観音島
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/12/27 01:54 投稿番号: [2785 / 18519]
どうも『②皇城新聞に記された「于山島・竹島」のうち「于山島」は観音島であり「竹島」はchuk-doである。さらに官報において観音島が「石島」となった』というのが一番妥当な気がしてきました。
理由:1899年の調査を前提として報告記事の「于山島・竹島」のうち于山島が官報(1900)で「石島」として規定されたとすれば、以下のことから上記・于山島が観音島であることが考えうる。
1)地図の合致
・同時期の「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)、大韓帝国学部編「大韓全図」(1899)、大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899)の全てが鬱陵島の最も北東部分の島を指している。中でも「大韓全図」では于山とされる島は、小島の中でも一番大きく記されているわけではない。
2)島の名前
当時、観音島は「カッキッソム」や「カクセソム」で呼ばれようだが、政府として認識していたであろう地図に「于山」と記してあったのであれば「皇城新聞」報告でそれに従ったことはなんら不思議はない。さらに于山国という表現や于山島の位置の混乱を考えれば政府としては調査団の意見なども含めつつ官報では于山ではない別の名前を記したことはありうる。
観音島の印象として「石島」が名づけられることは決して違和感は無い。半月城氏は自然が豊かとし、次のように書いているが、観音島は上部の平たい部分など以外を見れば明らかに、石の島である。「野生植物の天国」という半月城氏の記述は行き過ぎであると思われる。
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(参考資料:半月城通信;1619)
さて、観音島は昔も今も Ggak sae seomと呼ばれているうえに、上記のように野生植物の天国であってみれば、下條正男氏がこじつけるような、この島が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。
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普通で考えれば、必ずしも下條氏が「こじつけた」というほどに不自然な解釈とも思えない。形跡がないことでいえば、独島が当時、韓国側が主張するように住民たちが石島(トルソム)と呼んだという積極的な根拠も無いのである。
住民が当時、周辺の島をどう呼んでいたかは、資料的に明らかなのは独島をすでに「独島」と呼んでいたということだけである。現在、住民が「トルソム」と呼んでいるという話もあるが、それがいつから生じた話であるかも確認が必要であろう。方言説は後付けの感を拭いきれない。
3)「皇城新聞」記事の整合性
記事では鬱陵島に小六島があるとし、目立った島が二つ有るとしているが、普通で考えれば、飛びぬけて大きい島としてすぐに気づくのは観音島と竹島である。独島はあまりに離れすぎている。もしも独島であれば何らかの説明はあって当然である。しかし、何も無い。また、もしも独島をとるのであれば、観音島が落ちる。しかし観音島は他の代表的な小島の10倍ほどの大きさがある島なのである。
なお、大韓全図など、地図で于山とある島について、半月城氏は観音島であることは決してありえないとしている。竹島(chuk-do)を無視して観音島だけをとりあげる可能性はないということである。
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(参考資料:半月城通信;1590)
さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかったとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体になっている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。
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これに対する返答はただ一つ、半月城氏もあげていらっしゃる「大韓全図」を確認すればよいのである。鬱陵島の一番北東にある島が于山、その南下にもっと大きい島がある。そしてその西側に小島がいくつかある。くり返すが、于山より大きい島が、于山の南に記されているのである。(ここでは大西俊樹「日本海と竹島」p.65にて確認した)
では、何でこの時期、観音島が于山と理解されたか。「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)あたりがその端緒かとも思われるが、それは小生アヒルのこれからの課題。以上。
理由:1899年の調査を前提として報告記事の「于山島・竹島」のうち于山島が官報(1900)で「石島」として規定されたとすれば、以下のことから上記・于山島が観音島であることが考えうる。
1)地図の合致
・同時期の「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)、大韓帝国学部編「大韓全図」(1899)、大韓帝国学部編「大韓輿地図」(1899)の全てが鬱陵島の最も北東部分の島を指している。中でも「大韓全図」では于山とされる島は、小島の中でも一番大きく記されているわけではない。
2)島の名前
当時、観音島は「カッキッソム」や「カクセソム」で呼ばれようだが、政府として認識していたであろう地図に「于山」と記してあったのであれば「皇城新聞」報告でそれに従ったことはなんら不思議はない。さらに于山国という表現や于山島の位置の混乱を考えれば政府としては調査団の意見なども含めつつ官報では于山ではない別の名前を記したことはありうる。
観音島の印象として「石島」が名づけられることは決して違和感は無い。半月城氏は自然が豊かとし、次のように書いているが、観音島は上部の平たい部分など以外を見れば明らかに、石の島である。「野生植物の天国」という半月城氏の記述は行き過ぎであると思われる。
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(参考資料:半月城通信;1619)
さて、観音島は昔も今も Ggak sae seomと呼ばれているうえに、上記のように野生植物の天国であってみれば、下條正男氏がこじつけるような、この島が石島と呼ばれた形跡はまったくありません。
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普通で考えれば、必ずしも下條氏が「こじつけた」というほどに不自然な解釈とも思えない。形跡がないことでいえば、独島が当時、韓国側が主張するように住民たちが石島(トルソム)と呼んだという積極的な根拠も無いのである。
住民が当時、周辺の島をどう呼んでいたかは、資料的に明らかなのは独島をすでに「独島」と呼んでいたということだけである。現在、住民が「トルソム」と呼んでいるという話もあるが、それがいつから生じた話であるかも確認が必要であろう。方言説は後付けの感を拭いきれない。
3)「皇城新聞」記事の整合性
記事では鬱陵島に小六島があるとし、目立った島が二つ有るとしているが、普通で考えれば、飛びぬけて大きい島としてすぐに気づくのは観音島と竹島である。独島はあまりに離れすぎている。もしも独島であれば何らかの説明はあって当然である。しかし、何も無い。また、もしも独島をとるのであれば、観音島が落ちる。しかし観音島は他の代表的な小島の10倍ほどの大きさがある島なのである。
なお、大韓全図など、地図で于山とある島について、半月城氏は観音島であることは決してありえないとしている。竹島(chuk-do)を無視して観音島だけをとりあげる可能性はないということである。
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(参考資料:半月城通信;1590)
さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかったとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体になっている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。
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これに対する返答はただ一つ、半月城氏もあげていらっしゃる「大韓全図」を確認すればよいのである。鬱陵島の一番北東にある島が于山、その南下にもっと大きい島がある。そしてその西側に小島がいくつかある。くり返すが、于山より大きい島が、于山の南に記されているのである。(ここでは大西俊樹「日本海と竹島」p.65にて確認した)
では、何でこの時期、観音島が于山と理解されたか。「朝鮮輿誌鬱陵島図」(19世紀推測)あたりがその端緒かとも思われるが、それは小生アヒルのこれからの課題。以上。
これは メッセージ 2781 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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