Re: 南京などで残虐行為が多発した背景(3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 23:03 投稿番号: [1080 / 2250]
>南京の東南方の鎮江との
間の所で一万余の捕虜があつたのだけれども、
そんなのは無論
追撃中だから戦闘中と見てもよろしい、
又捕虜となつても逃亡する者もあるし、始末が付かぬものだから
シヤーシヤーと
射つてしまつたのだ。
その死骸が川に流れた。
それから問題になつたのだ。
(吉田裕『南京事件と国際法』より)<
鎮江は南京の東南方ではない。東で少し北にある。
川には、12日夜、中国軍が下関から脱出しようとして、
少ない小舟やイカダに大勢が乗ろうとし、
顛覆・同士討ちで大量の死体が流れた。
それを13日に佐々木隊や遡航する海軍が撃って戦果にした。
揚子江を流れる死体は中国軍が同士討ちでやったもの。
提示の話は内容からすると幕府山のようにも見える。
具体的地名を言わないところを見ると伝聞を組み合わせているかも。
>派遣軍司令部の情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせに対して、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していた
という証言がある。
これは、当時少佐で方面軍司令の専属副官であった人物の証言だ。
角良晴証言で
「ヤツチマエ」
は長勇か?
《 十二月十七日朝、第六師団から首都飯店の軍司令部情報課に電話があり、
下関の支那人十二、三万をどうするか、と聞いてきた。
課長・長勇中佐は簡単に
「ヤッチマエ」
と命令した。》
17日は入城式
方面軍司令部は朝は湯水鎮にあった。
南京への移動と式典の準備で忙しい。かつ
第 6 師団はこのとき下関にはいない。
第 6 師団が下関に来たのは13日、それも、佐々木隊の後。
仮に、そこで捕虜を捕まえたとして、なぜ17日まで連絡しなかったのか?
そもそも、第 6 師団は第十軍所属で、
長勇は上海派遣軍の参謀。
方面軍の参謀ではない。組織表では兼ねていない。
上海派遣軍は南京にいたが、方面軍は湯水鎮にいた。
第 6 師団が上海派遣軍の参謀
「長勇」
にお伺いを立てる事はありえないし、
長勇も第 6 師団に命令は出来ない。
この問題は、「1028
角良晴証言の間違い指摘」に書いておいたよ。
これは メッセージ 1070 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.
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