竹島

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推定を重ねられても、反論になりませんね。

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 17:32 投稿番号: [15760 / 18519]
「日本」を「倭寇」とする用例を提示してほしいんだけど。
成立及び証明されてない解釈を前提にされても困るんだけど。

無知丸出し♪

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 17:28 投稿番号: [15759 / 18519]
  「屬於日本。」

  つまり、「〜が」の部分に「国民」をあてれば、

  「日本国に属する国民」=「日本人」である。

  倭寇の構成員が、日本人により構成されているならば、

  「日本国に属する国民」=「日本人」⊃「倭寇構成員」である。

  君、数学の「集合」は赤点だっただろ♪

>「台湾」は、国として認識してたのか

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 17:22 投稿番号: [15758 / 18519]
  はぁ?

  「屬於日本。」の記述について、
  私は、「日本に属している」とは読めるが、何が属しているとは書いていない。
  と主張しているのであり、

  属しているのは「臺灣」と主張しているのは君である。

  よって、「属国」とした場合、「臺灣」が「属国」とする解釈は君の主張にすぎず、
  私は、
  清国は「朝貢国」を「属国」と称する事から、
  「日蘭貿易」を「朝貢」と誤認したにすぎないと主張しているのである。

  意味不明ではなく、君の思考が混乱しているだけなのである。


>悪いな。
>「日本に属す」であり「日本の海賊に属す」なんて書かれてない。

  馬鹿ですねぇ〜♪

  「日本の海賊が日本に属す。」

  ですねぇ〜♪

  ただし、「日本に属する人」は「日本を代表する人」とはかぎらない。

  また、日本に従属する国家の領土の場合も、領有権は直接的には従属している国家にある。

>そもそも「拠点」もかかれてないのに、どうやってかかるの。

  はい、ならば、「日本の地」とは書かれていませんから、
  「オランダ」にかかっているで決定ですな♪

>日本が「日本の海賊」を示す、属が「拠点」を示す用例を提示して
ほしいと言ってるんだがね。

  馬鹿ですな♪

  「〜が日本に属する。」の「〜」が抜けているのであるから、日本に属する何かにすぎない。

  臺灣に関係する日本に属するものには「倭寇」がある。
  よって、属しているのは「倭寇」と推定できるのであり、
  日本領土としての「臺灣」であると主張するのであれば、
  日本が臺灣を領有した歴史的根拠を示さなければならないのは君である。

>だから、調べて提示してくんろ。「属国」じゃなくて「属」ね。

  なんだ、結局、「屬於日本。」の「屬」の意味すら理解していないって事じゃないか…。
  「屬」を理解していないから、「属する国(属国)」の意味すら理解できないのであろう。

  「屬」は、「〜に属す」と「〜が属す」の記述があって、意味を特定できるのであり、
  「屬於日本。」だけでは、何かが日本に属しているとしか解せない。

  また、当時、「日本領土」として、
  臺灣を占領した「オランダ」「鄭成功」「清国」の何れかと日本が争ったなどという資料も見た事がない。

Re: 間違ってますな。

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 16:43 投稿番号: [15757 / 18519]
おっと、今度は人かいな。
だから、日本を「倭寇」という意味で使用した用例を提示しましょうね。
よろしく!

Re: 広辞苑?漢字辞典?

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 16:40 投稿番号: [15756 / 18519]
>「屬」ではなく、「臺灣は日本国の属国である」と書かれていたとしても、
そもそも「台湾」は、国として認識してたのかという質問なんだが?
朝貢なんてできるような政治体制があったんか?
意味不明な回答だな。

>つまり、「屬」は「拠点」にかかるのではなく、「海賊」にかかる。
悪いな。「日本に属す」であり「日本の海賊に属す」なんて書かれてない。
そもそも「拠点」もかかれてないのに、どうやってかかるの。
「海賊」も「拠点」もあなたの妄想から出てきた産物であり、原文に該当
する文字がないんだけどさ。
だから、日本が「日本の海賊」を示す、属が「拠点」を示す用例を提示して
ほしいと言ってるんだがね。

>当時の清国に於いて「屬」が何を意味するかを調べなければならず、
だから、調べて提示してくんろ。「属国」じゃなくて「属」ね。
んで、「倭」じゃなくて「倭寇」及び「日本」ね。
よろしく!

間違ってますな。

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 15:28 投稿番号: [15755 / 18519]
>「日本(=倭)の海賊(=寇)」は「日本国」であるということになるということです。

  日本(A)、倭(A)、海賊(B)、寇(B)

  A+Bが日本国になるんですかぁ〜。

  まともな頭なら、

  「日本人の中に、倭寇を構成する日本人が含まれる。」
   (日本人   ⊃   日本の海賊)

  と解するはずですが。

  そして、「日本に属しているのは日本の海賊、つまり倭寇である。」

  「日本の海賊が日本国である」などと主張する奴を初めて見た。

広辞苑?漢字辞典?

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 15:12 投稿番号: [15754 / 18519]
  調べる辞書を間違えてますな。

  当時の清国に於いて「屬」が何を意味するかを調べなければならず、
  漢字辞典は、日本に於いて用いられる漢字の意味が書かれているにすぎない。




森公使曰
  貴国既に朝鮮を属管と云ふ、其属管の関係あるを以て応に照管する所あるべし。

沈大臣曰
  所謂属国とは我が所有の地にあらずして其の時を以て進貢し、我冊封頒歴を奉ずるを以て云ふなり。
  若し其の国を以て我が彊土内に属するものとせば、
  関係せざるを得ずと雖ども、其国彊域内に在らざるを以て其国事を管することなし。

  とあり、「属国」とは「我が所有の地」を意味しないと説明されている。

  つまり、
  朝鮮は清国の属国ではあるが、清国領土である事を意味しないと説明している事になる。

  よって、「屬」ではなく、「臺灣は日本国の属国である」と書かれていたとしても、
  臺灣は日本領土ではなく、日本に朝貢する日本とは別の領土を有する国となる。

  まして、「属国」などと記述されておらず、「屬於日本」と記述されているにすぎないのであるから、
  属しているものが「国」に限定される根拠がなく、何が属しているか限定されていない。

  つまり、「屬於日本」とは、日本に属する何かが関係している事しか示していない。

  日本に属する何かが、間接的に臺灣に関係しているとも読める。

>属に「拠点」って意味があるの?

  「倭寇」が「日本に属する海賊」

  つまり、「屬」は「拠点」にかかるのではなく、「海賊」にかかる。

  もしくは、

  「日蘭の貿易」を「朝貢」と認識し、
  「オランダ」は「日本」に属すを意味し、「屬」は「オランダ」にかかる可能性もある。

  君の論理では、「屬」は「占領」の意味もあるのか?

  となるが、「占領」して「拠点」とするのである。

>そもそも台湾を「国家」として見てるのか?

  国際法上、「国家」とは「主権国家」を指す。

  よって、「国」とは、国際法に基づく「国家」とは同一ではない。

  また、清国が日本の属国と誤認し得る可能性があるのは、
  日本と貿易を行っていたオランダであり臺灣ではない。

>[屬於日本]の主体は台湾しかありえんので、

  そう思い込みたいだけであろう。

  「屬於日本。」の記述の直前の「僞紅毛荷蘭夷人所據。」にかかっているならば、
  「オランダ人」にかかっているのであり、
  「自古荒服之地。不通中国。」の直後に「屬於日本。」とあるならば、
  中国領土であることが否定され、日本領土と解する余地も生じるが、そのようにはなっていない。
  「名曰東番。」の直後であれば、日本の属国と解する余地がないでもないが、そのようにはなっていない。

  http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/10.jpg

  の表を見れば、「蠻地」「東番地」「紅夷地」は明らかに時代が異なり、
  「明」の「紅夷地」に関する記述の後に「屬於日本。」の記述がある以上、
  「元」以前に関する記述ではあり得ない。

  「オランダ」は「澎湖島」を占領した後、「臺灣」へ退き占領したが、
  この際、日本と争ったとも、琉球と争ったともされていない。

  何を根拠に日本領土であるなどと主張し得るなどと考えるのか理解に苦しむ。

Re: またあなたの自爆か

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 13:33 投稿番号: [15753 / 18519]
>日本の海賊が日本国を代表するならば
いやあなたの解釈を現代語に訳して代入したただけですが。
あなたは。「倭寇」を「日本」とした説明として、「倭が日本である」と
回答した。倭=日本   寇=海賊という訳をあなたの説明に代入すると
「日本(=倭)の海賊(=寇)」は「日本国」であるということになると
いうことです。
私が聞いているのは倭を日本とした用例ではなく倭寇を日本とした用例です。

Re: あなたが自滅のようですね

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 13:27 投稿番号: [15752 / 18519]
手元に漢字辞典がないので、とりあえず広辞苑。
属する
1.従う、従属する。つく
2.その種類又は「範囲の中にある」。また、その系統に従う。

属に「拠点」って意味があるの?
「倭寇」を「日本」と称した用例は?

>「屬」が「朝貢国」を意味する「属国」
そもそも台湾を「国家」として見てるのか?

>領土ではない何かが日本に属しているとしか解釈できない。
意味がわからん。[屬於日本]の主体は台湾しかありえんので、
「東番の住む台湾は日本に属す」としか解釈できんわ。悪いけど。

また自爆ですか?

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 13:13 投稿番号: [15751 / 18519]
>「[日本]の海賊」の[日本]は、日本国のことである、
>なんて意味不明な説明は聞いていない。

  解釈を間違えていますな。

  日本の海賊が日本国を代表するならば、
  日本の海賊の拠点は日本領土と解する余地もあるかもしれないが、

  日本の海賊が占領しても、
  日本の海賊は日本を代表していないから日本領土であるか否かとは無関係である。

  ただし、日本の海賊は、日本に属している者たち(日本人)により構成される海賊ではある。
  (日本と密貿易を行う海賊とすべきかもしれないが)

  「屬於日本」は、何が属しているか書いていない。

  台湾を拠点にした「海賊」が日本に属しているのであれば、「倭寇」の事であろう。

  また、「屬於日本」の記述が、
  オランダによる占領と鄭成功がオランダを追い払った事の間に記述されている事から、
  「屬於日本」が上記期間内に限定されるのであれば、
  日本−オランダ間の貿易を「朝貢」と認識して、「属国(朝貢国)」の意味として「屬」を用いた可能性もある。

自滅ですか?

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 12:51 投稿番号: [15750 / 18519]
>屬に「拠点」なんて意味もない。

  「領土」なんて意味もない。

  「屬於日本」からは、【何かが】日本に属するとしか読めない。

>「倭寇の拠点だったから、[屬於日本]ではない」では意味不明。

  都合の悪い部分は省略ですか?

  http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/11.jpg

  の表に「日本の地」と介すべき記述が見あたらない。

  であれば、属しているのは「領土」ではなく、
  歴史上、台湾に関係があり日本に属するものは、五島列島に拠点を有する「倭寇」。

  「屬」が「朝貢国」を意味する「属国」であれば、日本と貿易を行っているオランダ人であるとも考えられる。

>[屬於日本]と書かれている以上、[屬於日本]である。

  そうですね、「台湾」が領土として日本に属するなどとは書かれていない。

  「日本の領土ではない事」は表の記述からわかるから、
  領土ではない何かが日本に属しているとしか解釈できない。

Re: 「倭寇」の「倭は、」

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 11:54 投稿番号: [15749 / 18519]
「倭」ではなく、「倭寇」を「日本」と称した用例。

「[日本]の海賊」の[日本]は、日本国のことである、なんて意味不明な説明は聞いていない。「[日本]の海賊」を「日本」と称した用例だ。
すり替えるなよ。

Re: 「倭寇」の「倭は、」

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 11:49 投稿番号: [15748 / 18519]
[屬於日本]を読み下してくださいな。屬に「拠点」なんて意味もない。

「倭寇の拠点だったから(推測)、[屬於日本]と判断したのであろう」
なら、わかるが、
「倭寇の拠点だったから、[屬於日本]ではない」では意味不明。

[屬於日本]と書かれている以上、[屬於日本]である。

「倭寇」の「倭は、」

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/28 11:22 投稿番号: [15747 / 18519]
  元々、「日本」の意味。

  鄭成功による台湾支配より前に、
  日本が領有した事実があると立証できる資料があるなら示してください。

≫>「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記述がある。

  上記翻訳は句点のみ見ても明らかに間違っている。

  「台湾は古より荒服の地である。中国と通じていない。」つまり、「蠻地」

  「名は東蕃。」つまり、「東番地」

  「天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。」つまり、「紅夷地」

  「日本に属する」

≫>「台湾はもともと」

  等と翻訳すべき部分が原文の何処にあるのか?

  また、なぜ、「屬於日本」に対応する「日本の地」と介すべき記述が表にないのか?



  日本が台湾に対して明らかに関係ある事例は、まず、「倭寇」であり、

  他には、日本はオランダと貿易を行っている事から、
  「オランダと貿易」→「朝貢」→「属国」とする考え方もあり得る為、
  「属」は「台湾」ではなく「オランダ」にかかっている可能性もある。

Re: > 『大清一統志』 in 1744

投稿者: adios_amigo66 投稿日時: 2007/08/28 01:12 投稿番号: [15746 / 18519]
日本に属すとしか訳せんと思うが。
大清一統志で日本を「倭寇」とする用例でもあるのか?

> 『大清一統志』 in 1744

投稿者: t_ohtaguro_2 投稿日時: 2007/08/27 17:42 投稿番号: [15745 / 18519]
  資料収集の努力は認めるが解釈に無理がある。

  http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/10.jpg
  http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/11.jpg

  には、漢から明までに関する表があるが、
  表には「蠻地」「東番地」「紅夷地」などの記述はみられるが、
  「日本の地」と介すべき記述が見あたらない。

  「屬於日本」との記述は「倭寇の拠点」程度の意味であろうと考えられる。

竹島=独島問題のセミナー

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/26 20:55 投稿番号: [15744 / 18519]
セミナー「竹島(独島)問題、解決の方途をさぐる」案内

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講師:内藤正中(島根大学名誉教授)
参加費:1000円(会員800円)
主催:韓人歴史資料館、土曜セミナー
場所:東京、韓人歴史資料館
月曜定休日、事前の申し込みが必要。
http://www.j-koreans.org/
TEL:03-3457-1088

『大清一統志』 in 1744

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/25 06:50 投稿番号: [15743 / 18519]
今ちまたでは、「ブラバン!甲子園」というCDがバカ売れしているようで、私も昨日買いました。これを聞くと気分が乗らないときでも「やるぞー!」となりますね。資料掲載もガンガンやれそうです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3-%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92-%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BD%BC%E6%88%90%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9/dp/B000PDZP0C/ref=pd_bbs_sr_1/250-4134831-8717803?ie=UTF8&s=classical&qid=1187991921&sr=8-1


さて、掲題の件ですが、『大清一統志』を下記に掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/daishin-1744/
「台湾は古より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」とハッキリ書いてありますね。

http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/
(後日掲載予定)


next, coming up
『大清統一志』(本日アップロード完了)
『Narrative of the Voyage of HMS』
『Atlas zur Geschichte der Japanischen』
『日本一鑑』
『八重山語彙集』
『吐[カ]喇及尖閣群島』

八月下旬の尖閣掲示板エンディングテーマ「たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!」
http://www.youtube.com/watch?v=X2KgMbQmTZ8&NR=1
俺もいい歳だけど、やっぱり親がいないと何か気が抜けるね。俺の見ていた母は、いつも働き、いつも泣いてた親だから。感謝してる。

『明史』 in 1739

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/24 00:42 投稿番号: [15742 / 18519]
本来ならば、私も竹島問題を先行してサイトを構築した方がいいのかも知れませんが、ここは島根県に任せます。

さて、掲題の件ですが、『明史』を下記に掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/minshi-1739/
私は完膚なきまでに徹底的に資料を掲載します。こうなってくると中国はグーの根も出ないことでしょう。

next, coming up
『明史』(本日アップロード完了)
『大清統一志』
『Narrative of the Voyage of HMS』
『Atlas zur Geschichte der Japanischen』
『日本一鑑』
『八重山語彙集』
『吐[カ]喇及尖閣群島』

八月下旬の尖閣掲示板エンディングテーマ「たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!」
http://www.youtube.com/watch?v=X2KgMbQmTZ8&NR=1
俺もいい歳だけど、やっぱり親がいないと何か気が抜けるね。俺の見ていた母は、いつも働き、いつも泣いてた親だから。感謝してる。

恒藤規隆 『南日本の富源』

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/23 19:16 投稿番号: [15741 / 18519]
Web竹島問題研究所 9月中旬公開
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=440455006
小職のサイトを上回る、かなり大規模なサイトになることを期待します。あと3週間ぐらいは尖閣諸島を研究して完成させ、9月下旬以降はWeb竹島研究所に掲載されていない資料を小職が当HPで掲載します。

さて、掲題の件ですが、 『南日本の富源』を下記に掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/minaminihon-1910/
これはまた貴重な資料ですね。しかし、和平島(現在の魚釣島)や久場島などが言及している一方で、魚釣島から遠く離れた大正島(中国名:赤尾嶼)については何の記述もありません。先日掲載した沖縄毎日新聞にも大正島の記述は尖閣諸島にありませんでしたね。

next, coming up
『南日本の富源』(本日アップロード完了)
『明史』
『大清統一志』
『Narrative of the Voyage of HMS』
『Atlas zur Geschichte der Japanischen』
『日本一鑑』
『八重山語彙集』

八月下旬の尖閣掲示板エンディングテーマ「たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!」
http://www.youtube.com/watch?v=X2KgMbQmTZ8&NR=1
俺もいい歳だけど、やっぱり親がいないと何か気が抜けるね。俺の見ていた母は、いつも働き、いつも泣いてた親だから。感謝してる。

政府、国連で‘東海’表記の正当性強調へ

投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/08/22 12:53 投稿番号: [15740 / 18519]
政府は21−30日にニューヨークで開かれる第9回国連地名標準化会議で、東海(トンへ、日本名・日本海)表記の正当性を説明する計画だ。

外交通商部は20日、「地名標準化会議で韓国政府の首席代表演説を通じて東海表記の正当性に対する政府の立場を提起する予定」とし「しかしこの会議は地名表記の技術的側面を扱うもので、地名自体を決定するものではない」と明らかにした。

1965年に国連経済社会理事会の決議に基づき設置されたこの会議は5年ごとに開催され、各国の地名標準化政策、外来地名問題、単独主権下に属しない地形に関する問題、ローマ字表記問題などを主要議題として扱う。


2007.08.20 15:54:59

笹森儀助 『南島探験』

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2007/08/20 23:45 投稿番号: [15739 / 18519]
お盆は亡くなった親族や先祖を敬う日です。「俺もいい歳だけど、やっぱり親がいないと何か気が抜けるね。俺の見ていた母は、いつも働き、いつも泣いてた親だから。感謝してる。」

さて、掲題の件ですが、下記に掲載します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/nantotanken-1894/
日本には冒険野郎が沢山いますね。

next, coming up
『南島探験』(本日アップロード完了)
『南日本の富源』
『明史』
『大清統一志』
『Narrative of the Voyage of HMS』
『Atlas zur Geschichte der Japanischen』

八月下旬の尖閣掲示板エンディングテーマ「たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣!」
http://www.youtube.com/watch?v=X2KgMbQmTZ8&NR=1

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判8

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:28 投稿番号: [15738 / 18519]
(注6)『竹島紀事』元禄六年九月四日条
  同六年九月四日大目付内野九郎左衛門を以朝鮮人問情被仰付也
      朝鮮人口書
一 我々両人之内壱人者釜山浦之者アンヨグト申候、壱人ハウルサン之者パクトラビト申者ニ而御座候、我々一艘ニ十人乗組候處 内壱人相煩申ニ付 寧海与申所ニ残置 九人乗竹嶋ニ罷渡候
  ・・・・・
一 彼嶋之名を朝鮮ニ而ムルグセム与申候
一 彼嶋之儀 日本ニ而御座候も朝鮮之地ニ而御座候も一円存不申候 日本ニ罷渡候而日本之地ニ而御座候由初而承申候

(注7)池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006,P280
(注8)田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報』20,P24,1988(執筆は1960)
(注9)田川孝三「于山島について」『竹島問題研究資料』10、島根県図書館所蔵,1953,P100
(注10)前掲書、P23,1988
(注11)半月城通信<安龍福の于山島像・竹嶼編、下條正男氏への批判>
http://www.han.org/a/half-moon/hm119.html#No.897

(注12)『邊例集要』巻17「欝陵島」条
   (〓は「かたへん、方」に「ム」、下に「小」)
  甲戌(1694)正月   竹島被捉両人處 發問目推問 則朴於屯招内 癸酉三月 租二十五石 銀子九兩三銭等物 載持貿魚次 自蔚珍向三陟之際 漂風到泊於所謂竹島 而竹島至於伯耆州遠近事段 矣身留駐本島
  第三日 倭人七八名 不意中乗船來到 執捉矣身 仍自其島 發船經三畫四夜之後 始達伯耆州爲白乎〓 竹島大小周回段 其大 較之於釜山前洋絶影島 則二倍有餘是白遣 周回則不能詳知 而所見極廣闊是白乎〓 山形段 山有三峯 高峻接天是白遣 其餘多是平廣之地 而川水 流出於海是白乎〓 樹木 芦竹 禽獣等物段 有柯重木 柄子木 香木 又有冬栢木是白遣 有大竹 其節甚大 而直聳參天是白遣 又有箭是乎〓 島中人戸居住事段 即今雖無居住之人戸 而遣基礎石相連 而空基 多有生蒜是處是白乎〓 本島去伯耆州水路里數事段 矣身被捉入去之時 得水疾 僵臥舶中、只記其三畫四夜之後 得達伯耆州 而水路里數 不能詳知是白乎〓 此島前後 更無他島云々
  安龍福招内 山形草木辭䖝一様 而末端良中 矣身被捉入去之時 經一夜 翌日晩食後 見一島在海中 比竹島頗大云々 䖝由馳啓

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判7

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:13 投稿番号: [15737 / 18519]
(注1)(〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう)
『東国文献備考』「于山島 欝陵島」条の影印リンク
  www.kr-jp.net/rok/jiri/seungran-usan.pdf

(注2)『竹島紀事』元禄6年8付き23日条
  (下記において、〓は「峠」のヤマヘンをテヘンに変えた字、以下同様)
八月廿三日
  宋對馬守殿
〃(元禄六年)右御到来二付 竹嶋之儀 内々聞合のため 六月五日 杉村采女方より在館之通詞 中山加兵衛方江左之通相尋遣候
〃竹嶋之儀 朝鮮二而ハ ブルンセミト申候由 被申越候 竹嶋与書候而 朝鮮讀ニプルンセミト不申候哉 プルンセミとハ如何様二書申候哉 欝陵嶋与申嶋有之候 是を下々之詞ニブルンセミとハ不申候哉 日本二而者欝陵嶋之儀を磯竹と申候 欝陵嶋とブルンセミハ別之嶋二而有之候哉、プルンセミを日本人ハ竹嶋と申候与申儀者誰之咄二而被承候哉
〃竹嶋江ハ去々年より初而罷渡候哉 以前より渡候得共隠シ候而 去々年より罷渡候与申候哉 朝鮮人共自分之〓之為蜜々罷渡申事二候哉 又々    公儀より差図二而罷渡候哉 当年も又々罷渡たる事ニ候哉
〃竹嶋江日本より十二三端之船三艘宛毎歳罷わた渡 彼嶋江長小屋を三四軒茂掛置候由被申越候 干今其通ニ仕候哉 日本人者何之国之者共ニ而有之候哉
〃竹嶋者朝鮮国より何方江当り何之所より何風ニ而乗候与之儀 海路何程之大キサ如何程有之候哉 尤尤費殿より之口上書ニ書載有之候得共 又々得与可被承候
   右之段々委細ニ承度候様子ニより    公儀江茂御案内被仰上事ニ候間 何とそ懇志之朝鮮人江密二相尋 書付早々可被差越 慥成咄二而無之候共 下々之咄ニ而茂被承候通 委書付可被差越候、此段為可申入如此候
    通詞中山加兵衛方より六月十三日之書状を以右返答申越候付左記之
〃当年も彼嶋江為〓 釜山浦より商売船三艘罷越候由承届候付 ハンビチヤグ与申釜山之唐人相加 嶋之様子諸事具見届 海路ニ至迄入念候様ニ申付態右之者共二相加差越候 帰着次第具承 追而可申上候 先荒増承候通別紙書付差上候
     乍恐口上之覚
〃プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候 プルンセミ之儀者ウルチントウト申嶋ニ而御座候、プルンセミ之儀者ウルナントウより北東ニ当かすかに相見申由承候事
〃ウルチントウ嶋の大サ一日半廻り程有之由ニ御座候 尤高山ニ而田畑大木等有之候由承及候事
〃ウルチントウ江者江原道之内エグハイと申浦より南風ニ出帆仕候由承及候事
〃ウルチントウ江通申候事 去々年より罷渡候儀 相違無御座候事
〃ウルチントウ江罷渡候儀 公儀江相知不申 自分之為〓密々二罷渡候事
  右之外之儀 ハンビチヤグ帰着次第具承届重而委細可申上候

(注3)『竹島紀事』元禄六年11月1日条、12月5日のご返事
   首譯中申談候ハ日本二竹嶋と申候ハ必定欝陵嶋之儀二候へとも左様朝廷方江申候而者至而大切成事二存候故彼方角三嶋有之候 一者欝陵嶋、一者干山嶋と申候 一者嶋之名不申候、此内いつれニ而も日本ニ而竹嶋与被仰候を竹嶋ニ相極候而 外之嶋を朝鮮国之欝陵嶋二用申候得ハ 朝廷方之存分茂立 日本向も御首尾能相済申事候故 右之通我々内談仕候而返答仕候

(注4)同上
   質人爰許逗留之内 相尋候節申候ハ 今度参候嶋之名者不存候 今度参候嶋より北東当り大キ成嶋有之候 彼地逗留之内漸二度見江申候 彼嶋を存たるもの申候ハ 于山嶋与申候通申聞候 終ニ参りたる事ハ無之候 大方路法一日路余も可有之哉与相見江申候由申候 欝陵嶋与申嶋之儀者曽而不存候由申候 乍然質入之申分虚実難斗候得共 為御心得申進候 其元ニ而能御聞可被成候

(注5)『竹島紀事』六月条、「朝鮮人弐人 申由」
   朝鮮国慶尚道之内東莱之郡釜山浦之安ヨクホキ 蔚山之朴トラヒ与申者ニ而御座候 我々儀 蔚山与申所より竹嶋与申所江蚫 若布〓ニ三月十一日ニ出帆仕、同廿五日ニ寧海与申所ニ参着仕、某所を同廿七日辰之刻ニ出帆仕 酉之刻竹嶋江参着仕 右之蚫 若布〓逗留仕居申候所ニ日本人四月十七日ニ我々罷在候所ニ罷出 則着物抔入置申候ひら包をおさめ 我々両人彼方之船ニ乗せ即刻午之刻ニ出帆仕 鳥取江五月朔日未刻偶着申候
  ・・・・・
   此度我々共蚫取ニ参候嶋之儀 常ニ朝鮮国にてハムルグセム与申候 日本之内竹嶋与申所之
由ハ此度承申候御事
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判6

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 21:11 投稿番号: [15736 / 18519]
   他方、安龍福は大谷船により米子へ連行される途中にも竹島=独島を見たことが『邊例集要』巻17「欝陵島」条に記録されました。同書は数百年にわたる日本との交隣関係をまとめた書ですが、「欝陵島」条に「竹島一件」が記されました。その書で朴於屯の詳細な尋問の後に安龍福の口述が簡単にこう記されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
甲戌(1694)正月
   竹島で捉えられた罪人である蔚山居住の朴於屯、安龍福を尋問した。朴於屯を内に招いた
  ・・・・・
  安龍福を内に招いた。山の形や草木などの話の内容は(朴と)同じであった。末節なことであるが、身を捉えられて島を去る時、一夜を経た翌日の夕食の後、一島が海中にあるのを見た。竹島に比べすこぶる大きいという。云々(注12)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   安龍福たちが捉えられた場所を欝陵島とせずに竹島として記録したのは、当時の朝鮮政府は欝陵島と竹島は別の島であるという立場をとったためでした。この時、安龍福が見た「一島」に関する証言は末節なこととして片付けられてしまったようです。
   しかるに、欝陵島から一日の道のりにあるこの島こそが、まさしく竹島=独島でした。下條氏がいうような、欝陵島からわずか数kmしか離れていないチクトウ(竹島)ではあり得ません。当時、大谷船は竹島=独島を航路の目印として、あるいは漁撈のために往復の途中でかならず同島へ寄っていたのでした。

   なお、朴於屯はこの時「水疾」をわずらって寝ていたため竹島=独島を見ることができず、他に島はなかったと口述しました。
   安はその島を「竹島に比べすこぶる大きい」と表現しましたが、これは彼一流の誇張表現と思われます。かつて、下條氏はそのように「大きい島」は隠岐島しかないとして、安龍福が見たのは竹島=独島ではなく隠岐島であるという説を発表したことがありましたが、単なる揚げ足取りにすぎなかったようです。最近は変説してその説を言わなくなったことはすでに紹介したとおりです。

   ともかく、ここで重要なのは、安龍福が実際に見たその島が于山島であり、日本で松島とよばれていることを彼が知ったことです。その認識を彼は連行船のなかで知るようになったのかどうかは不明ですが、その認識を強固にし、かつ同島などは朝鮮領であることを訴えるために、三年後、みずから進んで二度目の来日を実行したのでした。韓国で英雄視される由縁です。
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判5

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:44 投稿番号: [15735 / 18519]
   然し乍ら于山島は、前掲の(B)、(C)であると云ふによれば、此の竹嶼は近きに過ぎる。北東と云ふ方位にこだわらずして当方に島を求むれば、東南に我が今日の竹島、往昔の松島即ちリヤンクール島が存するのみである。
   而も之は東西二島よりなり西島は海抜約 157米、各島を併せて総面積 69.990坪の岩島である。従って(C)に云ふ如き「大いなる島」とは決して云はれない。然し乍ら 海島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り易いことは、当時の知識より判断すれば、先づあり得ることと云はねばなるまい。
   欝陵島よりこの竹島(リヤンクール島)を望み得ることは、中井教授等の大正八年 欝陵島植物調査によれば、
   欝陵島最高峰上峰より天気清澄の日 卵島(リヤンクール島)を遠望し得る。
とあるのである。(C)の言を全くの誤りでないとするならば、凡そこの條件に適い得るものとしては、この竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない。即ち、于山島はこの竹島に比定せねばならない(注9)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   田川氏はこの論文では冷静な分析を記すのですが、「取扱注意」の警告印が押されていない書物では後半の「然し乍ら・・・」以降の文章をカットし、簡単に「兎もかく、決定的ではなく、依然混乱が見られるが、欝陵本島の別個に于山島なる島が知られ、且 位置は正確ではないが、或る一島に命名されたことは事実であったのである」とあいまいに記すのでした(注10)。

   田川氏といえば、『隠州視聴合記』に書かれた一節「日本之乾地 此州為限矣」の州を無理に「シマ」と釈読して竹島・松島を日本の西北限界と解釈し、それが日本政府の公式見解になったことが思いおこされます。
   その説は韓国政府に反論されるや、日本政府は再反論を放棄したようですが、そのように我田引水的な解釈をしてでも、何とか竹島=独島を日本領にしたいという願望が見え見えです。その田川氏すら、于山島は「竹島(リヤンクール島)以外に求むることは出来ない」と判断せざるを得なかった事実は万鈞の重みがあります。

   田川氏は「海島にあってかすかに遠望する際、その方位と云ひ、大きさと云ひ、誤り易い」と述べましたが、これは的を射ています。方位ですが、竹島=独島は欝陵島の海辺からでは地球が丸いために見えず、その方角を知ることができません。
   同島の方角を確認するにはふたつの方法があります。ひとつは「天気清澄の日」に欝陵島の高峰にのぼり、かすかに見える竹島=独島の方向を確認する方法です。その際、高価な羅針盤をわざわざ山へ携行しない限り、方角を正確に知るためには太陽の南中時の方向をきちんと知る必要があります。これを意図的におこなわない限り、正確な方向を知ることはできません。

   もうひとつの方法は、欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた海上で方向を確認することです。安龍福などの漁夫が天気清澄の日に漁を休んで山登りするのは考えにくいので、かれらが竹島=独島を見たのは欝陵島から竹島=独島寄りに10km以上離れた所と思われます。
   その場合、目撃地点の位置が両島を結ぶ直線上にあれば、携行したかも知れない羅針盤で竹島=独島の方角を確認できますが、それ以外の場所では三角測量の原理からいって、両島までのそれぞれの距離を正確に知らなければ、竹島=独島が欝陵島のどの方向に当るのかを割りだすことは不可能です。
   このように海上でも離島の方角を正確に知るのはかなり困難なので、安龍福が竹島=独島の方角をズレて北東と見たのも無理はありません。同島の実際の方向を球面三角法などで計算すると、同島の方角は東から18度南寄りであり、北東とは63度のズレがあります(注11)。このような事情を考慮するとき、ブルンセミや安龍福が見た于山島は田川孝三氏がいうように竹島=独島に間違いないと思われます。
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判4

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:43 投稿番号: [15734 / 18519]
   以上の史料をまとめると、于山島について日朝の間で下記のような認識があったことが読み取れます。
1.日本でいう竹嶋は、東莱府などの官衙では欝陵島と呼ばれ、対馬藩ではウルチントウと聞取っていた。しかし、安龍福など漁夫の間ではその名は通じず、ムルグセム(セミ)と呼ばれていた。この名は『世宗実録』の武陵(Mu Leung)島と発音が通じる。
2.東莱府では欝陵島の他に于山島、および名の知れぬ島を認識していた。
3.対馬の通訳が聞いた朝鮮人は、欝陵島の北東にかすかに見えるブルンセミという島があることを認識していた。
4.漁夫の間では欝陵島から一日の航路の所に大きな于山島があることが知られていた。安龍福はその存在を仲間から知らされた。かれはその方向を欝陵島の北東と認識している。

   このように整理すると、ある共通点に気がつきます。于山島もブルンセミも欝陵島の北東に位置することです。しかも、于山島までの距離は一日の航路なので、かすかに見えるというブルンセムの記述にも合います。
   このブルンセミは于山島と思われますが、これを研究者はどう考えているのか調べることにします。名古屋大学の池内敏氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  プルンセミ之儀嶋違ニ而御座候 具承届候処 ウルチントウト申嶋ニ而御座候(「おそれながら口上の覚え」第1条傍線部)
  ブルンセミ之儀者ウルチントウより北東にかすかに相見申由承候事(第1条後半、上記のすぐ後に続く)
  ・・・・・
   ブルンセミは欝陵島の北東に微かに見える島のこと(第1条後半)となり、ブルンセミは欝陵島とは別の島であって(「嶋違ニ而御座候」)欝陵島はウルチントウのことであるというのが第1条傍線部の趣旨であろうか。もっともこれでは竹島とブルンセミとの関係については何の返答にもなっていない。
  ・・・・・
   ブルンセミの「セミ」とムルグセムの「セム」はおそらく「島」を意味する朝鮮語に間違いない。「ブルン」は「欝陵」ないし「武陵」の、またムルグは「武陵」の朝鮮読みと見て大過なかろうから、結局のところブルンセミにせよムルグセミにせよ欝陵島を指している(注7)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   池内氏は「ブルンセミは欝陵島とは別の島」という趣旨を理解しながら、ただ単に「ムルグ」と「武陵」とが発音が似ているという理由だけで、いとも簡単にブルンセミは欝陵島であると結論づけてしまったようです。

   次は田川孝三氏ですが、意外なことにブルンセミは于山島であると主張しました。意外と記したのは、同氏は日韓両政府の領有権論争において日本政府のブレーンとして活躍した人だからです。
   その一環として、同氏は韓国政府が参照していた『粛宗実録』などを痛烈に批判しました。すなわち、同書における安龍福の証言を「犯罪者の供述書に出ずるものをとって、無批判にも適宜摘録転載したものに過ぎない」「供述者の虚構と誇張に満ちたものであった(注8)」などと批判しました。
   その人が「取扱注意」の警告印が押された研究論文「于山島について」にて下記のように記したことは注目に値します。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   以上要するに高瀬八右衛門に語った朝鮮訳官の言にある彼の方角に三島あり、と云う所説と、安龍福の言と、及び中山通詞の尋ねた鮮人の言とこの三つが問題になるわけである。

(A)譯官の言は三島ありと云ふのみで、その遠近、方位は全く觸れてゐない。只ここで確なことは、三島の中 一は欝陵島、一は于山島と云ふことである。
(B)中山通詞の尋ねし鮮人の言では、その名稱は誤りと思はれるが、兎も角 欝陵島よりかすかに見える島が北東に存すると云ふこと
(C)安龍福等は、欝陵島の北東に現に二度目堵した島を于山島とあると聞かされ、その距離は大体一日路であり、大いなる島であると云ふことである。
  ・・・・・
   もし、この三島(欝陵島、竹嶼、観音島)を以て前記訳官の言に比定するとせば、欝陵島は云ふまでもなく、于山島は竹島(竹嶼)に当てねばならない。
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:39 投稿番号: [15733 / 18519]
   この文では于山島がどこに位置するのか示されませんでした。しかし、この時すでに対馬藩は于山島に関する情報を、同藩へ連行されてきた「人質」である安龍福(An Yeong Bok)と朴於屯(Bak Eo Dun)の口述から得ていました。同日の記事はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   人質がここ(対馬)に逗留中に尋ねられた時に回答したのは、今回出かけた島の名は知らない、今回出かけた島の北東に当り大きな島がある、その地に逗留した間に二度見えた、その島を存じている者がいうには于山島というと聞いている、ついに行ったことはないが、大体一日の道のりに見えたといっています。
   欝陵島という島の件はかつて知らないといっています。しかしながら、人質の申し分は虚実計りがたいので、ご参考のため申し上げます。そちらにてよく聞きとどけてください(注4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この文において「人質」が「今回出かけた島の名は知らない」としたのは『竹島紀事』全体の文脈に合いません。というのは、かれらはその島の名前が「ムルグセム」であると数回も供述しており、それが同書に記録されているからです。たとえば、長崎奉行所で7月1日に次のように述べたことが『竹島紀事』六月条の「朝鮮人弐人 申由」に記録されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   朝鮮慶尚北道の東莱郡釜山浦の安ヨクホキ、朴トラヒと申す者です。我々は蔚山という所から竹嶋という所へ蚫(あわび)や若布(ワカメ)採りに3月11日に出帆し、25日に寧海という所に着きました。そこを27日朝8時ころ出発し、午後6時ころ竹嶋へ到着しました。
   右の蚫や若布稼ぎに逗留していた所、日本人が4月17日に我々のいる所へ来て、着物など入れておいた平包みを収め、我々ふたりを彼らの船に乗せ、即刻午の刻に出帆し、鳥取へ5月1日未の刻に着きました。
  ・・・・・
   今回、我々が蚫採りに行った島は朝鮮国ではムルグセムといいます。日本の竹嶋という所であることは今回知りました(注5)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   さらに、安龍福と朴於屯のふたりは長崎から対馬へ送られ、そこでも尋問を受けました。その時の口上書がより詳細に『竹島紀事』9月4日条にこう記録されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   朝鮮人口書
一 我々二人の内、ひとりは釜山浦の者でアンヨグトと申します。ひとりはウルサンの者でバクトラビという者でございます。我々は一艘に10人乗組みましたが、内ひとりは患ったので、寧海(ヨグホイ)という所へ残して、9人が乗り竹嶋へ渡りました。
  ・・・・・
一 その島の名を朝鮮ではムルグセムと申します。
一 その島は、日本のものか、朝鮮の地であるのか一切知りません。日本へ渡って日本のものであるとのことを初めて聞きました(注6)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:37 投稿番号: [15732 / 18519]
   元禄6(1693)年、対馬藩は幕府の命により、朝鮮人が竹島(欝陵島)へ入島しないように朝鮮政府に求める外交交渉「竹島一件」を始めました。その直前、朝鮮領の「磯竹」はよく知っていても「竹島」の名をよく知らない対馬藩は「竹島」の事前調査をおこないました。
   6月5日、国元家老の杉村采女は、東莱の倭館に滞在していた通詞(通訳)の中山加兵衛に訓令を発し、下記事項を懇意の朝鮮人に内密に尋ねるよう命じました。それが『竹島紀事』8月23日条にこう記されました。

1.竹嶋は朝鮮でブルンセミと称している由であるが、ブルンセミはどのように書くのか、欝陵島という島があるが、これを下々ではブルンセミというのではないか。
   日本では竹嶋のことを磯竹といっている。欝陵島とブルンセミは別の島なのか。ブルンセミを日本人が竹嶋といっているのは誰の話として聞いているのか。
  ・・・・・
1.竹嶋は朝鮮のどの方角にあたり、どこからどの方向の風に乗り、海路はどれくらいで、島の大きさはどれくらいか。

   この質問に対し、通訳の中山は6月13日付の書付で下記のように回答しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   今年もその島へ稼ぎのため釜山浦より商売船が3艘出かけたと聞いています。ハンビチャグという異国の者を加え、島の様子や諸事を見届け、海路に至るまで入念にと申し付けましたので、右の者どもが帰着次第追って申し上げますが、先に聞いていることを別紙の書付で差し上げます。

   「恐れながら口上の覚え」
1.ブルンセミの件は島違いです。聞いたところではウルチントウと申す島です。ブルンセミの件はウルチントウと申す島です。ブルンセミはウルチントウより北東に当りかすかに見えると聞いています。
1.ウルチントウ島の大きさは一日半廻りほどあるとのことです。もっとも高山にて田畑や大木などがあると聞いています。
1.ウルチントウへは江原道のエグハイという浦から南風で出帆すると聞いています。
1.ウルチントウへ通っている件、一昨年から出かけているのは間違いありません。
1.ウルチントウへ出かけている件、官衙では知らず、自分たちの稼ぎのためにでかけています。
  右の外の件は、ハンビチャグが帰着次第聞いて重ねて委細を申し上げます(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   倭館の日本人通訳が、懇意にしている朝鮮人から聞いたという「ウルチントウ」は、発音からみてほぼ欝陵島(Ul Leung Do)をさすようです。次に「エグハイ」ですが、後の安龍福の口上書で彼の出発地である「寧海」にヨグホイとルビがふられたので、これは寧海(Yeong Hae)を指すとみられます。
   中山が懇意にしている朝鮮人は、漁夫が寧海から欝陵島へ出かけていた事実などを的確につかんでいたようです。ただ、欝陵島に大木はあるにしても、同島には政府の空島政策がしかれていたので、田畑は荒廃して形をなさなかっただろうと思われます。この点ははずれているようです。
   次にブルンセミですが、語尾のセミは島を意味する韓国語 Seom を聞取ったものと思われます。ブルンの意味や漢字表記は不明ですが、ブルンセミがウルチントウからかすかに見える島であるという証言は重要です。これは安龍福の証言とも微妙にからむだけに後述します。

   この調査後「竹島一件」の交渉が始まるのですが、交渉相手である東莱府などは欝陵島付属の島をどうとらえていたでしょうか。それを示す資料が『竹島紀事』11月1日条に12月5日の記事として残されました。その資料は朝鮮の訳官が対馬藩の裁判・高瀬八右衛門に語ったのを記録したもので、こう書かれれました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   首譯中(朝鮮訳官首席?)がこう云いました。日本で竹嶋というのは必ずや欝陵島のことであるが、そのように朝廷に言っては大事である。かの方角には三島があり、ひとつは欝陵島、ひとつは于山島という、ひとつは名前を言わなかった。この内いずれかを日本で竹嶋を云われている竹嶋と決め、他の島を朝鮮の欝陵島に用いれば、朝廷方のメンツも立つし、日本向けも首尾良く済むので、右の通り我々で相談して回答をした(注3)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

于山島はチクトウ(竹島)? 下條批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/19 20:36 投稿番号: [15731 / 18519]
   半月城です。

   下條正男氏は、安龍福が大谷船により連行される途中で見た島は、欝陵島のすぐ近くにあるチクトウ(竹島)であると「最終報告書」の巻頭言で断定しました。しかし、論拠にしている『竹島紀事』からそのような解釈がはたして可能かどうか、ここでじっくり検証したいと思います。
   同氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   安龍福は、欝陵島より「北東に当たり大きなる嶋あり」、彼島を存じたるもの申し候は于山島と申し候」と証言している。この証言から見ても、安龍福が主張する于山島は、今日の竹島ではない。安龍福が見たのは、地図上に「所謂于山島」とされたチクトウ(竹島)である。チクトウは安龍福が漁撈活動をしていた欝陵島の苧洞から東北に位置し、竹島は欝陵島の東南にあるからである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   これに反論する前に、準備として当時の于山は朝鮮でどのように認識されていたのかを簡単に見ておきたいと思います。まずは最も重要な官撰地理志をひもとくことにします。
   于山の名ですが、国名としての于山は『高麗史』「地理」に登場しましたが、島名としての于山は『世宗実録』が初めてでした。そこにこう記されました。

  『世宗実録』地理志、江原道蔚珍縣(1454年)
  于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日清明 則可望見 新羅時稱于山國 一云欝陵島 地方百里

   この地理志に書かれた「二島はお互いに遠くなく、天気が清明なら望み見ることができる」という記述は、于山島が今日の竹島=独島であることを想起させます。天気が良い時にだけ見える島は竹島=独島しかないためです。
   しかし、それから27年後の官撰地理志である『東国輿地勝覧』では于山島、欝陵島を別々の島にするものの、于山島が竹島=独島であることを想起させるような記述は消え、しかも一説として于山・欝陵の一島二名説がつけ加えられました。

  『東国輿地勝覧』(略称『輿地勝覧』)江原道蔚珍縣(1481年)
  于山島 欝陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島 地方百里(注1)

   しかも付属の絵図では、なんと于山島が欝陵島の西に描かれました。実際は、欝陵島の西に島は皆無です。これは『東国輿地勝覧』の本文に于山島の名が欝陵島より先に書かれたので、それにつられて絵図で于山島を本土の近くに書いたとみられます。
   そもそも、これは15世紀の絵図とあっては、離島の位置や大きさなどで正確さを望むべくもありません。ともあれ、同絵図は東海中に于山・欝陵の二島が存在するという空間認識だけはしっかり表現しました。

   このように『輿地勝覧』に書かれた于山島は現在のどの島をさすのか不明です。その後『輿地勝覧』は何度か改訂されましたが、于山島に関するかぎり改訂はされませんでした。したがって、同書において于山島は観念的な存在にとどまりました。
   なお、この『東国輿地勝覧』は「竹島一件」交渉において重要な役割をはたしました。同書などに欝陵島が書かれたことが決め手になり、日本は最終的に同島を朝鮮の領土と認めました。もちろん、于山島も一緒です。

   官撰地理志とは別に、朝鮮の官衙である東莱府などが于山島をどのように認識していたのかを史料に見ることにします。対馬藩が元禄期の「竹島一件」をまとめた書『竹島紀事』です。
   この書は対馬藩士である越常右衛門により享保11(1726)年にまとめられたので「竹島一件」(1693-99)とほぼ同時代の記録といえる重要書です。同書が朝鮮人、なかんずく安龍福の于山島像をどのように記録したのかを精査したいと思います。
(つづく)

Re: 竹島

投稿者: pup_poop_one 投稿日時: 2007/08/19 01:28 投稿番号: [15730 / 18519]
上沼恵美子の資産

韓国が拘る本当の理由

投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:52 投稿番号: [15729 / 18519]
韓国が日本海を東海へ改称したい本当の理由は

日本のEEZに眠る海底鉱物資源を少しでも掠め盗りたいからなのです。

竹島問題も同様。

日本固有の資源は狙われているのです。

日本は確かに「ジパング」だったのです。

中国が大陸棚に拘る理由のひとつ

投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:36 投稿番号: [15728 / 18519]
コレ↓なんですかねぇ。。。


EEZと大陸棚の海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラスト




金銀などの貴金属も結構あるらしいですよー。

ユダヤさんがタングステン目当てに

ルワンダの少数遊牧民族を操っているように

鉱物資源がある土地は狙われますからねぇ・・・


あっところで、ルワンダのジェノサイドは怪しいですからね。

「謎の人口統計」問題もありますからねぇ。

要は「南京大虐殺」の嘘とおんなじです。

ユダヤさん御用機関のハリウッドが、ルワンダ問題を映画化してますし、

最近ジェノサイドの生き残りと称してデヴューしたR&B歌手コルネイユも

唐突に強引に強力プッシュされてますからねぇ。

日本領海の海底鉱物資源

投稿者: mansuzunazonazo 投稿日時: 2007/08/18 00:32 投稿番号: [15727 / 18519]
http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/166/a02.php

EEZと大陸棚の海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラスト

日本のEEZと大陸棚には、世界第一位と世界第二位の潜在的賦存量を有する海底熱水鉱床とコバルト・リッチ・クラストが存在している※4。とくに、開発対象となる可能性が指摘されている、銅、鉛、亜鉛、金、銀の含有割合が高い黒鉱型海底熱水鉱床が、伊豆・小笠原海域や沖縄トラフで発見されている。コバルト、ニッケル、銅、マンガンの含有割合が高いコバルト・リッチ・クラストは、レアアース類の供給源となる可能性も示唆されている※5。

これらの深海底鉱物資源は、水深1,000mを超える深海に存在するため、開発が困難であると考えられてきた。しかし、「ちきゅう」や「しんかい6500」に代表される、深海における汎用技術の醸成が進み、ブラジル沖では水深約2,000mから石油が生産されている。深海に手が届く技術が完成されつつあるといえる。

朝鮮史書「改ざん」説、下條批判4

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:48 投稿番号: [15725 / 18519]
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004,P100
(注2)半月城通信<『東国輿地勝覧』と于山島>
  http://www.han.org/a/half-moon/hm094.html#No.685
(注3)半月城通信<下條正男氏への批判、朝鮮史書改ざん説>
  http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785
(注4)『東国輿地志』巻之七(江原道)
  http://147.46.181.118/IMAGE/kyu00996.PDF
(注5)『東国輿地志』「于山島欝陵島」条の影印リンク
  http://www.kr-jp.net/rok/jiri/yojiji-usan.pdf
  翻刻文(句読点、改行記号を挿入)
于山島、欝陵島。   一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌〓1〓2空。南峯稍卑。風日清明。則峯頭樹木及山根沙渚。歴々可見。風便則二日可到。一説于山、欝陵島本一島。地方百里。
  新羅時恃險不服。智證王十二年。異斯夫為何琵羅州軍主。謂。于山國人愚悍。難以威服。可以計服。乃多以木造獅子。分載戦船。抵其國誑之曰。汝若不服。則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
  高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆。獻方物。
  毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥。可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視。柔立回奏云。島中有大山。從山頂向東行。至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩。有村落基址七所。或有石佛鐵鍾石塔。多生柴胡藁本石南草。
  後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃。多珍木海錯。遣使往觀之。有屋基破礎宛然。不知何代人居也。於是移東郡民以實之。及使還。多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟。人多物故。因還其居民。
  本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多。再命三陟人金麟雨爲按撫使。刷出。空其地。麟雨言。土地沃饒。竹大如杠。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。
  世宗二十年。遣縣人萬戸南邕。率數百人往捜逋民。盡俘金丸等七十餘人而還。
其地遂空。
  成宗二年有告。別有三峯島者。及遣朴宗元往〓3。因風濤不得泊而還。同行一船。泊欝陵島。只取大竹大鰒魚。回啓云。島中無居民矣。
〓1、やまかんむりに業、ぎょう
〓2、てへんに掌、とう
〓3、不の下に見、べき
(注6)「輿地志云 欝陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」
(注7)『英祖実録』1770年 閏5月16日記事
  文獻備考 象緯考成 上親受崇政殿 賞編輯堂觔有差 上以備考之成 基於申景濬疆域志 特命加資

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

朝鮮史書「改ざん」説、下條批判3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:31 投稿番号: [15724 / 18519]
   このあいまいな記述に明確な結論をくだしたのが申景濬でした。かれは 1756年に著わした歴史地理書である『疆界考』(別名『疆界誌』)において、上に書いたように、于山・欝陵の二島は于山国の地であり、そのうちの一島はいわゆる「松島」であると断定しました。
   ここに「松島」の名が登場しましたが、これは安龍福が 1696年に日本へ渡って欝陵島と子山(于山)島は朝鮮の地であると主張し、子山島は松島であると確認したことに由来するようです。

   以上のような歴史地理学の発展の成果を取り入れて記述されたのが問題の『東国文献備考』(1770)でした。同書は于山・欝陵についてこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『東国文献備考』「輿地考」(1770)
  「輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり(注6)」
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   しかし、引用元として書かれた「輿地志」からは上記のように読み取ることは困難です。何か手違いがあったようです。下條氏は、上に紹介したように<(『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界誌』が使われたことが分かっている>としましたが、どうやら、同書は引用文献を『疆界誌』とすべきなのに、粗忽に「輿地志」としてしまったようです。
   下條氏によれば、<『東国文献備考』は編纂当初から「記載するところが疎略」>、<英祖が「速成を督」した>とされるので、引用文献の名を間違えることはあり得たのでしょう。

   そうであれば、『東国文献備考』は単に文献名を誤っただけであり、それを「改ざん」などと仰々しくのたまうのは疑問です。著者が意図的に行なうのが「改ざん」であり、意図的でないのは単なるミスです。
  『東国文献備考』の場合、引用文献名を『疆界誌』のかわりに意図的に「輿地志」としなければならない理由は何も見当たりません。むしろ、当時は申景濬の『疆界誌』が積極的に引用されるような状況でした。実際、かれはそうした貢献で王から褒美をもらったほどでした(注7)。

   ま、下條氏の「改ざん」説はともかくとして、史実として、于山島は松島であることが安龍福の日本での訴訟事件をとおして日本と朝鮮で確認され、その認識が朝鮮の官撰図書に強固に反映され、後世の官撰図書などに何度も記録された事実はきわめて重要です。
(つづく)

朝鮮史書「改ざん」説、下條批判2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:29 投稿番号: [15723 / 18519]
   しかしながら、「輿地志」の記述は一島説なのか二島説なのか、原書が見つからない限り永遠の謎と思われていたのですが、存在しないと思われていた「輿地志」の写本が見つかりました。そして「輿地志」は柳馨遠の『東国輿地志』(1656)であることが判明しました。
   同書はソウル大学校の奎章閣からインターネットで影印版が公開されていましたので(注4)、その中から「于山島 欝陵島」条の影印版リンクおよび翻刻文を(注5)に掲げます。同時にその冒頭部分の口語訳を次に記します。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   于山島、欝陵島
  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
  一説によると于山、欝陵島は本来一島という
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この文は、先の『輿地勝覧』(『東国輿地勝覧』)と完全に同じです。といっても剽窃ではありません。元来『東国輿地志』は、その「凡例」に断り書きがあるように、目的は『輿地勝覧』の「増修」にありました。名著の『輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『東国輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。
   つまり、同書は『輿地勝覧』の認識を受けついで、于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を一説として書きとどめたのでした。したがって、下條氏の「于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としている」という主張は誤った我田引水であることが明白になりました。
   同時に『フォトしまね』に記された「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」という記述も明らかな錯誤だったことが判明しました。

   このような事実が明らかになっても、下條氏は「輿地志」では二島説が本来の説である事実を伏せたままでした。それどころか、依然として最終報告書において「輿地志」の「一説に于山欝陵本一島」という断片的な一節のみの引用をしつづけたのでした。
   そうすることにより「輿地志」が一島説であると読者に思いこませようとするのなら、それはトリックであり、恣意的な我田引水といわざるをえません。

   これは『春官志』の解釈も同様です。『春官志』は1744年に李孟休が王命により編纂を始め、1781年に李家煥が補充して完成した官撰図書でした。この書は国家機関である礼曹の法令や事例などを編纂した書でした。そして編纂の一環として対日関係を収録し、「欝陵島争界」すなわち「竹島一件」を記述しました。
   同書は基本的に地理書ではないので、欝陵島の地理的記述に関しては、二島説を本来の説としている上記の『輿地勝覧』の一部を次のように引用しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  欝陵島 在江原道海中 属蔚珎縣 輿地勝覧曰 一云武陵 一云羽陵 在蔚珎正東海中。三峰岌〓1〓2空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説于山 欝陵島本一島
(〓1、やまかんむりに業、ぎょう、〓2、てへんに掌、とう)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  『輿地勝覧』と異なる点は、『春官志』は欝陵島のみを小項目のタイトルにしたので、『輿地勝覧』に書かれた「二島は県の真東の海中にある」との部分から「二島」の語を抜き「蔚珎の真東の海中にある」と記述しました。
   それ以外は『輿地勝覧』の記述を「于山欝陵本一島」の語句を含めてそのまま引用しました。こうした引用方法からわかるように、同書は専門書である『輿地勝覧』の記述に異議をとなえたものではありません。したがって、問題の「于山鬱陵本一島」も含めて『輿地勝覧』の認識と同じです。すなわち、于山・欝陵の二島説を本来の説にした上で、参考に一島説を記したにすぎなかったといえます。
   以上のように、朝鮮では『世宗実録』地理志以降、ほとんどの地理志が于山・欝陵は二島であるとの認識をもっていました。しかし、どの書もそれは本当に二島なのかどうか確信が持てず「一説に于山欝陵本一島」との記述も付加したのでした。
(つづく)

朝鮮史書「改ざん」説、下條批判1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/13 22:28 投稿番号: [15722 / 18519]
   半月城です。

   竹島問題研究会の最終報告書は、太政官「竹島外一島」の見解を中間報告書から180度変えましたが、他にも引っかかる所があります。そのひとつが「朝鮮史書の改ざん」説です。
   昨年、中間報告書を要約し、島根県の全家庭に配布したパンフレット『フォトしまね』161号にはこう記されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   韓国側は現在の竹島を于山島とし、歴史的に鬱陵島の属島だったとする根拠として、「東国文献備考」にある「輿地志によれば、鬱陵島と于山島は、于山国の地であり、于山島はいわゆる日本の松島(現在の竹島)だ」との記述を挙げる。
   だが、東国文献備考の下地になった「疆界考」には、「輿地志によれば、于山島と鬱陵島は同じ島」と記されている(P4)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この見解を最終報告書がどのように扱ったのかは後述するとして、先にこの文章の妥当性を考察したいと思います。この文章は、研究会の座長を務めた下條氏の見解そのものと思われますので、くわしいことは同氏の著書『竹島は日韓どちらのものか』をみることにします。下條氏はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  (『東国文献備考』の)「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『疆界考』が使われたことが分かっている。底本となったその『疆界考』には、鬱陵島に触れたくだりに、按記(分註)として柳馨遠の『輿地志』からの引用がある。・・・
   申景濬が編著した『疆界考』の按記は次のようなものである。

   按ずるに、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。一つは則ち其の所謂松島にして、蓋(けだ)し二島ともに于山国なり。

   ここで申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用しているのは、「輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」だけで、「而るに」以下は申景濬の私見である。つまり、この按記から言えることは、オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   このように下條氏は、元の「輿地志」は一島説であり、于山・欝陵は同島異名だとしましたが、これは妥当でしょうか?   かつて、私は下記のように疑問を呈しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  「輿地志に云う、一説に于山 欝陵 本一島」という部分ですが、この文章からは『輿地志』の著者が「本一島」という一説を有力視していたといえるでしょうか?
   ふつう「一説」を紹介するとき、ほかに「本説」が書かれるものです。その場合、著者はもちろん本説を有力視し、一説を参考程度に考えるものです。たとえば、1481年に成立した『東国輿地勝覧』を例にとりあげます。そこに于山島はこう書かれました。

   于山島、欝陵島
  一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある・・・
  一説によると于山、欝陵島は本来一島という(注2)

   この文献から下條流に「一説によると于山、鬱陵島は本来一島という」という部分だけを切りとれば、『輿地勝覧』は一島説であると誤解しかねません。しかし真実は、『輿地勝覧』は見出しにあるように二島説を本説とし、付属の地図にも二島を描き、一島説は参考程度にとどめました(注3)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

漂民救助の史料をアップ

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/12 23:41 投稿番号: [15721 / 18519]
   半月城です。

  外交史料館の史料「困難船及漂民救助雑件、韓国之部」(1898)を下記にアップしました。

http://www.kr-jp.net/meiji/hyoumin/hyoumin.html

竹島・松島に関する正院地誌課の結論

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/08/12 23:25 投稿番号: [15720 / 18519]
   半月城です。

   ararenotomoさん、No.15715
>半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No.15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと思います(Nos.15675, 15677)。

   塚本明毅は、内務省地理局において明治初期の日本地図の製作を監修しました。もし、かれに竹島・松島を日本領にする意図があったのなら、地理局発行の『大日本國全圖』(1890)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せたのではないでしょうか。
   竹島・松島を本土外と記述した『日本地誌提要』「隠岐」条の編纂は太政官 正院地誌課(1871-74)によりおこなわれましたが、その時、すでに竹島・松島を日本領にするのが無理だという調査結果が出ていたと思われます。

   島根県「竹島問題研究会」の最終報告書に「幕府関係者が編修した『磯竹島事略』には・・・」と記されていますが、幕府が竹島(欝陵島)を放棄した事情を記した『磯竹島事略』(磯竹嶋覺書)を正院地誌課は知っていたか、あるいはもしかすると自ら編纂したのではないかと思われます。
   その上で、竹島・松島を日本領とする無責任な地図に警鐘を鳴らす意味で、両島が日本の領土外であることを明確にしたのではないでしょうか。
   ともあれ、地理担当部署である地誌課による『日本地誌提要』の記述は相当なインパクトがあったようで、地理学者の田中阿歌麻呂はその影響を『地学雑誌』にこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   明治の初年に到り正院地誌課に於て其(竹島=独島、半月城注)の本邦の領有たることを全然非認(ママ)したるを以て、其の後の出版にかかる地圖は多く其の所在を示さざるが如し、明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全圖には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又 我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコールト岩と題し、リアンコールト號の發見 其他外国人の測量紀事を載するのみなり(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   地理局が地図で竹島・松島を扱わなくなったため、逆に竹島・松島の島名混乱を招いてしまったようです。竹島・松島は日本領でないとの結論なので、それもやむを得ないところです。

(注1)田中阿歌麻呂「隠岐國竹島に關する舊記」『地学雑誌』第200号,1905,P594

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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