南京などで残虐行為が多発した背景(2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 19:18 投稿番号: [1069 / 2250]
第2に、日本軍の
補給確保軽視という、戦略上の欠点が挙げられる。
この欠陥は後に、太平洋戦争でも 兵士の大量餓死発生の要因となる。
補給軽視の体質の上に、対中戦争を「事変」鎮圧で済ませようとした
日本軍には 長期的戦略はなく、給養の備えは 不十分だった。
物資補給は、もっぱら 「現地調達」 に頼るほかなく、必然的に
「徴発」という名目による 現地人民からの略奪、強盗頻発を招いた。
ハーグ陸戦法規には、徴発する場合は その場で 現金を支払うか、
もしくは 「領収証」 を発行し、「なるべく速やかに」 支払いを
履行しなければならない、と定められていた。
しかし 南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが 勝手に略奪を
続けることを 放置していたに 等しかった。
以下に引用する兵士の証言は、当時の実情の一端を 表している。
↓
「米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えのご飯で作った
おにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ない
ので、食べ物は ほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、
鶏、豚なんかを 徴発していました。」
「夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉
探す者とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を 分隊で分けて
食べるのさ。住民は皆逃げてしまって、ほとんど何も 残ってい
なかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。
菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」
(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の
証言」P-350,351より)
日本軍兵士の証言だけでは足りない、と思われるかもしれないので、
南京安全区国際委員会委員長が残した記録も併せて引用しておこう。
↓
「12月13日・・・ 日本軍は10人から20人のグループで行進し、
略奪を続けた。 それは実際に この目で見なかったら、とうてい
信じられないような光景だった。 彼らは窓と店のドアをぶち破り
手当たり次第盗んだ。 食料が不足していたからだろう。」
「ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、
福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。
なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、
力車を押収したりする者もいた」
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
防衛研究所などに収蔵されている 軍関係の資料を 調査すれば、
上記は、膨大な記録の ごく 一部にすぎないことが理解できる。
こうした記録が 示すように、日本軍は 「徴発」という名目の
略奪に頼って、なんとか食いつないでいたというのが実情だった。
菓子や酒など嗜好品の類も「徴発」していた という記録もある。
このように、現地で略奪に頼るほど、日本軍は補給に窮していた。
補給の途絶は、自軍兵士の給養欠乏という 深刻な事態とともに、
予想を超える多数の 中国人捕虜の収容を 困難にしてしまった。
日本軍の包囲戦により、南京城内及び周辺地域には 少なくとも
10万人程度の中国兵が 逃げ遅れ、投降した と推定される。
これに対し、日本軍側には 捕虜収容の用意が まったくなかった。
給養の点に窮乏し 困り果てた日本軍にとって 残された手段は、
捕らえた 中国人俘虜を 大量に 「処分」 することだった。
これを 裏付ける資料として、大量の捕虜の処置に窮し、
上級司令部が殺害を命じた という記録が 残されている。
この欠陥は後に、太平洋戦争でも 兵士の大量餓死発生の要因となる。
補給軽視の体質の上に、対中戦争を「事変」鎮圧で済ませようとした
日本軍には 長期的戦略はなく、給養の備えは 不十分だった。
物資補給は、もっぱら 「現地調達」 に頼るほかなく、必然的に
「徴発」という名目による 現地人民からの略奪、強盗頻発を招いた。
ハーグ陸戦法規には、徴発する場合は その場で 現金を支払うか、
もしくは 「領収証」 を発行し、「なるべく速やかに」 支払いを
履行しなければならない、と定められていた。
しかし 南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが 勝手に略奪を
続けることを 放置していたに 等しかった。
以下に引用する兵士の証言は、当時の実情の一端を 表している。
↓
「米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えのご飯で作った
おにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ない
ので、食べ物は ほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、
鶏、豚なんかを 徴発していました。」
「夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉
探す者とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を 分隊で分けて
食べるのさ。住民は皆逃げてしまって、ほとんど何も 残ってい
なかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。
菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」
(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の
証言」P-350,351より)
日本軍兵士の証言だけでは足りない、と思われるかもしれないので、
南京安全区国際委員会委員長が残した記録も併せて引用しておこう。
↓
「12月13日・・・ 日本軍は10人から20人のグループで行進し、
略奪を続けた。 それは実際に この目で見なかったら、とうてい
信じられないような光景だった。 彼らは窓と店のドアをぶち破り
手当たり次第盗んだ。 食料が不足していたからだろう。」
「ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、
福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。
なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、
力車を押収したりする者もいた」
(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
防衛研究所などに収蔵されている 軍関係の資料を 調査すれば、
上記は、膨大な記録の ごく 一部にすぎないことが理解できる。
こうした記録が 示すように、日本軍は 「徴発」という名目の
略奪に頼って、なんとか食いつないでいたというのが実情だった。
菓子や酒など嗜好品の類も「徴発」していた という記録もある。
このように、現地で略奪に頼るほど、日本軍は補給に窮していた。
補給の途絶は、自軍兵士の給養欠乏という 深刻な事態とともに、
予想を超える多数の 中国人捕虜の収容を 困難にしてしまった。
日本軍の包囲戦により、南京城内及び周辺地域には 少なくとも
10万人程度の中国兵が 逃げ遅れ、投降した と推定される。
これに対し、日本軍側には 捕虜収容の用意が まったくなかった。
給養の点に窮乏し 困り果てた日本軍にとって 残された手段は、
捕らえた 中国人俘虜を 大量に 「処分」 することだった。
これを 裏付ける資料として、大量の捕虜の処置に窮し、
上級司令部が殺害を命じた という記録が 残されている。
これは メッセージ 1068 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.