入って中国人に南京事件真相議論しましょう

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(12)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:30 投稿番号: [1121 / 2250]
ガダルカナル、ニューギニアなど   太平洋の島々のほかにも、
補給無視で   「英霊」を   増産した作戦として   有名なのは、
1944年に   ビルマ方面軍が強行した   インパール作戦だ。
戦力枯渇が目立つ44年になって、成算のないインド領への
大挙侵攻を実行するなど、無謀というほかない   作戦だった。
じつは、第十五軍司令官の   功名心から   実行されたものだ。

チンドウィン河を渡り、インド・ビルマ国境アラカン山脈を
越え、インド領内に侵入しようという   この作戦の経路には、
密林と   山脈があり、交通機関はなく、第十五軍の3個師団
10万の大軍の   兵站線確保の見込みは   最初からなかった。
すでに制空権は   連合国軍に移り、昼間の行動は   困難であり
道路を構築するための資材も土木機械も   日本軍にはなかった。

道路があっても、制空権がないため   物資を運ぶための
自動車を   走らせることはできず、また   走らせる自動車も、
ガソリンも欠乏していたのだから、土台   無理な計画だった。
なお、このときの   第十五軍   司令官は、盧溝橋事件の際の
支那駐屯歩兵第一聯隊長で、戦争のきっかけを作った人物だ。

軍司令官は、作戦に懸念を表明する補給担当の参謀を一喝し、
像や牛、馬、水牛の収集と   調教を命令した。
これらの動物に荷物を背負わせて運び、用が済んだら殺して
食べるのだといい、この作戦を   義経の「鵯越え」   や、
ハンニバルのアルプス越えに例えて得意になっていたという。

当時、大本営の作戦課長だった真田穣一郎大佐は、報告を受け
「第十五軍ノ案ハ徹底的ト云フヨリ寧ロ無茶苦茶ナ積極案ナリ」
と回想録に書いた。   (引用:『戦史叢書・インパール作戦』)
ところが、この“無茶苦茶な”作戦が、南方軍の認可を受けて
実行に移されてしまった。日本軍には構造的欠陥があったのだ。

3月上旬、携行食糧2週間分を持って、チンドウィン河を渡り、
攻撃を開始した   第十五軍の兵隊たちの運命は、悲惨だった。
左翼の第三十三師団は、3月下旬にインパール平地に達したが
食糧はなくなり、弾薬も不足して   攻撃続行が困難となった。
軍司令官は   これに憤って、師団長の柳田中将を罷免した。

中央を進んだ第十五師団も、インパール間近まで   迫ったが、
三十三師団と同様の状況から   攻撃が頓挫した。軍司令官は
消極的だとして、第十五師団長の山内中将も   罷免した。
右翼を進んだ第三十一師団の佐藤中将は、インパール北方に
進出していたが、「米一粒も補給がない」ため、独断で退却。

この佐藤中将の判断は当然であったが、日本軍という特殊な
組織では   許される行為ではなく、抗命の容疑で罷免のうえ、
軍法会議にかけられ、精神錯乱ということで   片付けられた。
軍司令官は   3人の部下師団長を全員罷免し、強引に攻撃を
督促したが、補給の途絶えた   部隊の状況は   地獄だった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(11)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:30 投稿番号: [1120 / 2250]
補給無視の無謀な作戦で   大量の餓死者を出した例として
ガダルカナル戦と   ソロモン群島の戦闘状況を紹介したが、
これらは、大量の「英霊」   増産の   一例に   すぎない。
太平洋戦争の   各戦場で   餓死・戦病死が   多数発生した。
これは、日本軍の   近代軍にあるまじき欠陥に要因があった

無謀な侵攻作戦の例は、ガ島やソロモン群島の他にも数多い。
たとえば、42年の   ポートモレスビー攻略戦。
道なきジャングルを   踏破して、標高4千mの   山脈を越え、
ニューギニア東南岸を攻略するという無謀きわまりない作戦で
結果、日本軍は惨敗・退却したが、敗残兵の多くは補給もなく
餓死者を大量に発生させて   全滅に近い   状態となった。

このときの様子を、歩兵第百四十四聯隊の小岩井第二大隊長が
次のように述べている。

    食糧の欠乏は、敵弾以上の徹底的損害を   我が軍に与える
    ようになって来た。私の大隊の将兵もみんな飢餓で体力を
    消耗しきってしまい、頬は落ち   髪は伸び放題となり、
    眼球は深く   凹んで   底に異様な光が残った。
    そして顎はとび出し、首は一握りほどに細り、気力なく
    足を引きずってよぼよぼと歩き、着ているものは破れ、
    跣足で棒のように痩せた腕に飯盒をぶら下げ、草を摘み
    水を汲んで歩く姿にはどこにも二、三十才の年齢は見られず
    老いさらばえた乞食といった様子だった。

    栄養失調の衰弱した体に   一たび下痢が始まりマラリアが
    頭を擡げると、血便をくだし、四十度前後の高熱に襲われ
    キニーネ等の微温的な投薬では解熱どころか却って下痢を
    悪化し、発病までは一粒の米でも貪り食った者が、今度は
    戦友の心尽くしの一滴の粥すら   欲しないようになり、水
    ばかり飲んで喘いでいるのだった。
     (中略)
    患者はたいてい一週間も発熱を続けると   脳症を起こして
    うわ言をいい始め、嘘のように脆く、ちょうど晩秋の落葉
    のように飽気なく死んで行った。
    三十才にもなろうかという男が   無意識に   母親の名を
    呼び続けて   死んで行くこともあった。
     (中略)
    この作戦の終ったあとで戦歿者の統計を調べると   三割が
    敵の弾による戦死、残る七割は病死だった。

戦場の実態は   このような惨状だったが、大本営はこれを「玉砕」
という   美しく華々しい戦闘死であったかのように   伝えている。
無謀な作戦に駆り出され、補給もないまま   やせ細って   死んだ
多くの犠牲者の無念、苦しみ、悲しみは   すべて覆い隠された。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(10)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:14 投稿番号: [1119 / 2250]
第十七軍と同じく、タロキナ作戦失敗後の   第六師団が
現地自活に移ってからの   状況の例として、「戦史叢書」は
第六歩兵団司令部   木下西舟少佐の   次の回想を掲げている。

   タロキナ作戦終了後の歩兵大隊の兵力は二〇〇〜三〇〇名
   であったと思うが、マラリアと栄養失調で   悲惨な状況で
   あった。   糧食の補給は   間もなく   全く   なくなった。
   現地自活に着手し、一人一畝を   耕作して、これによって
   一日   約一キログラムの芋を   収穫することにしたが、
   収穫までは   約三カ月かかるので、この間   毎日
   ジャングルの中の   野草を捜した。

   ひどい時には   飯盒の蓋一杯の   野草が食糧で、
   これに   時に澱粉椰子の団子が   加わる程度であった。
   塩は海岸で作った。
   ようやく   芋が出来始めると、今度は畑を荒す者が出た。
   畑を荒す者は   銃殺であった。
   人肉を食べた者がある   などという話も   あった。
   (引用史料:『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈5〉』)

タロキナ作戦終了後   4万余の兵力は、方面軍の報告によれば
45年の   敗戦後には   23,053名にまで   減少しており、
「大部分このような事情に基づく戦病死者であると推定される」
と書かれている。

NHKの教育テレビで   「封印――脱走者たちの終戦」という
ドキュメント番組が   放送されたことが   ある。   その内容は、
ブーゲンビル島の第六師団のすさまじい飢餓の状況にかんする
旧日本兵たちの生々しい証言だったが、その中で   食糧を求め
離隊し、終戦後に戻った兵を   逃亡兵として、裁判にもかけず、
銃殺したというもので、終戦後60日もたってから30人もが
「処刑」   された   という証言もあった。

極限の飢餓状態の中で、食糧を求めて   隊を離れた   兵士を
「敵前逃亡」の罪名を被せて、軍法会議にかけずに殺害した
ということが事実であれば、当時の日本軍が   いかに
非人道的な強制を   行なっていたかが   示されている。

食糧は、わずかながら   自給できたとしても、栄養の偏りは
避けられず、将兵の体力は   低下していった。
さらに   補給の途絶によって、医薬品も   底をついた。
44年9月ごろには、マラリアの薬が   なくなり、全部隊の
人員の   じつに95%が   マラリア経験者だった   という。

なんらの戦果も期待できず、戦略的価値を   完全に失った島で
敵からさえも無視されまま、ただ餓死者を増やし続けた皇軍に
残された   唯一の道は、一人でも多くの生命を   救うために、
いさぎよく   敗北を認めて、ただちに   降伏を   すべきだった。
しかし、皇軍には   人権感覚や   近代軍としての   判断力が、
まったく   備わっていなかった。
その無謀な体質の背景には、「死」を   美しく   粉飾し続ける
靖国思想の侵淫が   少なからず存在していたと言えるだろう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(9)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:13 投稿番号: [1118 / 2250]
44年1月、日本軍の軍事拠点ラバウルは   完全に孤立した。
ニューギニアとニューブリテン島の間の   ダンピール海峡が
米軍に突破され、さらに   北方の諸島を   占領されたからだ。
44年3月、日本軍は   タロキナの敵陣地への反撃を試みたが、
圧倒的な米軍の火力に阻まれ、戦力をまったく喪失してしまう。

以後、ブーゲンビルの   第十七軍約3万2千、第八艦隊約2万、
計5万の陸海軍将兵は飢餓と戦いつつ敗戦を迎えることになる。
タロキナ作戦失敗後の状況は、第十七軍残務整理部が作成した
「ブーゲンビル島の作戦」   という史料に、記録されている。

    タロキナ攻略作戦は全力を傾けて行はれた。
    残余の軍需品も戦力を培養する為
    無制限に使用されたのは当然である。
    そこでこの作戦が失敗に帰したときには
    食ふべき何物も   残って居らなかった。

    そして銃を捨てると鍬をとった。
    作戦間に荒れ果てた耕地はもとより
    密林を伐開して開墾につとめた。
     (中略)
    土民の所有しているものが多くあらう筈がないのに
    之も半ば強制的に徴発するものも出て来た。
    木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。

    海の魚はとりたくても   敵機が絶えず哨戒するし
    爆薬は将来の作戦を考へればこんなことに供用は
    出来なかった。  
    小川の魚は   すぐとり尽された。
    蛋白質の給源は「トカゲ」であり   蛇であり鼠、
    「バッタ」の類に   及ばざるを得なかった。
     (中略)    
    以上のような給養状態であるから負傷したものの傷は
    なかなか   癒らないし   病後の恢復は   むつかしく、
    マラリアの蔓延は   之を助長した。
    かくの如くして「タロキナ」   作戦にもまさる
    兵力の損耗を来した。   率直に云ふならば死ぬ前に
    一度、たった一度だけで良いから   腹一杯食べたい
    と思ったのは   死んでいった戦友だけではなかった。

戦線が   すでに   北太平洋に移行したので、連合軍側は  
この無力化した日本軍を無視し、あえて強攻を   加えることなく、
第十七軍は、もっぱら「飢餓」   という強敵とのみ   戦いながら、
おびただしい数の   「戦死者」ならぬ   「餓死者」を出しながら
惨めな敗戦を   迎えることになった。
「英霊」が   大量に増産された背景には、こうした惨状があった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(8)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:11 投稿番号: [1117 / 2250]
惨めな   ガダルカナル敗退後の   ソロモン諸島方面の状況は、
その教訓を   生かせず、補給困難な離島に   兵力を送り込み、
「飢餓」大量発生の悲劇を   繰り返すばかりだった。
ガ島撤退の際、ラバウルの第八方面軍は、新来の第六師団を
北部ソロモンの   ブーゲンビル島に送り、第十七軍の収容と
同島の警備に   当たらせた。

また   従来から少数の陸軍部隊を配備していた中部ソロモン
ニュージョージア島ムンダや   サンタイサベル島のレガタに、
海軍陸戦隊を増強した。   陸軍も新たに南東支隊を編成した。
しかし、1943年当時   すでにソロモン群島方面の制空権は
米軍の手中にあり、島々への   補給輸送は   困難をきわめ、
ガ島の   二の舞になることは、必至の状況   となっていた。

米軍の   中部ソロモンへの攻撃は、ガ島撤退から   4ヶ月後、
43年6月30日に   始まった。   7月上旬には飛行場を奪い、
8月中旬には   北部の島にまで   上陸した。
各戦線では   残存部隊が   敵中に取り残され、撤退もできず、
また   降伏することも   許されず、「置き去り」   となった。

北部ソロモンの主島   ブーゲンビルには、各方面から
撤退してきた   部隊が   集まっていたが、11月1日、
米軍は   日本軍の予想をうらぎって   ブーゲンビル島
西海岸の   タロキナ岬に   上陸した。

ブーゲンビル島は   ラバウル防衛のための   要点だった。
海軍は   航空兵力の主力をあげ、タロキナへの反撃を行なった。
この   ブーゲンビル島沖航空戦について、大本営は、戦艦4隻、
航空母艦5隻、巡洋艦10隻撃沈などの   大戦果をあげた――
と   発表したが、これは   例によって、まったくの虚報だった。

第十七軍は、ジャングルを踏破して   タロキナ岬を攻撃したが、
圧倒的な火力の差で   反撃に失敗した。
米軍は、タロキナの橋頭堡と   飛行場を確保した後は、
日本軍を深追いせず、すでに   次の作戦に移っていた。
北部ソロモン群島の戦いが続いている間に、米軍は中部太平洋
方面での攻撃を進展させ、43年11月にはギルバート諸島の
マキン、タラワ両島に   上陸し、海軍守備隊は   全滅した。

44年2月には、マーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島で
上陸した米軍に   陸海軍の守備隊が敗北、全滅した。
大本営は、これを   例によって   「玉砕」   と発表した。
同月17日、海軍の根拠地   トラック島が空襲で大損害を被った。
その後、ニューブリテン島はるか北方のアドミラルティー諸島を
占領されたので、ラバウルは完全に敵中に孤立することになった。

この段階で、ブーゲンビル島はもちろん、ラバウルの戦略的価値は
完全に失われた。   にもかかわらず、日本兵は投降できなかった。
撤退も降伏も許されない戦場で、皇軍兵士たちは   敵兵ではなく
より苛酷な   飢餓という   強敵との戦いを   続けることになった。
タロキナ作戦失敗後の   第十七軍の状況については、後述したい。
どのようにして「英霊」が大量増産されたか、実態を知ることで
ヤスクニ神社が美化する   戦争の真実を、明らかにできるだろう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(7)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:11 投稿番号: [1116 / 2250]
ガ島奪回作戦は、補給をまったく無視して   部隊を送り込み、
戦死者の3倍もの餓死者を出すという   悲惨な結果を迎えた。
大量の餓死者を出すというこの戦局で、何よりも問題なのは
補給が困難なのがわかっているのに   上陸作戦の強行を命じ、
長期間   撤退させず、持久戦を命じた   大本営の責任だろう。

その伏線は、すでに   ミッドウェー作戦にあった。
連合艦隊が   ミッドウェー作戦を   計画したとき、当初
大本営海軍部は   強行に反対した。   その反対理由のひとつは、
たとえ   ミッドウェーを攻略できたとしても、占領後の防備や
補給輸送が難しい   ということだった。
(参考文献:防衛研究所『戦史叢書・ミッドウェー海戦』)

じつは、陸軍部も当初は反対で、補給が難しかろうというのが
その理由だった。   しかし、海軍主体の   作戦なので、陸軍は
わずか歩兵一大隊主体の   一木支隊を派遣することにしたのだ。
一木支隊の兵力は   歩兵第二十八聯隊長一木清直大佐指揮下の
歩兵一大隊を基幹とする   約3,000名だった。

この   一木支隊が、ガ島の   奪回作戦に   振り向けられた。
制海権が失われていたために   輸送船は使えず、一木支隊は
駆逐艦で   ガ島に送り込まれた。   このため、重火砲などは
運ぶことができず、火砲や戦車をそろえて待ちかまえていた
米軍に   敵うはずはなく、わずか   半日の戦闘で   先遣隊は
全滅し、聯隊長は   自決した。

圧倒的な兵力の差はもちろん、武士道精神と   銃剣突撃で  
米軍の弾幕に   対抗できるはずは   なかった。
一木支隊惨敗の後も   大本営は、同じように   川口支隊、
第二師団、第十七軍と、兵力の逐次投入を   繰り返した。
補給は   輸送船が使えず、「鼠輸送」や「蟻輸送」に頼った。

「鼠輸送」とは、本来戦闘用の艦艇である高速の駆逐艦を使い、
「蟻輸送」とは、小型の発動艇を使って昼間は島の陰に隠れて
夜間に   少しずつ行なう   輸送のことだ。
どちらも   兵員や小火器を運ぶのがやっとで、重火砲や戦車を
運ぶことはできず、少人数の補充兵を   送るのがやっとだから、
大軍を支える補給品、弾薬や食糧を運ぶことは無理だったのだ。

そんなところに   陸軍兵力を   次々と送りこんだということは、
圧倒的に優勢な米軍の火力装備に   銃剣で勝てるという妄想を
軍上層部が   抱いていたからでは   ないだろうか。   さらには、
送り込んだ兵力への補給を無視し、持久戦を命じていたことは
精神力で飢餓を克服できると大本営は、本気で考えていたのだ。

歩兵の白兵突撃は、米軍の自動小銃と機関銃の圧倒的な弾幕に
なぎ倒され、ことごとく   全滅した。   ところが   日本軍は、
同じ失敗を、敗戦まで、他の島々でも   繰り返したのだ。
こうして、「玉砕」と称する   悲惨な全滅戦が全域で続けられ、
大量の   「英霊」が   生み出されていくことになった。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(6)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 08:10 投稿番号: [1115 / 2250]
補給もなく、飢餓と   栄養欠乏による疾病で、兵士が次々と
倒れていく   惨状にもかかわらず、大本営はガ島奪還作戦を
中断せず、11月16日、持久戦をせよ   と命令した。
第十七軍参謀長小沼治夫少将は、次のように   書いている。

    輸送、補給が続く状況に於ては   持久戦が成立するが、
    輸送補給が   途絶し   第一線将兵が飢え   杖をついて
    辛うじて歩行して居る「ガダルカナル」の第十七軍が
    持久任務を受けて   何時迄持久し得るやの回答は単に
    「敵の大攻勢を受ける迄持久し得」   といふに止まる。

    予が   大本営から持久任務を受領して   感じたことは
    「敵をして   大攻勢をとらしめないように   陣地特に
    アウステン山方面の陣地を   強化しつつ   進んで欺瞞、
    陽動及局部的積極行動を採り絶えず敵に危惧、圧迫感を
    抱かせる」   ことの必要であった。

つまり、補給が途絶えている状況で   持久戦を命じられたが、
見通しは立たず、結局のところ   敵に攻撃されるまで耐える
だけであり、できることとして   考えられるのは、局地的な
ゲリラ戦法等で   敵軍に   不安感、精神的圧迫感を   抱かせ、
攻撃を遅れさせるしかない、ということだ。
さらに   小沼参謀長の手記は   以下のように続く。

   第一線陣地の守兵中歩行に堪えない傷病者は   陣地の守備に
   任じ(壕内に寝て居り敵が近づいて来ると起き上って射撃し
   又は手榴弾を投ずる)。   杖に倚って歩行し得る者は後方の
   糧秣運搬及炊事を担任し   比較的元気の者は或は挺進斥候と
   なり(出発数日前から飯の配給量を増加し元気を回復させて
   出した)敵陣深く潜入して   後方撹乱を行なわせ   或は夜間
   敵陣地又は哨所を奇襲して   偉功を樹てる等上下一致、戦友
   相励まし終始積極的(局部的なるも)に行動し敵の大攻勢を
   遅らせるに役立った。
   
歩行できない兵士が陣地の守備、杖をついて歩く兵士は後方支援、
「比較的元気」のある者が   夜間奇襲などを   試みていたのだ。
このように   寝たきり状態や   杖を頼りに歩く兵士を抱えて、
ガダルカナル島の持久戦が行われていた。   これでは自滅作戦だ。  

防衛省の   公判戦史が、各種資料から推計した   数によると、
陸軍の   ガダルカナル島に上陸した人員は   31,400名、
そのうち、途中病気などで   離島した者は   740名、
撤収作戦で   収容されたのは   約9,800名   であるから、
じつに   20,860名   もの生命が   失われたことになる。

このうち、純戦死が5,000名から   6,000名であり、
残りの   約15,000名が   栄養失調症、マラリア、下痢、
脚気などの悪化による餓死や病死である   とされている。
(参考:防衛研究所『戦史叢書・南太平洋陸軍作戦〈2〉』)
つまり、純然たる戦闘死の3倍以上が   広義の餓死者なのだ。
このような悲惨な状況を自ら招いた「皇軍」には、本質的に
近代軍としては   致命的な欠陥があった   と言えるだろう。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 07:53 投稿番号: [1114 / 2250]
降伏を許されず、死ぬまで戦うことを義務づけられた兵隊が、
戦うための体力を失い、密林の中で   次々と餓死・病死した。
そうした状況を   生き延びた将兵が   残した手記がある。
以下、小尾靖夫「人間の限界――陣中日記」   より引用する。

   12月27日(1942年)
    今朝もまた数名が昇天する。
   ゴロゴロ転がっている屍体に蝿がぶんぶんたかっている。
   どうやら俺たちは   人間の肉体の限界まで   きたらしい。
   生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は産毛のように
   薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変った
   のだろう。
   体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。
     (中略)
   やせる型の人間は骨までやせ、肥える型の人間はブヨブヨに
   ふくらむだけ。   歯でさえも金冠や充填物が外れてしまった
   のを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きている
   ことを初めて知った。

   この頃アウステン山に   不思議な生命判断が流行りだした。
   限界に近づいた肉体の   生命の日数を、総計の結果から
   次のように   わけたのである。
   この非科学的であり   非人道的である   生命判断は
   決して   外れなかった。

     立つことのできる人間は・・・寿命三十日間
     身体を起こして坐れる人間は・・・・三週間
     寝たきり起きられない人間は・・・・一週間
     寝たまま小便をするものは・・・・・三日間
     もの言わなくなったものは・・・・・二日間
     またたきしなくなったものは   ・・・・明日

これが、ガ島の第一線部隊の   食糧欠乏がもたらした   状況だ。
こんな惨状に陥っている第十七軍に対しても、なおも大本営は
11月16日付で、持久戦をせよ   という命令を   下している。
裸の人間を   毒蛇の巣に放り込んでおいて、そこで   耐えろ
と言っているに   等しい。   これでは   まるで、意図的に
靖国の「英霊」を、大量に増産しようとしていたかのようだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 07:52 投稿番号: [1113 / 2250]
補給が   不可能ならば、近代戦では   「敗北」   を意味する。
それでも   大本営は、ガダルカナル島奪回作戦を   打ち切る
という決断を下すことができず、前線の指揮官も作戦中止を
言い出すことができず、ずるずると   無謀な戦いが継続した。

この間の   海空の大消耗戦で生じた   艦船、航空機、兵員の
莫大な損害は、取り返しのつかない   戦力喪失となり、
その後の戦況にも   大きな影響を   及ぼすこととなった。
大本営が、やっとのことで   ガ島からの撤退を決めたのは、
42年12月31日に   なってからだった。

撤収作戦そのものは、米軍に   察知されずに   成功したが、
かろうじて救出された者は、上陸した全兵力の   3分の1、
その兵隊たちも   栄養失調で体力を失い、餓死寸前だった。
この   ガ島惨敗の責任は、まったく   大本営の作戦にある。

装備も優秀で   準備万端を整えて上陸してきた   米軍に対し、
情報収集もせずに、わずか1000名で軽装備の一木支隊を
銃剣突撃で飛行場を奪回しようという、およそ戦理に反した
無茶な攻撃を実行させ、その後も   同じ失敗を   繰り返した。

一木支隊先遣隊が、米軍の火力に阻まれ、戦車に蹂躙されて
一瞬にして全滅したのに、何回も同じ戦法を繰り返したのだ。
制海・制空権を失ったために   闇夜の中の鼠輸送しかできず、
重火器も運べず、白兵突撃戦法しか採れない――
これでは、優秀な火力装備に   勝てないことは明らかなのに、
大本営は、装備も補給も軽視して   亡国的怠慢を犯したのだ。

装備が   運べないのだから、食糧も   運べない。
人間は   食糧がなければ   生きて行けない。
ましてや   戦闘に耐えうる   体力維持は   不可能だ。
大本営の作戦当局者たちは、前線に送り込んだ兵隊たちの
食糧補給を、いったい   どう考えていたのだろうか。

南太平洋方面の日本軍の   戦略基地であった   ラバウルと、
ガダルカナル島との間は   1100キロも   離れている。
制海・制空権を   奪われ、補給が困難なことは明白なのに、
3万を超す将兵が、身一つで   この島に送り込まれたのだ。
上陸した兵士たちは、背嚢に背負った   数日分の食料を
食いつくした後は、食糧の補給を   受けられなかった。

空腹に耐えかね、野生の植物を食べて   下痢をおこしたり、
有毒植物に当たる場合も   多かった。
栄養失調で   体力が衰えているため、赤痢や   マラリア、
その他の風土病への抵抗力もなくし、次々と倒れていった。
そうした記録を   掘り起こしながら、太平洋戦争の実相と
玉砕という愚挙を繰り返した日本軍の性質を考えていきたい。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 07:52 投稿番号: [1112 / 2250]
46年6月5日のミッドウェイの敗北によって、日本海軍は
主力空母4隻を失い、太平洋戦線における   制海権を失った。
それなのに、8月7日に   米軍がガダルカナルに上陸すると、
その時の前線基地ラバウルから、600カイリも前方にある
この島に、大本営は   次々と   兵力を送り込んでいったのだ。

米軍の上陸に   慌てふためいた大本営は、その奪回を決意し、
第十七軍を   その作戦に   当てることにしたが、とりあえず
急行させる   兵力としては、ミッドウェイ作戦用の   部隊で、
その中止後   グアムに待機していた一木支隊を送ることにした。

ところが   一木支隊を   急遽派遣するために、輸送船によらず
一木清直大佐以下1000名の先遣隊を駆逐艦6隻に分乗させ
急行させたのだ。   もともと   軽装備だった一木支隊先遣隊は、
駆逐艦輸送のため   重火器は持てず、食糧7日分だけを携行し、
戦車や重砲を持つ米軍から   飛行場を奪う任務を   負わされた。

一木大佐は、白兵突撃で   飛行場を奪回するつもりで、
8月1日夜   ガダルカナル島タイボ岬に上陸し、8月20日、
米軍陣地に突入したが、圧倒的な米軍の砲火によって全滅した。
一木支隊先遣隊の攻撃失敗後、第二梯団や海軍陸戦隊の輸送は、
制空権を握った   米軍機の妨害で   ことごとく   失敗した。

だが、大本営は   あくまでもガダルカナル奪回の意向を変えず、
パラオの川口支隊に続いて、ジャワから第二師団を第十七軍に
増加した。それらは   船団輸送ができず、「鼠輸送」とよばれる
夜陰に乗じての   駆逐艦による輸送に   頼らざるを得なかった。

辛うじてガ島にたどり付いた川口支隊は、9月11日と13日、
飛行場に   総攻撃を行なったが、強力な米軍の   砲爆撃を受け
携行食糧も尽きたため   失敗した。
10月24日、25日に第二師団主力による攻撃を行なったが、
これも   第一次攻撃と同じように   失敗した。

それでも   大本営は、奪回の方針を   変更しなかった。
11月中旬には   さらに第三十八師団主力をガ島に送った。
こうした兵力輸送のたびことに、輸送に当たった駆逐艦も、
これを援護する   海軍の航空兵力も艦艇も   大損害を受け、
とどまることのない   消耗戦の様相を   深めていった。

ガ島における   陸上部隊の状況は、悲惨の一言だった。
増援兵力を送るのさえ困難をきわめたのだから、補給物資を
送る余裕はなく、駆逐艦が   米などを   ドラム缶やゴム袋に
入れて、海岸の近くに投棄したりして、辛うじて   わずかな
補給をしているだけ   というありさまになっていたのだ。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 07:51 投稿番号: [1111 / 2250]
餓死という言葉で   まず思い浮かぶのは、ガダルカナルでの
餓死者の大量発生であり、ガ島は「餓島」と揶揄されるほど
これは   ひじょうに有名な   事実だ。
1942年8月から43年1月にかけてのガダルカナル戦は、
太平洋戦争での米軍反攻による戦局転換のきっかけになった。

ガダルカナル戦は、この島に日本海軍が建設した航空基地を、
上陸・急襲した   米軍の海兵   一個師団が占領し、
それを奪還しようとする日本軍との間で   戦われた攻防戦だ。
日本軍は、すでに制海・制空権を奪われていたにも係わらず、
飛行場奪回のために、次々と   陸軍の部隊を島に送り込んだ。

兵員・物資の輸送もままならず、かろうじて上陸した部隊も
補給が途絶している上に、利用すべき現地物資も皆無に近く、
餓死者続出の   惨状をもたらした。
半年後、装備を捨てて   生き残った人員だけを   かろうじて
撤退させることになった。   この敗退を   大本営は   国民に
「転進」   と発表したが、日本軍敗退の   第一歩となった。

ガダルカナル撤退を指揮したラバウルの第八方面軍司令官の
今村均大将は、その回顧録に   次のように   記している。

   五ヶ月以前、大本営直轄部隊として、ガダルカナル島に
   進められた   第十七軍の百武中将以下   約三万の将兵中、
   敵兵火により斃れた者は約五千、餓死した者は約一万五千、
   約一万のみが、救出されたのだ。

そして、自決して責任をとる   と申し出た百武軍司令官を
押し止めた言葉の中でも、次のように言ったと述べている。

   今度のガ島での敗戦は、戦によったのではなく、饑餓の
   自滅だったのであります。   この飢えはあなたが作った
   ものですか。   そうではありますまい。
   日本人の横綱に百日以上も食を与えず草の根だけを口に
   させ、毎日たらふく食ってる   かけだしの米人小角力に、
   土俵のそとに押しだされるようにしたのは、全くわが
   軍部中央部の過誤によったものです。

   これは、補給と関連なしに戦略戦術だけを研究し教育
   していた陸軍多年の弊風が累をなし、既に   制空権を
   失いかけている時機に、祖国からこんなに離れた、
   敵地に近い小島に、三万からの第十七軍をつぎこむ
   過失を、中央は   犯したものです。

今村大将による   この指摘は、まさにガダルカナル敗戦の原因、
餓死者大量発生の責任を   的確に衝く言葉ということができる。

大量餓死で「英霊」を増産した日本軍(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/27 07:49 投稿番号: [1110 / 2250]
南京において   日本軍による組織的な虐殺行為があった事実は、
多数の証言や   軍関係資料の記録によって   既に証明されており
現在の日本政府も、公式見解として   その事実を   認めている。
犠牲者数については   諸説あるものの、虐殺事件そのものは
日本国内の一部勢力を除き   世界中が事実として認識している。

事件があったか、なかったか、などという論議は過去のものだ。
否定派の多くも、南京事件そのものを   否定できなくなり、
犠牲者数を極力少なく見積もろうと必死に「だったはずだ」式の
個人解釈にすぎない   主観論を振り回すか、あるいは、
「他国の軍隊にも残虐行為がある」式の   姑息な議論すり替えや
免罪論に頼り、実相から目を背けるほかに手段がなくなっている。

いま   本当に必要なことは、南京事件の原因が   どこにあったか、
なぜ、防げなかったのか、という   検証作業であり、背景を探り、
そこから   いかに   教訓を導き出すかが、より重要である   と思う。

中国大陸に武力侵攻した   日本軍が、南京などで   捕虜にした
多数の中国軍兵士を   組織的に   大量殺害した事件の背景には、
日本軍の補給軽視の体質が   大きな要因だった   と考えられる。
自軍の食料さえも   確保困難な状況で、大量の捕虜が   発生し、
殺害に及んだ   という証言記録などが、それを   裏付けている。

日本軍の   補給軽視の戦略的欠点は、捕虜の殺害だけではなく
占領地において   略奪行為などが   多発する事態をも   招いた。
さらに、大戦の全般を通じて   日本軍兵士の   戦死者のうち
直接の戦闘での   死亡者数よりも   餓死者の数が上回るという
およそ   近代軍とは思えないような惨状を   招くものとなった。

第二次世界大戦における   日本人の戦没者は   約310万人。
そのうち、軍人軍属の   死者数は   230万人とされている。
特徴的なことは、その過半数が、餓死や病死であった事実だ。
「英霊」   の多くが、華々しく   戦いに散った   のではなく、
飢餓地獄の中での   惨めな野たれ死に   だったのだ。

栄養学でいえば、飢餓には   食物を   一切摂取しないで起る
完全飢餓と、栄養不足または失調による   不完全飢餓がある。
日本軍の   戦闘状況の特徴は、補給の途絶によって、膨大な
不完全飢餓を発生させ、その結果、完全な餓死だけではなく、
栄養失調のために   病気に対する抵抗力をなくし、マラリア、
アメーバ赤痢、デング熱等よる多数の病死者を出したことだ。

戦死よりも   餓死や   病死者の方が多い――
それが一局面の特徴的な状況ではなく、戦場の全体にわたり
発生したことに、旧日本軍の   特質を   みることができる。
補給もせずに、占領地の死守を命じ、退却も   降伏も許さず、
自軍を次々と   全滅させた大本営は、それを「玉砕」と称し、
美しく粉飾した挙句、餓死者たちを「英霊」   と誉め讃えた。

近代国家間の戦争で、これほど   悲惨な結果を招いたうえに
反省も改革も怠り、自画自賛ばかりを   最後まで繰り返した
軍隊が、はたしてあるだろうか。  
近代戦において、補給途絶は   それだけで   敗北を意味する。
大和魂だけで勝てるはずがない。   惨めな敗戦は当然だろう。

大儀なき侵略戦争に駆り出され、無謀な作戦に投入され、
悲惨な死を   強いられた   若者たちの   無念さを思い、
大量餓死や   無謀な玉砕戦法をもたらした   日本軍の責任と
特質を明らかにして、それを   歴史に残す必要がある。

大量の餓死や「玉砕」と称する全滅は、人為的なものであり、
その責任を、死者に代わって   告発しなければならない。
それによって、二度と再び   あの悲劇を繰り返さないように
未来へ伝える「歴史の教訓」   とすることこそが、
先人たちの犠牲を   無駄にしない   唯一の道だろうと思う。

南京での捕虜殺害

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 17:09 投稿番号: [1109 / 2250]
北京や上海、杭州での捕虜の扱いは悪くなかったのに、

なぜ、南京では殺さなければならなったのでしょうか。

そこには、そこでの特殊事情があります。


法には、緊急避難というものがあります。

本来は許されないことですが、それをやらないと、

自分が危ない場合には許される事があります。


今の日本人は自分が安全なところにいて、

他者を断罪するという恥ずべき事をしていますね。



児玉義雄大尉証言


《連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで接近して、

彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、

「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。

私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた。》



ところが、これには事情があったのです。


「佐々木到一少将私記」


《更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置してゐたが、暗黒の裡   (うち)   に

敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、人二百、馬六十の損害を被るが如き

失態を演じてゐる。 此騎兵又その後方に在った重砲も盛んに増援を請ふてきたが、

自衛力を有する者を顧みる遑   (いとま)   は無かった、

蓋   (けだ)   し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し、

側面に対して到る処激戦を交へてゐる情態だったからである。》



師団副官は   「支那兵の降伏を受け入れるな」   と電話で伝令した。

当然であったろう。すぐ隣の傘下の部隊からは、増援要請が相次いでいた。

それを佐々木少将は拒否していた。

そして、自衛力を有する者は自ら自衛して戦えと、全軍を叱咤していた。

このような激戦の最中、支那兵の投降を受け入れて武装解除にあたることは、

危険なことだった。



日本軍にも自己防衛の権利があったのである。

従って、彼我入り乱れた激戦の最中に、投降兵を受け入れる義務は、必ずしもない。

投降兵を処刑したとしても、やむを得ない。

必ずしも戦時国際法違反とは言えないのである。



安全な所にいて、人を断罪するのは、簡単ですが、自分がその場にいたら、

今、言っている事ができるかどうか、考えてみた方がいいですね。


米英軍なんて、自分が安全であっても、投降日本兵を虐殺したのですから。

敵傷病兵に施薬

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 16:46 投稿番号: [1108 / 2250]
これは、七百名の敵を捕らえるの、続きなので、H上等兵の所属は、たぶん、

歩兵第四十七連隊(大分)第三大隊第十二中隊と思われます。



東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫    164〜166p


《 H上等兵

黄浦江で汽船や帆船を見、ホーこんなところにも船がと感嘆の声を洩らして

なお前進し、河に面した村落で露営することになりました。

早速好きな食べ物はないかと永田上等兵と二人で行きますと、

家の陰に一人の男がうずくまって苦しそうに喘   (あえ)   いでいます。

すかしてみると敵兵です。しばらく佇   (たたず)   んで様子を見ていますと、

負傷でもないが如何   (いか)   にも苦しそうです。



起こして調べてみますと何も持っていません。

そして世の終わりのような顔つきで腹を指さし、ウンウン唸   (うな)   ります。

可哀相でしたので連れてかえり、クレオソートを飲ませて部屋の隅にねせておきました。

一晩中厠   (かわや)   に往復してはヒイヒイ年甲斐もなく泣いていました。

おかげでおちおち眠れもしませんでした。



翌日は共に退   (ひ)   いて歩けんと思いましたので、分隊全員で病に斃   (たお)   れた

敵兵に贈る義捐金   (ぎえんきん)   を募り、少ない糧秣   (りょうまつ)   を分けるとか、

後からくる友軍に依頼状を書いてやるとかしましたら、

すっかり感激して慟哭   (どうこく)していました。



敵傷兵に施薬−歩兵第四十七連隊(大分)   第二中隊   伍長   S・S


敵の大軍は、我が軍のために完全に撃破されました。

見れば幾十となく敵の死体が転がつております。

中にはまだ虫の息で唸っておる者さえおります。これを見られた隊長が、

「苦しいか、今、薬をやるぞ」

と何かやられますと、一兵士は目を開けて、

「冷水、冷水」

と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、

両手を合わせ涙をたたえ、 「謝、謝」   と伏し拝みました。



これは青浦城陥落直後の話ですが、今までに我が中隊では幾十人となく、

敵兵を救い、郷里に帰してやりました。

その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、

実に勇敢によく働いた者も沢山あります。

そして彼らが故里に送り帰される時は別れを惜しんで泣いて別れるのでした。

   謝々と   別れを惜しむ   村はづれ   》



*   日本兵は捕虜を虐殺したと言われていますが、   義捐金   (ぎえんきん)   まで

   募って援けてもいたのですね。

七百名の敵を捕らえる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 16:41 投稿番号: [1107 / 2250]
東中野修道   編著   『1937南京攻略戦の真実』   小学館文庫   162〜164p



七百名の敵を捕らえる − 歩兵第四十七連隊(大分)   七本部   H軍曹


《 杭州湾に上陸して連隊本部付きで、一線中隊は各二百発ずつ弾薬を携行し、

自分は後の弾薬を海月庵に集め、大隊小行李   (しょうこうり)   を纏   (まと)   めて

一線へと十日出発しました。

十三日に松江   (しょうこう)   に到着して、それから二里半ばかりのところで

一本道路でしたが、前方に支那人が沢山いました。

このとき自分たちの兵力は、十二中隊が分散兵を集合せしめて約一ケ小隊、

小銃が四十挺   (ちょう)   ぐらいでしたが、クリークの岸に戦闘準備をしました。



すると、敵の将校らしいのが、前方二町ぐらいの所で止まりました。

それでこちらも前進しましたが、敵には全然戦闘意志はなく、チェッコ九、

小銃百三十、モーゼル三を持った敵が、道路の両側にズラリと集まりました。

七百名ぐらいおりましたが、早速まず武装解除をさせました。

小銃には全部装填   (そうてん)   してありました。

〝これだけの人員が、それに比較して殆ど戦闘力のない我々に向かってくれば、

ひとたまりもなかったのに〟 と後でホーッとしたことでありました。

これらの兵器は輜重 (しちょう) 兵に持たせました。



黄浦江付近まで−歩兵第四十七連隊(大分)   第三大隊第十二中隊座談会より
A軍曹


松江を朝の七時頃出発しました。

横光分隊が路上斥候となり、部隊の一五〇メートル前方を前進、

その後に車両部隊が続行、その車両の間に二個分隊を適当の間隔に配置して、

一個分隊が後方警戒に当たりました。

道の曲がり角のところで、向こうから十名ばかり白旗をかかげてくるのに出逢いました。

斥候よりの報告がないので、小隊長殿が駆けつけて見られますと、

どうやら降伏してきたらしいのです。都合のいいことには小隊の坂部上等兵が

少し支那語が話せるので、訊ねさせてみますと、向こうの部落に同僚が

七百名ばかりいて、みんな降伏したいと言っているとのことです。



七百名 − 一寸   (ちょっと)   想像のつかない話です。

それに自分達は一個小隊   (約七十名)、車両部隊なんて戦闘力は無いも同じです。

敵に抗戦の意志があるとすれば、これは大変なことです。それでこちらは慎重にかまえ、

二個分隊で武装解除に当たり、他は全部戦闘隊形をとらせられました。

二十三連隊の大隊砲も通り合わせましたので、

これにも陣地進入をしてもらい、降伏兵がくるのを待ちました。

そうして待っている間に、崑山から帰りの軍参謀や軍属の方もこられて、

やがて、向こうから長蛇の列をなして、こちらにくる支那軍を迎えました。



皆逞 (たくま) しい顔つきをしている、無表情な彼らの神経に隠されているのが

何だろうかと一寸たじろぎもしましたが、虎穴に入らずんば虎児を得ず、と

武装解除をさせ、軍属にたのみ前進しました。

そのときびっくりしたのは彼らの持っていた書類の中に、

出征当時の六師団の中隊長以上の名が全部載っていたことです。



∪曹長

あれは実際特ダネだった。くるもきたり七百名の降伏兵を見たとき、

私はもう、戦争はじき済むと思いました。奴らも今頃は皇軍の協力者として、

新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。》



*   この人達は、捕まえた捕虜が

   「今頃は皇軍の協力者として、新支那へ力強い生命を吹き込んでいることでしょう。」

   と言ってるくらいだから、虐殺など考えていなかったんですな。

捕虜の扱いについて

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 16:33 投稿番号: [1106 / 2250]
wadatumi_voice21 君は、1933年に陸軍歩兵学校が配布した   参考書

「対支那軍戦闘法ノ研究」   の   「捕虜ノ処置」   や

1937年8月5日付   陸軍次官通牒を根拠に、

日本軍は中国人捕虜は虐殺してもよいという認識だったと言っているようだが。



では、通州で日本人居留民を虐殺した保安隊員を、釈放したのをどうする。

君の理屈では、辻褄が合わないよ。

上海で中国兵を捕虜収容所にいれていたのは、

塚本誠憲兵大尉が、スパイや便衣隊に疑われて毎日送り込まれる中国人を、

逃がしていたことを。


他にもあるよ。


『1937南京攻略戦の真実』   東中野修道   編著   小学館文庫   という本の中にある。

原本は昭和15年11月編纂の   『第六師団   転戦実話   南京編』   で

靖国神社の偕行文庫にある藁半紙刷りの分厚い上下二巻本。

これを東中野修道氏が印刷本にした。


ここでは、名前をイニシャルにしてあるが、

その理由は、執筆者から掲載の許可を得るため、

本人または関係者の連絡先を確認しようと努力したけど、65年前のことであり、

戦友会も解散しているため、多くの方に連絡できず、

仕方なくイニシャル表記にしたという事です。


戦時中に書かれたものですから、まだ、戦後の洗脳は入っていません。


あっそれから、第6師団は、杭州湾から上陸した第十軍だからね。

南京進撃を主張し、食糧は現地調達でも行くと言った、あの。


で、その一部を書こう。

12月26日 日本側和平条件中国に伝わる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 16:24 投稿番号: [1105 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   466p


駐日大使から報告を受けたドイツ外務省は、二十三日これを漢口の

トラウトマン大使に伝達し、同大使は、二十六日孔祥煕と宋美齢に伝えた。

(蒋介石は病臥)   中国側はその内容に極めて強い驚きを示した。




児島襄著   『日中戦争4』   258〜259p


駐支大使トラウトマンは、二十六日、

行政院副院長孔祥煕と蒋介石夫人宋実齢に会い、日本側覚書を手交した。

大使は蒋介石との会見を申しいれたが、病気だとのことであった。

二人は、覚書内容の日本側条件が過酷なものに一変しているのにおどろき、

夫人宋美齢は、大使に言った。



「まさか、ドイツ政府はこのような要求に味方されるはずはないでしょうね」


  副院長孔祥煕も、大きく吐息して、大使に告げた。

「日本はきっと、十の自治政府、十の非武装地帯を要求するにちがいない。

とても受けいれられない。日本は将来を考えるべきです。必ず自滅する将来を、です」

12月26日 第7連隊 南京を去る

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/26 16:16 投稿番号: [1104 / 2250]
この日、安全区を掃蕩していた第9師団の第7連隊が南京を去ったので、

南京に駐留しているのは、警備の第16師団だけとなった。


もはや、掃蕩はない。

根拠のない『植民地解放戦争』論(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 20:21 投稿番号: [1103 / 2250]
日本が突きつけた   21か条要求に対し、中国総統の   袁世凱が
「日本は、ヨーロッパ諸国が   戦争で、東洋のことをかえりみる
いとまがないのを   絶好の機会にし、この要求をして、わが国を
制圧しようとしている。   特に第5号は   中国を朝鮮と同じように
扱うものである」   と強く非難したのは、当然だった。

日本は、あらかじめ   要求内容を   イギリス・ロシア・フランス・
アメリカに示し、その了解を   取りつけていたが、しかし   実は
第5号だけは   隠していた。   袁世凱は、この第5号を積極的に
宣伝し、これにより   列強が   介入してくれることを   期待した。
期待どおり、まず   イギリス政府が、日本に   問い合わせてきた。

アメリカも同様に   日本に   第5号の有無を   問い合わせてきた。
これに対し、日本政府は、これは「希望条項」で、他の条項とは
別であると言い訳をした。   イギリスは、日本が   一部の条項を
明らかにしなかったことに   遺憾を表し、アメリカも   第5号の
公示を要求し、その内容を   批判した。

一方、フランスや   ロシアは、明確な意思を   表明しなかった。
各国とも   ヨーロッパの大戦に忙しく、中国のことなどに構って
いられないという状況だった。   中国政府は、国内世論を背景に
激しく   抵抗したが、日本は、山東・漢口・満州等の   駐留軍を
大幅に増強し、軍事的圧力を加えながら   要求受け入れを迫った。

大隈内閣は   1915年5月4日に   閣議を開き、中国に対して
「最後通牒」を出すことを決定。一方で国際社会の反発を恐れて
第5号を削除することに決めた。   そして、7日に   最後通牒を
中国政府に突きつけた。   喉元に銃口を   押し付けたに   等しい。
武力を背景とした   日本の脅迫に、中国は   屈するほかなかった。

日本人顧問を採用する条項等は除かれたものの、日本は   要求の
大部分を認めさせた。   これを知った   中国の民衆は、この日を
「国恥記念日」とし、激しい反日感情を喚起する   契機となった。
各地で   排日運動が起こり、中国の民族主義運動が高まったのは、
あまりにも   当然のことだった。

その後の   満州事変、そして   盧溝橋事件に至る   一連の衝突は、
そもそも   こうした大陸への   派兵、武力行使、主権侵害により
他国の権益を狙った   日本の国策が   背景となっていたのであり、
少なくとも   中国軍によって   日本固有の領土が   侵略されたり、
国家の独立が脅かされるなどの危機が存在していたわけではない。

脱植民地化の潮流は、早くも18世紀末にアメリカ大陸に始まり、
20世紀初頭には   ヨーロッパや   アジア、オセアニアにまでも
拡大しつつあった。   その歴史の潮流に   反抗し続けていたのが、
ほかならぬ日本帝国だった事実は、中国の半植民地化や武力侵攻、
朝鮮の独立運動を弾圧し続けた経緯からも   明らかだと言える。

日本帝国が、いったい   いつから、植民地の解放・独立を志向し、
国策とするようになったのか、まったく   不明確であるばかりか、
むしろ他民族の主権を奪い、支配し続けた事実があること、また
すでに   国際社会が、欧米列強による植民地獲得競争の時代から
脱植民地化に移行しつつあった状況などを   踏まえる必要がある。

この客観的事実に基づけば、日本帝国が「植民地解放」のために
戦争に突入する理由、根拠などは   まったく   成立しない。
過去の戦争が、植民地解放目的の   「聖戦」だった   というのは、
見苦しい言い逃れ、あるいは   単なる結果論に過ぎず、不正義で
野蛮な   侵略戦争を、到底   正当化できるものでは   ないのだ。

根拠のない『植民地解放戦争』論(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 20:21 投稿番号: [1102 / 2250]
20世紀初頭。国際関係の成熟と   民主主義の発展にともなって
脱植民地化の潮流が世界規模で拡大しつつあった。当時、すでに
他国の主権を   武力で侵害する行為は   厳に慎むべきものだった。
日本軍の行動は、強大な武力を背景として、他国主権を侵害する
行為に他ならず、国際社会からの批判と制裁を招くものとなった。

靖国教徒が   「植民地解放戦争」だったと宣伝する太平洋戦争は、
長年にわたる   中国大陸での戦争が、泥沼化した   延長にあった。
「植民地解放戦争」より前から、中国大陸への侵略は続いていた。
大陸侵略は、まず   第一次大戦で   国際社会が混乱している最中、
1914年に   日本がドイツから青島を奪った時から露骨になる。

大戦の勃発を   「日本国運の発展に対する   大正新時代の天佑」
(元老井上馨)   と考えた日本政府は、日英同盟を   名目として
ドイツの租借地である   青島を攻略した。   その目的は、単なる
軍事目的   ではなく、大隈重信首相が   閣議で   言明したように
「わが国の支那における権利を伸張する」   こと、具体的には
ドイツが保有していた山東省の権益のすべてを奪うことにあった。

その後、日本軍は   中国との協定を無視し、青島外にまで進出し、
山東鉄道を手中に収めた。   中国民衆は、この日本の軍事行動に
強く反発し、中国政府は、日本に   軍を引き上げるよう求めた。
ところが、日本は軍を引くどころか、中国の主権を極端に狭めて
日本が大陸の利権を奪う内容の「21か条の要求」を突きつけた。

中国の人々に突きつけた要求は、大きく   5つに分けられていた。
第1号は   4か条あり、山東省のドイツ利権を   そっくり日本が
受け継ぐことを中国は承認せよ   という要求が中心になっていた。
第2号は   7か条あり、旅順・大連の租借期限と、満鉄安奉線の
期限を、99か年   延長することを認めろ   という要求だった。

また、吉長鉄道の管理運営を   99か年にわたり   日本に委任し、
日本人に   南満州   および東部内蒙古における   土地の賃借権と
鉱山採掘権を認めることを   要求し、さらには   同地方において
政治、経済、軍事の顧問・教官を要するときは   日本と協議する
とういうことなどを   要求する内容と   なっていた。

第3号は   2か条あり、漢陽の製鉄所、大治鉄山、炭鉱の経営を
日中共同とし、日本政府の合意なく   その運営・管理ができない
ようにすることなどを   要求。   また、第4号では、中国沿岸の
港湾や島を   他国に貸すことを   禁じるものとしている。まさに
国家としての主権を蔑ろにし、植民地扱いするものとなっていた。

第5号では、日本人を   中央政府の政治・財政・軍事の顧問とし、
重要な地方の警察を日中合同とするか、または中国警察に多数の
日本人警察官を雇うこと。さらに、中国軍の   兵器の半数以上を
日本から供給する、または日中合弁の兵器廠を設立し、日本から
技師や材料を供給することを義務づけることなどを要求していた。

そのうえ、南昌を中心とする   鉄道の敷設権を   日本のものとし、
福建省の鉄道・港湾に関して   外国からの資金を必要とする場合
まず日本と相談することなどを   義務づけるものだった。
インド独立運動の指導者だった   ネルーも、この要求内容を見て、
「あらゆる権利を、日本にわたすものだ。   これを   認めるなら、
中国は事実上の植民地となるだろう」   と述べて批判したほどだ。

根拠のない『植民地解放戦争』論(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 20:20 投稿番号: [1101 / 2250]
戦前・戦中、思想弾圧に   威力を振るったのは   治安維持法だった。
公式の記録では   送検者75,681人、起訴5,162人   となっているが、
明治期制定の警察犯処罰令など   一連の治安法規も含めた逮捕者は
じつに   数十万人にも達したとされる。   また、記録には残されて
いないが、拷問・虐待による   多数の死者が出た   といわれている。

治安維持法は、日本国内の   反戦平和の主張を抹殺するだけでなく、
植民地独立運動の弾圧に   猛威をふるい、多くの人命を   うばった。
法適用の最初は   日本本土では1926年1月の京都学連事件だが、
朝鮮では   それより前年の   25年11月で、66人が検挙された。
治安維持法を使った弾圧は、朝鮮独立運動に対し、より苛酷だった。

それは、朝鮮半島でのみ同法違反による死刑が執行されたことにも
表れている。   また、日本本土では   28年から38年までの間に
同法違反で   無期懲役を言い渡された者は   わずか   1名だったが、
朝鮮では   39名に上った。   さらに、懲役15年以上の   刑では
本土が   7名であるのに対し、朝鮮では   48名となっている。

「朝鮮ノ独立ヲ達成セムトスルハ我帝国領土ノ一部ヲ僣窃シテ其ノ
統治権ノ内容ヲ実質的ニ縮小シ之ヲ侵害セムトスルニ外ナラサレハ
即チ治安維持法ニ所謂国体ノ変革ヲ企図スルモノト解スルヲ妥当トス」
これは、新幹会鉄山支部設置に対する   治安維持法違反事件における
30年7月21日付、朝鮮総督府   高等法務院での判決だ。

つまり、朝鮮が独立することは、帝国領土の一部を奪うことになる
という理屈で、植民地における独立運動も   治安維持法違反だとし、
死刑をもって   これに臨んだのだ。   このことだけを見ても、当時
日本帝国には、植民地解放や   民族主権の尊重   などという思考は、
一欠片も   存在していなかった   という事実が   理解できるだろう。

当時の   膨張志向を顕著化させていた   日本の帝国主義に対して、
石橋湛山は、1921年7月21日付の   『東洋経済』   社説で
「一切を棄つるの覚悟」   と題し、次のように   主張している。

   我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。(中略)
   もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、
   必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、
   山東を棄てる、支那が   我が国から受けつつありと考えうる
   一切の圧迫を   棄てる。   また   朝鮮に、台湾に自由を許す。

   その結果はどうなるか。   英国にせよ、米国にせよ、非常の
   苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き
   自由主義を   採られては、世界における   その道徳的地位を
   保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は
   一斉に   我が国に向かって   信頼の頭を   下ぐるであろう。

   インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は
   一斉に   日本の   台湾・朝鮮に   自由を許した如く、
   我にもまた自由を許せと   騒ぎ起つだろう。   (後略)

中国への侵略行為を中止し、朝鮮などの自由を認めて解放すれば
日本の国際的信頼が高まり、ひいては   列強の植民地支配体制を
根底から揺るがすことになる――   石橋の主張は   明快だ。
だが、残念ながら   当時の日本帝国は、「小欲に囚われ」続けた。
敗北するまで   「一切を棄つるの覚悟」を   持てなかったのだ。

根拠のない『植民地解放戦争』論(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 20:19 投稿番号: [1100 / 2250]
当時の   日本帝国に、本当に   植民地解放の志向が   あったのなら、
戦争を起こすよりも以前に、脱植民地化の進展に   歩調を合わせて
国際社会に対し、真剣に   植民地解放を   繰り返し   訴えたはずだ。
そして、誰よりも   率先して   自らの植民地支配を解消すると共に、
諸民族の主権を尊重し、他国への軍事的干渉を   厳に慎んだはずだ。

しかし、実際に日本帝国が取り続けた政策は、植民地の独立運動を
武力で弾圧することや、海外への派兵継続、特に   近隣国に対する
兵力増派による   軍事的圧力の強化という   露骨な主権侵害だった。
たとえば   日中戦争の発端となった盧溝橋事件は、日本領内ではなく
また、日中の国境地帯でもなく、中国の心臓部・北京近郊で起きた。

事件勃発の   前年に、日本帝国は   支那駐屯軍を、1800人から
5800人へと   大幅に増強し、中国政府からの強い抗議を無視して
増強部隊を、首都・北京の近郊にある豊台に   駐屯させた。
豊台は   北京の防衛の要であり、すでに   中国軍が守備していた。
対峙した両軍の距離は、わずか300メートルしかなかったという。

一国の首都の近郊に、他国の大軍が   強引に   居座っている状況は、
まさに   露骨な武力威嚇、無法な主権侵害以外の   何ものでもない。
戦争にならないほうが不思議だ   といえる状況を作りだしたうえに、
日本軍は   そこで   「演習」   を強行した。   徴発行為そのものだ。
発砲事件は、その日本軍の「演習」   の最中に発生した。

当時の   陸軍参謀本部第一部長であった石原莞爾も   証言している。
「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変の直接動機に
なつたと思ひます」   (「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)
根本的な問題は、どちらが先に発砲したか   などということでない。
戦争に至る原因を作った側が、「自衛」を口実にするのは見苦しい。

事件後まもなく、現地で停戦協定が成立し、戦火拡大を防ぐ条件が
あったにもかかわらず、日本軍部は、ただちに   大軍派遣を決定し、
翌月には、政府が「支那軍の暴戻を膺懲する」   との声明を出した。
陸軍参謀本部の中には   「対支一撃論」   と呼ばれる主張があった。
大軍で攻撃すれば、中国は   すぐに屈服する   と見ていたのだ。

日本陸軍は   10万超もの大兵力を送り、戦火は   一気に拡大した。
背景には、蒋介石政権を弱小と見て、「一撃で倒せる」   と考えた
日本軍の誤った状況認識があった。   出先の軍を率いる司令官らは
満州事変の経験から中国の力を過小評価し、独断で   南京攻略へと
武力侵略を続けた。   日本政府も   これを追認してしまったのだ。

日本は   他国への派兵・武力行使の一方で、植民地支配を強化した。
諸民族の「解放」や「主権回復」を   国家的願望としていたのなら、
帝国政府は   自ら支配する民族の   主権回復・独立を切望する声に、
真摯に応えていたはずだ。   しかし、長年にわたる朝鮮独立運動は、
度重なる武力弾圧で   多数の死傷者や   投獄者を出す事態となった。

朝鮮での独立運動の様子は、情報統制により   日本国民には正確に
伝えられなかった。   が、それでも   少数ながら   日本の国内にも
朝鮮民族の運動に   共感を寄せ、支持を表明した人々が   存在した。
そうした者の多くは迫害の対象となった。   「朝鮮独立支持」などと
主張するには、特高に逮捕されることを   覚悟せねばならなかった。

たとえば   朝鮮で、多くの独立運動家の弁護活動を無償で引き受け、
「日本のシンドラー」   とも呼ばれている布施辰治も、1911年
「朝鮮独立運動に敬意を表す」という一文だけで検察の取り調べを
受けている。   民藝運動で有名な   柳宗悦なども、総督府の弾圧を
批判し、朝鮮独立を支持したため、特高に監視されていたという。

根拠のない『植民地解放戦争』論(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 20:19 投稿番号: [1099 / 2250]
日本軍が引き起こした戦争が、『植民地解放戦争』   であったとか
『日本が起ちあがらなければ   アジア諸国は   独立できなかった』
という、靖国派などが盛んに宣伝流布する戦争正当化論については、
特定の政治信条や   感情論に捕らわれず、当時の情勢を   踏まえ、
史料や状況証拠などに基づき、客観的に検証する必要があると思う。

当時の日本帝国に、民族主権の確立や   植民地を解放する   志向が
あったのか、また、多くの命を奪う   悲惨な戦争を起こした目的が
本当に   そうした崇高なものであったのか、そして、日本が戦争を
しなければ、現実に   植民地解放・独立は実現できなかったのかを、
20世紀前半における   国際情勢などに照らして   考察すべきだ。

日本帝国が、本当に   諸国民の主権を尊重し、独立を希求していた
とするならば、他国領土への派兵や武力行使は   つとめて忌避した
はずであり、そもそも   戦争に突き進む前に、国際社会に   対して、
植民地諸国の解放を   繰り返し   働きかけ、また   誰より率先して
自らの   植民地支配を解消し、世界に   範を示していたはずだ。

戦争は、夥しい血を流し、人権を蹂躙し、環境を破壊する   蛮行だ。
それを正当化するために持ち出される   『植民地解放』という麗句。
しかし、アジア諸国解放は、日本軍敗北の   「結果」   にすぎない。
戦争の目的だった   と言える確たる証拠は、どこに   あるだろうか。
まず、当時の   世界における   植民地政策の情勢に着目してみよう。

事実として、日本軍が   戦争を引き起こすよりも   はるか   以前に
脱植民地化(Decolonization)   の歴史的潮流は、顕在化していた。
それは、早くも   18世紀末、アメリカ大陸において   始まった。
最初の引き金は、アメリカ独立戦争における   英国への勝利だった。
これを   皮切りにして、南北アメリカ大陸で   脱植民地化が始まる。

1804年には、中米の   ハイチが   フランスからの独立を宣言し、
ヨーロッパ列強の支配から脱却した   最初の   非白人国家となった。
1808年、ポルトガル最大の植民地だった   ブラジルも独立する。
1811年には、ベネズエラの議会が   スペインからの独立を宣言。
1813年には、パラグアイも   スペインからの   独立を達成した。

1900年代の   初頭までに、アルゼンチン、チリ、コロンビア、
ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドル、
コスタリカ、メキシコ、エクアドル、ペルー、ボリビア、ドミニカ、
ウルグアイ、キューバなどが   次々と   独立を宣言した。
北米でも、カナダが独立に向けて   自治権・外交権を   獲得する。

そして   アジアや   ヨーロッパでも、モンゴル、アフガニスタン、
アイルランド、ネパールなどが   自治権または完全独立を獲得し、
イラクの国際連盟委任統治が解除され、イギリスは租借港威海を
中国に返還し、アメリカが   フィリピンの独立を   約束するなど、
脱植民地化の動きは、確実に   世界的な潮流と   なっていった。

日本帝国が   太平洋戦争に突入する   直前の時期だけに   限っても、
1931年から   41年までの   10年間には、ニュージーランド、
カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが   完全独立を   実現し、
フィリピンも   自由連合州となり、独立を確定的なものとしていた。
さらに、中東のレバノンなども   独立を宣言するに   至っていた。

オイオイ

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:48 投稿番号: [1098 / 2250]
朝鮮まで範囲を拡げるのか、つきあいきれんな。

聖戦だとか、植民地支配とか、このトピの誰が言った。

ここは南京のトピだぞ。

朝鮮は、朝鮮関係でやってくれない。

聖戦は大東亜戦争関係で。

南京の書き込みが、君の大量の書き込みの中に埋もれて、わからなくなってるのだけど。

占領米軍の性犯罪3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:29 投稿番号: [1097 / 2250]
サピオ2007年4月11日号   65pより


《このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。

当時の朝日新聞   (1945年9月5日付)   は三段見出しで

「 神奈川県の女生徒は休校   教職員が家族を巡回指導」   と記している。

しかし、9月19日、GHQ   「プレスコード」   が発令されて以後は米兵を批判する記事は、

新聞紙面からすべて消えている。

これで米国は、 「強姦」   など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう。



しかし記述のように   「特高」   の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。

当時の憤りを取材して   『黒い春   (米軍・パンパン・女たちの戦後)』   を

1953年に五島勉氏が出版している。

その内容は、調書よりも残酷さがひしひしと伝わってくる。

五島勉氏は1948年から調査を開始し、本人やその家族・友人・事件の目撃者など

1000人にも及ぶ面接にもとづいて占領下の空白時期をまとめた。



その中の、元外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の北林余志子氏の作成した

米軍の横浜市内と県下の一部を含む、不法行動リストによると、

10月末日までで強姦29件となっている。

しかも、届け出ない件数は数十倍になると証言しているのだ。

五島氏は 「印刷ミスではない」 と断わってこう記す。



「T子 (十一歳・武蔵野市小学五年生) R子 (同) A子 (同) の三人は、

十月 (中略) 武蔵野の林のなかを伸よく手をつないで歩いていた」


〈 キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、

まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。

彼女達のスカートは切られ、何が起こったのか全然わからなかった。R子とA子は気絶し、

T子はまた泣き叫ぶと、アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った 〉

(要旨、以下同)


このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。



〈 N病院   (=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった)   は

三台のトラックに分乗した米兵によって、およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。

彼等の総数は二百人とか三百人とかという説もある。婦人患者のうち重症者をのぞく

四十数人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された 〉



「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、

その上にのりかかった」

「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、

一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」

「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」

そして、 「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、

彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」−− 慄然とする内容である。》



*   さて、wadatumi_voice21 さんよ、あんた日本軍だけが恥ずかしい事

   やったみたいに想っているようだけど、米軍も同じなんだよ。

   あんた、日本女性の被害者に対して、一片の憐みでも感じた事あるかい?

   ないだろうなー。

占領米軍の性犯罪2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:21 投稿番号: [1096 / 2250]
サピオ2007年4月11日号   64〜65pより


《 米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の

「性の暴力」   からいかに守るか、苦心惨憺   (くしんさんたん)   した様子を少し述べてみたい。

日本政府が   「慰安所」   設置に直接関与したのは、

戦時中でなく占領下の米軍   (進駐軍)   のためにだったのだ。

1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、

池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日

「特殊慰安施設協会」   (後に、国際親善協会RAAと改称)   が設立された。

その目的は、 「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」   となっていた。



GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。

しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。

実際は主権回復後まで膨大な数の女性が   「強姦」   されていた。



ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう

(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。

強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。

8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。


〈強姦事件

(一)   八月三十日午後六時頃横須賀市〇〇方女中、34   右一人ニテ留守居中、

   突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハ二階四畳半ニテ〇〇ヲ強姦セリ。

   手口ハ予   (あらかじ)   メ検索ト称シ、家内ニ侵入シ、一度外ニ出テ再ビ入リ、

   女一人ト確認シテ前記犯行セリ


(二)   八月三十日午後一時三十分頃   横須賀市〇〇方。米兵二名裏口ヨリ侵入シ、

   留守居中ノ右同人妻当〇〇三十六年、長女〇〇当十七年ニ対シ、挙銃ヲ擬シ威嚇ノ上、

   〇〇ハ二階ニテ、〇〇ハ勝手口小室ニ於テ、夫々   (それぞれ)   強姦セリ (以下略)〉



  同9月1日、房総半島に米軍上陸。ここでも事件発生。

〈 〇〇方ニ侵入セル米兵三人:留守番中ノ妻   (二八)(中略)   奥座敷ニ連行、

脅迫ノ上、三人ニテ輪姦セリ 〉


〈 九月一月午後六時頃   トラックニ乗リタル米兵二名   (中略)   市内〇〇ニ来リ

女中一名   (24)   連レ去リ   (中略)   野毛山公園内米兵宿舎内ニ於テ米兵二十七名ニ

輪姦サレ仮死状態二陥りタルモ   (中略)   三日米兵ニヨリ自宅迄送り届ケラレタリ 〉



  このような記載が   「特高」   解散の10月4日まで続く。


〈 九月十九日夜十一時頃、 (横浜市)   保土谷区、出征中〇〇妻 (27)、

(中略)   :侵入シ   「ジャックナイフ」   デ情交ヲ迫り、

被害者之ヲ拒否シテ戸外ニ逃避セルヲ   (中略)   畠   (畑)   ニ連行、

三名ニテ輪姦シタル。更ニ通中ノ三名ノ黒人兵ガ同所ニ於テ輪姦逃走セリ 〉



  調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。

  警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。

一般人は、 「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」「背広」   や   「ゲタ」

まで、手当たり次第に強奪されていた。


〈 九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハ   トラックニテ   横浜市中區

山手町二一二番地   共立女学校内、校長神保勝也ニ侵入

各室ヲ物色シタル後   現金二千七百十圓   及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ 〉



とこのような   「強奪逃走せり」   が続くのだ。

  その中に、首を傾げたくなる記述がある。

それは、 「民家に米兵が押し入り、若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」

との記述が散見することである。

  貞操は取り返すことができずとも、せめて当時、貴重だった   「腕時計」   だけでも、

取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。

先述した945件の強盗・略奪に強姦 (あるいは強姦未遂) も入っているのでは

ないかと考えるのはこのためである。》

つづく

占領米軍の性犯罪1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:15 投稿番号: [1095 / 2250]
サピオ2007年4月11日号   63〜64pより


《 ここでは、 「戦争と性」   の問題を考える上でひとつの史料を提供したい。

それは、GHQ占領下の日本人女性にたいする米兵の   「強姦事件」   についてである。

マッカーサーが厚木に降り立った直後に9件の強姦事件

占領初期のGHQ1945年9月   「月例報告」   では、 「日本人は米兵に協力的であり、

占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」   などと記載されている。

また、GHQ外交局長W・J・シーボルドは

「(米軍)   戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、

「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」   と記している

(『マッカーサーの日本』   1970年刊、新潮社より)。



しかし、これら米国側の記録は、事実ではない。

この米軍の   「嘘」   を暴く鍵は、占領下の1945年10月4日に解散させられた

「特高   (特別高等)   警察」(約6000人)   の記録の中にある。

米軍進駐後、 「特高」   は   「治安維持法」   に基づく監視の必要もなくなり、

もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。

前掲の   『マッカーサーの日本』   にこの記録のことが一部記されており、

原本をこの目で確かめてみたいと思った筆者は、国立公文書館でこの資料を発見した。

手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。

そのファイルが377ページに及ぶ   「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)   である。



マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの米軍の

不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。

ファイルによれば1945年8月30日〜9月10日の12日間分だけでも強姦事件9、

ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件

(この中には、後述するような理由で強姦事件も含まれていると考えられる)。



特別事件として   「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」

「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」   などが発生している。


「特高」 は解散命令が出た10月4日の記録も残している。その日の記録には

「各種学校、倉庫等ニ侵入シ保管品等ヲ不法徴発   被害発生場所   屋内10件

  屋外10件」「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」   などとある。

掠   (かす)   れたページもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月間で

少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。



実際、 「特高廃止」   指令が出ると、全国の   「特高」   は、書類を焼却してしまった。

しかし、 「特高」   の元締   「内務省警保局」   の秘密報告書は焼却されず、

この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。

その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文書館に所蔵されいた。


つづく

Re: 残虐行為の多発と慰安所増設の関係(5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:11 投稿番号: [1094 / 2250]
《 売春は、本来   公序良俗に反する「醜業」   であり、少なくとも
近代国家が   自ら推奨・普及できるような   生業では   なかった。》


あっそう、

軍が慰安所を開設したのは、恥ずべき事だと言いたいわけね。


では、強姦しまくれと言いたいの。

人間は生物だよ。

君には性欲はないのか。

兵隊は性欲を持たない機械じゃないんだよ。

これを抑えるために、慰安所を作ったんだけど。



ラーベの日記   12月26日

《 ミス・ミニ・ヴォートリン。・・・大変きまじめな女性で、

自分の大学に男性の難民を収容するときいて、びっくり仰天して反対したそうだ。

最終的には、男女別々のフロアにするからという条件で承諾した。



ところで、この人に恐ろしい事件が起こった!   彼女は自分が庇護する娘たちを信じて、

めんどりがひなを抱くようにして大切に守っていた。

日本兵の横暴がとくにひどかったころ、私はミニをじかに見たことがある。

四百人近くの女性難民の先頭に立って収容所になっている大学につれていくところだった。



さて、日本当局は、兵隊用の売春宿を作ろうというとんでもないことを思いついた。

何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、

ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。

それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。



ところが、そこへ唖然とするようなことが起きた。

我々がよく知っている、上品な紅卍字会のメンバーが

(彼がそんな社会の暗部に通じているとは思いも寄らなかったが)、

なみいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。

すると、驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出たのだ。

売春婦だったらしく、新しい売春宿で働かされるのを

ちっとも苦にしていないようだった。ミニは言葉を失った。》



「戦時慰安婦」   はこの時始まったようだけど、ここで明らかなように、

ここでは強制でも連行でもなかった。

売春婦を雇って働かせるシステムだった。


これがいけないのかい。

では、ソ連や米国のように強姦しまくれと言うの。

ソ連兵が満州で何をやったかは周知の事実だから、言わない。

米軍について言おう。


つづく

12月25日 第十軍 杭州を占領

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/25 19:03 投稿番号: [1093 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   431p


《 第百一師団主力は、十二月十日上海出発、十九日湖州付近に集結した。

師団長は歩兵一大隊から成る捜索隊をして、

二十日湖州を出発してシンガー山付近を捜索させ、

主力を二縦隊及び左側支隊に区分し、 まず武康付近を目標とし二十一日出発、

途中敵小部隊を駆逐し、二十二日武康北側地区に進出した。



二十三日、第十八、第百一師団は余杭−瓶窰−徳清の線に到達し、

二十四日朝、敵の抵抗を受けることなく杭州を占領した。

第一後備歩兵団は、二十二日嘉興出発、二縦隊となり長安方向に前進し、

崇徳、長安の敵を駆逐し、二十五日杭州に入城した。》

日本の他民族支配と独立弾圧の実態(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 00:06 投稿番号: [1091 / 2250]
当時の日本帝国に、植民地解放の志向が   あったのならば、
戦争を引き起こすよりも前に、国際社会に対し   敢然として
繰り返し   「植民地の解放・独立」を   訴えていたはずだ。
また、誰よりも率先して   自ら   植民地支配を解消しただろう。
民族主権を尊重するなら   他国への派兵を厳に慎んだはずだ。
しかし、日本帝国が   そのような行動とることは一切なかった。

靖国教団信者が   「解放戦争」   と賞賛する   太平洋戦争。
その戦争は、泥沼化した日中戦争の   延長上にあった。

ナチス・ドイツは、39年にポーランドに侵攻。翌40年6月には
フランスが降伏した。   この電撃的な侵攻は   世界を震撼させた。
当時、中国との戦争が   長期化・泥沼化していた日本は、
ドイツの   欧州での戦争を、日中戦争打開の好機   ととらえた。
対ドイツ戦争で弱っているイギリス、フランス、オランダが持つ
アジア太平洋の植民地を、武力行使により支配下におこうとした。

フランス降伏の翌月、日本は   大本営政府連絡会議で、アジアでの
武力行使方針を決定。   さらに「皇国の大東亜新秩序建設のための
生存圏について」   を決定。   「独伊との交渉において、皇国の
大東亜新秩序建設のための   生存圏として   考慮すべき範囲は、
日満支を   根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インド   及び
同太平洋島嶼、タイ国、英領マレー、英領ボルネオ、蘭領東インド、
ビルマ、豪州、ニュージーランドならびにインド等とす」   とした。

これらの方針のどこにも   植民地解放の理念は   示されていない。
日本は、ドイツと組んで   世界戦争に   参戦することで、
世界秩序を   一変させ、日中戦争の打開を   はかろうとしたのだ。
イギリス、フランスなどのアジアの植民地を『生存圏』としたのは、
その世界戦争のための   資源を獲得するために   ほかならなかった。

40年9月、日独伊三国同盟を結ぶのと   ほぼ同時に、日本軍は
フランス領北部インドシナに進駐。   41年7月の御前会議では、
さらなる「南方進出」方針を打ち出し、「対英米戦を辞せず」と
決定(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)した。
続いて   フランス領南部インドシナへの   武力侵略を開始した。
もちろん、そこに   「民族解放」の目的など存在していなかった。

南方進出方針を承認した   昭和天皇でさえ、この手法について
「相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂火事場泥棒式」
と語っていた(『木戸幸一日記』)。  
天皇も「火事場泥棒」のようだと評した   日本の南方進出に対して
国際社会が   石油の禁輸措置など制裁策をとったのは、当然のこと
であった   と言えるだろう。

「大東亜戦争」の最中、1943年5月の大本営政府連絡会議では、
占領した南方諸地域に対する方針「大東亜政略指導大綱」を決定。
そこでは、東南アジアの扱いについて、「マライ、スマトラ、ジャワ、
ボルネオ、セレベスは   帝国領土と決定」する   と明記されている。
その他の地域についても、「満州国」   並みの政府を   作らせ、
「独立」の形をとるが、日本の支配権は   確保する   とした。

「帝国領土」と   傀儡政府づくりとの   この仕分けそのものは、
情勢の変動とともに変化するが、各地域に   どちらの支配形態を
割り当てようと、東南アジアを   日本の支配下に置く   という方針は
終始一貫していたのだ。
これが、靖国教団が流布する大本営発表=「アジア解放の聖戦」の
実相であり、隠しようのない   歴史の真実だ。

日本の他民族支配と独立弾圧の実態(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 00:05 投稿番号: [1090 / 2250]
朝鮮では、その後も独立運動が続き、3・1運動から10年間に
「6・10万歳運動」や   「光州学生運動」   などが   起きた。
日本は、大量の警察官を   内地から半島に派遣し、1919年の
6,387人から   翌年には   20,134人へと急増させるなど
朝鮮全土に   軍や警察を配置し、独立運動の監視体制を強化した。

西大門刑務所には   数多くの独立運動家が収容され、処刑された。
朝鮮総督府警察は、日本内地の警察にはない   機関銃や野砲などの
重装備を保有し、準軍事組織的性格を   有していた。
植民地支配強化に血道をあげていた   軍国日本の   いったい何処に
「民族解放」・「独立推進」   の志向があった   と言うのだろうか。

日本帝国が   どれほど熱心に   国際社会に対し   民族解放を求め、
何度   繰り返して   植民地の独立を   訴えていたのか。
「植民地解放のための正義の戦争」   であったという宣伝文句を
臆面もなく   垂れ流すのならば、その事実を   提示すべきであるし、
自国の植民地を   最後まで解放しなかった理由を   明確にすべきだ。

内外の植民地解放運動を   武力によって   徹底的に弾圧した事実
のみならず、他国への派兵による   軍事行動の拡大という事実が、
当時の日本帝国には   民族主権の尊重や   植民地解放の志向など
まったくもって   存在していなかったことを   証明している。
他国の主権を尊重する意志が   少しでもあったならば、軍事力を
背景とした威嚇、挑発などは、厳に   慎むべきものだったはずだ。

靖国信徒などによると   日本軍の中国大陸への派兵、武力行使は
反日行動からの邦人居留民の保護   という口実も   あるらしいが、
そもそも   中国人民に反日機運を醸成し、さらに   軍事的緊張を
極限まで高める要因を作った責任は誰にあったかを考えるべきだ。
他国を不平等条約のもとで半植民地化に等しい状況に置きながら、
軍事的に挑発し、戦争に追い込んだのは誰かを考えてみるべきだ。

太平洋戦争の原因についても、米英などによる経済封鎖によって
日本が追い詰められた結果、自衛のため   やむなく起ち上がった
という口実が、靖国宣伝部によって   垂れ流されることがある。
その原因を作ったのも日本の軍事行動、他国への侵略行為であり
国際社会からの経済制裁を招いた責任は   自らにあったものだ。
戦争の原因を作った側が、「自衛」を口実にするのは、厚顔無恥だ。

日本の他民族支配と独立弾圧の実態(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 00:04 投稿番号: [1089 / 2250]
1919年に起きた   朝鮮民衆による   「3・1独立運動」   は、
中国の   学生や文化人たちにも、大きな影響を   与えた。
同年   5月4日、北京市内で   大学生たちが反日デモを実施した。
当初、5月7日の   国恥記念日を予定したが、日曜日のこの日に
変更した。   天安門広場には、約3,000人の学生が集まった。

プラカードには   「21か条を取り消せ」、「山東半島を返せ」、
「青島を返せ」   などと書かれていた。
日本は、ドイツ軍を破って   山東を占領したとき、中国や世界に
「山東は中国に返す」   と約束していたが、占領を継続したうえ、
パリで開かれた   第一次大戦の講和会議において   日本は
この山東半島の   領有権を要求し、列強に   認めさせていた。

もちろん、中国政府は   反発し、講和会議で   調印を拒否した。
中国の国民は   こうしたいきさつから、日本に対する   怒りを
募らせていたのだ。   学生たちは、市民に   ビラを配りながら
まず、日本公使館へ抗議しに行こうとしたが   警察に阻まれた。
逮捕者も出たが、多くの市民が   学生たちに   同調し、やがて
日本商品のボイコット運動など   排日運動が   続くことになる。

石橋湛山は、1921年7月21日付   『東洋経済』社説で
「一切を棄つるの覚悟」と題し、次のように   主張している。

   我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。(中略)
   もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、
   必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、
   山東を棄てる、支那が我が国から受けつつありと考えうる
   一切の圧迫を棄てる。   また朝鮮に、台湾に   自由を許す。

   その結果はどうなるか。   英国にせよ、米国にせよ、非常の
   苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き
   自由主義を採られては、世界における   その道徳的地位を
   保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は
   一斉に   我が国に向かって   信頼の頭を下ぐるであろう。

武力による他国への圧迫を止め、自ら進んで   植民地支配を止める。
そうすれば、日本の道徳的権威が高まるのみならず、世界列強による
植民地政策さえも転換せざるを得なくなる――   石橋の主張は明快だ。
残念ながら   当時の日本は、石橋が言う「小欲」に   囚われ続けた。
満州や山東半島の権益を捨てず、朝鮮や台湾に自由を許さなかった。
そして、道徳的権威を   投げ捨て、自ら血なまぐさい戦争に走った。

結果、数多の命を失い、国土を焦土とし、惨敗するに至った。  
アジア諸国の解放・独立は、そうした   欲にとらわれた日本帝国の
敗北・崩壊によってもたらされた   「結果」にすぎない。
歴史的事実にてらせば、日本帝国に   民族独立・植民地解放の志向など
存在なかったことは明白だ。   にもかかわらず、「結果」を拠所にして
いまさら、植民地解放戦争だった   などと、虚言を吐くのは恥知らずだ。

日本の他民族支配と独立弾圧の実態(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 00:04 投稿番号: [1088 / 2250]
1919年に朝鮮半島で起きた民衆運動   「3・1独立運動」では、
当初、日本軍は、ただちに市民集会やデモを解散させようとした。
しかし、独立を叫ぶ民衆の声は朝鮮全土に拡大する一方となった。
当時の原敬首相は   ことの重大性に驚愕し、ただちに3月11日、
朝鮮総督に対して   至急報で   次のように   命令を出した。

  「今回の騒擾事件は、内外に対し表面上には極めて軽微なる問題
  とみなすを必要とす。    しかれども、裏面においては、厳重なる
  処置をとり、将来再発なきよう期せられたし。ただし、その処置
  については、外国人の最も   注目する問題なるにより、いやしくも
  残酷苛察の批評を   招かざることに、十分注意されたし」

表面上では   朝鮮人民の独立運動を   「軽い問題」   として扱い、
その裏では   厳重に対処して   再発しないよう抑え込む。ただし、
対処の仕方は   外国から批判されないよう   十分に注意せよ――
日本政府が示した対応からは、朝鮮民族の主権尊重や植民地支配
から解放しようなどという志向は、一片も   見出すことはできない。

命令どおり、現地では「厳重な処置」がとられ、警察だけでなく
軍まで出動し、鎮圧で多数の死傷者、投獄者を出す事態となった。
一方、「内外に対し表面的には軽微なる」もの、つまり   一部の
「不逞鮮人が起こした暴動」   に過ぎない、との宣伝が流布され、
独立を求める   大規模な民衆運動という本質は、巧妙に隠された。

日本の国内世論は、3・1運動を「一部の暴動」とみなす論調が
圧倒的だったが、ごく一部には   運動に同情を寄せる識者もいた。
たとえば、大正デモクラシーの   主導者のひとり   吉野作造は、
『中央公論』などに   朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に
政治的自由を与え、同化政策を放棄せよ   との主張を   発表した。

また   孫文との交友で知られる   宮崎滔天は、朝鮮の独立運動を
「見上げたる行動」   と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、
独立を承認すべきである   と述べている。
このほか、石橋湛山なども   運動への理解を   表明している。
しかし、そうした主張は   少数派であり、ほとんど無視された。

朝鮮民衆の独立運動は、日本軍の鎮圧により   押さえ込まれた。
しかし、日本政府は   朝鮮民衆の   抵抗の根強さと、ひそかに
海外に脱出した   朝鮮人が、日本軍の残虐な武力弾圧の数々を
世界に   公表したことによる   国際世論からの攻撃を   恐れて、
従来の   統治方針を   大きく   改めざるを得なくなった。

原内閣は、習慣を破り   陸軍出身に代えて   海軍関係者を
朝鮮総督に   任命し、憲兵警察に代わって   普通警察とし、
官吏や教員も   帯剣をやめた。   同時に、統治に有害でない
という条件つきで   『朝鮮日報』や   『東亜日報』などの
朝鮮文字の新聞の発行も   検閲付ながら認めることになった。
3・1運動による、数少ない「成果」   であった   と言える。

日本の他民族支配と独立弾圧の実態(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/25 00:02 投稿番号: [1087 / 2250]
当時の日本帝国に、本当に「植民地解放」の志向が   あったなら、
世界に先駆けて   それを   率先、実行していたはずだ。   しかし、
現実は   逆であり、例えば   朝鮮では、自主権回復・独立を求め
運動が繰り返されたが、その都度   徹底した武力弾圧が行われた。
有名な例では、朝鮮全土で展開された「3・1独立運動」がある。

第一次世界大戦後、脱・植民地化が   歴史の潮流として   広がり、
民族運動が   世界的な高まりを示すなかで、1919年3月1日、
ソウル、平壌、開城などの都市で『独立宣言』が読み上げられた。
公園に集まった学生たちが   「独立万歳」を唱和しながら   行進。
その隊列に   市民が合流して   たちまち数万の群衆デモとなった。

この独立運動は、3月中旬には   朝鮮の全土に   拡大していった。
参考として、ウィキペディアの解説を   抜粋して以下に引用する。
  【三・一運動】
   1919年3月1日に   日本統治時代の朝鮮で起こった運動。
   (中略)   中心となったのは   天道教やキリスト教、そして
   仏教の指導者たちである。   彼等は会合を重ね   大衆化・
   一元化・非暴力の   三原則を取り決めた。(中略)
   独立宣言は、以下の   一文から   始まっている。

  「我らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民
   である事を宣言する。   これを以て   世界万邦に告げ  
   人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ  
   民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」

   タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、
   この宣言書は   何よりも朝鮮が独立した国家であること、及び
   国民である朝鮮人民が   自由であることに重きを置いたもので
   あり、そして   それは   「人類平等の大義」と   「民族自存」
   という原理に基づくものとして   捉えられている。   (中略)

   パゴダ公園には   数千人規模の学生が集まり、その後市内を
   デモ行進した。   道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に
   市民が参加し、数万人規模となったという。   (中略)
   朝鮮半島全体に広がり数ヶ月に渡って示威行動が展開された。  
   朝鮮総督府は警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

以上、ウィキの解説から   引用したものだ。
独立運動は、日本の   徹底した武力弾圧によって   鎮圧されたが、
この運動の影響は   大きく、同年4月の   インドの非暴力運動や
同年5月に起きた   中国の   五・四運動などの   先駆けとなった。  
そして、支配国である   日本帝国自身にも   大きな衝撃を与えた。  

ただし、日本国内では、この独立運動は   詳しく報じられず、
朝鮮人に共感を寄せたのは、白樺派の柳宗悦ら少数にとどまった。
もとより   当時の日本に   植民地解放の意志などは   微塵もなく、
独立という   朝鮮民族の悲願は、結局のところ   日本帝国の敗戦、
「皇軍」の崩壊を   待たなければ、実現されなかった。

南京事件に関する政府見解と国際常識(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 23:43 投稿番号: [1086 / 2250]
南京虐殺事件に関する   国際社会の認識を   知るうえでは、
日本国内の虐殺否定論や   それを反映した教科書記述問題に対し、
諸国がそれを   どう評価しているのかを   確認する必要がある。
たとえば、05年4月8日付英紙フィナンシャル・タイムズは、
「日本の責任」   と題した社説で、当時   議論となっていた
日本の教科書問題を   取り上げ、   次のように   論評していた。

社説は   まず   「過去に正面から向き合うことがアジアの怒りを
しずめる唯一の方法だ」   とし、   中国などでの   抗議運動を
引き起こしている要因は、日本の   国連常任理事国入りの動きと
「第二次世界大戦での   日本の蛮行について   年々、不正直に
なっている教科書を日本政府が承認したこと」   であると指摘。

さらに   社説は、   「中国政府が   1931年から45年までの
中国での占領と   残忍な行為について   日本を無責任な態度だと
非難するときに、(日本が)中国と論争しても無理がある」と述べ、
中国側に説得力がある   としている。   続けて、「問題の教科書は、
強制労働と従軍慰安婦、南京の大虐殺について言い訳をしている」
と指摘している。

そのうえで   社説は、日本が近隣諸国と   良好な関係を望むなら、
「日本は   その過去を清算しなければならない」   と結んでいる。
同時期、日中関係の緊張が   アラブ諸国でも   関心を集めるなか、
サウジアラビアの有力紙   アルリヤドの   05年4月20日付は、
「南京で何が起きたのか」   と題する   論評記事を   掲載した。

この記事では、日本の過去の   中国侵略を   告発するとともに、
日本政府の無反省が   現在の問題の根本にある   と指摘したうえ
「中国と   日本との間で起きている   現在の危機は、教科書問題
によって   引き起こされている」   と述べて、ナチス・ドイツの
犯罪同様に   日本が中国や韓国で犯した   「恥ずべき歴史」を
日本の教科書が無視しているとする中国側の主張を紹介している。

さらに、日本の侵略の実態を詳述し、様々な反人道的行為を行い、
七三一細菌戦部隊に関しては   「捕虜や   市民に   生体実験をし、
その結果が   製薬会社にも提供された」   と犯罪性を強調した。
また、戦後日本を占領した米軍当局が   実験データと引き換えに
七三一部隊を   免罪した事実をあげて、ニュルンベルク裁判で
戦争犯罪の実態が   明らかにされた   ドイツと比べて、
日本では   多くが隠された   とも指摘している。

そのうえで社説は、「それでもなお日本が否定できない   二つの
スキャンダルがある」   として、従軍慰安婦と   南京大虐殺を
あげている。
なんて   シツコイのだろう、と   南京事件否定派の   諸氏などは
歯ぎしりすることだろう。   しかし、このような   世界の反応は、
すべて   日本国内の一部で   繰り返し、シツコク   持ち出される  
「南京事件まぼろし論」や、教科書問題などが   喚起するものに
ほかならない。   身から出たサビ、自業自得である   と言える。

南京事件に関する政府見解と国際常識(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 23:42 投稿番号: [1085 / 2250]
日本政府としての公式見解は、前述したとおり   報道官発表や
政府答弁書などで   繰り返して   表明されてきたところだが、
それ以前に、そもそも   戦後日本が占領状態から独立を回復し
国際社会への復帰を果たす際に、サンフランシスコ講和条約を
受け入れた事実を、あらためて   確認しておく必要がある。

サンフランシスコ講和条約   第11条は   次のとおり規定した。

  「日本国は、極東国際軍事裁判所   並びに日本国内及び国外の
  他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁
  されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するもの
  とする」
条文中の   極東国際軍事裁判所とは、いわゆる「東京裁判」を、
他の連合国戦争犯罪法廷とは、南京軍事法廷などを指している。

東京裁判(1948年)   は、以下のとおり事実認定をしていた。
  「日本軍の占領中   最初の六週間の間に南京市内とその近郊で
  虐殺された民間人と捕虜の総数は20万人を超える。…ただし、
  この数字には、日本軍によって   焼かれた死体、揚子江へ投棄
  されたり   その他の方法で処理された死体は   含まれていない」

一方、南京軍事法廷(1947年)においては、
  「中華門外の   花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの
  箇所を合計すると、捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に
  機関銃で集団射殺され   遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、
  単燿亭など19万人余りに達する。   このほか   個別の虐殺で、
  遺体を慈善団体が埋葬したものが   15万体余りある。
  被害者総数は   30万人以上に達する」  
と認定している。

こうした判決の受諾が、戦後   日本国の出発点   となっており、
その意味で   日本政府は、この事実を   認めていることになる。
政府の見解は   現在も   外務省公式HPなどで確認することは
可能であり、報道官発表でも   明らかにしている。
では、日本国外における   南京事件に関する   認識はどうか。
海外では、   「南京虐殺まぼろし論」   を見出すことは難しい。

以前、一部のネトウヨが   鬼の首をとったように   「海外にも
南京大虐殺はなかったと主張する学者がいる」   という情報を
垂れ流したことがある。スタンフォード大学歴史学部長教授で
ピューリッツア賞の受賞歴もある歴史学者だという。  
たしかに   この学者は、「南京虐殺はホロコーストではない」
という一文を、日本の『正論』   に寄稿している。   しかし、
その内容を   よく読むと、南京大虐殺の否定説   などではない。

この寄稿は、『レイプオブ南京』   の著者による   度を越した
日本非難に懐疑を呈するなど、その執筆意図と記述の信憑性を
批判しているだけであり、むしろ   ヤスクニ派などが   常日頃
呪詛の的にしている「村山談話」   までを   引き合いに出し、
戦後の日本が   公式に侵略の罪を認めていることを   述べて、
「日本は虐殺の事実を否定している」との非難から現代日本を
擁護しているのだ。

皮肉にも、ここで   ヤスクニ派お得意の「大東亜戦争は解放戦争」
「村山談話の早期撤回を」   といった宣伝を繰り出したりしたら、
くだんの学者さんの   日本擁護論は、ぶち壊しに   なってしまう。
「海外に南京大虐殺はなかったと主張する学者がいる」どころか
逆に、海外では   誰一人も   否定説などを   認めていないことは
彼の書いたものを読めば   嫌でも   わかるようになっているのだ。

南京事件に関する政府見解と国際常識(3)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 23:40 投稿番号: [1084 / 2250]
1999年5月14日、当時の石原都知事の発言に対し、外務省
報道官が   会見で表明した   政府の公式見解は、「日本軍の南京
入城後、非戦闘員の殺害あるいは略奪行為があったことは   否定
できない事実である」   というものであり、日本政府としては
その一貫した考え方に変更はない   とするものだった。
なお、このとき   記者の質問に対し、次のような答弁があった。

  (問)   石原知事は南京事件の事実よりその規模に関心を
   持っているようだが、日本政府は   被害規模については
   どう考えているのか。
  (報道官)   日本軍の南京入城後、すなわち   1937年に
   多くの非戦闘員が殺害あるいは略奪行為などに遭ったことは
   否定できない事実であると考えている。
   具体的な人数については   数千人から30万人、40万人に
   至るまで   様々な説があり、政府として   どれが正しい数か
   認定することは   困難であると考えている。

事件の被害者数について、政府として把握することが困難である
というのは、いささか   無責任であるとも思える。   この姿勢が、
「まぼろし論」   などが繰り返し湧いて出る土壌を作り、問題の
解決を遅らせる   要因となっている。   ただし、残虐行為自体は
政府としても   「否定できない事実」   と認めざるを得ないのだ。

次に、06年   当時、河村たかし衆院議員(現名古屋市長)が
政府に提出した   「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問
主意書」に対する   政府の見解内容を   確認してみよう。
当時の   小泉内閣は、河村議員の質問に対し、「旧日本軍による
南京入城後   非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは
否定できない」   と答弁している。(以下、答弁書より引用)

  平成十八年六月二十二日受領   内閣衆質一六四第三三五号
  平成十八年六月二十二日   衆議院議員河村たかし君提出
  いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問に対し、別紙
  答弁書を送付する。
  一について
   1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害
   又は略奪行為等があったことは否定できないと考えている。
    (中略)
  二、三及び五について
   御指摘の「事件」については、御指摘の「新たな研究成果」
   を含め、種々の議論があることは承知している。お尋ねの
   「既に検証された記録」   が何を意味するのか   必ずしも
   明らかでないが、これまで   公になっている   文献等から
   総合的に判断すれば、非戦闘員の   殺害又は略奪行為等が
   あったことは   否定できないと考えている。(以下、省略)

このように、政府の公式見解は、繰り返し   表明されている。
いずれも、日本軍による   非戦闘員の殺害または略奪行為等は
否定できない事実であるという認識は、一貫して変わらないが、
規模や犠牲者数などの   推定は困難としており、残念ながら
政府として   全容解明を目指そうという姿勢には   乏しい。

南京事件に関する政府見解と国際常識(2)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 23:38 投稿番号: [1083 / 2250]
「日本政府としては、日本軍の   南京入城(1937年)後、
多くの   非戦闘員の殺害や   略奪行為等が   あったことは
否定できない   と考えています。」
「しかしながら、被害者の具体的な人数については   諸説あり、
政府として   どれが正しい数かを認定することは困難であると
考えています。」

「日本は、過去の一時期、植民地支配と   侵略により、多くの
国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を
与えたことを率直に認識し、痛切な反省と   心からのお詫びの
気持ちを   常に心に刻みつつ、戦争を   二度と繰り返さず、
平和国家としての道を   歩んでいく決意です。」
(以上、外務省の公式HPより抜粋)

日本政府の公式見解は   上記のとおりだが、南京事件に関して
「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為」   は否定できない事実と
認めるにとどまっており、婦女暴行や   大量の捕虜の虐殺など
具体的内容には   言及しておらず、なお   曖昧さが残っている。
なお、1998年12月25日に外務省報道官が   記者会見で
以下のように   発表している。

(報道官)   12月22日東京高裁において、いわゆる南京事件に
   かかわる当事者の「戦中日記」について第2審の民事訴訟判決
   があり(中略)政府としてコメントする立場にはないが、若干
   の点について申し上げておきたい。
   (中略)
   政府としては   いわゆる「南京事件」をめぐり   種々の議論が
   あることは承知しているが、1937年の旧日本軍の南京入城
   の後、非戦闘員の殺害   あるいは虐殺行為等が   あったことは
   否定できない事実であった   と考えている。
   また、政府としての歴史認識については、これまで   累次表明
   してきている通りであり1995年8月15日の内閣総理大臣
   談話を柱としており(中略)その考え方には何ら変更はない。

次に、1999年5月14日の   同じく   外務省報道官会見での
発表内容を   以下に引用する。   これは、石原都知事が   当時、
南京事件などに関し「政府の正式な見解を聞いたことがない」
などと発言したことを受けて   行われた会見だった。

(報道官)   昨日の新聞紙上で、都知事が改めて台湾、南京事件、
   チベット問題について   個人の考えを   表明しているが、
   その中で「日本政府の正式な見解を聞いたことがない」   と
   述べておられるようなので、それぞれの   問題についての  
   政府の考えをここで   改めて簡潔に述べておきたいと思う。
   (中略)
   いわゆる南京事件については、その事実関係をめぐり種々の
   議論が存在していることは承知しているが日本軍の南京入城
   後、非戦闘員の殺害あるいは   略奪行為等が   あったことは
   否定できない事実である   と考えている。(後略)

南京事件に関する政府見解と国際常識(1)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/11/24 23:36 投稿番号: [1082 / 2250]
日中戦争下の1937年に   南京で発生した事件の呼称については
中国や台湾では「南京大屠殺」、   欧米では   Nanking Atrocities、
The rape of Nanking   または   Nanking   Massacre   と呼ばれる。
日本国内では、一般に   「南京虐殺事件」   「南京残虐事件」、
あるいは   単に「南京大虐殺」、「南京虐殺」   と表記されるなど
呼称については   多様なものとなっている。

近年の   歴史教科書などには、「南京虐殺事件」   の略称として
単に「南京事件」   と記されることも多いが、
そのまま   英語に直訳すれば、“Nanking   Incident”   となる。
“Incident”とは、偶発的な事件や「ちょっとした事件」という
ニュアンスでも用いられる言葉であり、大虐殺や残酷行為を指す
“Atrocities”や   “Massacre”   などとは   語意が異なる。

これに関し、米国のジャーナリスト   ポール・グリーンバーグは
アーカンソー・デモクラット=ガゼット紙   07年3月7日付の
「否認の魅力」   記事において、「南京事件」   という言い方は
婉曲表現であり、例えば   ドイツの教科書においてホロコーストを
「アウシュビッツ事件」   と称するようなものだ   と批判している。

呼称一つをとって見ても、この事件に関する   国際的認識と
日本国内での   認識度には   大きな格差が生じている。
1970年代、日本国内で   一部の論者が、右翼雑誌などに
「南京大虐殺まぼろし」   論を   展開し始めた。   それ以降、
事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、
死傷者数、方法などを巡って   日本国内では   議論を呼んでいる。

この論争は   残念ながら純然たる学術論争ではなく、特定の歴史観、
政治信条にもとづく   イデオロギー論争の様相が   より強くなり、
誹謗中傷ばかりが目立つ   ドロ試合となっており、出口が見えない。
その原因の一つは、敗戦時に   軍部も政府も   責任の追及を恐れて、
証拠湮滅のために   多くの関係書類を   処分したことによる。
限られた断片的な記録や証言などから   全容解明に至るのは難しい。

また   戦後日本で、戦争原因や責任究明が   きちんと行われず、
戦争を美化し   戦争犯罪を隠蔽する勢力が   温存されたことも
関係している。   日本政府としては、この問題を過去の事として
曖昧なまま   歴史の彼方に   忘れ去られることを   望んでいたが、
皮肉なことに、南京事件否定派が問題を蒸し返し、内外に波紋を
広げたため、あらためて   公式見解を   求められる結果となった。

政府の公式見解は、外務省のホームページ「歴史問題Q&A」の
「南京大虐殺に対して、日本政府はどのように考えていますか」
という質問に   答える形で、以下のように   明示されている。
「日本政府としては、日本軍の   南京入城(1937年)後、
多くの   非戦闘員の殺害や   略奪行為等が   あったことは
否定できない   と考えています――   」

Re: 南京などで残虐行為が多発した背景(5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/11/24 23:08 投稿番号: [1081 / 2250]
>もともと・・・目的が不明確なうえに、各戦場では、予想を超えた
  中国人たちのはげしい抵抗に直面して、多くの戦友を失い、死の恐怖に苛まれた
  日本兵士たちには、中国人民への憎悪と侮蔑感情だけが   かぎりなく増幅し、
  理性と規律を   喪失していった。<



そう、最初から、そういえばいいのだよ。

この戦争は、侵略しようとか、そういう目的はなかったんだよ。

中国側から、攻撃されたから、已むを得ず応戦して、ある程度制圧してから、

停戦や和平を持ちかけた、ところが、中国側は応じなかった。



停戦協定結んでも、こっちが動かないので安心して襲撃してくる。

女、子供と安心していたら、手榴弾を投げつける。

ビルに外国の旗を掲げ、日本軍が近づいたら、旗を降ろして銃撃する。

ルールも何もあったもんじゃない。



だから、こうなったんだよ。

戦争では殺人はつきもの。

虐殺云々するなら、最初から戦争をしかけなければいいんだよ。

いや、日本が停戦や和平を持ちかけた時応じていれば、それ以上の被害はなかったのだよ。



日本が上海を解放した後、和平案を出した時、応じていれば、南京戦はなかった。

この和平案は後に、白崇禧将軍も

「たったこれだけの条件なら、なんのための戦争か」

と言ったくらい温和なものだった。


その前に、中国が上海攻撃を始めなければ、上海戦はなかった。

中国が大山中尉を虐殺しなければ、恐ろしく有利な条件で和平が結べていた。

もっと前、中国が盧溝橋事件の停戦協定を破らなければ、事件は極地の小競り合いだった。

その前に、中国が盧溝橋事件を仕掛けなければ、犠牲は何もなかった。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | [ メッセージ # オフセット ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)