12月24日 兵民分離の住民登録始まる
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/22 18:44 投稿番号: [1047 / 2250]
東中野修道著
『南京大虐殺の徹底検証』
233〜235p
〈 南京陥落から二週間にして、事態はほとんど沈静化したことになる。
では、何が、事態の沈静化をもたらしたのか。
その一つの要因として、国際委員会の日本軍批判が挙げられよう。
それに対する日本側の
「厳重」
すぎる処罰も、その一つの要因であったであろう。
しかし、それ以上に、決定的な要因が二つ考えられるのである。
一つは、十二月二十二日に布告され、二十四日から一斉に開始された住民登録である。
これにより市民は、日本軍の指定する登記所に
「各自」
出頭を要請された。
代理申請は不可能であった。 「良民票」
交付と言われるこの住民登録により、
日本軍は兵士と市民の分離を図ったのである。
もう一つが、住民登録と同時に始まった査問工作であった。
「兵士と、市民とを、分離しつづけることができなかった」(二号文書)
とは、
国際委員会の告白であった。そのため、安全地帯に潜伏する敗残兵の摘出作業が、
南京住民立ち会いのもとに始まったのである。
この兵民分離の査問工作を担当したのが、 『南京戦史資料集Ⅰ』
の
「佐々木到一少将私記」
にもあるように、歩兵第三十旅団長の佐々木少将であった。
第十六師団司令部の内田義直通訳官は、その査問工作に立ち会った感想を、
次のように回想する。以下は
『南京戦史』
からの引用である。
《 中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、広東、広西、
湖南の兵隊で南方訛りであって、言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。
しかし身体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、
一般市民を狩り立てるようなことはなかった。
上衣だけが民服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。》
恐らく、内田通訳官の回想に間違いはないであろう。
『南京安全地帯の記録』
には、あること無いことを含めて、
様々な日本軍批判が収録されているが、被害者の実名を挙げて、
兵民分離工作が市民に累を及ぼしたという記録は一つもない。
こうして約二千の敗残兵と武器が摘発されたと
「佐々木到一少将私記」
は記す。
従って、国際委員会十号文書 (十二月十八日付)
が
「武装解除された支那兵集団すら存在しない」
と主張したのは、誤りであった。
昭和十三年一月十日付の
『読売新聞』
は、「難民調査は暮から始められて、
七日漸く一段落を告げて、敗残兵一千六百名とその他のものは安民居住の
所を与へられ、今では大手を振って城内を歩けるやうになった」
と記す。
潜伏に困難を来し、自ら出頭して市民登録を許可された支那兵もいたのである。
このため、潜伏兵が急減し、あわせて撹乱工作も減少した。
そしてまた、潜伏兵の出頭により、人口数が増加した。〉
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