Re: 植民地朝鮮の日本人 ⑦
投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/08 18:05 投稿番号: [2829 / 3669]
京城白樺派
日本人の多くは朝鮮および朝鮮人を食い物に
するために朝鮮へ渡った。
しかし、ごく少数ではあるが、朝鮮および朝鮮人を理解するために
朝鮮へ渡った人もいた。
淺川 伯教・巧兄弟らは後者にぞくする稀有な日本人であった。
彼らは白樺派のメンバ−ではなかったが、柳宗悦を通じて白樺派と
言動をともにした「京城白樺派」とも呼ぶべき人々であった。
小学校の教師で、彫刻家でもあった伯教は、故郷・山梨県の友人の
集めた朝鮮陶磁器に魅かれた。
また、東京帝国大教授・関野貞が紹介した朝鮮美術についての
報告書を読んで朝鮮に憧れた。
そして、1913年に朝鮮へ渡った。
本業は京城の南大門小学校訓導であった。
そこでは教師がサ−ベルを堤げていた。
三・一運動が起こる1919年まで、朝鮮における教師は、それが義務で
あった。
伯教は、さっそく李王家の博物館を訪れた。
そして、高麗青磁の美にうたれた。
骨董屋で買い求めようとしたが、高くて手が出なかった。
そうしたとき、朝鮮白磁に出会った。
骨董屋は白磁をさして、「こんな白い壷は漬物でも入れるには
よいかも知れぬが、骨董の仲間入りするものではない。」と言った。
しかし伯教は、「高麗の青磁は過去の冷たい美しさだが、この白磁は
現在の私の血に通う生きた友である。これには間違いない。
私の眼が開けたのだ、よい物を見た」と思った。
白磁に対する高い評価は、その後、柳宗悦の支持を得て、やがて一般の
物になった。
伯教は、朝鮮陶磁器の歴史を研究し、700余箇か所の窯址を調査して
著作や論文をまとめ、その美を日本人と朝鮮人に紹介した。
「釜山窯と対州窯」などは、蔑視や偏見とは無縁の愛情あふれたものであった。
敗戦後の1946年、日本へ戻るときには、それまで収集してきた約3000点
の美術品を朝鮮博物館に引き渡した。
それらの品々は今、韓国中央国立博物館に所蔵されている。
2001年、故郷の山梨県高根町に淺川伯教・巧兄弟美術館が建設された。
ところで、「日本は朝鮮で悪いこともしたが、良いこともした。
その一つは植林である」と信じている人は多い。
しかし、植林をしたのは、より多くの森林資源を収奪するためであり、
、朝鮮の山を緑にすることを目的にしたものではなかったことを忘れてはならない。
巧は、朝鮮に来た1914年以来、林業試験所で朝鮮唐松の育苗を試み、露天埋蔵法などの開発に取り組んだ。
また、伯教の影響で朝鮮の工芸の研究を始め、「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁名考」などの名著を残した。
巧は、1931年亡くなり、京城郊外の忘憂里共同墓地に葬られた。
そして、2002年今も、3万人の朝鮮の死者たちとともに、日本人として
ただ一人そこに眠っている。
墓は林業試験場の朝鮮後輩たちによって守られているのである。
それは、巧が職場の朝鮮人同僚と分け隔てなく付き合い、その子弟を援助
していたというようなことが、職場で語り継がれているからである。
「朝鮮の土となった日本人」高崎 宗司 著 1998年
http://www.gilink.co.kr/sjc2/sjcnews/society/0319.htm
日本人の多くは朝鮮および朝鮮人を食い物に
するために朝鮮へ渡った。
しかし、ごく少数ではあるが、朝鮮および朝鮮人を理解するために
朝鮮へ渡った人もいた。
淺川 伯教・巧兄弟らは後者にぞくする稀有な日本人であった。
彼らは白樺派のメンバ−ではなかったが、柳宗悦を通じて白樺派と
言動をともにした「京城白樺派」とも呼ぶべき人々であった。
小学校の教師で、彫刻家でもあった伯教は、故郷・山梨県の友人の
集めた朝鮮陶磁器に魅かれた。
また、東京帝国大教授・関野貞が紹介した朝鮮美術についての
報告書を読んで朝鮮に憧れた。
そして、1913年に朝鮮へ渡った。
本業は京城の南大門小学校訓導であった。
そこでは教師がサ−ベルを堤げていた。
三・一運動が起こる1919年まで、朝鮮における教師は、それが義務で
あった。
伯教は、さっそく李王家の博物館を訪れた。
そして、高麗青磁の美にうたれた。
骨董屋で買い求めようとしたが、高くて手が出なかった。
そうしたとき、朝鮮白磁に出会った。
骨董屋は白磁をさして、「こんな白い壷は漬物でも入れるには
よいかも知れぬが、骨董の仲間入りするものではない。」と言った。
しかし伯教は、「高麗の青磁は過去の冷たい美しさだが、この白磁は
現在の私の血に通う生きた友である。これには間違いない。
私の眼が開けたのだ、よい物を見た」と思った。
白磁に対する高い評価は、その後、柳宗悦の支持を得て、やがて一般の
物になった。
伯教は、朝鮮陶磁器の歴史を研究し、700余箇か所の窯址を調査して
著作や論文をまとめ、その美を日本人と朝鮮人に紹介した。
「釜山窯と対州窯」などは、蔑視や偏見とは無縁の愛情あふれたものであった。
敗戦後の1946年、日本へ戻るときには、それまで収集してきた約3000点
の美術品を朝鮮博物館に引き渡した。
それらの品々は今、韓国中央国立博物館に所蔵されている。
2001年、故郷の山梨県高根町に淺川伯教・巧兄弟美術館が建設された。
ところで、「日本は朝鮮で悪いこともしたが、良いこともした。
その一つは植林である」と信じている人は多い。
しかし、植林をしたのは、より多くの森林資源を収奪するためであり、
、朝鮮の山を緑にすることを目的にしたものではなかったことを忘れてはならない。
巧は、朝鮮に来た1914年以来、林業試験所で朝鮮唐松の育苗を試み、露天埋蔵法などの開発に取り組んだ。
また、伯教の影響で朝鮮の工芸の研究を始め、「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁名考」などの名著を残した。
巧は、1931年亡くなり、京城郊外の忘憂里共同墓地に葬られた。
そして、2002年今も、3万人の朝鮮の死者たちとともに、日本人として
ただ一人そこに眠っている。
墓は林業試験場の朝鮮後輩たちによって守られているのである。
それは、巧が職場の朝鮮人同僚と分け隔てなく付き合い、その子弟を援助
していたというようなことが、職場で語り継がれているからである。
「朝鮮の土となった日本人」高崎 宗司 著 1998年
http://www.gilink.co.kr/sjc2/sjcnews/society/0319.htm
これは メッセージ 2825 (whiterose20051 さん)への返信です.
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