入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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2月14日 董道寧の赴日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/03/01 18:32 投稿番号: [1492 / 2250]
松本重治著   『上海時代・下』   中公新書
261〜262p


《 二月初め、伊藤君は上海に現れ、西君の要望に従い、

董君の訪日問題については、私とともに綿密な計画を練った。

主として、パレス・ホテルで董君を交え、

三人で数回にわたる打合せをやった。



まず、東京での西君の工作が成功して、

影佐大佐が多田   (駿)   参謀次長を説き、

董君の来日のための準備が一応完了するまで、

董君は暫く上海に逗留することに決めたが、

それは、蒋介石の特務隊の監視をはぐらかす時間が必要でもあったからである。



やがて、二月十日ごろ、西君から伊藤君に青信号が届いたので、

董君は、伊藤君に伴われて、十四日、船便で上海を発って行った。

私は董君の壮途の成功を祈念しながらも、

あまり目に立つようなことは絶対避けるべしとの配慮から、

本意なくも見送りを差し控えた。》

盧溝橋事件3 白々しい嘘の秦徳純

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/29 18:39 投稿番号: [1491 / 2250]
《 桜井顧問は   「イヤ今度は止めやせん。

ただちょっと貴方にお話しておかにゃならん事があるんです」   と切り出しました。

「ここに来る前、私は秦徳純に会いました。ところが先方は

『城外には一兵も配置しておらん』   と言うんです」

「そんな事は絶対ありません。現に…」



「まー、私の話を聞いて下さい。それでもし城外で銃声がしたと言うなら、

それは29軍の兵士でなく匪賊かもしれん。便衣隊の仕業かも知れん。

あるいは西瓜畑の番人が泥棒と間違えて撃ったかも知れない、と言ってるんです」。

「そんな馬鹿な…」

「まー待って下さい。それからこうも言っとるんです。

もしかしたら29軍の兵士かも知れない。

だとしたら上司の命令を聞かないワカラズヤどもだから、

攻撃しようと討伐しようと、日本側のご自由に、とこう言うんです」



「へー」

「そこで私の意見を申し上げますと、宛平県城には一般民衆も住んでいますから、

どうかこの城だけは攻撃しないで下さい」

「承知しました。宛平県城に対しては銃先を向けません。

その代わり城外にいる匪賊か便衣隊か西瓜泥棒か判らんやつは攻撃します」

「そうして下さい。じゃあ私は宛平県城に入りますから」   と言って二人は別れました。



宛平県城に軍使一行が入り、中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。

第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。

時に昭和12年7月8日午前5時30分

このため、交渉は打ち切りとなり、軍使は人質状態となりました。



寺平補佐官は、人質状態の間、

一旦始まった戦闘をいかにして停止させるかを考えていました。

そこで考えついたのは、永定河を挟んで兵を別けるという方法です。

日本軍を東側に、中国軍を西側にです。近くにいたら撃ち合いを始めますので、

鉄砲の弾の届かない、この位の距離が必要なのです。



これを金振中に話すと

「同感です、これが一番理想的な解決方法でしょう」   と賛成しました。

ところが   「ただ私はこの地区の警備を任されています。私が西側に行くと、

職場放棄で命令違反となります。従って私の一存では動けません」   と言ったのです。

そこで北京に行って、話しをつけることになりました。



一方、日本軍の方は、中島から反対岸まで進んでいました。

この間、日本軍が相手していたのはれっきとした中国軍です。

西瓜泥棒などではありません。

戦闘が始まったとき、宛平県城の中国兵は日本軍に向かって発砲しました。

桜井顧問が   「撃つな」   と言っても聞きません。

「仲間が殺されてるのを黙って見ておれるか」   と憤っていたのです。



それなら最初から   「外の兵は中国兵」   と認めていれば、話は簡単だったのに、

最初から認めていれば、謝罪だけで済んだものを。なぜか中国は嘘をつくのです。

そして事態をややこしくさせます。


つづく

2月13日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/29 18:30 投稿番号: [1490 / 2250]
これより先はあまりめぼしい内容はないので部分的に抜粋する。



《 二月十三日
・・・
『ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ』   から   (ラーベの切り抜き)
                         一九三八年一月三十日

  日本大使は懐疑的

ロンドン、一九三八年一月二十九日。吉田茂駐英日本大使は、本日

『デイリー・スケッチ』   のインタビューで、

中国で日本兵による言語を絶する残虐行為が行われたとの報道に

遺憾の意を表明するとともに、つぎのように付け加えた。



わが国の軍隊がかくも自制心を失い、伝統に反するとはきわめて考えにくいことである。

そのような行為は我々日本人の伝統とまったく相いれないものであり、

わが国の歴史始まって以来そのようなためしはなかった。

日本軍は非常に規律正しいのだ。》

Re: 盧溝橋事件2 軍師の派遣

投稿者: nicchukaidan 投稿日時: 2012/02/28 21:55 投稿番号: [1489 / 2250]
>>そこで、一木大隊長は桜井顧問に   「今度という今度は断固やりますよ」   というと、
>>桜井顧問は   「イヤ今度は止めやせん。ただちょっと貴方にお話しておかにゃ
>>ならん事があるんです」   と切り出しました。
>>つづく

もう続かなくていいだよ!
お前が主張していることは全てお前らが暴力を持って人の家の中に上がり込んでからの話しやろう!そこでどんなことが起きようと、どんなにお前らが切り刻まれようと、お前らにとっての正義はあり得ないね!反論できるか???
いや、お前には反論の資格なんてないね!

盧溝橋事件2 軍師の派遣

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/28 18:51 投稿番号: [1488 / 2250]
一方、特務機関のほうにも、旅団副官小野口大尉から連絡が入りました。

特務は、林耕宇やその他必要な関係者に電話します。

特務機関が慌ただしく動いているとき、小野口大尉からまた電話があり、

行方不明の兵が戻ってきたと伝えられました。

よって、 「兵の捜索」   などという話は、交渉の議題になりません。



最初は、謝罪の要求とか、中国軍の撤退要求とかの話もありましたが、

“そんなことより、まずは軍使を派遣して、中国側の代表と交渉し、

現状を打開することが先だ” という事で、寺平補佐官が行く事になりました。

他に、憲兵分隊長赤藤庄次少佐、桜井29軍顧問、中国側から林耕宇と

宛平県長王冷斉が行く事になります。



一行が出かけようとすると、連隊本部の方から

「相談したい事があるので」   立ち寄って欲しいと電話があり、行く事になりました。

森田中佐も部隊を率いて一緒にいくそうです。



この時、桜井顧問は   「城門開門の交渉をしてくるから」   と先に現地に行きました。

連隊本部では牟田口連隊長が、王冷斉に

「軍に命令できるだけの権限を与えられているのか」   と訊ねました。

それが無いことには、交渉ができないからです。

そこの所があやふやだったので市長に電話しましたが、

相手につながらず、結局あいまいなままで行くことになりました。



また一方、寺平補佐官に対しては、牟田口連隊長は森田中佐のことで

「彼は、爆弾三勇士で有名な廟行鎮突入部隊の指揮官ですが、

あの調子でジャンジャン攻撃命令を出されると、とんでもない事になる。

君がシッカリ手綱を引いてくれ」   とブレーキ役を頼みました。

  午前四時前、一行は出発しました。



  一方、現地では、午前3時25分、またも三発の銃声がしました。

現地ではやっと仮設電話が開通したので、

一木大隊長は、北京の牟田口連隊長に電話し、三度目の銃撃を報告し、

「もう反撃してもよいのではと思いますが、お許しになられますか」   と問いますと、

連隊長はしばらく考え込んでから   「よろしい。やり給え」   と答えました。



驚いたのは一木大隊長、言ってはみたものの、

まさか、断を下すとは思ってなかったからです。本当にやると責任重大だから

「本当にやってよろしいんでありますか」   と念を押すと

「やってよろしい。いま、午前4時20分。確実に僕は攻撃命令を下した」   と答えました。

これで、いつでも反撃の態勢がとれます。



一木大隊長は攻撃の許可をとった後、スッキリした気持ちで戦闘準備をしようとすると、

嫌な人間がやって来ました。桜井29軍顧問です。

彼は事態を不拡大に揉み消してしまうからです。

一木大隊長も不拡大なのですが、不拡大の意味が違っていました。

桜井顧問の方は戦闘をせずに丸め込むことが最良と考えているのですが、

作戦部隊の方は   「それでは駄目だ、中国人はガツンとやらなければ、

増長して却って悪くなる」   という考えだったのです。



そこで、一木大隊長は桜井顧問に   「今度という今度は断固やりますよ」   というと、

桜井顧問は   「イヤ今度は止めやせん。ただちょっと貴方にお話しておかにゃ

ならん事があるんです」   と切り出しました。


つづく

2月12日 ヒットラー独墺併合を強要

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/28 18:39 投稿番号: [1487 / 2250]
  1938年2月12日、オーストリア首相シュシニクは、

ヒトラーのベルヒテスガルテン山荘に呼びつけられました。

ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための要求を行います。

しかし、それはオーストリアにとって受け入れられるものではありませんでした。

戻って対策を練ります。

kir**gotowa**meよ!センズリやめろ?

投稿者: nicchukaidan 投稿日時: 2012/02/27 20:00 投稿番号: [1486 / 2250]
kir**gotowa**meよ!そろそろセンズリをやめないか?
みっともないぞ!

盧溝橋事件1 日本軍 銃撃さる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/27 18:44 投稿番号: [1485 / 2250]
これは、寺平忠輔著   『悲劇の日本   盧溝橋事件』   より一部を要約したものです。

詳細は、
「484   清水中隊の演習準備   と   堤防上の中国兵」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=484

から

「581   盧溝橋事件73   内地師団の動員は保留」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=581

までに、書いていますので、必要な方はそちらを参照してください。



1937年7月7日、日本軍は盧溝橋の原で、鉄帽もかぶらず空砲を使って演習していました。

この時、永定河の堤防の上から中国29軍の兵士が見物していました。

ところが、夕方になっても帰りません。

「まさか、あいつら俺たちを監視してるのか」   と言いながら演習を続けていました。



夜10時半ごろ、清水中隊長は   「今夜の演習終了」   を伝令に伝達に行かせました。

本当は一声怒鳴れば聞こえるのですが、夜間の隠密作戦の訓練なので、そうしているのです。

そうした所、仮設敵陣地の機関銃が突然、うなり出しました。

伝令を敵襲と勘違いしたようです。

ところがその時、突然、堤防の方から実弾が飛んできました。



危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。

そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、途端に、

トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。

「伏せっ!」、 「小隊長は直ちに人員点検!」、

殆どの小隊に異状はありませんでしたが、第一小隊だけは報告がありませんでした。

伝令に行った新兵がまだ戻ってなかったのです。

まさか、今の弾で殺されたのでは。



清水中隊長は、岩谷曹長を騎馬で豊台   (大隊の基地)   へ連絡にやりました。

ところが、その後で、行方不明の新兵が戻ってきました。



豊台で岩谷曹長の報告をうけた一木大隊長は、北京の旅団副官松山少佐に

電話しますが、少佐は河辺旅団長に随行して出張で留守でした。

そこで、こんどは牟田口連隊長に電話します。

こちらは出張から帰ってきたばかりでした。一木大隊長は、顛末を説明し

「部隊を率いて盧溝橋に行き中国側と談判したい」   と申し出、

牟田口連隊長が   「よろしい」   と答えたので一木大隊長は、岩谷曹長に  

「絶対に応戦するなと、中隊長に伝えて置け」   と伝令に戻し、

出動の準備を始めました。


つづく

2月11日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/27 18:37 投稿番号: [1484 / 2250]
《 在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録   一九三八年二月十日


(長いので、前略)


ラーベ氏にはこのうえない輝けるラストシーンが用意されていたのだから。

さあ、ラーベよ、君の栄光に満ちた物語もいよいよ幕を閉じるのだ!

ラーベ氏も同じことを感じ、南京から出るための許可を取ろうとしてはいるが、

最近またぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止すべく、

あいかわらず奔走している。



だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。

ほかに頼る相手がいなくなった暁には、中国人は手のひらを返すように

日本人と兄弟のような交わりをするのは目に見えているのだから。

第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。



ラーベ氏も含め、ここにいるドイツ人は全員、アジアの戦争というものが、

われわれの考えている戦争とは本質的に異質だということが身にしみてわかった。

捕虜にしないということは、とりもなおさず冷酷な行為につながる。

略奪などはあたりまえで、まるで三十年戦争の時代に戻ったようだ。

たしかに当地の状態は悲惨だが、

難民が安全区から出てしまえばよくなっていく見込みはある。

ごく最近、混乱を治めるため、松井大将が来ていた。



「車の遺骸」   を片づけさせている点では、天谷少将の力量も感じる。

ひっくり返ったトラックやバスなど、なかにはスクラップ化したようなものもあるが、

道ばたに転がっているあらゆる種類の車に片っ端からガソリンをかけて燃やし、

残骸を片づけている。街ではたくさんの部隊が作業し、

あたりに引っかかっている電線を取り除いてはせっせと新たな線を引いている。



というわけで、この点では状況はよくなり始めている。

紅卍字会はまだあちこちに野ざらしになっている遺体を埋葬する許可を得て、

数日前には、シュレーダー家の近くの沼からなんと百二十もの死体を引き上げた。

たった一つの沼からだ。死体の腕は針金でくくられたままだった。

ラーベはこれを目撃したという。


私はといえば、日本兵たちがその沼で飯盒   (はんごう)   に水を汲んでいくのを

一度ならず見た覚えがある。どうぞおあがり下さい!

暖かくなってきたら、最悪の事態を心配しなければならない。》

一日早い盧溝橋事件の報告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/26 15:10 投稿番号: [1483 / 2250]
寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
52〜53p


《 六日の夕六時、またしても今井武官をめぐって第二の不可解な謎が発生した。

今度は北京北城の鼓楼西   (クーローシー)、 陳子庚博士の邸においてである。

その日、博士の招待をうけた今井武官は、開宴前のひととき、

博士としばしの歓談に打ちくつろいでいた。

・・・

表の方から突然、一台の自動車があわただしく滑り込んで来た。

だれだろう、といぶかっている間もなく、ボーイが名刺を捧げて入って来た。

「ただいま石友三将軍がお見えになりました。

今井武官に緊急の用事があってお目にかかりたいと申しております」

武官は大倉洋行の林亀喜氏を通訳に石友三と話し始めた。



「突然こういう席にとび込みまして、不躾   (ぶしつけ)   の段はお許し下さい。

実はただいま、盧溝橋で中日両軍が衝突し、今、盛んに射ち合いを始めております。

私は早速部下に命じ、日本軍に対し絶対抵抗してはいかんと言い含めて参りました。

どうか日本軍も今後、私の部隊に対しては絶対攻撃行動をとられないよう、

直ちに手配をお願い致します」



武官は彼のこの言葉を怪しんだ。もしそれが事実ならば、

武官室からとっくに電話で報告が来るはずである。

「石さん、それはどこから入った情報なんです」

「これは最も確実な情報です。 絶対間違いありません。

  だから取りあえず武官を探してとんで来たんです」

周囲をはばかってか、出所をハッキリいおうとしないが、

先方がそれほど真剣になっているのを、けなしつけるのも礼ではない。



確実な情報、といったところで、どうせデマだとは思ったが、そこはさあらぬ体で

「それはご連絡有難う。日本軍は一番親日な石さんの部隊に対し、

どうこうするような考えは毛頭持っていません。その点どうぞご安心下さい」

としかるべくあしらった。

石友三は武官と一緒に、前菜、燕窩   (えんか)、 鱶   (ふか)   のひれだけを

形通り食べ終ると、あたただしく退出して行った。



その晩は何の事なく平穏に過ぎ、

石友三のもたらした情報は結局デマである事がはっきりした。

しかしそれから二十四時間の後、場所も情況も彼のいった言葉そのまま、

それが現実となって現われたのである。



今井武官は考えた   ―   石友三はあの事件に関し、

なにか事前企図を知っていたのではなかろうか?

あまりに思いつめてしまった結果、日取りを一日間違えて、

あわてて私のところにとんで来たのかもわからない。

それにしても石友三の一語は、不思議といえば不思議に予言じみた言葉であった。》


つづく

2月11日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/26 14:59 投稿番号: [1482 / 2250]
9日、10日は音楽会やラーベの上海行きの交渉なので省略


  二月十一日

《きょう、委員会の苦力、銭は歩いて故郷の村に帰っていった。

ここから三時間の道のりだ。銭の家族はまだ生きているだろうか。

無事に会えただろうか。心配でたまらない。

郊外ではまだかなり人が殺されているという話だ。



たった今、またもやこんな知らせが舞いこんできた。一人の兵士がある家に押し入った。

天谷少将によれば、その素晴らしい軍紀によってつとに名高い日本軍の兵士が、だ。

その家には母親と二人の娘が住んでいた。

娘を強姦しようとしたが抵抗され、そいつは三人を家に閉じ込めて火をつけた。

娘の一人は焼き殺され、母親は顔にひどいやけどを負った。

この件を調査しなければ。



シンバーグから聞いた話はもっとすさまじい。だが今度は中国人の話だ。

同郷の一人が隠し金を持っていると睨んだ四人の中国人が、

その男を縛り上げて火あぶりにして、金のありかをはかせたという。



とにかくここはアジアなのだ!   そう言い聞かせてはみても、こういう胸の

悪くなるような残虐な話をつぎからつぎへと聞かされると、祖国が恋しくなる。

上海から良い知らせだ。緑豆を百袋送ったとのこと。

鼓楼病院が脚気の治療にと頼んでいたものだ。



張は板を探しにいった。まだこまごました品物がたくさん残っている。

できるだけ多く送りたいので、木箱を作らせるつもりだ。

南京をふたたびこの目で見ることができるかどうかなど、誰にもわかりはしない!

カルロヴィッツ社にもう一箱空き箱があるというので、

シュペアリングがこっそり取ってきてくれるという。



  十三時

ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。

まだ荷造りが終わっていないのが残念だ。

そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。



マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。

ローゼンは、上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。

私にも一本くれることになっている。

(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。

そのうちの幾人かとは、いまわのきわに話ができた。

鼓楼病院の遺体安置所で見た人たちも写っていた。



在漢口大使館あてのシャルフェンベルク事務長の記録   一九三八年二月十日

・・・・

第一、暴行事件といっても、

すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。》



*   シャルフェンベルクが言うように、

   残虐な話もすべては中国人から一方的に聞きかされているだけ。

   シャルフェンベルクもやっと不自然さに気付き始めたようだ。

空砲演習の事前通告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/25 14:48 投稿番号: [1481 / 2250]
寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
49〜50p


《 私はつい二、三日前、やはりこの問題について当の林耕宇が、

私のところに交渉にやって来た事を思い出した。


で早速松山副官に   「その事件ですか。これはちょっと問題ですなあ。

北清事変の議定書には、実弾射撃を実施する場合には、通報する事になっていますが、

空包の場合のことは、何も規定してありません。

以来三十何年間、立派にそれでやって来たんですからねえ。

それにあの議定書というものが厳存する以上、

これを歪めるような内規をつくることは、列国軍と共同合議の上でなければ、

日本軍独自でこれを推し進める事は出来ないんじゃありませんか」



「いや、その点は私もよく考えてみたんです。

早速議定書の条項も引っ張り出して、いろいろ研究してみたんですが、

ただいまあなたのおっしゃる通りなんです。


ただ、閣下が最近の険悪な情勢を大変ご心配になりましてね、

南方の便衣隊が北京方面に入り込んで来たとか、 共産分子が裏面策動を開始したとか、

そういった情報がひんぴんとしてあがってくるものですから、

万一にも日本軍の演習が、中国側の誤解を招くような事になって、

そのため事件でも引き起したら、それこそ申し訳ない事になってしまう、

といっておられるのです。



そこでこういった通報を、永久に継続する意志はありません。

ここしばらく、こうした空気が鎮静するまでの間、臨時の弁法として

いわばまあ好意的に、彼等の要求を通してやったらどんなものか、

とこういうご意見なんです」



「閣下がご心配になるのもごもっともですなあ。

この問題については、一応松井機関長とも相談してみないとわかりませんが、

私はこれが前例になる事を深く怖れるのです」



「ところが実際問題として、豊台部隊は早速もう、

この九日と十日に盧溝橋付近で中期の検閲が行なわれるのです。

これにはもちろん空包を使わなければなりませんし、

同時に夜間演習も行なわれるのです。

またこの検閲を準備するために、六日と七日は二晩続けて、

やはり同じ場所で演習をやります。


しかも閣下は明日、山海関部隊の検閲を視察するため南大寺 (ナンタースー) に

出張されますので、もし中国側に通報するとすれば、

どうでも今晩中に書類をこしらえてしまわなければならないのです」



「じゃあこうなさったらいかがです。今回に限り、特に好意的にこれを通報する。

決して恒例的性質のものじゃない。だから将来これを前例と心得ないようにと、

その点、但し書きか何かで強調しておかれたらいかがでしょう」

「どうも林耕宇が余りしつっこくいって来るもんですからねえ。

まあそういったような事にでもして、今度だけは一つ通報しておいてやりましょう」



こういった経緯を経て、七月六日、七日、九日、十日の四日間、

日本軍が盧溝橋の原で、昼夜空包を使って演習するという通告が、

その晩の中に中国側に通達された。》



*   このように日本軍の空砲使用の演習は事前に通告されました。

2月10日 松井大将に解任通告届く

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/25 14:34 投稿番号: [1480 / 2250]
早瀬利之著   『将軍の真実   南京事件   松井石根人物伝』
181〜182


二月十日・・・この日は東京から最後通達とも言うべき使者が司令部にやってくる。

使者は、中支那派遣軍司令部編成要領と人事の書類を持参していた。

松井はこの書類を見て驚いた。

新司令官に畑俊六、参謀長に川辺正三少将とある。

離任は二月二十一日。

謎の宛平城 実弾射撃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/24 18:59 投稿番号: [1479 / 2250]
寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊


51〜52p

《 馮治安が、今度河北省政府のある保定に、新たに外賓招待所というのをこしらえて、

どういう風の吹き回しか、陸軍武官今井武夫少佐に、迎賓ナンバーワンの招請状を

発してきた。

七月三日、武官は馮治安と列車を共にして保定に向った。



車中、馮治安は


「このごろ宛平城の北面の壁めがけて、夜間しきりに機関銃の射撃をする者があって

困るんです。それが空包じゃなくって実弾なんです。

一応日本側でも、豊台の部隊あたりを調べてみて下さいませんか?」   と申し出た。

「そりゃ初耳です。どういう理由か知らないが、一応調べるだけは調べてみましょう」



翌四日、武官はそれを旅団次級副官の小野口大尉に照会した。

副官は早速豊台部隊に連絡し、各中隊隈   (くま)   なく調べたがそんな事実は全くない。

そこで五日朝、その事が武官に報告され、武官から馮治安あてに回答が発せられた。

日本軍が好き好んで夜中に宛平城を射撃するなど常識としても考えられないし、

ことに実弾使用という事になると、日本軍では射耗報告がやかましいので、

そんなでたらめな射撃は出来るはずがない。》



*   3日に馮治安が、こういう事を言い、

   翌4日、林耕宇が旅団の方に、

   空砲の演習でも事前通告してくれと申しこみます。



48p〜49p

《「特務機関ですか、私、旅団副官の松山少佐です。

寺平補佐官を電話口までお願いします」   七月四日のもう日暮れ時である。

明日、軍に提出しなければならない冀察情報月報に筆を入れていた私は、

早速ペンを投じて電話にかかった。

・・・

「・・・   時に今日はですねえ。ちょっと面倒な事をご相談するんですが……

実は昨日、河辺閣下のお伴をして中国側の宴会に行ったんです。

そしたら例の外交専員の林耕宇がですねえ。

今後日本軍が空包を使って演習する場合、とりわけ夜間演習の時には、

必ず中国側にあらかじめ通告して欲しいというんです。・・・」》


つづく

2月7〜8日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/24 18:52 投稿番号: [1478 / 2250]
二月七日

《 軍服など、道路にばらまかれていた兵士の持ち物をうずたかく積み上げて

燃やしたあと、日本軍はやはり道路に置き放しになっている壊れた車に火を放った。

むろん、使える部品をあらかじめそっくり取り出しておいてからの話だ。



許さんが知らせてきたのだが、

なんでも蓮沼の近くで、明け方に中国人が四人、日本兵に射殺されたとか。

一人の老人が、家の近くに自分の力車を隠しておき、

取りにいったときの出来事だという。

老人は射殺された。女の人が一人、それから親戚の男の人が二人、

助けようと駆けよったところ、同様に撃たれてしまった。


(中略)


行ってみると野原に男女三名の死体がころがっていた。三つともぴったりくっついている。

およそ十メートルほど離れたところに老人の死体があった。

竹竿に板をつけた間に合わせの担架がその間に放り出されていた。

女の人によばれ、結局は殺されてしまったふたりは、

これで老人を運ぶつもりだったのだ。またしても貧民が犠牲になった。

この老人は百姓で小さな畑をもっており、すでに畑を耕していた。

すぐそばに粘土でつくったみすぼらしい小屋があり、なかはからっぽだった。



殺された女の人は十ドルほど身につけていたはずだという。娘は言った。

「それが母の全財産でした」。

けれども見あたらなかった。ミルズも私も深くショックを受けた。

殺したうえ、持ち物まであらためるのか…。

あまりのことに涙も見せず、ただ繰り返しおじぎばかりしている娘に、

私は十ドル握らせた。これで、少なくとも金だけは戻る。

帰るまえに、妹のほうはそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。



  二月八日

(前略)

それからローゼン、スマイス、シュペアリング、私、自治委員会のジミーの

五人で百子亭へいった。四つの死体は近くの小さな丘に葬られることになっており、

すでに筵 (むしろ) にくるまれていた。

ジミーは、近所の中国人を探し出して事情を聞いた。



それによると老人は自分の力車を取りに来たといっていたが、

実際は、椅子を二つ、藁 (わら) 小屋から自分の家へ運ぼうとしたのだという。

椅子はどこからか盗んできたのか、安く買ったかしたのだろう。

そしてそれを日本兵に見とがめられ、発砲されたのだという。

老人は重傷を負って倒れ、妻 (あるいは姉妹か?) が親戚の男を二人呼んで

駆けつけ、運ぼうとしたところ、そろって殺されてしまったのだ。



*   7日と8日とでは、証言が異なっている。

   こういう、いい加減な証言での訴えは、まともな国では、認められないだろう。

   力車でも椅子でもいいが、そんなものを運んでいる老人を

   何で日本兵が射殺しなければならないのか?

   そんな理由で殺していたら、

   市街地で露店を開いている者は全員射殺しなければならなくなる。

   言っている事の内容が不自然だという事になぜ気付かないのだろう?

Re: 入って中国人に南京事件真相議論しまし

投稿者: ikemori2you 投稿日時: 2012/02/24 16:16 投稿番号: [1477 / 2250]
名古屋市長は、真実を調べようと言っただけなのに、中国の狂人のような対応では、あなたの言うように「一緒に真相を探して、議論」はできない。なぜなら30万人はうそだから。用南京造成大虐殺,以他方决定天安門都没有事的中国

戦争前の不穏な状態

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/23 18:55 投稿番号: [1476 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫
381〜383p


《 だが、この年の会議は異質であった。

これまでと同様に軍の夏期訓練もおこなわれるが、

今回は   「政治学校訓導班」 「中央軍事機関各庁長」 「各軍校教育長」

「機械化部隊各隊長」   が招集された。



また、国民政府の各院長、行政院各部長をはじめ政府主要機関の幹部もあつめられ、

各大学、専門学校の教授、中学校長、ジャーナリスト、民間団体の有力者など

約四千五百人も参集して、 「救国談話会」   をひらく。

蒋介石は、会議の要目を国防、政治、経済、教育の四つにしぼり、

訓練の目標を   「組織管理能力」   の向上と   「精神力」   の強化においた。



だが、この時期に   「全支の人材総動員!」   と   『東京朝日新聞』   も嘆声をあげた

ほどの大会議を招集するのは、たんなる軍官民の研修のためだけではないはずである。

一般にも、この会議は、 「招集各党各派及各軍商議救国方案」   という

「西安事変」   いらいの共産党側の要求にこたえたもの、と理解されていた。

つまりは、抗日戦にそなえての 〝国家統一会議〟 の性格をもつものであろう。

この   「廬山会議」   の予定会期が、七月十五日から八月十五日である。

その会期末までに綏遠省の防禦工事を完成せよ   −   と、蒋介石は指示する。


米参事官ペック風に推理すれば、あるいは   「廬山会議」   で

対日宣戦が決議されるのでもあろうか……。



―   北京では、

いぜんとして、夜間特別警戒が施行されていた。

警戒措置は、前述したように、 「青年学生的便衣隊」   の 〝暴発計画〟 にあわせて

実施されたが、その最終予定日の六月二十八日がすぎても解除されなかったのである。

「青年学生的便衣隊」   事件については、なにも公表されていない。

そこで、連夜の警戒態勢に応じて、ますます不穏な噂が乱れとぶことになったが、

その多くは、日本人の   「使嗾」   または   「参加」   による暴動、兵変を予告するものであった。

北京駐在武官補佐官今井武夫少佐は、不審と不安を感じた。



とくに少佐の神経が刺戟   (しげき)   されたのは、警戒措置の責任者が

〝反日派〟 で知られる第三十七師長馮治安であることであった。

少佐には、警戒措置の理由は不明である。

日本人が関係するという暴動の噂のためか、とも思うが、その噂が無根であることは

少佐自身が承知しているし、その種の噂はこれまでにも少くなかった。

そんな噂を根拠にして警戒態勢がとられるとは、思えない。



豊台の日本軍の演習は、近づく第二期検閲   (七月九日〜十六日)   にそなえて、

六月二十五日から強化された。北京の夜間警戒措置は、その翌日から施行された。

では、警戒は日本軍の演習にたいするものなのか   −   といえば、これもおかしい。

日本軍の駐留は、明治三十四年   (一九〇一年)   の   「北清事変ニ関スル議定書」

によって、英、米、フランス、イタリヤ各国とともに認められたもので、

駐留地での演習も公認されたものだからである。



すると、北京をふくむ河北省の軍事、政治両面の最高責任者である宋哲元が

不在中に、あえて第三十七師長馮治安が警戒態勢を実施するのは、なぜか……。》


つづく

2月7日 2回目の慰霊祭

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/23 18:47 投稿番号: [1475 / 2250]
板倉由明著   『本当はこうだった南京事件』   299〜302p


《 十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭 (十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる)。

松井日記は次のように記す。



「嚢   (さき)   ノモノハ   戦勝ノ誇ト気分ニテ

寧   (むし)   ロ忠霊ニ対シ   悲哀ノ情少カリシモ、

今日ハ只々悲哀其   (その)   物ニ   捉   (とら)   ハレ   責任感ノ太ク胸中ニ   迫ルヲ覚エタリ。

蓋   (けだ)   シ   南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト   ソノ後地方自治、

政権工作等ノ   進捗   (しんちょく)   セサルニ起因スルモノナリ。

仍   (よっ)   テ 式後参集諸隊長ヲ集メ   予ノコノ所感ヲ披露シテ

一般ノ戒飭   (かいちょく)   ヲ促セリ。」



この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。

国際委員会公文書、上村   (利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)   日記にも

記されているが、飯沼日記によればその内容は

「南京入城ノ時ハ 誇ラシキ気持ニテ 其翌日ノ慰霊祭又其気分ナリシモ

本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。 其レハ此   (この)   五十日間ニ幾多ノ

忌   (いま)   ハシキ事件ヲ起シ、戦没将兵ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナリ。

何ヲ以テ此英霊ニ見   (まみ)   へンヤ」という趣旨であった。》



松本重治著   『上海時代・下』   248〜249p

・・・
《 私は、心に   「松井さん、よくやったなあ」   と叫び、深堀中佐を顧みて、

「日本軍の暴行、残虐は、今、世界に知らされているんだ。

何とかして松井大将の訓戒のニューズを世界に撒きたいのだ。

ぜひとも報導部長の同意を得たい」   と頼むと、深堀中佐は、

「松本君、僕は大賛成だ。だが、今すぐ方面軍の参謀からOKをとってくるから、

ちょっと待っていてくれ」   という。



二十分ほどすると、深堀中佐が戻ってきて、

「参謀は、あまり賛成しないといっている」 というので、私は、

「深堀中佐、このニューズの打電を許可してくれれば、報導部長として、

日本のための最大の貢献になるのですよ。これを許可しないというほうが

報導部長の責任になるのだと考えられないですか」   と詰め寄る。



深掘中佐は、しばし考えていたが、

「松本君、君の考え方が正しい。参謀が何といおうとかまわない。

自分は報導部長の責任において、ニューズの発表、打電を許可する」

「すごい。ありがとう。虐殺、暴行の噂は、少なからず聞いてはいたが、

松井大将の話を聞いてみると、現実に、ずいぶんわるいことをやったらしい

ではありませんか。日本軍の名誉回復の一助としたいのです。

ぜひこの電報をやりましょうや」 「松本君、やってくれ」。

私は、深掘中佐の手をとって、握手をした。》



*   結局、松井大将も松本重治氏も善人であるため、

   中国人や外国人の宣伝に影響されてしまっているようですね。

中国の対日戦準備

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:52 投稿番号: [1474 / 2250]
児島襄著 『日中戦争3』 文春文庫
379〜381p


《 日本は戦争を望んでいないと判断され、

その判断は、川越声明で裏書きされたといえる。

蒋介石は、六月三十日、これまでの措置が 「皆有相当之成就也」 と

満足の意を日誌に記述し、翌日、七月一日には、


「中国応具必戦之決心而後可以免戦、必如是乃得達成不戦而収復失地之目的」


と、こんごの方針を定めた。

戦争の決意と準備をしてこそ、戦争も回避できるし、

戦わずに失地回復の目的も達成できる、といった趣意である。

日本に 「戦意」 がないと見定め、逆に中国側の 「戦意」 と武備の誇示によって

日本の譲歩をさそおうとする方策でもあろうか……。



では、蒋介石は、いつまでに対日戦備をととのえようとするのか。

既述したように、蒋介石は二月には   「三年ないし五年」   を予定し、

ソ連の五カ年計画、ドイツの四カ年計画の研究も指示している。

日本の参謀本部が   「一九四〇年」   をメドに対ソ戦備の充実を企図している如く、

蒋介石もほぼ同時期を対日戦備の完成期に想定していたのであろうか。



いやもっと早く、日本側の 「戦意」 と戦備不足に乗じて対日宣戦をする   ―

と推理したのが、米大使館参事官W・ペックであった。

参事官ペックは、蒋介石が   「必戦之決心」   方針をさだめた七月一日、

外交部長王寵恵と会談した。



王部長は、ソ連との経済交渉が頓挫している旨を語り、

対日関係についても率直に次のように述べた。

「日本政府は、当分、新たな侵略行動には出ないと思う。

その間に、中国政府は、国益を守るには武力に依存せねばならぬことを考え、

自衛力の増強のために全力をあげる。



とくに十一月十二日の国民大会までは、(日本との)武力衝突がないことを願っている。

陝西省北部の共産軍の一部は、すでに提案を受諾しているが、

政府は、有事のさいの 『有力な武器』 としての共産軍の維持につとめている」

参事官ペックは、この王部長の発言から、

中国は、日本側の準備未熟の機会をとらえて、

「おそらく十一月の国民大会で対日宣戦をする」   ものと、予測したのである。



蒋介石は、訪米中の財政部長孔祥煕にたいして   「十年以上」   の延払いで建設機材、

発電機械および   「煉鋼廠」「人工煉油廠」「機関車頭製造廠」「造船廠」

「飛機製造廠」   などのプラント輸出、また軌道千キロ分、機関車百輌の売却を

米政府にもとめるよう指示したが、七月二日、綏遠省主席傳作義に次のように急電している。

「指示関於綏東綏北各区工事、務於八月十五日以前全部完成、

切望厳督各部、星夜カン築、勿誤」



なぜ、なにがなんでも 「八月十五日」 までに完工させねばならないのか。

この日付けで連想できるのは、いわゆる 「廬山会議」 である。》


つづく

2月6日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/22 18:40 投稿番号: [1473 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告
のつづき


《 また少将が   「ある国家」   にアメリカをも含めたとしても事情は変わりません。

アメリカ人はドイツ人とともに密接に提携して共に行動してきました。

ドイツ人がしたことはすべてアメリカ人も加わり、無条件に承認したのです。

ドイツ人とアメリカ人が敢然と間に立つことがなかったら、

日本軍の殺戮は著しく増加していたと思われます。

ですから、日本は外国人に心から感謝して当然なのです。



日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。

国内でふだんこっそりやれていたことが、

当地では細かな点まであらいざらい明るみに出てしまったのですから。


ところがこれはつぎのような論理で片づけられてしまいました。

すなわち、日本が無秩序な中国に光明と秩序をもたらしたため、

国民は喜びのあまりじっとしていられないのだ、と。



しかし事実はこうです。我々外国人の予想に反して、

日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、

中国人民は非の打ち所のない規律を示し、



比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。

一方日本軍のほうは、南京がとっくに平穏な兵站基地になったあとも、

人を殺し、強姦し、街を焼きはらい、あらゆるものを、

ドイツ人はじめほかの外国人の所有物をも襲ったのです。



ラジオのニュースによりますと、ドイツの外交政策の転換により、

日本は自国の中国政策が追認されるのではないかと大きな望みをかけている模様です。

けれどもその際、日本はあることを見逃しております。

つまり、ほかならぬ防共協定の創案者   (ヒトラーのこと)   が、

日本によるこの高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。



漢口との郵便連絡がうまくいきません。よって、この報告書を外務省に直接提出します。

                                     ローゼン



*   《 日本側が腹を立てるのはわからぬわけではありません。

   国内でふだんこっそりやれていたことが、当地では細かな点まで

   あらいざらい明るみに出てしまったのですから。》


   妄想も、ここまで来るとどうしようもありません。

   日本国内では、略奪も虐殺もないのですけど。

   小規模な、犯罪ならありますが。



*   《 日々繰り返される空襲や市街戦に苦しめられながらも、

   中国人民は非の打ち所のない規律を示し、》


   地震の時の市民の動きを見比べれば一目瞭然。

   日本人の方がはるかに非の打ち所のない規律を示しています。

   無理して、中国人を美化しようと努めていますね。



*   《 比較的重要でないことがらをのぞけば外国の国旗を尊重したのです。》


   大正2年の第一次南京事件の時は、

   日本国旗を掲げているにもかかわらず、日本人が殺されました。

   上海戦では、中国軍が外国旗を掲げて、日本軍を攻撃しました。

   どこが尊重なのでしょう?



*   《 ほかならぬ防共協定の創案者   (ヒトラーのこと)   が、日本による

   この高尚な理念の濫用に対して若干もの申すかもしれないということを。》


   ローゼンはヒトラーを美化して見ていますね。

   六日後の12日には、オーストリア併合へ向けて動き出すのに。

   かつヒトラーは、ユダヤ人虐殺をし始めるから、ユダヤ人のローゼンは

   ドイツに帰るとガス室送りになるかもしれないのに。

事件を企む怪しい学生達

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:47 投稿番号: [1472 / 2250]
児島襄著   『日中戦争3』   文春文庫   376〜378p


《   −   六月二十三日、

通州方面から中国服姿の若者が三々五々といった形で、次々に北京市内にはいってきた。

似たような雰囲気の青年たちで、どうやら二、三百人のグループであるらしい。

巡警が数人に不審訊問をこころみると、いずれも大学生だとこたえた。

ただし、大学はそれぞれにちがい、

燕京大学、清華大学、東北大学、輔仁大学などの名をあげた。



そして、その主張どおりに、青年たちは以上の大学付近にむかい、

民家にはいったり、街をぶらついたりしていた。

どうも、おかしい   −   というので、報告をうけた北京市長秦徳純は、

公安局長陳継淹に調査を命じた。

公安局長が二、三人を連行して取調べすると、その一人が不穏な計画を自供した。



「われわれは大学生だが、共産主義者ということになっている」

六月二十六、二十七、二十八日のうち、風向きの良い夜をえらび、

西直門付近で放火、暴動を起し、 「打倒宋哲元」 「歓迎紅軍北上」   を

市民に呼びかける計画だ、という。



当人が自白したアジトを捜索すると、拳銃、機関銃、赤旗、宣伝ビラ

その他の証拠品が発見された。

公安局は、ただちに   「不穏青年」   たちの検挙を開始し、

北京市内に潜入した大部を捕え、一部は逃亡した。



以上   −   は、中国紙   『港報』   がつたえる事件の概要である。
・・・
暴動計画の実行日とみられる六月二十六日から、

北京市内には夜間特別警戒が施行された。

事件は極秘にされ、特別警戒の理由も公表されなかったので、

かえって流言と蜚語の勢いを増した。

だが、 「青年学生的便衣隊」   のほとんどが事前に逮捕されたためか、

暴発の予定日と告白された二十六、二十七、二十八日は、いずれも無事にすぎた。



その翌日、六月二十九日、駐支大使川越茂が帰任し、上海で記者会見をおこない、

日中両国の親善を強調したが、とくに次のように言明した。

「日本の発展と中国の発展とにより、あるいは摩擦を生ずることも考えられるが、

日本は戦争を欲しておらず、中国もまた同じであろうと信ずる」

日本は戦争を欲せず   ―   という、この川越声明は、中国側に歓迎され、

蒋介石にも安堵感をあたえた。



蒋介石は、それまでに、あるいはドイツにたいして

「軽戦車百二十輌、十五センチ加農   (カノン)   砲八門」   の追加注文をおこない、

米国に経済援助をもとめ、さらには山東省主席韓復腧と青島市長沈鴻烈に

防備を促進するよう指示していた。》


つづく

2月6日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/21 18:39 投稿番号: [1471 / 2250]
《 ドイツ大使館南京分館からのローゼンの報告


今月の五日に、日本大使館におきましてティーパーティーが催されました。

新しく任命された日本の駐屯部隊司令官天谷直次郎少将が、

当地の在外公館のメンバーを招待したのです。

かなり長いこと待たされた後、我々は席に着くようすすめられました。

少将は長ったらしいスピーチを読み上げ、

それを福田書記官がつっかえながら英語に訳しました。


(内容省略)


天谷少将の挨拶に話を戻しますと、

さしあたってつぎのような結論が引き出されましょう。



つまり、中国軍の抵抗により日本軍はかなり動揺したということです。

ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、

ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、

愛国心の強い日本人には自明の理だと思うのですが。



ところが、際限なくのぼせ上がった日本人は

けっしてこの事実に目を向けようとはしませんでした。

およそ二年前、満州国の外交部次長であり、

日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。

中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と。



将校、いやそれどころか参謀本部についても

天谷少将が不安を感じたという事実は、中国進軍について、

日本がまったく別のイメージを抱いていたことを如実に物語っています。



南京住民が日本人を受け入れなかった理由を

外国人のせいにしようとする天谷少将の試みは的はずれとしか申せません。

なにより、南京に残っている外国人が、リーダーとして同盟国であるドイツの人間、

しかもナチ党員であるジョン・ラーベ氏をすえたことを考えれば、それは明らかです。》


報告はまだつづく



*   「ある民族が、積年の苦しみと絶え間ない屈辱の果てに、

   ついに侵入者に反旗を翻すということぐらい、・・・自明の理だと思うのですが」


   この言葉、今の中国人に言って欲しいけど、言っても蛙の面に小便。

   中国人以外の誰にも理解できない理屈でもって

   チベットやウイグルへの侵略を正当化しています。


*   日中戦争の最高責任者の一人である大橋忠一氏は豪語したものです。


   彼が、日中戦争の最高責任者の一人とは、聞いたことがない。

   今のところ、大事な場面には出てきていない。


*   中国の主力軍など、日本の二師団もあればわけなくおさえられるだろう、と


   大橋氏がどう思ったか知らないが、参謀本部の石原第一部長も、

   上海派遣軍の松井軍司令官も、そうはそう思っていなかった。


   単なる、部外者の妄言をとりあげているに過ぎない。

戦争を望む中国と望まない日本2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:56 投稿番号: [1470 / 2250]
戦争を望まない日本


中国では、下の者が対日戦争を要求していましたが、日本側は


寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
47p


「七夕様の晩に華北で第二の柳条満車件が起る」   という謡言は、

私はじめ現地で耳にした者はない。

それがどういうものか、遥か海を越えた東京三宅坂あたりに、

ある程度の迫真力をもって伝えられていったという事実がある。



これが参謀本部の作戦部長石原莞爾少将に考えさせるものがあった。

早速陸軍省軍務局長後宮   (うしろく)   淳   (じゅん)   少将とも相談し、

軍事課の高級課員岡本清福中佐を現地に派し、

華北の情勢を仔細に検討させることになった。



出発に当って石原少将は

「現地の若い連中が、何かエラく勢込んでいる風評がある。

とんでもない事だ。バカげた事件でも起すといかん。

至急現地に行って、それらの芽生えを摘み取って来てくれ」   といった。



岡本中佐は華北にとんだ。そして山海関   (さんかいかん)、 ラン州、

唐山、天津等現地部隊の情況を逐次打診した。

橋本参謀長と言い池田純久経済参謀と言い、

時局に対してはいたって冷静であり慎重である。

和知機関にせよ茂川機関にせよ極めて神妙であって、

軽挙妄動するような気配は微塵だにも感ぜられない。



引き続き北京を訪れた岡本中佐は、同期の木原義雄大隊長を交えて、

河辺旅団長のもとで懇談した。旅団長は語った。

「現地軍の思潮、これには何ら憂慮すべき点はない。ことに私の隷下部隊に関する限り、

厳に軽挙妄動を戒め、慎重の上にも慎重を期するよう徹底させてある。

この事は安心して内地に復命してくれ給え」》


つづく

2月5日 ラーベの日記2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/20 18:49 投稿番号: [1469 / 2250]
《 クリスティアン・クレーガーよりラーベへの手紙一九三八年一月二十八日   於上海


《 親愛なるラーベ先生!

ようやく人心地がつきました。 けっこうきつい旅でしたが、まず、

グログ酒   (ラム酒に砂糖を入れ、お湯で割ったもの)   を立て続けにひっかけ、

それから温かい湯につかって内と外の両側から暖まりました。

それから、今週はひさしぶりに人間とつきあいました。

きちんと服を着た、平和的な人々とです。   南京のように獣とではなく、ね。



・・・

常州   (武進)   までは、あたりの風景も荒涼たるものでしたが、

ここを過ぎると一変しました。畑にはお百姓の姿も見えました。

耕しているのです。さすがの   「掃討」   もここまでは及ばなかったようです。

けれども略奪のほうはどこでも同じように行われています。



途中の駅でも、兵士が大きな荷物をかかえて乗りこんできました。

将校さえ、ぶんどってきたものを部下にひっぱらせていました。

ほかにはあまり見るべきものはありませんでした。

道路はあまり安全ではなく、とくに夜は危険だという話です。

それでも、自分の車でくるほうがずっと良かったのですが。



今日、ラーベさんの奥さんにお目にかかりました。

とても心配なさってました。ラーベさんも、遅くとも一カ月後には

こちらにきてドイツへ向かわれた方がいいと思いますよ。

プロープスト氏ともゆっくり話しました。ぼくの話を熱心に聞いてくれました。

仕事の上でいまラーベさんが必要だというわけではないと思います。

そうではなく、交代させて休暇で里帰りさせようというのです。



その資格は十分すぎるほどなんですから。

交代に一人送るといってますが、むだだと思いますがね。

あそこじゃだれがいってもつとまらないでしょうし、

これから先、かなり長い間商売にならないですから。

というわけで、まず、おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。

ひれ伏して助けを求めるでしょうが、それよりなにより、もう一度外気を吸わなければ。

奥さんのこと、それからラーベさん自身の健康を気づかう方が先決です。



もう一つ別の提案があります。ぼくの事務所にはクルップのディーゼル車が

あるんですが、これはカルロヴィッツ社のものです。

いずれ、ディーゼル車を運転できる人間はいなくなります。

どっちにしてもハッツはこの車で上海に来たがっていました。

ですからぼちぼち荷造りを始めて、ハッツに運んでもらってください。

三月半ばまでは大丈夫だと思います。



ラーベさんの気持ちもわかりますが、ここはひとつ、思いきって肚を決めてください。

奥さんのことも考えてあげないと。

さもないと、日本軍にくっついて、そちらまで押しかけかねませんよ。

ラーベさんのためなら、なんでもなさるんじゃないんでしょうか。

クレーガー》



*   「おたくの難民を家に帰すことに精を出して下さい。

   ひれ伏して助けを求めるでしょうが、」


   南京に居た時と違って、クレーガーの態度が変化していますね。

   全体の文面を見ても、日本軍に強制されて言わされているようには見えません。

   上海に行ってから、南京の不自然さに、気付いたのかも知れません。

戦争を望む中国と望まない日本1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:35 投稿番号: [1468 / 2250]
戦争を望む中国


寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊
38p


《 四月三日の朝、北寧鉄道の沿線、落垈   (ラオファー)   の西方で、

日本の軍用電線が八間隔にわたって切断された。

この場所は私の着任前、一月十八日にも五間隔ばかり切断された前例もあり、

かたがた、軍参謀長は四月八日、河北省政府主席馮治安に対し、

犯人の逮捕、・・・、以上四項目を要求した。


彼は、これに対してなんらの回答もしてこない。

そのうち五月三日、落垈   (ラオファー)   の同一地点で、

またもや八間隔の切断事件が報告されてきた。

・・・


39p

六月五日黎明   (れいめい)、 またもや同一場所で五間隔が切断されたのである。

さすがに温厚な松井機関長も業を煮やした。


44p

  南苑の第三十八師・・・。

一日司令部で将校の兵棋戦術が統裁され、団を単位とする防禦戦闘が研究題目になった。

その時若い将校が一人、席を蹴って起ち上がった。

「統裁官、我々は防禦の研究はもう沢山です。

それよりもっと大切な、奇襲攻撃を指導して下さい。

・・・我々はすべからく、

こちらから逆九・一八を仕掛けるくらいの決意があってしかるべきです」



その意気当るべからざるものがあった。

統裁官はこれをなだめ   「意見はなるほどもっともである。

しかし今日の研究課題は防禦戦闘という事になっているのだから…‥」

「いや豊台を奇襲することは焦眉の急です。

今晩もし、日本側から奇襲を仕掛けて来たら我我はいったいどうなってしまいます」

「統裁官、私も豊台即時襲撃論に賛成です。逆九・一八をやらなくちゃだめです」


つづく

2月5日 ラーベの日記1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/19 15:27 投稿番号: [1467 / 2250]
二月五日

《 金陵大学付属中学からの手紙   (省略)



十四時十五分

またもや中国機が上空を飛んでいる。

とにかく飛行機に中国の印がついていることだけはたしかだ。

パイロットがどこの国の人間かはわからない。

ロシア人でないといいが。ロシア人だとすると、

ハーケンクロイツの旗を掲げてもあまり効きめはないだろうから。



収容所を二月八日に閉鎖するという新たな指令が出た。

大混乱になり、いっこうにおさまらない。これまでに、約三分の一が出ていった。

残ったのは大半が女の人だ。ここから出ていきたくないのだ。

今日、鼓楼病院から連絡があった。脚気の患者が二人運ばれてきたという。

米飯だけのかたよった食事ではふしぎはない。

上海に   「薬を送れ」   と電報を打つことにした。



*   「パイロットが・・・ロシア人でないといいが」


   ソ連は中国軍の上海攻撃の後、 「 中ソ不侵略条約 」   を結び、

   大量の飛行機やパイロットを中国に送りました。



田中正明著   『 東京裁判とは何か 』   267p


《 この時期ソ連は、

「 日華戦争開始後は、この戦争をできるだけ長引かせることに全力をつくした 」

とダリン   ( David J. Dallin )   はその著   『 ソ連と極東 』   の中で

次のように述べている。



「 ソ連の対華援助は、西安事件後の秘密条項を含む不可侵条約によって、

直ちに飛行機四、五百機と同数の操縦士および教官を送り、

ソ連士官が中国軍に配備された。

チェレバノフ将軍を長とする軍事使節団は、中国に滞在していた。

三八年から四〇年までの間に、ソ連は中国に三億ドルの借款を与えて、

戦車、飛行機その他の軍需品を中国に送った 」》



とあります。

そして戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   310〜311p にも



《 八月二十一日、南京で、ソ連のボゴモロフ駐支大使との間で、

「 中ソ不侵略条約 」   を締結調印・・・

注二

《・・・ソ連は三七年、三八年、三九年の三回にわたって総額二億五千万ドル

( 約九億円 )   のクレジットを中国に提供し、これにより購入された兵器は、

飛行機八〇〇機以上、弾薬、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などであった。

航空義勇兵約二〇〇人、軍事顧問は、最多時期において八一名が中国内で活躍した。

このほか中共軍に対する直接軍事援助も行われた。》



とあります。

ソ連も早くから、非公式に日本と戦争をしていたのです。

共産党の策動5 コミンテルンの指令2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:50 投稿番号: [1466 / 2250]
《 ソ連のコミンテルンは、日中全面戦争を仕掛けるためのプランを作成し、

その実行を、中国共産党に命じました。



  その内容は

一、あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。

二、右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく局地解決

  (例えば北支を分離せしめることに依って戦争を回避するの類)

   日本への譲歩に依って支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。

三、下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして

   戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。



四、党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。

   日本を援助せんとする第三国に対してはボイコットを以て威嚇する必要がある。

五、紅軍は国民政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。

六、党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、

   国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。


というものです。》

(「盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令」   昭和14年10月興亜院政務部資料)



寺平忠輔著   『日本の悲劇   盧溝橋事件』   読売新聞社刊   40〜41p


《 西苑の兵営は、・・・、今では完全に侮日抗日の巣窟と化し、・・・

中共北方局の主任劉少奇あたりも、学生の軍事訓練に便乗してこの方面に

顔を出し、盛んに抗日をアジっていたという情報が入っている。》


46

《 このころ、京津の地には、随分様々な謡言が乱れとんでいた。


「日本軍は近く華北で事を起し、

これを機会に第二の満州国をデッチ上げる計画を持っている」

とか、

「日本軍は戦略要衝盧溝橋に基盤を築き、北寧   (ほくねい)、 京漢両鉄道を

支配下に置くべく、目下隠密裡に工作を進めている」

とか、こうした巧妙な謡言は、相当の知識人でさえ   「あるいは?」   と

考えさせられる深刻味と迫力を持っていた。



そこで我々としては、このような流言蜚語が、いったいどこから出て来たかを

探索したかった。北京憲兵分隊長赤藤   (しゃくどう)   庄次少佐は

「私共は今、極力それを探らせています。

しかし流言というやつは読んで字の通りで、

なかなかその実態が掴   (つか)   めるものじゃありません。



ここ一、二ケ月の間というもの、我々は毎日毎日、まるで流言に翻弄されてるみたいで、

全く搾   (しめ)   木にでもかけられているような、実にイヤな感じです。

ただ、いえる事は、流言を漂わす者は学生層に多いという事です。

また学生といえば、どうも西苑の軍事訓練あたりから出ているんじゃないかと

思われる節があることです。

そうなると延 (ひ) いて、共産の策動じゃないかとも考えられます。》



*   様々な謡言

   こんなものは、いま、この日本でも、渡来してきた工作員によって、

   あちこちの掲示板に書き込まれている。

   昔の日本人はまじめだから、騙され混乱させられただろうが、

   今の日本人には、簡単には撹乱されない者もいるだろう。

2月5日 日本 ドイツに抗議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/18 16:31 投稿番号: [1465 / 2250]
中国軍の背後にドイツがいて、軍事指導をし、武器を与えていたので、

いつまでたっても戦争が終わりません、

そこで日本は、ドイツに抗議し、武器輸出の停止を求めました。



阿羅健一著   『日中戦争はドイツが仕組んだ』   小学館
234


《 二月五日、広田外務大臣は改めてディルクセン駐日大使に武器輸出の停止を迫った。》

共産党の策動4 コミンテルンの指令1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/17 19:03 投稿番号: [1464 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   60〜62p


《一九三六年五月一六日、リャザノフスキーという名のコミンテルン天津代表が、

コミンテルン上海本部の出した次の指令を実行するために北京へ赴いた。



「一、天津のヤチェイカ   (共産党細胞)   は、共産主義者を通じて

   北京〜天津地域の学生たちの間に、

   日本軍の北支守備隊の増加と日本の密輸活動に関する暴露運動を行い、

   反日感情をかき立てなければならない。


二、夏休みの間に学生たちを動員して農村へ行かせ、

   農民たちの間に反日感情を広めるために講義   を行わせること。

三、反日運動とボイコットを同時に行うこと。

   ボイコットを実施するためには密輸問題を取り上げて、

   北支で出回っている日本製品は全て密輸品であると言わねばならない。

   こうすれば、日本製品に対する反感が広範囲にわたって引き起こされるだろう。

   同時に、日本製品を買う者に対して南京政府は罰則を用意している、という

   声明を出すことによって、日本製品の購入を阻止するよう努めること」



一九三六年三月、陝西省の省都の西安で蒋介石が張学良と揚虎城によって

捕らえられ投獄されると言う悲喜劇のニュースが世界を襲った。

ここで今一度思い起こしていただきたいのであるが、蒋介石を捕らえた側の

一人である張学良は、かつて反日的な満洲の支配者であった。

彼は満洲の日本企業を破壊しようと計画したために日本の激怒をかって、

一九三一年満洲から追放される羽目になってしまった。



その後彼はパリへ行ってそこで二年間歓楽の生活を送り、

かつて彼が支配していた人々から略奪した数百万ドルのお金を浪費した。

一九三四年、この放蕩息子は上海へ戻ってきた。

それから間もなく蒋介石総統は張学良を 「平定委員」 に任命した。

その任務は河南省と山西省の共産主義者を征服することであった。



日本が特殊権益を持っていた北支に向かって着実に進撃しつつあった共産党軍を

「平定」 する任務に、蒋介石がこの日本嫌いの男を選んだのは単なる偶然の一致で

あったのか?   あるいはまたそれは慎重に考え抜かれた上での計画であったのか?

この日本嫌いのかつての満洲支配者が   「平定司令官」   に任命されるや否や、

彼は共産主義者と接触し始め、彼らの真の敵は蒋介石ではなく日本なのだと説いて回った。

共産主義者と戦おうとしないで、張学良は

彼らを日本と対抗するための自分の野望の道具にしようとしたのである。



彼は何とかして日本に恨みを晴らそうと固く決心していた。

実際、張学良はヨーロッパ滞在中にモスクワと接触を持っていたことが分かっている。

中国へ帰国後、彼が中国にいるソ連の工作員と親密な関係にあったことは間違いない。

南京の蒋介石総統はこれを全て知っていたにもかかわらず、張学良をそのポストに任命した。

そしてそのことは張学良を中国人の共産主義者たちと直接接触させることになったのである。

彼らは自分たちの共産主義をカモフラージュする目的で、「日本打倒」 と

「 日本に対する戦争」 を自分たちのスローガンにしていた。》


つづく

2月2日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/17 18:54 投稿番号: [1463 / 2250]
  二月二日

《 韓の調べによると、うちの難民は総勢六百人、百三十五家族だという。

そのうち、二十四家族は家を焼かれ、帰るところがない。

昨日、泣きながら出ていった人もいた。

だれも日本軍を信頼していない。あたりまえだ。

ふたつの収容所の報告から、まだ安全でないことがよくわかった。



昨日、本間少将到着。

南京の混乱を鎮めるため、日本政府から全権をあたえられているそうだ。

ここには二日しかいないというが、それで足りるのだろうか。

ローゼンは、一月三十日付けの私の手紙をもとに、難民がどんなに因っているかを

詳しく説明した結果、あまり本間には期待できないだろうという意見だ。



今日、上海日本大使館の日高信六郎参事官と、ローゼン宅で昼食。

我々が記録した日本兵の強姦をはじめとする暴行はこの三日間だけでも

なんと八十八件もある。これはこの種のものとしては、

今まででいちばんひどかった十二月を上回っている。



報告書を渡すと、日高氏はまったく困ったものだとつぶやいて、

部隊が交代するときには往々にしてこういう事件が起きがちだといいわけした。

「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、

撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」

この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、

いま報告されている事件が実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。



難民が二月四日に力ずくで追い立てられるというのは本当かと聞くと、

自分が知る限りでは、ぜったいにそんなことはないと日高氏はいった。

「それに、二月四日以前に収容所を出れば、

もとの家に戻るにあたって多少補償があるはずです。

つまり、家が焼けている場合は別の家を与えられることになっています。

いままでにもう、八万人以上が戻るといってきましたよ」



私は念を押した。「近いうちに我々も収容所を解散したいと考えています。

ですからなおのこと、いくども難民に家へ帰るようすすめました。

けれどもそのためには、一にも二にも安全であることが条件になります」

日高氏は、強制執行しないということは中国人には黙っていてくれといった。

すんなりいかないと困るというのだ。私は約束した。



漢口のトラウトマン大使から、孔祥煕国民政府行政院長が、

私あてに委員会への謝意を伝えてよこしたといってきた。

これを、公式に委員会に伝えることにしよう。》



*   〉「前の部隊は評判が悪く、一月二十八日に離任させられたんですが、

   撤退前にもう一度けしからぬふるまいに及んだという話です」

   この事の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は、いま報告されている事件が

   実は新しい部隊のしわざだという証拠をつかんでいる。〈



   しかし、もう、南京攻略時からの兵は一人もいない。

   それなのに、南京の状態は、全く同じ。

   ラーベ達は、日本兵全員が犯罪者と見ているが、

   犯人は日本兵ではなく、南京にいる別の者という発想はできないのだろうか。

   犯人が日本兵以外の者だったら、

   日本軍に抗議しても、兵を入れ替えても何も変わらないだろう。

共産党の策動3 コミンテルンの決議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:53 投稿番号: [1462 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   59〜60p


《 一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、

ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。



「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。

しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、

中国民族の国家的存続は危機にさらされている。

現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、

中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、

さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。



それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。

すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された

中国内に現存する全ての軍隊と組織をまとめることによって、

日本及び中国人の裏切り者に対する広範囲の統一反帝国主義戦線を

打ち立てようという提案を。



数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、

我々は心からの熱列な挨拶を送る。

そして我々は中国人民に次のことを保証する。

すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国と

その中国人の傀儡の支配から中国国民を解放する戦いにおいて、

我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」



この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。

中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、

帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。

この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫

(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという

考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。



ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。

帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、

帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地及び半植民地の人民に対して

援助の手を差し伸べなければならない」》


つづく

1月30日 天野中尉軍法会議に送致

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:46 投稿番号: [1461 / 2250]
アリソン事件の続き

飯沼守日記

◇一月三十日   曇

  天野中尉以下十二名軍法会議に送致。

(『南京戦史資料集』   P244)



*   天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、

   女性を連行・強姦した様にされてしまいました。

   事情を知らない外国人達の訴えで、

   日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを得なくなったようです。


   しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。

   「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」

   「これは氷山の一角に過ぎない。   これで、お茶を濁す気か。」

   と言われるだけですから。


   現在、日本の   「善人でありたいと願う」   人達が、一生懸命譲歩して、

   中韓様のご機嫌をとっても、

   次から次へと難癖をつけられ   「反省が足らない」   と言われているように。

共産党の策動2 五・三〇事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:41 投稿番号: [1460 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    54〜55p


《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。

その年の五月三〇日、数万の中国人学生が、

日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで混成法廷

(外国人の裁判官に監督された中国人の法廷) から有罪宣告を受けた

五人の学生に同情して、街路を行進した。



これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。

彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。

彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。

彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、

国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。



この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、

上海警察に押収された。

この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、

モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが

完全に証明された。》



*   この二年後に、第二次南京事件 (No.1291〜1348で書いた) が起こります。

   これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、この流れから行くと

   多分そうかも知れません。

夏淑琴事件の疑問点

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:36 投稿番号: [1459 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。

ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。



「1月29日のラーベの日記」   では、

「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」

となっていました。



これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは   「1月の15日」   かと思えますが、

仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。

少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?

死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。



また、ラーベの日記では、 「親族は十一人」   となっているのに、

case 219では   「a family 十三人のうち十一人が殺され」   と変化し、

『南京難民区の百日』   では   「十三名を殺害した」   となっています。

戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしょうが、

これは事件からそう月日の経たない時の証言です。



そして、事件は13日、場所は東南部です。

ここは激戦地区です。城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで

来ていました。殆どの人が、安全区に避難しているのに、

この家族だけ、なぜ、そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?



ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、

いきなり   「マアを拳銃で殺した」   となっています。

しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。

将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、

弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。

だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などという事は基本的にあり得ない事です。



次に、

「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。」

とありますが、南京は断水していたはずです。

おまけに、 「兵士たちthe soldiersは毎日この家に物を取るためやって来た」

とあります。

日本兵が一番必要としたのは食糧です。

彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?


ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。

二人の少女は、 「シーツの下に隠れて発見されなかった」   と言いますが、

兵隊が気づかぬ筈はありません。

そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。


それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、

水も14日は持たないから   「米をふかす」   など無理では?

おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。

証言通りの残忍な日本兵なら、すぐ殺されたでしょう。



その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・

「許伝音の証言」   などで、証言が、それぞれ異なっています。

どれが、本当なのでしょう?

共産党の策動2 五・三〇事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:53 投稿番号: [1458 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫


90p

《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、

二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。

中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、

合理化によって利潤の増大をはかろうとした。

と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、

管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。



こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、

四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。

五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、

ストライキ中の労働者と工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者

顧正紅が射殺されたほか、中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。

これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ

反日運動に発展していった。



五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、

共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。

これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、

死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。



93p

この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。

一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、全上海にゼネストを指令した。

学生・労働者のほかに、民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。

闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、

香港の労働者もこれに足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。



上海のゼネストは、八月末まで続いた。

中国側の発表によれば、この闘いに参加した労働者・学生・農民は、

少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》



*   労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。


つづく

共産党の策動3 コミンテルンの決議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:53 投稿番号: [1462 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』(原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社   59〜60p


《 一九三五年八月モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会で演説したとき、

ディミートロフは中国における日本の帝国主義を非難して次のように言った。



「中国では人民運動を通して広大な地域がソビエト化され、強力な紅軍が組織された。

しかし日本帝国主義の獰猛な侵略と南京政府の裏切り行為によって、

中国民族の国家的存続は危機にさらされている。

現時点において中国のソビエト地区のみが全ての反帝国主義勢力のための結集点となり、

中国を奴隷化し分割しようとする帝国主義列強諸国の野望と戦うことが出来、

さらに民族紛争に苦しんでいる中国人を助けることが出来る。



それ故我々は満場一致で中国共産党の次の提案を支持する。

すなわち、国土の保全と人民解放のために戦うべく準備された

中国内に現存する全ての軍隊と組織をまとめることによって、

日本及び中国人の裏切り者に対する広範囲の統一反帝国主義戦線を

打ち立てようという提案を。



数多くの戦いの試練を経てきた英雄的な中国紅軍に対して、

我々は心からの熱列な挨拶を送る。

そして我々は中国人民に次のことを保証する。

すなわち、全ての帝国主義的で獰猛な列強諸国と

その中国人の傀儡の支配から中国国民を解放する戦いにおいて、

我々は彼らを援助する決心がしっかり固まっているのであると」



この見解に従って、コミンテルンの会議は次の決議を採択した。

中国においては、ソビエト運動の拡大と紅軍の戦闘力の確立は、

帝国主義に対する全国規模の人民運動としての統一計画と調和させなければならない。

この運動はそのスローガンとして、これは帝国主義的圧迫

(とりわけ日本帝国主義とその中国人傀儡) に対する戦いであるという

考え方を掲げることによって、最もうまく行われるだろう。



ソビエト地区は、解放戦争を戦っている全中国人民の結集点とならねばならない。

帝国主義諸国のプロレタリアの人々は、

帝国主義の侵略者に対して戦っている植民地及び半植民地の人民に対して

援助の手を差し伸べなければならない」》


つづく

1月30日 天野中尉軍法会議に送致

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/16 18:46 投稿番号: [1461 / 2250]
アリソン事件の続き

飯沼守日記

◇一月三十日   曇

  天野中尉以下十二名軍法会議に送致。

(『南京戦史資料集』   P244)



*   天野中尉らは売春婦を買っただけなのに、狡猾な中国人の讒言により、

   女性を連行・強姦した様にされてしまいました。

   事情を知らない外国人達の訴えで、

   日本軍も立場上軍法会議に掛けざるを得なくなったようです。


   しかし、日本が善意で譲歩しても、それは逆効果しかもたらさないでしょう。

   「本当に悪い事をしたから裁かれたのだ。」

   「これは氷山の一角に過ぎない。   これで、お茶を濁す気か。」

   と言われるだけですから。


   現在、日本の   「善人でありたいと願う」   人達が、一生懸命譲歩して、

   中韓様のご機嫌をとっても、

   次から次へと難癖をつけられ   「反省が足らない」   と言われているように。

共産党の策動2 五・三〇事件2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:41 投稿番号: [1460 / 2250]
K・カール・カワカミ著   『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    54〜55p


《 …事件が一九二五年、上海の国際租界区域で起こった。

その年の五月三〇日、数万の中国人学生が、

日本の綿糸工場での労働争議に関連した暴動行為のかどで混成法廷

(外国人の裁判官に監督された中国人の法廷) から有罪宣告を受けた

五人の学生に同情して、街路を行進した。



これに続いて、一五万六千人の中国人労働者を含む全市規模のストライキが起こった。

彼らを煽動した最大の指導者は陳独秀であった。

彼はモスクワで教育を受けた中国共産党員で、今なお著名な指導者である。

彼の背後にはチェルカソフというソ連の宣伝工作活動の専門家が控えていて、

国際租界区域のソ連領事館に事務所を構えていた。



この宣伝活動家が北京駐在のソ連大使カラハンにあてて書いた報告書が、

上海警察に押収された。

この文書によって、綿糸工場の労働争議とそれに続くデモ、ストライキは、

モスクワのコミンテルンが出した命令に従って前もって準備されていたことが

完全に証明された。》



*   この二年後に、第二次南京事件 (No.1291〜1348で書いた) が起こります。

   これを仕掛けたのは共産党と言われていますが、この流れから行くと

   多分そうかも知れません。

夏淑琴事件の疑問点

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/15 18:36 投稿番号: [1459 / 2250]
マギーが聞いた所の話が事実なら悲惨なことです。

ただ、この話には、不審な点がいくつかあります。



「1月29日のラーベの日記」   では、

「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。

親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。

近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいた」

となっていました。



これだけを読めば、少女の家族が殺されたのは   「1月の15日」   かと思えますが、

仔細に話をうかがうと12月13日なのですね。

少女らを発見して、どうして一カ月以上も報告しなかったのでしょうか?

死体も何もかも片づけて、一カ月も経った後から見に行っても、よく判らないでしょう。



また、ラーベの日記では、 「親族は十一人」   となっているのに、

case 219では   「a family 十三人のうち十一人が殺され」   と変化し、

『南京難民区の百日』   では   「十三名を殺害した」   となっています。

戦後60年過ぎての証言なら、ボケて勘違いと言う事もあるでしょうが、

これは事件からそう月日の経たない時の証言です。



そして、事件は13日、場所は東南部です。

ここは激戦地区です。城門の外では戦闘があり、大砲の弾が城内に飛び込んで

来ていました。殆どの人が、安全区に避難しているのに、

この家族だけ、なぜ、そんな危険な所に留まっていたのでしょうか?



ドイツ大使館公文書綴によると、日本兵はドアを開けさせ、

いきなり   「マアを拳銃で殺した」   となっています。

しかしながらが、日本の陸軍歩兵は拳銃を持っていません。

将校は持っていますが、これは軍支給ではなく自前ですので、

弾薬の補給ができませんから、むやみには撃てません。

だから、非武装の市民を拳銃で撃つ、などという事は基本的にあり得ない事です。



次に、

「この子はここに十四日間居残った。この二人の子供はふかした米を食べて生きた。」

とありますが、南京は断水していたはずです。

おまけに、 「兵士たちthe soldiersは毎日この家に物を取るためやって来た」

とあります。

日本兵が一番必要としたのは食糧です。

彼らは毎日、物を取りにやってきていながら、どうして米に気づかなかったのでしょうか?


ドイツ人の店など荒らされて、食糧が奪われたと、ラーベは言っていました。

二人の少女は、 「シーツの下に隠れて発見されなかった」   と言いますが、

兵隊が気づかぬ筈はありません。

そんな間抜けだったら、彼らはとっくにゲリラに殺されています。


それは、いいとしても、日本兵は食糧を全部持って行くだろうし、

水も14日は持たないから   「米をふかす」   など無理では?

おまけに火を焚けば、日本兵に見つかります。

証言通りの残忍な日本兵なら、すぐ殺されたでしょう。



その他にも、『南京への道』・「マギーの遺言」・「来日での証言」・

「許伝音の証言」   などで、証言が、それぞれ異なっています。

どれが、本当なのでしょう?

共産党の策動2 五・三〇事件1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/02/14 18:53 投稿番号: [1458 / 2250]
『魔都上海十万の日本人』   NHK取材班編   角川文庫


90p

《 一九二五年、五・三〇運動の全国的な展開が上海から始まる。運動の発端は、

二月以来、上海の在華紡にひろがった待遇改善と組合承認を求める労働運動にあった。

中国の民族資本による繊維産業の追いあげを受けて、日本など外国の繊維企業は、

合理化によって利潤の増大をはかろうとした。

と同時に、勢力の拡大をつづける共産党へのおそれから、

管理・締めつけをいちだんと強化し、組合つぶしに本格的に乗りだした。



こうした状況のもとで、一九二五年二月、上海の紡績工場でストライキが続発し、

四月に入ると、青島の日本資本の紡績工場にも飛び火した。

五月十五日、さきに紹介した上海の内外綿第七工場で、

ストライキ中の労働者と工場側の警備員とが真正面から衝突し、共産党員の労働者

顧正紅が射殺されたほか、中国人労働者十数名が重軽傷を負うという事件が起こった。

これに抗議する運動は、たちまち学生・知識人・労働者をまきこむ

反日運動に発展していった。



五月三十日、共産党は千人の学生・労働者を動員して、上海の歴史上はじめて、

共同租界の内部で大規模な抗議のデモを繰りひろげた。

これに対して、共同租界のイギリスの警察隊は、デモ隊に向けて一斉射撃を浴びせ、

死者十三人、重傷者数十人という大惨事に発展した。これが、五・三〇事件である。



93p

この虐殺事件は、上海はもとより、全中国に憤激の嵐を巻き起こした。

一日おいて六月一日、共産党は帝国主義打倒をスローガンに、全上海にゼネストを指令した。

学生・労働者のほかに、民族資本家・商店主も参加し、空前の規模の闘争に発展した。

闘いの渦は、広州・北京・漢口など大陸全体に広まり、

香港の労働者もこれに足並みをそろえ、各地の租界で衝突事件が続発した。



上海のゼネストは、八月末まで続いた。

中国側の発表によれば、この闘いに参加した労働者・学生・農民は、

少なく見積もっても全国で一千七百万人余りにのぼったという。》



*   労働者顧正紅が警備員に射殺されましたが、この警備員はインド人の様です。


つづく
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