第二次南京事件8 漢口10
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/26 18:41 投稿番号: [1348 / 2250]
『もう一つの南京事件・日本人遭難者の記録』
田中秀雄編集・解説
芙蓉書房
94〜96p
《 このほか郊外なり競馬場なり出かけていた人々で、群衆のために帰路を絶たれ、
やむなく知り合いの支那人に頼んで支那服に着替え、
雑踏に紛れてようやく租界に入った者、見つかって袋叩きにされ、
散々の体で脱け帰った者、そのまま捉まって引き立てられた者など、
惨劇は処々に演ぜられた。
当日の死傷者は筆者には正確には分らぬが、
死者一人、重軽傷者四五十人と称せられている。
最後に特筆大書して記念すべき事柄がある。事変勃発当日、暴徒のために拉致せられ、
一時はその生死をさえ懸念された者に水兵十一名と、石井小兵衛 (同仁会病院)
石田倉之 (三井木行) 杉田悌蔵、服部又次郎など数氏があった。
これらは皆群衆のために包囲され散々に殴られ、こづかれした上で、
手取り足取り引きずり行かれたもので、皆フランス租界外の総工会本部に監禁された。
四月十一日海軍省着電によれば左の通り報告されてある。
水兵六名ハ事件ヲ知ラズ 又 飲食店ニアリシ者ニシテ
散々殴打サレタル上、 総工会ニ監禁サル。
唐生智四日朝之ヲ聞キテ 直 (ただち) ニ 軍隊ヲ派シテ之ヲ引取ル。
総工会之ニ対シ、日本側ニ有利ナル条件ヲ 容レシムル人質ナレバ、
此儘 (このまま) 返サバ 承知セズト云ヘリ。
唐ハ之ヲ日本側ニ送ラントセシモ 糾察隊、衛戍 (えいじゅ) 司令部ヲ監視シテ渡サズ、
軍隊ト糾察隊衝突セバ 途中負傷者生ズべク、 完全ニ送還方 総領事ト協議、
七日夜漸ク 取戻シヲナスヲ得タリ。
或いは人質だと称し、或いは軍憲の命令にも反抗する、これではまったくの土匪である。
石井氏ら数名は領事館より支那側に厳談の結果、
ようやく四日夜十二時に釈放されて帰ってきたが、
監禁中は足と足を麻縄または鉄鎖でつなぎ合わせ、
まったく囚人同様の取り扱いを為せる上、
時々青龍刀を鼻の先に突き付けては散々に愚弄した。
殊に我水兵に対しては極度の暴虐を加えた。
総工会に監禁中は石井氏ら同様の迫害を受けたのはもちろん、
その当初は帽子も所持品も奪い去られ、兵服のままで後ろ手に縛り上げ、
群衆悪罵の中を総工会に曳 (ひ) かれたとも伝えられている。
しかして当時の支那新聞にはこれらを指して 『捕虜』 と書いてあった。
ああ、幾多の我同胞は、千里の異域においてこうした暴虐に苛まれ、
こうした侮辱にさらされているのだ。》
* 日本人というのは、どうして歴史に学ばないんでしょうか。
戦前は知らずとも、戦後、どれだけの日本企業が酷い目に遭ったか。
団塊世代の社長なら知っているでしょうに。
善人ぶって中国を美化し、何度、酷い目に遭っても、
中国に進出する企業が後を絶たない。
進出しても、儲ければ 「我々の財産を奪った」 と言いがかりをつけられ、
襲撃されて、技術を奪われ、放り出されるだけなのに。
* この他にも、 『もう一つの南京事件』 には、重慶・宜昌・長沙・蕪湖・
鎮江・九江・杭州などでの記述もありますが省略します。
次の中国による暴虐は済南事件です。
94〜96p
《 このほか郊外なり競馬場なり出かけていた人々で、群衆のために帰路を絶たれ、
やむなく知り合いの支那人に頼んで支那服に着替え、
雑踏に紛れてようやく租界に入った者、見つかって袋叩きにされ、
散々の体で脱け帰った者、そのまま捉まって引き立てられた者など、
惨劇は処々に演ぜられた。
当日の死傷者は筆者には正確には分らぬが、
死者一人、重軽傷者四五十人と称せられている。
最後に特筆大書して記念すべき事柄がある。事変勃発当日、暴徒のために拉致せられ、
一時はその生死をさえ懸念された者に水兵十一名と、石井小兵衛 (同仁会病院)
石田倉之 (三井木行) 杉田悌蔵、服部又次郎など数氏があった。
これらは皆群衆のために包囲され散々に殴られ、こづかれした上で、
手取り足取り引きずり行かれたもので、皆フランス租界外の総工会本部に監禁された。
四月十一日海軍省着電によれば左の通り報告されてある。
水兵六名ハ事件ヲ知ラズ 又 飲食店ニアリシ者ニシテ
散々殴打サレタル上、 総工会ニ監禁サル。
唐生智四日朝之ヲ聞キテ 直 (ただち) ニ 軍隊ヲ派シテ之ヲ引取ル。
総工会之ニ対シ、日本側ニ有利ナル条件ヲ 容レシムル人質ナレバ、
此儘 (このまま) 返サバ 承知セズト云ヘリ。
唐ハ之ヲ日本側ニ送ラントセシモ 糾察隊、衛戍 (えいじゅ) 司令部ヲ監視シテ渡サズ、
軍隊ト糾察隊衝突セバ 途中負傷者生ズべク、 完全ニ送還方 総領事ト協議、
七日夜漸ク 取戻シヲナスヲ得タリ。
或いは人質だと称し、或いは軍憲の命令にも反抗する、これではまったくの土匪である。
石井氏ら数名は領事館より支那側に厳談の結果、
ようやく四日夜十二時に釈放されて帰ってきたが、
監禁中は足と足を麻縄または鉄鎖でつなぎ合わせ、
まったく囚人同様の取り扱いを為せる上、
時々青龍刀を鼻の先に突き付けては散々に愚弄した。
殊に我水兵に対しては極度の暴虐を加えた。
総工会に監禁中は石井氏ら同様の迫害を受けたのはもちろん、
その当初は帽子も所持品も奪い去られ、兵服のままで後ろ手に縛り上げ、
群衆悪罵の中を総工会に曳 (ひ) かれたとも伝えられている。
しかして当時の支那新聞にはこれらを指して 『捕虜』 と書いてあった。
ああ、幾多の我同胞は、千里の異域においてこうした暴虐に苛まれ、
こうした侮辱にさらされているのだ。》
* 日本人というのは、どうして歴史に学ばないんでしょうか。
戦前は知らずとも、戦後、どれだけの日本企業が酷い目に遭ったか。
団塊世代の社長なら知っているでしょうに。
善人ぶって中国を美化し、何度、酷い目に遭っても、
中国に進出する企業が後を絶たない。
進出しても、儲ければ 「我々の財産を奪った」 と言いがかりをつけられ、
襲撃されて、技術を奪われ、放り出されるだけなのに。
* この他にも、 『もう一つの南京事件』 には、重慶・宜昌・長沙・蕪湖・
鎮江・九江・杭州などでの記述もありますが省略します。
次の中国による暴虐は済南事件です。
これは メッセージ 1343 (kireigotowadame さん)への返信です.