入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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満洲に於ける中国の日本人迫害1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/10 16:10 投稿番号: [400 / 2250]
張作霖が列車爆破により殺害されたあと息子の張学良が後を継ぎました。

現在は、ロシアからの情報で、張作霖を殺したのは、ソ連の工作員かも知れない
との見方も出ていますが、それまでは、日本の関東軍が犯人と想われていました。

当然、張学良もそう思っていたでしょう。
何しろ、当の日本でさえそう思っていたのですから。

当然、張学良は日本人に嫌がらせをします。


田中正明著 『東京裁判とは何か』 大手町ブックス   日本工業新聞社発行
152〜153p

《張作霖が爆死したのち、張学良が実権を握るや、彼は蒋介石と結び、党部 (国民党) 勢力を
招きいれ、党部官憲の指導のもとに、排日運動は組織化し、満州で一層熾烈 (しれつ) 化した。

さらに張学良は、国民党軍の副司令に任ぜられた。

学良は二十二万にのぼる常備兵を持ち、奉天工兵廠の規模を拡大し、戦車、飛行機
等の近代兵器の装備や、訓練、さらには機関の強化等、量質共に充実をはかった。

当時、在満の日本軍に比して、兵力装備ともに卓越していたばかりでなく、
その軍隊配置は、ちくじ、満鉄沿線の日本軍駐屯諸地域を包囲するかたちとなり、

その将兵の抗日意識の高揚と相まって、関東軍は脅威にさらされた。


これに対して、関東軍は、兵力僅 (わず) か一万余、装備は劣弱、
しかも、長春以南一、〇〇〇キロの鉄道沿線と、居留民を守らなくてはならない。

兵力の増強を意見具申しても、陸軍中央部はこれを認めてくれない。

微弱なる日本軍は、平時態勢のまま、われに二十倍する優勢にして
抗日意識旺盛な、支那大軍(学良軍)の包囲下におかれた。

排日侮日行為は、ますます組織的となり、わが軍に対する妨害行為や、
在満邦人に対する投石や、暴行などの事故が瀕発 (ひんぱつ) するようになり、

軍はもとより、邦人あげて憤激のきわみであった。


在満日鮮の居留民に対する暴行事件、その他二百余件の懸案を平和的に解決すべく、
日本政府は外交々渉を重ねてきたが、中国側は平和交渉に少しも誠意を見せず、

ただ口先のみの、形勢緩和策が叫ばれるのみで、日支両軍の関係は、
まさに一触即発の事態にあった。


つづく

国共内戦における中国の暴虐6

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/09 18:36 投稿番号: [399 / 2250]
臼井勝美著 『満洲事変   戦争と外交と』 中公新書   5p

《長沙在留の二五名の日本人は二十七日夜十一時五十分までに中の島に収容され、
その大部分九一名 (婦女子全部七三、男子一八) がガン (サンズイ+元) 江丸で

漢口に引き揚げた (三十一日漢口到着)。

彭徳懐軍は二十七日夜から市内に進入を始め、二十八日正午までには約一万が入城した。
長沙市内には処々に火災が起こり、掠奪などで市中は混乱状態におちいった。

翌二十九日にかけて、省政府や国民党党部の建物、イギリス、アメリカ系の教会などが
焼き払われ、日本領事館、館員宿舎をはじめ、一般日本商店も焼き毀された。》


鈴木明著 『「南京大虐殺」のまぼろし』 34〜35p

《中国の現代史を描いた本で 「殺戮、虐殺」 等の文字の見えぬ本は一冊もない。

一九二七年、蒋介石の政権獲得から七年間にわたるはげしい 「剿共戦」 で、
かなりの一般民衆が 「虐殺」 をうけた・・・


エドガー・スノーの 『中共雑記』 をみよう。

「個人的逮捕、処刑は別にしても、今日までに約三百万人が揚子江南北の
全五回にわたる反共戦で、殺害されていた。

江西省ソビエト地区は、隆盛期には、二百五十万の人口を有していたが、
最後の反共戦で紅軍が止むなく撤退してのちの人口は、百五十万に過ぎなかった。

湖北、河南、安徽のソビエト地区では、国民党部隊の占領後、人口が六十万人も減少した。
江西、湖南、湖北辺境地区では、五十万人が (粛清) によって殺された」


ロバート・ペイン 『長征への道』 から。

「海陸豊地方は、国民党軍に包囲され、朱徳将軍率いる軍を歓迎した女たちは、
何一つ容赦されず、村はことごとく焼かれ、大部分の女は暴行をうけ、

ほとんど皆、銃剣で殺傷された」


アグネス・スメドレー 『中国紅軍は前進する』 から。

「紅軍が長沙の町を占領した瞬間から、国民党と帝国主義者どもは大恐慌におちいった。
戒厳令が海岸および河川流域の都市にしかれた。

漢口、上海、広東、天津で〝嫌疑者〟の大量逮捕がはじまり、
速射銃をもった特別警察が各工場に配置された。

そして、これら揚子江流域の姉妹都市は、連日大量虐殺の舞台となった」
そして、更にスメドレーは続ける。

「都市の外国新聞や国民党新聞は、気が狂ったのではないかと思われた。
長沙の街に焼き打ちをかけたのは紅軍だというのだ。

〝紅軍はすべての教会や商社、全住民の家を焼き払った〟
〝紅軍は数万の民衆を屠殺した!〟〝長沙にはもう処女はいない!〟

〝紅軍は略奪し、中国文化を破壊している!〟」
「尼さんのひとりがいった。〝紅軍は何百という金持を射殺しました!〟》


*   ここではエドガー・スノーの記述だけでも110万人が虐殺されています。

   便衣兵 (共匪) 狩りや、毒ガス、大量虐殺
   中国が 「日本軍がやった」 と言っている内容は、そっくり、ここにあります。

   数から行くと、南京の30万の方がはるかに少ないですけどね。
   その30万も、人口20万の所で30万殺したというのですから何をか言わん。


   次は、満洲における中国の日本人迫害です。

国共内戦における中国の暴虐5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/08 18:45 投稿番号: [398 / 2250]
児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫

52p
《長沙が奪回されると、主席何鍵は、東方に 「紅軍」 を追撃するとともに、
市内では大規模な〝赤狩り〟を実施した。

そのさい、「赤色分子」 の識別手段にされたのは、腕や首に残る赤色のしみであった。
赤布をまいて 「長沙暴動」 に参加した労働者、農民、「紅軍」 兵士の一部は、

前述したように、その赤布をすてて潜伏していたが、汗が赤色染料をとかして
痕跡を皮ふに残したのである。

だが、〝赤狩り〟の対象は、皮ふが赤い者だけにとどまらず、多少とも疑わしい者は
容易に銃殺され、新聞も 「白色テロリズムの如き」 と論評するほどであった。

長沙奪回後の一週間で、「銃殺されたもの一千名」 に達した、と報道されている。》


*   これなど南京で日本軍が安全区に潜伏した便衣兵を摘発したのと同じでしょう。


53p
《主席何鍵個人が総商会に 「四十万元」、省政府も一般市民に 「五十万元」
の軍費献金を強制した。

「紅軍」 と中央軍によってくり返して戦禍をうけ、街も廃墟にひとしくなった
長沙市民に、それだけの献金能力はない。

・・・
八月二十七日、「紅軍」 は東方から長沙にせまった。》


*   この時、蒋介石軍は毒ガスを使っています。共産党軍をやっつける為
   とはいえ、市民もろともに。


55〜56p
《糟谷領事の報告によれば、

「十二日、(省政府秘書) 楊宜誠ガ極秘トシテ   語ル処ニヨレバ、十一日ニハ

飛行機ヲ以テ   毒瓦斯 (ガス) ヲ使用シ   共匪軍ニ相当ノ打撃ヲ 与ヘタルガ、

尚退却セズ。蒋介石ヨリ……長沙ヲ   死守スベキ旨   電報アリタリ」


57p
閻錫山は、・・・「下野」 を通電・・・通電は十四日付で、・・・蒋介石軍が
毒ガス弾を使用して地方人民を惨害しているので、

人民を救うために下野して戦争を休止する、と述べていた。》


62p
《江西省における被害は最もめだち、この年十一月までに 「紅軍」 におそわれた
市町村は六十八カ所、判明した被害だけで次のような数字が報告されていた。

▽焼失家屋=八万七千二百二十四戸。

▽死者=十二万八千七百五十人。

▽難民=百六十一万五千百人。

▽被害金額=三億八千六百九十四万九千九百元。》


つづく

国共内戦における中国の暴虐4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/07 18:30 投稿番号: [397 / 2250]
児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫

45〜46p
《長沙市内には、付近の村々にも貼布された 「大暴動」 に参加をすすめる
ビラにこたえて、続々と農民があつまってきた。

就職できて食える、との誘いは、よほどに魅力と説得力をもっていたにちがいない。
その様子を、記者スメドレーが記述している。

「長沙の街には、はるか南の村々からも何千という農民が流れこんできた……
田舎道をかけ足でやってくるものもあれば、

ジャンクやサンバンで湘江を下ってくるものもいた……。

彼らは大衆集会で発言し、ほかに何もすることがないときには、
路上で古い中国の拳法の型を演じてみせ、紅軍兵士を感心させた」

ということは、長沙にあつまった農民たちにとっては、呼びかけられた 「就職」 の
機会はほとんど無く、もっぱら集会参加と太極拳演武だけであったらしい。


結局は、「革命闘争」 という名の掠奪に参加することになるが、
すでに市内の目につく建物は掠奪ずみである。

範囲は拡大され、この日、それまで手をつけなかった汽船会社も襲撃目標に加えられて、
英国汽船会社 『恰和洋行』 の倉庫がおそわれ、同社の繋船も焼かれた。

そして、翌日、七月三十一日には、湘江にうかぶ外国砲艦を攻撃し、
事態を一挙に急転させることに
・・・

女性記者A・スメドレーによれば、「紅軍」 政治部はこの各国砲艦を 「中国人民を
搾取する列強そのもの」 とみなし、「帝国主義者と一戦をまじえねばならぬ」 と声明した。

なんとなく、長沙市内に襲撃対象が見当らなくなったので、
あえて新目標を設定したようでもある


47 p
砲艦 『小鷹』、つづいてイタリヤ砲艦が現場に近づくと、「紅軍」 側は堤防に
「機関銃十挺ヲ備へ」 て射撃してきたので、こんどは日伊両艦も本格的に応戦・・・


50〜51 p
午後九時、中国砲艦二隻は 「猛砲撃」 を開始し、長沙市街は炎上した。

八月五日午前三時、第三十一師、第十六師第四十八旅、第十五師第四十五旅は
二手にわかれて小舟、ボートで渡河をはじめ、

午前七時には長沙市北端に攻めこみ、市街戦となった。
「紅軍」側は、すでに東方に脱出をはじめていた。記者スメドレーによれば   ―

「数千の労働者農民を率いた紅軍は、補給品や奪いとった銃や弾薬、負傷者や
救い出されたが歩行のできない囚人を運びながら、長沙の街をひき払いつつあった。

ここにとどまり、敵のなかで革命的な工作を続行する任務を帯びた人々は、
腕や首にまきつけた赤い布をひきちぎって待機していた」

午前十時三十分、市街戦は終り、中央軍は長沙を奪回した。
・・・

これで、「紅軍」 による 「長沙大暴動」 は終熄したわけだが、長沙の街は、
まさに暴動の跡にふさわしく、文字どおりに瓦礫 (がれき) の集積に変化していた。


長沙の日本資産についても、次のように報告されている。

▽掠奪および焼失   =   領事公館、領事館事務所及付属家屋、

▽全部掠奪   =   郊外領事館員宿舎、同仁医院、石井写真館、日豊洋行、大石洋行、

       塩川洋行、一力亭、山本洋行、日本人小学校、陶山写真館、

▽一部掠奪   =   杏林堂、広貫堂、日清倉庫B、戴生昌、海軍宿舎、薄洋行。「損害ハ

       七千万ドルヲ下ラザルベク、同地ノ復興ニハ少クトモ四ケ年ノ日子ヲ要スベシ」

とは英商社筋の被害見積りである》


つづく

国共内戦における中国の暴虐3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/06 18:42 投稿番号: [396 / 2250]
児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫

41〜44p
《ビラには、そういったこんごの行動や政策を示唆する標語が書かれ、
署名者は次のようになっていた。

「紅軍第五軍農工革命委員会主席彭徳懐、常務委員訒乾元、
同李燦 (りさん)。暴動委員会」

放火、掠奪はなおもつづき、市内に人影は少なかった。
糟谷領事は、聞知した情報にもとづき、この日の市街の状況を次のように報告している。

「朝来、引続キ   主ナル官署 其ノ他ノ焼払ヒヲ 断行シ、数個所ヨリ黒煙濠々 (もうもう)

トシテ天ニ沖 (ちゅう) スル様 (さま) 物凄ク、民家ハ赤旗ヲ掲ゲ   普通商家ハ

門戸ヲ開キタルモ、通行人ハ労働者風ノ者ノミニテ、市内寂莫 (せきばく) ヲ極ム」

学校、医院、商店は、ほぼしらみつぶしに掠奪の対象になり、
総商会は、献金による掠奪防止を考えた。

だが、「紅軍」 側の要求は二百万元。総商会は必死の値下げ交渉で
「七十万元」 に値切り、手付金 「四万元」 を支払って掠奪放火の中止を要請した。


だが、「紅軍」 側の回答は、相変らずの〝暴行〟の継続と 「革命裁判」 の実施であった。

革命裁判所は、労働組合本部の中に開設され、「労働組合連合」「豊民同盟」
「紅軍」 の中から裁判官がえらばれた。

地主、商人、役人、国民党員など三百人が裁判され、うち三十五人が
「積極的反革命分子」として処刑された、と記者スメドレーは、つたえる。

商人の罪状の多くは、食糧、商品を隠匿して 「紅軍」 の供出命令に
したがわなかったため、であった。

記者スメドレーによれば、ある地主は、「眼鏡をかけている者、ロヒゲをはやして
いる者、長い着物をきている者は殺される」 というデマを流したので射殺された、という。

だが、実際には、この地主の発言は、デマとはいいきれなかった。
市内には、約三百人の 「黒殺隊」(暗殺隊) なる一団がうろつき、

これはという 「反革命分子」 の〝処理〟を担任していたが、
対象になるのは地主が指摘する風姿の者が多かったからである。


  七月二十九日   ―
・・・
この日は、まず国民党員五人が、放火の罪で銃殺され、

・・・
長沙ソヴィエト政府の樹立にかんする宣言が発表された。

そのソヴィエト政府は、全人民のものであり、すべての銀行、交通、通信機関、
会社、外国の公共施設、軍閥・地主の財産もソヴィエト政府のものになる……。

群集は、歓呼した。

あるいは、この宣言を、すべてはソヴィエトのもの、ソヴィエトは自分たちのもの、
ゆえになんでも自分たちのもの、と誤解したのかもしれない。


午前九時ごろ、それまで襲われなかった日本領事館に 「多数ノ暴徒」 が乱入して、
器物をうばったのち、領事公邸に放火して焼きはらった。

領事館事務所は焼かれなかったが、その掠奪ぶりは徹底していた。

「門扉窓枠ニ至ル迄破壊掠奪セラレ、一物ヲ留メズ」

と、糟谷領事も報告するが、外国人宅の物はすべて「 金目 (かねめ)」
と思うのか、床板もはぎとっていった。

外交公館の施設の中で、暗号通信を扱う電信室はとくに重要な存在であるが、
暴徒の乱入が突然であったため、無電機は送信機だけを搬出できた。

しかし、暴徒は、掠奪をきそい、設備と機械を文字どおりにバラバラにして持ち去り、
機械として利用される可能性は失われたと判断され、領事たちを安堵させた。》


つづく

国共内戦における中国の暴虐2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/05 18:26 投稿番号: [395 / 2250]
児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫
38〜39p

《七月二十七日   ―

午後四時ごろ、第十五師と第十九師の一団は長沙市内を通過して西南方の
益陽方面に走り、主席何鍵をはじめ要人とその家族も逃散した

「共匪軍」 は、まだ城外に位置していたが、糟谷領事は午後八時、
在留邦人全員に 『海軍倶楽部』 への避難を命じた。

その避難がおこなわれはじめた午後九時ごろ、突然、
省政府建設庁の前に機関銃がすえられた。

発砲と同時に建設庁に火の手があがり、その発火を合図のように、街には、
半裸体の肩に弾帯をかけ、小銃をにぎった 「共匪」 がとびだした。

難民として潜入していた 「紅軍」 便衣隊の蜂起である。

銃声がひびき、官庁は次々に襲撃され、「紅軍」 便衣隊につづいて、
市内の無頼漢たちが槍をかかえて横行し、民家、商店を掠奪しはじめた。


長沙暴動の開幕   ―   である。

午後十時すぎ、市の北端に位置する小呉門から、約千五百人の 「紅軍」 が
市内に進み、刑務所、公安局などを焼きはらった。

刑務所の場合、女性記者A・スメドレーによれば、約五百人の囚人を釈放したあと、
建物に放火し、外壁はダイナマイトで粉砕した、という。

「紅軍」 は、労働者、窮民の参加を呼びかけ、主席何鍵の邸宅をはじめ銀行、
富商宅などを襲撃させた。

火炎が夜空をなめ、銃声と叫声が市内に満ち、市民たちはあるいは逃げまどい、
あるいは屋内にひそみ、混乱と恐怖が長沙を支配した。


40〜41p
七月二十八日   −

夜明け前に、長沙市を五分割して各地区委員会が設けられ、
「労働者義勇軍」「赤衛軍」 も組織された。

労働者、貧困階級者、そして毛沢東がいう 「ルンペン」、ヤクザ者などをふくみ、
いずれも腕、首に赤布をまきつけて、「家から家をまわり、

商人、地主、役人を狩り出した」 と、記者スメドレーは記述する。
「紅軍第三軍団」 主力は、正午までに長沙市内に入城した。

すかさず、「まるで魔法のように 」と記者スメドレーが形容するように、
街中の壁に宣伝ビラがはられた。

「ソヴィエト政府成立」 「帝国主義的財産ノ没収」 「大企業、銀行、交通機関ノ管理」

「友邦ソヴィエト・ロシヤト提携」 「各官衙 (かんが) 機関ノ破壊」 「農工兵ノ解放」

「閻錫山、蒋介石等軍閥ノ打倒」 「不平等条約ノ取消シ」 「租界回収」……。


つづく

註   :   官衙 (かんが)   とは役所の事

国共内戦における中国の暴虐1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/04 16:32 投稿番号: [394 / 2250]
中国では国民党軍や他の軍閥・そして民衆が、略奪や暴虐の限りを
尽くしましたが共産党もまた同じでした。


児島襄著 『日中戦争2』 文春文庫
28〜29p

《「共産土賊軍」 は、実際には、一九二七年いらい湖南・江西省境の井岡山で
毛沢東ら共産党指導者が育成していた 「工農紅軍」 の一部・・・
・・・

『東京朝日新聞』 も、大冶に進入した 「紅軍」 を 「土賊軍」 の俗称で呼び、
その状態を次のように報道している。

「(六月) 十三日午後七時四十分、赤地に黄のギザギザを施した例の旗を
立てた土賊軍の一部が、大冶に入った。

彼ら土賊軍は十二日朝、大冶県城を占領すると同時に、お手のものの大掠奪を試み、
監獄を破壊して囚人を解放する等、遺憾なく暴れまわった。


すでにこの報道を得ていたので、土賊軍が大冶に迫ったころには、
内外人は全部避難してガラ空きになっていた。

無産階級の擁護を宣伝しつつ、鉄鉱並に石炭会社に各二十万元、
セメント会社にも二十万元を要求している。

邦人住宅は無事なるも、支那民家の掠奪され人質となったものも多い……」
兵力はわずかに約二千人、また 「土賊軍」 の呼称をあたえられるほどに

装備もおとっているが、ともかくも 「紅軍」 は、すでにその接近だけで一都市を
ガラ空きにさせるほどの 「威勢」(?) を具備していたことが、うかがえる。


33 p
いわゆる 「共匪軍」、正確には 「紅軍第三軍団」(彭徳懐) は、いつしか
大冶をはなれて南下し、長沙をめざしていた。

長沙は、既述したように、広西軍がひきあげたあと、中央軍も撤退して
ほぼ 「ガラ空き」 になっていた。

36 p
七月二十五日、「共匪軍」 は長沙東北方約四十二キロに接近した。
長沙には、百十五人の日本人居留民がいる。

領事糟谷廉二は、その夜、在留邦人にたいして警戒と避難準備を指示しておき、
翌日、七月二十六日、主席何鍵を訪ねて情報をもとめた。


37 p
長沙市内には、「赤から逃げてきた」 と称して、大荷物をかついだ難民が
しきりに流入していた。

実際には、この難民の多くは 「紅軍」 便衣隊であり、その荷物の中には
武器もひそませていて、いずれもかねて指示されたアジトに潜伏、

あるいは武器をかくして待機した。》


つづく

済南事件7 日本人居留民虐殺

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/03 16:19 投稿番号: [393 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫

190p
《日本人居留民のうけた被害は、   掠奪された戸数百三十六、   被害人員四百人、

被害見積額三十五万九千円のほかに、   中国兵の襲撃による死者二人、
負傷者三十余人、   暴行をうけた女性二人と記録されている。

ただし、館駅街の邦人十二人の行方がわからなかった。 裸体にされ後手に縛られて
中国兵に連行されるのを見た、という情報もあり、捜索がつづけられた。》


197〜198p
《館駅街居留の行方不明邦人十二人については、天津歩兵隊第六中隊が
捜索していたが、中国人市民の通報によって、

同街北側の十王殿付近の膠済鉄道線路沿いの土中から死体が発掘された。
死体は、次のように酸鼻をきわめたものであった。

▽藤井小次郎 (土産物商) = 頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。

         陰茎切除。

▽斎藤辰雄 (桐材商) = 顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。

▽東条弥太郎(土産物商) = 両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。

         小脳露出。眼球突出。

▽同妻きん = 両腕を紐帯 (しごき) で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。

         肋骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。

▽鍋田銀次郎 (雑貨商 )= 左脇腹から右脇に貫通銃創。

▽井上国太郎 (雑貨商) = 顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。上膊部に刺創、

         左股に貫通銃創。

▽宮本直八 (土産物商) = 胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。

         陰茎切除。

▽多比良貞一 (土産物商) = 頭部にトビ口様のものを打ちこまれたらしい突創。

         腹部を切り裂かれて小腸露出。

▽中里重太郎 (土産物商) = 顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。

▽高熊うめ =   肋骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。

         右脚の白足袋で婦人と判明した。

他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能であった。》


208p
《堤口部落を通過するころ夜明けをむかえ、午前六時、同部落東北約四百メートルの
日本人墓地についた。

見ると、墓の多くはあばかれ、葬儀場や火葬室も破壊されていた。
あばかれた墓の周囲は、砕かれた骨壺の破片や骨片が散乱して、

将兵はあらためて中国兵の 「暴虐」 ぶりに憤怒した。

「惨状視ルニ忍ビズ、士卒ノ敵愾心 (てきがいしん) ヲ   刺戟セルコト

大ナルモノアリ」》


*   南京・済南の暴虐事件を知り関東軍は、勝ち組だろうが負け組だろうが、
   中国軍を満洲に入れるとトンデモナイ事になると考えました。

   そこで、河本大佐が、その対策として張作霖殺害を考えたようですが、
   最近、ロシアから、「やったのは自分達だ」という資料が出て来ましたので、

   この件はパスします。

   次は国共内戦における中国の暴虐です。

済南事件6 佐々木中佐の遭難2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/02 18:47 投稿番号: [392 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
186〜187p

《中佐は、両脚をふんばって頑張り、なおも身体じゅうにおそいかかる拳の雨にも耐えた。
中には、腕をのばして指を中佐の両眼に近づける者もいる。

眼をえぐってやる、といわんばかりで、中佐が汗にかすむ両眼をむいてにらむと、
ケケ、と奇怪な笑声を残して後退した。

坐ってはならぬ、倒れてはならぬ、そのときは殺される……。
中佐は汗まみれになって中国人群集にこづきまわされ、

殴打されながら直立姿勢を維持していたが、ようやく、乗馬で通りかかった
顔見知りの国民革命軍将校が気づき、驚いて下馬してきた。


「ニー(ニンベン+弥-弓) 放心罷」(安心されよ)   将校は中佐に叫び、中佐をしばった
縄を持つ中国兵にささやき、再び馬にとびのると、馬腹をけって城内に疾走した。

中国兵が中佐の回りに人垣をつくり、いずれもモーゼル一号拳銃をかまえた。

拳銃の垣根で中佐を〝保護〟するかの如くだが、とびこんで中佐をなぐる兵士を
阻止することもなかった。

顔を肩にこすりつけて汗をぬぐい、冷静をとりもどした中佐は、周囲の民家の窓に
鈴なりになった中国人市民がくり返すシュプレヒコールに、気づいた。

「殺 (シャー)」(殺せ)、「シャー」「シャー」……。


自動車が走り寄り、一人の士官が演説した。日本帝国主義、銃殺などの単語が中佐の
耳に聞こえ、そのたびに蝟集 (いしゅう) した群集は拍手し喝采した。中佐は安堵した。

「予を宣伝の材料に使っている……支那人特有の芝居気たっぷりの所作をやって、
結局予の安全を期するつもりだ」


―   と、推察できたからである。
この中佐の推理は的中し、士官の演説が終ると、中佐は普利門に連行された。

普利門にたどりつくと、第四軍団長方振武が自動車でむかえ、
中佐を総司令部に輸送した。

中佐は、両脇をかかえられて総司令部内の一室にはこばれたが、
ベッドに横になったとたんに失神した。

打撲をうけた全身が激痛でたわむうえに、呼吸も困難になっていたのである。


191p
午前十一時すぎ、南京駐在武官佐々木到一中佐が城内から日本総領事館に
送りとどけられてきた。

右腕、下顎骨の挫傷に加えて全身打撲というほうたいだらけの姿は、
文字どおりにふくろ叩きにあった事情を告げている。

つづく


*   佐々木中佐のように、中国側に善くしている人でも、こういう扱いを受ける。
   親中の日本人は、自分は中国人に善くしてるから大丈夫と思っているだろうが甘い。

   松井大将など、日中友好に尽力したが、南京大虐殺の汚名を着せられ処刑された。

済南事件6 佐々木中佐の遭難1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/04/01 18:36 投稿番号: [391 / 2250]
日本側の軍使による停戦伝達は失敗しましたので、
今度は佐々木中佐が行く事にしました。


児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
184〜185p

《同じころ、城内から停戦勧告をこころみようと出かけた南京駐在武官佐々木中佐も、
同様の危急を体験した。

中佐は、国民革命軍総司令部の中国人少佐とともに、「済南特機」(済南特務機関)
と貼紙した乗用車で、城内から普利門外の商阜地にはいった。

日本軍、すなわち東地区担任の天津歩兵隊三個中隊は、
既述したように一応の戦闘を終え、重点警備地域に結集しているので、

中佐の車は、しばらくは中国人の 「人海」 をすすまねばならない。

中佐は、そこで、日本軍第一線に到達したさいの用意の小型日章旗を 「尻の下にかくし」
ていたが、普利門西方約三百メートルの中国軍陣地前で停車させられた。


「不要緊」(構わぬ)

同行した中国人少佐が運転手を激励して発進を命じたが、とたんに数人の中国兵が
自動車にとびつき、運転手につづいて中佐と少佐をひきずりだした。

日章旗を目にした兵が叫声をあげると、わらわらと中国兵が押しかけ、
その騒ぎに気づいてわやわやと中国人市民も集まった。

中国兵も中国人市民も、のしかかるように中佐にせまり、頭、顔、身体をなぐり、
腕をねじあげては、またなぐった。


「驚きにたえぬことには、もみ合う間に、予の身辺に密着してはポケットをさぐり、
時計、財布、手帳、ハンカチ等すべての所持品を奪ったことである」

あとで気づくと、上着、ズボンのポケットは全部切り裂かれていて、
中佐は、さすが、と〝中国式掠奪法〟のす早さと巧みさに感嘆した。

が、そのような事情に気づくのも後日のことである。


中佐は、必死に体当りで抵抗したが、文字どおりに 「衆寡敵せず」
の形になり、腕をしばられて身動きができなくなった。

一人の中国兵が近づき、拳銃を中佐の肩胛骨 (けんこうこつ) にあて、
左手で中佐をひざまずかせようとした。

まわりは群集である。射弾が仲間にあたらぬよう、中佐をひざまずかせ、
肩に垂直に射撃して中佐を殺す意図が、察知される。》


つづく

済南事件5 日本の停戦軍使撃たれる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/31 18:51 投稿番号: [390 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
178〜179p

《蒋介石は、急いで随行している南京駐在武官佐々木到一中佐に要請した。

「革命軍にすぐ停戦を命ずる。白旗をたてて歩かせる。
日本軍も停戦するよう尽力をお願いしたい」

その十分後、午前十一時ごろ、国民革命軍第四十軍長副官を名のる人物から、
総領事館警察署に電話がかかってきた。

「中国軍ニ対シテハ   射撃ヲ中止セシム ベキニツキ、

日本軍ニ於テモ   即時射撃ヲ中止セラレタシ」

第六師団参謀長黒田周一大佐は、「日本軍ノ射撃ハ自衛」 のためである。
中国側が射撃を中止すれば 「自ラ停戦」 になる、と返答した。

しかし、中国側は実際には 「射チ方止メ」 を命令しないのか、
命令が到達しないのか、それとも受令した出先き部隊が承服しないのか、

そのいずれにせよ、銃撃を中止する気配はなく、日本軍も応戦をやめなかった。


180p
午前十一時三十分、蒋介石は、総領事代理西田畊一を通じて再び停戦を要望してきた。

師団長福田中将は、中国側の優勢と、乱戦気味に連絡困難になっている指揮下部隊の
状況とを考えあわせて、師団の態勢立て直しのために停戦に応ずることにした。

西田総領事代理に承知の旨を中国側につたえさせ、正午、停戦を下令した。
・・・


181p
中国兵は路地と民家の庭内を右往左往してはやみくもに発砲し、
銃声はより一層に激化した。

旅団司令部 (横浜正金銀行済南支店) では、参謀菊池門也中佐が、
中国側に停戦を勧告すべく、捕えた国民革命軍外交処弁事康明震を派遣することにした。

午後一時二十分、康明震は同じく捕えられた国民革命軍士官二人とともに、
白旗をふりながら二馬路を西進した。

憲兵伍長田中新ほか三人が護衛として同行した。

中国側は、白旗を左右にふる一行に容赦なく射撃を加え、
康明震らは立ちどまったまま前進を拒否した。


182p
田中伍長が先頭に立ち、「不打」(射つな)「不打」 と叫んで一行を引率していたが、
緯五路二馬路の交差点にさしかかったとき、南側民家に潜伏する中国兵の機銃射撃をうけた。

田中伍長は戦死し、一行は遺体を収容して旅団司令部にひき返した。


184p
斎藤少将は、とりあえず装甲自動車の 「上面及ビ周囲ニ停戦文ヲ大書」 して、
通訳将校河野又四郎中尉に宣伝ビラを散布しながら停戦勧告をさせることにした。

しかし、中国側に接近した装甲自動車は、たちまち猛射撃をうけ、
勇敢に身をのりだしてメガホンで叫ぶ河野中尉も負傷して、計画は頓挫した。》


*   蒋介石が狡猾なのか、中国兵が命令に従わないのか、信じた日本人がバカなのか、
   停戦を要求した、中国側が射撃を止めず、日本の軍使が撃ち殺されている。


つづく

済南事件4 電話線を切られた日本軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/30 18:20 投稿番号: [389 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
176〜177p

《斎藤少将は、ほぼ総領事館到着と同時に天津歩兵隊第四中隊長難波大尉の電話で、
日中軍交戦を知った。

少将は、ただちに参謀菊池門也中佐に現場偵察を命じ、また旅団司令部
(横浜正金銀行済南支店) の装甲車を出動させることにした。

だが、中国兵はいち早く日本側の軍用電線を切断したとみえ、旅団司令部にも
師団司令部 (潘公館) にも電話は通じない。

天津歩兵隊は、旅団司令部に近い朝鮮銀行に本部を置いているが、
難波大尉は市内電話で連絡してきた。

その市内電話も、いまや話し中や混線、あるいは交換手が出たと思うと
プツリと切れて、用をなさない。


師団長福田中将は、幕僚と連絡がとれないとわかると、むっつりと黙りこみ、
斎藤少将も、副官中西昌吉大尉をオートバイで旅団司令部に走らせたあと、

憮然(ぶぜん) と天井をあおいで瞑目した。
聞こえなかった銃声が、風にのってひびいてきた。戦闘が激化した証拠である。

・・・
押取刀 (おっとりがたな) ― というが、日本軍部隊はその表現そのままに、
次々に済南・商阜地東部の日中軍衝突現場に急行した。

東地区担任の天津歩兵隊は、所属三個中隊のうち、
第四中隊が総出勤したのにつづいて、第五中隊 (石井民恵大尉)、

第六中隊 (高久伸一大尉) もそれぞれ第一、第二小隊を出動させた。
・・・


街路の両側に小路が入り組み、密集した民家の土塀越しに射弾が集中し、
おまけに強風が砂塵を吹きつけるので、攻撃前進は困難であった。

それでも、中国兵がたむろする民家を一軒ずつ掃討して進んだが、
もともと両軍の衝突はこの麟趾門街での中国兵の掠奪に発起しているように、

占領する中国人民家のほとんどが掠奪、暴行されていた。

「支那人民ノ   柱ニ縛ラレアル等、惨状   目モ当テラレズ」

といった光景も、少なくなかった。


つづく

済南事件3 防備撤去で掠奪開始

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/29 18:55 投稿番号: [388 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
170p

《福田中将は、・・・到着後、前述した蒋介石の申し入れを酒井隆少佐から聞くと、
ただちに反駁の書簡をとどけさせた。

「本司令官ハ……貴見ニ依リテ 行動ヲ左右セラル ベキモノニアラズ……

本司令官ノ軍統率ノ目的ハ……一ニ 居留民ヲ 保護スルニ在リ。

従テ、承ルガ如キ 事項ノ要望ハ 受取ルベキ筋合 ノモノニアラズ」

にべもない拒否回答である。
が、斎藤少将は、少なくとも警備態勢の緩和は必要だ、と考えた。


171〜172p
午後三時三十分、斎藤少将は師団長福田中将には連絡することなく、
同夜の防禦物撤去作業を各部隊に命令した。・・・

日本側が徹夜で防禦物の撤去作業をしていると、あるいは中国兵の一団が
その作業を妨害したり、あえてその前で中国人市民に反日演説をおこなう者もいた。

そして、阻止されないとわかると、ぞろぞろと商阜地内に流れこみ、
中国人民家に強制民宿した。

斎藤少将の処置にたいする批判の適否はともかく、
五月二日夜、商阜地にはこれまで以上に中国兵が増え、

日本人の居住家屋は軍民を問わずに中国兵の宿舎に隣接する環境になった。


174〜175p
午前九時二十分ごろ、国民革命軍の暴兵約三十人が、麟趾門街の
『満州日報』 取次販売店吉房長平宅に乱入して、掠奪をはじめた。

付近の緯二路派出所に急報され、総領事館警察巡査岡田静雄、同山下茂一が
佩剣 (はいけん) をにぎりしめて現場に走った。

ほぼ同時に、旧朝鮮銀行社宅の天津歩兵隊本部に 『済南日報』 社から電話がかかった。
事件を知らせて、現場に案内するから来社を乞う、という。

隊長小泉中佐は西田総領事代理に随行して蒋介石を訪ねている。
隊長代理・第四中隊長難波元吉大尉は、即座に第一小隊長久米川好春中尉に出動を命じた。


天津歩兵隊は、ほぼ四月三十日から不眠不休で警戒態勢を維持し、既述したように、
国旗損傷その他の中国側の 「侮日」 言動を視認かつ体験して、

血圧上昇度と興奮度を高めていた。
「うぬッ」「野郎ッ」

など、思わず洩れる怒声と罵声を吐き散らしながら、
久米川小隊は 『済南日報』 社を経て現場に急行した。

吉房長平宅に到着してみると、先着した二人の巡査のうち、岡田巡査が
暴兵にふくろ叩きにされ、佩剣をうばわれて射殺される寸前であった。

久米川小隊は吶喊 (とっかん) し、暴兵はあわてて東方的百メートルの
〝民宿〟に逃げこんだ。


兵舎に利用された民家は、強固な土塀の中に数家屋が密集していて、
出入口は一個所しか無く、二人の中国兵が立哨していた。

久米川小隊が、岡田巡査にたいする暴行犯人をつかまえるために近づくと、
歩哨は発砲し、屋内からも射撃してきた。

久米川小隊は応戦し、二人の歩哨を射殺するとともに、
小隊長は中隊主力の出動を意見具申すべく、伝令を送った。

・・・銃声を合図のように、国民革命軍兵士は商阜地内の随所で掠奪と射撃を開始した。
天津歩兵隊第四中隊本部には、久米川小隊からの伝令が到着する前に、

今度は緯一路三馬路交差点付近で中国兵多数が日本人民家をおそっている、
国旗を破棄している、という急報がつたえられた。》


つづく

*   南京でも済南でもそうだが、防備を外した後から襲撃されている。

   日本の平和主義者は「軍備があるから攻撃される、無くせば攻撃されない」
   と言っているが、中国には通用しない。

   中国は防備の無い所を攻める。   孫子の兵法の虚実篇に曰く、

   「攻めて必ず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり」

済南事件2 国民党軍の反日態度

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/28 15:23 投稿番号: [387 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫
164〜166p

《第十一旅団長斎藤瀏少将は、…、張孫軍の退却、国民革命軍の入城という
二つの危険な事態に直面して、どのように商阜地在住の日本人居留民をまもるかを熟慮…

  −   「濁流ハ、須 (すべか) ラク 道ヲ造リテ   排出スルニ如 (し) カズ」

在留邦人を保護するためには、できるだけ張孫軍とも国民革命軍とも
衝突をさけ、武力行使以外の方法で始末すべきである。

それには両軍ともに商阜地外を通行させればよく、その通路をあたえればよい、と思案。

・・・
五月一日、夜明けとともに、市内にちらちらと国民革命軍の斥候があらわれた。

・・・
つづいて第一、第四十一軍が入城したが、そのころには、街の雰囲気は一変していた。

商阜地東部監獄から囚人が解放され、中国人家屋にはいっせいに青天白日旗がかかげられ、
入城した部隊のうち、とくに第四十軍所属の少年兵が市内を走りまわって、

宣伝ビラを民家の壁にはった。


「排斥日本帝国主義」「反対日本出兵」 など、いずれも反日ビラであり、
中には、張作霖と日本女性が 「乱舞」 している図柄もあった。

少年兵は、わざと日本軍歩哨に近づき、白眼をむいて敵意を示しながら、
その面前の街路樹にビラをはったりした。

斎藤少将は、不穏な空気を感得して警戒強化を下令したが、
午前八時二十分ごろ、中国兵による日本国旗損傷事件が発生した。

国民革命軍第一軍第二十二師第六十四団 (註、団は連隊に相当。なお、その下に
営〔大隊〕、連〔中隊]、排[小隊〕がある) が入城するさい、

兵士の一人が日本人民家に掲揚中の日章旗をうばい、破棄した。

168p
五月二日午前九時、蒋介石は乗馬で済南城に入城した。・・・
そのころには、済南には国民革命軍将兵が充満し、約十万人と推計された。

169p
蒋介石は入城後、佐々木中佐を通じて、日本軍の撤兵、後続日本軍の輸送中止、
警備区域の撤去などを斎藤少将に申し入れたが、その第四項は次のように指摘されていた。

「人民代表ノ言ニ依レバ、日本兵ノ人民ニ対スル態度 不良ナルニッキ 取締ヲ希望ス」

  温厚な斎藤少将も、ムッとした表情をあらわにし、幕僚たちは、いきりたった。
  露骨な反日姿勢を示して 「態度不良ナル」 のは、中国兵のほうではないか   −。

「貴公はいったいどっちの味方なのか」

斎藤少将は、いずれ第六師団長福田彦助中将が到着してから返事すると述べたが、
幕僚の中には、そう、佐々木中佐に怒声をはりあげる者もいた。》

つづく


*   国民革命軍十万人に対して、日本軍の派遣予定人数は五千人、
   但しまだ全員は来ていない。

   日本軍は圧倒的多数の敵兵の海に埋没する形になった。

*   佐々木中佐とは、のち昭和12年12月に南京に駐屯した第16師団の
   佐々木到一少将その人。

済南事件1 北軍の虐殺と掠奪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/27 16:09 投稿番号: [386 / 2250]
1928年 (昭和3年) 、蒋介石が第二次北伐を開始すると、
日本は南京事件の教訓から、居留民保護の為、山東出兵を決めました。

国民党軍が来るまえ、済南には北軍 (孫伝芳軍と張宗昌軍) がいました。


児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫

155〜156p
《四月十三日、済南 ― 徐州のほぼ中間のエン州で、
米人宣教師W・セイモアが射殺された。

エン州は、孫伝芳軍のうち、李宝章が指揮する第三軍の守備地域であったが、
その日、李宝章軍の撤退のために駅は混雑していた。

宣教師セイモアは、夫人とともに李軍の将校に訊問されたが、
乗車を許可されたので荷物をとりにもどりかけたとき、背後から拳銃で射撃された。

射撃した将校が財布と鞄をうばったあと、市民多数が夫妻の死体にむらがり、
文字どおりに身ぐるみはぐ掠奪をおこなった、という。

ニュースは済南にもつたわり、日本人居留民の不安をさそった。


四月十六日、済南駐在武官酒井隆少佐の急電が参謀本部にとどいた。

「意見具申。帝国ハ 出兵ヲ決心スベキ 時期ニ到著 (ちゃく) セリト認ム」
・・・

同時に、青島総領事藤田栄介、済南総領事代理西田畊 (こう) 一からも、
同趣旨の出兵要請電が外務省に到着した。》


しかし、日本には、出兵を好まず、穏便に済ませたいと思う人もいました。

156p
《参謀総長鈴木荘六大将は、しかし、出兵を不要と考える部内の意見にもとづき、
政府が決定するならやむを得ない、との趣旨を陸相白川義則大将につたえた。

だが、翌日、四月十七日の閣議では、ほとんどの閣僚が積極的に出兵に賛成した。》

159p
《第二次山東出兵には、予想以上に野党のほか関西財界の反対が強かった。
出兵は中国の排日気運と国民党政府の反日感を刺戟 (しげき) するので、

北伐が成功して国民党が天下をとったときは、
対中国貿易の面で手痛い報復をまねきかねない − との思惑による。》


しかして、北軍が敗走するに及び、略奪が始まった。

162p
《   国民革命軍第一集団軍のうち、陳調元指揮の第二軍団は頭目劉黒七の
土匪軍約五千とともに済南東方の郭店にせまり、

張、孫軍の敗兵がしきりに退却途中に市内を〝物色〟しはじめた》

163p
《日本軍が位置する外では、夜陰を利用して暴民、窮民が掠奪をはじめ、
駅構内に山積していた張宗昌軍の小麦粉が、まずその対象となった。

数百人の窮民が、巡警の発砲にもひるまずに突進し、約四千袋の小麦粉をわずか
「三分間足らず」 できれいに奪取していった。

その間に窮民たちは一言も唱えず、一声も叫ばず、
立ち去ったあとには一握りの粉もこぼしていなかった、といわれる。

済南市内の中国人窮民は数万人を数える。もし彼らがいっせいに動きだしたら……。
「まるで蝗群におそわれるにひとしいにちがいない」

小麦粉掠奪の手ぎわが水ぎわだっているだけに、無気味さの度合いも強まり、
斎藤少将は身震いしながら、憂慮した。》


つづく

註:   「到著」 は 「到着」 の古い字体。
    今、我々が使っている 「着」 は 「著」 の俗字で元は「著」 だった。

第一次南京事件8 漢口9

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/25 18:47 投稿番号: [385 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
95〜96p

  捕われた人々

《最後に特筆大書して記念すべき事柄がある。事変勃発当日、暴徒のために拉致せられ、
一時はその生死をさえ懸念された者に水兵十一名と、石井小兵衛

(同仁会病院) 石田倉之 (三井木行) 杉田悌蔵、服部又次郎など数氏があった。

これらは皆群衆のために包囲され散々に殴られ、こづかれした上で、
手取り足取り引きずり行かれたもので、皆フランス租界外の総工会本部に監禁された。

四月十一日海軍省着電によれば左の通り報告されてある。


水兵六名ハ 事件ヲ知ラズ   又 飲食店ニアリシ者ニシテ   散々殴打サレタル上、

総工会ニ監禁サル。 唐生智四日朝之ヲ聞キテ   直 (ただち) ニ 軍隊ヲ派シテ

之ヲ引取ル。総工会之ニ対シ、日本側ニ 有利ナル条件ヲ 容レシムル人質ナレバ、

此儘 (このまま) 返サバ 承知セズト云ヘリ。

唐ハ之ヲ日本側ニ 送ラントセシモ糾察隊、衛戍 (えいじゅ) 司令部ヲ

監視シテ渡サズ、軍隊ト糾察隊衝突セバ 途中負傷者生ズべク、

完全ニ送還方 総領事ト協議、七日夜漸ク取戻シヲ   ナスヲ得タリ。


或いは人質だと称し、或いは軍憲の命令にも反抗する、これではまったくの土匪である。
石井氏ら数名は領事館より支那側に厳談の結果、ようやく四日夜十二時に釈放されて

帰ってきたが、監禁中は足と足を麻縄または鉄鎖でつなぎ合わせ、まったく
囚人同様の取り扱いを為せる上、時々青龍刀を鼻の先に突き付けては散々に愚弄した。

殊に我水兵に対しては極度の暴虐を加えた。総工会に監禁中は石井氏ら同様の迫害を
受けたのはもちろん、その当初は帽子も所持品も奪い去られ、兵服のままで

後ろ手に縛り上げ、群衆悪罵の中を総工会に曳 (ひ) かれたとも伝えられている。
しかして当時の支那新聞にはこれらを指して 『捕虜』 と書いてあった。


ああ、幾多の我同胞は、千里の異域においてこうした暴虐に苛まれ、こ
うした侮辱にさらされているのだ。》


*   この他にも、『もう一つの南京事件』には、重慶・宜昌・長沙・蕪湖・鎮江
   ・九江・杭州などでの事件の記述もありましたが省略します。


*   日本人というのは、どうして歴史に学ばないんでしょうか。

   戦前はともかく、戦後、どれだけの日本企業が酷い目に遭ったか。
   団塊世代の社長なら知っているでしょうに。

   善人ぶって中国を美化し、何度、酷い目に遭っても、
   中国に進出する企業が後を絶ちません。

   進出しても、儲ければ「我々の財産を奪った」などと言いがかりをつけられ、
   襲撃されて、技術を奪われ、放り出されるだけなのに。


*   次からは翌年の済南に於ける中国軍の暴虐を紹介します。

第一次南京事件8 漢口8

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/24 18:47 投稿番号: [384 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
93〜95p

帰路を絶たれて

《四月三日の事変当日は二人の友人と郊外に出て夕方帰ろうとすると、
支那人の馬車屋で顔見知りの者があって、

今日本租界は支那人と日本水兵の衝突で非常の騒ぎだから、今行ったのでは命が危ない、
つい今しがた行った日本人は途中で殴られていたが、どうなったか分らぬと言う。

それだけの話では詳しいことは分らぬが、
とにかく水兵と群衆と衝突したとすれば容易ならぬ問題だ、


普通の道を行くのは危ないというので、まず間道を取って日本公園に入ることにした。
すると同じ方面に出ていた二三人の連中と途中で一緒になった。

そこで考えたのは公園内の日本人住宅に電燈がついていればまず大丈夫だが、
もしそうでなければ公園に入るのも危険だというので

お互いに相戒めつつ公園の土堤下まで来ると電燈は見えない。
そっと住宅附近を覗いてみると七八人の支那人がやってくる。

薄暗がりで何者か分らぬ   が、いずれにせよ身体をむき出しにして行くのは危ないので、
皆が樹木の蔭に隠れつつ進むことにして土堤を伝うて乗馬会の厩舎に行き着いた。


そこにいる馬丁頭の支那人は知り合いなので取り敢えず様子を聞くと
やはり途中の馬車屋の話と同様である。

そして今は支那軍隊が出て固めているから通行はだめだ、
ここで今晩を明かしたらどうかと言う。

しかし馬と一緒の宿という訳にもいかず、
それに家内のことが気にかかるので皆で相談の結果、

領事館に通じて自動車なり何なりで救出してもらおうというので支那人を
密使に出したが、三人出したのが三人とも通行止めだと称して引き返して来る。


電話は無論切断されて通じない。はなはだ困った。夜はだんだんに更けてゆく。
そのうちにまた二人のやはり郊外に出ていた者が加わった。

その話によると最初三人で歩いていたが、途中で四五十人の群衆に襲われ命からがら
逃げてきたが、その中の伊藤某氏は群衆に捕われ今頃は殴り殺されてるかも分らぬと言う。

これを聞かされた一同はますます気味悪さが募る、しかしどうすることもできない。
厩舎の薄暗い電燈の下で顔見合わしては吐息をついていた。

そこへ民団吏員の一人が公園内の住宅にこっそり帰ってきたので大体の様子が分り、
租界内もほとんど群衆は退散して現在は大した危険はないと言うので、

八人の者は始めて力を得て公園を出で途中で支那の巡警に護送され、
首尾よく日本租界に入ることができた。


さて自分の家に帰ってみると家中はがらあきである。
妻女の影も見えない。何がなにやらさっぱり分らぬ。

そのうちに友人が来て皆汽船に逃げたから早く行けというので、
公園に残った四人の救出方を領事館に届け出で、

船に行くと避難民のすし詰めである。女子供は極度の恐怖に脅えている。
人間と人間が重なり合うたようにして込み合うている。

中には病人もあり実に悲惨なものと思うた。
ようやく妻女を尋ね出したが、

着の身着のままではあるが無事に避難していたので、自分は早速義勇隊に出ることにして、
一応家に帰り服装を改め夜の十二時から陸戦隊の歩哨と一緒に任務に就いた。

(桜井悌吉氏談)


このほか郊外なり競馬場なり出かけていた人々で、群衆のために帰路を絶たれ、
やむなく知り合いの支那人に頼んで支那服に着替え、

雑踏に紛れてようやく租界に入った者、見つかって袋叩きにされ、
散々の体で脱け帰った者、そのまま捉まって引き立てられた者など、

惨劇は処々に演ぜられた。当日の死傷者は筆者には正確には分らぬが、
死者一人、重軽傷者四五十人と称せられている。》


つづく

第一次南京事件8 漢口7

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/23 18:43 投稿番号: [383 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
91〜92p


《厄介なやつに見舞われたと思うたが仕方がない。

そのうちに何だかそわそわして外に出てみたり、また戸を閉めたりしていたが
しばらくすると大分人も減ったようで安心と思うからお暇すると言う。

そして酒手一ドルをくれと切り出した。気味悪いほど軽少だが増してやる必要もなし、
その通り出してやると店内を見返り見返り出て行った。


前後の事情が大分気になりだしたのでまた日本租界に電話したら、
今度は既に不通で日本租界の様子はサッパリ分らなくなった。

外は相変わらず騒々しい。
それで表戸をあけるのは危険なので二階の戸のシャッターをあけて覗くと、

路上に立佇った群衆が皆店の方に向っていて、自分がシャッターをあけたのを
気づいたのか、二階を見上げて何か言うている。

なんとなしに危険が予感されたので書類、帳簿、金庫などを一まとめにして
二階に持ち運びおき、しばらくして外を覗くと大分人も減っている。

それが午後の五時半頃であった。


今のうちに夕飯にしようと言うので三十分くらいで済まし、店に出て腰を下ろすと
店の入口の上のガラス戸に大きな煉瓦の破片が飛んできた。

続けざまに二三個ぶつかったと思うまもなく戸外に喊声が上がり、
正面の戸を打 (たた) き破る音がする。

いよいよ危険が切迫したので、足の不自由な妻女をボーイに背負わせ、
友人を先頭に裏門口から飛び出し、近くのフランス警察署に駆け込んだ。

後から十四五人が追跡したようであったが、フランス警察の巡査が追っ払ってくれた。
落ち着いて見ると、これも競馬場帰りに群衆に追い掛けられた日本人三人が避難している。

そのうちに署長が応接に出て来たので、
店の方の手配をしてくれるかと思うていると何の沙汰もないようだ。


様子を見るとむしろ支那の群衆が日本人取り戻しに
押し寄せしないかを恐れているようであった。

それかあらぬか皆を招じて奥の部屋に入れ、仏租界内在住の日本人数を
問い糾しなどしたが、まもなく巡警が三々五々在留民を連れ出してくる。

夜になって五十余名の多数が集まった。
皆急場なためにバスケット一つくらいしか持ち出せない。

その間にフランス領事も出て来て、
各室から椅子を集めさせたり茶を勧めたりしてすこぶる親切に取扱ってくれた。

自分は店が気がかりなのでボーイをして探見さしたら、
暴徒が店内に押し寄せて掠奪最中とのことなのでいよいよ引揚げに決心した。


フランス警察から日本領事館に電話で交渉の結果、
小蒸気船で救出に行くという返事だったがなかなか来ない。

再三電話してみてもだめだ。皆憤慨するがどうにもならない。
そのうちに幾度目かの電話でようやく利泰碼頭に汽船を廻したことが分った。

そこでフランス領事の意見で、多数の日本海兵に来られては面倒を惹起す恐れあるから、
安南人の巡査で護送すると言うので二十人余りで前後を護衛し江岸まで送られた。

その頃はあいにく烈風で小蒸気船がうまくハルクに着かないので、
皆非常の危険を目しようやく乗り移ったのが夜の十一時半であった。

江岸までの途中では夜遅いのではありほとんど妨害者もなかったが、
皆が船に乗り込んだ前後に埠頭の支那人から酒手を強請された。

こうしてまずまず無事で五十幾名は大福丸に収容された。(湯浅九三二氏談)》


つづく

第一次南京事件8 漢口6

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/22 15:57 投稿番号: [382 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
89〜91p

《機関銃の一撃により租界内群衆の掃除ができた。と見る間に各戸から飛び出した邦人
婦女子は、誰誘うともなく、まだ消え失せぬ砲煙の匂いの中を大正会館さして押し寄せた。

飯椀や箸を持ったままで駆けつけた者、細帯一つで逃げ出して来た者、血に染んだ
手拭で包帯した者、びっこ引く者、老幼さまざまの男女でたちまち一杯になった。

その後の租界は引揚げ者の処置、警備の手配、食事の準備に、
やはり戦場のような混乱状態が続けられた。


こうした混乱の半ばに、西の方はるかに火の手が上がった。
旧独租界の三井木行に暴徒が火を放ったのである。

大事に至らず消し止めたが一時は租界内はこのためにいやが上に騒ぎを大きくした。

陸戦隊によって租界を追われた群衆は、続々として支那街に引揚げる途すがら、
やはり邦人の店舗を見逃さなかった。三井木行を襲うたのもそれである。

さらに日ドイツ租界の、西口、田島の両靴店、
仏租界の共益洋行などは、租界内の各戸にも劣らぬ危険と惨害を受けた。


仏租界で雑貨商を営業していた共益洋行主人湯浅氏は語る。

三日午後四時頃日露、租界の友人宅に居たら日本租界から水兵と車夫の衝突を電話してきた。
友人と相談して重要書類など始末しておくことにして店に帰った。

途中で糾察隊十数人を乗せた自動車が日本租界方面に向けて急速力で走るのを見た。

店に行き着いて五分間も経たぬうちに、
またもや三十余の糾察隊が東に向って急ぐ、その後から二三百人ほどの群衆が続く。

その頃までは店の附近は格別変わったこともない。
これらの糾察隊は租界鎮撫のために行くものと善意に解釈していたくらいであった。


当日は農民協会か何かの成立大会があり、これに参加した各地の労働代表を
歓迎するとかで、附近の支那店舗は大半店を閉めて休業していた。

平素同租界では事変の際には必ずフランス警察から店を閉めるように布令を出す。
しかし当日の支那店舗の閉店は主意が違うので気にもかけないで居ると、

日本租界の知人が飛び込んできて、『競馬場帰りに大智門の四辻まで来ると
にわかに車夫が車を止めて、今我々の仲間が日本人に殺された、

こうしているとお前も大変だから下りろと言うので逃げて来た』 という話。

しばらくすると二人の日本水兵を後ろ手に縛り大勢で引き立てて
総工会本部に連れ込んだとの噂が伝わってきた。


いよいよ物騒だと感じたので店の戸を閉めようとするところに、人相の悪い
三人の支那人が飛び込んできて、旦那は車夫事件を知ってるかと言う。

今聞いたと答えると、どんな仕返しするかも知れぬから早く閉めろと言う。
そしてキョロキョロ店内を見廻す。

なんだか不気味だが外はますます騒がしそうなので思い切って閉めた。すると
通行人が言い合わしたように店の前に足をとめたが三人の支那人が出て行って追い払った。

妙に親切なことをすると思うて見ていると、旦那は見忘れてるか知らぬが、
自分どもはかねがね買い物に来てよく旦那を知ってるので注意しにきたのだと言う。

なるほどよく見ていると見覚えあるも頭毎日のようにサックか何か買いに来る
近所の女郎屋の主人どもだ。もちろん無頼の破戸漢である。

(湯浅九三二氏談)》


つづく

第一次南京事件8 漢口5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/21 16:37 投稿番号: [381 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
86〜88p


《南小路から平和街に出る角の理髪店の隣家の田村氏の宅では、産後まもなく
身を病床に横たえていた妻女が、暴徒の襲来と聞いて気絶してしまった。

主人は二階にいたが暴徒に支えられて降れない。
理髪店の城谷氏は変を聞いて駆け付けるところを暴徒に捉われ、

かろうじて本願寺の土塀を乗り越えて免れたが、残された病女は暴徒のために
蒲団を剥がれ足蹴にされた上に、醜い死骸となってそこに遺棄された。


同じ家並みの愛知亭では、妊娠五ケ月の妻女が暴徒のために二階から引きずり降され、
散々に殴打されて数ケ所の負傷に血まみれになって仆れていたのを、

おりから暴徒の包囲から遁れてきた隣家の一心堂主人に助けられた。
その次の花井洋行は事変勃発後直ぐに戸を閉ざし、家内中が二階に隠れたと

ほとんど同時に凶器を以って表戸を毀つ音がする。
続いて商店棚や商品の毀される音、大勢の罵り騒ぐ声がして二階にまで押し寄する

気配がしたが、階段の仕切戸が固かったために断念したのか音もしないようになった。
と思うまもなく盛んに煙が漏れてくる。火を放けたなと思うが如何ともしようなし。

そのうちに隣の愛知亭では女の悲鳴が聞こえる。
一同生きた心地もなく、息を潜めていると、南小路の方面に銃声が起こり、

ドッという喊声とともに暴民が引き上げる様子、続いて店内を荒らしていた一団も逃げ
出したので始めて階下に下り、水道をあけて火を消し皆で裏口から逃れて水兵に収容された。


この前後に本願寺に逃げ込んだ七八人の一団は、一室にこもって内から
戸を押えていると跡を追うて来た暴徒に苦もなく破られる。

次の室に退くとまた戸を破られる。
こうして室から室を逃げ廻り最後に隣家の薄暗い一室に隠れ、

椅子卓子などを積み上げて入口を防ぎ、
本願寺の住持の最後の称名に一同覚悟を定めていたが、

支那人ボーイが機転でこの室には病人がいると言うたので
暴徒もそのまま立ち去った様子に始めて蘇生の思いをした。

顔見合した一同の頬には自ずから熱涙が伝うたという。


僅々二十分くらいの間にこれだけの凶暴を働いた群衆は、
勢いに乗じてまたもや南小路になだれ込み掠奪にかかった。

そこには雑貨店、呉服屋、食料品店、貴金属店などが軒を連ねている。
暴徒としては見逃せないところだ。

各戸の運命は風前の灯火と迫った。危機まさに間一髪、ドドドッと音立てて
打ち放された機関銃の弾は、猛り狂う暴徒の前面に火花を散らして四散した。

急を聞いて駆け付けた陸戦隊が、南小路の四辻近くに機関銃を据え付け
最後の処置を断行したのである。

時の指揮官は岡野海軍中佐。当時海軍省は左の如く発表している。


  (前略)副領事帰ラントスルヤ   暴民ニ襲ハレ水兵ヲ追ヒ駆ク。 陸戦隊ノ揚陸

   半舷上陸中ナリシモ   急ヲ聞キテ陸戦隊ハ   直ニ準備ヲ為ス。 一週間以来

   甚シキ支那人ノ愚弄ニ   慷慨シ居リ 且ツ 目前ノ暴行ヲ知レル乗員ハ   期セズシテ

   総員上陸ヲ願ヒ   直チニ準備ヲ整フ。   時二午後四時頃   一小隊総領事館前ニ

   整列ス   折シモ数千ノ   群衆小学校前迄来リ、小供ヲ先ニ立テ   赤旗ヲ振フ

   指揮者ノ下ニ   喊声ヲアゲテ   河岸ニ殺到セントス。 陸戦隊直ニ道路ニ散開シテ

   小銃ヲ擬ス。 先ヅ空砲ヲ放チ   次デ数発ノ実弾ヲ射ツ。暴民雪崩ヲ打ツテ退却、

   掠奪シツヽ租界外ニ向フ。平和街ニ接近スルヤ   頑トシテ退カズ。 己ムヲ得ズ

   陸戦隊ハ本願寺ノ土堤ニ向ツテ   機銃ノ威脅射撃ヲ行フ。

   群衆ハ 痛ク殴打サレタル 邦人四名ヲ残シテ 逃去レリ。 一隊ハ集合所ノ

   兵員収容ノタメ   投石侮辱ノ中ヲ潜リツヽ   実包威嚇射撃ニテ   漸ク集合所ニ達シ、

   上陸員一三〇名ヲ収容、 帰途鉄路外ノ邦人ヲモ   収容租界内ニ引揚ケ   二百名ノ

   陸戦隊ニテ   租界ヲ護ル。更ニ電燈会社ニ   機関兵ヲ派シテ   運転点燈ス。》


つづく

第一次南京事件8 漢口4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/20 16:14 投稿番号: [380 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
84〜86p


《群衆が最初に目当てにしていたのは水兵であった。
従って最初に襲われた山吉、浪花食堂の如きもこれら水兵の逃げ込んだ家であった。

しかし事変勃発後十分間とたたぬうちに、いやしくも日本人と見れば一人免 (の) がさず
押っ取り囲んで殴打する。日本人の店と言えば手当たり次第に狼藉する。

それも初めの間はそこに一団、ここに一団とバラバラに行動していたのが、
いつの間にか指揮者ができ、群衆は呼子の笛一つで右往し左往する。


水兵がかつぎ去られた頃に、特別区方面から疾走してきた数代の自動車に
鈴なりになって乗っかってきた糾察隊は、その中の首領株らしき四五人の男が、

銀製の口笛を片手に指導にかかると、直ぐに群衆の中に飛び込んで先頭に立つ。

たちまちにして同仁会医院前の日本人青年会の建物の入口には赤旗が押し立てられ、
附近一面を埋めた群衆はそれを中心に物凄き叫びをあげている。

そのうちに指揮者の一人が手を挙げて領事館の方を指差すと、
ドッと喚いて山崎街を真直ぐに江岸目がけて潮の如く動き出した。

その瞬間である。領事館前の埠頭に当って喇叭 (ラッパ) の音とほとんど同時に
三発の銃声が響いた。これが先の阿部氏の話にあった五時過ぎた頃のことである。


きびすを返した群衆はなだれを打って四散した。
街上はたちまちにして一掃され、糾察隊の自動車もいつの間にか姿を消した。

しかしそれは、ほんのひと時の静けさに過ぎなかった。
平和街の東西に亘って前にも増した喊声 (かんせい) が挙がった。

一端銃声に怖気づいて引揚げた暴徒が、
行きがけの駄賃に退路一帯の掠奪を始めたのである。


北小路、山崎街、南小路となだれ込んだ暴徒の群れは、本願寺を中心にした一廓と
南小路から平和街にかけ鍵なりに立ち並んだ邦人商店を軒並みに襲撃し、

平和街を東に進んだ一団はこれまた沿道の邦商を物色しては押し寄せる。
山崎街から中街に出た一団は漢口日々新聞社ほか数軒を襲い凶暴の限りを尽くした。


これら暴徒の襲撃は陸戦隊の上陸以前になされたものもあるが、
いずれも徹底的にしかも巧妙に行われ、

まず暴徒が凶器を以って手当たり次第に破壊すると、
その後から苦力が来る、乞食のような女が来る。子供が来る婆が来る。

来る者ごとに肩にかつげるだけ担ぎ、手に持てるだけは持って行く。瞬く間に
一物も残さない。中には羽目板をはずし床板を剥がして持ち去った者もあった。》


*   ここでは、暴動が自然発生的に起きて、
   それが拡大したかのように表現されているが、それは不自然。

   糾察隊などというものが、短時間に組織され、
   短時間のうちに数台の車を調達して来れるはずはない。

   前もって準備された暴動であろう。

つづく

第一次南京事件8 漢口3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/19 18:43 投稿番号: [379 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
83〜84p

(阿部善三郎氏談つづき)

《〈窓口から見下ろすと物凄いほどの人だかりだ。そこでまた領事館に引き返すと
領事はやはりバンドに出ている。そしてしきりに沖合いの軍艦と合図でもしていた様子だ。

『どうです』 と言うと、『イヤモウ大丈夫だ、すぐ陸戦隊が来ることになっている』
と言ってバンドを行ったり来たりしている。

そのうちに十五名の水兵があがって来た。時計を見ると五時に五分前。

しかし既に警察の前まで押し寄せた黒山のような群衆に対しては、十五名では
姿を見せるさえ危険だ。彼らは領事館の塀の蔭に身を隠して後続部隊の来るのを待った。

やがて水兵を満載した数隻のジャンクが軍艦を離れるのが見えたので、
もう大丈夫だと思いながら民団役所の二階にとって返した頃、三発の銃声が鳴り響いた。


打ったなと思うていると群衆は見る見る中に四散する。急いで倶楽部に行って
二階から見下ろすと、そこから目の届く限りほとんど暴徒の影もない。

逃げるとなると足の早い者だ。
隊伍を整えて進んで来た陸戦隊は倶楽部の角まで来て一隊を分って東進さした。

鉄路外の海軍集会所にある水兵と附近の邦人救出に赴いたのである。
それが拡張租界あたりまで行ったと思う頃、ドドッドッという機関銃の音だ。

これは後で分ったが、一端逃げ延びた群衆がまた盛り返して沿途を荒らし、
邦人を捉えて引きずりこみ危害を加えるので、海軍でも遂に火蓋を切ったのであった。

この一撃で初めて租界は蘇生した。〉


右の阿部氏の話にもある通り、当日の暴動は初め漢口銀行附近から
倶楽部一帯を中心として行われたのであったが、

あたかも山吉、浪花食堂が襲われると前後して山崎街の同仁会病院の前に
差し掛かった三人の水兵とすれ違った一車夫が、

一足行き過ごして置いて振り返りざま何事か一声叫んだ。
と見る間に折柄倶楽部角の四辻を中心に騒いでいた群衆は、

『それ日本水兵だ、やっつけろ』と叫びつつ一斉に押し寄せて袋叩きにかかった。
中二人は巧みにすり脱けて倶楽部の方に逃げ延びたが、

残った一人は天秤棒や石塊でしたたかに打ちのめされ、死体のようになって、
そこに仆れてしまった。

寄ってたかって殴りつけていた暴民は、手取り足取りしてかつぎ出したが、
死んだと思うたのか路傍に遺棄して去ってしまった。


その時田中副領事は事変発生の現場を見て倶楽部前まで来たところを暴徒に取り囲まれ、
群衆の中で日本領事だ、日本領事だと叫ぶ者あるに拘わらず、

殺せ、殺せと口々に罵り喚きつつ、殴る蹴る突き飛ばす、
散々に暴行した上で特別区方面に運び去らんとした。

幸い通い合わせた国民政府外交部の役人で副領事を知った者のために救出されたが、
顔は血ににじみ両眼は腫れあがり実に痛々しい姿であった。

同仁病院の石井薬剤師が病院から出てくるところを、
暴徒のために手取り足取りして攫 (とら) われて行ったのもこの時であった。》


つづく

第一次南京事件8 漢口2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/18 18:46 投稿番号: [378 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
81〜83p


(阿部善三郎氏談)

《事変当日は午後から二三の人々と知人の宅に集まって、対時局問題に就 (つ) き
民会を開く下相談をしていたら、領事館から五時に来るようにとの電話であったが、

少し時間が早過ぎるので日本人倶楽部に立ち寄り雑談していた。
そのうち四時過ぎたのでも少し待とうと言うているとにわかに喊声 (かんせい) が聞こえる。


中街に面した球場の窓下を覗くと大勢の支那人が険しい顔して江岸の方へ曲がって行く。
その時が午後の四時二十分。

すぐ倶楽部の表門に出て見ると隣の小学校の前に群衆が押し寄せ、
中には入口に交叉した国旗に手を掛けている者もある。

自分はこれを制止すると顔見知りの男がいて、
実は今水兵が車夫を殺しここに逃げ込んだのだと言う。

そこへ学校のボーイが中から戸を開けて、水兵はとっくに裏口から逃げたから
ここにはいない、何なら中に入ってみたらどうだと言う。

群衆は皆まで聞かずドカドカと入ったが水兵の姿が見えないので皆出てきた。


すると群衆の中から 『警察だ』 と叫んだと思うと、
一団は雪崩を打って領事館の方に殺到した。

その時まで自分はたいした騒ぎだとも思わず、
その後から跟 (つ) いて行くと警察の中は既に群衆で一杯になっている。

その中に暴徒の一人がイキナリ電話機を取って総工会本部を呼び出している。

何言うかと思うと 『今工友が日本租界で日本水兵のために殺されたので談判中だ、
至急応援を頼む』 と言うている。


群れをなして日本官憲の公務室に乱入せるさえ沙汰の限りなのに、
その電話機を勝手に使用して暴動を企てるに至っては、言語道断、

いわゆる傍若無人の振る舞いとはまさにこれだ。

日本の巡査も支那人巡補も側にいるがまったく手の着けようがない。
そこでふと気がついたのは車夫の死体の始末だ。

巡査にどうしたかと聞くと、既に人が一杯で現場に入れないから死体は取り出せないと言う。
これはいけないと考えたので、待たしてあった自分の車で駆け付けると、

漢口銀行の角に大瀬巡査昨年の秋、暴徒の群れから瀕死の邦人を救出した
剛勇な巡査が立っていて、手を振って止めている。


どうしたのですと聞くと、暴徒は今浪花食堂と山吉の掠奪を始めたところで、
とても危険で近寄れないとの話。

そこで引き返して直ぐに総領事の室に飛び込んだら領事はバンドに行ったと言う。
行ってみるとなるほどいる。

総領事大変ですぞと言うと、イヤ分っとる、それよりも君大分激昂してるようだが、
マアマア僕の室に入っていたまえと言って本館に導かれた。

そして総領事自身はまた出て行く。

残された自分はいろいろ気に懸かってジッとしておれないので、裏口から脱げ出て
民団役所に行き、租界内ボーイを外出させぬように家々に注意書きを出さした。


というのはこんな際にボーイどもが参加して騒ぎが一層に大きくなった前例があるからだ。

その頃は街上は群衆の人波だ。もちろん表通りは歩けないので裏手から学校の広庭を
脱けて日本人倶楽部の裏口に行ったら戸が開かない。

やむなく学校の人に二階から窓をこじ開けてもらって倶楽部の二階に入ると
書記の高橋君がいて、今田中副領事が暴徒に乱打されそのまま引かれて行く所ですと言う。》



*   中国人は突き飛ばされただけなのに、殺されたことにされ、
   架空の殺人事件で日本人が暴行を受けている。

つづく

第一次南京事件8 漢口1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/17 18:47 投稿番号: [377 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
78〜80p

《民国十六年四月、異郷にある人々にも春は訪れ、漢口市外の日本公園には桜が咲いた。

折からの神武天皇祭日に日曜日を兼ねた三日は、照りもせず曇りもはてぬ頃合いの
花見日和、それに数日来は市面も例になく平穏であり、

打ち続いての擾乱に久しい間、外出さえも控えがちであった在留二千の同胞は、
誰誘うともなく或いは公園に競馬場に、思い思いに春光を趁 (お) うた。

しかも何たる運命の皮肉ぞ、その日の午後、日本租界は突如として阿鼻叫喚の巷と化し、
暴徒の毒手に仆 (たお) れた同胞の血は真紅の花と散らされた。


事の起こったのはその日の午後三時過ぎ、半日の散策に空気銃を手にした二名の水兵が
日本租界燮昌路の料亭 「妻鶴」 の横手に来かかると、

街上に遊んでいた支那の子供が石を投げつける、これを追い払うとまた来て投げつける。
そうしているうちに何処から出て来たのか三十位の支那人が食って掛かってきた。

それとほとんど同時に附近にいた車夫の一団が、
言い合わしたように殺到して水兵を取り囲み殴り始めた。


水兵は言葉も分らず、何のことやら分らぬが事面倒と考えたのでその一人を突き倒し、
近くの料理店 「山吉」 に逃げ込んだ。

そこには二三の水兵が遊んでいたのがこの騒ぎに顔を出すと、
『それ日本水兵だ、やっつけろ』 とばかり、たちまちの間に野次馬も加わって、

「山吉」 とその隣家の 「浪花食堂」 は瞬く間に跡形もなく破壊されてしまった。


先に水兵のために突き倒された一人の車夫と、これを取り巻く群衆は
この咄嵯の際にも金儲けを忘れない。微傷一つないのに気絶を装うた。

起き上がろうとすると側の群衆がこれを抑える。『日本水兵が支那人を殺した』
『車夫がナイフで刺された』 との謡言は電光のごとく各所に喧伝された。

当日支那側では農民協会成立大会が催され、各地からの工会代表も参加し、
応援の各団体も混じって祝賀行列をやっていた。

租界内に事変の突発した頃は、ちょうどこの一行が旧ドイツ租界から
平和街に差し掛かる頃であった。


もし憶測を許さるべくんば、この事実は、事端を作った暴民と労農団体との間に
あらかじめ打ち合わせができていたことを証拠立てるものではあるまいか。

しかしその詮索は何 (いず) れともあれ、
前記のような謡言にこの一団が時を移さず殺到したのは言うまでもない。

かくて半時を経たざるに、租界の三分の二は暴民によって埋められ、
処々に喊声 (かんせい) が挙がる、警笛が鳴る、格闘、乱打、悲鳴、叫喚、

久々の安息日はたちまちにして未曾有の大厄日となった。


つづく

第一次南京事件7南昌2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/16 18:49 投稿番号: [376 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
73〜75p


九江埠頭の悪劇

《今回の引揚げに就いてはいよいよ避難引揚げの通知を受けましたのが
午後二時頃で、翌朝は立たなければならぬと言うのです。

それで何の用意もできずほとんど着の身着のままで引揚げました。

私ども三人は九江まで来て大元という宿に二三日いましたが、
経済のことも考えるので大東楼という支那宿に行った。

その内に漢口から船が来たというので急いでハルクに来ると船は出た後なのです。
ハルクまでの途中は支那服を着て支那語で話していたので、

苦力なども日本人とは気付かなかったのか、荷物は一円の約束で持って来た。


ところが最初お友達の奥さんと警察署の角で待ち合わせる約束していたのが、
その奥さんはとっくに船で立ってしまったことは知らないので、

約束の場所に行って 『奥さん、奥さん』 と呼んでみたのです。

真っ暗な所でしたが、すぐ日本人ということが分ったと見えて、
ハルクに行ったら十五六人の苦力が待ち構えていて、

荷物は一個二円でなければハルクに上げない、小さな手提でも二円だ、
自分で提げても二円よこせ、よこさなければ皆川の中に放り込むと言うのです。


やむを得ずその通り支払うと、今度は船賃を十六円出せと言う。

船頭との約束は二円だと言うと船頭を捉えて、なぜそんなに安くするのか、
これは日本人だ十六円でなければ駄目だとそそのかしている。

船頭も居直ってしまって十六円出さなければこのまま引き返すと言うて脅かす。
引き返されては大変なのでその通り払った。

恐ろしい顔した奴が十六人、荷物の上に腰掛けて威張っているのです。
まるで芝居のようです。


それから、やっとその一幕が済んだので、ボーイを大元旅館にやって
様子を聞かせようとしたら、

また苦力どもがやってきてボーイの手を握り二十円出さなければ
ここを通さないと言うている。

仕方ないから二十円出す約束してようやくハルクに上がって来た。
いやもう大変な騒ぎの上に馬鹿な金を取られました。


後で水兵さんに話しましたら、早く呼んでくれればよかったのになど言われましたが、
その時はどうにもできないしまた随分遠くに離れていたのです。

それから領事館でも心配され水兵が銃を持ってハルクに立ち番しましたら、
苦力が一人も来なくなりました。

そうでなければまた船に乗る時に取られるところでありました。
(佐久間栄子氏談)》

第一次南京事件7南昌1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/15 18:38 投稿番号: [375 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
71〜73p

当時南昌に居住していて親しく苦難を嘗めた佐久間夫人の談話。

九月に南軍 (革命軍) が入りました際に敗残の北兵 (五省連軍) が盛んに
掠奪をやりました。その時の師長は訒汝琢と鄭俊彦というのでした。

これより先市中では仲秋お月見をやることになっていましたが、
十三日に二三百人の南軍が突然入城した。

その時には鄭師長はいなかったですが、市民では南軍が来たというので非常に喜んだのです
が、十三、十四の二日間は盛んに砲火を交えたので、私どもは図書館に避難しました。

すると、南軍が勝ったというので十六日に家に帰りますと、また大砲が鳴り出した。


まだ危険だというので、再び図書館に戻りましたが、今度は十八日の明け方近く
馬蹄の響きが聞こえる。見ると、北軍がドンドン入ってくる。

これは大変だと申していますと、外の方が非常に騒がしくなって、彼方でも斬られた、
此方でもやられたという騒ぎです。私の家の前でも大変な人死でした。

こんな有様なので一歩も外に出られない。
二日二晩というものは一二椀の粥で過ごした上に、

コックやボーイはみな隠れてしまうし城門は閉めてあるし、
ですので水汲みに行くこともできないので、お湯さえも飲めない。

その間は弾丸よけのつもりで蒲団を張り廻らし、その蔭に小さくなっているという始末です。
こうして皆がすっ込んで出ないので北軍の兵士が大いに怒り出した。


お前たちは南軍というと饅頭を食わしたりして非常に歓迎するが、
我々が来ると店を閉めてしまって物も売らない。

実にけしからぬ、これから皆殺しにするのだと言うて脅迫する。
市民は皆おびえきってしまったのです。


私は一週間ばかり図書館にいてやや静まった様子なので家に帰って見ました。
実は今度は米国人の病院に避難するつもりでしたが、何を申し女ですから

良い着物だけでも持ち出したいと思うて、包みを抱えながら家に帰ったのです。
すると子供が一週間ぶりなので喜んで家に入ってしまった。

私も後からついて入りますと、北軍の兵士がイキナリやって来て、そっちを開けろ、
こっちを開けろという、仕方ないから開けると皆かっぱらって行くのです。

海苔の缶詰など少しありましたが、これは日本の菓子だろうと言うて、
大変珍しがって皆持っていってしまった。

帯から着物、袷単物皆取られました。蒲団だけは残していったので、それを持って
病院に行ったのですが高い入院料を取られるので家に帰ったら、またドンドンやり出す。


そして今度は何千人という南軍は外から北軍は城内から一日一夜機関銃や小銃で戦争です。
それが八月二十日でしたが、南軍の兵士は割合に背が低いので城外にある

屋根に登って城門の中へ五六人が入り込んだそうです。
すると北軍は大変だというので、城の山下に立ち並んでいる家に火を放った。

屋根の瓦を破ってそこから綿に石油をつけ火を移して家の中に放り込んだ、
実に惨酷なことをしたものです。

逃げれば銃剣で殺される、逃げなければ焼き殺される、ほとんど皆殺しです。
幸い日本人は城内にいたのでその災難は免れました。


もう大丈夫だと思うているとまた掠奪です。
今度は前のこともあるので、兵士の侵入を防ぐつもりで、

石などを運んで来て門口や窓を固めていると、
煉瓦壁に大きな穴を開け、そこから犬みたいに入ってくる。

そして剣付鉄砲を咽喉に押し当て金を出せと言う。
台所から出刃包丁を持ち出して脅かす、子供などはまったくたまげてしまうのです。


つづく

第一次南京事件6蘇州4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/14 16:23 投稿番号: [374 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
60〜62p


  領事館巡捕の裏切り

《これより先日本領事館では形勢の急転を慮り、在留邦人側とも凝議の結果
いよいよ引揚げに決定し、前の話にもあったように十日午前二時を期して

それを決行する手筈であった。

然るにその手配中突然領事館雇用の支那人巡捕のために外部から錠をかけられ、
それらの注進によって殺到した各邦人工場の職工約五百名のために包囲されてしまった。

総工会並びにそれに従属する糾察隊がその先登であるのは言うまでもない。

これはその晩、領事館で領事館雇用の支那人巡捕を集め、一ヶ月余り
留守にするから然るべく頼む旨を申し渡し一ヶ月の給料を前渡した。


ところが巡捕側では総工会の廻し者もあり、必定日本人引揚げだと察知し、
即時に総工会に密告すると同時に館員全部監禁の暴挙に出たのである。

ここにおいてか領事を始め居合わせた重 (おも) なる在留邦人も共々
押し込められ如何ともすることができない。

職工側はまず日本人の引揚げはすなわち多数職工の生計を破壊するものとなし、
強いて引揚げを断行なるならば二ヶ年分の給料を払えと要求した。

邦人側では今回の引揚げは一時的のもので遠からず復帰する旨を説き聞かせると、
然らば日本人留守中は我々職工において工場を経営するから一ヶ年分の給料を

保証として銀行に供托せよと主張する。


ずいぶん乱暴な要求とは思うが、何分館内にも工場にも人質的に邦人を押えての
談判である。すこぶる鼻息が荒い。

やむなく彼らの要求どおり約六万五千元の保障預け入れを承諾し、岩崎領事は
監視的に同行する職工代表十四名と共に上海に下り金策することとなった。

然るにその後で職工らは勝手に館内に押し入り、器具その他設備品全部を総工会に
持ち去り、木村署長以下館内にある者全部を完全に監禁してしまった。

超えて十二日には総工会緊急会議を開き、日本租界の回収、
休業中の職工生活費の保障並びに職工の精神的物質的損害の賠償要求、

排日大同盟の組織などを決議し、
排日気勢を揚ぐると同時に領事館支那人巡捕の武装を解除した。


上海にありてこれらの飛報に接した岩崎領事は、上海矢田総領事を通じ
国民軍東路総指揮白崇禧氏に対し取り締まり方を要求した。

その結果白崇禧軍二個中隊は十二日蘇州に到着、租界外の大路を包囲し
弾圧に取り掛かり不逞分子を捕縛し斬罪に処したので、

俄 (にわ) かに怖気 (おじけ) づいた職工らは何時の間にか租界から引揚げ、総工会
本部では広間の正面に掲げてあった孫文氏の肖像や看板も取り除き、役員は皆影を潜めた。

領事館と工場の監禁は自然に解かるることとなり、邦人一同始めて蘇生の思いをした。

岩崎領事も十三日には帰任する、各工場もそれぞれ折り合いが着く、
四月の二十三四日頃までには、引揚げその他ほとんど無事にこれを了した。


・・・
第三回引揚げの中絶により一番困ったのは城内とリョ (門+呂) 門から引揚げて来た
人々であった。これらは食糧の準備とてはなし、

一時小学校で自炊生活をなし汽車の開通を待って上海に避難した。
邦人が引揚げた後の留守宅は実に惨憺たるものであった。

飲料水甕 (かめ) の中に放尿したり瓦石を投げ込んだりするのはまだしも、
井戸の中に猫の屍骸を投げ入れる、風呂桶に糞尿を詰める、畳の上は土足で汚される。

床板は踏み破られる、むしろきれいに持ち去られていた方がいいと思うほどであった。

第一次南京事件6蘇州3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/13 16:16 投稿番号: [373 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
57〜59p


  引揚失敗と邦人監禁

《そこにあわただしく駆け込んだのは領事館雇いの前川氏だ。
そして今領事館では領事館の巡捕のために武器も何も取り上げられ、

皆は一室に監禁されたので、自分はかねて勝手を心得ているので
窓の錠を外し脱出して注進に及んだという話。

一同はただ呆然として途方に暮れてしまった。しかしこのままでは一刻もおれぬので
互いに相励まし、荷物の一部は廠内に入れ一部は近くの岡田氏の所に運び込んだ。

それが三時過ぎであった。そして密かに様子を見ていると
同氏邸前に最初二三人の男工だけだったが、

漸次に女工も加わって四五十人となり、日本人を叩き殺せと喚きながらガラス窓を開け、
火をつけた蝋燭を突っ込んで見回している。


その中に一同のいるのを認めたのか戸を押し破って入ろうとする。
一同はそこを退いて奥の糀(こうじ) 室に隠れた。

すると遂に扉を破って闖入した彼らは家宅捜索を始め、
糀室の前まで迫って来て一尺平方位の明り窓を打ち破って火を突っ込んだ。

同時にピストルが閃く。覚えず顔見合した一同は一語を発する者もない。
やがてピストルも火も引っ込ませたが、今度は外の戸を釘付けにしている。

これはたまらぬ、釘付けにした上に火を放けられたら大変だというので、
どうせ殺されるようならその覚悟でここを突破しようと言うことに一決し、

まずその前に嘆願的に救出の事を頼んで見ることにした。
そこに思いがけなくも救いの手が現われた。それは租界外の居住者政次氏である。


同氏は領事館差し回しの曳船に荷物を積み込み、
午前二時までに租界の船着場に集合するはずのところ、

小蒸気船の機関は何者のためにか破壊され動かなくなり、
やむなく自分で櫓(ろ) を押して来たとのこと。

これで小蒸気船が待てども待てども来なかった理由もハッキリしたと同時に、
同氏から支那人を説得してもらって無事に出ることができた。

ところが一難去ってまた一難、
当日から瑞豊工廠内の日本人は皆糾察隊のために監禁されてしまった。


この糾察隊は革命軍入城後直ちに組織されたもので、
工場内の男工は残らず毎日軍隊教練をやる。

彼らの武器である六尺棒は総工会から強要して絲廠に調整さしたもので、
最初二尺位のものを作ってやると、これではだめだから背丈より長くしろと言う。

やむなく杉木で作ると堅木にしろと言う。在留邦人は自分どもで
拵 (こしら) えてやった六尺棒で自分どもが引っぱたかれることになったのである。

十日の未明には邦人一同既に寝室に入ったまま監禁の形に置かれた。
六尺棒が張番しているのだ。夜が明けると一番に瑞豊工会長の汪が来た。

続いて押し寄せた大勢の職工はまず電話機を破壊し、次いで暴動にかかった。
手当たり次第に器物を毀す、目ぼしい物は持ち去る。


時の間に各室とも惨憺たる有様となった。
邦人が最初本式に監禁されたのは寄宿舎であったが、

ここで職工らは三ヶ年分の給料前払いを要求してきた。
いわゆる人質を押えておいての難題だ。

網野廠長は彼らのために領事館に引き行かれそのまま領事館に監禁されてしまった。
十日夕刻には総工会執行委員長夏偉烈なる者が来て、邦人を呼び出し厳重な身体検査をした。

ピストルこそ突きつけなかったがまったくの脅迫だ。いかんとも仕様がないので
彼らの為すがままに任せていると、検査済みの者は一人一人事務所の二階に押し上げる。

女子だけは舎宅に置こうとしたので万一の危難を恐れ、窓を突き破り二階に飛び
上がってきた。それで男女二十三名がそこに監禁されることになった。

その晩は七人の女だけを畳の上に寝かし男子は皆板の間に古新聞を敷いて休んだ。
その後十五日までの四日間はご飯はくれる、用便にも出してくれたが

その都度六尺棒がついている、まったくの囚人だ。

つづく

第一次南京事件6蘇州2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/12 18:43 投稿番号: [372 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
56〜57p

  工会員の跋扈

《蘇州における日本人工場の重 (おも) なるものは、昨年七月に開業した
瑞豊絲廠 (日華蚕絲会社経営) 貝ボタン工場 (橋本高次郎) 備後屋畳表工場、

湯浅工場などであるが、その中瑞豊絲廠は職工数も多いので自然今回の争議の焦点と
なった観があるので、以下同廠の出来事を中心に叙述の筆を進めることにする。

二十四日に難件を持ち込まれた以後の工場は事実上支那人職工の管理に帰した形で、
しかし日本人も全然顔出さぬとなるとまた騒ぎ出す恐れがあるので、

毎日出張っては見るが指図も何もできない。

もちろんこれでは成績も挙らず、規律は乱れる、職工の要求は増長する、
何時の間にか生産費は従前の二倍以上になってしまった。


一体蘇州は生糸の産地で、支那人の経営に係る製糸工場も三つある。総工会の手は
それにも延びていった。国民党中の過激派の使嗾によるのはもちろんである。

総工会と工場側との衝突は予期されていた。
果然、延昌恒絲廠の操業休止は騒擾の端をなした。

平常ならば新繭 (まゆ) 買い入れまでの女工解雇の如きは問題にならない。
延昌恒絲廠もそれであったが、時が時であった。たちまち物議が持ち上がった。


その際仲裁に入った斯業界の長老汪氏の息子はこれをなだめんとして却って
女工の激昂を買い、彼らに追われて便所に隠れたり屋根の上を逃げ回ったり

していたが、遂に寝室に追い込められ、
捉 (つか) まって総工会に曳かれて千余名の女工の前で笞刑に処せられた。

その翌日は血迷った職工ら汪父子を車に乗せ、楽隊を先頭に市中を曳 (ひ) き回し、
邦人工場の門前にも来て喊声 (かんせい) を挙げるなどまったく暴動化して来た。

支那の警察もあるがもちろん手を着けない。こうして工人側の気勢はますます強くなる。
四月四日にはより以上の要求を持ち出した。


瑞豊絲廠では余儀なくこれを容れたものの、
このままでは到底仕事を継続する見込みは立たない。

しかしここで邦人全部が引揚げるとなるといかなる面倒が起らないとも限らないので、
領事館側とも打ち合わせ秘密裡にこれを決行することとし

九日の夜半を期し残留邦人四十八名が小蒸気船で落ち延びる手配をなし、

各工場では職工を瞞 (だま) かすつもりで酒を振舞ったり、
夜遅くまで麻雀などして何気ない風を装うたりして時の至るのを待った。


然るに準備してあった小蒸気船を荷物取りまとめのため租界外の居住者の所に
廻したのが戻ってこない。一同の手荷物はとっくに船着場に運び出してある。

船は十日の午前二時に租界に戻る手筈である。
それが十分たち二十分たち一時間たっても来ない。小雨はシトシトと降り出す。

東の空は明るくなるような気がする、皆気が気でない。
或いは職工らに感づかれはしまいかと思うと闇に響く靴音にも聞き耳を立てる。

万一見つかったらピストルに見舞われるは必定だ。
一同の緊張は絶頂に達した。》

つづく

註:   絲は糸の本字

第一次南京事件6蘇州1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/11 18:43 投稿番号: [371 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
54〜56p


革命軍の入城   (註:革命軍とは国民党軍の事)
風光明媚、描けるような江南の天地にも戦禍を免れなかった。

三月二十日前後には既に蘇州の郊外近く押し寄せた国民革命軍は、
同二十二日には早くも威風堂々城内に入った。

同地在留邦人では南北の勝敗はともかく、いずれか敗残兵の掠奪暴行は免れまいとの
想念から領事館に避難せる者もあり、互いに徹夜して警戒した晩もあった。


革命軍の入城はこれらに一安心を与えた。
一体同地では北軍よりもむしろ南軍の歓迎に傾いていた。

と言うのは革命軍側の早くからの宣伝によるのはもちろんであるが、
とにかく革命軍の入城は蘇州官民によって歓呼して迎えられた。

在留邦人においても支那側のそれほどではないが、とにかく戦禍から早く免れ得た、
すなわち掠奪暴行などの災厄を免れ得たという喜びはあった。


しかもそれは見事に裏切られた。
もとより常勝軍の余威は手早く戦局を収拾し得たるために、

甚だしき戦争の惨禍からは免れ得たが、しかし酬いられたものは、
より以上に乱暴な、より以上に深刻なものであった。

それはすなわち革命軍の労働者使嗾 (しそう) である。
蘇州の人心が動揺し、労働者の気勢が邦人の目にも留まるようにおかしくなったのは、

さかのぼって言えば革命軍が杭州から北上し呉江に達した頃、
すなわち三月十二三日頃からである。


それが革命軍の入城によって急速に具体化し、入城二日目の二十四日には、
総工会の名義で日本人工場に乱暴な条件が持ち込まれた。

双方が押し問答している間に、職工側の言い分はますます募る。
工場内では彼処に一団、此処に一団と構えて示威的気勢を示す。

二十九日には革命軍の戦役烈士紀念日と称し、各工場の職工全部が参加し楽隊を
先頭に大旆 (おおはた) をかざし、邦人工場にも押し寄せた。

邦人側では、やはり隠忍していたので何事も起らなかったが、
しかし四囲の形勢は日にますます不穏を増すのみなので、

まず婦人子供だけでも避難させようということになり、上海から廻してもらった
小蒸気船で三十一日に五十二名が引揚げ、次いで四月五日に二十二名が避難した。


つづく

第一次南京事件5 松崎医師2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/10 18:36 投稿番号: [370 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
38〜39p

《後を振り向くと一人の兵士が小銃に装弾しつつ近寄ってきて
『お前たちは何国人だ』 と言う。

田坂氏が 『日本人 (リーベンレン)』 と答えると、
それを 『高腰人(コーリーレン)』 と間違えたらしく

『高麗人なら許すが日本人だと許さないぞ』 と怒鳴ったので、
急に高麗人すなわち朝鮮人になりすましようやく虎口を逃れた。

当時我同胞は日本人であることさえも高唱されなかったのだ。
かくて宝来館旅館の附近まで来るとその辺一帯は掠奪の最中である。


震旦大学の門内には二名の仏国宣教師が殺害され、髯から頭髪まで焼かれて
無残の死骸を横たえている。筋向いの日本小学校も掠奪されている。

二人は革命軍の暴虐に驚きながら西華門に向う途中で、ようやく知人に
支那服を借り受け、それに着替えて、とある阿片館に隠れた。

その家は草屋根の二室しかない小屋で、隣室に阿片を吸うている労働者風の
支那人の話し声がよく聞える。

『南兵はなぜ外国人を殺すのだ』
『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行くからだ』

『まるで泥棒だ』『虐殺されるのは当然だ。
日本領事館では鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺してしまったよ』


聞かされた二人は、まさかと思ったがまったく身の毛のよだつ思いをした。
そこへ突然昨年須藤医院を卒業した宣君が尋ねて来てくれた。

領事館からの依頼で方々を探し歩いたとのこと、
そして今外では二人の日本人がこの家に入ったと言うので、

二百元の懸賞で捕縛することになっているから早く逃げよとの話だ。
吃驚してそこを飛び出し二丁ほど離れた宣君の家に落ち着き、

始めて領事館の日本人の無事であることを知った。
それが午後四時頃であった。


その内に江岸に当って盛んに砲声が聞える。今外国軍艦と革命軍と交戦中で、
日本軍艦二隻は沈没したとの噂が伝わって来た。

二人はお互いの運命もこれまでだと観念し、一切を認めて支那人に頼んで
蕪湖領事館に送り届けようとしたが、船便がなかったために果たさなかった。

やむなくその夜は今後を心配しつつ宣君の宅で過ごしたが、幸いにも翌二十五日朝十時、
領事館からの急便で引揚のことを知り、ミルク、菓子などを携え領事館に駆け付けた。

当時城外に居住し、軍艦に収容されたものは左記二十四名である。(後略)


70p
六月末に南京城内の被害調査に赴いた山野氏報告に左の如き一節があった。

路傍の楊樹は無心に我らを迎え山川風光昔に異ならざるも当時を回想すれば
感慨悲壮、荒廃せる我らの旧居を目睹するに及んでは只鳴咽あるのみ。

殊に惨状を呈せしは城内宝来館、須藤、栗林、松崎の三医院にしてほとんど旧態を止めず、
見る影もなく荒れ果てて床板もなき室に蓆を敷き並べ、

蒜と汗の臭気紛々たる裸体の兵士が我が物顔に昼寝せる様、
唖然たるの外なく到底再び住居とする勇気も出でざる状態なりき云々


*   『彼奴らは俺たちの国に素手で来て、帰りには儲けて行く』『泥棒だ』

   この理屈が正しいのなら、日本に来ている中国人も襲撃されねばならない。
   日本企業は、何度襲われても中国に行こうとする。バカではなかろうか。

第一次南京事件5 松崎医師1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/09 18:39 投稿番号: [369 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
36〜38p

《城内キョウ (龍+共) 家橋にある松崎医院の院長松崎熊士氏は、
これまで同じ城内の須藤医院に副院長を勤めていたが、

今度独立することになって三月二十一日に開業した。

その夜はあたかも革命軍が南京に迫った頃で、殷々たる砲声を真近に聞きながら
開業の宴を張った。そして一人の患者も見ないうちに今回の災厄である。


同医院では二十四日午前六時、革命軍の入城を知ると同時に、
晴天白日旗と茶菓を用意して歓迎の意を表することにした。

これも凡 (すべ) ての在留邦人と同じく革命軍を信じていたのである。
然るにその期待は見事にも裏切られた。

まもなく数名の革命軍の兵士が入って来て 『この家を司令部にするから明け渡せ』 と言う。
松崎氏は 『俺は日本人だ、お前らに貸し渡すことはできない』 と突っぱねると、

彼らは口々に 『洋鬼子々々々』 と罵りつつ金を出せと迫り、同氏のポケットの
一つ一つに手を突っ込んで、時計財布など残らず取り上げて立ち去った。


その後で松崎氏は急ぎ近所の田坂写真師に電話し、
領事館に避難するため二人で家を出で、約一里の間を革命軍に後について歩いた。

途中は格別危険もなかったが鼓楼医院の前まで来ると 『須藤理助』 とした名刺が
路上に散乱している。すぐ坂上の日本領事館では馬車や馬で盛んに荷物を運び出している。

不審だと思いながら二人とも領事館が掠奪を受けてるとは思わなかった。
正門を入るとき田坂氏だけはうまく通過したが、

松崎氏は革命軍の兵士に捉まって外套、眼鏡、現金を奪取され、
ほうほうの体で領事館に来て見ると、どの部屋もどの部屋もがらんどうだ。

そして紙片や書類などの散乱した中を革命軍の兵士が右往左往している。
赤い腕章をつけた平服の支那人が無頼漢らしい者どもを指揮して荷物を運んでいる。


裏口に抜けて領事官舎に行くとボーイがいたので、
日本人はどこにいるかと聞くと知らぬと言う。

官舎の裏手に回ると雨水タンクの上に根本少佐が仰向きに仆れている。
まったくの死人だ。

それに一人の日本人の姿も見当たらないのと考え合わせて、
邦人全部虐殺されたと直感した。

そこで始めて危険の迫れるを感知し、根本少佐には気の毒だったが
これを打ち捨てて愴惶 (そうこう) として館内を抜け出で、


鼓楼医院の側で田坂氏にめぐり合い、
北門橋の南京写真館に行って支那服の借用を乞うたが断られ、

まったくの落人の気持ちで戦々恐々、五丁ほどを歩いたと思う頃、
突然 『止まれ』 と大喝された。》


註   愴惶   ソウコウ    大いに恐れ、あわただしいさま。


つづく

第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴3

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/08 18:47 投稿番号: [368 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
35〜36p

《余は地獄で仏に会った思いでその将校を捕え、このままではいつ殺されるか分らぬので、
一刻も早く脱出して領事館に避難したいから、どうか同行して頂きたいと嘆願すると、

将校はそれではあとで警察署長を出すからそれまで待てといって、そばの巡査に
自分の名刺を与え、裸で震えている余に着物を貸せと命じて立ち去った。

三十分の後巡査部長が来て、巡査二人で余らを護送してくれることになったので、
余はズボン下一枚の上に、巡査が苦力の着ていたのを脱がしてくれた

ぼろぼろの上衣一枚を肌に当てたまま街上に出た。


黒山と取り巻く人馬の中には、糾察隊のマークをつけた学生が混じって、
『そいつらを引き渡せ、渡さぬと殺すぞ』 と幾度か巡査を脅かし余らを連れ去ろうと

するが、テコロ病院の前にさしかかると、
石畳の上に生々しい血潮が流れ、砕かれた脳漿が散乱している。

その門のすぐそばで外人紳士二人が兵士に取り囲まれて、まさに銃殺されんとしていた。
これを目撃した余らは自分の運命を告げられているような気がして、

われにもあらず目の前が真っ暗になるのを感じた、
そのうちにようやく領事館の建物が見えるところにくると、

正門前の坂道を兵士や無頼漢の群れが押し合うようにして家具類を抱えて降りてくる。

見れば門前も前庭も公用書類が地を埋めて乱れている。『領事館もやられたのだ』と
始めて目の当たりを見て、思わずも鉄槌で殴られたように驚きを感じた。

  (三月三十日東京朝日所載)


一方丸裸にされ、座布団を前と後ろにあてがって、
寒いのと恥かしいのを防いで敵味方を笑わした鈴木老人は、

暴徒のすきを見て向い側の支那人宅に飛び込み着物をもらい、
宝来館から一丁ほど離れた警察署へ救助を頼んだ。

署長は顔馴染みなので好意を持って世話を焼いてくれたが、
まもなく兵卒らが来て乱暴にも署長を殴りつけ、

老人を引っ張って督弁公署の裏の錬兵場に連行し、
またまた丸裸にしてしまって銃剣を咽喉に擬する。


鈴木老人はいよいよ殺されるものと観念した。その刹那に一名の将校が来て
『打つな打つな』 と叫んだので危機を免れることができた。

それで老人はその将校に領事館までの護送を頼んだが容れない。
やむなく知り合いの附近の鉄葉屋の主人を訪ねて着物を乞受け、

途中でこれまた顔知った車夫からも着物を借り、一緒に宝来館に帰ってみると、
まだ掠奪の最中らしいので逆戻りして車夫の宅に隠れ、

そこからまた車夫や乞食に衛られて福民巷の孫氏(督軍署日本語通訳)の宅に遁れ、
そこで一夜を明かし、領事館からの密使で軍艦への引揚を知り、

孫氏の令息がボーイに、鈴木老人は盲人に変装し、
ようやく危険地帯を突破し無事領事館に着いて始めて安堵した。

鈴木氏は在支数十年、いろいろの災害にも遭遇したが、
今度ほど弱らされたことはなかったと言うている。》


つづく

第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/07 16:04 投稿番号: [367 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
33〜35p

《余は無抵抗のいかに悲惨なるかを体験し、生来二十八年、
この時ほど自分が弱いものだと思ったことはなかった。

しかしこうなれば死を決して暴徒のなすままに天運を待つほかなかった。

そのうちに余らは外套、服、ワイシャツ、着ているもの全部をはぎ奪われ、
ズボン下一つきりになったが、暴兵は刻々に数を増すばかりで、

奪ってゆくもののなくなった腹立たしさに、室内の小道具類を片端から破壊し始め、
『百円出せば命だけ助けてやる』 とか、

『張作霖びいきの日本人は皆殺しだ、もう五十人殺された』 などと喚きながら、
一人の兵は一間余も間近からピストルを向けて余を狙撃した。

幸いにして弾丸は余のびんをかすめ、とびらを貫いた。
一緒の者四人既に生きた心地はない。


どうでもなれと観念のほぞを固めているうち、兵隊に続いて潮の如き無頼漢の群衆
雪崩れ込んで来て口々に我々を冷笑しながら、家の中の品物を片ッ端から持ちだしてゆく。

めぼしい品物はもちろんのこと、後では畳、床板、便器、鉄瓶のかかった火鉢、たんつぼに
至るまで持ち出して、部屋の中はまるで馬小屋同様のあばら家同然となってしまった。

余らは丸裸になってこの暴挙を眼の辺に眺めながら、どうなる事かと胸を痛めていると、
やがてどかどかと数人の兵が飛び込んできて、

『貴様らは支那の土地に勝手に家を建てる権利はない、早く出てゆけ、
下で銃殺してやるから早くゆけ』 と言い捨てて余らを引きずり出した。

いよいよ最後の時が来た、もうもがいても喚いても駄目だと観念して、
彼らのなすがままに引き立てられて階下のボーイ部屋に押し込められた。


そこで暴兵らは、またもや悲鳴を挙げて拒む女中を取り押さえて、腰巻までも奪おうとする。
これを見た余は思わず眼がくらんだ。

凌辱でもして見ろ、その時には剣を奪って斬り死にしてくれんと決心し
見ていると幸いそのまま出て行ってしまった。


これより先、危害がいよいよ身辺に迫ったので、このままでは暴徒のために
掠奪されるばかりだと思ったので、余は密かにボーイを密使に立てて、

急を領事館に告げしめ適宜の処置を請うた。
宿から領事館まで二十丁の道程だが、ボーイは待てど暮らせど帰らぬ。

やっと十時過ぎに帰って来て、領事館も大掠奪を受けている。
兵隊が一杯でとてもゆけぬと告げた。


まさか領事館がやられるはずはない、遭難を恐れて途中から逃げ帰ってきたのかも知れぬ、
この上は命をかけても飯事館に逃げのびるはか道はないと考えて、

裏口から脱け出ようとしているところへ、またもや鬼のような兵士が十数人押し寄せて、
日本人は全部銃殺するから用意せよと破れ鐘のような声で宣告し、

壁際に引き据えて、まず小銃の狙いを女中の心臓部にすえた。
もうこれまでだ、暴徒は遂に引金を引いた。

すると天いうか、弾丸が入っていなかったため、空しくカチリと鳴っただけで、
命はようやく絶たれんとして一瞬に残し得た。

暴兵はいまいましげに舌打ちして気をいら立てながら弾丸を入れているところへ、
突如少佐服を着けた二人の将校が門の前を通り合わせ、この有様を見るや否や、

つかつかと入って来て兵士の腕をつかんで制止したので、
余らは危機一髪を免れたが、暴兵はいまいましげににらみつけて立ち去った。》


つづく

第一次南京事件4 宝来館裡の悲鳴1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/06 16:10 投稿番号: [366 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
31〜33p


《南京唯一の日本旅館宝来館は南京城内石板橋にある。
二十二日の邦人の避難の際には馬車が来ないためにそれに加わることできず、

二十三日は連合軍の退却で市中は上を下への大混乱にどうすることもできない。

その夜は当時の宿泊客東京朝日の園田記者ほか一人と家中とで、
そこここにあがる銃声に脅えつつ息を潜めて夜を明かすことにしたが、

午前二時頃からにわかに静かになったので、
皆気を許してまどろんだと思う間もなく、けたたましい銃声が間近の街上に鳴り渡った。

さては市街戦が始まったかと思われたが、同館ではかねがね懇意の孫文会の
中山事務所から検査済みの札をもらったので安心していると、

七時頃になって突然二階の窓ガラスめがけて三四発の銃弾が注がれ、
その弾は折から服を着替えていた園田記者の身辺を掠めて天井の電球を砕いた。


またたくうちに街上を埋めた革命軍の暴兵は開門、開門と怒号しつつ表の鉄門を
押し破り、どかどかと乱入し泥靴のまま畳を踏み荒らし、奉天兵はいないか、

ピストルはないかなど、口々に連呼しつつ家捜しを始め、主人の鈴木氏を捉えて
『金を出せ』『ピストルを出せ』 と迫り、有り金を引っさらって出て行くとまた押し入って来る。

次から次と入れ代り立ち代り、金、金、金!と叫びながら入って来ては
各室に侵入し、手当たり次第に掠奪する。

宿泊客の荷物はもちろん、主人が永年の支那生活で集めた大小幾百の骨董品は、
見る見るうちに彼らのポッケに隠され小脇に抱えられ、幾分も立たぬ間に影も留めなくなった。

当時同旅館にあって親しく暴虐に直面した東京朝日の園田記者の遭難記は、
凄絶惨絶、鬼気人をうつものがある。左にその一節を録する。


〈(前略)   たちまち数人の暴くれた兵隊がどかどかと乱入して奉天兵が
逃げ込んではいないか武器は持たぬかなどと連呼しながら

泥靴のまま畳を踏み荒らして家捜しをはじめ、トランク一個を奪取して引き上げた。
その時まではまさか掠奪だとは気づかず、

平気でいると続いて四十数名の兵士が乱入して『ピストルは持たぬか』 と呼びつつ、
われわれの所持品懐中の点検をはじめ、まず写真機と外ポケットのがま口を取り上げ、

次いで内ポケットの財布をひったくった。


その間一人の兵は宿の女中をつかまえ指輪を抜き取ろうとしていたが、
堅くて容易に抜けないのに気をいらだて、


『面倒だ、指を切り落としてやる』 といいさま、懐中から短刀を取り出して
あわや左の薬指を切落とそうとする、女中は必死に抵抗しつつようやく抜き取って渡した。

そうして掠奪だと気がついた時分には、部屋々々はいずれもピストルや小銃の引金に
手をかけた乱入者で一ぱいでいれかわり立ちかわり現れて来ては、

すご文句でおどしつけながら、めぼしい品物を奪取してゆく、
少しでも抵抗の気を見せようものなら、

すぐさま銃殺する面がまえで引金に手を当てて迫ってくる。〉》


つづく

第一次南京事件3 埠頭の流血

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/05 18:35 投稿番号: [365 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
30〜31p

《連合軍 (国民党以外の軍) 退却開始と同時に恐るべき掠奪暴行の演ぜらるべきを
予想した日本海軍では、二十二日下関すなわち江岸一帯に在住せる邦人の大部分を

駆逐艦 桃、檜二隻に収容したが、これらの避難民の中数名は家財をまとめるために上陸し、
二十三日午前十一時頃、日清汽船会社のハルクに引き返した処を

折柄襲来した革命軍 (国民党軍) のために、行李その他所持品全部を掠奪された。


二十四日未明に南京に入った   ―   そして我領事館に暴虐を逞しくした革命軍の先鋒は、
軍艦 桃、檜、濱風の碇泊せる江岸を通過の際に、その日本軍艦であることは

明白なるにかかわらず盛んに射撃を加えたため、各艦とも数発の小銃弾痕を残した。
同じく八時過ぎにはますますその数を増した革命軍は日清汽船のハルクに殺到し、

鉄条網を引き回し桟橋を取り除きあるにもめげず掠奪を企てたので、その附近一帯は
一時混乱を極め、ハルクに在って防備に努めていた後藤機関兵曹は、

痛ましくも彼らの乱射せる銃弾に仆 (たお) れた。そばに居合わせた須藤医院の
津田氏が助けてボートに移し手当てしたが、遂に異域の露と消えた。


これは後日譚であるが、二十六日に日清埠頭の広場で同機関兵の葬儀が営まれ、
各艦長、居留民皆参列し焼香の最中に革命軍の一兵卒は汚い軍服で

ヒョロヒョロと式場に乗り込み、歩哨兵の禁止も聞かず
『洋鬼子、ざまを見ろ』『打倒帝国主義だ』『ここは俺たちの土地だ、通行は勝手だ』

など口汚く罵りつつ、式場を右往左往し、参列者を尻目にかけ祭壇の前に
立ちはだかって 『洋鬼子』 と叫んだ。

洋鬼子というのは支那人が外国人を罵る言葉である。
あまりの暴状に歩哨兵は彼を捉えて殴りつけ場外に追放した。

ああ、我後藤機関兵曹は、死してなおかつ暴兵に辱められたのである。》

第一次南京事件2 外国人の被害

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/04 18:36 投稿番号: [364 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫66〜67p

《近くの 「金陵大学」 では、それとわかる掠奪暴行の騒音がつづいているし、
警備のためという中国兵五人は、なんとなく 「物色スル」 風情で館内をぶらつき、

ときにギロリと日本人をにらむ。
武器を完全に奪われている日本側としては、わずか五人の武装兵でも〝強敵〟である。

やがて中国人使用人が帰ってきて、街から 「支那マンジュウ及茶」 を買い求め、
一同はひと息つく心境になった。


聞けば、英米両領事館をはじめ教会、学校、商店、住居など外国人の占有場所は
軒なみに襲撃されたが、中国人については住居も個人も被害は皆無だ、という。

まさしく 「純然タル組織的排外暴動」 だ、と領事たちは理解し、歯がみすると
同時に、そうであればより一層の襲撃も予想されるので、恐怖心が刺戟された。

森岡領事は、暴兵たちが 「日本帝国主義打倒」 と叫んでいたのを思いだして、
日英がとくにねらわれたらしいが英国領事館はどうか、と使用人にたずねた。


「惨状甚シ。領事以下鏖殺 (おうさつ) セラレタルモノノ如シ」

実際には、英領事館は午前九時すぎから襲われ、医師と港務長が射殺され、
軍艦 『エメラルド』 から派遣されたスペア大尉が右腕、左脚に負傷した。

しかし、領事ジャイルスは、左脚に銃創をうけたうえ、暴兵に青龍刀で斬首される
寸前に中国人将校の制止で救助されている。

米国領事館では、いち早く館員および在留米国人を 「金陵大学」 に避難させていた。

しかし、市内の米人系学校、会社、事務所など無人の建物は、
かえって思いのままに荒らされ、十戸に放火された。


「金陵大学」 でも、副学長 J・ウイリアムスが射殺され、米国人男女は構内を逃げまどった。

のちに女流文学者として知られるパール・バックは、夫である宣教師 J・バックと
ともに友人の中国人女性の小屋にかくれていたが、そのときの想いを次のように記述している。

「まるで暴風が吹き荒れているようであった……そして、
私は自分が蒔きもしない種を刈り取らされている形であった……

私たちはただ自分たちが白人だというだけでかくれねばならなかった……」》


『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』 田中秀雄編集・解説   芙蓉書房

41p
《さらに欧米人に対して行われた暴虐もまったく同様の手段であった。
英米領事館を始め、欧米人の住宅、店舗が遺憾なきまでに荒らされたのはもとより、

各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。

中にも金陵大学副校長イー・ゼー・ウイリアム博士と、
震旦大学の仏人教師二名は暴兵のために惨殺され、

その中の一人は頭髪から髭、陰毛までも焼かれた上、
大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。

このほかに重傷を受けまたは衣服を剥がされたものは数うるにいとまないほどである。
殊に婦人にして凌辱を受けたものも少なからずと言うが、

これらの事実に徴しても、いかに計画的に行われたかが分ると思う。》


註   :   鏖殺   オウサツ    皆殺しのこと

つづく

第一次南京事件1 領事館襲撃2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/03 18:46 投稿番号: [363 / 2250]
《暴兵と暴民は、荒れ狂った。

事務所、職員宿舎、使用人室、物置きその他、館内の隅々まで先きをあらそって
走りこみ、トランクをあけ、戸棚をこわして物品を略奪した。

男女の別なく、衣服を奪われ、財布、時計、指環は例外なく奪取されたほか、
次々に服をぬがされて身体検査までされた。

女性の場合は、帯、タビはむろんのこと下着までぬがされて
「忍ブベカラザル」 検査さえ、実施された。


「強姦ノ事実ナシ。尤モ、二 (ふたり) ノ婦人ニシテ 強姦予備行為トモ
思ハルベキ所作ヲ 受ケタルモノアリ」

とは、後日の森岡領事の報告であるが、かりに 「強姦ノ事実」 はなくても、
女性たちは、一人の暴兵が去ればまた次の暴兵……と、

くり返してハダカにされては 「検査」 されるのである。

女性の叫喚、悲鳴、子供の泣き声が暴兵の罵声と掠奪の騒音をさいてひびき、
日本人男性たちの胸をついた。


荒木大尉と水兵たちも、あまりの無念さに気失寸前の状態となったが、
ともかくも館内にいる邦人のうち五十二人が子供であり、

うち十二人が乳児なので、その安全のために我慢をつづけた。

暴兵と暴民は、その子供たちからもオモチャを奪い、靴をむしりとり、
フトン、家具、調度品などとともに馬車、トラックではこび出した。

領事森岡正平の病室にも暴兵が乱入し、室内の品を奪ったあと、
領事のフトン、寝間着もはいで行った。


一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃をおこない、居あわせた邦人数人が逃げ、
領事のほかに夫人、木村三畩署長、根本博少佐の三人が残った。

「外ニ出ヨウ」

領事がベランダに出たとたんに、一人の暴兵が走りこんできて、木村署長は左胸を
銃剣で刺されて階下に逃げ、根本少佐は後続した二人の暴兵に左腹部、

左臀部を刺され、ベランダの下の貯水槽に転落した。


暴兵たちは、ひとわたり館内を荒らしまわると、事務所の大金庫に関心を集中した。
銃床でたたいたり、鉄棒でこじあけようとするが、あかない。

発砲してもダメなので、館員、邦人の誰れ彼れとなく鍵の所在を質問したが、
成果は得られず、次第に興奮度を高めた。


領事夫妻は、ベランダにいたが、裏庭に避難した邦人たちが、
暴兵が車庫からガソリンを持ちだして放火しようとしている旨を告げた。

領事は夫人にたすけられて階下におり、館員の一人が秘匿していた大金庫の鍵を
炊事場の煙突の破口に投げこんで、一同と合流した。

根本少佐ら負傷者は流血のまま横たわり、文字どおりに身ぐるみはがれた男女が、
ただ子供たちを抱きしめて恐怖する様子は、悲惨であった。

暴兵は、なおも一同にせまり、交互に銃剣をつきつけては大金庫の鍵を要求しつづけた。
午前十時半ごろ、ようやく一人の中国軍将校があらわれ、暴兵を叱咤し殴打して、暴行を制止した。》


69p
《「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、窓枠の木材、ガラス、
床板すべてが持ち去られ…」 とは4月末に領事館を訪ねた佐々木到一中佐の記録》

第一次南京事件1 領事館襲撃1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/02 18:31 投稿番号: [362 / 2250]
南京事件は何度も有っているので、いつを第一次とすべきかは判りませんが、
取り敢えずここでは昭和2年のものを、第一次としておきます。

昭和元年 (1926年) 蒋介石は、他の軍閥を倒して中国を統一する為、
北伐を開始しました。そして昭和2年3月24日、国民党軍は南京に入りました。


児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫61〜63p

《領事森岡正平は、国民革命軍が入城した以上は 「十中八九危険ハ去リタ」 と判断した。

・・・中国側を刺激しないようにすべきだ、と考え、荒木大尉に〝武装〟撤去を求めた。
大尉は承知して、土のう、機銃を撤去して、正門も開いた。

午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪ね、敗兵の所在を訊ねたが、
不在という返事をきくと黙って退去した。


日本人一同がますます安心していると、

約三十分後、こんどは五十人ほどの兵士が 「疾風ノ如ク」 領事館事務所に
乱入して、警察署長木村三昧の所持品を奪い、左腕に貫通銃創をおわせた。

同時に、居合せた陸軍武官根本博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。


二人が逃げると呼笛が吹き鳴らされ、すかさず平服の女性と青年を先頭にした
兵士約二百人が、喚声をあげて領事館内になだれこんだ。

掠奪品運搬のためか、トラック、馬車、人力車までが続行した。
乱入者は、意味のない叫声やかけ声のほかに、スローガンも唱えていた。

「日英帝国主義打倒!」    「華俄(中ソ)一家!」

あるいは、中国人から奪った日本人の財産をとりもどせ、という意味の声もきこえた。

もっとも、それらスローガンの叫びは、少数の指導者のものらしく、乱入者の大部は、
金をだせ、かくすと殺すぞ、といった表現をくり返しては、館内をわれがちに物色した。


領事森岡正平は、荒木大尉を自室に呼んで頼んだ。
「気ノ毒乍 (なが) ラ   各兵ノ階級章及帽子   ノ如キ標識ヲ   一時取り去ラレ度」

領事の報告によれば、荒木海軍大尉と水兵十人は官邸北側の「ボーイ」室に
退避していたが、館内の避難邦人の間から、

大尉たちの軍装が中国側を刺戟 (しげき) する恐れがある、との意見が出たので、
領事も 「右ハ不得己 (やむをえざ) ル要求」 と判断して、大尉に要請した、という。

荒木大尉は、血相を変えた。
国家と国民を外敵から守るのが、軍人の本務である。


いまや、準日本領土である領事館と日本国民がおそわれている。
それなのに、戦うな、というだけでなく、軍装も解け、と領事は、いう。

軍人が軍装を解かれるのは、退官の場合を除けば、「敵ノ軍門ニ下ル」 か、
犯罪行為により軍籍を剥奪されるとき以外にはない。

一戦もこころみずにそのような 「恭順」 姿勢を示すのは、
軍人としてはあまりにも不名誉である。

いや、その種の 「度ヲ過ゴシタル無抵抗主義」 は、相手の自制心をさそうどころか、
かえって増長心を刺戟して暴行を激化させるのではないか……。

荒木大尉は、しかし、「在留民ノ生命ガ風前ノ灯火ニモ比スベキ時」 だから、
と病床に深々と頭をたれる領事を凝視すると、とっさに承知した。


つづく

米英軍の残虐

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2010/03/01 18:17 投稿番号: [361 / 2250]
http://www.tamanegiya.com/tutiyayasuo21.12.12.html
より引用


《 <昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、
ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船

「ベノスアイレス号」(九六二五トン) は、米軍B24に爆撃され撃沈する。

患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、
十二月一日、同じくB24に発見された、

この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、
容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。


昭和二十年四月七日、軽巡 「矢矯」(六六五二トン) の測的長として
戦艦 「大和」 の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉(海兵七二期) も、

同様に米軍の不法行為をこう証言している。

「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。
敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>

以上二つの史実は 「敵兵を救助せよ」(恵隆之介   草思社   平成十八年) P二四三 より


そして、英軍は

<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。
グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。

焼けつくような日差しだった。
おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。

次の瞬間、担架が燃え始めた。
見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」


インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言
同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は

英軍戦車隊が日本軍野戦病院を砲撃後、
英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、英軍士官が検分する。

将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると
「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>

「WiLL   7月号別冊   歴史通」(ワック出版   平成二十一年七月)P二百一 》


*   赤十字船を攻撃し、漂流者を救うのではなく攻撃している。
   また、傷病兵にガソリンを掛けて焼き殺しています。

   南京で日本軍が捕虜を処刑して、まだ死なないうちにガソリンをかけて
   焼き殺したとか、中国側は言っていますが、英軍はもっと酷い事をやっています。

   彼ら自身がやっているから、中国側のデタラメ証言でも採用できるのでしょう。


次は、中国軍や中国民衆の暴虐について紹介します。
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