可能性
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/25 22:14 投稿番号: [2781 / 18519]
ここで現在話題にさせてもらっている1899年「皇城新聞」報告と1900年「官報」の二つだけを取りあげて資料として整合的に考えるならば、可能性は次のものがあると思われます。
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①皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち、「于山島」は現竹島(独島)であり、「竹島」はchuk-doである。
さらにこの独島が官報において「石島」となった。
肯定的な点
・分かりやすい。
・全羅道方言で独島と石島が通じうる。
否定的な点
・これだけ離れているのに皇城新聞の報告に独島を指すと思われる具体的な記述が全くないのは不自然。
・于山島が独島を指すかどうかは古地図で問題がある。
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②皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」は観音島であり「竹島」はchuk-doである。
さらに官報において観音島が「石島」となった。
肯定的な点
・1899年の大韓全図に大まかに対応しうる。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。
否定的な点
・観音島が古地図の于山島と一致するとはいい難い。
・従って古地図(あくまで地図的に于山島=chuk-doとして)からの一貫性がない。
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③皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」はchuk-doであり、「竹島」は観音島である。
さらに官報においてchuk-doが「竹島」となり観音島が「石島」となった。
肯定的な点
・于山島とchuk-doの位置が多くの古地図にほぼ一致する。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。
否定的な点
・大韓全図と于山島の位置が合わない。
・あまりに複雑であるし、調査時、現地案内人が観音島を竹島としたとは思えない。
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まぁ、判断のしようのないものですが、可能性としては以上の如しでしょう。あくまで資料的な検討を無視して、物語としては②が面白い気もしています。無理な話でもありません。
つまり、調査団が1899年にできたての「大韓全図」を参照し、大き目の島の北側のもの(観音島)を于山島と考えた可能性。大韓帝国学部編「大韓輿地図」も同様のようです。現地案内人は「カッキッソム」とでも言ったでしょうが、正式名称は地図の表記に従ったのかもしれません。
その調査報告が「皇城新聞」であり、それを他の地図や日本人調査委員、ラボーテの資料なども検討した上で正式に政府として決定したのが「竹島・石島」という名称であったのではないかという物語です。観音島について「石島」と名づけることは一部で批判があるほどに外れた話とも思われません。
ここまで行くと推理小説の域ですが、一応朝鮮で当時出た地図に合致した理解ではあり、実際のところ石島を独島とする意見も同じく推測の域を出ないものであるといえそうです。
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①皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち、「于山島」は現竹島(独島)であり、「竹島」はchuk-doである。
さらにこの独島が官報において「石島」となった。
肯定的な点
・分かりやすい。
・全羅道方言で独島と石島が通じうる。
否定的な点
・これだけ離れているのに皇城新聞の報告に独島を指すと思われる具体的な記述が全くないのは不自然。
・于山島が独島を指すかどうかは古地図で問題がある。
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②皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」は観音島であり「竹島」はchuk-doである。
さらに官報において観音島が「石島」となった。
肯定的な点
・1899年の大韓全図に大まかに対応しうる。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。
否定的な点
・観音島が古地図の于山島と一致するとはいい難い。
・従って古地図(あくまで地図的に于山島=chuk-doとして)からの一貫性がない。
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③皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」はchuk-doであり、「竹島」は観音島である。
さらに官報においてchuk-doが「竹島」となり観音島が「石島」となった。
肯定的な点
・于山島とchuk-doの位置が多くの古地図にほぼ一致する。
・皇城報告の内容に一言も独島についての具体的な言及がないことから、こうした理解は現実的でありうる。
否定的な点
・大韓全図と于山島の位置が合わない。
・あまりに複雑であるし、調査時、現地案内人が観音島を竹島としたとは思えない。
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まぁ、判断のしようのないものですが、可能性としては以上の如しでしょう。あくまで資料的な検討を無視して、物語としては②が面白い気もしています。無理な話でもありません。
つまり、調査団が1899年にできたての「大韓全図」を参照し、大き目の島の北側のもの(観音島)を于山島と考えた可能性。大韓帝国学部編「大韓輿地図」も同様のようです。現地案内人は「カッキッソム」とでも言ったでしょうが、正式名称は地図の表記に従ったのかもしれません。
その調査報告が「皇城新聞」であり、それを他の地図や日本人調査委員、ラボーテの資料なども検討した上で正式に政府として決定したのが「竹島・石島」という名称であったのではないかという物語です。観音島について「石島」と名づけることは一部で批判があるほどに外れた話とも思われません。
ここまで行くと推理小説の域ですが、一応朝鮮で当時出た地図に合致した理解ではあり、実際のところ石島を独島とする意見も同じく推測の域を出ないものであるといえそうです。
これは メッセージ 2780 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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