入って中国人に南京事件真相議論しましょう
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Re: 南京などで残虐行為が多発した背景(3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 23:03 投稿番号: [1080 / 2250]
>南京の東南方の鎮江との
間の所で一万余の捕虜があつたのだけれども、
そんなのは無論
追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、
又捕虜となつても逃亡する者もあるし、始末が付かぬものだから
シヤーシヤーと
射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。
それから問題になつたのだ。
(吉田裕『南京事件と国際法』より)<
鎮江は南京の東南方ではない。東で少し北にある。
川には、12日夜、中国軍が下関から脱出しようとして、
少ない小舟やイカダに大勢が乗ろうとし、
顛覆・同士討ちで大量の死体が流れた。
それを13日に佐々木隊や遡航する海軍が撃って戦果にした。
揚子江を流れる死体は中国軍が同士討ちでやったもの。
提示の話は内容からすると幕府山のようにも見える。
具体的地名を言わないところを見ると伝聞を組み合わせているかも。
>派遣軍司令部の情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせに対して、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していた
という証言がある。
これは、当時少佐で方面軍司令の専属副官であった人物の証言だ。
角良晴証言で
「ヤツチマエ」
は長勇か?
《 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。》
17日は入城式
方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
南京への移動と式典の準備で忙しい。かつ
第 6 師団はこのとき下関にはいない。
第 6 師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、第 6 師団は第十軍所属で、
長勇は上海派遣軍の参謀。
方面軍の参謀ではない。組織表では兼ねていない。
上海派遣軍は南京にいたが、方面軍は湯水鎮にいた。
第 6 師団が上海派遣軍の参謀
「長勇」
にお伺いを立てる事はありえないし、
長勇も第 6 師団に命令は出来ない。
この問題は、「1028
角良晴証言の間違い指摘」に書いておいたよ。
これは メッセージ 1070 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1080.html
Re: 南京などで残虐行為が多発した背景(1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 22:54 投稿番号: [1079 / 2250]
>日本軍が起こした
戦争を、『植民地解放を目指した聖戦』として美化したい者にとって
この戦争は中国が起こしたのであって、日本軍ではない。
中国が戦争を仕掛けてやめないから、南京まで行かざるをえなくなった。
植民地解放など、この時点では考えていない。
誤まった認識をもとに組み立てられた理論は無意味。
>過去の事実を
真摯に受け止め、原因と経緯を究明し、教訓とすること
そう、そうしなければならない。
妄想で、歴史を組み立ててはならない。
南京事件や慰安婦問題などの
歴史の事実に向き合うことを恐れ、
怪しい記録や証言などを
すべて「真実」と信じ、
贖罪の大義名分だけを
拠所にして
旧日本軍を醜悪化することが、
真に正義を愛する者の言動である
とは言えない、と思う。
>
一、現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ
具体的事項ヲ
悉ク適用シテ行動スルコトハ
適当ナラズ
こういう、悪意の解釈が、過去の事実を
真摯に受け止めることを妨げる。
米国に、戦争と取られると、中立法を発動されて、
日本への輸出を止められるから、言葉に注意しただけ。
>先に戦争を仕掛けたのが日本だと悟られないよう
妄想も甚だしいな。
じゃ、何で日本の方から停戦や和平をもちかけている。
中国は、どんな、有利な条件でも、拒否している。
>投降した多数の中国人捕虜に対して、国際法に基づいた処遇は不要。
したがって、収監したり
護送したりする
手間は
要らなかった。
上海にも、南京にも、捕虜収容所はあったけど。
妄想で理論を組み立てているものには、事実は見えない。
これは メッセージ 1068 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 22:49 投稿番号: [1078 / 2250]
なんだ、石射猪太郎の書いたものか、
てっきり、外国の外交官の事かと思った。
こいつの言う事は信用しない。
こいつは、通州虐殺事件の直後、大幅に譲歩した和平案をつくった。
これなら、中国も応じるだろうと、近衛首相も軍も飛びついた。
で、上海で和平会談を設定したら、
中国は海軍の大山中尉を虐殺し、上海を包囲して攻撃をはじめた。
普通なら、自分の善意をコケにされたのだから、中国を憎むべきに、
こいつは海軍を憎んでいるようだ。
中国の悪から目を背けている。
こんな奴の言うこと信用できるわけないだろう。
信用できるのは、上海以前の話だけ。
第一、こいつ、南京に行ってないだろう。
全ては、上海から来る、怪しげな情報をもとにしている。
《 13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告》
南京は長い事停電しているのだか、どうやって電信したのかな。
方法としては、海軍の軍艦から打つ方法があるが、軍に都合の悪い電信をうたせるかな。
ラーベ達も日本領事館を通じて、問題を上海に打電しようとしたが、断られたという。
仕方なく、彼らは、英国の軍艦から打電した。
ラーベ達と似た内容を領事館員が打電しようとして、軍がさせると思うかね。
させないだろう、普通。
軍がそんな悪者なら。
させるなら、ラーベ達にだってさせるだろう。
あー、だから、危険な目に遭ったと言うのか。なるほど。
でも、軍が軍の悪口を電信させたのなら、そんな悪者じゃないって事で、
酷い目に遭わない事になるけど。
どっちだろうね。
その前に、この電信、いつの電信?
《 一九三八(昭和13)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。》
この時南京は電気がついたり消えたり。
ラーベによると13日でも電話、電報は使えないとのこと。
上海からだから、中国側の宣伝が東京に報告されたかもね。
そして、石射猪太郎は信じた。
「嗚呼これが皇軍か」
「私は
その当時からこの事件を
南京アトロシティーズと呼びならわしていた。」
まー、日本人は基本的に善人だから、こういう話を簡単に信じてしまうんだよね。
疑いもせず。
疑うと、人間性を疑われるからね。
これは メッセージ 1059 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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残虐行為の多発と慰安所増設の関係(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:43 投稿番号: [1077 / 2250]
売春は、本来
公序良俗に反する「醜業」
であり、少なくとも
近代国家が
自ら推奨・普及できるような
生業では
なかった。
しかし、中国との戦争が
本格化するや、その関係は
一変する。
いまや
出征将兵の“性欲処理労働”に
従事する女性たちが
軍紀と衛生の維持のため
必須の存在と目され、性的労働力は
広義の軍要員(あるいは「軍需品」と言うべきもの)
となった。
それを軍に供給する売春業者は
軍の御用商人
となった。
国家が
民間で行われている
性産業・風俗営業を
公認し、
これを警察的に規制することと、国家自らが、皇軍兵士のために
性欲処理施設を設置し、それを
業者に委託経営させることとは、
国家と性産業との関係において
まったく
別の事柄なのだ。
軍慰安所とは
将兵の性欲を処理させるために
軍が設置した
「兵站付属施設」
であったことは、すでに記述したとおりだ。
この事実を
裏付けるものとして、1937年9月29日制定の
陸達第48号「野戦酒保規程改正」
という
陸軍の規則がある。
これは、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての
規程であり、その第1条は、次のとおり
定めている。
第一条
野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ
従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ
販売スルヲ目的トス
野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得
規程の但し書きに、「慰安施設」
とある。
じつは、この規程は
改正されたものであり、改正前の規程には
「第一条
野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確
且廉価ニ販売スルヲ目的トス」
という
規定しかなかった。
1937年の改正により、酒保において
物品販売だけでなく、
「慰安施設」を
付属させることが可能になった
ということだ。
慰安所は、「野戦酒保に付設された」施設だった
と断定できる。
酒保そのものは、明治時代から
軍隊内務書に
規定されている
れっきとした
軍の組織であり、野戦酒保も
軍制令規によって
規定されている
軍の後方施設に
まちがいない。
当然、それに付設される
「慰安施設」も、軍の
後方施設だ。
もちろん、上記の野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、
軍慰安所のような性欲処理施設を
直接には
指していない。
しかし、占領地で
軍慰安所が
軍の手によって設置された時、
当事者は
それを
「慰安施設」
と見なしていたことが、
別の史料で
確認できる。
先に引用した上海派遣軍司令部参謀の日記を
念のために再掲する。
海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』)
「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
(37年12月11日、同19日)
同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』)
「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(同28日)
これらの記述から、上海派遣軍に設置された
「慰安施設」は、
「女郎屋」であり、「南京慰安所」
と呼ばれたことがわかる。
上海派遣軍第101師団の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記)
に記述された下記の言葉の意味も、より
納得できるだろう。
「1月8日
夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し――」
これは メッセージ 1076 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1077.html
残虐行為の多発と慰安所増設の関係(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:42 投稿番号: [1076 / 2250]
すでに記述したとおり、慰安所が
軍の関与によって、各地に
設置された理由は
「強盗、強姦等
極メテ悪質ナルモノ多発シ」
たことで、中国人の敵愾心をかきたてることが懸念されたこと、
さらに
戦力低下が懸念されるほど性病患者が増加したことで
「慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス」
という観点にあった。
「性的慰安所ヨリ受クル
兵ノ精神的影響ハ
最モ率直深刻
ニシテ、之ガ
指導監督ノ適否ハ
志気ノ振興、軍紀ノ維持、
犯罪及性病ノ予防ニ影響スル所大ナルヲ
思ハザルベカラズ」
兵士の強姦などの犯罪行為や性病拡大を防ぐ
唯一の方策が、
「性的慰安所」増設なのだから、近代軍としては
お粗末だ。
仮に、百歩譲って
慰安婦調達に
軍は関与しなかったとして、
民間業者が
かってに「従事者」を
募集したのだ
としても
慰安所施設の運営・管理にあたっては、「之ガ指導監督ノ適否」
の重要性にかんがみて、軍が
直接関与していたはずであり、
それは、当時の軍医や憲兵などの記録からも証明されている。
運営・管理という点で、とくに問題なのは
慰安婦の年齢だ。
軍と契約関係にあった
ある業者による
募集の年齢要件は
16才から30才
というものだった。
この条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」
と定めた
娼妓取締規則に違反し、また満17才未満の娼妓稼業を禁じた
朝鮮や台湾の
貸座敷娼妓取締規則にも
抵触していた。
さらに、満21才未満の女性に
売春をさせることを禁じた
「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)
とも
まったく
相容れないものだった。
慰安婦の募集活動は、当時の法律でも
明らかに
違法だった。
この契約条件が、軍において
承認されたものなのか
どうか、
残念ながら、明確に判断できる資料は
まだ確認できていない。
しかし、こうした状況からも
分かるとおり、軍の慰安所政策は
一般の売春や娼妓稼業とも異なり、違法性が高く、女性の人権を
軽視した制度であったことは
まちがいない。
戦前の公娼制度を引き合いに出して、従軍慰安婦問題を適正な
ものであったとする論も
散見されるが、それは
正しくない。
たしかに
当時、公娼制度のもと、国は
売春業を容認したが、
それは
建て前としては、あくまでも
陋習になずむ無知なる
人民を哀れんでのことであり、売春は
道徳的に恥ずべき行為
=「醜業」であり、娼婦は
「醜業婦」
にすぎなかった。
国家にとっては
営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう
厳重な規制を施し、そこから税金を取り立てるべき生業だった。
しかし、1937年末頃からとられた
軍・警察の措置により、
国家と性の関係に
一つの転換が
生じた。
軍が
軍隊における「性欲処理施設」を制度化したことにより、
政府自らが「醜業」
とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、
人道にもとる行為に、直接
手を染めることになったからだ。
これは メッセージ 1075 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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残虐行為の多発と慰安所増設の関係(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:40 投稿番号: [1075 / 2250]
慰安所設置に
日本軍が直接関与したことを示す資料は数多い。
そのすべてを
書き出すことは困難であり、その
ごく一部を
抜粋して
引用しかないことを、理解してほしい。
【上村利通上海派遣軍参謀副長の日記】
1937年12月28日
「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
【在上海総領事館警察の報告書】
1937年12月末の職業統計に
「陸軍慰安所」の項目あり
【常州駐屯独立攻城重砲兵第2大隊長の報告書】
1938年1月20日付
「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの
二カ所あり」
また、元陸軍軍医
麻生徹男の手記によれば、1938年2月
の時点には、上海郊外の楊家宅に『兵站司令部』が『管轄』する
『軍経営の陸軍慰安所』が
開設されていた、と記録している。
また、同年1月に
軍の命令を受け、奥地へ進出する
女性
(朝鮮人80名、日本人20名余)の梅毒検査を上海で実施した
という記録も
残されている。
さらに、在上海総領事館警察署発、長崎県水上警察署宛の
「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」
(1937年12月21日付) という資料が
残されている。
それには、次のように
記述されている。
本件ニ関シ前線各地ニ於ケル
皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ
慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室
憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ
前線各地ニ
軍慰安所
(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に関して
上海の軍と
領事館が、深く
関与したことを
示す公文書だ。
文書から判るとおり、1937年の12月中旬に上海の総領事館
(総領事は岡本季正)と陸軍武官室、憲兵隊の
三者間において
協議がおこなわれ、その結果、前線に
慰安所を設置することが
決定されたこと、さらに
その運用に関して
三者間における
任務分担の協定が
結ばれたことが
明確に記されている。
軍幹部の日記や、こうした
公文書の記録などを
総合すれば、
1937年の
遅くとも
12月中旬には
華中の日本陸軍を
統括する中支那方面軍司令部レベルで
慰安所設置が決定され、
その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に
慰安所開設の
指示が出された
ということになる。
それを受けて
各軍で
慰安所の開設準備が進められるとともに、
関係諸機関が協議して
任務分担を定め、総領事館は
慰安所の
営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)
及び
そこで働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)
の身許確認と
営業許可、渡航上の便宜取り計らった
ということがわかる。
さらに、総領事館は
業務を円滑に行うため、内地・植民地の
関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は
営業主と従業女性の
前線慰安所までの輸送手配と保護取締、
そして
特務機関が
慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査及び従業女性の
性病検査の手配をすることが定められたことが
理解できる。
これは メッセージ 1074 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1075.html
残虐行為の多発と慰安所増設の関係(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:40 投稿番号: [1074 / 2250]
陸軍省が、開戦2年間の中国戦での事例をまとめて作成した
「軍紀振作対策」
では、次のように
記述されている。
在郷軍人ニ対スル教育指導ニ就テ
今次事変勃発後二ヶ年間ニ発生セル在支全軍ノ犯罪ヲ
役種別ニ
就テ調査スルニ
予備役四六三
後備役六一四
補充兵役二八五
現役三一二
ニシテ応召者ニ極メテ多ク又応召者ノ犯セシ罪質ハ
軍成立ノ根元ニ触ルル対上官犯或ハ聖戦完遂ヲ妨害スベキ
掠奪、
強盗、強姦等
極メテ悪質ナルモノ多発シアリ。
此ニ依リテ観ルモ軍紀振作上
在郷軍人ノ教育指導ニハ格別ナル
配慮ヲ要スルモノト思料セラル。
(陸密第1955号「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」)
日本兵、特に
予備役や後備役の応召者に
犯罪行為が多く、
掠奪や強姦など「極めて悪質な」ものが多発しているとしている。
さらに、この陸軍省策定の
「軍紀振作対策」
には、
「主トシテ事変地ニ於テ
著意スベキ事項」
として、
次のような
慰安施設にかんする事項が、記述されている。
事変地ニ於テハ環境ヲ整理シ慰安施設ニ関シ周到ナル注意ヲ
払ヒ、殺伐ナル感情及劣情ヲ緩和抑制スルコトニ留意ヲ要ス
環境ガ軍人ノ心理延イテハ軍紀ノ振作ニ影響アルハ
贅言ヲ
要セザル所ナリ。
故ニ兵営ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ、
慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス。
特ニ性的慰安所ヨリ受クル
兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻
ニシテ、之ガ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、
犯罪及性病ノ予防ニ影響スル所大ナルヲ思ハザルベカラズ
性的慰安所に対する指導監督の適否が、志気の振興、軍紀の維持、
そして
犯罪及び性病の予防に
大きくかかわる、という指摘だ。
南京攻略にあたって、日本軍兵士による
中国人女性に対する
おびただしい数の
強姦、殺人が発生した事実は、日本軍自身が
認めており、これが
相手国の敵愾心をかきたてることを危惧し、
また、性病の大量発生が
戦力を低下させるほど増加したことで、
戦争遂行に有害である
と認識したのだ。
その対策が、慰安婦動員と
慰安施設整備、指導監督の強化だった。
このことに、当時の
日本軍の特質を
見ることができる。
翌年の武漢攻略戦のさいには、兵站の一部のような形で
慰安婦を同行させたと
軍司令官が語っている。
軍が組織的に慰安所を設けることは、たちまち全戦線に広がった。
そのため必要となった大量の慰安婦は、内地ばかりでなく、朝鮮、
台湾などの植民地、さらに
占領地からも、「現地調達」
された。
その多くは、「婦人児童の売買禁止に関する国際条約」が禁止している
21歳以下の未成年であり、換言すれば
軍の管理統制下におかれた、
“組織的な強姦”に
ほかならなかった。
慰安所設置に
軍は
一切関与しなかった、などという主張もある。
しかし、実際には
軍が直接関与したことを示す史料は
数多い。
たとえば、上海・南京方面での
陸軍慰安所の設置に関するものは
次のようなものがある。
これは、もちろん
資料の
ごく一部だ。
【飯沼守上海派遣軍参謀長の日記】
1937年12月11日
「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
同19日
「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
これは メッセージ 1073 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1074.html
残虐行為の多発と慰安所増設の関係(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:39 投稿番号: [1073 / 2250]
防衛研究所収蔵資料の中に、旧軍の
軍紀風紀関係資料がある。
「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
これは
大本営陸軍部研究班によって
作成されたもので、
その内容は
日中戦争時における兵士の性病に関する調査結果だ。
資料によると、
天津・杭州・蘇州の
3箇所の特設病院で、
1937年の開戦から
1939年までの
性病入院患者は、
1万6千人を超えていた
という驚くべき実態を
記録している。
また、この記録を見ると、患者を
兵科別、役種別、階級別、年齢別、
感染機会別に分けた調査と、患者の
もとの職業別、教育程度別、
さらに、相手女性国籍別に分けた調査が
行われていたことが解る。
その結果は、兵科別では
輜重兵
砲兵に比較的多く、
役種別では
予後備役、補充兵役に多く、
階級別では
准士官下士官に比較的多く、
年齢別では
26歳〜30歳に多いことが示されている。
そして
明確に判ることは、感染機会が
内地からの帯患者よりも
戦地での感染者の方が
圧倒的に
多くなっている
という事実だ。
また
感染地と
相手女性の調査では、備考として
「朝鮮女ノ活躍ハ他ヲ圧倒シアリ将来戦ノ参考タリ得ベシ」
と、
じつに
意味深長な文章が
書かれている。
ちなみに
役種別の
患者数の調査結果は
以下のとおり。
現役
1,156
予備役
3,795
後備役
4,363
補充兵役
1,774
軍属
809
これを見ると、予備役や後備役兵に
感染者が多いことが判る。
限られた期間の、しかも3箇所の病院だけの
調査ではあるが、
日本軍に
性病患者が
急激に増加していたこと、それも
戦地での感染者が
圧倒的多数であったことが
示されている。
(引用資料:「支那事変ニ於ケル軍紀風紀ノ見地ヨリ観察セル性病ニ就テ」
防衛研究所所蔵『支那事変ノ経験ニ基ク無形戦力・軍紀風紀資料第5号』)
急速な軍隊の拡大による幹部と兵の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の
犯罪である
掠奪、強姦などを多出させたことが
こうした資料からも読み取れる。
何より性病感染患者の増加は、戦力低下が懸念されるほど深刻化した。
その対策の一つが、組織的な
慰安婦の動員、慰安施設の導入となり、
軍みずから
「売春」
の管理・運営に
乗りだすことになったのだ。
これは メッセージ 1072 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:21 投稿番号: [1072 / 2250]
歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報には、さらに次のように
記録されている。
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命ジ整理集積セシメ
監視兵ヲ附ス
午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ヲナシタル
結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ連連五十名宛レ出シ、
第一中隊ハ路営地南方谷地
第三中隊ハ路営地西南方凹地
第四中隊ハ露営地東南谷地ニ於テ
刺殺セシムルコトトセリ
但シ監禁地ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ
察知サレザル如ク注意ス
各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ概ネ午後七時三十分
刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ
失敗セリ捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸ブルモノ、
銃剣ノ前ニ乗リ出シ
従容トシ居ルモノアリタルモ、中ニハ
泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ
其ノ声起レリ
武装を解除し、投降した捕虜全員を、ただちに
殺害することは、
国際法違反である以前に、人道に反する残虐行為に
ほかならない。
ひとつの部隊だけでも、上記のような
数日にもわたる
組織的な
大量殺害が
実行されたのだから、日本軍全体での
捕虜殺害は、
いったい
どれほどの規模だったのだろうか――
想像を絶する。
虐殺の背景として、まず
第1には、中国人への蔑視とともに、
国際世論を恐れて戦争の実態を「事変」
と得矮小化するために
戦時国際法を無視したことによる
人権感覚の喪失が挙げられる。
第2に、もともと補給を極端に軽視する
日本軍の欠陥体質があり、
予期せぬ大量の捕虜を収容し、処遇に窮する事態を招いたことだ。
そして、第3には、軍紀風紀の頽廃による規律喪失が無視できない。
急速な軍隊の拡大による
兵士の素質の低下、とくに後備兵の増加が
軍紀風紀の頽廃の原因となり、その結果が、兵士個人の犯罪である
掠奪、強姦などを
多出させた
と考えられる。
旧軍の軍紀風紀関係資料については、既に別の投稿で引用したが、
「掠奪、強盗、強姦等極メテ悪質」犯罪の多発が記録されている。
日本の国土が
他国から
武力攻撃を受けているとか、侵略により
国家の独立が危機にたっている惨状を
目の当たりにして
自らの
愛国精神によって起ち上がった、等という状況では
まったくなく、
「事変」と称した他国への侵攻戦において、日本軍兵士の
多くは、
予期もせず
突然の令状で召集された
予後備兵か
補充兵だった。
もともと祖国防衛や民族解放などの崇高な理想に起った戦ではなく、
目的が不明確なうえに、各戦場では、予想を超えた
中国人たちの
はげしい抵抗に直面して、多くの戦友を失い、死の恐怖に苛まれた
日本兵士たちには、中国人民への憎悪と侮蔑感情だけが
かぎりなく
増幅し、理性と規律を
喪失していった。
これは、数多くの史料や
証言によって
記録されている事実だ。
これは メッセージ 1071 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:20 投稿番号: [1071 / 2250]
対中戦争を「事変」の鎮圧で済ませようとした
日本軍には
長期戦に必要な補給路確保、給養の備えは
不十分だった。
その日本軍に、大量の捕虜を収容し続ける手段は
なかった。
上海派遣軍右翼を進んだ独立攻城重砲兵第二大隊第一中隊の中尉は、
仙鶴門鎮付近で
大部隊を捕虜にした際の状況を
証言している。
捕虜の数は約一万でしたが、早速軍司令部に報告したところ、
「直ちに銃殺せよ」
と言ってきたので
拒否しましたら
「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
「それも不可能」
と断わったら、やっと
「歩兵四コ中隊を増援するから連れて来い」ということになり、
私も中山門近くまで同行しました。(中略)
「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、命令を下したのか。
当時、私の胸が痛かった印象は、従軍中はもとより
今日に至るまで、私の脳裡から
離れません。
(畝本正巳「証言による『南京戦史』」)
師団副官が捕虜殺害を指示したという
歩兵第三十八聯隊副官の
次の証言もある。
聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて
混戦していた頃、師団副官の声で、
師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(中略)
部隊としては実に驚き、困却しましたが
命令やむを得ず、
拡大隊に下達しましたが、拡大隊からは、その後何ひとつ
報告は
ありませんでした。
師団が捕虜の処置を決めて指示した
という史料も
残されている。
第十三師団は、10月9日付師団司令部名「戦闘に関する教示」で
中国人捕虜の扱いについての方針を
次のように
示していた。
(前略)捕虜中将校ハ之ヲ射殺スルコトナク武装解除ノ上、
師団司令部ニ護送スルヲ要ス
(中略)
但シ少数人員ノ捕虜ハ所要ノ尋問ヲ為シタル上適宜処置スル
モノトス
(防衛研究所所蔵「第十三師団戦闘詳報別紙及附図」第一号)
護送せずに、「適宜処置スル」とは、つまり
処刑を意味している。
武装解除した後の捕虜を、裁判もなしに
その場で処刑することは
当時の国際法上でも、明白な違反であったことは、言うまでもない。
しかし、「事変」と称した大量殺戮の場では
国際法は
適用されず、
道義的規範は
完全に
無視されたのだ。
第十軍
第百十四師団
歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報が
残されており、12月10日から13日の間に捕虜1,657人を
捕らえたこと、そして、この捕虜を
旅団命令で14日に
すべて
殺した事実が、具体的に
記述されている。
その記録によると、
捕虜を、上部命令で
組織的に虐殺したことが明らかにされている。
以下に
13日の記事の一部を抜粋してみよう。
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
イ.旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ
其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
ロ.兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シテ置クベシ
ハ.聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
貴大隊ノ任務ハ前通リ
これは メッセージ 1070 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:19 投稿番号: [1070 / 2250]
南京などで残虐行為が多発した背景(3)
以下は、中国戦線に従軍した
一兵士の証言だ。
徴発、掠奪をガタクルと言った・・・
掠奪はいかん、物品は必ず
金円を支払って調達せよと空命令を出しても身も心も荒みきった
兵隊に通じる筈もなかった。漢口を発つ時、どの部隊も糧秣等は
現地調弁せよと命令され、調達物資は必ず相当金額を支払うこと、
金円がない場合は後払い証を発行せよ
と言われた。
こんな馬鹿げた命令をする奴は、第一線の状態が
どんな様相を
呈しているのか承知していて、腹の中では
腕ずくでも、相手を
殺してでも徴発すべしと言っているのだ。
日本軍の来襲を知り、
いち早く避難し、姿をくらましてしまった住民と
どうやって
売買を交渉し、金を払えというのか――
(「湘南戦記」「十五年戦争史②日中戦争」青木書店より)
補給確保を軽視し、現地での
徴発(という名目の略奪)に頼り、
それでもなお
自軍兵士の食料確保にさえ
窮していた日本軍に、
大量の中国人捕虜を収容し、給養を確保する手段は
なかった。
方面軍司令は、南京での捕虜殺害について、次のように述べている。
捕虜も相当出来たけれども捕虜に食はせる物もない。さういふ
状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから
始末することが出来ない。
それでちよん斬つてしまうといふことになった。
それで大したことではないのだが、南京の東南方の鎮江との
間の所で一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論
追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、又捕虜となつても逃亡
する者もあるし、始末が付かぬものだから
シヤーシヤーと
射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。
それから問題になつたのだ。
(吉田裕『南京事件と国際法』より)
食料が不足して捕虜の処遇に困った、それで「戦闘中」と見なして
捕虜を殺害した
という証言だ。
どうやら
日本軍の司令官は
中国軍捕虜を処分することを
犯罪とは考えていなかったようだ。
このほかにも、軍や師団が
捕虜の「処分」を命令または指示し、
組織的な殺害がおこなわれていたという史料が
数多く存在している。
派遣軍司令部の情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせに対して、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していた
という証言がある。
これは、当時少佐で方面軍司令の専属副官であった人物の証言だ。
おそらく、南京虐殺「まぼろし説」を振りかざす否定派などは、
こうした数々の証言を
すべて
捏造だ、ウソだ、などと決めつけ、
必死になって
否定しようとするだろう。
しかし、引用した陸軍次官通牒や戦闘詳報など
日本軍の記録には
これらの証言を裏付けるように、日本軍の
中国軍兵士への認識や
対処方針などが示されており、資料的価値は
非常に高いものだ。
これは メッセージ 1069 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:18 投稿番号: [1069 / 2250]
第2に、日本軍の
補給確保軽視という、戦略上の欠点が挙げられる。
この欠陥は後に、太平洋戦争でも
兵士の大量餓死発生の要因となる。
補給軽視の体質の上に、対中戦争を「事変」鎮圧で済ませようとした
日本軍には
長期的戦略はなく、給養の備えは
不十分だった。
物資補給は、もっぱら
「現地調達」
に頼るほかなく、必然的に
「徴発」という名目による
現地人民からの略奪、強盗頻発を招いた。
ハーグ陸戦法規には、徴発する場合は
その場で
現金を支払うか、
もしくは
「領収証」
を発行し、「なるべく速やかに」
支払いを
履行しなければならない、と定められていた。
しかし
南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが
勝手に略奪を
続けることを
放置していたに
等しかった。
以下に引用する兵士の証言は、当時の実情の一端を
表している。
↓
「米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えのご飯で作った
おにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ない
ので、食べ物は
ほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、
鶏、豚なんかを
徴発していました。」
「夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉
探す者とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を
分隊で分けて
食べるのさ。住民は皆逃げてしまって、ほとんど何も
残ってい
なかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。
菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」
(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の
証言」P-350,351より)
日本軍兵士の証言だけでは足りない、と思われるかもしれないので、
南京安全区国際委員会委員長が残した記録も併せて引用しておこう。
↓
「12月13日・・・
日本軍は10人から20人のグループで行進し、
略奪を続けた。
それは実際に
この目で見なかったら、とうてい
信じられないような光景だった。
彼らは窓と店のドアをぶち破り
手当たり次第盗んだ。
食料が不足していたからだろう。」
「ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、
福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。
なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、
力車を押収したりする者もいた」
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
防衛研究所などに収蔵されている
軍関係の資料を
調査すれば、
上記は、膨大な記録の
ごく
一部にすぎないことが理解できる。
こうした記録が
示すように、日本軍は
「徴発」という名目の
略奪に頼って、なんとか食いつないでいたというのが実情だった。
菓子や酒など嗜好品の類も「徴発」していた
という記録もある。
このように、現地で略奪に頼るほど、日本軍は補給に窮していた。
補給の途絶は、自軍兵士の給養欠乏という
深刻な事態とともに、
予想を超える多数の
中国人捕虜の収容を
困難にしてしまった。
日本軍の包囲戦により、南京城内及び周辺地域には
少なくとも
10万人程度の中国兵が
逃げ遅れ、投降した
と推定される。
これに対し、日本軍側には
捕虜収容の用意が
まったくなかった。
給養の点に窮乏し
困り果てた日本軍にとって
残された手段は、
捕らえた
中国人俘虜を
大量に
「処分」
することだった。
これを
裏付ける資料として、大量の捕虜の処置に窮し、
上級司令部が殺害を命じた
という記録が
残されている。
これは メッセージ 1068 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京などで残虐行為が多発した背景(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:17 投稿番号: [1068 / 2250]
日本軍が起こした
戦争を、『植民地解放を目指した聖戦』
として
美化したい者にとって、日本軍が
中国大陸や
東南アジアの各地で
行った残虐行為の事実は、非常に
都合の悪いものだろう。
彼らが、
必死で「ウソ」、「捏造」と否定し、日本の歴史を汚す主張だなどと、
証拠に基づく議論を放棄し、悪罵を
吐き散らすのは、当然のことだ。
しかし、人が殺し合い
破壊し合う戦争を起せば、日本軍に限らず
戦場や占領地において
残虐な行為が発生することは
必然なのだ。
したがって、過去の事実を
真摯に受け止め、原因と経緯を究明し、
教訓とすること自体が、日本の歴史を汚すとか、恥をさらすという
ことではないし、実際、そのような目的で
論じているのではない。
南京事件や慰安婦問題などの
歴史の事実に向き合うことを恐れ、
記録や証言などの資料を
すべて「ウソ」、「デタラメ」
と否定し、
「聖戦」の大義名分だけを
拠所にして
戦争を美化することが、
真に国を愛する者の言動である
とは言えない、と思う。
問題にすべきは、なぜ
規律に厳しかったはずの
日本軍でさえも
残虐行為を
組織的に、かつ
広範囲にわたって
発生させ、
それを防げなかったか、ということであり、いま行うべきことは
客観的資料に基づく
徹底した検証作業なのだ
と思う。
この視点から、日中戦争の実相を
あらためて
論じてみたい。
日中戦争が
全面化し始めたとき、日本軍部は、これを
「事変」
であるから、「戦時国際法は適用しなくてもよい」
と決定していた。
支那駐屯軍が
華北で総攻撃を開始した
直後の
1937年、
8月5日付陸支密第198号
支那駐屯軍参謀長宛
陸軍次官通牒
「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
には、次のように
示されている。
一、現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
「陸戦ノ法規ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ
具体的事項ヲ
悉ク適用シテ行動スルコトハ
適当ナラズ
戦線が、華北のみならず
中国全土に拡大し、各方面で
日中両軍が
総力戦に突入して
全面戦争となった
にもかかわらず、日本軍部は
国際社会からの非難と制裁を恐れ、戦争とは呼ばず「事変」と称した。
「戦争」でないのだから、当然、戦時法は
適用できないことになる。
さらに、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動、
例ヘバ
戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用」などは
「つとめて避けよ」
と指示している。
国際社会の批判を恐れ、先に戦争を仕掛けたのが
日本だと悟られないよう、戦利品や俘虜という戦時用語は
使用するな
と
自軍の兵士に命じたのだ。
こうした軍中央部の方針は、ただちに
現地軍に伝えられた。
投降した多数の中国人捕虜に対して、国際法に基づいた処遇は不要。
したがって、収監したり
護送したりする
手間は
要らなかった。
日本軍から
国際法に基づく人道的扱いが消えたのは
当然だった。
虐殺の背景として、まず
第1には、このような
中国人への蔑視と
国際法を無視したことによる
人権感覚の喪失があった
と言える。
これは メッセージ 1062 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1068.html
Re: 南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 19:11 投稿番号: [1067 / 2250]
なんだ、石射猪太郎の書いたものか、
てっきり、外国の外交官の事かと思っていた。
こいつの言う事は信用できない。
こいつは、通州虐殺事件の直後、大幅に譲歩した和平案をつくった。
これなら、中国も応じるだろうと、近衛首相も軍も飛びついた。
で、上海で和平会談を設定したら、
中国は海軍の大山中尉を虐殺し、上海を包囲して攻撃をはじめた。
普通なら、自分の善意をコケにされたのだから、中国を恨むべきに、
こいつは海軍を悪者にして、中国の悪から目を背けているようだ。
こんな奴の言うこと信用できるわけないだろう。
信用できるのは、上海以前の話だけ。
第一、こいつ、南京に行ってないだろう。
全ては、上海から来る、怪しげな情報をもとにしている。
《 13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告》
南京は長い事停電しているのだか、どうやって電信したのかな。
方法としては、海軍の軍艦から打つ方法があるが、軍に都合の悪い電信をうたせるかな。
ラーベ達も日本領事館を通じて、問題を上海に打電しようとしたが、断られたという。
仕方なく、彼らは、英国の軍艦から打電した。
ラーベ達と似た内容を領事館員が打電しようとして、軍がさせると思うかね。
させないだろう、普通。
軍がそんな悪者なら。
させるなら、ラーベ達にだってさせるだろう。
さて、では、その電信報告って、いつのもの?
本物なの?
《 一九三八(昭和13)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。》
この時南京はまだ停電中。
中国側の宣伝が東京に報告されたかもね。
そして、石射猪太郎は信じた。
「嗚呼これが皇軍か」
「私は
その当時からこの事件を
南京アトロシティーズと呼びならわしていた。」
まー、日本人は基本的に善人だから、こういう話を簡単に信じてしまうんだよね。
疑いもせず。
こういうのを疑うと、人間性を疑われるからね。
だから、私のようなものは、悪魔扱いされる。
これは メッセージ 1059 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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Re: 検証して見て下さい(4)
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 19:03 投稿番号: [1066 / 2250]
>1933年に
陸軍歩兵学校が配布した
参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」
の項目には、次のように
書かれていた。
「捕虜ハ
他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
戦局ヲ待ツヲ要セズ」
「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
レアルモノ少キヲ以テ
仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ」
中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは
当然だった。
陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
は、以下のように示した。
「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
(1937年8月5日付
陸軍次官通牒陸支密第198号)<
ほーほー、
通州で日本人居留民約200人を虐殺した保安隊員を、北京で捕まえたんだけど、
「暴に酬いるに暴をもってしてはならない」
と全員釈放したよ。
これって
「中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された」
成果は全然出てないね。
また、上海には、捕虜収容所もあったよ。
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
204p
《 浦東 (プートン) 方面からの砲撃も激しく、一迫撃砲弾は目の前の
俘虜収容所になっている寺に命中したが軽傷者二名ですんだ。( 8月18日の話 )》
北博昭著
『日中開戦』
66〜67p
《 昭和十二年九月末ごろに陸軍は上海の楊樹浦の眉州に俘虜の収容所を設けて
中国軍の士官一名、准士官二名、下士官二名、兵一八名を収容中、
国際赤十字社のドワットヴィユへ報告されてはいる》
塚本誠著
『ある情報将校の記録』
203p
《 楊樹浦
(ヤンジッポ)
地区には電気・瓦斯会社等が多く、これに各国の権益が
いり混っていた。この地帯に対し中国軍は砲、爆撃を加えてくるのであった。
私はまずわが警備地域に残留している中国人を蘇州河以南へ移すことに努力する。
それは残留中国人が日本人からスパイや便衣隊に疑われて迫害をうけた例が
第一次上海事変当時に多かったからである。
現に戦闘開始後憲兵隊には陸戦隊から毎日二十名近くの中国人が疑いをかけられて
送り込まれる。すぐ放置するわけにもいかぬから、それを一応調べた上で
工部局警察に引き渡す。無辜の民を捕えておくことはできない。》
これは メッセージ 1045 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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Re: 検証して見て下さい(3)
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 18:57 投稿番号: [1065 / 2250]
>捕虜の殺害は、明白な
国際法違反だ。
1899年に
制定された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は
この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。<
なるほど、国際法違反ね。
ハーグ条約には
第一章
交戰者ノ資格
第一條 戰争ノ法規及權利義務ハ、單ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラス、
左ノ條件ヲ具備スル民兵及義勇兵團ニモ亦之ヲ適用ス。
(1)部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
(2)遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
(3)公然兵器ヲ携帯スルコト
(4)其ノ動作ニ付戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト
とあるけどね。
この交戦者の資格があって初めて、「俘虜ノ取扱ヲ受クルノ權利ヲ有ス」
になるんだけど。
だから、いつでも、捕虜の待遇を受けられるとは限らないんだよ。
米軍なんか酷いよ
リンドバーグの日記
六月二十六日
月曜日
《 談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」
と、将校の一人が答えた。
「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのは
たった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。
もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、
投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、
別の将校が調子を合わせる。》
中国軍もやっている。
12月15日のラーベの日記
《 人々が獣のように追い立てられていくのを見るのは身を切られるようにつらい。
だが、中国軍のほうも、済南で日本人捕虜を二千人射殺したという話だ。》
ほかには英軍や豪軍もやっているね。
「あいつもやっているから、いいじゃないか」
と言うつもりはない。
ただ、みんな同じことをやっているのに、日本だけ、特別扱いするのは、いかがなものかな。
これは メッセージ 1044 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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Re: 検証して見て下さい(2)
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 18:51 投稿番号: [1064 / 2250]
>中支那方面軍に
はじめて南京攻略が
下令されたとき、すでに
その隷下の
上海派遣軍も
第十軍も、独断で
南京に向かって
進撃していた。<
独断じゃないんだな、これが。
児島襄著
『日中戦争4』
164〜165p
《 参謀次長多田中将は、 「不可 (いか) ん」「不可ん」
と連呼したが、
すでにひきずられるよりも
「ひきずりたい」
意思をもつ下村少将らに説得され、
十一月二十四日
「大陸指第五号」
を発令した。
「臨命第六〇〇号ヲ以テ指示セル中支那方面軍作戦地域ハ、之ヲ廃ス」
南京進撃
−
の下令にひとしい。》
戦史叢書
『支那事変
陸軍作戦1』
419〜420p
《 二十四日、方面軍は
「第二期作戦計画ノ大綱」
を作成し、二十五日これを配布し
かつ両軍に対し、無錫−湖州の線において、じ後の作戦を準備せよと命じた。》
11月24日にそれまでの制令線が廃止され、新たに、無錫−湖州の線が設定された。
そうやって、一寸伸ばしに、制令線が南京に近づけられたんだけど。
>第十軍は11月30日に
広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」
と称して、前進を
命令していた。<
「追撃準備を促進せんとす」
とは、「待機せよ」
の意味なんだけどね。
これが前進命令なら、「無錫−湖州の線において、じ後の作戦を準備せよ」
も、
無錫−湖州の線から前進せよになってしまうよ。
そんな解釈をすると、11月24日の時点で、南京攻撃は許可されたという理屈になるね。
そうすると、南京攻撃は独断ではなくなってしまう。
どっちにしても、君の理屈は成り立たなくなるって事だ。
これは メッセージ 1043 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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12月25日 ラーベの日記
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 18:42 投稿番号: [1063 / 2250]
十二月二十五日
・・・
《 クレーガーとシュペアリングは平倉巷のアメリカ人の家へ向かった。
そこのクリスマスディナーに招待されていたのだ。
が、私は家を空けられない。
六百二人の難民を保護者なしでおいていくわけにはいかない。
ただ、仲間がとちゅうでしばらく交代してくれることになっていた。
そうすれば私もアメリカ人の同志たちとしばし楽しい時が過ごせる。
入れちがいに、福井氏がやってきた。
目下この人が日本大使館で一番上のポストにいる。高玉氏もいっしょだ。
・・・
日本人はとても花が好きだ。わが家の難民のために、
この人たちとある程度親しくなっておきたい。なにしろ発言権があるからだ。
・・・
ミルズがきて、見張りを交代してくれたので、私はアメリカ人の家へと車を走らせた。
果てしない闇、死体だらけの道を。もう十二日間も野ざらしになっている。
仲間たちはひっそりと座っていた。みな物思いに沈んでいる。ツリーはない。
ただ暖炉の赤い小さな旗に、使用人たちのせめてもの心づかいが感じられた。
私たちは難民登録というさしせまった問題について話し合った。心配でたまらない。
難民は一人残らず登録して
「良民証」
を受けとらなければならないということだった。
しかもそれを十日間で終わらせるという。
そうはいっても、二十万人もいるのだから大変だ。
早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。
登録のとき、健康で屈強な男たちが大ぜいよりわけられたのだ。
行き着く先は強制労働か、処刑だ。
若い娘も選別された。兵隊用の大がかりな売春宿をつくろうというのだ。
そういう情け容赦ない仕打ちを聞かされると、クリスマス気分などふきとんでしまう。
半時間ほどして、また悪臭ふんぷんたる道を戻る。
だが私の小さな収容所には平和とやすらぎがあった。
見張りが十二人、交代で壁づたいに歩き回り、ときどきささやきあっている。
眠っている仲間を起こさないよう、ちょっとした合図をしたり、
とぎれとぎれの言葉をかわすだけだ。ミルズは家に帰った。私もやっと眠れる。
いつものように、そのまま飛び出せるかっこうだが。
日本兵が入ってきたら、すぐに放り出さなければならない。
だがありがたいことに、今晩は平穏無事だった。
苦しそうな息づかいやいびきがほうぼうから聞こえてきて、
なかなか寝つかれなかった。合間には病人の咳。》
これは メッセージ 1039 (kireigotowadame さん)への返信です.
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 21:32 投稿番号: [1062 / 2250]
日本軍側の資料にも、数千
あるいは
数万の単位で
捕虜を
処断した
と記録されている。
はたして、これほど
大量の
殺戮が可能だったのかと
疑問に思う人は
少なくないだろう。
南京虐殺「マボロシ派」などは、ハナから
否定するだろう。
ところが
近代戦において、これは
じつに
簡単なことだ。
1万人を
機関銃で
殺害するには、10丁の
軽機関銃で
弾丸が十分に補充されれば、1時間以上
かかることはない。
つまり、1個歩兵中隊
200名程度の
兵力さえ
あれば
無抵抗の人間
1万人を、30分もあれば
全員射殺できる。
1個連隊で
12個歩兵中隊を
保有しているから、無抵抗の
1万人を
殺害したところで
局所の出来事に
すぎない。
南京に進軍した
総数20万もの日本軍の各兵士が、銃弾や
銃剣、各中隊に備わる機関銃などを用いれば、抵抗できない
捕虜などの大量殺戮は、いたって
容易だった
と言える。
当時、南京に駐在していた
ドイツ外交官が記録した文書が
残されており、文字通りの正式外交文書として
ドイツ本国
との
やりとりが、記されている。
以下に
引用しよう。
(岩田勇治訳『資料・ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店)
南京入城のさいの
日本軍の所業については、語らぬに
越したことはない。チンギス=ハーンを思い出さずには
いられないほどの徹底した破壊ぶりであった。ある陸軍
参謀の中佐の話では、上海から南京へ向かっていた食糧
輸送部隊はついに本隊のもとに戻らなかったそうである。
この一件からも、日本軍が、ここでは
まるであの
ベルゼルカーのごとく
何もかも
負り尽くしたことが
わかるであろう。
空き家は
ただちに焼き払われた。
(中略)
こうして南京に残っていた女という女はまったくひどい
目にあわされた。
これを
目の当たりにした男たちと
このことについて話をするのは容易ではない。残忍非道な
行為にたいする嫌悪感が、かれらの胸によみがえるからだ。
日本国内では
いまだに
この虐殺事件をめぐって「論争」が
止まない。
いくら
無益と思っても
ふっかけられる「論争」を
避けるわけにはいかないが、虐殺そのものの否定や
学問を装う
自由主義史観の
「学者」もどきの主張も含めて、これらの論は
国際社会という舞台では
歯牙にもかけられるものではなく、
狭い日本の、その
ごく一部でしか、通用しないものだという
世界の常識ぐらいは
知っておくべきだろう。
これは メッセージ 1061 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 21:29 投稿番号: [1061 / 2250]
前述した
慈善団体などによる
遺体の
収容・埋葬に関して
とくに
多数の埋葬作業にあたった団体としては、「紅卍会」と
「崇善堂」
があり、1937年12月から
38年3月までに
両者で
15万5000体以上を
埋葬している。
東京裁判でも
南京虐殺事件の最大の証拠とされたのが、これら
慈善団体などによる作業報告だった。
南京虐殺マボロシ派は、こうした数字は
ウソだ
と決め付ける。
特に、崇善堂などは民間の葬儀屋なので、多額の報酬を得るため
数を水増ししているのだ、という説を唱えるものも
少なくない。
たしかに、崇善堂は
日本軍の依頼にもとづき業務にあたったと
されている。
軍が依頼し
報酬を支払った
のであれば、当然
その費用は公金であり、最低限の実績確認・検査は行ったはずだ。
水増しがあった
と仮定しても、日本の役人の目を
欺くのにも
限度というものが
あっただろう。
なお、通常
戦場の掃除は
自軍兵士や
捕虜が実行する。
軍が民間人に
委嘱したことは、
大量に捕虜を殺害したため労働力不足であるうえに、軍だけでは
処理しきれないほどの遺体が存在していた証拠ではないだろうか。
紅卍会と
崇善堂による遺体収容は、南京行政区の中だけであり、
周辺地域や
南京沿いを除く
揚子江などは
含まれていない。
さらに、遺体埋葬を行ったのは
この2つの組織だけではなく、
紅十字会(赤十字)など
複数の機関も
別途実施した。
したがって、南京周辺だけに限っても
約20万以上の
遺体が
あったということは、間違いない事実だ
と考えられる。
大量の遺体が遺棄されていたという事実は、日本軍の関係者も
記録している。
たとえば、第16師団の佐々木到一支隊長は
日記に
次のように
記している。
「この日、わが支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に
上り
その外、装甲車が江上に撃滅したもの
ならびに各部隊の
俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて2万以上の敵は解決されて
いる筈である。(中略)
午後2時ごろ、概して掃蕩を終わって
背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。」
「その後俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の
制止を肯かばこそ、片はしより
殺戮する。
多数戦友の流血と
十日間の辛酸を顧みれば
兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と
言いたくなる。」
「白米は
もはや一粒もなし、城内には
有るだろうが、俘虜に
食わせるものの
持ち合わせなんか
我が軍には無い筈だった。」
(佐々木到一少将私記「南京戦史資料集」南京戦史編集委員会編、
偕行社、1989年より引用)
佐々木少将が
大ウソつき
でなければ、支隊のみで2万以上の
敵兵を「解決」したこと、俘虜だと認識しながら
殺戮したこと、
食料も底をつき
俘虜の給養は不可能であった状況
などが判る。
このほかにも
数千あるいは数万の単位で捕虜を処断した事実を
記録している軍関係の資料が
残されている。
では、短期間に
これほどの大量殺戮が
可能だったのだろうか。
これは メッセージ 1060 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺による犠牲者の遺体の行方(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 21:28 投稿番号: [1060 / 2250]
現在の南京城内外には、数多くの集団埋葬地が
存在している。
南京大学(旧金陵大学)
天文台そばの金陵大学難民収容所及
遇難同胞記念碑、紫金山を望む中山陵(孫文陵)近くにある
集団埋葬地などは
その一つ。
また、北極山の
至る所に
埋められた遺体叢葬の記念碑の数は、じつに
二千を超える。
資料によると、犠牲者の遺体は
次の5つのルートで
埋葬、
処理された
と考えられる。
①国際委員会によるもの
同委員会のメンバーであるベイツは、戦後の東京裁判で証言し、
南京陥落後
72時間以内に、国際委員会が雇った
労働者が
埋葬した軍人・市民の遺体は「3万体に達した」と語っている。
②慈善団体や宗教団体等によるもの
南京城内外に放置された
遺体の埋葬作業にあたった
団体で、
紅卍会
43,123体、
崇善堂
112,267体、
中国赤十字社
22,683体、合計
約178,000体の
埋葬記録がある。さらに
同善堂という団体が7,000体余
を埋葬したとされる。
③市民の埋葬によるもの
市民の手で
合計36,000体あまりを収容・埋葬している。
湖南の木材商
盛世征、昌開運が出資して行った
水西門外の
遺体収容が28,730体、城南市民の
張瀉儒、楊広才らが
難民を組織して
中華門外の
7,000体あまりを
収容、
また、回教徒の埋葬隊が収容・埋葬した遺体は
約400体。
④汪兆銘政権政権によるもの
日本軍の傀儡政権、汪兆銘政権(南京政府)
の市、区の
両級機関の
共同組織が
7,400体を
収容・埋葬した。
うち、第一区役場が
1938年2月に
同区の所轄内で
1,233体を収容。下関区役場が37年12月15日から
38年1月までに、3,240体を収容。
南京市政公署の
監督官高冠吾が
38年12月から
39年の
春にかけて、
衛生局に命じ、中山門外の霊谷寺、馬群一帯の3,000体
あまりを
収容している。
⑤南京進駐日本軍によるもの
日本軍は
部隊を動員して
合計15万体を焼却・処理した。
うち、南京停泊場の司令部の
足立少佐と
大田寿男が率いた
部隊は、10万体を
長江に投げ捨てたり、江北に運んで焼却・
土中に埋めたとされている。
南京に侵攻した部隊が処理した
ものは、5万体。
上述した
遺体収容・埋葬処理の記録を
単純に加算すると
40万体にのぼる。
ただし、収容・処理された
遺体には
重複して集計されたものも
含まれている可能性がある。
また、捕虜や市民ではなく、交戦中に戦死した中国軍兵士の
遺体も相当数
含まれている
と考えるべきだろう。
なお、日本軍の
記録によれば、揚子江に
投げ込んだり、
城外において
密かに埋めた遺体も
数多い
と思われる。
収容できなかったものは記録されず、正確な数を把握する
ことは、ほぼ
不可能である
と言える。
したがって、
公式には、東京裁判が
認定した
南京大虐殺の犠牲者数
「30万人以上」
としか
言えないのだ。
これは メッセージ 1059 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京大虐殺事件に関する外交官の証言
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 21:09 投稿番号: [1059 / 2250]
南京虐殺事件の当時、日本軍が
外交官を敵視し、軍の残虐行為に
抗議した外交官が、身の危険を感じたほどだったと報告した事実を
以前にも
述べた。
このことは、南京虐殺事件に
少しでも
興味を持ち、その真偽を
検証しようとする人間ならば、当然ながら
既に知っていることだ。
ところが、どうやら
その事実さえも知らずに
論じている者も
いるようなので、あらためて
説明しておく必要が
ありそうだ。
南京虐殺に関しては、これまで
おもに軍の記録や兵士の証言を
客観的資料を
提示してきたが、当時の
外交官による
証言も
参考として
引用してみたい
と思う。
外交官の名は、石射猪太郎という。
彼は、近衛内閣の
外務省東亜局長として、
軍部の日中戦争拡大方針に反対したことで知られている。
彼は、南京事件に関して
次の記述を残している。
南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に
帰復した福井領事からの電信報告、続いて
上海総領事からの
書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の
中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。
憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたが
ために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。
一九三八(昭和13)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。
掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。
嗚呼これが皇軍か。
日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の
首魁の一人は、元弁首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉
であった。
部下を使って宿営所に女を拉し来っては
暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。
何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で
近よれないらしかった。
私は
三省事務局長会議で
たびたび陸軍側に警告し、
広田大臣からも
陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。
軍中央部は
無論現地軍を
戒めたに相違なかったが、
あまりに大量の暴行なので手のつけようもなかったのであろう、
暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。
当時
南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会
なるものから日本側に提出された報告書には、
昭和13年1月末、数日間の出来事として、七十余件の
暴虐行為が詳細に記録されていた。
最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も
容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えない
ものであった。
その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため
現地に派遣されたと伝えられ、それが巧を奏したのか、
暴虐事件はやがて下火になっていった。
これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。
私は
その当時からこの事件を
南京アトロシティーズと
呼びならわしていた。
暴虐という漢字よりも
適切な語感が
出るからである。
日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の
行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に
大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に
向けられた。
わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、
大衆は
いわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。
(「外交官の一生」
中公文庫版
P332〜P333)
これは メッセージ 1057 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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ハイハイご苦労さん
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/23 20:11 投稿番号: [1058 / 2250]
これだけの量に反論するのは疲れるからやめとくわ。
しいて言うなら、最初から読めですな。
あなたが引用している物が、本当に真実を語っているとは、限らないよ。
例えば、中島今朝吾日記
>(12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の
森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るもの
ありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり<
鎮江は12月7日に中国軍が焼き払って撤退。
その後10日に天谷支隊が占領し、11日には山田支隊もいた。
それを、中島師団長が知らないわけはないんだよな。
山田支隊は鎮江から応援に来たのだから。
この時期に、鎮江の方向から中国兵が逃げてこれるわけないのだが。
そうすると、この日記本当に中島師団長が書いたものだろうかね?
日記と言ってるのに、何で箇条書きになっているんだろうね?
この日記が出た時、中島今朝吾氏は生きていない。
別人が書いたといううわさもあるよ。
また、太平門の所には中国軍が脱出の時の混乱で出来た大量の死体があったのだが、
当然、これらも戦果に入れているだろうね。
そして下関、ユウ江門には、中国軍が脱出の混乱で同士討ちした大量の死体があり、
揚子江には、大量の死体が流れていたのだが、
これも、知らぬ顔で戦果にいれているだろうね。
そんな数字が証拠になると思うの。
あなたの引用している資料が譎詐でないという証拠もないよ。
よく気を付けてね。
怪しい資料は沢山あるからね。
これは メッセージ 1053 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定論の譎詐と限界(5)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 19:16 投稿番号: [1057 / 2250]
犠牲者数の確定は困難であるものの、殺人や掠奪、強姦など
残虐行為が発生した事実は、軍や国際機関の
関係者などの
さまざまな
記録、証言によって
覆すことはできない。
このため、南京虐殺否定派は、苦し紛れに
根拠に乏しい
珍論・奇論の類を
持ち出してくることも
少なくない。
たとえば、「南京虐殺は、日本軍の仕業にみせかけるために
中国軍の反日攪乱工作隊がやったこと」などもその一つだ。
南京市内に潜伏した
中国軍の兵士が
いたのは
確かだが、
身を守るために
用心深く
潜伏していることが重要であり、
攪乱するなどという
状況になかったことは、明白だ。
南京を退却する時の中国軍が
脱出・避難のために
必要な
物資を略奪したり、不法行為を働いた可能性は否定できない。
しかし、問題視されるのは、中国軍が退却した後、日本軍が
占領した後に発生した事件であり、それは
中国軍の行為を
はるかに凌ぐ規模の蛮行にこそ
問題があるのだ。
N・Yタイムズのダーディン記者は、以下のように報告する。
「南京に
中国軍最後の崩壊が訪れた時、人々の間の安堵の
気持ちは非常に大きく、また
南京市政府及び防衛司令部が
瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を
迎えようとしていた。
しかし、日本軍の蛮行がはじまると、
この安堵と歓迎の気持ちはたちまち恐怖へと変わっていった。
日本への憎しみを
いっそう深く
人々の心に植え付けた」
(1938年1月9日付「ニューヨークタイムズ」)
南京市は
12月13日以降、日本軍に制圧され、7万人もの
日本兵が
警備に当たっていた下で、反日攪乱工作なるものが
どのように展開されたのか、はなはだ疑問と言わざるをえない。
もしも
南京市民が「反日感情を扇動」
されたと仮定しても、
武器を持たない市民が
軍事的に反抗することは
不可能だ。
百歩譲って、もしも、中国軍の便衣兵が
ゲリラ戦を企図して
潜伏していたと
仮定すれば、当然
日本軍に摘発される際に
武器をもって
抵抗しないということは
あり得ないし、
散発的な武器による抵抗が
あったならば、その記録が
日本軍側に
まったく
残らないはずはない。
否定派が
苦しまぎれに
吹聴する珍説は、他にもある。
「中国兵の捕虜は指揮官の命令なしに降伏したのだから
捕虜の特権がなく、処刑しても違法ではない」
という
主張や、中国軍の死者の大半が「同士打ち」によるもの
などという証拠資料も示せない主張などは
その典型だ。
国際社会共通の歴史認識とは
大きく
かけ離れた議論を
大真面目に繰り返す者たちのレベルは、この程度なのだ。
これは メッセージ 1056 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1057.html
南京虐殺事件否定論の譎詐と限界(4)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 18:27 投稿番号: [1056 / 2250]
南京市に残留した中国軍の敗残兵は、捕虜要件に該当しない
便衣兵であり、日本軍に
抗戦するものであるから、処刑は
妥当であった
という主張がある。
しかし、すくなくとも
安全区内においては、敗残兵が不法なゲリラ活動をしていた
ということを証明できる史料は、いまだに
確認できない。
南京陥落後に
「便衣兵」
によって
日本軍は、はたして
どれほどの損傷を
受けたというのだろうか。
そもそも
「便衣兵」とする根拠は
どこにあるだろうか。
当時の
新聞の報道を
以下に
引用してみよう。
「なお潜伏二万五千
敗残兵狩り続く
外国権益を特別保護」
敗残兵にして便衣に着替えている市中に潜伏する者二万五千名
と推定されているので、我が軍は清掃に努力し、一方敗残兵の
嫌疑あるものは
取り調べ、老人婦女子に
保護を加えている」
(1937年12月16日付
東京朝日新聞)
この記事は、記者が
独自に取材したものではなく、当然
軍司令部の発表を
記事にしたものだ。ここには、「便衣兵」
という文字は出ていない。
潜伏した2万5千人については
敗残兵との表現であり、軍司令部の認識だったことが伺える。
次に外国の新聞報道も確認しておこう。以下に引用するのは、
N・Yタイムズ
1937年12月17日付の記事だ。
「昨日南京の日本軍司令部は、南京城内で
1万5000人
以上の捕虜を得たと発表した。市内には、このほか軍服を捨て、
武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられ
ている」(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」青木書店)
これも
日本軍の発表を
記事にしたものだが、南京城内で
1万5000人以上の「捕虜を得た」
としているところに
注目すべきだ。
便衣兵は
捕虜資格がないのであるから、
軍司令部には、正規兵ないし敗残兵を捕まえた
という認識が
あったことになる。残りの2万5000人については、前掲の
東京朝日新聞の記事にある通り、敗残兵と認識していたのだ。
仮に、武器を捨てずに
日本軍に対し危害を与える目的で
市内に潜伏しているのであれば、たしかに
便衣兵であり、
非合法戦闘員として
殺害することは
違法ではない。
しかし、実際には
武器を捨て、ひたすら
自衛のために
身を隠していた敗残兵を
狩り出して殺害したにすぎない。
ジョン・ラーベの12月16日の日記には次の記述がある。
「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人
兵士がまた数百人、安全区から連れ出されたという。銃殺
されるのだ。
そのうち五十人は
安全区の警察官だった。
兵士を
安全区に入れたというかどで
処刑されるという」
安全区内で武装解除した兵士は、国際法上
保護の対象だ。
ましてや
警察官まで処刑したとすれば、明白な違法行為
であり、ゲリラの掃討だったなどとは、到底
言い難い。
これは メッセージ 1055 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定論の譎詐と限界(3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 18:26 投稿番号: [1055 / 2250]
南京大虐殺が国際的に知られるようになったのは、市内での
敗残兵の掃蕩が
外国人の眼に
触れたことによってだった。
否定派には、敗残兵が「便衣兵」であり、陸戦条約の要件を
満たさない
ゲリラの一種であるから、捕虜待遇を受ける
資格はないのだ
と主張するも
少なくない。
南京防衛軍司令官
唐生智は、12月12日夕刻
ひそかに
揚子江を渡って逃走した。
このため防衛軍は一挙に崩壊し、
脱出を図る者、武器を捨て投降する者、軍服を脱いで市内に
潜伏する者など、日本軍の入城前に
完全に四散してしまい、
組織的にはもちろん、各個の戦闘能力さえも
消失していた。
中国兵の大量処刑は、南京が陥落し
日本軍が制圧した後に
行われたものであり、戦闘行為と
見なすことは
できない。
すでに
抗戦の意図はなく、専ら逃亡目的で
平服を着用し
隠れていた兵士を
便衣兵と見なして
殺害したり、市民を
一方的に便衣兵と見なして殺害した行為は、明らかな虐殺だ。
南京陥落後に中国軍が
市内でゲリラ戦を展開した事実はない。
陥落直後の南京で、墜落した日本軍機搭乗員の遺体捜索活動に
従事した海軍将校
奥宮正武の記述を
以下に引用しておこう。
便衣兵或は便衣隊といわれていた中国人は、昭和7年の
上海事変の際はもとより、今回の
支那事変の初期にも
かなり積極的に日本軍と戦っていたが、南京陥落直後は
そうとは
いえなかった。
わたしの知る限り、彼らの
ほとんどは
戦意を完全に
失って、ただ生きるために
軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。
したがって彼らを
通常いわれているゲリラと同一視することは
適当とは
思わない。(「私のみた南京事件」PHP研究所1977年)
多くの記者が南京を脱出したが、市内に残った者も
数人いた。
N・YタイムズのF・ティルマン・ダーディンは
その一人だ。
彼の12月22日発航空便記事は、以下のように伝えていた。
袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失って
いた。
何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、
武器を手渡した。委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に
扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外なかった。
たくさんの中国軍の集団が
個々の外国人に
身を委ね、
子供のように
庇護を求めた。
(中略)
南京を
掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた
日中戦争の過程で犯された
いかなる虐殺より野蛮な虐殺、
略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に
匹敵するものは、ヨーロッパの
暗黒時代の蛮行か、
それとも
中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。
無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降する
ばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、
処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに
身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、
後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に
連行された。
これは メッセージ 1054 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定論の譎詐と限界(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 18:25 投稿番号: [1054 / 2250]
捕虜殺害に機関銃が使用された場合、たとえば1時間以上も
連射し続けていれば、銃身が加熱して撃てなくなる、だから
何十万もの捕虜を殺害することは不可能だなどという主張を
大マジメに
臆面もなく吐き散らす可笑しな否定論者もいる。
何万もの捕虜を同じ場所で、一度に殺したわけではなく、
もちろん
同じ数丁の機関銃だけで
殺害したわけがない。
実際の
捕虜殺害に、さまざまな方法が採られていたことは
多数の資料で確認できるが、たとえば
そのひとつとして、
第十軍第百十四師団歩兵六十六聯隊第一大隊戦闘詳報がある。
この資料には、数日間にわたり収容した捕虜を、上部からの
命令で組織的に殺害した事実と方法について
記述している。
同戦闘詳報の
12月13日の記事を
以下に引用する。
(13日)
午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ
其ノ方法ハ
十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
(中略)
午後三時三十分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附キ意見ノ
交換ヲナサシメタル結果、各中隊ニ等分ニ分配シ監禁室
ヨリ五十名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地、
第三中隊ハ路営地西南方凹地、第四中隊ハ露営地東南
谷地付近ニ於テ刺殺セシムルコトトセリ
(中略)
各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ
概ネ午後七時
三十分刺殺ヲ終リ
聯隊ニ報告ス
第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カント
シテ失敗セリ
捕虜ハ観念シ恐レズ軍刀ノ前ニ首ヲサシ伸ブルモノ、
銃剣ノ前ニ乗リ出シ
従容トシ居ルモノアリタルモ、
中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ
特ニ隊長巡視
ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
この大隊には、連隊長を経由して旅団命令が伝達された。
命令内容は、「捕虜は全部殺すべし」
というものであり、
捕虜殺害を禁じた国際法規に反する非人道的処置だった。
聯隊からは、ご丁寧に、殺害の手順についても、「十数名
ずつ逐次銃殺してはどうか」
と提案されている。
命令を受けた大隊は、各中隊で分担して、50名ずつを
露営地外の
窪地や谷地など要所に連行して
刺殺した。
各隊とも午後5時から開始し、午後7時30分頃に終了。
聯隊に報告したが、中には
一気に焼き殺そうと試みて
失敗した中隊もあった
ということが
記録されている。
一旦収容した捕虜を
軍の命令で不法に殺害したことは
あきらかであり、これは
国際法に違反し、人道に背く
組織的な犯罪行為
そのものだった。
これは メッセージ 1053 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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南京虐殺事件否定論の譎詐と限界(1)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 18:23 投稿番号: [1053 / 2250]
南京事件を否定する者の中には、「当時の日本軍の
規模では
何十万もの虐殺は物理的に不可能」「大虐殺を行う余力もない」
などと
主張するものがいる。
また「何十万もの膨大な量の
遺体は
どこに消えたのか」
などと疑問を呈し、大量虐殺は
なかったと
主張するものも
少なくない。
南京での捕虜の殺害は、数時間程度で
行われたものではない。
城内の掃蕩だけでも数日を要し、その前後の攻略戦を含めたら
さらに期間は長い。
その間に、約20万近い兵力が一人平均
数人の中国兵を殺しただけで
膨大な殺害数になる。もちろん
「百人斬り競争」の報道などは信憑性も薄く、無視すべきだが、
そうした誇張は例外としても、捕虜の大量殺害は容易といえる。
捕虜の
大量殺害の方法と
遺体の処理については、たとえば
第十六師団長中島今朝吾中将の日誌などからも
推測できる。
以下に引用してみよう。
(12月13日)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の
森林村落地帯に出て又一方鎮江両塞より逃て来るもの
ありて到る所に捕虜を見到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くる
こととなしたる(れ)ども、千五千一万の群集となれば
之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を
失ひ、ぞろぞろついてくるから安全なるものの、之が
一旦掻擾(騒擾)せば始末に困るので
部隊をトラック
にて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの
大活躍を要したり乍併戦勝直後のことなれば中々実行は
敏速には出来ず
斯る処置は当初より予想だにせざりし
処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せし
もの約一万五千、大平門に於ける守備の一中隊長が処理
せしもの約一三○○
其仙鶴門附近に集結したるもの約
七八千人あり尚続々投降し来る
一、此七八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のヶ処
に誘きて処理する予定なり
12月13日の時点で、第十六師団だけで
始末に困るほどの
大量の捕虜を捕らえたが、これは「予想だに」しなかったため
「参謀部は大多忙を極めた」
としている。
そのうえで、
7〜8千人を「片付ける」には、「相当大なる壕」
を要するが
なかなか見当たらない。
そこで、100〜200人に分割し、
適当な場所に誘導して「処理する」予定である、と記している。
否定派の中には、文中の「大体捕虜はせぬ方針」
とあるのは
殺害の方針ではなく、銃器を取り上げて釈放するという意味だ、
と唱えるものもいる。しかし、上記の文章を素直に読解すれば、
捕虜は片端から
殺害するつもりだったが、数が多すぎるため
現場での処刑が難しい。
このため、小分けにして殺害しよう、
という意味だと
受け取るのが、より自然である
と思える。
すくなくとも、「相当大なる壕」というのは、死体の処理か、
あるいは
捕虜を入れて周囲から銃撃するためには使えるが、
釈放するのであれば、そのような大きな壕などは
必要ない。
遺体は
消えたのではなく、埋められたもの
と考えるのが
ごく自然であり、常識的な解釈だろう。
これは メッセージ 1052 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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驚いたね
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/23 18:22 投稿番号: [1052 / 2250]
>他の掲示板で見つけたものです。多くのデタラメの記述があると思いますが検証して見てください
わざわざ
ほかのトピまで
検索し、お目に止まった
うえに、
丸ごとコピーされ、「検証」
の対象にまで
なっているとは、
オイラの拙文も
ずいぶんと
注目されているものだ
と、
あらためて
驚かされる。
南京事件否定派ごときの
「検証」に
あたいする
というのは、
はたして
喜ぶべきなのか
悲しむべきか、よく
分からないが、
せっかく
「名指し」で、拙文を
全文丸写しで引用して、
「検証」
を試みている、その涙ぐましい努力を
評価して、
このトピにも
直接、書き込みしておくことにしよう
と思う。
なお、あらかじめ
断っておくが
オイラは
投稿者個人の
資質や
人格に関しては、いっさい
関心がない。
また、「反日」だとか
「売国」
などという
投稿者の思想信条を論って
悪口雑言を
書き連ねる投稿には、
まったく
反応する意思はなく、論評に耐えないものは無視する。
そのことは、ご了承
願いたい。
これは メッセージ 1042 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1052.html
Re: 検証して見て下さい(1)の2
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/23 15:39 投稿番号: [1051 / 2250]
《 南京の攻略は、参謀本部が
初めから
予定していたわけではない 》
そのとおり、だから、侵略ではなかったのです。
南京攻略は成り行きでそうなった。
《 第一に、後方補給の準備が
まったく
欠けていたため、
南京へ殺到した
各部隊の給養は
ことごとく
徴発に依存し、
これが
略奪暴行多発の
原因になった。》
つまり、逆を言えば、侵略でなかったことの証明です。
捕捉すれば第十軍の場合、杭州湾が荒れていて、
物資の揚陸ができず上海に回したところ、船の揚陸待ちで遅れ、
第十軍には物資が遅れたという理由があります。
だから、それを口実に行くなと言ったのですか、現地調達してでも行くと言い張ったのです。
しかし、中国もさるもの、焦土作戦ですべて焼き払い、日本軍に食糧を与えなかったのです。
略奪しようにも、焼き払われているので、略奪のしようがないのが実態です。
《 第二に、方面軍司令部には
外交や渉外の
機能がなく 》
ほう、では、上海で問題なかったのはどうしてでしょう。
同じ人間なのですけど。
《 それどころか、
軍は
外交官を
邪魔もの扱いにし、暴行を
制止しようとした
外交官が、身の危険を
感じるほどだった
と報告している。》
それは、誰のことなのかな?
「アリソン殴打事件」
のことなのかな。
これだったら、まだ、書いていないが、そのうち、書くことになるけど。
疲れるので2は翌日にします。
これは メッセージ 1042 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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Re: 検証して見て下さい(1)の1
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/23 15:25 投稿番号: [1050 / 2250]
疲れていたので、やるまいかと思っていたのですが、一応やっときましょう。
《 1937年12月1日、・・・「敵国首都南京ヲ
攻略スベシ」
という大陸命を
くだした。・・・国際社会からの
大儀なき武力侵略に対する
批判を恐れ、あくまでも「事変」
の鎮圧として、片付けようとしていたからだ。》
こういうのは、物事の断片を切り取ってつなぎ合わせたものです。
私の書いた物を盧溝橋事件からずっと読めばそうではない事は一目瞭然です。
盧溝橋事件は中国側がしかけたのであって、日本ではありません。
日本は停戦を持ちかけましたが、中国側は逃げて応じず、やっと4日後に調印しました。
しかし、南京政府は認めず、戦争しろと命令しました。
その後、なんども停戦協定破りの攻撃が続いたのです。
それで、7月28日、隠忍自重していた日本軍が反撃すると、
通州で日本人居留民が虐殺されました。
それにも関わらず、日本は、大幅に譲歩した和平案をもって上海に会談を設定したのです。
ところが、中国は、大山中尉を虐殺して、この和平会談を潰しました。
その前に中国は8月6日に、第一回国防会議を開き、三つの防御ラインと
長期戦を原則とする対日戦略を決定しました。
そして、上海のまわりに保安隊を配置し包囲網の圧縮をやっていたのです。
これに大山中尉は遭遇して虐殺されたわけです。
中国は、8月12日に正規軍を上海の周りに入れ、かつ、揚子江や黄浦江に船を沈め、
攻撃態勢に入り、13日から租界の日本人地区を攻撃しました。
13日になって初めて、日本は、上海への陸軍派遣を決めたのです。
そして、苦心の末、上海を解放し、また和平案を出しましたが、
中国はこれをけりました。
そして、国連に日本が侵略していると嘘の訴えを出したのです。
自分から、戦争を仕掛けておきながら。
日本は、最初南京まで行く予定はありませんでしたから、
戦争範囲を蘇州までと決めていました。
第10軍が南京まで行きたいと言っていましたが、参謀本部は止めていました。
日本軍が蘇州を陥落させると、蒋介石は、
「敵が南京に至れば我々は南京を防衛する。敵が四川を攻撃すれば我々は四川を防衛する。
敵の侵略が続く限り我々は永久に戦い続けるであろう」
と言ったのです。
「ここまでおいで、アッカンベー」
みたいに、
これで、参謀本部が、「南京に行くな」
と言う口実がなくなりました。
一生懸命、抑えていたけど、口実がなくなって、結局許可せざるをえなくなったのです。
この流れを見て解るように、どこが侵略ですか?
中国が戦争仕掛けているだけでしょう。
日本はやむを得ず応戦したけど、必ず和平を持ちかけているのです。
それを踏みにじって戦争を続けているのが中国です。
元々、戦争する気がなかったら、事変と言っていただけです。
ついでに言えば、公然と戦争と言ったら、米国が輸出を停止するので、
困るから、宣言しなかったという理由もありますが。
それを逆手にとって、捻じ曲げているのです、連中は。
これは メッセージ 1042 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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12月25日 石川達三南京へ向け出発
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/23 13:51 投稿番号: [1049 / 2250]
12月25日
石川達三は南京への取材のため、東京を発ちました。
『生きている兵隊』 中公文庫の後ろの方の
“「解説」
半藤一利”
204p
より引用
《 各雑誌は作家の現地特派という企画で競い合うことになる。
『中央公論』
は七月にもう尾崎士郎、林房雄を中国に派遣している。
同じく
『主婦の友』
は吉尾信子を送った。
九月には
『日本評論』
から榊山潤がでかけ、その報告がそれぞれの誌面を派手に飾った。
負けてはならじと
『文藝春秋』『改造』
などの各誌がそれにつづいた。
厳しい検閲のもとに、がぜん戦意を高める現地報告、従軍記、ルポルタージュが、
主流という情勢になっていく。
このとき、その二年前に第一回芥川賞を受けた気鋭の作家石川達三が
「俺が全然こんなのとは違った従軍記を書いてみせる」
と、
ひそかな野望を抱いたとしても、なんら奇怪
(おか)
しいことではない。
「毎日読む記事が画一的なんで腹が立ちました。戦争というものは、こんなものではない。
自分の目で確かめたいと思っているところへ、中央公論特派員の話があったのです」
と、石川は語っているが、とにかく、こうしてかれは中国戦線へ従軍することになる。
十二年十二月二十五日に東京を発ち、神戸から軍用貨物船で出港、・・・》
石川達三は、どうも、他の人達の穏和な記事が気に食わず、
残虐な光景を書きたかったようですね。
彼の小説は、最初から、そういう意図で取材され、まとめられていたのなら、
上海・南京戦の実態を表わしているとは言えません。
半藤氏は、石川達三の南京行きを
「従軍」
と書いていますが、
これは、従軍ではないでしょう。
別に、軍にくっついて行ったわけでもないし、
彼が、行った時には、上海戦も南京戦も終わっていました。
彼は、適当に、現地で話しを聞き、破壊の後を見、死体を見ただけです。
あとは、最初の想いのままに残虐話を作り上げただけでしょう。
こういう、でっち上げ話が、後に、善人心の日本人や、
松井大将の南京戦の見方に影響を与えたと言うべきでしょう。
松井大将は南京戦の総大将ですから、彼の言は、真実としてとられますが、
彼は、南京戦のときは、蘇州にいて現場を見ていません。
彼が後に見たのは、中国軍が、脱走の際に同士討ちをやって出来た死体です。
その同士討ちの事は、松井大将どころか、突入した日本軍も知らないのですから、
後から来たものは、日本軍がやったと勘違いするでしょう。
その死体に遭遇した日本兵も、これ幸いに、それを戦果として計上したでしょう。
そして、沢山の敵を殺したと自慢した水増し数字が、
戦後、虐殺の根拠とされたわけです。
愚かなことに。
これは メッセージ 1047 (kireigotowadame さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552022058/ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfbfaj5doc0a47a4dea47a4ga4a6_1/1049.html
Re: 検証して見て下さい(5)
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/22 19:56 投稿番号: [1048 / 2250]
こういう風に、都合のいいところを、切り取ってつなげるから、私のように、
一見どうでもいいように見えることまで、丁寧に、書かなければならないのです。
最初の方は、まー、大体史実に沿っているようです。
ただ、そこに、おかしな視点が加味されているようですけど。
基本的には、反日日本人が良心的を装って並べている程度の内容です。
こんなもの、いちいち論評できませんが、少し、あたっておきましょう。
(4)
の松井大将の発言で、
さういふやうな勢で
捕虜も相当出来たけれども、捕虜に
食はせる物もない。
さういふ状態で
戦闘しつつ捕虜が
出来るから捕虜を始末することができない。
それで
ちよん斬つてしまふことになつた。
(中略)
始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。
(吉田裕「南京事件と国際法」より)
とありますが、松井大将はこの時蘇州にいて、現場を見ていません。
彼が見た死体は中国軍が脱走の時の同士討ちでできたものです。
川に流れた死体も
その上に、後から聞いた、変な武勇伝を信じて、そう解釈したのでしょう。
次に、佐々木支隊は、これらの死体を戦果に加えているはずです。海軍も。
(5)
に佐々木支隊など戦果の数字がありますが、そんな水増し数字を並べて、
これだけ虐殺したと言っても、証拠にはなりません。
そのために、私はグダグダと書いたのです。
反日人は、そういう記録を利用して、「ホラ公的記録にあるじゃないか」
やっぱり虐殺はあったんだ、としてしまいます。
だから、前後の細かいところが必要なのです。
(4)
の最初の方に支那事変は宣戦布告していないから、捕虜という言葉を使うな
という趣旨の事が書かれ、かつ国際法に準じなくてもいい風な発言を悪用して、
だから、捕虜を虐殺したんだと、すり替えているのです。
この言葉の本旨は、戦争と言うと、米国が中立法を発動し、日本への輸出を
止めるから、戦争ととられる言葉を使うなということだったのです。
捕虜を殺すのは国際法違反だというけれど、投稿兵を捕虜として受け付けるには条件があります。
軍服を着用し、武器を見えるところに持ち、指揮官が統率して降伏することです。
これが無い場合には、スパイと同じ扱いを受け、処刑されても文句言えません。
そもそも、彼が言っている程度のことなら、英、米、豪軍も日本兵に対してやっています。
353
米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺1
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb
faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=353354米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺2
355米軍の捕虜 (日本兵) 虐殺3
356占領米軍の性犯罪1
357占領米軍の性犯罪2
358占領米軍の性犯罪3
359オーストラリア軍の残虐1
360オーストラリア軍の残虐2
361米英軍の残虐
かれらの虐殺は不問にするのです。反日人は。
全部論証すると疲れるので、この辺にします。
これは メッセージ 1046 (kabu_kachan7 さん)への返信です.
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12月24日 兵民分離の住民登録始まる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/22 18:44 投稿番号: [1047 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
233〜235p
〈 南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。
では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。
その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。
それに対する日本側の
「厳重」
すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。
しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。
一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。
これにより市民は、日本軍の指定する登記所に
「各自」
出頭を要請された。
代理申請は不可能であった。 「良民票」
交付と言われるこの住民登録により、
日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。
もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。
「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)
とは、
国際委員会の告白であった。そのため、安全地帯に潜伏する敗残兵の摘出作業が、
南京住民立ち会いのもとに始まったのである。
この兵民分離の査問工作を担当したのが、 『南京戦史資料集Ⅰ』
の
「佐々木到一少将私記」
にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。
第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、
次のように回想する。以下は
『南京戦史』
からの引用である。
《 中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、
湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。
しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、
一般市民を狩り立てるようなことはなかった。
上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》
恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。
『南京安全地帯の記録』
には、あること無いことを含めて、
様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、
兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。
こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと
「佐々木到一少将私記」
は記す。
従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付)
が
「武装解除された支那兵集団すら存在しない」
と主張したのは、誤りであった。
昭和十三年一月十日付の
『読売新聞』
は、「難民調査は暮から始められて、
七日漸く一段落を告げて、敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の
所を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった」
と記す。
潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。
このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。
そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。〉
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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検証して見て下さい(5)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/11/22 11:01 投稿番号: [1046 / 2250]
南京虐殺への道程――武力侵攻の実態(5) 2011/11/22 7:12 [ No.48584 / 48595 ]
投稿者 :
wadatumi_voice21
軍中央部が
捕虜についての基本方針を示さず、方面軍も捕虜の
取り扱いについての方針を
さだめなかったことから、幕僚が
かってな指示をしたり、軍や師団が
不統一な指示をしたことが
結果として
捕虜の大量殺害に
つながったのだ。
軍や師団の幕僚が
捕虜の殺害を指示していたという記録には、
次のような例がある。
上海派遣軍の右翼、佐々木支隊の後方を進んだ独立攻城重砲兵
第二大隊第一中隊の
沢田正久中尉は、12月14日仙鶴門鎮
付近で
大部隊を捕虜にしたさいの状況を
証言している。
捕虜の数は約一万(戦場のことですから正確に数えており
ませんが、約八千以上おったと記憶します)
でしたが、
早速、軍司令部に報告しましたところ、「直ちに射殺せよ」
と言ったので拒否しましたら「では中山門まで連れて来い」
と命令されました。
(『南京戦史資料集』540頁)
第十六師団歩兵第三十旅団第三十八聯隊副官児玉義雄少佐は、
師団副官から捕虜殺害の指示があったことを
証言している。
連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団
命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
と電話で伝えられた。(略)この命令だけは何としても
納得できないと思っております。
参謀長以下参謀にも
幾度か意見具申しましたが、採用
するところとならず、その責任は私にもあると存じます。
部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
各大隊に下達しましたが各大隊からは、その後何ひとつ
報告はありませんでした
(「歩兵作命甲第111号」、『南京戦史資料集』622頁)
南京攻略戦に
直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の
歩兵第三十三聯隊と
歩兵第三十八聯隊、
第九師団の歩兵第七聯隊、第三師団の歩兵第六十八聯隊の
第一、第三大隊、第十軍では第百十四師団の歩兵第六十六聯隊
第一大隊と歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の
第三大隊、同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所
図書館に
保存されている。
このうち、第十六師団だけに限った資料でも、12月13日の
1日だけで、少なくとも2万人以上の捕虜を
殺害した事実が
分かっている。
たとえば、同師団の
中島師団長の日記にも
13日だけで2万4、5千の捕虜を「片付けた」
としており、
佐々木旅団長も
「我支隊のみで2万以上の敵は解決した」と
記録している。
第十六師団だけの、しかも
たった一日だけの
数字であり、
日本軍全体で、数日間にわたって
展開された殲滅作戦により
どれほどの捕虜や
敗残兵と見なされた中国人が殺害されたか
想像を絶する
膨大な数字であったことは
容易に理解できる。
南京攻略戦に投入された日本軍の総兵力は、約20万に達する。
20万の兵士が
一人当たり平均で何人の中国兵を殺したのか、
今となっては不明だが、各人が銃弾や銃剣を装備しているほか、
各隊に機関銃が備わっていた状況からすれば、戦闘能力を失い
武器を捨てた捕虜たちを大量殺害するのは
簡単なことだった。
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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検証して見て下さい(4)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/11/22 10:58 投稿番号: [1045 / 2250]
南京虐殺への道程――武力侵攻の実態(4) 2011/11/22 7:12 [ No.48583 / 48595 ]
投稿者 :
wadatumi_voice21
ハーグ条約には
日本も加入し、1912年に
批准していた。
しかし、日本軍の、欧米諸国の兵と中国人兵士とに対する認識は
あきらかに異なる位置づけが
存在していた。
1933年に
陸軍歩兵学校が配布した
参考書「対支那軍戦闘法ノ研究」の
「捕虜ノ処置」
の項目には、次のように
書かれていた。
「捕虜ハ
他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之レヲ後送監禁シテ
戦局ヲ待ツヲ要セズ」
「兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラ
レアルモノ少キヲ以テ
仮ニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ
世間的ニ問題トナルコト無シ」
中国兵捕虜は殺しても世間的に問題にならない、と教育された
日本軍将兵に、中国人蔑視の思想が根付いたのは
当然だった。
さらに、日中戦争が全面化しはじめた時点で出された陸軍次官
通牒「交戦法規ノ適用ニ関スル件」
は、以下のように示した。
「現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラザルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』
ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」
(1937年8月5日付
陸軍次官通牒陸支密第198号)
これにつづいて、「日支全面戦ヲ相手側ニ先ンジテ決心セリト
見ラルル如キ言動(例ヘバ戦利品、俘虜等ヘノ名称ノ使用)」
などはつとめて避けよ
と指示していた。
国際法規は
適用しなくてよい、捕虜という位置づけも不要
というこの指示が、とくに
敵愾心にあふれた第一線部隊の
兵士たちが捕虜を
躊躇なく殺すうえで
免罪符となった。
日本軍の包囲網が完成し、また
防衛軍側が
ギリギリまで
「南京固守」
を唱え、退却の判断が
遅れたこともあって、
10万人近い中国兵が
逃げ遅れて
投降することになった。
これに対して
日本軍側には、捕虜収容の用意は
なかった。
予想を超える大量の捕虜が発生し、その処置に窮したことが、
大量殺害の直接原因だった。
方面軍司令官松井石根大将は、
南京での捕虜殺害について
次のように
述べている。
さういふやうな勢で
捕虜も相当出来たけれども、捕虜に
食はせる物もない。
さういふ状態で
戦闘しつつ捕虜が
出来るから捕虜を始末することができない。
それで
ちよん斬つてしまふことになつた。
(中略)
始末が付かぬものだからシャーシャーと射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。
(吉田裕「南京事件と国際法」より)
松井大将の捉えていた「南京事件」
とは、外国権益の侵害と
一般市民に対する
掠奪、暴行、強姦の
軍紀風紀問題であり、
捕虜処分の問題は
視野の外だったようだ。
中国兵に限っては、捕虜として
扱わなくとも、国際法上の
犯罪行為にあたるとは考えなかったことが
うかがえる。
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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検証して見て下さい(3)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/11/22 10:55 投稿番号: [1044 / 2250]
南京虐殺への道程――武力侵攻の実態(3) 2011/11/22 7:11 [ No.48582 / 48595 ]
投稿者 :
wadatumi_voice21
一方、南京防衛軍では、司令官唐生智が
南京死守を唱えていた。
このため、退却の時期を逸し、日本軍の完全包囲を
許すことに
なってしまった。
唐生智は、12日の
午後5時になってから
はじめて
撤退命令を発し、午後6時には
まっさきに渡河して
退却した。
しかし、十数万の防衛軍は
すでに
撤退の方法が
なくなっており、一挙に
崩壊してしまった。
指揮組織が消滅し、各部隊ごとに、あるいは
各個人バラバラに、
日本軍の間隙をぬって
逃れようとした。
このため
城外では
いたるところで
混戦が起こり、部隊や
小グループ、個々人で
投降する者が
続出した。
城内は、ほとんどの城門が日本軍に
押さえられたので、ただ一つ残った
下関に通じる
ユウ江門
(「ユウ」は手偏に邑)
に殺到して
大混乱に陥った。
唐生智が脱出した
下関から
揚子江の対岸に逃れる
経路には
わずかな渡河材料が
あるだけで、大混乱になり、13日の午後、
いかだや小船で
脱出しようとする中国兵が、海軍の第十戦隊の
砲艦や駆逐艦で撃滅された。
一部は東北方に脱出しようとして
14日に
山田支隊に捕らえられた。
逃げ遅れた
多くの兵士は、軍服を脱いで
安全区に逃げ込んだ。
こうして、南京防衛軍の組織は
日本軍の入城直前には
完全に
崩壊していた。
日本軍が入城した時点で、中国兵は戦闘能力を
すでに消失していた
というのが実態であり、捕虜の大量殺害を
戦闘中の行為と称して
正当化するのは
間違っている。
中支那方面軍は、17日に
松井方面軍司令官や
朝香宮派遣軍
司令官を先頭にして、各部隊の代表が参加する入城式を挙行した。
これに先立って、城内
とくに
難民20万余が
逃げ込んだ
国際安全区(難民区)
の掃討が、徹底的に
行なわれた。
敗残兵の「剔出」
と称して、兵士の疑いのある男性を引き出し、
次々と
処刑した。
その後、第十軍は
杭州攻略に向かい、
各師団は新配置に移行し、南京の治安粛正は第十六軍が担当した。
南京侵攻戦は上海戦ほどではないにせよ、防衛軍の激しい抵抗で、
日本軍にも
多くの損害が出た。
戦闘詳報などで
明らかに
なっている数字は、戦死1558人、戦傷4619人であるが、
一部不明の記録もあるため、全体としては
これよりも
やや多い数である
と推定される。
これに対する
南京防衛軍の損害は、より莫大なものだった。
防衛軍の総兵力は
約15万人だったが、そのうち包囲網から
逃れて、脱出できたものが
約6万人、残りの
9万人のうち
戦死者が
約1万人であるから、残りの8万人が武器を捨てた
敗残兵、投降兵、捕虜となったことになる。
問題になるのは、
この大量の投降者・捕虜に対する
日本軍の「処置」の方法だ。
捕虜の殺害は、明白な
国際法違反だ。
1899年に
制定された
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」
いわゆるハーグ条約は、捕虜に対する人道的処遇を定めている。
しかし、日中戦争が全面化したとき、陸軍中央は
この戦争を
事変と称して、戦時国際法は適用せずという方針を出していた。
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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検証して見て下さい(2)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/11/22 10:52 投稿番号: [1043 / 2250]
南京虐殺への道程――武力侵攻の実態(2) 2011/11/22 7:11 [ No.48581 / 48595 ]
投稿者 :
wadatumi_voice21
中支那方面軍に
はじめて南京攻略が
下令されたとき、すでに
その隷下の
上海派遣軍も
第十軍も、独断で
南京に向かって
進撃していた。
上海派遣軍は、11月29日には常州を占領し、
丹陽にむかって前進中であり、第十軍は11月30日に
広徳を
占領したうえで、「独断をもって南京に向かう追撃準備を促進せん
とす」
と称して、前進を
命令していた。
12月1日、中支那方面軍は、一挙に南京に
向かうのではなく、
上海派遣軍は
磨盤山山系西方の線に、第十軍は
蕪湖の線に、
各々進出することを命じた。
南京防衛陣地の前面で
一旦態勢を整え、南京の包囲網を
完成しようとするものだった。
ところが、第一線の各部隊は、南京一番乗りの
功名心にかられ、
方面軍の統率をこえて急進撃を続けた。
このため兵站、輜重が
追随できないままに、南京へ向かって
殺到することになった。
こうして、無統制のまま
南京攻撃戦は
はじまった。
上海派遣軍は、第十六、第九師団を
並列して
南京に進撃させ、
天谷支隊と第十三師団を
鎮江に向かわせた。
12月5日には
第十六師団は句容を、第九師団は南京防衛の
第一線陣地である
淳化鎮を
占領した。
第十軍の
第六師団と
第百十四師団は
並行して
南京に向かった。
中支那方面軍は、12月4日の時点で
両軍の南京攻撃準備線を
上天門、小衛、高橋門、雨花台、棉花地に統制する措置をとり、
12月7日には
「南京戦攻略要領」
を示達した。
要領は、両軍の作戦地境(城内を東西に区分)と配当城門を定め、
各師団の入城部隊を制限し、軍紀風紀の維持ならびに外国権益の
保護などを
示したものだった。
12月8日、各方面とも
南京防衛陣地への
攻撃が始まった。
上海派遣軍では、第十六師団が
12日に紫金山の線を占領した。
第九師団は10日には光華門まで達したが、南京防衛軍の抵抗が
予想以上に強く、その後の戦況が
進展しなかった。
また第十三師団主力は、鎮江から揚子江を渡河して
左岸に渡り、
津浦線の遮断に
向かった。
同師団の一部は山田支隊となって
12日
鎮江を出発、第十六師団の
右翼に進出して
烏龍山、
幕府山の
砲台占領に向かった。
当初、第二線兵団として
第九師団の後方を
前進していた
第三師団からは、11日に
一部の兵力を先遣隊として
南京攻撃に
参加させた。
第十軍では、第百十四師団を右、第六師団を左に
並列させて、
8日から
雨花台の堅固な陣地を攻撃した。
第六師団の一部
(歩兵第四十五聯隊)は
左翼の揚子江岸を前進し、南京から
退却する中国軍の部隊を撃破して、下関に向かった。
国崎支隊は
11日に蕪湖北方の慈湖鎮付近で
揚子江を渡り、
退路を遮断するために南京対岸の浦口に向かった。
こうして
日本軍は
南京城を完全に包囲し、紫金山、光華門、
雨花台などで
激しい攻撃が行われた。
各部隊は、城内への
一番乗りの栄誉を
競っていたが、
国内では、“南京占領近し”
などといった
報道が流された。
そのことも、現地軍の
焦りを誘うものとなった。
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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検証して見て下さい(1)
投稿者: kabu_kachan7 投稿日時: 2011/11/22 10:49 投稿番号: [1042 / 2250]
以下は他の掲示板で見つけたものです。多くのデタラメの記述があると思いますが検証して見てください。
南京虐殺への道程――武力侵攻の実態(1) 2011/11/22 7:10 [ No.48580 / 48595 ]
投稿者 :
wadatumi_voice21
1937年12月1日、中支那方面軍に対し、大本営は戦闘序列を
発令し、そのうえで
「中支那方面軍ハ海軍ト協同シテ
敵国首都
南京ヲ
攻略スベシ」
という大陸命を
くだした。
念のため解説すると、戦闘序列とは、戦時に令する軍の編成のこと、
大陸命とは、大本営陸軍部を通じて発する天皇の命令を意味する。
すでに、半年も前に起きた
蘆溝橋での武力衝突を
発端として
両国の軍隊が
全面戦争に
突入していた
にもかかわらず、
この大陸命で
大本営は、はじめて
中国を
「敵国」
と呼び、
首都南京への武力侵略を
正式に
命令したのだ。
日本は、国際社会からの
大儀なき武力侵略に対する
批判を恐れ、
あくまでも「事変」
の鎮圧として、片付けようとしていたからだ。
もともと補給を軽視する日本軍の体質的欠点にくわえ、戦争方針が
数カ月程度の戦闘で中国軍は屈服させる
という甘い見通しのもと、
長期戦争の備えがないまま
中国に大軍を派兵したことが、のちに
深刻な食糧不足に伴う略奪行為多発や捕虜の大量殺戮につながった。
南京の攻略は、参謀本部が
初めから
予定していたわけではない。
第十軍を
杭州湾に上陸させたのは、予想外に厳しい上海の戦況を
打開するためであり、南京へ進撃するためではなかった。
中支那方面軍の編成も変則的で、司令部の機構も小さなものだった。
参謀長は
参謀本部第三部長
塚田攻少将、参謀副長は
参謀本部
第三課長
武藤章大佐、以下の参謀数名も
参謀本部の職員であり、
本部に在籍したまま
「出張」の形式で
派遣された。
その他の司令部の人員の多くは、上海派遣軍司令部の人員が兼務し、
さらに
方面軍には、直属の兵站部隊が
まったく
無かった。
こうした
異例の編成は、上海から遠くへ侵攻するつもりがなく、
後方が局限されていたからであり、このために、中支那方面軍の
南京侵攻作戦には、次のような
問題点が生じた。
第一に、後方補給の準備が
まったく
欠けていたため、
南京へ殺到した
各部隊の給養は
ことごとく
徴発に依存し、
これが
略奪暴行多発の
原因になった。
第二に、方面軍司令部には
外交や渉外の
機能がなく、
国際法の顧問も
従来の戦争のように
置いていなかった。
各国の公館が集中している首都に攻め込むのに、これは
きわめて
不十分な編成で、しかも
南京の公使館、上海の総領事館など
日本の外務省の機関との
連携も
悪かった。
それどころか、
軍は
外交官を
邪魔もの扱いにし、暴行を
制止しようとした
外交官が、身の危険を
感じるほどだった
と報告している。
第三に、軍紀風紀維持についての配慮が、きわめて
不十分だった。
方面軍には
もともと
直属の憲兵がなく、急遽配属された少数の
憲兵で
大軍の犯罪非行を取り締まるのは
ほぼ不可能に近かった。
第十軍に配属された
憲兵隊長の
上砂勝七も
「何分
数個師団
二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは如何とも
方法がない」
(『憲兵三十一年』東京ライフ社刊)と嘆いていた。
このように、方面隊の編成そのものにも、大虐殺事件に
つながる
要因が
含まれていたと
言うことができる。
これは メッセージ 1041 (kireigotowadame さん)への返信です.
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12月24日までの安全区掃蕩での鹵獲品
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/21 18:45 投稿番号: [1041 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
184〜186p
《 第七連隊の
「南京城内掃蕩成果表」 (十二月十三日より十二月二十四日まで)
は、
軍規があるとはとても思えない支那軍の実態を示している。
それは次のように記録していた。
一、消耗弾
小銃
五、〇〇〇発
重機関銃
二、〇〇〇発
二、刺射殺数 (敗残兵)
六、六七〇
三、鹵獲 (ろかく) 品
十五糎(センチ) 砲
二門
同弾薬
約六〇〇発
二十糎級砲
八門
同弾薬
約一、〇〇〇発
小銃
九六〇挺
同実包
三九万発
水冷式重機関銃
一二挺
軽機関銃
三三挺
拳銃
一〇三挺
同弾薬
二六一、三五〇発
高射砲
一門
高射機関銃
一挺
山砲
六門
同弾薬
八二発
迫撃砲
一〇門
同弾薬
五七、二一八発
戦車砲弾
三九、〇〇〇発
銃剣
三二〇挺
手榴弾
五五、一二二発
青竜刀
二、〇二〇振
対戦車砲
二門
戦車
四台
機関砲
一門
自動貨車
一六台
便衣服
二、三〇〇着
夏衣袴
二五、三〇〇着
これは第七連隊だけの
「成果」
である。
しかも押収品は、全ての項目を羅列すると、右の三倍近くになる。
あまりに多いので他は省略したが、
それでも戦車四台と戦車砲弾三万九〇〇〇発が鹵獲された。
同じく、手榴弾五万五一二二発や、小銃九六〇挺に同実包三九万発、
迫撃砲一〇門と同弾薬五万七二一八発などが鹵獲された。
降伏の意思表示なく兵士が軍服を脱ぐこと自体、明らかな戦時国際法違反であった。
その上、あろうことか、安全地帯の将兵は大量の武器まで隠匿
(いんとく)
していた。
これも明らかな戦時国際法違反であった。》
*
ラーベ達は、路上で武器を捨てた中国兵を市民と見なしていたが、
とんでもない事だった。
もともと、中国軍は安全区の中に軍事施設を作っていて、
日本軍突入前に撤去をしていないのだから、有って当り前。
彼らは、いつでも、安全区から武器を取り出せたのだ。
これは メッセージ 1040 (kireigotowadame さん)への返信です.
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