竹島

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投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/29 15:26 投稿番号: [2800 / 18519]
>整合性で言うと根本論文が分かりやすいですが、いちおう慎重に塚本論文と内藤論文の見方を双方ともにあげておきます。

根本→塚本

外務省

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/29 13:18 投稿番号: [2799 / 18519]
>一方、そうした流れの一環として、島根の伺いの前提として外務省からの島根への照会も念頭にも置きました。当時、外務省が島名の理解において混乱を見せていたことはご承知の通りです。

内藤正中によると渡辺局長が島根県への照会と船の派遣調査を提案し、それによって政府の対処が行われたとしています。「この提案にもとずいて、江戸期以来の鬱陵島との関係史をもつ島根県に対する照会が行われた(p.131)」。したがって、照会にあたってはまず外務省の提案があったものと判断していましたが、塚本論文では内務省からの照会になっていますね。
------ -
明治9年10月内務省地理寮の係官が島根県を巡回した際、旧藩時代の竹島渡海についての情報に接し、島根県地籍編製係に詳細を照会した。島根県令(代理)はこれをうけて大谷家の記録等に基づき「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務卿あてに提出した。(半月城通信より再引用)
------ -
内務省が独自で照会したのか、あるいはもとは外務省からの明治政府への照会要望があり、それが内務省の巡回の折りの照会へとつながったのか、その詳しい経緯は私には分かりません。整合性で言うと根本論文が分かりやすいですが、いちおう慎重に塚本論文と内藤論文の見方を双方ともにあげておきます。

>明治政府の竹島=独島放棄

投稿者: mekatarami 投稿日時: 2003/12/29 08:36 投稿番号: [2798 / 18519]
相変わらず、途中までは歯切れのええ文章ですなァ。

>失礼ながらahirutousagi2さんもさらに考察が進めば、いずれ竹島=独島
>問題の研究者と同じ結論、すなわち外一島は竹島=独島であり、明治政府は
>それを放棄したという結論に達するだろうと思われます。

ほうほう、なるほど。私らみたい者は知りませんでしたけど、誰が見ても
「確かに!」をうなづかせるような資料があるわけですなァ。

>その結論は、学術書を書くような研究者間においてはもはや異論が
>ありません。下記に書いたように、誰一人として異議をとなえていません。

来た!来た!「下記に書いたように」!
いよいよ、その資料をご紹介いただけるわけですなァ。

で、その資料が!


http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.672















なんか、期待して損しましたなァ。

そんなことより御大将。

「于山島」が「石島」として大韓帝国勅令に記載され、それがわずか数年で
「独島」に変わってしまった経緯、なんぞわかりましたかいなァ?

要約

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/29 04:40 投稿番号: [2797 / 18519]
どうも私の書き方が分かりにくい部分もあるでしょうから、再びこの件(外一島)の理解について重要部分のみくり返しておきます。

私は島根県の伺いにおいて、島根県は伝統的な竹島(鬱陵島)・松島(独島)を意識していたのは確かだと思っています。そして内務省・太政官の判断も同じく「竹島と松島」を指しているとして、私は2729で次のように書きました。
------ -
>放棄という言葉が適当かどうかは知りませんが、明治政府が島根県の伺いたてた竹島・松島を日本国領土としなかったことは明示されているかと思います。
------ -
このように竹島・松島を日本の領土としないというのが内務省・太政官の判断でした。しかし、私が問題としたのはこの「松島」が内務省・太政官においてどこまで「地理的に」正確に理解されていたかです。

仮に松島を鬱陵島附属の于山であり日本領土でないと内務省が規定したとしても、その「松島」が実質上、地図のどの島を指して意識されたのかは不明だと申し上げたのです。

そして、結果として三年後、軍艦天城の実測調査によって鬱陵島が「松島」と確定されたわけで、とりあえず明治政府としては鬱陵島までを「本邦関係無之義」としたと考えてよいものとしました。

一方、そうした流れの一環として、島根の伺いの前提として外務省からの島根への照会も念頭にも置きました。当時、外務省が島名の理解において混乱を見せていたことはご承知の通りです。

このような外務省あるいは地図の混乱は、内務省などにおいても原則論(竹島・松島を版図とせず)とは別問題に、地理的な把握・判断において何らかの影響があったものと考えられる、としました。

以上が大まかなまとめです。分かりにくくて恐縮です。なお、私が2716で渡辺局長の文書をそのままに「政府」としたのは確かに不適切な理解で、これについては有意義なご指摘を感謝します。この部分のみ撤回します。

感謝(2)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/28 14:28 投稿番号: [2796 / 18519]
>ahirutousagi2さんは #2716において、<政府はもとより「ホル子ツトロツクス」は日本と考えており>と書き、外務省の一局長の考えと日本政府の考えを一緒くたにしているようです。

ご指摘の「一緒くた」の非難は受け入れるとして、当時、外務省で島名の混乱があったのは確かでしょう。そうした混乱は後の内務省・太政官の判断にもかなりの影響を及ぼしたものと考えています。

いずれにしても、三年後、軍艦天城の実測調査によって鬱陵島が「松島」と確定されたわけで、とりあえず一貫性を考えれば鬱陵島までを「本邦関係無之義」としたと考えてよさそうです。

>しかし、当時において海の国境を明確化するのが海軍の仕事であったので、海軍の考えこそが日本政府の代表ともいうべき性格をもちます。その海軍がリアンクール岩を朝鮮領と考えていたのは愼𨉷廈氏が指摘しているとおりです。

これは水路誌のことかと思いますが、外一島よりももっと後の話ですね。このあたりについてはまたいずれ。私はあくまでも1877年の「外一島」が何を指すかについてのみを考えたに過ぎません。

>つぎに ahirutousagi2さんがこだわる外務省の渡辺局長ですが、ひとり<「ホル子ツトロツクス」の我国に属するは各国の地図皆然り>と書きましたが、そのような「各国の地図」が存在しないことはいうまでもありません。さらに、Am_I_AHO_1stさんが書いているように、自国の領土は外国の地図で決まるものでもないので、領土問題において当該国以外の地図は無用です。

言及の地図が何をもとにしたものであるかは私も知りませんが、問題は地図そのものにあるのではなく外務省が一連の島についてどのように把握をしていたかにあります。したがって、私は以前にアホさんに、次のようにレスしたことがあります。

「私がこの部分を引用したのは「外一島」の意味を政府がどのように捉えていたのかをできるだけ客観的に判断するための材料に過ぎません。あしからず(2755)」

島根の伺いに松島(独島)がほぼ正確に把握されているから政府判断は独島を放棄したことを意味するという主張よりは、周辺の理解を整合的にとらえることで外一島が何を指すか明らかにすべきであり、その一環として渡辺の文書は重要であると言わねばならないものと考えます。

感謝(1)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/28 13:13 投稿番号: [2795 / 18519]
半月城さん、レスをありがとうございました。一部に訂正があったことはお詫びしなければなりません。大きく訂正を入れたのは竹島考証の地図(p.271)で観音島とchuk-doを見誤ったことです。あとはさしたる訂正はなかったかと記憶しますが、とにかく失礼しました。

文章も読みづらく恐縮ですが、その時、その時で理解度も違い、読んだ資料も増えてくるので話が分散したりするのはどうしてもやむをえない部分があり、私としても申し訳なく思っています。

先に書いたように、私の一連の書き込みはもとよりご紹介の問答に疑問が生じたことから始まった私なりの再検討です。勉強の過程ですから読みにくい点もあるかもしれません。結論を読み取りにくいとありましたが、結論そのものはありません。検討中です。

ただ、結果として申し上げれば、今のところいくつか話題にしたところでは韓国側の主張にはあまり同意する立場にはなれそうにありません。また、半月城さんの意見にもあまり同意できそうにない部分が多々あるようです。

>どうもahirutousagi2さんの論旨を読みとりにくいのですが、「政府側」とは具体的に何をさすのですか?

内務省および太政官の判断です。

>内務省、ついで太政官が島根県からの伺書を審査するのに、松島(竹島=独島)が記述された資料を含めてすべての書類を十分吟味しなかったといいたいのですか?

島根県からの伺いに対して内務省・太政官が松島・竹島について正確な把握をしていたとはどうも考えがたいと申し上げたのです。当局では当然に可能な資料をすべてあたったことでしょう。西洋地図も同時に参考にしたことはいうまでもありません。半月城さんは西洋地図による混乱の可能性はみじんもないとされますが、私はあったと思っています。

>ahirutousagi2さんは、島名の混乱を口実に<政府が外一島を現竹島と見ていた可能性はほぼ無いように思われます>と書きましたが、失礼ながらahirutousagi2さんもさらに考察が進めば、いずれ竹島=独島問題の研究者と同じ結論、すなわち外一島は竹島=独島であり、明治政府はそれを放棄したという結論に達するだろうと思われます。

私は研究書を参考にはしますが、誰がこう言っているからとそれをここで完全に正しいが如く掲示するつもりはありません。既存の研究をおおいに参考としつつ自分の考えをまとめるまでです。結論は、仰るようになるかもしれないし、そうならないかもしれません。今のところは、どうも島根県の理解と政府の理解にずれがあったように感じている次第です。

獨島問答 Q45

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/12/28 11:55 投稿番号: [2794 / 18519]
獨島問答Q45.今日、日本政府は「水路誌」は超国家的に「水路」を説明するものであり、国家別領土にたいする意味はないと反駁しているが、これは事実か?   でなければ「水路誌」も領土の概念を包含しているのか?

ANS.「水路誌」の前に接頭語である「国家の名称」があり、領土の概念を包含している。たとえば、日本海軍省の水路局は、朝鮮が独立国家であったときには『朝鮮水路誌』を別に編纂し、朝鮮領土の水路はこれに含まれたが、朝鮮が1910年に日本の植民地になるや『朝鮮水路誌』の発行を中断した。
   そして1911年からは「朝鮮」を別に『日本水路誌』第6巻に編纂し、その理由を「この本は朝鮮全岸の水路として明治43年(1910)朝鮮をわが帝国に併合したために題目を『日本水路誌』第6巻として刊行する」と序文に書いた。水路誌が国家別領土概念を包含したのを確認することができる。
   日本の海軍省は「獨島(リアンクール岩)」を1905年2月以前までは常に朝鮮領とみなし『朝鮮水路誌』に入れ「朝鮮地図」に入れたのであり、『日本水路誌』には入れなかった。
   日本の海軍省が獨島を『日本水路誌』に初めて含めたのは、日帝が1905年2月獨島を大韓帝国政府に知られないように侵奪し、島根県に編入した後であった。日本の海軍省は1907年の『日本水路誌』第4巻の海図にて隠岐島北方に初めて小さな点を書き入れ、獨島を表示し始めた。
  『朝鮮水路誌』に獨島を含めたこととその表示説明は、日本海軍が獨島を朝鮮領土と見なした事実を如実に証明している。

コメント.水路の調査や、海の国境を明確化する作業は海軍省が担当しました。したがって海軍省は離島の国家所属を厳格に認識していました。
   そうした任務をもっている海軍が作成した『日本水路誌』や『朝鮮水路誌』は、洋上の島がどこの国に所属するのかに関して厳密に表記されてていたようです。

   つぎに ahirutousagi2さんがこだわる外務省の渡辺局長ですが、ひとり<「ホル子ツトロツクス」の我国に属するは各国の地図皆然り>と書きましたが、そのような「各国の地図」が存在しないことはいうまでもありません。さらに、Am_I_AHO_1stさんが書いているように、自国の領土は外国の地図で決まるものでもないので、領土問題において当該国以外の地図は無用です。

   なお、海軍が水路の測量を担当するようになった歴史は下記に書いたとおりです。
http://www.han.org/a/half-moon/hm089.html#No.634
<江戸、明治時代の官撰図>より抜粋
   民部省と同時に設けられた兵部省は、五年(1872)二月に陸軍省と海軍省に
分置され、海軍は水路の測量を、陸軍は陸地測量を行い、ともに国防上の観点
から国用地図の作成に任じ、参謀本部測量局は全国を覆う基本図として、十三
年(1880)から関東地方二万分の一迅速測図の作製に着手し、内務省地理局の統
合を得て二万分の一正式地形図の作製が始められた。

獨島問答 Q44

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/12/28 11:53 投稿番号: [2793 / 18519]
Q44.そうであれば、当時の日本海軍は「獨島」をどの国の領土とみなしたのか?

ANS.もちろん日本の軍部も獨島を朝鮮領とみなした。
   日本の陸軍省参謀局は1875年(明治8年)に「朝鮮全図」を編纂したが、鬱陵島(竹島)とともに獨島(于山島:松島)を朝鮮領として表示した。日本陸軍のこのような観点は20世紀にも継続された。
   たとえば、1936年、日本の陸軍参謀本部陸地測量部は日本帝国の支配領土を元来の併呑区域別に区分けして表示した「地圖区域一覧圖」を発刊したが、この地図にて獨島を鬱陵島とともに「朝鮮区域」に表示した。
   この地図は日帝の敗亡(1945年)後、連合国最高司令部が日本帝国を解体して併呑した領土を元の主に帰すとき、獨島が韓国に返還されるときに重要な役割をした日本側根拠資料のひとつとして連合国最高司令部により使用された。

   日本海軍も獨島を朝鮮領と判断した。日本海軍省水路局は英国、ロシアなど西洋の船舶が調査・測量した資料を翻案、編集し1876年に「朝鮮東海岸圖」を編纂したが、獨島を鬱陵島とともに「朝鮮東海岸」に含めて朝鮮領と表示した。
   また、ロシアの軍艦が「獨島」を3.5マイル真北の方向から描いた獨島のスケッチ、北西10度方向5マイルの距離で描いた獨島のスケッチ、北西61度方向14マイルの距離にて描いたスケッチを「日本西北海岸圖」に入れず、無理に空間を広げて「朝鮮東海岸圖」に入れ、獨島が「朝鮮領」であることを明確に表示した。
   日本の海軍省はその後 1877年「朝鮮東海岸圖」の再版をだすときも同じ方式で獨島を朝鮮領に表示した。その後も版が重ねられたが、日本海軍省の「朝鮮東海岸圖」のあらゆる版本は1905年まで獨島を朝鮮領に表示した。

   また、日本の海軍省は 1886年に世界の水路誌である『寰瀛水路誌』を編纂したが、獨島を「リアンクール岩」という名で「朝鮮東岸」に収録した。また、日本海軍省は1889年に『寰瀛水路誌』編纂を中断し、これを『日本水路誌』『朝鮮水路誌』など国家領土別に分類して編纂し始めた。
   このとき「獨島(リアンクール岩)」を『日本水路誌』と『朝鮮水路誌』のどちらに入れたのかをみれば日本海軍の判断と決定を知ることができる。このとき、海軍省は「獨島(リアンクール岩)を『朝鮮水路誌』だけに入れ『日本水路誌』には入れなかったのであり、「獨島(リアンクール岩)」を朝鮮領として表示した。日本海軍は明らかに「獨島」を朝鮮領とみなして判定したのであった。

コメント1:連合国総司令部(GHQ)は、1946年1月、GHQ指令「若干の外郭地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する連合国総司令部覚書(SCAPIN第677号)」を発し、竹島=独島などを日本から分離する地域と規定した。
   これは最終的決定ではないとされたが、この指令以降、竹島=独島の所属に関する明示的な国際的取り決めは存在しない。とくに、サンフランシスコ条約では竹島=独島に関して一言半句の記述もない。

コメント2.ahirutousagi2さんは #2716において、<政府はもとより「ホル子ツトロツクス」は日本と考えており>と書き、外務省の一局長の考えと日本政府の考えを一緒くたにしているようです。
   しかし、当時において海の国境を明確化するのが海軍の仕事であったので、海軍の考えこそが日本政府の代表ともいうべき性格をもちます。その海軍がリアンクール岩を朝鮮領と考えていたのは愼𨉷廈氏が指摘しているとおりです。

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

明治政府の竹島=独島放棄

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/12/28 11:51 投稿番号: [2792 / 18519]
   半月城です。
   ahirutousagi2さんの書き込みは、訂正が多い上に結論を読みとりにくいのでコメントしづらいのですが、ともかくも ahirutousagi2さんが #2716において<島根県が外一島を伝統的な松島(現竹島)として考えたことは先に私も認めたとおりです>と書き、これに対してここの掲示板で誰からも異論がなかった事実は、この会議室での成長ぶりを示すものとして私は高く評価します。旧トピの虎三さんみたいな人は決して引き下がらないのでしょうが。もう、かれは竹島=独島問題にはこりごりして現れないのでしょうか?

   RE:2716
>島根県からの伺いにおいて竹島(鬱陵島)、松島(竹島=独島)が意識されていたのは確かかと思いますが、政府側でそれを意識していたかどうかは疑問であるとすでに申しあげました。いくら慎重に考えたとはいえ、政府が当時、西洋の地図の混乱の影響を受けていた可能性があるということです。

   どうもahirutousagi2さんの論旨を読みとりにくいのですが、「政府側」とは具体的に何をさすのですか?   内務省、ついで太政官が島根県からの伺書を審査するのに、松島(竹島=独島)が記述された資料を含めてすべての書類を十分吟味しなかったといいたいのですか?   あるいは内務省や太政官が島根県以外の資料、とくに外国の地図に惑わされて自国の領土を決定したといいたいのですか?
   それとも太政官の決定は「政府」の決定でなく、「政府」の意見は別にあったといいたいのですか?
   ahirutousagi2さんは、島名の混乱を口実に<政府が外一島を現竹島と見ていた可能性はほぼ無いように思われます>と書きましたが、失礼ながらahirutousagi2さんもさらに考察が進めば、いずれ竹島=独島問題の研究者と同じ結論、すなわち外一島は竹島=独島であり、明治政府はそれを放棄したという結論に達するだろうと思われます。
   その結論は、学術書を書くような研究者間においてはもはや異論がありません。下記に書いたように、誰一人として異議をとなえていません。

http://www.han.org/a/half-moon/hm093.html#No.672
<「竹島日本領派」の松島(竹島=独島)放棄への対応>より抜粋
   明治政府による竹島・松島放棄を「竹島=独島日本領派」の研究者はどう
対応しているのかについてふれたいと思います。具体的には、塚本孝氏と芹田
健太郎氏のふたりを取りあげます。
  まず、塚本氏ですが,明治政府が竹島=独島を日本の版図外にしたという史
実を同氏が認めた画期的な文章は下記のとおりです。
  ・・・
   いまでは、研究者
の間で堀氏が解明した明治政府の「竹島・松島放棄」に異議をとなえる人はだ
れもいないようです。といっても、その史実にふれる学者は少ないようですが。
やけどを恐れて、あえて火中の栗を拾おうとしないのでしょうか。
   下條正男氏などはいろいろ文を書いても、堀論文については沈黙している
ようなので、あるいは堀論文の存在すら知らないのかもしれません。

   一方、なかには堀論文をさんざん批判しても、堀氏の一大成果である「明
治政府の竹島・松島放棄」から目をそらしたままで領土を論じる学者もいるか
ら驚きます。
   その人は前回すこし紹介した芹田健太郎氏です。同氏は著書で日本の松島
(竹島=独島)経営を竹島渡海免許や、今では否定されている「松島渡海免
許」から説きおこし、明治期の「松島開拓願い」や軍艦天城の派遣など含めて
概観しましたが、なぜか肝心の明治政府による「竹島ほか一島放棄」について
は一言半句もふれせんでした。
   そのあげく「このようにして、竹島に対する日本の実効的支配は第二次大
戦の終了まで平穏に続けられた」と締めくくりました(注3)。日本に不利に
なりそうな所だけを徹底的に無視すれば、どのような結論も可能ですが、その
ときは研究者として失格であることはいうまでもありません。単なるデマゴ
ギーにすぎません。

「住民」と書きましたが

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 12:27 投稿番号: [2791 / 18519]
>もしも、住民(住民はかなり少なかったでしょうね)が「独島」の存在を知っていれば…

と書きましたが、空島政策が廃止されるのはこの調査のあと。となるとここにいた住民の意味について疑問が生じますが、李奎遠の報告によると次のような文書でした。
------ -
(参考資料:半月城通信;1547)
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之…
------ -
半月城氏は「僑寓諸人」を「現地に住む人たち」としていますが、「僑寓」は旅住まい、仮の住居のことですから、一時滞在している人々ということでしょう(日本人もいましたね。鬱陵島が日本の領土であると標柱まで立てて。で、日本人の強制帰国と空島政策の放棄へとつながる)。

文章訂正

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 11:31 投稿番号: [2790 / 18519]
酔っ払って書いていたので、ちょっと分かりにくい部分があったようです。文章をちょっと直します。
------ -
>この解釈はどうでしょうか。于山島(独島)が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎないという解釈。ちょっと苦しすぎではないでしょうか。そのまま読めばいいのではないでしょうか。何も見えなかったのです。いくら千里先を見ても。

→この解釈はどうでしょうか。于山島(独島)が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎないという解釈。ちょっと苦しすぎではないでしょうか。そのまま読めばいいのではないでしょうか。近隣の小島以外の存在としての別の島は何も見えなかったのです。いくら千里先を見ても。

>しかも、半月城氏は続けて「他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました」と書いています。これは「松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません」というのとはあまり合致しない表現ではないでしょうか。普通、鬱陵島を詳細に踏査した人が松竹島(chuk-do)さえ見ていないような可能性はありません。

→しかも、半月城氏は続けて「他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました」と書いています。とすれば、普通見晴らしのいい場所を選んで展望し、記録するはずで、「松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません」というのはあまり合致しない表現ではないでしょうか。あくまで李奎遠は近隣の小島以外に別の島が存在するかどうかを確認するために登ったのではなかったのでしょか。
------ -
以上の部分のみ、表現を訂正します。内容は同じですが。

ちなみに、李奎遠は102名の部下を従えており、7日間に渡って島を調査、船で二日間島の回りも調査したのです。その結論が鬱陵島と住民のいう「近傍」小島(松島・于山島)しかないというものだったのです。千里を見渡しても、離れた所には石一つ見えなかったというのです。

もしも、住民(住民はかなり少なかったでしょうね)が「独島」の存在を知っていればそれを官吏に知らせていたはずです。トルソムと言っていたのであれば、それをそうと報告していたことは想像できます。しかし、独島については誰もなにも言わなかったのでしょう。

なお、住民が離れた海上にある岩を「独島」と呼んだということを、うっかり私は「当時」とさきに書きましたが、これは1904年のことで1890年代にどう呼ばれたかは、これまた明らかではないといわねばならないようです。

或いは

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 03:19 投稿番号: [2789 / 18519]
もしかしたら、すでに1882年、李奎遠の調査の時代から観音島が「于山島」と認識されていた可能性はないでしょうか。個人的な想像ですが。住民が、観音島を当時、于山島と呼んだ可能性を考えてみることも面白いのかもしれません。

李奎遠の鬱陵島報告について、半月城通信から引用します。
------ -
(参考資料:半月城通信;1547)
松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
------ -
ここで半月城氏が解釈したように、
耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+松竹島+于山島
というのは、別に問題がないと思います(大西氏は一島二名との見方ですが)。

また、松竹島が現在のchuk-doを指すというのも同意します。しかし、于山島はどうでしょうか。半月城氏は以下のように解説します。
------ -
なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。…中略…実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。
------ -
この解釈はどうでしょうか。于山島(独島)が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎないという解釈。ちょっと苦しすぎではないでしょうか。そのまま読めばいいのではないでしょうか。何も見えなかったのです。いくら千里先を見ても。

しかも、半月城氏は続けて「他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました」と書いています。これは「松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません」というのとはあまり合致しない表現ではないでしょうか。普通、鬱陵島を詳細に踏査した人が松竹島(chuk-do)さえ見ていないような可能性はありません。

もう一つ、住民がちゃんと言っているのです。「松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている」と。原文は「傍近小島」ですが、そばの小島に松竹島・于山島がある。つまり于山島はあくまでもそんなに遠くないところを指して住民が呼んでいると言っているのです。近いといえば、観音島です。

この時代からすでに観音島を住民たちも于山島と呼んでいたとしたら、この時期の于山なるものの位置付けは氷解します。あくまで想像ですが。古地図などの「于山」なるものはどうも竹島(chuk-do)のように見えるのですが、それがどうして観音島になったかなど、あくまで詳しいことは私には分かりません。

しかし、確かなことは、この時期に住民が「傍近小島」として松竹島(chuk-do)と于山島をあげており、報告者である李奎遠もこの近辺の島以外には何も見えないとしているということです。

>>Ggak sae seom

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/27 03:16 投稿番号: [2788 / 18519]
> 記録はありませんね。住民の証言だけでしょう。

まぁそんなところでしょうな。また、シン・ヨンハの聞き取り調査だったりして。

>Ggak sae seom

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 02:48 投稿番号: [2787 / 18519]
記録はありませんね。住民の証言だけでしょう。

Ggak sae seom

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/27 02:37 投稿番号: [2786 / 18519]
というのは、何の記録に残っているのであろうか?

観音島

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 01:54 投稿番号: [2785 / 18519]
どうも『②皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」は観音島であり「竹島」はchuk-doである。さらに官報において観音島が「石島」となった』というのが一番妥当な気がしてきました。

理由:1899年の調査を前提として報告記事の「于山島・竹島」のうち于山島が官報(1900)で「石島」として規定されたとすれば、以下のことから上記・于山島が観音島であることが考えうる。

1)地図の合致
・同時期の「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)、大韓帝国学部編「大韓全図」(1899)、大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899)の全てが鬱陵島の最も北東部分の島を指している。中でも「大韓全図」では于山とされる島は、小島の中でも一番大きく記されているわけではない。

2)島の名前
当時、観音島は「カッキッソム」や「カクセソム」で呼ばれようだが、政府として認識していたであろう地図に「于山」と記してあったのであれば「皇城新聞」報告でそれに従ったことはなんら不思議はない。さらに于山国という表現や于山島の位置の混乱を考えれば政府としては調査団の意見なども含めつつ官報では于山ではない別の名前を記したことはありうる。

観音島の印象として「石島」が名づけられることは決して違和感は無い。半月城氏は自然が豊かとし、次のように書いているが、観音島は上部の平たい部分など以外を見れば明らかに、石の島である。「野生植物の天国」という半月城氏の記述は行き過ぎであると思われる。
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(参考資料:半月城通信;1619)
さて、観音島は昔も今も Ggak sae seomと呼ばれているうえに、上記のように野生植物の天国であってみれば、下條正男氏がこじつけるような、この島が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。
------ -
普通で考えれば、必ずしも下條氏が「こじつけた」というほどに不自然な解釈とも思えない。形跡がないことでいえば、独島が当時、韓国側が主張するように住民たちが石島(トルソム)と呼んだという積極的な根拠も無いのである。

住民が当時、周辺の島をどう呼んでいたかは、資料的に明らかなのは独島をすでに「独島」と呼んでいたということだけである。現在、住民が「トルソム」と呼んでいるという話もあるが、それがいつから生じた話であるかも確認が必要であろう。方言説は後付けの感を拭いきれない。

3)「皇城新聞」記事の整合性
記事では鬱陵島に小六島があるとし、目立った島が二つ有るとしているが、普通で考えれば、飛びぬけて大きい島としてすぐに気づくのは観音島と竹島である。独島はあまりに離れすぎている。もしも独島であれば何らかの説明はあって当然である。しかし、何も無い。また、もしも独島をとるのであれば、観音島が落ちる。しかし観音島は他の代表的な小島の10倍ほどの大きさがある島なのである。

なお、大韓全図など、地図で于山とある島について、半月城氏は観音島であることは決してありえないとしている。竹島(chuk-do)を無視して観音島だけをとりあげる可能性はないということである。
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(参考資料:半月城通信;1590)
さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかったとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体になっている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。
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これに対する返答はただ一つ、半月城氏もあげていらっしゃる「大韓全図」を確認すればよいのである。鬱陵島の一番北東にある島が于山、その南下にもっと大きい島がある。そしてその西側に小島がいくつかある。くり返すが、于山より大きい島が、于山の南に記されているのである。(ここでは大西俊樹「日本海と竹島」p.65にて確認した)

では、何でこの時期、観音島が于山と理解されたか。「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)あたりがその端緒かとも思われるが、それは小生アヒルのこれからの課題。以上。

写真

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/26 12:13 投稿番号: [2784 / 18519]
>仮にみなが軽く言うほどに晴天であればよく見られるものなら、写真ももっと多く有りそうなものですが、インターネットで見られるのはかなり限られています。とにかく想像以上に肉眼体験は簡単ではなさそうですね。

鬱陵島から見えた独島の写真は、インターネットで大体何種類くらい流れているものなのでしょうか。私が見たのは二種類です。一枚は有名な男性の後頭部の入ったもの。もう一枚は、かなりはっきりと峯までが区別できるほどに見える写真(これは私は手を加えたのではないかとさえ思えるほどにくっきりと映ったもの)。ほかにも写真は流れているでしょうか。

ちなみに、さきに韓国の旅行社のサイトでの記述を紹介しましたが、あれはあくまでも鬱陵島の紹介記事です。掲示板の書き込みなどではありません。韓国グーグルで独島展望台を検索すると該当ページが見つけられます。韓国語が読める方はどうぞ。

独島展望台から見えたという体験談も一つ見つかりました。みんなで目を細めてじっと水平線を凝視すると、あちこちから見えたとの声があがったとの内容でした。

こんな意見も…

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/26 02:06 投稿番号: [2783 / 18519]
肉眼で現竹島を見るにおいてある程度の高さが必ず必要であることはさきに触れました。案の定、独島展望台は海抜317mにあるとのことです。

さて、それはともかく、独島展望台をちょっと検索していると面白い情報もありました。韓国の中国専門の旅行社(国際連合旅行社)のサイトなのですがこういう記述が…。

>天気がいい日にはマンヒャン峰頂上の独島展望台から独島を肉眼で確認できるというが、関係者の言葉を借りれば、一度も見えたことがないという。高性能望遠鏡であれば見えるというが、写真でも見えるというが、望遠鏡がどれだけよくなければならないか…。(原文韓国語)

なんで独島展望台を検索したかというと肉眼体験談を見たかったからです。でも、いろいろと探してみたのですが、私が20-30分ほど検索して探して見た程度では独島展望台から独島を見たという体験談はインターネットではひっかかりませんでした。

行ったけどだめだったというのは何件かありました。かなり難しいようですね。

鬱陵島で晴天の日は年間50日ほどとのこと。そして展望台までのケーブルカーが冬は休んでいるとのこと(元旦除く)。晴天でも見えるとは限らないのでよほどの運が必要なのでしょうね。私は完全に不可能だとは思っていませんでしたが、なにやら思った以上に難しいようですね。

仮にみなが軽く言うほどに晴天であればよく見られるものなら、写真ももっと多く有りそうなものですが、インターネットで見られるのはかなり限られています。とにかく想像以上に肉眼体験は簡単ではなさそうですね。

皇城新聞の謎

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 22:37 投稿番号: [2782 / 18519]
皇城新聞の謎は何といってもあれだけ離れた独島に対する具体的な言及が全く無いことですが、視線をちょっと変えて見ますとこういうこともできます。

附属の小六島のうち最も目立つのが于山島と竹島であるというのが原文かと思いますが、先に鬱陵島の附属各島の大きさを示したように、竹島(chuk-do)と観音島だけが抜きん出て大きく、観音島とて他の小岩の10倍程度の大きさがあります。

とすると、さきの私の①の仮定を取るとするとなぜ皇城新聞での報告であえてほとんど見えない遠く離れた独島とchuk-doだけを取り上げて、観音島を切り捨てたかが問題です。もしも独島であればやはり何らかの説明はあってもよさそうです。

何の前置きもなしに普通で考えれば、鬱陵島の代表的な附属の島を二つあげろと言われれば、やはりchuk-doと観音島です。

また、調査団派遣と同年(1899)の地図、「大韓全図」、大韓帝国学部編「大韓輿地図」が共に鬱陵島の北東部分にある小島を于山としていることは、注目できそうです。これは当時、大韓帝国政府の考え方がそうであったと考えてもいいのではないでしょうか。

可能性

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 22:14 投稿番号: [2781 / 18519]
ここで現在話題にさせてもらっている1899年「皇城新聞」報告と1900年「官報」の二つだけを取りあげて資料として整合的に考えるならば、可能性は次のものがあると思われます。
------ -
①皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち、「于山島」は現竹島(独島)であり、「竹島」はchuk-doである。
さらにこの独島が官報において「石島」となった。

肯定的な点
・分かりやすい。
・全羅道方言で独島と石島が通じうる。

否定的な点
・これだけ離れているのに皇城新聞の報告に独島を指すと思われる具体的な記述が全くないのは不自然。
・于山島が独島を指すかどうかは古地図で問題がある。
------ -
②皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」は観音島であり「竹島」はchuk-doである。
さらに官報において観音島が「石島」となった。

肯定的な点
・1899年の大韓全図に大まかに対応しうる。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。

否定的な点
・観音島が古地図の于山島と一致するとはいい難い。
・従って古地図(あくまで地図的に于山島=chuk-doとして)からの一貫性がない。
------ -
③皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」はchuk-doであり、「竹島」は観音島である。
さらに官報においてchuk-doが「竹島」となり観音島が「石島」となった。

肯定的な点
・于山島とchuk-doの位置が多くの古地図にほぼ一致する。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。

否定的な点
・大韓全図と于山島の位置が合わない。
・あまりに複雑であるし、調査時、現地案内人が観音島を竹島としたとは思えない。
------ -
まぁ、判断のしようのないものですが、可能性としては以上の如しでしょう。あくまで資料的な検討を無視して、物語としては②が面白い気もしています。無理な話でもありません。

つまり、調査団が1899年にできたての「大韓全図」を参照し、大き目の島の北側のもの(観音島)を于山島と考えた可能性。大韓帝国学部編「大韓輿地図」も同様のようです。現地案内人は「カッキッソム」とでも言ったでしょうが、正式名称は地図の表記に従ったのかもしれません。

その調査報告が「皇城新聞」であり、それを他の地図や日本人調査委員、ラボーテの資料なども検討した上で正式に政府として決定したのが「竹島・石島」という名称であったのではないかという物語です。観音島について「石島」と名づけることは一部で批判があるほどに外れた話とも思われません。

ここまで行くと推理小説の域ですが、一応朝鮮で当時出た地図に合致した理解ではあり、実際のところ石島を独島とする意見も同じく推測の域を出ないものであるといえそうです。

>小六島

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/25 17:23 投稿番号: [2780 / 18519]
大韓全図
http://www.ullungdo.com/map/image/12.jpg
右下の大きめの島が2島にも見える。

しかし、観音島や三仙岩としても、位置が全然違いますな。確かなことは、鬱陵島周辺の小島の様子さえ大韓帝国は正確に把握できていなかったということでしょう。

どうも

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 11:22 投稿番号: [2779 / 18519]
ただし、インターネットで写真を見てみると三仙岩や竹岩など、岩はやはり岩と言う感じがしますね。確かに島という感じではないです。まぁ、どう把握するか難しいですね。三仙岩をワンセットにしましたがこれは別々に分けて考えた方がいいかもしれません。一つはやや離れていますし、それぞれそれなりにでかくて存在感があるようですから。古地図とか資料を検討しながら現竹島を入れて把握すべきかどうか考えるべきでしょうね。

小六島

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 11:11 投稿番号: [2778 / 18519]
仮に現竹島を抜くとして鬱陵島から小六島をあげれば次のものが有力でしょうか。(もちろん鬱陵島には外にも細かい小岩がいくつもあります。)

竹島(chuk-do)   62880坪   高さ116m
観音島   21600坪   高さ106m
三仙岩   1590坪   高さ58,89,107m
竹岩   2400坪   高さ105m
孔岩   1914坪   高さ59m
北亭岩   ??(広さ・高さが分からない…。上陸できるそうでダイビングポイントでもあるそうな)

三仙岩は文字通り岩が三つあるのでしょうがワンセットで考えました。高さ数十メートル、或いは100メートルを越したりするのですから、皆それぞれそれなりにでかいですね。これに現竹島(独島)を含めて考えるかどうかですね。結論はいろいろな地図や資料などとの付き合わせが必要ですから何ともいえませんが。

なお、鬱陵島の広さは実際は東西10km、南北9.5km程度のようです。海岸線の長さは56.5kmとのこと。ですから、四方が百里(つまり日本式で四方が40km)はちょっと大げさですね。周囲全体をさすのなら合致しますが、「地方」は普通「四方の一辺の長さ」を指すでしょうから。ご参考まで。

朝鮮式

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 10:19 投稿番号: [2777 / 18519]
>あと、「地方?100里」って四方が百里であってるのかな?でかすぎ。

合っています。ただし、百里は日本でいえば10里です。朝鮮の里程は400mで一里です。

>>>>>>皇城新聞

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/12/25 08:23 投稿番号: [2776 / 18519]
ついでにもうひとつ言えば、こういう資料は漢字をよく知らない世代の韓国人は逆に日本人よりも読めないかも知れません。

>>>>>皇城新聞

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/12/25 07:58 投稿番号: [2775 / 18519]
当時の漢字ハングル混じり文は韓国語を知らない人でも何となく意味がわかってしまうから便利ですね。

偶然の一致か。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/25 02:39 投稿番号: [2774 / 18519]
原図は見てないけど、1899年の大韓帝国編大韓輿地図には、鬱陵島の周辺に小島が6個かかれてるね。うち1つが于山との記載あり。

あと、「地方?100里」って四方が百里であってるのかな?でかすぎ。

仰る通り

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 00:45 投稿番号: [2773 / 18519]
ごく頭の部分だけが注目できますが、あとは全部鬱陵島の話ですね。頭の部分のみ訳しておきます。

蔚珍之東海に一島が有り、曰く鬱陵である。其の附属した小六島の中で最著なのは于山島・竹島であるが、大韓地誌に曰く、鬱陵島は古の于山国である。四方が百里あり、三峰が律兀たるが、所産は…

中でも「最著」は意味が重要であると思われますが、これは「最も目立つ」くらいの意味でしょうか。慎重を期してそのままに記しておきました。

私個人としては「三峰」が興味深かったです。

>>>>皇城新聞

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/25 00:13 投稿番号: [2772 / 18519]
upしておきました。
http://www.geocities.jp/henchin_pokoider01/koujyou.jpg

正確には付属6島と竹島于山島の記述は前段部分であり、調査報告の概要自体には鬱陵島の話しか出てきてません。

>>>皇城新聞

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/24 23:05 投稿番号: [2771 / 18519]
なるほど御紹介の文章では附属小六島がどこを指しているかは正確には分かりませんね(大西氏は于山島を独島としています)。調査において独島の存在が意識されていないか、附属小六島中に含まれているかどちらかなのですが。

もしこの「于山島」が独島で、同時に官報の「石島」だとすると、なぜわざわざ政府が于山島とも独島ともせずに名前を石島と記したかが不明(方言説・訓読み説でもとらないと…)で、もしこの文書の于山島が独島以外を指すのであれば調査団は独島に気づいていなかった(意識していなかった)可能性が生じてしまいますね。

政府に正式の報告文書があってもよさそうなものですが、残っていないのでしょうかね。韓国側としては何としても于山島=独島=石島とせねばなりませんから、方言まで含めてあらゆる理由をつけざるを得ませんが、正直なところ、私は方言説にあまり説得力を感じられません。

私の個人的な感覚としては日本の軍艦天城の実測から20年、すでに近代化の過程に入りつつあった(例えば京仁鉄道が1900年に開通など)当時の大韓帝国政府がこの地理を把握していなかったとも思えないのですが、実際のところ資料的にはどうもはっきりしませんね。

ともあれ、石島なる名前がなぜ急に出てきたか。それが観音岩を指すか現竹島を指すか。そのあたりは半月城さんが下条氏を罵倒するほどに明白な答えのある話でもなさそうです。

見える位置

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/12/24 22:13 投稿番号: [2770 / 18519]
>旧トピのものは読んでいました。ご指摘ありがとうございます。仰る通り、私も見えそうで見えない、見えなそうで見える、天気と時の運程度に考えています。ただし、前提があります。ある程度の高所まで登らなければまず不可能であるという点です。

>東京タワー展望台(145m)の倍くらいの高さから熱海の高さ100-200mの小高い山を見ると考えればよろしいでしょうか。


見えるということは否定しないけれども、良く晴れた空気の澄み切った日という条件のほかに、かなりの高台からでなければ見えない、という条件もありますね。

気象条件がよい日に限り、かなり高台の位置から東の方向にその島があると意識して遠望すれば見えることは否定できないのでしょうけど。
平地で、いつも東に見えていて、島民がいつも向こうに見えるはおらが鬱陵島と兄弟島だぁ〜、と認識していたとまでは思えませんね。

皇城新聞

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/24 21:42 投稿番号: [2769 / 18519]
若干訂正。「付属の6島」→「付属の小6島」
90kmも離れた竹島を、現chukdo、観音島、その他の鬱陵島周辺の島と同列に「付属小6島」と扱うのは、違和感を禁じ得ないのが正直な感想。

>>皇城新聞

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/24 21:20 投稿番号: [2768 / 18519]
「日本海と竹島」でしたか。前に読んだときに調べようと思った記憶があった。
ってことで早速入手しました。ハングル混じりの文なので、文意を間違えているかも知れませんが、推測するにこんな感じ。
「東海に一島ある。鬱陵島という。付属の6島中で最も著しいものは、于山島竹島である。大韓地誌によると?鬱陵島は古くは于山国という。百里四方あり三峯??・・・」あとは日本人の樹木伐採とか大麦・小麦がとれるとかある。
1899年1月〜1990年4月までの新聞をざっと見ましたが上の記事以外には、鬱陵島しか出てきませんでした。1889年11月8日の新聞に、禹用鼎の視察も載ってるね。鬱陵島の話ししかないけど。

>>肉眼

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/24 21:18 投稿番号: [2767 / 18519]
>見える見えないの議論は旧竹島トピでもさんざん議論されていて、とりあえず距離と大きさから計算して、天候がよく空気の澄み切った日には肉眼でもかろうじて見えるであろうということでした。

旧トピのものは読んでいました。ご指摘ありがとうございます。仰る通り、私も見えそうで見えない、見えなそうで見える、天気と時の運程度に考えています。ただし、前提があります。ある程度の高所まで登らなければまず不可能であるという点です。

東京タワー展望台(145m)の倍くらいの高さから熱海の高さ100-200mの小高い山を見ると考えればよろしいでしょうか。

>皇城新聞

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/24 20:58 投稿番号: [2766 / 18519]
記事は1899年9月23日のようです(大西俊輝「日本海と竹島」p.76)。半月城さんは「当時、鬱陵島民は鬱陵島周辺の島を自分たちなりの愛称で Ggak sae島、竹島、石島などと呼んでいたようでした。そうした事情を禹用鼎は鬱陵島調査(1900)の過程で知り、それを勅令に反映したものと思われます(通信:1590)」と鬱陵島調査を1900年としていますが、どちらが正しいのか私は皇城新聞を見ていないのでよく知りません。

>肉眼

投稿者: tydkemvo 投稿日時: 2003/12/24 12:51 投稿番号: [2765 / 18519]
見える見えないの議論は旧竹島トピでもさんざん議論されていて、とりあえず距離と大きさから計算して、天候がよく空気の澄み切った日には肉眼でもかろうじて見えるであろうということでした。

それにしても竹島(韓国名独島)の大きさと92kmという距離から考えると、よく晴れた日に運が良ければ見えるであろう、という程度のもので、ホイホイといつでも肉眼で観測できるとは思えません。

曇天の日に相当程度の大きさで、楽に肉眼で見えたとしたら、それは何かの勘違いではないかと思います。

鬱陵島なら相当程度の大きさがありますから、逆に竹島側から鬱陵島ならもっと楽に見えると思いますが。

有名な男の後ろ姿と一緒に独島が写っているとされる写真ですが、ちょっとリンク先を忘れましたが写真の男の左方から太陽光がそそいでいて、東に向かって撮っている写真の左から陽光が差すとは鬱陵島では真北から陽光がさすのか?と、どなたかに突っ込まれていました。(笑)

たとえ肉眼で見えるとしても、あんなに大きくはっきりは見えないと思います。

皇城新聞

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/12/24 12:44 投稿番号: [2764 / 18519]
ラ・ボーテの調査が載っている皇城新聞って何月何日のでしたっけ?

>肉眼

投稿者: mattouya 投稿日時: 2003/12/24 12:34 投稿番号: [2763 / 18519]
>展望台に行ったからとほいほいと見えるものとも思えません。

朝雲の向こうからのご来光を仰ぐという状況でしたが、二日連続で見えました。
けれどまあ、これは単なる幸運と言えるかも知れません。
ただ、見えるはずがないといわれれば、
見ることが出来るということは事実だとしかいえません。

>ここまではっきり見えるかと疑問に思った写真も一枚ありました。〜〜峯がはっきり三つ見えました。

これは優秀な望遠レンズで写したのでしょう(笑)
私にはそこまで姿は見えませんでした。
水平線の上にあり、島であることは分かりましたが。
展望台にはコイン望遠鏡も設置されています。
それで見ると、そのくらいには見えます。

肉眼

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/24 10:49 投稿番号: [2762 / 18519]
私は晴れて澄み切った日であれば、かろうじて見えると思いますが、展望台に行ったからとほいほいと見えるものとも思えません。対馬からは釜山が見えますが、これも決して毎日見えるものでもなく、また釜山は大きさ・高さから竹島と比較にもなりません。そして、鬱陵島→竹島(92km)は、対馬→釜山(49.5km)の倍弱の距離があるのです。不可能ではないでしょうが、かなり天候的な運が必要でしょうね。

それにしても竹島が見えたという写真がネットで流れていますが、ここまではっきり見えるかと疑問に思った写真も一枚ありました。お気に入りに入れなかったのでどこにあったか不明ですが、峯がはっきり三つ見えました。私が見たこの写真はどうも手を加えていたのかもしれません。よく知られる男の人の後頭部が映った例の写真は、あれはさほど疑問は感じません。望遠で、ま、あんな感じかと。

念のため

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/24 10:01 投稿番号: [2761 / 18519]
>なお、今、韓国の官報41号をどう捉えるか悩んでいるところです。なぜ、韓国政府は石島という言葉をつかったか。前年の調査を考えれば現竹島を指す可能性は大いにあるのですが、なぜあえて石島という名をつけたか。于山島などではなく。

これはあくまで石島の名前の由来を言っているのではなく、あえてこの言葉を使った理由に対する疑問ですので、念のため。発音の変化に由来する説、その他は理解した上でのことです。私は、そうした由来説にどうも釈然としない後付けの感を拭いきれないのですが、それは置いておくにして、なぜこの言葉を使ったか。

前年のラ・ボーテを始めとする朝鮮側の派遣の「皇城新聞」報告記事ではあくまで鬱陵島の属島として于山島・竹島を記しているようで(原文未見)、この于山島が仮に現竹島であるとすれば、また当時においてそれが普通の認識であったとすれば、官報においても当然にその名称を使うはずなのですが、なぜ石島なのでしょう。

半月城さんは「当時、鬱陵島民は鬱陵島周辺の島を自分たちなりの愛称で Ggak sae島、竹島、石島などと呼んでいたようでした。そうした事情を禹用鼎は鬱陵島調査(1900)の過程で知り、それを勅令に反映したものと思われます(通信:1590)」としていますが、島民がそう(石島)呼んだというのは、どうも積極的な根拠はなさそうです。

また、半月城さんは「さらにいうならば、観音島が石島と呼ばれたという記録はまったくありません」とも仰いますが、これは現竹島も同様です。どちらも記録として石島といわれたことはないのです。半月城さんのあげた根拠のうちかろうじて石島を独島と推測できるのは現在の島民たちもdol seomと呼ぶ場合があるらしく、またその音が全羅道方言では独島に通じているということくらいでしょうか。

可能性としては形状から言えば石島が観音岩である見方は充分にとりようのある話ではあるものと思われます。dol seomも本当に当時から用いられた言葉かどうかは確認を要するでしょう。はっきりしているのは当時、島民が現竹島を独島と呼び、また書いていたこと(また、韓国政府の主張ではこの独島を于山島としているということ)だけかと思います。

個人的には、この石島が現竹島を指す可能性は大いにあるものと考えます。しかし、何で「石島」なのか理解が難しいところです。出し抜けに出てくるこの名称は、観音岩ともとれなくはありません。いずれにしても、取りようによってはこの石島は観音岩とも現竹島とも受け取れる表現であるのは確かかと思います。
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