツマイモ(韓国語のコグマは「孝行芋」から来ているとも)もあったのでは。

「農産物の大部分は日本に運び去られたために,平均的な生活水準の朝鮮人は増産によってあまり利益を得なかった。特に,米の供出に関する割当はきびしく,作柄を無視して農民の自家消費分を極度に制限した。一方,都市に移住した農民たちは,工業の発展にともなって,新しいプロレタリア階級を構成したが,労働者の約50%を占める日本人との賃金差別はひどく,米を入手することは極めて困難だった」

また,日帝時代の全体的評価については

「現代の朝鮮人の目に,日本植民地時代の悪い面が,伝統と独立に対する純然たる侵害として,非常に大きく映っているのであるが,一方,別の面においては,南北朝鮮の国家経済を(解放後)著しく飛躍させるための基盤はこの時代に築かれたのであり,その成果もまた大きかった」

「日本の拡大は精神的には粗野な面が多かったが,朝鮮の人たちにとって,結果としては近代経済の基礎を固めるのに役立った」

このあたりは,日本人の口からはなかなか言えないところですね。でもこの人,ベトナムやアルジェリアについても同じようなこと言ってたりして。

>新朝鮮事情

投稿者: bosintang 投稿日時: 2006/06/02 00:43 投稿番号: [2803 / 3669]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=a2a1a53a5ja5a24xoa2bdqc0ra2a1&sid=1835396&action=m&mid=236

フランス人の目①
投稿者: bosintang (39歳/男性/在ソウル) 2000年9月03日 午前12時08分
メッセージ: 196 / 197
日帝時代について,日本人,韓国人,台湾人の見方の比較も,それはそれで意味があるけれど,まったく関係ない国の人の見方も参考になるでしょう。

そういう意味では,先に引用した『新朝鮮事情』(1985,クセジュ文庫)は興味深い。著者J・プズー・マサビュオーは,フランスの人文地理学者で,専門は集落地理。1930年生まれ,60年に来日,途中ホーチミン大学で3年間教鞭をとり,滞日25年。

まず,朝鮮の平野部における異常に高い人口密度(日本・ベトナムにも共通する)がフランス人にとっては印象的らしい。特にこの一世紀の急激な人口増加について,分析を加えている。
氏によれば,高い人口密度を実現した条件は,牧畜を拒否し,植物性食物(特に米)に依存した食性にある。人口密度の同位曲線は,灌漑のための揚水の限度を示す水位曲線と一致しているという。

「すべての条件が彼らを人口増加の方向に導いた。女性は早婚で若い農婦は多産であり,時には限界にいたるまで毎年出産を繰り返すこともあった。この驚異的な多産性は,種族の生存本能に基づくもので,極めて高い死亡率に対応するものであった。死との戦いにおいて,高い出生率は,流行病,飢餓,洪水,異常乾燥,戦争にうちかつための手段となった。物資が欠乏した時代には避妊が行われ,子供を育てることが不可能になった時期に新生児を遺棄することもあった。いずれにせよ,若さを保ちながら(死亡年齢が低かったので)人口は増加していった。
この種の人口の急増は,貧困状態と漸近的な関係にあり,生活に最小限不可欠な消費物資量の増加の度合いに常に忠実に順応するものであった」

この分析は,人口増加が食糧増産によりもたらされたことを示唆する。

「近代医学のおかげで死亡率が急速に低下した。平均寿命はなお日本と比較すると低かったが(男性32・4歳,女性34・9歳),出生率は高かったので人口は急増した。人口増加は,それまで人口密度が低く,農業,工業,鉱業の進歩の著しかった北部において顕著だった」

朝鮮において出生率はもともと高く,死亡率の低下が人口増の主因と見ているようだ。
それにしても,平均寿命が信じられないほど短い。たぶん乳幼児死亡率が高いため。ちなみに日本の平均寿命は1909〜13年に,男性44・3歳,女性44・7歳,1935〜36年に,男性46・9歳,49・9歳。本文中の朝鮮人の寿命の年度は未詳。

反日感情の遠因

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/05/30 16:51 投稿番号: [2802 / 3669]
日本による占領と近代経済の誕生
1894年から95年ぶかけて日清戦争によって朝鮮は清の保護から解放されるが、
日本は1905年にロシアを破り朝鮮半島に対して何らの拘束も受けることが
なくなったのである。
日本は長い間、大陸に渡るための橋として朝鮮半島にねらいを定めていたが、
新たにその拡張政策の最初の犠牲者にこの国を選んだのであった。

1895年依頼、幾千人もの日本人が朝鮮に入ってきた。
そして1910年に朝鮮が日本に併合され、日本の総督府がソウルに置かれると
半島の植民地化を組織的に行うために必要であった移民の数は増大していった。
そして1945年には、朝鮮半島に居住する日本人の数は70万人に達したのである。
これら日本人の職業は行政官、商人、技術者、各種の顧問、軍人、警察官であり
、国民生活のすべてを把握していった。

そしてその結果朝鮮の人たちはより低い地位へと追いやられたのである。
農業技術のめざましい進歩、工業の急激な飛躍、通商の開始は、すべて隣国である日本に利益をもたらす結果にしかならなかったのである。

日常生活に必要なものんが日本へ持ちさられ、朝鮮に持ち込まれた商品はすべて日本からであった。

このように乱暴な支配は朝鮮社会のすべての階層の激しい不満をひきおこすこととなった。
そしてまず農民たちが農業統制と推進の計画の犠牲となり、わずかばかりもっていた自主性すらおびやかされるにいたった。

1908年になると、「東洋拓殖会社」により日本人債権者に対して支払い能力のない農民の土地や
占領者によって作られた農地調査の際申告を怠った土地(公式に遊休農地・入会地と認定される)
の没収が行われた。

このようにして、朝鮮総督府は朝鮮農耕可能地の4分の一の面積を手中にしたのである。
その結果、農村の264万家族のうちの77.5%は折半小作農家へと追いやられる事となった。
わずか2.5%の地主と20%の自作小作人が自分たちの土地を保有することが出来ただけであった。

農作物の大部分は日本に運び去られていた為に、平均的な生活水準の朝鮮人は増産によりあまり利益を得るということはなかった。

特に米の供出に関する割り当てはきびしく、生産にともなう不慮の事態を無視して、農民の自家消費分を極度に制限した。

このために、1912年から1936年の間に、農民一人当りの米の年間消費量は126リットルから72リットルへと減少していると見積もられるのである。

一方都市に移住した農民たちは、工業の発展にともなって、新しいプロレタリア階級を構成したが
労働者の約50%を占める日本人との間の賃金の差別はひどく、米を入手することは極めて困難であった。

このような植民地協約に基づく植民地政策の強引な施行は、遂に民族性の侵害にとすすんだのである。

集会、結社は禁止され、報道の自由は奪われ、日本神道の儀式が強制され、その上、朝鮮語教育に
制限を加える事によって序々に日本語教育の普及が図られたのである。

その結果として、単に、自分たちの土地に執着する農民、奴隷に近い取り扱いをうける労働者ばかりでなく
領土の保全や民族文化に愛着をもつ文化人の不満もまた増大していった。

そして民族全体にわたる不満は様々な形であらわれた。
例えば、自民族の文明や言語に関する学術文的な研究会の開催、海外移住、怠業や時には反逆行為、
とりわけ1919年の大示威運動(3.1独立運動)以降は、農民運動が盛んとなり、当局は大勢の警官を動員し
その弾圧に躍起となった。

1913年から1930年の間に、警官は3人に一人の割りで朝鮮人を逮捕していた。

その後になって日本は(知識階級をなだめる目的で)いくつかの
協調政策を行ったが、朝鮮人の心に深く根づいた日本に対する憎悪を消すことはできなかった。

この感情は独立獲得後30年を経てもまだ残っていて、東京とソウル間、あるいは東京と平壌間において、
政府の係争が発生するや否やたちまちむきだしにされるのである。

J.プズ−=マサビュオ−著(フランス人文地理学者)   新朝鮮事情   白水社   より

「日東壮遊歌」

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/05/30 00:34 投稿番号: [2801 / 3669]
高島淑郎訳注   平凡社

朝鮮通信使の一員として来日した金仁謙の律文詩による紀行文。
京都や大坂、名古屋、江戸の殷賑を褒めつつも、日本を見下した部分が特に有名になってしまいましたが、そのほかにも日本人の人情を褒めていたり友誼に感動していたりするんですよね。
ただ、現在の朝鮮日報あたりの日本評価記事のように、枕詞に日本蔑視をつけてはいたりするんですが。(笑)
また、「マンガ嫌日流」で有名になった江戸時代の日本の女性のトイレ事情の元ネタもあります。

現在残っているテキストはハングル表記ですが、本来は漢文かハングル混交文であったようです。

シドニー-28話-柿の木とアンテナー2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/05/25 15:21 投稿番号: [2800 / 3669]
実習船で6ヶ月間、実習航海士で乗船しながら靴底が磨り減ってなくなるほど毎日目まぐるしかったがたまに娯楽時間に外国のカラーTV番組が取れる日は祭のようだった。当時、国には未だカラー放送が放映される前だった。アンテナの受信状態は悪く船が停泊中にも潮流や風の方向によってはよくみえないときがある。ところが鉄製ブリピングチャートを巻くと鉄棒になるがそれをTVモニターの周りにある窓の外に半分ほど出しておくと画面がよく映る。棒とTVをつなげたものでもないが不思議なことによく映るのだ。そうやって同僚たちとTVをみていたら年寄りの練習監が入ってはなぜ鉄棒を外へ出すのかと聞くのでアンテナだと答えたら“これがアンテナか?”と物凄く怒って発狂したことが思い出される。アンテナによっては必ず連結しなくてもいいとわかった。

空は柿の木の枝で切れ切れとなり、その切れた空を今度はくもの巣みたいなアンテナがもっと細かく分けているというべきか。木製の寝台に横になってアンテナを注視していたら螺旋形の針金コードに乗り回って回って体が吸収されるような感じがしてひやっとする気分になる。まるで地球のブラックホールに落ち込んで地上から永遠に消える魔の三角地帯を眺めているというべきか。日暮れで空はやや暗くなり月光に反射されたアンテナコードだけその輪郭を残した状態で横になりぼーっと見つめていてたら今度はアンテナを中心に寝台がくるくる回るような感じがしてめまいがする。

いきなり雷魚が水で遊んでるような音がどぶんどぶん聴こえてきて我に返ったら隣の家の塀の下で浴槽で入浴中の子供の遊びだとわかった。幻の旅へ立発つとうとしたが現実に戻ってきたのだ。その後も長い年月が経ったあと、電気が入り、TVが普及し、新聞も発行と同時に手に入れられるようになったのでラジオは聞くこともなく、アンテナも消えてしまった。もしかしてあのアンテナは当時、文明と隔離された地点から覚めた世界へ出ようとした潜在的な欲望を充足させる象徴物として俺に近づいたのではないだろうか。

シドニー-28話-柿の木とアンテナー1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/05/25 15:20 投稿番号: [2799 / 3669]
シティにあるアジアン食品店の籠の中に風雅にみえる真っ赤の紅柿をみていたら故郷の紅柿への思い出がフラッシュ・バックしてしかたがない。

筆者の故郷は都市から市外バスで2時間ほど砂利道をがたがた走っては疲れた果てに至る田舎の裾の末である。夏休みを迎え田舎へ降りていくと番小屋でスイカを食べ川端で魚を捕るのが楽しみだった。蒸し暑さに茂る緑陰の中に隠れていたせみはミーンミーンと合唱し真夏を謳歌してはおのずから疲れ、静かになると縁側に伏せて本を読んでいた従弟も午睡に勝てなく昼ねに落ちたりした季節が通り過ぎ、朝夕冷たい風がそよそよ吹いてきてかなり寒気を感じ始める初秋の夕暮れ。前の庭においてある木製寝台に横たわり空を見つめてたら秋のそらはあちこちごじゃごじゃ柿の木の枝に切れ切れになり奇異な気分を感じた記憶がある。

柿木の谷という村が他にあるかは知らないもののこの村こそ柿の木がありふれていて一軒屋に3−4本は普通で塀を越えて人道まで枝が伸びて秋の紅柿が熟れる頃には道を歩いてたら頭が柿洗礼をうけないとも断言できないほどだ。取ってとって残ったものは道やどこにも落ちて足に踏まれるほどになると秋もよく熟れてそろそろ越冬準備をはじめる頃になる。都会では季節じゃないならお金をいくら出しても買えない果物で、よく熟れた紅柿を食べ続けたらもう飽きて食事も省くこともあるが、そういう紅柿が足に踏まれるくらいになると状況は全く変ってくる。みるだけでも嫌になり、近づくのも嫌になる。

ところでこういう紅柿の独特な処分方を偶然に発見した。田舎では収穫を終えて胚の落ちた米を集めて蒸し餅を作っておくのだが、黄色い小豆粉がついた四角の餅の上に紅柿を塗って食べると珍味だった。一種のジャムというか。真冬の間食で凄く人気があった。一方、紅柿になる前、硬くよく熟れたものだけ選んで皮をナイフで抜いてそのまま乾かすと串柿になる。小学校のとき、田舎ではじめて対面した串柿を味わってはこんなに甘く美味い食べ物があると知ると同時に串柿マニアになった。乾燥台に将棋の碁盤の目のように並べられている串柿を未だ完全に乾燥してないものを通り過ぎるたび一つづつ食べていたらすぐばれて文句をいわれる。

その当時、村には電気もなく夜がとても長い時間だった。日が暮れると石油灯に火をつけるのだが都会で明るい電気灯に慣れた目には石油灯では暗くて本が読めない。TVはさておきトランジスターラジオは背中に大きなバッテリを負ぶって、アンテナを高空につけて電波受信状態がよかったらやっと放送が聴こえる。そういうわけで柿の木の枝の先にアンテナをつけたそうだ。針金のコードをくもの巣のように放射線状に張り、後ろに十字架をつけてつくったのがアンテナなのだ。そのアンテナを柿の木のてっぺんにつけといたら妙なアンサンブルを演出する。

明治天皇の裁可Re: 併合の決定は

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/05/25 13:13 投稿番号: [2798 / 3669]
明治天皇が裁可しているのだから
伊藤の反対があっても合併は進んだ
裁可がおりてから伊藤が反対したようすはありません。
時の大韓帝国の大臣や高官   まして国王高宗も反対した
日韓協約を朝鮮宮中に日本兵をいれ宮中の門前で軍事演習を
行って反対する大臣を半ば脅迫する形で賛成させ日韓協約を締結させた
伊藤が暗殺されるのは当然ですよ。
しかもこの条約には国王高宗の玉印がありません。
国王は玉印しないことによって抵抗をしめした。
だから伊藤がむりやり退位させた。

李人稙の活動Re: 併合の決定は

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/05/25 12:59 投稿番号: [2797 / 3669]
下記サイトにも併合の閣議決定は1909年7月とあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9F%93%E4%BD%B5%E5%90%88#.E6.99.82.E4.BB.A3.E8.83.8C.E6.99.AF. E3.81.A8.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.83.BB.E6.9 C.9D.E9.AE.AE.E3.81.AE.E4.B8.96.E8.AB.96

>この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。

いつごろ日本側のだれと通じて活動され桂、山県、伊藤などにどのような
影響をあたえているのか   資料を提示してください。

Re: 併合の決定は

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/05/25 09:51 投稿番号: [2796 / 3669]
屁理屈は通用しない。朝鮮側も併合を望んでいたことは事実。日韓併合は国際的には合法であり、何人も非難できぬ歴史的事実。


【噴水台】韓日合邦の魚

「網も張る前に魚が飛び込んできた」−−。

1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、当時の統監府外事局長、小松緑だった。心痛い証言だ。

それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。

この経路を振り返るに当たって、まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。

これを理由に、李完用は、いつまでたっても韓国の逆賊と言われ続けるのか。

1979年にひ孫の手で墓を廃棄されたことも、当然とされるべき人物なのか。しかし、真実は小学校の教科書のように簡単でない。その中にある「複雑な真実」を明らかにしてくれたのが、尹?漢(ユン・ドクハン)著『李完用評伝』(中心、1999)だ。同書は次のように問いかける。

「我々は、余りにもたやすく売国奴像を作り上げ、批判してきた。反面教師としての李完用研究も、全部で論文が4本出たに過ぎなかった。そのような中で我々は、李完用という人物に隠された自分らの姿から、わざと顔を背けてきた。」

まず、李完用は「生まれつきの親日派」と見なすことはできない。彼は、1882年文科に及第し、士大夫官僚として出発した。

開化期の初のランゲージ・スクールである育英(ユクヨン)公院で英語を学び、駐米代理公使(1888年)として2年間勤務した。また、尹致昊(ユン・チホ)・兪吉濬(ユ・キルジュン)と共に、英語に長けた3、4人のうちの一人だった彼は、当初親米派として知られていた。その後、駐日公使の発令(1894年)に対し、彼は母親の喪を理由に強く辞すこともあった。

「盲目的な親日派」だった宋秉?(ソン・ビョンジュン) とは違い、彼は死ぬまで日本語を話せなかった。彼に関する知られざる話はまだある。初代委員長(1896)として独立協会を主導した2つの顔の人物が彼だ。学界は沈黙しているが、独立門に掲げられた扁額も彼の手によるものだという説が有力だ。

実際、徐載弼(ソ・ジェピル)の「独立新聞」には、李完用への批判が1行たりともない。

我々がこれまで顔を背けてきた李完用の姿は、その他にも多い。だとすれば、乙巳(ウルサ)条約以後、広い視野の外交通から売国の親日派へと大転落した李完用をどのように解釈すればいいのだろう。

あたふたとして正当な判断をせぬまま、うやむやにされてしまった近代史の総体的象徴といえるのではないだろうか。このことを忘れてしまうから、最近の政界でも、あまりにもたやすく親日派のレッテルを貼られることになる。

そうした後、何とも簡単に忘れてしまう。それは醜態以外のなにものでもない。親日派とは、人に対する悪口でなく「我々」を映す恐ろしい鏡なのだ。

さらに「歴史の網」は、その姿を変え、我々の前に幾重にも張られているのではないか。複雑な心境だ。

趙佑石(チョ・ウャbク)文化部出版チーム長 <wowow@joongang.co.jp



http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=18651&servcode=100&code=100

併合の決定は

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/05/25 05:58 投稿番号: [2795 / 3669]
併合の決定は一進会が合併を主張する前に閣議決定され明治天皇の裁可も
おりており伊藤博文が暗殺されるまえに併合は決まっていた。
だから伊藤が暗殺されて併合が進んだというのは間違い
1905年7月27日桂伯爵とアメリカ陸軍長官タフトとの会談で朝鮮を日本が宗主国となることをアメリカに求めアメリカは了承した。
この結果日本は併合へと動き出します。
1909年7月6日閣議決定   同日明治天皇裁可
倉知鉄吉(前外務次官)の覚書(1913年に書かれたもの)より
「自分は韓国が全然廃城に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにすると同時に、其語調の余りにかげきならざる文字を選ばんと欲し,種々苦慮したるも遂に適当の文字を発見すること能はず、因で当時未だ一般にもちいられ居
らざる文字を選ぶ方得策と認め、併合なる文字を前期文書に用いたり。」
「併合の方法順序等の細目を小村外相より起訴案の立案を命ぜられ自分の考えも付加して外相の考慮を請い、更に外相の意見に依り基礎案を作れり。
外相はこの基礎案を桂首相、伊藤博文にも提出
伊藤博文は「否細まい方のことなり」といいたる
この後伊藤は満州へ行き暗殺されるから
暗殺が原因で併合したというのは間違いです。
桂首相、山県有朋、小村外相などにより併合計画はすすめられていた。
だから反対派の伊藤が暗殺されたのはかえって都合がよかったかも
一進会の合併発表は1909年12月4日
だから併合の閣議決定、明治天皇の裁可の後に一進会の合併発表がされているから朝鮮人が併合を言い出し併合したとの説は間違いです。
山辺   健太朗著(岩波新書)「日韓併合小史」より

マスコミに訴えよう!三越竹島を独島と表記

投稿者: tutomu1259 投稿日時: 2006/05/20 19:59 投稿番号: [2794 / 3669]
http://f48.aaa.livedoor.jp/~charge/matome/5.html

日本国民の敵=三越!!

日本の領土を朝鮮に売った!!


マスコミよ立ちあがれ!!

このテロ行為をもっと大々的に取り上げるべきだ!!

もしも他国なら営業停止になってるだろ!!

国賊=三越

卑劣な売国企業を絶対に許してはならない
!!

日本の主権に関わる大問題だ!!

イルボヌン・オプタ

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2006/05/20 15:36 投稿番号: [2793 / 3669]
「日本はない」は、古本屋でめっけたので買いました。
「おまい、本当に日本に住んどったんか?」と聞きたくなるような内容でしたが、
あとで知ったんですけど、盗作だそうで。オリジナルも発売されたそうですが、
そっちはまだ見たことがありません。
あれ、日本でも翻訳されたんですよねぇ。(「オリジ」は「盗作」かは不明ですが)
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