入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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1月15日 和平交渉打切り決定

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/08 15:02 投稿番号: [1376 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   273 〜274p


《 政府側は、この二度目の休憩時間を利用して、多田中将の説得工作を推進した。

まず陸相秘書官山本茂一郎中佐、ついで陸軍省軍務局長町尻量基少将が、

参謀本部総務部長中島鉄蔵少将をたずね、このまま多田中将ががんばりつづければ

内閣は総辞職せざるを得ない、と指摘して、中将を説得するよう頼んだ。



中島少将は次長室にむかい、多田中将は、

第二部長本間雅晴少将、第二課長河辺大佐もまねいて、相談した。

河辺大佐は、中島少将にたいする陸軍省側のアプローチは、

政府側の 〝威嚇〟 ではないかと、うたがった。


ここで内閣総辞職となれば、強硬論をはいた政府が統帥部の消極論に

おしきられたことになる。そうなれば、国内世論は統帥部を批判するだろう。

辞職、辞職というのは、そうなってもいいのかとの意をこめて、

おどしているのではないのか。



「いや、そうではないらしいな」

  参謀次長多田中将は、会議の次第を回想しつつ、渋い表情で語った。

「近衛   (首相)   は本当に嫌になっているらしい。

なにかきっかけをつくって罷   (や)   めたいらしい。

外務大臣は、やめることにきめた、と、いっていたなァ」


そりゃ、まずい、と中島少将が即応し、

結局、このさい政府と統帥部との対立がおおやけになるのは

「頗   (すこぶ)   る不適当」   である、政府に一任する、との結論に達した。

この参謀本部の 〝屈服〟 または譲歩を得て、大本営政府連絡会議は、

午後七時三十分に三たび開催され、蒋介石政府との和平交渉打ち切りを議決した。



   ―   だが、

参謀本部第二課戦争指導班の高嶋中佐、堀場少佐は、なおも

〝抵抗〟 をあきらめなかった。二人は、次長多田中将から譲歩した旨を聞くと、

統帥部が天皇に直属している憲法上の規定   (統帥権独立)   を   「妙用」

すべきだ、と主張した。


参謀総長閑院宮と軍令部総長伏見宮から、本日の会議の決定に不同意である、

ただ内閣崩壊をさけるために政府に一任した、と天皇に上奏する。

そうすれば、天皇から政府にたいして再考をもとめられるか、

あるいは御前会議召集が指示されるであろう……。



   ―   しかし、

この参謀本部の 〝巻き返し工作〟 は、効果を発揮しなかった。

次長多田中将は、高嶋中佐と堀場少佐の主張に同意して、

参謀総長の上奏文を作案させるとともに、軍令部次長古賀中将にも連絡し、

軍令部総長も同様の上奏をするよう、うちあわせた。


だが、午後九時四十分の首相上奏につづき、午後九時二十分に参謀総長閑院宮、

午後十時五分に軍令部総長伏見宮の上奏がおこなわれたが、

参謀本部が期待するような天皇の意見は表明されなかった。

参謀総長は予定どおりに政府決定に反対である旨を述べたが、軍令部総長は、

次長同士のうちあわせとは逆に、政府に同意する見解を上奏したからである。


参謀本部は、文字どおりに   「孤立無援」   の立場にたち、

それ以上の 〝抵抗〟 は断念せざるを得なかった。》

国共内戦における中国の暴虐2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/07 14:26 投稿番号: [1375 / 2250]
児島襄著   『日中戦争2』   文春文庫38〜39p


《 七月二十七日   ―

午後四時ごろ、第十五師と第十九師の一団は長沙市内を通過して西南方の

益陽方面に走り、主席何鍵をはじめ要人とその家族も逃散した

「共匪軍」   は、まだ城外に位置していたが、糟谷領事は午後八時、

在留邦人全員に   『海軍倶楽部』   への避難を命じた。



その避難がおこなわれはじめた午後九時ごろ、突然、

省政府建設庁の前に機関銃がすえられた。

発砲と同時に建設庁に火の手があがり、その発火を合図のように、

街には、半裸体の肩に弾帯をかけ、小銃をにぎった   「共匪」   がとびだした。

難民として潜入していた   「紅軍」   便衣隊の蜂起である。

銃声がひびき、官庁は次々に襲撃され、 「紅軍」   便衣隊につづいて、

市内の無頼漢たちが槍をかかえて横行し、民家、商店を掠奪しはじめた。



長沙暴動の開幕   ―   である。

午後十時すぎ、市の北端に位置する小呉門から、約千五百人の   「紅軍」   が

市内に進み、刑務所、公安局などを焼きはらった。

刑務所の場合、女性記者A・スメドレーによれば、約五百人の囚人を釈放したあと、

建物に放火し、外壁はダイナマイトで粉砕した、という。


「紅軍」   は、労働者、窮民の参加を呼びかけ、

主席何鍵の邸宅をはじめ銀行、富商宅などを襲撃させた。

火炎が夜空をなめ、銃声と叫声が市内に満ち、市民たちはあるいは逃げまどい、

あるいは屋内にひそみ、混乱と恐怖が長沙を支配した。



40〜41p

七月二十八日   −

夜明け前に、長沙市を五分割して各地区委員会が設けられ、

「労働者義勇軍」 「赤衛軍」   も組織された。

労働者、貧困階級者、そして毛沢東がいう   「ルンペン」、 ヤクザ者などをふくみ、

いずれも腕、首に赤布をまきつけて、 「家から家をまわり、商人、地主、

役人を狩り出した」   と、記者スメドレーは記述する。



「紅軍第三軍団」   主力は、正午までに長沙市内に入城した。

すかさず、 「まるで魔法のように 」   と記者スメドレーが形容するように、

街中の壁に宣伝ビラがはられた。

「ソヴィエト政府成立」「帝国主義的財産ノ没収」「大企業、銀行、交通機関ノ管理」

「友邦ソヴィエト・ロシヤト提携」「各官衙   (かんが)   機関ノ破壊」「農工兵ノ解放」

「閻錫山、蒋介石等軍閥ノ打倒」「不平等条約ノ取消シ」「租界回収」……。


註   :   官衙 (かんが)   とは役所の事


つづく

1月15日 大本営政府連絡会議 午後の部

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/07 14:02 投稿番号: [1374 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   271〜272p


《 会議は、午後三時に再開されたが、閑院官と伏見官の両総長は出席しなかった。

午前中の会議では、二人の皇族がいたのでいくぶん遠慮もあったらしいが、

皇族不在となると、政府側の論調は、がぜん激化した。

参謀次長多田中将が、午前中と同様に、 「即断」   はさけて、

右か左かの確答を中国側からひきだすべきだ、と主張すると、



「期限マデ返電無キハ、 和平ノ誠意無キ証左ナリ。

蒋介石ヲ   (交渉の)   相手ニセズ、 (蒋が)   屈服スルマデ作戦スベシ」

陸相杉山大将が、そう反論したのにつづいて、広田外相も語気をつよめて反駁した。

「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、 支那側ノ応酬ブリハ   和平解決ノ誠意ナキコト

明瞭ナリ。 参謀次長ハ外務大臣ヲ   信用セザルカ」



首相近衛文麿は、カン高い声で、論戦に終止符をうつ形で発言した。

「速   (すみやか)   ニ和平交渉ヲ打切り、 我ガ態度ヲ   明瞭ナラシムルヲ要ス」

しかし、それでも参謀次長多田中将は自説をまげず、

軍令部次長古賀中将も、多田中将を支持する発言をこころみた。

海相米内大将は、不満をあらわにした表情で、その古賀中将の発言を制止して、

「政府ハ外務大臣ヲ信頼ス。 統帥部ガ外務大臣ヲ信用セヌハ、

同時ニ政府不信任ナリ。 政府ハ辞職ノ外ナシ」



一説には、米内海相のこのときの発言は、

「かくなる上は、参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」

というものだった、といわれるが、いずれにせよ、辞職を口走ったことは

間違いなく、とたんに、多田中将の反撥をさそった。

「明治大帝ハ朕ニ辞職ナシト宣 (のたま) ヘリ。

国家重大ノ時期ニ政府ノ辞職云々ハ、 何事ゾヤ」

中将は、双眼を涙でうるませて強調した。

が、政府側は譲らず、中将も譲歩せず、会議は再び休憩となった。》



*   広田外相の   「永キ外交官生活ノ経験ニ照シ、支那側ノ応酬ブリハ

   和平解決ノ誠意ナキコト明瞭ナリ。」   との洞察は正しい。

   1月1日   に蒋介石は、〝和平派〟   の交通部長愈飛鵬、教育部長王世杰を解任し

   1月2日には、王寵恵部長に   「応即厳詞拒絶」 (断乎として拒絶せよ)   と命令し

   1月3日には、国民政府は、 「否認将派代表赴南京與日方講和」(日本側との

   和平交渉のために代表を南京に派遣することは、認めない)   と決定している。


*   ここでは、軍部が和平を求め、文民が和平交渉打ち切りを主張するという、

   世間常識とは逆の状態が出現している。

   世間では、軍部が戦争を起こし、政府が止められなかったかのように

   言われているが、事実は逆。

   しかし、多田中将がいかに和平を求めようとしても、

   中国にその気がなければ、無理だろう。


つづく

国共内戦における中国の暴虐1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/06 18:48 投稿番号: [1373 / 2250]
中国では国民党軍や他の軍閥・そして民衆が、略奪や暴虐の限りを

尽くしましたが共産党もまた同じでした。



児島襄著   『日中戦争2』   文春文庫
28〜29p

《「共産土賊軍」 は、実際には、一九二七年いらい湖南・江西省境の井岡山で

毛沢東ら共産党指導者が育成していた   「工農紅軍」   の一部・・・

・・・

『東京朝日新聞』   も、大冶に進入した   「紅軍」   を   「土賊軍」   の俗称で呼び、

その状態を次のように報道している。



「(六月)   十三日午後七時四十分、赤地に黄のギザギザを施した

例の旗を立てた土賊軍の一部が、大冶に入った。

彼ら土賊軍は十二日朝、大冶県城を占領すると同時に、お手のものの大掠奪を試み、

監獄を破壊して囚人を解放する等、遺憾なく暴れまわった。

すでにこの報道を得ていたので、土賊軍が大冶に迫ったころには、

内外人は全部避難してガラ空きになっていた。



無産階級の擁護を宣伝しつつ、鉄鉱並に石炭会社に各二十万元、

セメント会社にも二十万元を要求している。

邦人住宅は無事なるも、支那民家の掠奪され人質となったものも多い……」

兵力はわずかに約二千人、また   「土賊軍」   の呼称をあたえられるほどに

装備もおとっているが、ともかくも   「紅軍」   は、すでにその接近だけで

一都市をガラ空きにさせるほどの   「威勢」 (?)   を具備していたことが、うかがえる。


33 p

いわゆる   「共匪軍」、正確には   「紅軍第三軍団」(彭徳懐)   は、

いつしか大冶をはなれて南下し、長沙をめざしていた。

長沙は、既述したように、広西軍がひきあげたあと、

中央軍も撤退してほぼ   「ガラ空き」になっていた。


36 p

七月二十五日、 「共匪軍」   は長沙東北方約四十二キロに接近した。

長沙には、百十五人の日本人居留民がいる。

領事糟谷廉二は、その夜、在留邦人にたいして警戒と避難準備を指示しておき、

翌日、七月二十六日、主席何鍵を訪ねて情報をもとめた。


37 p

長沙市内には、 「赤から逃げてきた」   と称して、

大荷物をかついだ難民がしきりに流入していた。

実際には、この難民の多くは   「紅軍」   便衣隊であり、

その荷物の中には武器もひそませていて、

いずれもかねて指示されたアジトに潜伏、あるいは武器をかくして待機した。》


つづく

1月15日 大本営政府連絡会議 午前の部

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/06 18:42 投稿番号: [1372 / 2250]
この大本営政府連絡会議では、

文民である政府が、和平交渉打ち切りを提唱し、

軍部である参謀本部が和平交渉の継続を主張します。



児島襄著   『日中戦争4』   270〜271p


《 大本営政府連絡会議は、

一月十五日、午前九時三十分すぎから首相官邸でひらかれたが、

次長多田中将は、参謀本部を出発するとき、決然たる口調で言明した。

「本日ノ会議ハ必ズ   決定ヲ保留セシムベシ」

そして、この言葉どおりに、会議での中将の   「奮闘」   はめざましかった。



政府側は、すでに   「交渉打ち切り」   を決定しているので、経緯を説明して、

陸海軍統帥部の同意をもとめた。

参謀総長閑院宮載仁元帥は、中国側が条件細目の提示を要求しているのだから、

それを知らせてやって期限付き回答をもとめてはどうか、と述べた。

次長多田中将は、中国側の口上書には交渉打ち切りは

明言されていないではないか、と指摘して、



「この回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである」

駐日・中国大使許世英を通じて中国側の   「真意」   をたしかめることも、

こころみる価値があろう。

とにかく、 「僅   (わず)   カノ期日」   をあらそい、

それだけで   「前途暗澹   (あんたん)   タル長期戦ニ移行」   するのは

あまりに危険であり、承服できない、と多田中将は、強調した。



海軍側の軍令部総長伏見宮博恭元帥、次長古賀峯一中将も、

参謀本部側に同調する意見を述べた。



政府側は、しかし、陸相杉山元大将、海相米内光政大将も、

もはや交渉は無用である、と主張しつづけた。

なんとなく、政府対大本営のほかに、省部   (陸海軍省と参謀本部、軍令部)   の対立も

加味された形となり、会議は、午前十一時四十分、昼食のための休憩にはいった。



多田中将が参謀本部に帰ると、第二課長河辺大佐と戦争指導班の高嶋辰彦中佐、

掘場一雄少佐らが、次長室をたずねた。

中将は、会議の模様と自身の決意を語り、堀場少佐は、記述している。

「(次長は)   最後迄   初志ヲ固執スル旨意志表示アリ。 戦争指導班安堵ス」》


つづく

昭和3年5月 中国の反日教育

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/05 18:58 投稿番号: [1371 / 2250]
K・カール・カワカミ著 『シナ大陸の真相   1931〜1938』 (原題 Japan in China )
訳者   福井雄三    展転社    121〜122p


《 幼稚園から大学に至るまであらゆる教育機関が、

日本に対する敵意を幼児や若者の心に注入するために利用された。


これは国民党が蒋介石の指導の下に一九二七年南京に政府を樹立した時、

とりわけ顕著になった。

一九二八年五月、南京の国民教育会議は次の決議を採択した。



「一、国家の屈辱に関する豊富な資料を、中学校及び小学校の教科書に載せること。

  二、我らの国家的屈辱に関する事実を宣伝し、どの国が中国の最大の敵であるかを

   国民に印象づけるために、あらゆる機会を用いて学校を利用すること。

  三、国家の屈辱を描いている地図と絵を用いること。そしてあらゆる機会を

   利用して生徒の注意をそれらに向けさせること。

  四、中国の最大の敵を打倒できる方法を、教師と生徒は共に学ぶこと」



この計画の中にある中国の   「最大の敵」   とは日本を意味していた。

この計画が採択される以前においてさえも、

幼稚園の本には次のような言葉が載っていた。

「日本は敵国だ!   日本は中国から澎湖諸島と台湾を奪い、遼東半島を奪った。

日本は侵略国だ。国民政府は、日本の侵略を阻止し

これらの領土を取り返すことを目的とする政府だ」


これと同じ話はあらゆる学校や大学の教科書で、別の言葉で繰り返し述べられている。

実際問題として、中国は澎湖諸島にはっきりとした名称を付けたことは

それまで一度も無かったのである。》



*   澎湖諸島と台湾は満州族の国・清国から割譲されたのであって、

   所有者でもなかった中国人にとやかく言われる筋合いはない。

   清国以前の中国はこれらを領有していなかった。

   満洲人の王朝清国が初めて領有した。

   中国の理屈は泥棒の理屈。



120p

《 一九二八年六月、南京政府の資金援助を受けた反日連盟国民大会は次の宣言を発表した。

「我々の反日運動の目的は、日本との経済断交を引き起こすことによって

彼らを打倒することである。

その余波はやがては他の全ての帝国主義国家に及ぶだろう。

その最終目的は全ての不平等条約を取り消すことにある」



一九二九年八月までに、政府の資金援助を受けた   「不平等条約撤廃連盟」   は、

日本商品を扱っている中国人の商人を直接処罰することによって、

反日ボイコットを公然と強行した。これは日本との外交上の紛糾を引き起こした。



日本の抗議をかわすために国民政府は一九二九年八月、

そのような公然たる直接の行動を停止した。その代わりに国民政府は

「あらゆる地域の商人連盟   (政治的な協会ではない)   は、

祖国を外国の経済的侵略から扱うために自ら責任を負うべし」   という命令を出した。

国民政府は   「個々の商人による日本商品の取引の全ての事件を調査し

かつ適切に処分しないような商人連盟は処罰の対象になる」

という訓辞を掲げた。この指令は当然の事ながら秘密に流された。》



*   済南事件の最中もしくは直後にこんな決議や宣言をしている。

   自分達の悪逆非道を棚に上げ、被害者の日本を悪者に仕立てている。

1月14日 ベイツの報告

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/05 18:43 投稿番号: [1370 / 2250]
松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   展転社 164p


《 南京アメリカ大使館員のアリソン宛に、ベイツから一月十四日付で出された手紙がある。


〈 昨夜四人の日本人が金陵大学付属中学校の教室へ入ってきました。

彼らの行動の詳細は十分には分かりません。

というのはしかるべき目撃者が脅えきっているためです。

とにかく彼らは一人の少女を連れ去りました。それらの日本人たちは憲兵で、

少なくともその一部は、中学校の門に配備された衛兵たちでした。

彼らは中国人の布靴を履き、一部に中国服を着ていました。


(中略)


この手紙の執筆は、漢口路一九号のアメリカ人の家から

(家にはアメリカ国旗が掲げられ、アメリカ側と日本側の布告文が門に貼ってあります)

憲兵   (特務機関から支給された憲兵の腕章をしている兵隊)   を追い出すために

三〇分間中断されました。 その憲兵は塀を越えて入り、

大学教師と大学病院のブラディ   (Brady)   博士の個人的財産を略奪しようと、

一時間にわたって物色しまわっていたのです。



その家は、上記の   (引用者註・小粉橋三二号)   日本軍の地区事務所から

およそ二五〇ヤード   (約二二九メートルのところにあります。)〉 (①155〜156頁)



一連の事件を支那人が起こしているとの噂に対して   「馬鹿か狂人」   と表現した

外国人グループのリーダー格だったベイツは、ここに書かれている犯人達の服装を、

支那人に変装した日本兵のものと断定してはばからない。》



注:   ①は青木書店刊   『南京事件資料集』   のアメリカ関係資料編



*   中国人の布靴を履き、中国服を着ているのを目撃しながら、

   ベイツは、飽くまでも、犯人を日本軍にしなければ、気が済まないようです。

   尤も、彼も、後に真相に気づくようになりますが。



167p

《 三月二十一日、ベイツからティンパレーに出した手紙の中に次のような一節がある。

資料名 「E八八 − 一〇〇」 についての注意である。


〈もし、その資料を使う場合は、小粉橋三八号の贋憲兵の話に注意してください。

彼らは、たびたび私たちを困らせました。

アリソンやリッグズに平手打ちを食わせたのも贋憲兵の仕業です。…〉》

済南事件9 日本人居留民虐殺

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/04 18:41 投稿番号: [1369 / 2250]
児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫
190p


《 日本人居留民のうけた被害は、掠奪された戸数百三十六、被害人員四百人、

被害見積額三十五万九千円のほかに、中国兵の襲撃による死者二人、

負傷者三十余人、暴行をうけた女性二人と記録されている。


ただし、館駅街の邦人十二人の行方がわからなかった。

裸体にされ後手に縛られて中国兵に連行されるのを見た、

という情報もあり、捜索がつづけられた。》



197〜198p

《 館駅街居留の行方不明邦人十二人については、

天津歩兵隊第六中隊が捜索していたが、中国人市民の通報によって、

同街北側の十王殿付近の膠済鉄道線路沿いの土中から死体が発掘された。

  死体は、次のように酸鼻をきわめたものであった。



▽藤井小次郎 (土産物商) = 頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。

      陰茎切除。

▽斎藤辰雄 (桐材商) = 顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。

▽東条弥太郎(土産物商) = 両手を縛られて地上をひきずられた形跡。頭骨破砕。

      小脳露出。眼球突出。

▽同妻きん = 両腕を紐帯 (しごき) で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。

      肋骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。

▽鍋田銀次郎 (雑貨商 )= 左脇腹から右脇に貫通銃創。

▽井上国太郎 (雑貨商) = 顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。

      上膊部に刺創、左股に貫通銃創。

▽宮本直八 (土産物商) = 胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。

      頭部に鈍刀による切創。陰茎切除。

▽多比良貞一 (土産物商) = 頭部にトビ口様のものを打ちこまれたらしい突創。

      腹部を切り裂かれて小腸露出。

▽中里重太郎 (土産物商) = 顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。

▽高熊うめ =   肋骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。

     右脚の白足袋で婦人と判明した。


他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、人定は不可能であった。》


208p

《 堤口部落を通過するころ夜明けをむかえ、午前六時、

同部落東北約四百メートルの日本人墓地についた。

見ると、墓の多くはあばかれ、葬儀場や火葬室も破壊されていた。

あばかれた墓の周囲は、砕かれた骨壺の破片や骨片が散乱して、

将兵はあらためて中国兵の 「暴虐」 ぶりに憤怒した。


「惨状視ルニ忍ビズ、士卒ノ敵愾心   (てきがいしん)   ヲ   刺戟   (しげき)

  セルコト   大ナルモノアリ」》



*   この事件について、華北の有力外字紙   「京津タイムス」   は

   「日本軍がいなければ外国人はことごとく殺戮されただろう」   と報じ、

   英紙   「デイリー・テレグラフ」   は

   「支那人は略奪と殺人を天賦の権利であるごとく、暴行を繰り返している」

   「日本人の忍耐にも限度がある」   と書いています。

ラーベの日記 1月14日 2 返書

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/04 18:31 投稿番号: [1368 / 2250]
《 ラーベの返書   一九三八年一月十四日   於南京

  W・マイアー社長の一九三八年一月三日付の書状に関して



ドイツ大使館を通じてお手紙いただきました。

昨年、漢口へ行くようにとのご連絡をいただきましたが間にあいませんでした。

電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでにクトゥー号で発ったあとだったのです。

また韓さん一家をはじめ、中国人従業員はみなオフィスに避難しておりましたので、

彼らを見捨てることはできないと考えておりました。



あのときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した

国際委員会の代表を引き受けました。

現在ここは二十万人もの中国人非戦闘員の最後の避難場所になっています。

これを組織するのは必ずしも容易な仕事ではありませんでした。

しかも日本から全面的には承認を得られず、

中国軍上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出すまで

部下と共にここに駐留していたために、いっそう困難になりました。



今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、

安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか養ってこられました。

ところが今度、

「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」

との命令が日本軍から出されたのです。

市内に秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。

今までのところ、申請はすべて却下されています。



安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許し下さいますよう、

遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ、

我々外国人の存在が大ぜいの人々の禍福を左右するからです。

十二月十二日以来、私の家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。

たいていは庭の藁小屋に住んでおり、毎日支給される米を食べて生きています。

  ナチ式敬礼をもって                  ジョン・ラーベ 》



*   ラーベに会社から、南京から引き揚げて来いという指令が来たようですね。

   彼は、会社の職員として南京に駐在していた事を忘れているようです。

済南事件8 佐々木中佐の遭難2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/03 17:02 投稿番号: [1367 / 2250]
児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫
186〜187p


《中佐は、両脚をふんばって頑張り、なおも身体じゅうにおそいかかる拳の雨にも

耐えた。中には、腕をのばして指を中佐の両眼に近づける者もいる。

眼をえぐってやる、といわんばかりで、中佐が汗にかすむ両眼をむいてにらむと、

ケケ、と奇怪な笑声を残して後退した。


坐ってはならぬ、倒れてはならぬ、そのときは殺される……。

中佐は汗まみれになって中国人群集にこづきまわされ、

殴打されながら直立姿勢を維持していたが、ようやく、乗馬で通りかかった

顔見知りの国民革命軍将校が気づき、驚いて下馬してきた。



「ニイ放心罷」(安心されよ)

将校は中佐に叫び、中佐をしばった縄を持つ中国兵にささやき、

再び馬にとびのると、馬腹をけって城内に疾走した。



中国兵が中佐の回りに人垣をつくり、いずれもモーゼル一号拳銃をかまえた。

拳銃の垣根で中佐を 〝保護〟 するかの如くだが、

とびこんで中佐をなぐる兵士を阻止することもなかった。

顔を肩にこすりつけて汗をぬぐい、冷静をとりもどした中佐は、周囲の民家の窓に

鈴なりになった中国人市民がくり返すシュプレヒコールに、気づいた。

「殺 (シャー)」 (殺せ)、 「シャー」 「シャー」 ……。



自動車が走り寄り、一人の士官が演説した。

日本帝国主義、銃殺などの単語が中佐の耳に聞こえ、そのたびに

蝟集   (いしゅう)   した群集は拍手し喝采した。中佐は安堵した。


「予を宣伝の材料に使っている……支那人特有の芝居気たっぷりの所作をやって、

結局予の安全を期するつもりだ」

―   と、推察できたからである。



この中佐の推理は的中し、士官の演説が終ると、中佐は普利門に連行された。

普利門にたどりつくと、第四軍団長方振武が自動車でむかえ、

中佐を総司令部に輸送した。

中佐は、両脇をかかえられて総司令部内の一室にはこばれたが、

ベッドに横になったとたんに失神した。

打撲をうけた全身が激痛でたわむうえに、呼吸も困難になっていたのである。


191p

午前十一時すぎ、南京駐在武官佐々木到一中佐が城内から

日本総領事館に送りとどけられてきた。

右腕、下顎骨の挫傷に加えて全身打撲というほうたいだらけの姿は、

文字どおりにふくろ叩きにあった事情を告げている。



*   佐々木中佐のように、中国側に立って行動している人でも、

   こういう扱いを受ける。

   親中の日本人は、自分は中国人に良くしてるから大丈夫と

   思っているだろうが甘い。


   松井大将ように、日中友好に尽力し、日本では蒋介石の身元引受人になり、

   戦争では、中国人を愛護せよと命令を出していても、

   南京大虐殺の汚名を着せられ処刑されるのだ。


つづく

ラーベの日記 1月14日の1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/03 16:49 投稿番号: [1366 / 2250]
《 一九三八年一月十四日、南京にて   (次の手紙を)   受け取る。

  ジーメンス中国本社からの手紙一九三八年一月三日   於上海



   ラーベ様!

まずは新年おめでとう。

激動の日々を過ごされ、大変な経験をなさったようですね。お元気だとよいのですが。

そちらにもっと残るおつもりかどうか、あのとき連絡していただきたかったと思います。



先日カルロヴィッツ社のバウアー氏とお話ししたのですが、

氏も、これ以上南京にいてももう意味がないのでは、というご意見でした。

ですからこちらとしては、ラーベさんが時機を逸することなく、

つまり陥落の前に南京を去って漢口へ行き、

大使館と連絡をとるとばかり考えていたのです。

それで三回も電報を打ったのですよ。



プロープスト氏は目下、香港です。

ラーベさんを香港に配属したらどうかと思い、問い合わせました。

返事がありしだいお知らせします。



お宅の家具調度がどういう状況かは知りませんが、

荷物の梱包を早いうちに済ませてあればいいと思っています。

もしまだでしたら、大使館に置かせてもらうことはできないでしょうか。

上海へくる件については、そう簡単ではないにしても、いずれ打つ手はあるでしょう。

できることならすぐにお返事をいただきたいと思います。     敬具

                                W・マイアー》


つづく

済南事件7 佐々木中佐の遭難1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/02 17:06 投稿番号: [1365 / 2250]
日本側の軍使による停戦伝達は失敗しましたので、

今度は佐々木中佐が行く事にしました。


児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫
184〜185p


《 同じころ、城内から停戦勧告をこころみようと出かけた南京駐在武官

佐々木中佐も、同様の危急を体験した。

中佐は、国民革命軍総司令部の中国人少佐とともに、 「済南特機」 (済南特務機関)   と

貼紙した乗用車で、城内から普利門外の商阜地にはいった。

日本軍、すなわち東地区担任の天津歩兵隊三個中隊は、既述したように

一応の戦闘を終え、重点警備地域に結集しているので、

中佐の車は、しばらくは中国人の   「人海」   をすすまねばならない。



中佐は、そこで、日本軍第一線に到達したさいの用意の小型日章旗を   「尻の下にかくし」

いたが、普利門西方約三百メートルの中国軍陣地前で停車させられた。

「不要緊」(構わぬ)

同行した中国人少佐が運転手を激励して発進を命じたが、とたんに数人の

中国兵が自動車にとびつき、運転手につづいて中佐と少佐をひきずりだした。



日章旗を目にした兵が叫声をあげると、わらわらと中国兵が押しかけ、

その騒ぎに気づいてわやわやと中国人市民も集まった。

中国兵も中国人市民も、のしかかるように中佐にせまり、

頭、顔、身体をなぐり、腕をねじあげては、またなぐった。



「驚きにたえぬことには、もみ合う間に、予の身辺に密着してはポケットを

さぐり、時計、財布、手帳、ハンカチ等すべての所持品を奪ったことである」

あとで気づくと、上着、ズボンのポケットは全部切り裂かれていて、

中佐は、さすが、と〝中国式掠奪法〟 のす早さと巧みさに感嘆した。

が、そのような事情に気づくのも後日のことである。

中佐は、必死に体当りで抵抗したが、文字どおりに   「衆寡敵せず」   の形になり、

腕をしばられて身動きができなくなった。



一人の中国兵が近づき、拳銃を中佐の肩胛骨   (けんこうこつ)   にあて、

左手で中佐をひざまずかせようとした。

まわりは群集である。射弾が仲間にあたらぬよう、中佐をひざまずかせ、

肩に垂直に射撃して中佐を殺す意図が、察知される。》


つづく

1月14日 中国の返答に反発する日本

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/02 17:00 投稿番号: [1364 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   267〜270p


《 王部長の口上書は、一月十四日午後四時すぎ、

駐日ドイツ大使H・ディルクセンから外相広田弘毅に伝達された。

「一九三七年十一月五日、日本側提案になるいくつかの和平条件が、

貴大使 (註、トラウトマン) の好意によって南京で提示された……」

広田外相は、まずこの口上書の書き出しに眉をひそめた。



和平条件をドイツを通じて提示したのは、たしかに日本側である。

だが、それは、国際紛争を鎮静させ、とくに中国を   「破滅から救おう」   という

ドイツの意向があり、中国側の和平意思も確認されたからである。

それなのに、口上書の語調は、

いかにも日本側から中国に   「和ヲ請ウ」   たかの印象をあたえる。



読みすすむにつれて、広田外相は眉のひそみを深めていたが、大使ディルクセンに、

「これは明らかに逃げ口上ですな。中国側は、諾否いずれにせよ、

回答するために必要な材料をあたえられたはずです。

だいいち、敗けて和平をもとめるのは中国であって、日本ではない」

大使ディルクセンも、内心では、広田外相の論評に同感であった。



「和平交渉の機会をとらえなかったのは、むしろ中国側であったといえる。

蒋介石がトラウトマンに会おうとしなかったこと、中国政府が日本側条件に

ついての正式会議をひらかなかったことなどが、その事情を告げている」

大使ディルクセンは、のちに、そう外相Cノイラートに報告するが、口上書を

うけとったときも、それが中国側の   「拒否回答」   であることを感得していた。

それでも、大使ディルクセンは、日本側の四条件はともかく、細目条項は

文書では中国側に伝達していない、書面にして提示してはどうか、と、進言した。



広田外相が、おりから首相官邸で開催中の閣議にことの次第を報告すると、

閣僚たちも中国側の口上書を   「遷延策」   とみなし、御前会議決定の

「支那事変処理基本方針」   にもとづく措置をとることに、意見がまとまった。

口上書は、蒋介石政府が   「和ヲ求メ来ラザル」   表意だと判断できるので、

日本は、こんごは蒋政府を   「対手トスル事変解決ニハ期待セズ」   という

声明を発表し、 「新興支那政権」   の育成にはげむ……。



参謀本部は、しかし、軍令部と連絡して、政府だけの決定にせず、

統帥部をまじえた大本営政府連絡会議での討議を要求した。

参謀本部としては、既述したように、 「支那事変」   を   「日中戦争」   にせずに

早く終らせて、本来の主敵であるソ連にそなえたい。

中国との戦いが長期化する場合は、ソ連にたいする配慮もふくめて、

「挙国的決意」、明確な理念、見通し、方針、計画が必要である。

そのうえでの長期戦突入なら、まだ良い。



ところが、政府は、それらの必須要件をぬきにして、

長期戦を必至にする   「蒋介石との絶縁」   にふみきろうとする。

しかも、その主張は、いわば蒋介石の態度が悪い、 「言い方が怪しからん」   など、

いかにも皮相的、粗雑な論拠にもとづいている。

こんなことで国家を長期、大規模な戦争になげこまれてはたまらないし、

政府がその音頭取りをするのもおかしなことである。



「軍人が長期持久戦を心配する以上に、文官が之に関して深思熟考すべきではないか」

第二課長河辺虎四郎大佐が首をひねると、参謀次長多田駿中将も、

「強硬ナルベキ統帥部ガ反   (かえ)   ッテ弱気ニテ、

弱気ニナルベキ政府ガ強気ナリ……奇怪ニ感ゼラル……」

これも議会対策のためか。あるいは中国進出をいそぐ財界に

しりをたたかれているおかげか。》

チ○カス北朝鮮工作員カルト発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2012/01/02 12:20 投稿番号: [1363 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部出身岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

済南事件6 日本の停戦軍使撃たれる

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/01 16:22 投稿番号: [1362 / 2250]
児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫
178〜179p


《 蒋介石は、急いで随行している南京駐在武官佐々木到一中佐に要請した。

「革命軍にすぐ停戦を命ずる。白旗をたてて歩かせる。

日本軍も停戦するよう尽力をお願いしたい」


その十分後、午前十一時ごろ、国民革命軍第四十軍長副官を名のる人物から、

総領事館警察署に電話がかかってきた。

「中国軍ニ対シテハ   射撃ヲ中止セシムベキ ニツキ、

日本軍ニ於テモ   即時射撃ヲ中止セラレタシ」



第六師団参謀長黒田周一大佐は、 「日本軍ノ射撃ハ自衛」   のためである。

中国側が射撃を中止すれば   「自ラ停戦」   になる、と返答した。

しかし、中国側は実際には   「射チ方止メ」   を命令しないのか、

命令が到達しないのか、それとも受令した出先き部隊が承服しないのか、

そのいずれにせよ、銃撃を中止する気配はなく、日本軍も応戦をやめなかった。



180p

午前十一時三十分、蒋介石は、総領事代理西田畊一を通じて再び停戦を要望してきた。

師団長福田中将は、中国側の優勢と、乱戦気味に連絡困難になっている指揮下

部隊の状況とを考えあわせて、師団の態勢立て直しのために停戦に応ずることにした。

西田総領事代理に承知の旨を中国側につたえさせ、正午、停戦を下令した。
・・・


181p

中国兵は路地と民家の庭内を右往左往してはやみくもに発砲し、銃声はより一層に激化した。

旅団司令部   (横浜正金銀行済南支店)   では、参謀菊池門也中佐が、中国側に

停戦を勧告すべく、捕えた国民革命軍外交処弁事康明震を派遣することにした。

午後一時二十分、康明震は同じく捕えられた国民革命軍士官二人とともに、

白旗をふりながら二馬路を西進した。

憲兵伍長田中新ほか三人が護衛として同行した。

中国側は、白旗を左右にふる一行に容赦なく射撃を加え、

康明震らは立ちどまったまま前進を拒否した。


182p

田中伍長が先頭に立ち、 「不打」 (射つな) 「不打」   と叫んで

一行を引率していたが、緯五路二馬路の交差点にさしかかったとき、

南側民家に潜伏する中国兵の機銃射撃をうけた。

田中伍長は戦死し、一行は遺体を収容して旅団司令部にひき返した。


184p

斎藤少将は、とりあえず装甲自動車の   「上面及ビ周囲ニ停戦文ヲ大書」   して、

通訳将校河野又四郎中尉に宣伝ビラを散布しながら停戦勧告をさせることにした。

しかし、中国側に接近した装甲自動車は、たちまち猛射撃をうけ、

勇敢に身をのりだしてメガホンで叫ぶ河野中尉も負傷して、計画は頓挫した。》



*   蒋介石が狡猾なのか、中国兵が命令に従わないのか、信じた日本人がバカなのか、

   停戦を要求した、中国側が射撃を止めず、日本の軍使が撃ち殺されている。



つづく

1月13日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2012/01/01 16:16 投稿番号: [1361 / 2250]
一月十三日


《「安全区国際委員会を国際南京救済委員会に変更する」   という私の提案は

委員会で否決された。せっかくいま、日本から事実上認められているのに、

もし自発的に解散したりしたら、これ幸いと黙殺されるおそれがある、というのだ。

私が多数派の意見に従ったのはもちろんだ。

つねに足並みをそろえて行動しなければ。



イギリス海軍を通して上海の中国本社からの無線電報を受け取った。

一月十日づけで、ここをたたみ、韓をつれてできるだけ早く上海へくるように、とある。

明日   「外国人も中国人もいまは街から出られない」   と返事をしよう。

クレーガーも何度か上海へいく許可をもらおうとしたがだめだった。



今日、ローゼンとクレーガーが城壁の外へ出た。

戦災孤児院の近くにあるシュメーリング家と、

中山陵記念公園地区にあるユッケルト家の様子を見にいったのだ。

大使館の車で戻る途中、福田氏や日本の将校たちに停められた。

将校たちは、なぜ城壁の外に出たのか、どうして日本軍の命令に従わないのかと

問いただしたそうだ。話しながら双方ともしだいに興奮していった。



ローゼンは言った。私は日本軍の命令に従うなどと約束したことは一度もない。

私には外交官として職務をきちんと果たす権利と義務がある。

ちょうどいま、ドイツ人の財産の被害状況を確認しようと思っているところなのだ。

すると日本側は、その旨を文書にしろと言ってきたので、ローゼンはそれを書いて渡した。

そして帰るとすぐに上海のドイツ大使館に電報を打ったという。

さて、どうなることやら……。



  十六時

国際赤十字の会議が鼓楼病院で開かれ、ジョン・マギー、マッカラム、

クレーガー、ロウ、それに牧師の沈玉書さんたちが出席した。

赤十字から委託されている入院患者を無料で治療するかどうか、

今後はマッカラムが決めることになった。

いままでマギーが担当していたのだが、ここのところ無償で治療する患者を

受け入れすぎたからだ。なかには、全くの無一文だと申告していたのに、

ベッドに三百ドル隠していた女の人もいた。



張のかみさんが退院するので、車で迎えに行った。病院に払うにも、

先月の給料の三十ドルしかないというので、残りは私が払った。》



*   「無一文だと申告していたのに、ベッドに三百ドル隠していた」

   これだけ騙されても、まだ、ラーベ達は中国人を信用するのを、やめない。

済南事件5 電話線を切られた日本軍

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/31 17:00 投稿番号: [1360 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫


175p

《 兵舎に利用された民家は、強固な土塀の中に数家屋が密集していて、

出入口は一個所しか無く、二人の中国兵が立哨していた。

久米川小隊が、岡田巡査にたいする暴行犯人をつかまえるために近づくと、

歩哨は発砲し、屋内からも射撃してきた。

久米川小隊は応戦し、二人の歩哨を射殺するとともに、

小隊長は中隊主力の出動を意見具申すべく、伝令を送った。


・・・
銃声を合図のように、国民革命軍兵士は商阜地内の随所で掠奪と射撃を開始した。

天津歩兵隊第四中隊本部には、久米川小隊からの伝令が到着する前に、

今度は緯一路三馬路交差点付近で中国兵多数が日本人民家をおそっている、

国旗を破棄している、という急報がつたえられた。》



176〜177p

《 斎藤少将は、ほぼ総領事館到着と同時に天津歩兵隊第四中隊長

難波大尉の電話で、日中軍交戦を知った。

少将は、ただちに参謀菊池門也中佐に現場偵察を命じ、また旅団司令部

(横浜正金銀行済南支店) の装甲車を出動させることにした。



だが、中国兵はいち早く日本側の軍用電線を切断したとみえ、

旅団司令部にも師団司令部   (潘公館)   にも電話は通じない。

天津歩兵隊は、旅団司令部に近い朝鮮銀行に本部を置いているが、

難波大尉は市内電話で連絡してきた。

その市内電話も、いまや話し中や混線、あるいは交換手が出たと思うと

プツリと切れて、用をなさない。



師団長福田中将は、幕僚と連絡がとれないとわかると、むっつりと黙りこみ、

斎藤少将も、副官中西昌音大尉をオートバイで旅団司令部に走らせたあと、

憮然   (ぶぜん)   と天井をあおいで瞑目した。

聞こえなかった銃声が、風にのってひびいてきた。戦闘が激化した証拠である。
・・・
押取刀 (おっとりがたな) ― というが、日本軍部隊はその表現そのままに、

次々に済南・商阜地東部の日中軍衝突現場に急行した。



東地区担任の天津歩兵隊は、所属三個中隊のうち、第四中隊が総出勤したのに

つづいて、第五中隊(石井民恵大尉)、第六中隊(高久伸一大尉)も

それぞれ第一、第二小隊を出動させた。
・・・
街路の両側に小路が入り組み、密集した民家の土塀越しに射弾が集中し、

おまけに強風が砂塵を吹きつけるので、攻撃前進は困難であった。



それでも、中国兵がたむろする民家を一軒ずつ掃討して進んだが、

もともと両軍の衝突はこの麟趾門街での中国兵の掠奪に発起しているように、

占領する中国人民家のほとんどが掠奪、暴行されていた。


「支那人民ノ柱ニ縛ラレアル等、惨状目も当テラレズ」

といった光景も、少なくなかった。》



つづく

1月13日 中国の返答と日本の会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/31 16:34 投稿番号: [1358 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   266〜267p


《 国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。戦ってさえいれば、

「日本亦終必帰於失敗也」   蒋介石は、かねての持論をくり返し、

適宜に (日本側に) 対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。



   ―   唖然、あるいは呆然、

という表現があてはまる表情で、駐支ドイツ大使O・トラウトマンは、

外交部長王寵恵を注視した。

王外交部長は、前日、閣議で検討したうえで日本側への回答をつたえる、と述べ、

さっそく一夜あけたこの日、一月十三日、その回答を大使トラウトマンに提示した。



閣議がひらかれた様子もなかったので、大使がその点をたしかめると、

じつは回答は前夜にできていた、と、王部長は、涼しい顔で返答した。

大使トラウトマンは、そう述べたときの外交部長王寵恵の唇のゆがみに、

ふと不審感をさそわれたが、手渡された口上書を一読して仰天した。



口上書は、これまでの大使トラウトマンの日中間の 〝伝書使〟 的業績を

回顧したあと、日本側の   「改変された条件」   は範囲がひろすぎる、と

指摘して、次のように結文していた。

「ゆえに、中国政府は、慎重な検討と明確な決定をおこなうために、

新たに提議された条件の性質と内容を確定されることを望む」

それだけである。



日本側の条件については、全体としても、各個にも、諾否も修正要求も示されていない。

大使トラウトマンは、さんざんに待ち、かつ、催促をかさねて得た回答が、

たったそれだけであったことに驚くとともに、不安を感じた。

「外相閣下、閣下は、日本側がこの回答をいいのがれとみなす懸念があるとは、

お考えになりませんか。私には、この回答は、

(日本側条件を)   理解する意思がない旨の表明と思えます」



大使トラウトマンは、既述したように、戦争がつづけば中国は敗北すると

信じこんでいる。いま日本と講和するのが、

中国と国民政府が生きのびるためのまたとないチャンスであろう。

そのチャンスを逃がすのか   ―   との意をこめての大使トラウトマンの発言であったが、

外交部長王寵恵は、日本側条件の詳細を知るまではなにもいえない、というだけであった。



戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   473〜474p


《 一方、日本では、十三日の閣僚会合で

「いつまでも便々として中国側の回答を待っておるわけにもいかないから、

十五日中に中国側から確答がない場合には、

直ちに、国民政府との交渉に期待をかけず、

事態処理の第二手段をとる旨の声明を出すべきである。

これは明十四日の閣議で決定する」   という話し合いが成立した。》

済南事件4 防備撤去で掠奪開始

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:32 投稿番号: [1357 / 2250]
児島襄著 『日中戦争1』 文春文庫


170p

《 福田中将は、・・・到着後、前述した蒋介石の申し入れを

酒井隆少佐から聞くと、ただちに反駁の書簡をとどけさせた。

「本司令官ハ……貴見ニ依リテ   行動ヲ左右セラルベキモノニアラズ……

本司令官ノ軍統率ノ目的ハ……一ニ 居留民ヲ保護スルニ在リ。

従テ、承ルガ如キ 事項ノ要望ハ   受取ルベキ筋合ノモノニアラズ」


にべもない拒否回答である。

が、斎藤少将は、少なくとも警備態勢の緩和は必要だ、と考えた。


171〜172p

午後三時三十分、斎藤少将は師団長福田中将には連絡することなく、

同夜の防禦物撤去作業を各部隊に命令した。

・・・

日本側が徹夜で防禦物の撤去作業をしていると、あるいは中国兵の一団が

その作業を妨害したり、あえてその前で中国人市民に反日演説をおこなう者もいた。


そして、阻止されないとわかると、ぞろぞろと商阜地内に流れこみ、

中国人民家に強制民宿した。

斎藤少将の処置にたいする批判の適否はともかく、

五月二日夜、商阜地にはこれまで以上に中国兵が増え、

日本人の居住家屋は軍民を問わずに中国兵の宿舎に隣接する環境になった。


174〜175p

午前九時二十分ごろ、国民革命軍の暴兵約三十人が、麟趾門街の

『満州日報』   取次販売店吉房長平宅に乱入して、掠奪をはじめた。

付近の緯二路派出所に急報され、総領事館警察巡査岡田静雄、

同山下茂一が佩剣   (はいけん)   をにぎりしめて現場に走った。

ほぼ同時に、旧朝鮮銀行社宅の天津歩兵隊本部に   『済南日報』   社から電話がかかった。

事件を知らせて、現場に案内するから来社を乞う、という。



隊長小泉中佐は西田総領事代理に随行して蒋介石を訪ねている。

隊長代理・第四中隊長難波元吉大尉は、即座に第一小隊長

久米川好春中尉に出動を命じた。

天津歩兵隊は、ほぼ四月三十日から不眠不休で警戒態勢を維持し、

既述したように、国旗損傷その他の中国側の   「侮日」   言動を視認

かつ体験して、血圧上昇度と興奮度を高めていた。


「うぬッ」 「野郎ッ」


など、思わず洩れる怒声と罵声を吐き散らしながら、久米川小隊は

『済南日報』   社を経て現場に急行した。

吉房長平宅に到着してみると、先着した二人の巡査のうち、岡田巡査が

暴兵にふくろ叩きにされ、佩剣をうばわれて射殺される寸前であった。

久米川小隊は吶喊   (とっかん)   し、暴兵はあわてて東方的百メートルの

〝民宿〟 に逃げこんだ。》



つづく

*   南京でも済南でもそうだが、防備を外した後から襲撃されている。

   日本の平和主義者は   「軍備があるから攻撃される、無くせば攻撃されない」

   と言うが、それは日本人の発想であり、中国人相手では逆効果になる。



   中国は防備の無い所を攻める。   孫子の兵法

   虚実篇に曰く、

    「攻めて必ず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり」

   計篇に曰く

    「兵とは詭道(きどう) なり。故に、・・・・其の無備を攻め、其の不意に出ず。」

1月12日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/30 16:20 投稿番号: [1356 / 2250]
一月十二日


《 南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。

私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、

竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。



ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、

ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。

この件について、全員の意見が一致した。

すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ

事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。



こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった!

米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。

日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。

肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、

てんでおかまいなしなのだ。



日本人と友好的にやっていくにはどうするかとあれこれ考えた末、あることを思いついた。

南京安全区国際委員会を解体して、国際救済委員会を設立し、

日本人にも出席してもらうのだ。やってみよう。

これがうまくいくかどうかはやってみなければわからない。

まずはじめに仲間と各国大使館の人たちに相談しなくてはならない。》

済南事件3 国民党軍の反日的態度

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/29 19:00 投稿番号: [1355 / 2250]
児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


164〜166p

《 第十一旅団長斎藤瀏少将は、・・・、張孫軍の退却、

国民革命軍の入城という二つの危険な事態に直面して、

どのように商阜地在住の日本人居留民をまもるかを熟慮・・・


  −   「濁流ハ、須   (すべか)   ラク道ヲ造リテ排出スルニ如   (し)   カズ」


在留邦人を保護するためには、できるだけ張孫軍とも国民革命軍とも衝突をさけ、

武力行使以外の方法で始末すべきである。それには両軍ともに商阜地外を

通行させればよく、その通路をあたえればよい、と思案。・・・



五月一日、夜明けとともに、市内にちらちらと国民革命軍の斥候があらわれた。・・・

つづいて第一、第四十一軍が入城したが、そのころには、街の雰囲気は一変していた。



商阜地東部監獄から囚人が解放され、

中国人家屋にはいっせいに青天白日旗がかかげられ、

入城した部隊のうち、とくに第四十軍所属の少年兵が市内を走りまわって、

宣伝ビラを民家の壁にはった。「排斥日本帝国主義」「反対日本出兵」 など、

いずれも反日ビラであり、中には、張作霖と日本女性が   「乱舞」   している図柄もあった。



少年兵は、わざと日本軍歩哨に近づき、白眼をむいて敵意を示しながら、

その面前の街路樹にビラをはったりした。



斎藤少将は、不穏な空気を感得して警戒強化を下令したが、

午前八時二十分ごろ、中国兵による日本国旗損傷事件が発生した。

国民革命軍第一軍第二十二師第六十四団 (註、団は連隊に相当。

なお、その下に営〔大隊〕、連〔中隊]、排[小隊〕がある) が入城するさい、

兵士の一人が日本人民家に掲揚中の日章旗をうばい、破棄した。》


168p

《 五月二日午前九時、蒋介石は乗馬で済南城に入城した。・・・

そのころには、済南には国民革命軍将兵が充満し、約十万人と推計された。》


169p

《 蒋介石は入城後、佐々木中佐を通じて、日本軍の撤兵、後続日本軍の輸送中止、

警備区域の撤去などを斎藤少将に申し入れたが、

その第四項は次のように指摘されていた。



「人民代表ノ言ニ依レバ、日本兵ノ人民ニ対スル態度不良ナルニッキ取締ヲ希望ス」


  温厚な斎藤少将も、ムッとした表情をあらわにし、幕僚たちは、いきりたった。

  露骨な反日姿勢を示して   「態度不良ナル」   のは、中国兵のほうではないか   −。

「貴公はいったいどっちの味方なのか」

斎藤少将は、いずれ第六師団長福田彦助中将が到着してから返事すると述べたが、

幕僚の中には、そう、佐々木中佐に怒声をはりあげる者もいた。》



*   国民革命軍十万人に対して、日本軍の派遣予定人数は五千人、

   但しまだ全員は来ていない。

   日本軍は圧倒的多数の敵兵の海に埋没する形になった。

*   佐々木中佐とは、のち昭和12年12月に南京に駐屯した

   第16師団の佐々木到一少将その人。


つづく

1月12日 回答期限と中国の対応

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/29 18:35 投稿番号: [1353 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   264〜266p


《 外務次官堀内謙介は、十二日に駐日ドイツ大使館参事官G・シュミーデンに

「十五日期限」   をつたえ、中国側の回答は具体的なものが必要だ、

なお考慮中式のものはだめだ、と付言した。

報告を受けたドイツ外相ノイラートは、前日にも駐支大使トラウトマンに

中国側を督促するよう訓令していたが、堀内次官の言明を伝達するとともに、

かさねて中国側に早期回答を勧告させた。



大使トラウトマンは、蒋介石との会見を申しいれたが、

多忙との理由で会えず、かわりに外交部長王寵恵が応接した。

大使トラウトマンは、日本側はしびれをきらしている、

中国側に回答する気持があるなら早いほうがよい、と力説した。


「まだ遅すぎるとはいえないかもしれません。しかし、いまや十二時五分前です」


王外交部長は、至急に閣議をひらいて返事をすると述べたが、

王部長からことの次第を聞いた蒋介石は、閣議招集の指示もあたえなかった。



蒋介石は、前述したように、すでに和平拒否の方針を確立し、

前日は、陳誠を武漢衛戍総司令に任命するとともに開封に飛び、

第一、第五戦区の団長以上の指揮官をあつめて、

「抗戦検討與必勝要訣」   と題して訓示した。

こんごの抗戦の重心を武漢におき、そのためには津浦鉄道と、新郷で平漢線を

横断する道清鉄道の確保が最重要である旨を強調する内容であった。



また、同時に八項目の誓いをとなえ、一同に唱和させた。

「服従命令……厳守紀律……尽忠職守……実行主義……研究学術……

抗戦到底……貫徹始終……恢復『智信仁勇』的固有武徳……」

この 『八誓』 をうらがえせば、中国軍の内部には、命令にしたがわず、

軍紀を守らず、職務に不忠実であり、有言不実行、

勉強不足などの傾向があることがうかがわれる。



が、いずれにしても、蒋介石にとっては、戦う以外に   「生存」   の道はない。

王部長は、日本側の回答期限通告を報告するとともに、日本政府と大本営が

連日の会議をくりかえしているとの情報も、蒋介石に報告した。


「倭 今日 始知 対華戦争 非長期 不可乎!」


それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気づいたのか。

蒋介石は、とっさにそう感想を述べ、もしそうであれば中国は

ますます有利な地位にたてる、と指摘した。

国際情勢は、必ず反日親中国の味方をもたらす。

戦ってさえいれば、「日本 亦終 必帰 於失敗 也」   蒋介石は、かねての持論を

くり返し、適宜に   (日本側に)   対応せよ、と、外交部長王寵恵に指示した。》



*   蒋介石は 「日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外には

   あり得ないことに気づいたのか」   と言っている。

   これでは、日本がいくら和平を提案しても、ムダだろう。

   中国に和平の意思が無いのだから。

済南事件2 敗軍と掠奪

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/28 18:55 投稿番号: [1352 / 2250]
北軍が敗走するに及び、略奪が始まりました。


児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


162p

《   国民革命軍第一集団軍のうち、陳調元指揮の第二軍団は頭目劉黒七の

土匪軍約五千とともに済南東方の郭店にせまり、

張、孫軍の敗兵がしきりに退却途中に市内を〝物色〟 しはじめた》


163p

《 日本軍が位置する外では、夜陰を利用して暴民、窮民が掠奪をはじめ、

駅構内に山積していた張宗昌軍の小麦粉が、まずその対象となった。

数百人の窮民が、巡警の発砲にもひるまずに突進し、約四千袋の小麦粉をわずか

「三分間足らず」   できれいに奪取していった。

その間に窮民たちは一言も唱えず、一声も叫ばず、

立ち去ったあとには一握りの粉もこぼしていなかった、といわれる。



済南市内の中国人窮民は数万人を数える。もし彼らがいっせいに動きだしたら……。

「まるで蝗群   (いなご)   におそわれるにひとしいにちがいない」

小麦粉掠奪の手ぎわが水ぎわだっているだけに、無気味さの度合いも強まり、

斎藤少将は身震いしながら、憂慮した。》


つづく

1月11日決定の支那事変処理根本方針

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/28 18:49 投稿番号: [1351 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   470〜471p


《 一月十一日、御前会議が開催された。

この種御前会議は日露戦争以来初めてのことである。

陸海統帥部の両総長、次長、総理、陸、海、外、内、蔵各大臣及び特旨により

平沼枢密院議長が出席、外相が原案を説明、両総長が意見を陳述、

枢院議長が賛意及び希望を述べ、次のように決定し会議を終了した。



    支那事変処理根本方針

帝国不動ノ国是ハ   満洲国 及 支那ト提携シテ   東洋平和ノ枢軸ヲ形成シ

之ヲ核心トシテ 世界ノ平和ニ貢献スルニアリ

右ノ国是ニ基キ 今次ノ支那事変処理ニ関シテハ   日支両国間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ

両国国交ヲ大乗的基礎ノ上ニ再建シ   互ニ主権及領土ヲ尊重シツツ

渾然融和ノ実ヲ挙クルヲ以テ 窮極ノ目途トシ   先ツ事変ノ再起防遏   (あつ)   ニ

必要ナル保障ヲ   確立スルト共ニ   左記諸項ヲ両国間ニ確約ス。



(一)   日満支三国ハ   相互ノ好誼ヲ 破壊スルカ如キ政策、教育、交易其他

   凡   (あら)   ユル手段ヲ全廃スルト共ニ

   右種ノ悪果ヲ招来スル虞   (おそれ)   アル行動ヲ禁絶スルコト。


(二)   日満支三国ハ   互ニ相共同シテ   文化ノ提携防共政策ノ 実現ヲ期スルコト

(三)   日満支三国ハ   産業経済等ニ関シ 長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ

   共同互恵ヲ約定スルコト



右ノ方針ニ基キ   帝国ハ特ニ 政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ   左記各項ノ適切ナル実行ヲ期ス


(一)   支那現中央政府ニシテ   此際反省翻意シ 誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ

別紙 (甲)   日支媾和交渉条件ニ   準拠シテ交渉ス

    帝国ハ将来 支那側ノ媾和条項   実行ヲ確認スルニ至ラハ   右条件中ノ保障条項

別紙 (乙)   ヲ解除スルノミナラス   更ニ進ンテ 支那ノ復興発展ニ   衷心協力スルモノトス。


(二)   支那現中央政府カ 和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ

   帝国ハ爾後 之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス   新興支那政権ノ成立ヲ助長シ

   コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ   更正新支那ノ建設ニ協力ス

   支那現中央政府ニ対シテハ   帝国ハ之カ潰滅ヲ図リ   又ハ新興中央政権ノ傘下ニ

   収容セラルル如ク施策ス


(三)   本事変ニ対処シ 国際情勢ノ変転ニ備ヘ   前記方針ノ貫徹ヲ期スル為

   国家総力 就中   (なかんずく)   国防力ノ急速ナル培養整倫ヲ促進シ

   第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ   計ルモノトス


(四)   第三国ノ権益ハ   之ヲ尊重シ専ラ自由競争ニヨリ   対支経済発展ニ

   優位ヲ獲得スルコトヲ期ス

(五)   国民ノ間ニ 事変処理根本方針ノ趣旨ヲ   徹底セシムル様 国論ヲ指導ス

   対外啓発ニツキテモ亦同シ



  別紙甲   日支媾和交渉条件細目

   〔十二月二十一日の独大使あて回答文細目に同じ〕

  別紙乙

   〔別紙甲のうちの保障条項、講和に関連して廃棄する約定〕



右会議において参謀総長は、とくに、本事変出兵の目的、事変処理の根本理念、

交渉による早期解決の期待、国防力の充実整備の必要について陳述し、

軍令部総長はこれに同感の意を表したほか、国防力の急速な培養を強調した。

平沼枢府議長は、現中央政府との和議が成立した場合現地新政権をいかにするか、

事変処理根本方針徹底のため世論指導をどのようにするか、

などについて意見を陳述した。》


注   ;   防遏   ボウアツ    防ぎとめること

済南事件1 出兵に反対する関西財界

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/27 19:20 投稿番号: [1350 / 2250]
1928年   (昭和3年) 、蒋介石が第二次北伐を開始すると、

日本は南京事件の二の舞はゴメンと、居留民保護の為に山東出兵を決めました。

さて国民党軍が来るまえ、済南には北軍   (孫伝芳軍と張宗昌軍)   がいました。



児島襄著   『日中戦争1』   文春文庫


155〜156p

《 四月十三日、済南 ― 徐州のほぼ中間のエン州で、米人宣教師W・セイモアが射殺された。

エン州は、孫伝芳軍のうち、李宝章が指揮する第三軍の守備地域であったが、

その日、李宝章軍の撤退のために駅は混雑していた。


宣教師セイモアは、夫人とともに李軍の将校に訊問されたが、乗車を許可されたので

荷物をとりにもどりかけたとき、背後から拳銃で射撃された。

射撃した将校が財布と鞄をうばったあと、市民多数が夫妻の死体にむらがり、

文字どおりに身ぐるみはぐ掠奪をおこなった、という。

ニュースは済南にもつたわり、日本人居留民の不安をさそった。



四月十六日、済南駐在武官酒井隆少佐の急電が参謀本部にとどいた。

「意見具申。 帝国ハ出兵ヲ決心スベキ時期ニ   到著   (ちゃく)   セリト認ム」

・・・

同時に、青島総領事藤田栄介、済南総領事代理西田畊 (こう) 一からも、

同趣旨の出兵要請電が外務省に到着した。》



156p
《 参謀総長鈴木荘六大将は、しかし、出兵を不要と考える部内の意見にもとづき、

政府が決定するならやむを得ない、との趣旨を陸相白川義則大将につたえた。

だが、翌日、四月十七日の閣議では、ほとんどの閣僚が積極的に出兵に賛成した。》


*   しかし、日本には、出兵を好まない人もいました。


159p
《 第二次山東出兵には、予想以上に野党のほか関西財界の反対が強かった。

出兵は中国の排日気運と国民党政府の反日感を刺戟   (しげき)   するので、

北伐が成功して国民党が天下をとったときは、

対中国貿易の面で手痛い報復をまねきかねない − との思惑による。》



*   何か、今の平和主義者とそっくりの意見ですね。

   そして、何度酷い目にあっても、中国に行きたがる、今の経団連とそっくりです。

   しかしてこれは、昭和3年の話です。

   あの平和主義者の能天気な感覚は戦前からあったのです。



   ついでに言えば、大正2年の第一次南京事件のとき、

   日本人が日の丸をかかげていたにも関わらず殺された件で   外務省阿部

   守太郎政務局長は   「国旗は一つの器具に過ぎぬ」   と言ったんですね。

   そして、中国との宥和を進めました。

   そういう態度に怒った二人の若者が、阿部局長を殺す事件がありました。


   平和主義者的感覚は大正2年にもあるのです。   古いでしょう。



註:   「到著」   は   「到着」   の古い字体。

   今、我々が使っている   「着」   は俗字で元は   「著」   です。

1月11日 和平関係の大本営御前会議

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/27 19:03 投稿番号: [1349 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263〜264p


《 一月十一日、政府、大本営首脳をあつめた御前会議がひらかれた。

近衛首相が回答期限を十日にしたのは、この日の御前会議が予定されていたので、

その前に中国側の姿勢を知っておきたい、と思ったからである。

だが、返事は来ない。



大本営御前会議は、日本にとっては、日露戦争いらいの行事である。

とかく〝欲ぼけ〟 的に長期戦にはまりこむことをおそれた参謀本部が、

とくに強硬に開催を主張した。

このさい、情勢の変化に応じて転変しないよう、

はっきりと和平交渉の基本方針を確立しておく必要がある。



その方針を最重要のものとして   「確固不動」   にするには、

閣議や大本営・政府連絡会議ではなく、御前会議での決定こそ望ましいし、

また、ふさわしい……。

外務省や海軍、陸軍の首脳部の間には、御前会議をひらくほどのこともない

との意見が強かったが、参謀本部はがんばった。



第二課員堀場一雄少佐は、海軍省軍務局第一課長保科善四郎大佐と激論し、

あわや、

「彼、逆上して短剣を抜きて迫らんか、余は水月をもって之に応ぜん」

と、身がまえる一幕もあったほどだが、ともかく御前会議開催にこぎつけたのである。



会議は、前年十二月二十一日の閣議で決定した和平条件を

「支那事変処理根本方針」   としたが、 「支那現中央政府」   が

「和ヲ求メ来ラザル場合」   の対策を、次のように規定した。


「帝国ハ、爾後   (じご)   之   (これ)   ヲ相手トスル事変解決ニ   期待ヲ掛ケズ

……之ガ潰滅ヲ図リ、又ハ   新興中央政権ノ傘下ニ   収容セラル如ク施策ス」



そして、中国側の回答期限を、あらためて   「一月十五日」   に設定した。

なぜ、十五日なのか。

一月二十日ごろに再開される第七十三帝国議会にそなえるためだ、と知り、

「血ノ気ノ多イ」   参謀本部第二課員堀場少佐は、またもカッとした。

「国家の運命を決する大事を、議会対策の便宜より割出す。本末顛倒も甚しきものなり」

第二次南京事件8 漢口10

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/26 18:41 投稿番号: [1348 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
94〜96p


《 このほか郊外なり競馬場なり出かけていた人々で、群衆のために帰路を絶たれ、

やむなく知り合いの支那人に頼んで支那服に着替え、

雑踏に紛れてようやく租界に入った者、見つかって袋叩きにされ、

散々の体で脱け帰った者、そのまま捉まって引き立てられた者など、

惨劇は処々に演ぜられた。


当日の死傷者は筆者には正確には分らぬが、

死者一人、重軽傷者四五十人と称せられている。



最後に特筆大書して記念すべき事柄がある。事変勃発当日、暴徒のために拉致せられ、

一時はその生死をさえ懸念された者に水兵十一名と、石井小兵衛   (同仁会病院)

石田倉之   (三井木行)   杉田悌蔵、服部又次郎など数氏があった。

これらは皆群衆のために包囲され散々に殴られ、こづかれした上で、

手取り足取り引きずり行かれたもので、皆フランス租界外の総工会本部に監禁された。



四月十一日海軍省着電によれば左の通り報告されてある。


水兵六名ハ事件ヲ知ラズ   又   飲食店ニアリシ者ニシテ

散々殴打サレタル上、 総工会ニ監禁サル。

唐生智四日朝之ヲ聞キテ   直   (ただち)   ニ   軍隊ヲ派シテ之ヲ引取ル。

総工会之ニ対シ、日本側ニ有利ナル条件ヲ   容レシムル人質ナレバ、

此儘   (このまま)   返サバ   承知セズト云ヘリ。

唐ハ之ヲ日本側ニ送ラントセシモ   糾察隊、衛戍   (えいじゅ)   司令部ヲ監視シテ渡サズ、

軍隊ト糾察隊衝突セバ   途中負傷者生ズべク、 完全ニ送還方 総領事ト協議、

七日夜漸ク   取戻シヲナスヲ得タリ。



或いは人質だと称し、或いは軍憲の命令にも反抗する、これではまったくの土匪である。

石井氏ら数名は領事館より支那側に厳談の結果、

ようやく四日夜十二時に釈放されて帰ってきたが、

監禁中は足と足を麻縄または鉄鎖でつなぎ合わせ、

まったく囚人同様の取り扱いを為せる上、

時々青龍刀を鼻の先に突き付けては散々に愚弄した。



殊に我水兵に対しては極度の暴虐を加えた。

総工会に監禁中は石井氏ら同様の迫害を受けたのはもちろん、

その当初は帽子も所持品も奪い去られ、兵服のままで後ろ手に縛り上げ、

群衆悪罵の中を総工会に曳   (ひ)   かれたとも伝えられている。

しかして当時の支那新聞にはこれらを指して   『捕虜』   と書いてあった。

ああ、幾多の我同胞は、千里の異域においてこうした暴虐に苛まれ、

こうした侮辱にさらされているのだ。》



*   日本人というのは、どうして歴史に学ばないんでしょうか。

   戦前は知らずとも、戦後、どれだけの日本企業が酷い目に遭ったか。

   団塊世代の社長なら知っているでしょうに。

   善人ぶって中国を美化し、何度、酷い目に遭っても、

   中国に進出する企業が後を絶たない。

   進出しても、儲ければ   「我々の財産を奪った」   と言いがかりをつけられ、

   襲撃されて、技術を奪われ、放り出されるだけなのに。



*   この他にも、 『もう一つの南京事件』   には、重慶・宜昌・長沙・蕪湖・

   鎮江・九江・杭州などでの記述もありますが省略します。


   次の中国による暴虐は済南事件です。

1月11日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/26 18:32 投稿番号: [1347 / 2250]
一月十一日

《 イギリス大使館を訪ね、プリドー=ブリュン領事、フレーザー大佐、

ローゼン、アリソン、ヒュルター各氏と会う。

イギリス、ドイツ、アメリカの大使館で私の頼みを引き受けてくれた。


頼みというのは、日本兵の違法行為に関する日々の報告を我々から受け取って、

日本大使館あるいはそれぞれの国の政府に転送することだ。

こうしてもらえれば委員会はうんと助かる。もし、それぞれの大使館が

今後も日本軍に抗議し続けてくれれば、じき、状況は良くなるかもしれない。



今日の昼、日本軍に米の輸送を禁止された。

これは我々が自治委員会のために計画したものだ。



午後、私がまだ本部にいたとき、日本の警察がやってきて家捜しをした。

脱走兵が略奪した古着を探しているという。

その服は、数日前、その兵士からうけとって本部のフィッチの事務所にしまってあった。

たまたまフィッチの部屋だけに鍵がかかっていたため、怪しまれてしまった。

だが、警官がドアをこじ開ける前に、クレーガーが現れ、

鍵を持ってこさせて、はいよ、と服を渡した。



まったく日本の警察のやりかたはわけがわからない。

おだやかに入ってきても、我々はやはりあっさり渡しただろう。

なにも完全包囲することなどないのだ。中国人脱走兵が服を略奪したと聞いて、

それをネタに   「事件」   をでっちあげようとしたらしい。

今度こういう目にあったときのために、大使館と連絡をとっておかなければ。》

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/26 12:21 投稿番号: [1345 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/26 00:02 投稿番号: [1344 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

第二次南京事件8 漢口9

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/25 15:55 投稿番号: [1343 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
93〜95p


《 四月三日の事変当日は二人の友人と郊外に出て夕方帰ろうとすると、

支那人の馬車屋で顔見知りの者があって、

今日本租界は支那人と日本水兵の衝突で非常の騒ぎだから、今行ったのでは命が危ない、

つい今しがた行った日本人は途中で殴られていたが、どうなったか分らぬと言う。



それだけの話では詳しいことは分らぬが、

とにかく水兵と群衆と衝突したとすれば容易ならぬ問題だ、

普通の道を行くのは危ないというので、まず間道を取って日本公園に入ることにした。

すると同じ方面に出ていた二三人の連中と途中で一緒になった。



そこで考えたのは公園内の日本人住宅に電燈がついていればまず大丈夫だが、

もしそうでなければ公園に入るのも危険だというのでお互いに相戒めつつ

公園の土堤下まで来ると電燈は見えない。

そっと住宅附近を覗いてみると七八人の支那人がやってくる。

薄暗がりで何者か分らぬ   が、いずれにせよ身体をむき出しにして行くのは危ないので、

皆が樹木の蔭に隠れつつ進むことにして土堤を伝うて乗馬会の厩舎に行き着いた。



そこにいる馬丁頭の支那人は知り合いなので取り敢えず様子を聞くと

やはり途中の馬車屋の話と同様である。

そして今は支那軍隊が出て固めているから通行はだめだ、

ここで今晩を明かしたらどうかと言う。

しかし馬と一緒の宿という訳にもいかず、それに家内のことが気にかかるので

皆で相談の結果、領事館に通じて自動車なり何なりで救出してもらおうというので

支那人を密使に出したが、三人出したのが三人とも通行止めだと称して引き返して来る。



電話は無論切断されて通じない。はなはだ困った。夜はだんだんに更けてゆく。

そのうちにまた二人のやはり郊外に出ていた者が加わった。

その話によると最初三人で歩いていたが、途中で四五十人の群衆に襲われ命からがら

逃げてきたが、その中の伊藤某氏は群衆に捕われ今頃は殴り殺されてるかも分らぬと言う。

これを聞かされた一同はますます気味悪さが募る、しかしどうすることもできない。

厩舎の薄暗い電燈の下で顔見合わしては吐息をついていた。



そこへ民団吏員の一人が公園内の住宅にこっそり帰ってきたので大体の様子が分り、

租界内もほとんど群衆は退散して現在は大した危険はないと言うので、

八人の者は始めて力を得て公園を出で途中で支那の巡警に護送され、

首尾よく日本租界に入ることができた。



さて自分の家に帰ってみると家中はがらあきである。妻女の影も見えない。

何がなにやらさっぱり分らぬ。

そのうちに友人が来て皆汽船に逃げたから早く行けというので、公園に残った

四人の救出方を領事館に届け出で、船に行くと避難民のすし詰めである。



女子供は極度の恐怖に脅えている。人間と人間が重なり合うたようにして

込み合うている。中には病人もあり実に悲惨なものと思うた。

ようやく妻女を尋ね出したが、着の身着のままではあるが無事に避難していたので、

自分は早速義勇隊に出ることにして、一応家に帰り服装を改め夜の十二時から

陸戦隊の歩哨と一緒に任務に就いた。(桜井悌吉氏談)》



つづく

ベイツの盗品リスト

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/25 15:46 投稿番号: [1342 / 2250]
つづき

松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   143〜144p


《 最後の三種類をのぞいた他の品物はすべて、私の敷地から持ち去られたのである。


一   食料品 − 果物・牛肉・魚の缶詰、砂糖、食料雑貨類   (現地通貨で)   三五元

二   道具、台所道具 − 鋸、手斧、金槌二個、ベンチ、バリカン、

   重たいアルミニウム製台所道具五個、ライター四個     四五元

三   羊毛製衣料 − 重い外套、セーター二枚、毛皮付の婦人コート      二二〇元

四   絵画 − 中国画五巻、金箔の額つき西洋画複製大型二枚、同小型三枚     一八一元



五   蓄音機とレコード − 蓄音機   (七五元)、レコード八五枚

   (すべてアメリカ製とイギリス製で平均四・五元)     四五七・五〇元

六   毛布 − 北京絹の大 : 一六〇元と一二五元、

   北京絹の小 : 一九元三枚    三四二元

七 ランプと傘   −   大きい石油ランプ一式、特製の傘付電気スタンド一個    一九元

八   磁器   −   高級な花瓶二個、古壺五個      五五元



九   テーブルクロスと刺繍飾り   −   大きいテーブルクロス四枚

   (アメリカ製リンネン高級品、単価五二元)、ナプキン二四枚   (七〇元)、

   昼食会用上質リンネンクロス六枚   (単価一二元)、ナプキン四二枚   (四〇元)、

   高価な絹の刺繍飾り七枚   六五元)           四五五元

一〇   寝具   −   尚級シーツ九枚   (単価七・五〇元)、枕おおい六枚   (単価四元)、

   掛布四枚(単価   一一元)    一三五・五〇元



一一   自転車   −   子供用            一五元

一二   切手アルバムと収集切手   −   二人の男の子の収集     五〇元

一三   机   −   上等なアメリカ製のウインスロップ総督型、机の上面とガラス戸、

   鍵付の引き出しが壊され、切り傷をつけられる         二五元

一四   鍵   −   (トランクや箱の破損も含む)   高価なダイアル錠五個     二〇元


一五   ドライ・クリーニングやアイロンないしは洗濯された物   −   家族の衣服と

   家庭所有リンネンの残りがすべて汚損され踏みつけられる      五〇元


      合計二〇一五・〇〇元

   アメリカ通貨による請求

          一ドル=三・四〇元    合計五九二・六五ドル)   〈①220〜221頁〉



この盗品リストを見るとき、明日にも前進命令が下るかもしれない日本兵が

持ち出したものか、それとも、スティールが表現した   「逸品」   ばかりの宝の山に

入った難民達が略奪して露店に並べた   (後述)   ものか、

正常な判断力を持つ者なら、ためらわず後者を指し示すだろう。》



*   二にベンチとあるのは、多分ペンチの誤植と思われるが一応元のままにしておく。

   三の毛皮付婦人コート   これも兵隊は着られない。

   一一の子供用自転車   こんなもの兵隊が盗んでどうするのだ。

   こういう物は中国人が略奪して、露店で売っていると解釈するのが自然だろう。

   ベイツ達外国人はあくまでも、日本軍の犯行にしたいらしい。



*   「リッグズが目撃者」   と書いているが、11回の略奪すべてに

   立ち会ったわけでもあるまいに。

   最初の徴発は本物だが、後はどうか判らない。

第二次南京事件8 漢口8

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/24 15:46 投稿番号: [1341 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
91〜92p


《 前後の事情が大分気になりだしたのでまた日本租界に電話したら、

今度は既に不通で日本租界の様子はサッパリ分らなくなった。

外は相変わらず騒々しい。



それで表戸をあけるのは危険なので二階の戸のシャッターをあけて覗くと、

路上に立佇った群衆が皆店の方に向っていて、自分がシャッターをあけたのを

気づいたのか、二階を見上げて何か言うている。

なんとなしに危険が予感されたので書類、帳簿、金庫などを一まとめにして

二階に持ち運びおき、しばらくして外を覗くと大分人も減っている。

それが午後の五時半頃であった。



今のうちに夕飯にしようと言うので三十分くらいで済まし、

店に出て腰を下ろすと店の入口の上のガラス戸に大きな煉瓦の破片が飛んできた。

続けざまに二三個ぶつかったと思うまもなく戸外に喊声が上がり、

正面の戸を打   (たた)   き破る音がする。



いよいよ危険が切迫したので、足の不自由な妻女をボーイに背負わせ、

友人を先頭に裏門口から飛び出し、近くのフランス警察署に駆け込んだ。

後から十四五人が追跡したようであったが、フランス警察の巡査が追っ払ってくれた。

落ち着いて見ると、これも競馬場帰りに群衆に追い掛けられた日本人三人が避難している。



そのうちに署長が応接に出て来たので、店の方の手配をしてくれるかと

思うていると何の沙汰もないようだ。

様子を見るとむしろ支那の群衆が日本人取り戻しに押し寄せしないかを

恐れているようであった。



それかあらぬか皆を招じて奥の部屋に入れ、仏租界内在住の日本人数を

問い糾しなどしたが、まもなく巡警が三々五々在留民を連れ出してくる。

夜になって五十余名の多数が集まった。

皆急場なためにバスケット一つくらいしか持ち出せない。

その間にフランス領事も出て来て、各室から椅子を集めさせたり茶を

勧めたりしてすこぶる親切に取扱ってくれた。



自分は店が気がかりなのでボーイをして探見さしたら、暴徒が店内に押し寄せて

掠奪最中とのことなのでいよいよ引揚げに決心した。

フランス警察から日本領事館に電話で交渉の結果、小蒸気船で救出に行くという

返事だったがなかなか来ない。再三電話してみてもだめだ。

皆憤慨するがどうにもならない。

そのうちに幾度目かの電話でようやく利泰碼頭に汽船を廻したことが分った。



そこでフランス領事の意見で、多数の日本海兵に来られては面倒を惹起す恐れあるから、

安南人の巡査で護送すると言うので二十人余りで前後を護衛し江岸まで送られた。

その頃はあいにく烈風で小蒸気船がうまくハルクに着かないので、

皆非常の危険を目しようやく乗り移ったのが夜の十一時半であった。



江岸までの途中では夜遅いのではありほとんど妨害者もなかったが、

皆が船に乗り込んだ前後に埠頭の支那人から酒手を強請された。

こうしてまずまず無事で五十幾名は大福丸に収容された。(湯浅九三二氏談)》


つづく

委員会が記録する日本軍の暴状

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/24 15:35 投稿番号: [1340 / 2250]
12月19日〜1月上旬

児島襄著   『日中戦争4』   250〜251p


《 十二月十九日から一月上旬にかけて、委員会が耳にした被強姦者は、

「七十五人」 である。

掠奪された品目は、次のとおり。



「自動車三輌、自転車六台、水牛二頭、牝牛九頭、ロバ一頭、

フトン二十六枚、フトン・カバー十二枚、ピアノ一台、タバコ七缶、

靴一足、時計一個、背広一着、トランク一個」

そして、なぜか、人力車一台、蚊帳 (かや) 三、消防自動車のタイヤが

〝強奪〟 された、という。



消防自動車のタイヤは、予備品としての効用があろうが、人力車はどうするのか。

とくに真冬の南京での蚊帳の利用法は、なかなかに推断し難い。

あるいは、死体が多いために冬でもハエが発生したのだろうか……。


この第二期は、まさに第十六師団が南京を管理した時期にはいっているが、同時に、

日本側が、本格的に兵士の悉意的行為の取りしまりにのりだしたころでもある。》



*   真冬に蚊帳を盗んでどうするのか、というのもあるが、

   背広も意味ないだろう。兵隊には着る時がない。

   第一、他人の背広は盗んでも、自分の体に合わない。



   それだけではない、ここには書いてないが、ベイツの   「盗品リスト」   によると

  「子供用自転車」   というのもある。

   こんな物、兵隊が盗んでも使えないだろうに。

そこで、次に、ベイツの   「盗品リスト」   を紹介しよう。



松村俊夫著   『「南京虐殺」   への大疑問』   142〜143p


《『資料集①』   に、「日本兵の略奪による損失に関するM・S・ベイツの申立て」

(南京、一九三七年十二月十八日から一九三八年一月十一日まで)という文書がある

  〈①219〜221頁〉。


ベイツは国際委員会の中心人物であり、金陵大学の教授で宣教師でもあった。

この文書の日付と宛名の明記はない。

しかしここには、彼の私宅へ日本兵が十回か十一回やってきて略奪し

破壊していったという品目が書かれている。

同じ国際委員会のリッグズが目撃者だったとか、日本軍補助憲兵も侵入したなどと書き、

その件を日本大使館に文書で連絡したが関心を示さなかった、と強調している。



ここに、日本兵が   「家の二部屋の床に排便を残していった」   とまで書きつつ

示した盗品リストを転載する。先の郭岐の文章にある盗品の品目と比べれば、

略奪の真相が見えてくるのではないだろうか。



  (以下に品目別に盗難および破損のリストを記す。

   しかし、多くの細かい物は除外してあるし、私の家族が危険を避けて

   不在であることにより、不十分さは避けられない。)》


ベイツの   「盗品リスト」   は次で

第二次南京事件8 漢口7

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/23 16:52 投稿番号: [1339 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書
89〜91p


《 租界で雑貨商を営業していた共益洋行主人湯浅氏は語る。

三日午後四時頃日露、租界の友人宅に居たら日本租界から水兵と車夫の衝突を

電話してきた。友人と相談して重要書類など始末しておくことにして店に帰った。

途中で糾察隊十数人を乗せた自動車が日本租界方面に向けて急速力で走るのを見た。

店に行き着いて五分間も経たぬうちに、またもや三十余の糾察隊が

東に向って急ぐ、その後から二三百人ほどの群衆が続く。



その頃までは店の附近は格別変わったこともない。これらの糾察隊は

租界鎮撫のために行くものと善意に解釈していたくらいであった。

当日は農民協会か何かの成立大会があり、これに参加した各地の労働代表を

歓迎するとかで、附近の支那店舗は大半店を閉めて休業していた。

平素同租界では事変の際には必ずフランス警察から店を閉めるように布令を出す。



しかし当日の支那店舗の閉店は主意が違うので気にもかけないで居ると、

日本租界の知人が飛び込んできて、『競馬場帰りに大智門の四辻まで来ると

にわかに車夫が車を止めて、今我々の仲間が日本人に殺された、

こうしているとお前も大変だから下りろと言うので逃げて来た』 という話。

しばらくすると二人の日本水兵を後ろ手に縛り大勢で引き立てて

総工会本部に連れ込んだとの噂が伝わってきた。



いよいよ物騒だと感じたので店の戸を閉めようとするところに、

人相の悪い三人の支那人が飛び込んできて、旦那は車夫事件を知ってるかと言う。

今聞いたと答えると、どんな仕返しするかも知れぬから早く閉めろと言う。

そしてキョロキョロ店内を見廻す。

なんだか不気味だが外はますます騒がしそうなので思い切って閉めた。

すると通行人が言い合わしたように店の前に足をとめたが

三人の支那人が出て行って追い払った。



妙に親切なことをすると思うて見ていると、旦那は見忘れてるか知らぬが、

自分どもはかねがね買い物に来てよく旦那を知ってるので注意しにきたのだと言う。

なるほどよく見ていると見覚えあるも頭毎日のようにサックか何か買いに来る

近所の女郎屋の主人どもだ。もちろん無頼の破戸漢である。

厄介なやつに見舞われたと思うたが仕方がない。



そのうちに何だかそわそわして外に出てみたり、また戸を閉めたりしていたが

しばらくすると大分人も減ったようで安心と思うからお暇すると言う。

そして酒手一ドルをくれと切り出した。気味悪いほど軽少だが増してやる必要もなし、

その通り出してやると店内を見返り見返り出て行った。》


つづく

1月10日 ラーベの日記

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/23 16:44 投稿番号: [1338 / 2250]
一月十日

(前略)

《   九時

クレーガーが、石田少佐から返事をもらって帰ってきた。

日本軍はなんと、我々に米や小麦粉を売ろうとしない。

はっきり約束したくせに。自治委員会だけに売ろうというのだ。

我々のほうでは、言われたとおり今朝早々と米の販売を中止してしまった。

難民たちはひどくがっかりした。自治委員会がまだ専用の販売所を

開いていないからだ。これは大変なことになる!



ローゼンが本部に訪ねてきた。日本軍は、私にだけでなくローゼンにも、

報告書に少し手加減してもらいたいといってきたという。

ローゼンはいった。 「だから、 『あなた方に水と電気をとめられたと

報告しておきましょう』 といってやりましたよ」



  十六時

自治委員会は、安全区のなか、我々の本部の近くに販売所をつくった。

これで、さしあたっての最大の難問は解決したことになる。

アリソン氏に引き合わせるため、ミルズは私をつれてアメリカ大使館に行った。

これまで我々が日本大使館に毎日提出してきた、ひきもきらない

日本兵の犯罪に関する報告書を代わって作ってくれることになったのだ。



ヒュルターから聞いたところでは、クトゥー号の船内で、P氏とⅤ・S氏が

衝突したそうだ。その結果、P氏はⅤ・S氏に   (武器はピストル、距離は三十歩の)

決闘を申しこんだ。そうこうしているうちに、二人は香港についた。

だが、香港では決闘がゆるされていないので、ドイツにもちこすことになった。



その後P氏もⅤ・S氏も別々の船で帰国した。まったくなにをかいわんやだ。

われわれはここで、命がけで他人の命を救おうとしているというのに、

同じドイツ人が自分の命をもてあそんでいるとは。》

ゴキブリ公安スパイ発見やで〜

投稿者: momentheight 投稿日時: 2011/12/23 08:44 投稿番号: [1337 / 2250]
福岡県警が誇る悪のショッカー岡元公安署長〜西南大学商学部岡元大輔〜ゴキブリ公安スパイ鹿毛信義〜ゴキブリ公安スパイ古賀麻里恵〜久留米大学院にて福岡県警岡元署長の息子で元福岡県警の岡元大輔から怪しいコンセントをもらい…それに反応した久留米市北野町鹿毛信義〜からの〜植物園前古賀麻里恵501〜パソコンには押収品のゲーム入れるからとプログラム入力されたねん〜日本保守はゴキブリに抹殺されよるで( ̄▽ ̄)外国人も公安スパイにやられよるで、結局みんなゴキブリ公安スパイにやられよるで( ̄▽ ̄)by Twitter FBIcommanding

第二次南京事件8 漢口6

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/22 19:01 投稿番号: [1336 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房


87〜88p

《 時の指揮官は岡野海軍中佐。当時海軍省は左の如く発表している。


(前略)副領事帰ラントスルヤ   暴民ニ襲ハレ水兵ヲ追ヒ駆ク。

陸戦隊ノ揚陸半舷上陸中ナリシモ   急ヲ聞キテ陸戦隊ハ   直ニ準備ヲ為ス。



一週間以来   甚シキ支那人ノ愚弄ニ   慷慨シ居リ 且ツ 目前ノ暴行ヲ知レル乗員ハ

期セズシテ総員上陸ヲ願ヒ   直チニ準備ヲ整フ。   時二午後四時頃

一小隊総領事館前ニ整列ス   折シモ数千ノ   群衆小学校前迄来リ、小供ヲ先ニ立テ

赤旗ヲ振フ指揮者ノ下ニ   喊声ヲアゲテ   河岸ニ殺到セントス。



陸戦隊直ニ道路ニ散開シテ   小銃ヲ擬ス。 先ヅ空砲ヲ放チ   次デ数発ノ実弾ヲ射ツ。

暴民雪崩ヲ打ツテ退却、掠奪シツヽ租界外ニ向フ。平和街ニ接近スルヤ

頑トシテ退カズ。 己ムヲ得ズ   陸戦隊ハ本願寺ノ土堤ニ向ツテ   機銃ノ威脅射撃ヲ行フ。

群衆ハ 痛ク殴打サレタル 邦人四名ヲ残シテ 逃去レリ。



一隊ハ集合所ノ 兵員収容ノタメ   投石侮辱ノ中ヲ潜リツヽ   実包威嚇射撃ニテ

漸ク集合所ニ達シ、 上陸員一三〇名ヲ収容、 帰途鉄路外ノ邦人ヲモ   収容

租界内ニ引揚ケ   二百名ノ陸戦隊ニテ   租界ヲ護ル。

更ニ電燈会社ニ   機関兵ヲ派シテ   運転点燈ス。》



89p

《 機関銃の一撃により租界内群衆の掃除ができた。

と見る間に各戸から飛び出した邦人婦女子は、誰誘うともなく、

まだ消え失せぬ砲煙の匂いの中を大正会館さして押し寄せた。

飯椀や箸を持ったままで駆けつけた者、細帯一つで逃げ出して来た者、

血に染んだ手拭で包帯した者、びっこ引く者、

老幼さまざまの男女でたちまち一杯になった。



その後の租界は引揚げ者の処置、警備の手配、食事の準備に、

やはり戦場のような混乱状態が続けられた。

こうした混乱の半ばに、西の方はるかに火の手が上がった。

旧独租界の三井木行に暴徒が火を放ったのである。



大事に至らず消し止めたが一時は租界内はこのためにいやが上に騒ぎを大きくした。

陸戦隊によって租界を追われた群衆は、続々として支那街に引揚げる途すがら、

やはり邦人の店舗を見逃さなかった。三井木行を襲うたのもそれである。

さらに日ドイツ租界の、西口、田島の両靴店、仏租界の共益洋行などは、

租界内の各戸にも劣らぬ危険と惨害を受けた。》


つづく

1月9〜10日 日本人各人の対中意見

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/22 18:52 投稿番号: [1335 / 2250]
児島襄著   『日中戦争4』   263p


《 (川越大使の談話の) 二日後 (9日) の閣議では、かねて強硬意見を

開陳している末次内相が、よりエスカレートして強調した。


「ことここにおよんで、なお国民政府が迷夢よりさめず、妄動をつづける以上、

断乎として宣戦布告によってさらに徹底的戦果をあげるとともに、軍需品の

送道をたち、軍事上、財政上、ともに最後的打撃をあたうべきである」



そうかと思えば、回答期限にさだめた一月十日、

駐独大使東郷茂徳はドイツ外相ノイラートに、通告した。


「日本政府は、もはや蒋介石を中国の中央政府の代表とは考えていない……。

中国側が軍事的勝利をおさめる可能性を考えるのは、幻想である」》



*   日本が宣戦布告をしなかったのは、元々戦争する気はなかったからで、

   中国から仕掛けられた戦争を、ある程度制圧した後、

   必ず停戦や和平を提案していました。

   しかし、中国がどうあっても戦争をやめないので、それなら、

   本気で叩いた方が早いのでは、という意見が台頭して来るわけです。


   ただし、宣戦布告はしませんでした。

   それは、米国が中立法を発動して、対日輸出を止めるからです。

第二次南京事件8 漢口5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/21 18:56 投稿番号: [1334 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』   田中秀雄編集・解説   芙蓉書房
86〜87p


《 南小路から平和街に出る角の理髪店の隣家の田村氏の宅では、産後まもなく

身を病床に横たえていた妻女が、暴徒の襲来と聞いて気絶してしまった。

主人は二階にいたが暴徒に支えられて降れない。


理髪店の城谷氏は変を聞いて駆け付けるところを暴徒に捉われ、

かろうじて本願寺の土塀を乗り越えて免れたが、残された病女は暴徒のために

蒲団を剥がれ足蹴にされた上に、醜い死骸となってそこに遺棄された。



同じ家並みの愛知亭では、妊娠五ケ月の妻女が暴徒のために二階から引きずり降され、

散々に殴打されて数ケ所の負傷に血まみれになって仆れていたのを、

おりから暴徒の包囲から遁れてきた隣家の一心堂主人に助けられた。



その次の花井洋行は事変勃発後直ぐに戸を閉ざし、家内中が二階に隠れたと

ほとんど同時に凶器を以って表戸を毀つ音がする。 続いて商店棚や商品の

毀される音、大勢の罵り騒ぐ声がして二階にまで押し寄する気配がしたが、

階段の仕切戸が固かったために断念したのか音もしないようになった。

と思うまもなく盛んに煙が漏れてくる。火を放けたなと思うが如何ともしようなし。

そのうちに隣の愛知亭では女の悲鳴が聞こえる。



一同生きた心地もなく、息を潜めていると、南小路の方面に銃声が起こり、

ドッという喊声とともに暴民が引き上げる様子、続いて店内を荒らしていた

一団も逃げ出したので始めて階下に下り、水道をあけて火を消し

皆で裏口から逃れて水兵に収容された。



この前後に本願寺に逃げ込んだ七八人の一団は、一室にこもって

内から戸を押えていると跡を追うて来た暴徒に苦もなく破られる。

次の室に退くとまた戸を破られる。こうして室から室を逃げ廻り

最後に隣家の薄暗い一室に隠れ、椅子卓子などを積み上げて入口を防ぎ、

本願寺の住持の最後の称名に一同覚悟を定めていたが、

支那人ボーイが機転でこの室には病人がいると言うたので

暴徒もそのまま立ち去った様子に始めて蘇生の思いをした。



顔見合した一同の頬には自ずから熱涙が伝うたという。

僅々二十分くらいの間にこれだけの凶暴を働いた群衆は、

勢いに乗じてまたもや南小路になだれ込み掠奪にかかった。

そこには雑貨店、呉服屋、食料品店、貴金属店などが軒を連ねている。

暴徒としては見逃せないところだ。各戸の運命は風前の灯火と迫った。



危機まさに間一髪、ドドドッと音立てて打ち放された機関銃の弾は、

猛り狂う暴徒の前面に火花を散らして四散した。

急を聞いて駆け付けた陸戦隊が、南小路の四辻近くに機関銃を据え付け

最後の処置を断行したのである。》


つづく
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