入って中国人に南京事件真相議論しましょう

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昭和元年 中国での暴虐事件5漢口

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:56 投稿番号: [1275 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注:この本の原本は昭和2年に書かれたもの。


109〜111p


《 本年一月初めの英租界回収事件がこうした支那人の対外観念に油を注いだ

のは言うまでもない。二月頃から日本租界外の同文書院附近の支那公園や

物持ちの屋敷の立ち樹、垣根などを引き抜いて持ち去るものがあった。

それが漸次に日本人住宅におよび鉄路外にある四季花園、共楽花園、

小宮木工場などに手を付けた。

これらの多くは附近農民の女子供で、追えば逃げるが、また直ぐに引き返してやってくる。

何時の間にか垣根の如きは一本残らず取り去られた。



何でも農民協会か何かで、外国人の境内にあろうが富豪の邸宅にあろうが、

立ち樹などは皆お前たちに授かったものだ、

当然奪取して構わないといったようなことを吹き込んだ。

垣根の竹ざれ一本でも薪になるので、かようの宣伝は勘定高い支那人には天の福音である。

最初は女子供のみであったのが大人も出動するようになった。

こうなっては支那の巡査も手の着けようがない。



隠忍主義で固められた日本側でも痛ではあるが見逃しておくと、

後には斧、まさかりなど持ち出して大びらに立ち樹を切り仆   (たお)   す。

前に挙げた三宜洋行襲撃事件の如き実にこれらにその端を発したのである。



さらに街上では車夫、苦力の徒が威張りだした。

邦人婦女子が歩いていると車夫が押し寄せて無理に乗車を迫る。

やむなく乗ってやると法外の賃銭を強要する。

手荷物を提げていると苦力が来て否応なしに強奪して持ち運ぶ。

中には途中で他の縄張りだと称し別の苦力が出て肩代わりする。

その度ごとに滅法の料金を取られる。



もしこれを拒もうものなら、何を仕向けるか分らぬ。

何時の間にか押し寄せた暴徒の群れに両手を取られ前をまくられた婦人もある。

後から裾をまくって棍棒を差し込まれた者もある。

鬼のような苦力が自分の股引を脱いで前を露出したのを見せつけられた女もある。



漢口の外国租界には揚子江に沿うてコンクリートで敷き詰めた美しいバンドがある。

従前は支那人を入れなかったものだ。

それが革命軍の武漢占拠以来は全然制裁がつかなくなり、汚い無作法な苦力や、

高慢そのもののような学生で満たされ、夕方など婦女子が散歩していると

これらの群れが行く手をさえぎり、腕をまくり肩を怒らして

此方が右に行けば右、左に行けば左して悪戯する。



在留外国人は、のびのびした気持ちで散歩することすらも許されなくなった。

そのほか、マーケットに買い物に出かけた婦人が袂に火のついたままの

巻きタバコの吸殻を投げ込まれ着物を台無しにしたり、

帯に汚物を塗り付けられたりした者はざらにある。》


つづく

昭和元年 中国での暴虐事件4漢口

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:44 投稿番号: [1274 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説
注:この本の原本は昭和2年に書かれたもの。


108〜109p

  三宜洋行襲撃   (昭和元年三月)


《 漢口大智門外三宜洋行においては突然暴民に襲われ店舗、居室、倉庫とも

全然破壊掠奪(りゃくだつ) された。

当初は附近の農民らしき者に女子供も混じり垣根や立ち木を抜き取りにかかったので、

店の人が制止すると、たちまち多数の群衆殺到、

屋内に押し入り階上階下一物を止めざるまでに掠奪した上、

畳、建具を剥がし、床板、窓ガラス、窓枠までも取り去り、

内外ともほとんど原形を留めざるに至った。


掠奪した品物のうち、ストーブの如きはまだ火がおこっていて

外囲の鉄筒は焼けて火のようになったのを、平気で担いで行った。

支那人の貪欲は際限がない。



  侮蔑と凌辱

以上のほか、三峡の上流において土匪のために船長は殺され、

二名の船員は人質にせられ一年後に十万円の身代金を支払うてようやく

救出された有名な宜陽丸事件、

頻々として行わるる支那軍隊の日本汽船射撃、無賃乗船強要、

その他各地方で起こった大小の事件を挙ぐればまったく屈指にいとまない。

しかもこれら事件の多くは事実上泣き寝入りになっている。



関係官憲よりそれぞれ抗議なり賠償要求なり提出してはあるが、

大部分は幾年経っても未解決である。

かようの事実は支那人の頭にいかに響くであろう。いうまでもなく結局殴り得だ、

殺し得だ、奪い取っただけが得だという考えを助長したに相違ない。

由来支那人ごとき現実主義の国民には即賞即罰を必要とする。

悪事を働いた現場を押えての懲罰にはいかなる厳刑も甘受する。



これまでの英米人はこの呼吸を呑み込んでいた。

かの英国軍艦の四川萬県砲撃事件の如き、喧々囂々と騒ぎ立てたのは

無関係の他地方人で、肝腎の萬県市民なり当の相手の軍隊なりでは

むしろ英艦の大砲の威力に戦き恐れたと称せられている。



我が日東の君子国は、ややもすれば殴られてお辞儀をしてきた。

前にも言う如く、怒らされても刀が抜けなかった。

彼ら支那人の前には、サイ (クサカンムリ+最) 苒   (さいぜん)   たる三島の

木履児   (もくりじ)   はどこまでも甘いもの〕   にされてしまった。

殴られても打たれても尾を振って跟   (つ)   いてくる喪家の犬だとせられた。》


つづく

ラーベの日記 1938年1月1日

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 18:32 投稿番号: [1273 / 2250]
一九三八年一月一日


(前の部分は   日本軍の問題に関係ないので省略)


《 夜の九時に日本兵がトラックに乗ってやってきて女を出せとわめいた。

戸を開けないでいたらいなくなった。

見ていると中学校へむかった。



ここはたえず日本兵におそわれている。

私は庭の見張りをいっそう厳重にして、不寝番に警笛を持たせた。

こうしておけば、いつお越し下さってもすぐに馳せ参じられる。

だが、ありがたいことに、今晩は無事に過ぎた。》



*   既に慰安所を作っているのに、夜中に   「女集め」   に来るかー?

   しかも、喚いただけで、サッサといなくなった??

   日本の正月は1月1日だが、中国は旧暦で祝う。

   従って、1月1日が売春婦の正月休みとは限らない。


   この “日本兵” とみられている者の行動、ラーベ達に

   日本兵を悪く印象づけさせるため、わざとやっているとしか見えないが?

Re: 南京虐殺事件否定派の見苦しい曲解(1

投稿者: tyankonabejp 投稿日時: 2011/12/05 17:27 投稿番号: [1272 / 2250]
  たわけ、ばかめ、腐れ脳、妄想、捏造、反日・・・・・まともな論議ができない人間は、うす汚い罵詈雑言をならべて、投稿者個人への人格攻撃を繰り返すしかないようです。   もっとも、wadatumi氏などは、議論にあたいしない低レベルの投稿はすぐに無視リストに放りこんでしまって、見向きもしていないらしいので―――
ぜ〜んぜん痛くも・かゆくも・ないでしょうけどね(。-∀-) 。

>田中正明著   『南京事件の総括』   でも、中島中将の『捕虜ハセヌ方針』というのを   銃を取りあげ   釈放するという意味だ、などと   主張している。
>しかし、東中野などの   否定派は、「中島日記」   を引用する時、意図的か否かは分からないが、次の部分を   完全に無視している。
>「此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず   一案としては百二百に分割したる後適当の処に誘きて   処理する予定」

>捕虜を追放するのに、なぜ   「大なる壕」   が必要なのか。  

  虐殺否定論者は、意図的に都合のよい部分だけを引用して、勝手な解釈で文脈をねじまげますが、肝心なところはムシしてることが分かりますね。   捕虜にした兵士を解放するのに、大きな壕を掘る必要があるか、ということには答えられないようです。

  それにしても、具体的な資料にもとづいて客観的に事実を証明してみせるあなたの書き込みにたいして、出所のあやしい右翼サイトのコピペしかできず、しまいには自分の思いこみでしか語れない否定論者の書き込みとでは、だいぶレベルがちがいすぎています。もう論争の対象にすらならない感じです。
南京大虐殺の議論は、もうとっくに勝負がついたなとおもひます。
YE━━━(゜∀゜)━━━S!!
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。
もういっぺん言います。とっくに勝負がついたなとおもひます。

Re: 南京虐殺事件から歴史の教訓を学ぶべき

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:50 投稿番号: [1271 / 2250]
>なぜ南京事件のような残虐行為を、日本軍が起こしたのだろうか。


その発想が間違っている。

やっていることは、どこの国もおなじ。

ではなぜ、日本人だけが、残虐行為を起こしたと思うのだろうか。

それは、日本人が、あまりに、非残虐的精神の持ち主だからだ。



中国人などは、虐殺をしても心を痛めない。

だから、彼らからは反省の声は聞かれない。

米国もリンドバーグ以外からは聞かれない。

ロシアからも聞こえない。


要は、日本人があまりにも、善人だから、

ほんのちょっとした事にも罪の意識を感じるのだ。



>いさぎよく   死を選べ、生きて虜囚の恥はさらすな、という規範が
日本軍兵士   一人ひとりに   徹底して   刷り込まれた。


バカめ。

戦陣訓はまだない。

それができるのは、1941年   (昭和16年)   だ。

南京戦は1937年。

当時の日本はタイムマシーンを持っていたのか?



>そうした   恥ずべき歴史の改ざんにばかり   躍起になりながら


恥ずべき歴史の改ざんをやっているのは、おまえだろう。

自覚しろよ。

> 検証・虐殺の背景にあった惨酷な戦争心

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:29 投稿番号: [1270 / 2250]
>11月11日付の第三師団歩兵第六聯隊第二大隊の攻撃計画は、
大隊長から将兵に対して   次のように命じるものとなっていた。

「一般ノ領民ハ総テ城内ニ避難シアルヲ以テ城外ニ在ル一切ノ者ハ
敵意ヲ有スルモノト認メ之ヲ殲滅ス」
「掃蕩ニ方リテハ家屋ヲ焼却スルヲ便トスルヲ以テ之ガ材料ヲ準備
スルコト」

つまり、城外にいる一切の人間を「敵意を有する」   者と見なして
これを   殺害したうえ、家屋を焼き払うことを   命じていたのだ。<



その前に、中国軍が家屋を焼き払っていたがね。


なぜ、こういう作戦を立てなければならなかったかを考えるべきだ。

松井大将の東京裁判の証言。
富士信夫著   『「南京大虐殺」   はこうして作られた』   98pより、


《 一部の将兵はいわゆる便衣兵となり、軍服を脱ぎ、平衣を着て残留し、

我が将兵を狙撃し、我が軍の背後を脅かすことも少なくなく、

付近人民もあるいは電線を切断し、あるいは烽火を上げる等

直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与えた》



秦郁彦著   『南京事件』   72p
《 歩41連隊第三大隊の戦闘詳報


「11月22日   15:00、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ数家屋ニ

終結シアルヲ以テ捕虜トスベク努メタルモ、至近距離ニ達スルヤ、

ピストル、手榴弾ヲ以テ抵抗セルニヨリ全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス・・・」》



また、民家に泊まり、女・子供と油断していたら、手榴弾を投げられたり、

中国軍に連絡されて攻撃されたなど、頻繁にあり、

結局、日本人の善人心の感覚ではやっていけないから、

そういう作戦になってしまうのだ。



もともとは、日本が仕掛けた戦争ではない。

中国が仕掛けた戦争だ。

日本が、停戦や和平を持ちかけても、踏みにじって中国は戦争を続けている。

戦争を仕掛けた中国が止めない限り、   仕掛けられた日本は止めようがない。


諸悪の根源は中国にある。

日本批判は筋違いである。

>検証・虐殺の背景にある犯罪非違の頻発

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 07:07 投稿番号: [1269 / 2250]
>軍がまとめた軍紀風紀に関する犯罪非違の調査結果によると
開戦後   2年間だけに限っても   戦地における   犯罪非違は、
日清・日露に比べて   はるかに高率となっている。<



嘘を書くな。

日清戦争の戦争期間は約7か月

日露戦争の戦争期間は1年2か月


支那事変の2年間は

日清戦争の3倍、日露戦争の2倍

日清・日露に比べて、犯罪が多くて当たり前だろう。


日本人が全員、聖人君子でない限り、犯罪はありえる。

戦時だろうと、平時だろうと。

今だって、犯罪だらけだろう。


犯罪は国家がやれと命令したわけではない。

個人の犯罪まで、日本国の責任にすりかえるな。

> 検証・虐殺の背景にある軍紀風紀の頽廃

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 06:54 投稿番号: [1268 / 2250]
>中支那方面軍に対し、次のような要望を   おこなっている。

   顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ(中略)
   然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ未ダ暇謹ノ
   スクナカラザルモノアルヲ認ム
   就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見
   之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚疑ハザルベカラザルモノアリ
・・・・・
    然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
   努力ヲ望マザルヲ得ズ   (後略)
   (中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)  

同じ内容の要望は   北支那方面軍にも出されているが、
これは   軍紀風紀の粛正が、この時期の   日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを   示している。<



よく読んでみろ。

「之ヲ信ゼザラント欲スルモ」   と書いてあるだろうが。

要するに、これは、中国側や欧米人側の反日宣伝が功を奏しているという事ではないか。


「信じたくないが・・・外国人が言っているから、事実と見るしかない、襟を正せ」

と言う意味だろう。


よく、「火の気のない所に、煙は立たぬ」   と言うが、中国人は、

火をつけてでも煙を立てるのだ、たわけ。

> 検証・虐殺の背景にあった日本軍の体質

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/05 06:44 投稿番号: [1267 / 2250]
>第十軍司令部が   1937年11月30日に   作成した
「南京攻略ニ関スル意見」(丁集団参謀部『南京ヲ急襲ニヨリ
・・・・・
猛毒のイペリット使用を含め、市街に対する   無差別爆撃を、
なんの躊躇もなしに、計画を   たてていたのだ。<



バカめ。

作戦案は、どんな計画だって立てるさ。

だが、実行するかどうかは別だ。



第十軍の意見具申に関して、東京は第一案を受け入れたのだ。

そもそも、参謀本部はまだ、南京攻略を許可していなかった。

南京攻略を許可したのは、12月2日。


逆に言えば、第十軍のそういう態度から、毒ガス作戦を封じるために、

第一案を受け入れ、南京進撃を許可したという事になる。

参謀本部の南京進撃譲歩と毒ガス作戦禁止は一対だろう。

そんなことも解らないのか。

Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか5

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 17:10 投稿番号: [1266 / 2250]
これは幕府山の話だろうが、

最初の捕虜は1万4777名でも、非戦闘員がまじっているのでより分けている。

「971   12月14日   幕府山で一万五千の捕虜を得る」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=971

「972   12月14日   山田支隊   非戦闘員を解放」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=972

残り八千人。


「987   12月16日   幕府山   火災で捕虜逃亡」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=987

残り四千人

三分の一を射殺というから、残り二千七百人


「1002幕府山の捕虜逃がしに失敗射殺1」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1002

「1003幕府山の捕虜逃がしに失敗射殺2」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1003

暗闇の中で逃亡されたため、全員射殺できたわけではない。



「1004幕府山捕虜射殺状況と翌日の調査」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1004

ここでは、六十五連隊将校に戦死者が出ている。

この地では戦闘がなかったにもかかわらず。

それは、この、深夜の移送の混乱の中で、将校が戦死したことを意味する。

最初から、処刑のつもりなら、こちら側に戦死者など出ない。


妄想もほどほどにしろ。

Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか4

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:41 投稿番号: [1265 / 2250]
>派遣軍司令部情報主任参謀で方面軍参謀を兼ねていた中佐が、
捕虜をどうするかという師団からの問い合わせにたいして、
くりかえし「ヤツチマエ」と命令していたという記録もある。
これは、当時   方面軍司令の専属副官だった   少佐の証言だ。<


バカめ。

これは角良晴の証言だろうが、これなら論破しているよ。


「1027   角良晴のとんでも証言」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1027

で彼の言った事を並べ、


「1028   角良晴証言の間違い指摘」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=1028

で、間違いを指摘しているよ。


>師団副官が捕虜を殺せと指示したという   歩兵第三十八聯隊副官の
次の証言もある。

   聯隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、
   彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、
   師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」
   と電話で伝えられた。   (中略)
   部隊としては実に驚き、困却しましたが命令やむを得ず、
   各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ
   報告はありませんでした。

降伏を受け入れるな。処置せよ――   これが師団命令だった。<



  仕方ないだろう。佐々木隊は何キロにも亘って延伸しており、

あちこちで攻撃を受けている最中、援軍を要請されても出せない状態だった。

  そんなとき、捕虜なんか受け付けたら、自分の身が護れないだろう。

  そういう時は緊急避難で許される。

  そんなことも解らないのか。平時と戦時は違うのだよ。

Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか2

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:22 投稿番号: [1264 / 2250]
>上級司令部が現地部隊に捕虜殺害を命じたという記録がある。

   「捕虜も相当出来たけれども、捕虜に食はせる物もない。」
   「さういふ状態で戦闘しつつ捕虜が出来るから始末することが
   出来ない。   それでちよん斬つてしまうといふことになった。」
   一万余の捕虜があつたのだけれども、そんなのは無論追撃中
   だから戦闘中と見てもよろしい、(略)始末が付かぬものだから
   シヤーシヤーと射つてしまつたのだ。
   その死骸が川に流れた。それから問題になつたのだ。

これは   方面軍司令の証言だが、<



たわけ、

南京戦のとき、松井方面軍司令官は蘇州にいて、その現場をみていない。

彼が南京に来たのは17日の昼だ。

全ては、後から、聞いた伝聞にすぎない。

君と同じレベルだよ。


第一、捕虜殺害なんか命じてないだろう。

Re: 検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか1

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 16:14 投稿番号: [1263 / 2250]
妄想の虐殺論

>その中に「捕虜ノ処置」という項目があり、・・・
>地方ニ移シ釈放シテ可ナリ・・・殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ


という、文献を引用しながら、この中の   「殺害」   だけを切り取って

「問題トナルコト無シ」   としている。


このほかの   「釈放シテ可ナリ」   や

「他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」

は完全に無かった事にしている。


こういう、文書の作為的切り貼りによって、日本軍は捕虜を殺してもよい、

との指令があるという妄想をふくらませている。



そもそも、wadatumi_voice21 は私が書いた反論などみていないだろう。

だから、何度誤りを指摘しても、同じ嘘を書きたてる。


通州事件の後犯人を捕まえたが日本軍は全員釈放した。


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552022058&tid=ffea4ca4fcf9qbfma4kfn5febbv7obfb faj5doc0a47a4dea47a4ga4a6&sid=552022058&mid=709


また、上海でも、捕虜収容所はあった。

自説との矛盾を考えず、私の言ったことには目をつぶって、

壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返している。

>戦争の実相を知る世代が 少数派と

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:48 投稿番号: [1262 / 2250]
なったことに反比例して、

過去の戦争を醜悪化しようとする策動が露骨になり、

世界には通用しない   「南京大虐殺はあった」   という妄言が

吹聴されるようになった。



若いものは知らないだろうけど、

南京なんて話は昭和45年以前には、殆どの日本人は知らなかったんだよ。

学校でも習わなかった。

なぜなのか。



戦争の実相を知っている世代が、まだ、生きていたから、

そういう嘘は言えなかったのだよ。

だんだん、真実を知る人が減るにつれて、嘘がはびこりだした。

そして、今、蔓延している。


大虐殺かどうかはともかく、捕虜の殺害はあった。

そのとき、間違われて、民間人も殺されたかも、知れない。

ただそれだけだ。


それを批判できるものは誰もいない。

中国は、わざと、そうなるような行為をしている。

蒋介石はあらゆるものを犠牲にして戦争すると宣言した。

日本の和平提案をけって。

すべての責任は、日本の和平提案をけって戦争を続けた中国にある。

大正末 中国での暴虐事件3漢口

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:24 投稿番号: [1261 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説

注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。


101〜102p

    支那人子供が投石する

《 日本使用支那人の罷工以来頑是ない支那人子供までが邦人を蔑視し、

通行中悪罵を浴びすることは珍しくない。最近日本租界附近の支那人子供は、

邦人子供が多く本願寺の内庭に集まり遊んでいるのを知り、

潜   (ひそ)   かに石を携えて近寄りこれを投付けては逸散に逃げ去るものあり、

すこぶる危険であるから子供を持つ親たちはこの際万一を慮り充分の注意が肝要である。



  (十一月二十四日)

さらに奇怪なのは、小学校児童が通学途上で支那軍人に銃砲の台尻で突かれたり

打たれたりした事実があり、鉄路外の日本人家屋に糾察隊が闖入した時に

支那軍人が同行したこともある。実に物騒きわまるものであった。

こうした日が一週間続いた。その間在留民は領事館とともに極力折衝に努めたが、

結局隠忍自重主義を基調とする大譲歩によって結幕となった。



この事件以降は日本人と使用支那人との間はまったく主客顛倒、

ボーイが主人か使用人か分らなくなった。

何々工会の成立祝賀会だから暇くれといえば出してやる、

何々紀念日というては出て行かれる。行かないと糾察隊が引っ張り出しに来る。

朝早くから銅鑼を鳴らし   『八時までに集まれ』   と怒鳴って歩く。

戸の閉まった家は叩き起こす、足で戸を蹴る。

不参者は二ドルの罰金、中には   「工賊」   など書いた色紙を背に貼り

後手に縛って街上を曳き回された者もある。



孫文紀念日には、やはり各工会を網羅した行列があったが、

当日領事館では領事付のボーイか何かを参加させなかったために、

糾察隊が出張ってぜひ出せという。

一体十一月の協定では、用がある時には出さないでも宜いことになっている。

にも拘らず強要する。

遂には六尺棒を揮って暴れ出し、そばにいた書記生は眼鏡を毀され負傷した。

いやしくも外国の官衙に押し入るさえ不都合なるに、

凶器を揮って狼籍を働くに至ってはまったく言語同断である。



しかもかようの事柄はこれまでは全然なかったことで、

いかに彼らの対日観念が悪化せるかが分る。》

大正末 中国での暴虐事件2漢口

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:16 投稿番号: [1260 / 2250]
『もう一つの南京事件』   日本人遭難者の記録
田中秀雄編集・解説

注 : この本の原本は昭和2年に書かれたもの。


108p

  川本洋行襲撃並びに罷業   (同   (大正)   十五年十一月)

これは前に詳述せる如く支那人の横暴と対日人観念を最も露骨に表した事件である。



前述の内容   100〜101p

《 川本洋行事件

さらに暴虐きわまるのは十一月二十日に起こった川本洋行事件である。

日本租界高昌里と平和街の角にある同店では、支那人米屋から買い入れた米四俵を

届けてもらって、そのうちの二俵を店内にかつぎ込んだところに

糾察隊が来てあと二俵を入れさせまいとする。

もちろん、日本人には米を買わさぬというのである。



しかしこれは巡捕の仲裁で収まったが、

あくまで横着な糾察隊では米を運んできた苦力が同店に入ったのを出せと言う。

そのうちに二三十名が店内に押し入って苦力を引き出しにかかったので

争闘が持ち上がり、ショーウインドウや戸口のガラスは壊される、

店品は奪われる、主人は群衆に取り囲まれ散々に殴打された上に、

いつの間にか黒山のように群がった人ごみの中に引きずり込まれた。

側に居合わせた日本人もまごまごすれば巻き添いを食いそうなので手が出せない。



そのうちにますます群衆は増す、騒ぎは大きくなる。支那軍隊も駆けつけたが

ほとんど救出の途がつかない。

十分二十分と息を殺してその消息を待つ家族の人々はもちろん、

はたの日本人にも今は絶望的な悲痛に閉ざされた刹那、

気息奄々としてほとんど死人のようになった川本氏が、

日本領事館警察署巡査永松、大瀬両氏に助けられ、人波を分けて現われた時には、

支那人までが覚えず歓呼の声を挙げた。



最初両巡査が馳せつけた時は平和街から大興街後方かけて集まった数千の群衆は、

日本巡査を殺せと騒ぎ立てたが漸く身を以って免れ、

大興街の後方にある工会本部に飛び込み談判の結果、無事救出することを得た。

もし両巡査が途中で群衆に阻まれるか一刻後れるかすれば、

恐らく由々しい大事を惹起したに相違なかったであろう。

しかして彼らの迫害は我が同胞の子供にも及んだ。


当時の   「漢口日報」   にこんな記事があった。》


つづく

12月31日 和平条件細目提示の要請

投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/12/04 15:06 投稿番号: [1259 / 2250]
戦史叢書   『支那事変   陸軍作戦1』   467pの注


注   参謀本部では、オット少将の情報によれば、

   独大使には講和交渉条件細目一一カ条が伝わっていないとのことなので、

   抽象的な四条件だけでは中国側も理解できまいと判断し、

   この一一カ条も独大使から中国側に提示するのを許容するよう、

   十二月三十一日、陸相から外相に申し入れた。


   (参謀本部は当初から具体的条件の提示を主張していたが、

    多くの閣僚はこれに反対であった)

◆歴史の真実 世界連邦への礎石

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:21 投稿番号: [1258 / 2250]
アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

  日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

 

   ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

  我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。

 
  朱   耀翰 {韓国   元国会議員   ゴーマニズム宣言第六巻p232}

  「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

 

   ニミッツ元帥(アメリカ   太平洋艦隊司令長官)

  この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

 

   スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

  たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)

  かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

 

   蒋介石

  ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

 

   ベルナール・ミロー(フランス   ジャーナリスト)

  これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)


H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」


    世界連邦の礎石をおいた!

◆歴史の真実 植民地の解放 

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:20 投稿番号: [1257 / 2250]
第二次世界大戦後の世界の大きな流れの一つが、世界各地の植民地解放運動である。そのきっかけが日本の大東亜戦争であった。
  東南アジアにおける英米仏蘭の植民地は、日本軍の占領によって白人支配から解放され、新国家の建設が始まったのである。日本が負けると、白人は一時的に植民地に戻ってきたものの、もはや過去のように支配を続けていくことはできなかった。

  日本の戦いぶりに励まされ、民族意識、国家意識に目覚め、そして日本人によって国家運営の訓練を施されていた諸民族は、もはや白人支配に甘んじることはなかった。かくして東南アジアでは独立戦争が展開され、この新しい時代の潮流は、地球上の植民地に拡散していった。その結果として、敗戦国だけでなく戦勝国だったはずの列強も、次々と植民地を手放さざるを得なくなった。

  もちろん大東亜戦争の目的は「東亜の解放」だけではない。しかしアジアから列強勢力を駆逐し、諸民族と共存共栄を図らなければ、日本の国家としての生存権は守り難いとの認識は国民に一般的だった。そこから生まれたのが大東亜共栄圏の構想であり、それを実現するために「東亜の解放」が必要不可欠だと考えられたのだ。

  <日本軍によって白人世界帝国が終焉した事実>

  ・東南アジアの抵抗運動には、白人と提携していた華僑の反抗もあったし、日本の敗色が濃いと見て、イギリス側に寝返ったビルマ軍の例もあった。日本軍を「支配者」というなら、たしかに支配者として君臨していたし、当然のことながら統制も行い、作戦遂行中ゆえ、軍事的にも動員も行った。アジアの防衛戦争を継続中なのだから、独立を与えてすぐさま撤退するなどできるはずがない。

  日本人は、実直すぎる民族で、外交が下手である。東南アジアの住民は、歓迎の熱が冷めれば、厳格な日本軍は「嫌な存在」に変わったことは想像に難くない。しかし長く付き合えば無二の友邦にもなったであろう。そもそもわずか3年にも満たない進撃、占領期間で、前記も後期もあるまい。

  中国にいたっては、1951年に、「農奴解放」を大義名分に人民解放軍がラサに入り、チベットを軍事占領した。1959年には反中国暴動が発生しているが、いまだに占領は解かれていない。
 
  それに対して日本は、わずか3年足らずの間で、東南アジアの住民に近代国家のあるべき姿を教育し、次々と政府を樹立させていった。

  アジア諸国の独立は、やがて連鎖的にアフリカ植民地の独立をも誘発する。日本の植民地解放戦争は、白人世界帝国解体への起爆剤となったのだ。


  アメリカのJ・C・レブラ『東南アジアの解放と日本の遺産』

  「日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということを、イギリス、オランダは戦後になって思い知ることになる」ー東南アジア全域の独立運動について、日本軍占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、政治能力が、西洋植民地支配に対抗する決定力になったことを指摘している。

 
  A・トインビー

  「アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間、信じられてきたような不敗の神でないことを、西洋人以外の人種に明らかにした」−日本人が歴史に残した功績である。

 
  パラディ・デサイ博士(インド法曹界の長老)1947(昭和22)年

  「インドはまもなく独立する。この独立の機会を与えてくれたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三十年も早まった。インドだけでなく、ビルマもインドネシアもベトナムも、東亜民族はみな同じである。インド国民はこれを深く心に刻み、日本の復興には惜しみない協力をしょう」

◆歴史の真実 「もし日本なかりせば」

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:17 投稿番号: [1256 / 2250]
暗愚の村山内閣時代、国賊土井たか子をはじめワダツミ並みのお馬鹿政府関係者が群をなして東南アジアへ「謝罪行脚」したとき、 それを迎えた側の反応はどうだったか?

何も言っていない先からいきなり頭を下げて「戦争中はご迷惑を・・・」と謝る馬鹿共にに、マレーシアのマハティール首相も フィリピンのラモス大統領も台湾の李登輝総統も打合せをしたわけでもないのに、全員口をそろえて

「過去はどうでもいい」「これからが大切である」 という返事をしたという。

マハティール首相に至っては、日本の国連常任理事国入りを支持し、

「日本の成功は東南アジアに大きな自信を与えた。日本の進出が 無ければ欧米の世界支配はさらに続いていただろう。」と述べられている。又、日本の戦争責任についても「日本の戦争責任を問うならば、それより以前、 非人間的な支配と収奪を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来た事で植民地支配から解放され近代化がもたらされた。」と発言されている。 以下は、「SAPIO」誌99年4月14日号に載った氏の演説の抜粋である。

「日本は軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなく コストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用出来るようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡ともいえる成果を作り出したのだ。

日本の存在しない世界を想像してみたら良い。もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、 欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界の国はその価格を押し付けられていただろう。

(中略)

もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していただろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたといっても過言ではない。 北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配した事だろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう。

このシナリオには異論もあるかもしれない。だが、十分あり得る話である。日本がヨーロッパとアメリカに投資せず、資金をすべて国内に保有していたらどうなるかを 想像すれば、その結果は公平なものになるのではないだろうか。ヨーロッパ人は自国産の製品に高い価格を支払わねばならず、高級なライフスタイルを送る余裕がなくなるだろう。

東アジア諸国は、自国民だけでなく世界中の貧困者の生活の質を高めた。東アジア諸国の成功は魔法のおかげではない。日本が成し遂げた事を、東アジアの他の国々も 程度の差こそあれ達成する事が出来たのである。同様に、ヨーロッパ諸国もそうする事が出来る。

その成功の主な要因は、高い生活水準を維持する余裕の無い時期には低い生活水準を受け入れようとする意思である。東アジア諸国は進んでそうしている。無理して 高い生活水準を維持すれば、競争力を失ってしまう。むしろヨーロッパ人のほうが、自分たちのやり方が賢明なものかどうか自問し、現実を受け入れなければならない。 そうすれば、ヨーロッパと東アジアは相互の利益のために協力することができる。ただし、どのような事情があっても、東アジアの成長を止めることは出来ない。 東アジアには発展する権利があるのだ。」

◆パール判事の慧眼  歴史の捏造を糾す

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 12:07 投稿番号: [1255 / 2250]
支那と日本の売国左翼が、1937年に起こったと捏造した「南京大虐殺」。

いまだにこういう脳腐れの人格破壊者がいるということは、ほんとうに呆れると同時に哀れさえも覚えてしまいます。

ありもしない捏造史を、さもあったことにしようとする悪質なプラパガンタなど、葬られて当然です。

ここで、かの有名なパール判事の言葉を紹介します。

『要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。』(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

    ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)



「日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていく」

・・まさにパール判事の危惧した通りになってしまった・・・


卑屈、頽廃に流された成れの果てが   wadatumi_voice21をはじめとする歴史捏造売国サヨクたちである。


こいつらはもう救いようがないが   「真の日本人」の為にも


『あやまられた歴史は書き変えなければならない!』

◆検証 南京大虐殺捏造の背景⑥

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:57 投稿番号: [1254 / 2250]
南京というのは、いわゆる城砦都市です。

その南京に、蒋介石率いる国民党兵士が大量にやってきて、市民に銃を突きつけて、「これから日本がここを攻めてくるから、おまえら、銃を持って戦え!」とやった。
それが南京での戦闘のはじまりです。

南京市民は、仕方なく銃を持って、城塞の塀に並び、日本軍めがけて発砲した。

ところが、日本軍は正規の軍隊です。
南京城塞側は、国民党兵士に後ろから銃を突きつけられて、わけもわからずめくら撃ちしている市民兵です。勝負にならない。

日本軍の猛攻が始まると、国民党の連中がまっさきに逃げ出した。

銃をとっていた南京市民は、そもそも戦意は希薄です。
後ろにいた国民党兵士達がいなくなると、我先に逃げ出した。

そして南京城は、あっさりと陥落。

日本軍が入場すると、戦いのあった反対側の城砦の壁には、何本もの紐が垂れ下がり、その紐の下には、シナ人たちの銃が、投げ捨ててあった。

日本軍が、南京に入場します。そして国民党の兵士たちがさんざん荒らしまわった城内の治安を回復した。

日本の軍人たちが、市民に手を出さないとわかると、周辺に逃げていた南京市民達が戻ってきます。当然のことです。なぜか。安全で安心だからです。
それだけではない。日本軍によって南京市の治安が回復されたと知って、多くの周辺都市からもシナ人たちが集まってきた。

このため、南京城攻防戦の前の南京市の市民の数が20万人だったのに、日本軍の占領後は南京の人口は25万人に増加したのです。

年が明け、正月になると、日本軍は内地(日本本土)から、正月の松飾りや、餅を大量に取り寄せ、市民たちにお雑煮を振る舞ったりした。

日本軍舎の前では、シナ人の子どもたちが爆竹を鳴らして、歓声をあげていた。

以上が、南京で起った事実です。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景⑤

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:32 投稿番号: [1253 / 2250]
●「南京大虐殺」はなかった(当たり前であるが)

  今まで見てきたように、日本軍の進出は内戦の終結、平和の確立、共栄圏の建設を目的としたものであって、決して破壊や虐殺を目的としたものではありませんでした。これは、国土の焦土化や、民衆の殺戮を平気で行なっていた中国軍とは、きわめて対照的です。
  日本には、もともとサムライの時代から、民衆の虐殺や焦土化の思想はなかったのです。日中戦争は北京の近くで始まりましたが、北京は無傷でした。武漢三鎮も無傷のまま。他の都市も全部無傷です。日本軍は、都市を破壊する気も、住民を虐殺する気もさらさらなかったのです。
  日本軍は、都市に近づくときには必ず自由都市(オープン・シティ)宣言をしました。降伏するなら、都市を破壊することもしないし、住民の安全を保証するということです。歴史ある都市を戦場にし破壊していけないからです。
  日本軍は圧倒的に強かったので、たいていの都市では、中国軍はたいした抵抗をすることもないまま逃げ去り、都市は明け渡されました。しかし南京で、中国軍は珍しく若干の抵抗をみせました。
  南京防衛軍司令官の唐生智が「俺に頑張らせてくれ」と言ったので、蒋介石も「頑張れ」と言ったのです。彼が最後まで頑張れば、ある程度、中国軍の統制もとれたでしょうが、この司令官は情けないことに、途中で逃げ出してしまいました。
  司令官を失なった中国兵たちは、自分たちも逃げようとしました。けれども彼らの多くは、逃げる味方の兵隊を後ろから撃つ「督戦隊」に殺されました。また中国兵の中には、逃げれば督戦隊に殺されるし、残れば日本軍に捕まるということで、民間人を殺し、その着物をはぎ取って着る者たちもいました。
  こうした民間人に化けた中国兵は、それがばれたときに日本兵によって殺されることもありました。そのようなことはありましたが、南京で、日本軍による住民の大量虐殺というようなことは決してなかったのです。


中国は、かつて日本軍は南京で三〇万人の住民を虐殺したと、宣伝しています。しかし、これは中国共産党が流したでっち上げです。なぜなら、もし南京大虐殺があったなら、南京の安全地区にいた外国人は必ず、そのことを世界に発信したはずです。けれどもそのようなことはありませんでした。
  また、日本が南京に入る前にいた南京の人口は約二〇万人でした。これはいろいろな調査で一致している数字です。二〇万人の都市で、三〇万人を虐殺するのは不可能です。
  また、日本が南京を占領したあと、逃げていた市民たちが戻ってきて、一ヶ月後には人口二五万人になっています。これは南京学会が緻密に調査して出した、信頼できる数字です。また大虐殺が行なわれた都市に、住民が戻ってくるわけがありません。
  また南京大虐殺の「証拠写真」と言われるものも、今日ではすべて全く関係のない写真か、捏造によるものであることが、明らかになっています。東中野修道著『南京事件「証拠写真」を検証する』などに、詳しく書かれています。
  何年か前、中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、英語で『ザ・レイプ・オブ・南京』という本を出し、アメリカでハードカバーで約五〇万部も売りました。これは日本軍が南京で三〇万人虐殺という蛮行を行なったと宣伝する本で、アメリカ人にウソをばらまいたものです。
  しかしそののち、彼女が書いたことや、そこに使った写真があまりにインチキであることが、多くの批判書によって明らかになりました。そうした中、彼女は二〇〇四年の暮れに、ピストル自殺しています。
  その理由として、『ロンドン・エコノミスト』はその記事の中で、彼女は自分が書いたことがあまりにインチキと批判されたため、それが「南京虐殺はなかった」と主張している人たちに有利に働いて、それを気に病んだのではないだろうかと推定しています。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景④

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:31 投稿番号: [1252 / 2250]
●共栄圏をつくろうとした日本

  一九三七年から始まった日中戦争でしたが、日本はすでに一九四〇年には、すでに中国の華北と、華中の一部を支配下におき、その統治を親日政権である汪兆銘(おうちょうめい)の南京政府にゆだねていました。
  日中戦争は八年間続いたと一般にいわれますが、実際には日中の戦闘は一年半あまりで終結し、あとは日本軍はそれ以上領地を広げようとせず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中したのです。
  その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差がありました。鉄道もつくられ、人々や物資の移動が容易になりました。よく「日本軍は一方的に略奪と破壊をした」かのように語られることがありますが、実際は全く逆だったのです。
  だからこそ、汪兆銘の南京政府や、そのもとにいる多くの中国人は日本を支持し、日本と共同して、その地域の発展のために働いたのでした。
  汪兆銘の南京政府が支配する地域では、戦前にも増して平和と繁栄を謳歌していました。その象徴が上海です。日中戦争中ですら、そのダンスホールや映画館はどこも満員という活況を呈していました。
  ロシアから逃げてきたユダヤ人たちの居住区も、この上海に設けられ、彼らはそこで安全に暮らしていました。
  一方、蒋介石や毛沢東が支配していた地域は、悲惨でした。ただでさえ彼らの軍隊が入ってきたので食糧が不足したばかりか、略奪、搾取が横行したため、たちまち住民は地獄の生活へと転落したのです。
  もっとも蒋介石は、日本人のような規律ある生活習慣を目指した「新生活運動」を実施し、中国兵の乱れた規律を正そうと努力はしましたが、それでもなかなか実を結ぶことはできませんでした。
  日中戦争中、アメリカがいわゆる「援蒋ルート」を通して、重慶にいる蒋介石軍に様々な物資を送り届けていたことは、よく知られています。兵器、弾薬、医薬品、食糧などですが、しかし山を越え、川を越えているうちに、重慶まで届いた物資は多くても当初の何分の一かに減っていました。
  それらの地域を支配する匪賊や、他の武装勢力に、通行料として一部物資を渡していたからです。当時、日本の支配地域以外の中国大陸には、匪賊が約二〇〇〇万人もいたといいます。それは中国軍の約一〇倍に相当します。彼らは略奪で生計をたてていたのです。
  また無事に重慶に届いた物資も、国民党幹部のポケットに入ってしまい、他の者には行き渡りませんでした。このように当時の蒋介石の政府が、米国の支援を食い物にしていたことは有名です。
  このように、日本の支配地域と、そうでない地域とでは中国民衆の生活に格段の差があったのです。日本はすでに日中戦争のさなかから、中国を近代的民主国家として自立させ、アジアの同胞として共に相携えて共栄圏をつくるために、非常な努力を積んでいたからです。
  しかしその望みも、やがて日本が日米戦争で敗戦を迎えたことにより、挫折しました。
  そのとき、日本は中国につくった工場や施設、インフラなどを破壊することなく、すべて正確な資産リストを添えて、中国の未来のためにそのまま置いてきました。それらは戦後の中国経済の発展の基礎となったものです。
  日本が去ったとき、中国では再び「国共内戦」、すなわち国民党軍と共産軍の内戦が勃発しました。これは実質的に、日本が残した遺産の奪い合いでした。そしてこの内戦での死者は、日中戦争中の死者よりも多かったのです。
  またこの国共内戦に共産軍が勝利し、中国を統一したとき、共産党はかつて自分たちがなした中国民衆への殺戮、略奪、搾取などを、すべて日本軍の悪行と宣伝して若者たちに教える教育を始めました。
  以前、私がこれら中国の歴史を「レムナント誌」に掲載したとき、ある日本人は「こんなことがあったなんて知りませんでした。一般に世間で言われていることと何と違うでしょう」と言いました。しかし、日本に留学しているある中国人クリスチャンが手紙をくれたのですが、こう書いていました。
  「先生は中国に関し真実を書いています。がんばってください」
  中国人も、知っている人は知っているのです。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:30 投稿番号: [1251 / 2250]
  ●ローマ法王は日本の行動を支持した

もともと、中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍でした。しかし踏み入れた以上、日本は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をなしました。またそこに、欧米の侵略や搾取の餌食とならない自立した民主的国家が誕生するよう、手を差し伸べたのです。
  日本は中国を「自分の領土」とするために戦っていたのではありません。日本は中国の「領土保全」をかかげ、誰からも侵略されない、中国人による中国人のための安定した国家がそこに誕生することを目指したのです。そして日本と手をたずさえて、アジアを共産主義から守る防波堤になること、そこに一大経済圏が生まれることを目指しました。
  ですから、日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
  「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
  といった内容の声明を出しています。

この声明は当時の日本でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和一二年一〇月一六日および一七日)。新聞は、
  「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」
  と歓迎の意を表しています。ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、欧米の誤解や反日主義に悩まされてきた日本にとって、非常にうれしいことでした。
  けれども、そのピオ一一世も、やがて一九三九年には世を去ってしまいます。そのため欧米の反日主義や、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったのです。

◆検証 南京大虐殺捏造の背景②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:30 投稿番号: [1250 / 2250]
●本当の人民解放軍は日本軍だった

また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
  中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
  つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです。
  それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。
  一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
  日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
  本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
  日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
  それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。

農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。
  日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。
  日本政府の推計によると、一九三八年から終戦の四五年までの日本の対中国投資の累計は、約四七億円にも達していました。当時の日本の国家予算は約二〇億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。
  これは戦争に使ったお金ではありません。中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。このように、中国軍が各地を焦土化し、同胞を虫けらのように殺していたときに、日本は中国民衆の救済と、中国の近代化のために働き続けていました。
  中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。
  ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました(いわゆる中国残留孤児)。しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか

◆検証 南京大虐殺捏造の背景①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/04 11:29 投稿番号: [1249 / 2250]
●中国民衆を虫けらのように殺した中国軍

中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
  中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん   殺戮される民)と呼んでいます。
  たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
  しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
  「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
  と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
  この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
  堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
  こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
  中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
  ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
  日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
  むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
  つまり中国兵が中国兵を殺したのです。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
  また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
  日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。

南京虐殺事件から歴史の教訓を学ぶべきだ

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 10:21 投稿番号: [1248 / 2250]
なぜ南京事件のような残虐行為を、日本軍が起こしたのだろうか。
日本人が   もともと残酷な本性だなどとは   とても考えられない。
むしろ、日本人は   本来温和で、生命や自然を尊ぶ   民族だった。
それが、このような残虐事件の主役になったのには、相当の背景と
原因が   あったはずだ。

もともと   軍隊とは暴力組織であり、明白な自律意識が   なければ
残虐行為に走るのは当然だ、と言ってしまえば   それまでであるし、
満州事変での   平頂事件や   ベトナム戦争での   ソンミ事件のように、
内外に   いくつも   その例を   見出すことはできる。
しかし、南京事件は、あまりにも大規模で   しかも組織的行為だった。
旧日本軍の性質に、事件を誘発する原因があったのだ   と考えられる。

第1に、近代の日本軍の特徴は、世界にも稀なほど   厳しい規律と、
兵士に対する服従の強制があり、兵士の自主性を尊重することなく、
がんじがらめの規則と厳しい罰則とで、軍隊の秩序を維持していた。
兵士の人権は極度に制限され、苛酷なまでの絶対服従が強要された。
古参兵士が新兵に対しふるった私的制裁としての暴力などは有名だ。

自国の中でも、自己の軍の中でも、人権と自由を尊重しないのだから
敵国の捕虜や民衆に対する処遇に、人権尊重を求めるのは無理な話だ。

第2に、皇軍の特徴には、非合理な   精神主義の   強調があった。
明治の建軍にあたって、日本軍幹部は士族、つまり旧武士だった。
近代軍でありながら、「武士道」が   そのまま   持ち込まれた。
死が名誉であるという   武士の価値観が、天皇のために死ぬことが
軍人の最高の美徳という位置づけとなり、やがて   玉砕や特攻など
近代軍にあるまじき作戦の立案にまで   行き着くものになった。

いさぎよく   死を選べ、生きて虜囚の恥はさらすな、という規範が
日本軍兵士   一人ひとりに   徹底して   刷り込まれた。
自軍の捕虜を認めないぐらいだから、相手国捕虜の処遇については
じつに   非道なものとなったのは   当然だった。

日本人が、「日本人らしさ」を   最も失っていた   軍国主義時代。
そこで発生した   温和な日本民族らしからぬ   野蛮な残虐行為。
その真実に向き合わなければ、未来に責任を持つことはできない。
歴史の事実を   省みることは、自虐でもなければ   恥でもない。
恥だとすれば、自国に都合のよい歴史だけを持ち出す自慰行為だ。

そうした   恥ずべき歴史の改ざんにばかり   躍起になりながら、
人権尊重に基づき国際関係が進展している   現代にあっても、
いまだに他国の人々を侮蔑しようとする   傲慢な日本人がいる。
恥ずべきは、こうした   一部日本人による自画自賛、自慰行為だ。
他国民衆への   侮蔑的感情が、違法な残虐行為の要因に
なったという歴史の事実を   けっして忘れてはならない。

 
 
 
 
  
 

検証・虐殺の背景にあった惨酷な戦争心理

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 10:01 投稿番号: [1247 / 2250]
11月11日付の第三師団歩兵第六聯隊第二大隊の攻撃計画は、
大隊長から将兵に対して   次のように命じるものとなっていた。

「一般ノ領民ハ総テ城内ニ避難シアルヲ以テ城外ニ在ル一切ノ者ハ
敵意ヲ有スルモノト認メ之ヲ殲滅ス」
「掃蕩ニ方リテハ家屋ヲ焼却スルヲ便トスルヲ以テ之ガ材料ヲ準備
スルコト」

つまり、城外にいる一切の人間を「敵意を有する」   者と見なして
これを   殺害したうえ、家屋を焼き払うことを   命じていたのだ。
それでなくとも   日本兵は、中国軍の予想以上に頑強な抵抗により
苦戦を強いられ、味方に多数の犠牲者がでたことで   中国人に対する
憎悪と敵愾心にあふれていた。   そのうえに、こうした命令が下った。

さらに   後方補給のないまま   強引な物資の「現地徴発」   を重ねて
追撃していくなかで、兵士が人間性を保つのは   不可能になっていた。
もともと、「支那住民ハ老人、女、子供ト雖モ   敵ノ間諜ヲ勤メ」
ているのだと刷り込まれ、一切の区別なく   敵と見なし、
民家も焼き払え   と命じられれば、極限状態にあった兵隊たちが  
どのような行動を   とったかは、想像するに難くない。

その第一線部隊の後方にも、大量の軍隊が   進軍していった。
道路や橋が破壊されていたため、馬や車両をもつ部隊の前進は
各地で   とどこおり、行李や輜重、砲兵や通信隊などの特科部隊は、
後方から   第一線を   追いかけることになったのだ。
また、上海戦での損害も大きかったので、各隊には   次々と補充員が
送られた。   この補充員たちが、各隊ごとに   先任者の引率で
第一線を追いかけるので、これも   後方の混乱の原因になった。

こうして   上海から南京に続く   江南の平地は、第一線の通過後も
雑多な日本軍部隊が長期間、広範囲に、まるでイナゴの大群のように
「現地徴発」を繰り返しながら   進んでいった。
第一線部隊が通りすぎ、避難していた住民が   集落に戻ったあとに、
三三五五と   またやって来た日本兵に、殺されたり強姦されたりした
例が多いという   中国側被害者の多数の証言があるのは、
このためであった   と考えられる。

一般市民の被害の状況を   全体として明らかにするのは   難しい。
兵士の日記や   証言などに、個々の掠奪や   殺害の記録があるが、
加害者である日本軍が   まとまった記録を残しているわけがない。
事件の実態解明は、断片的な記録資料を、丹念に   発掘・整理して
全容をあきらかにする地道な努力を続けていくほかないのだ。


 
 
 
 
 
 
 

検証・虐殺の背景にある犯罪非違の頻発

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:31 投稿番号: [1246 / 2250]
参謀総長が   中支那方面軍に対して異例の通達を出すほど、
当時の   日本軍の軍紀風紀は   頽廃・紊乱がすすんでいた。
軍がまとめた軍紀風紀に関する犯罪非違の調査結果によると
開戦後   2年間だけに限っても   戦地における   犯罪非違は、
日清・日露に比べて   はるかに高率となっている。

大本営陸軍部が調査した   軍隊内の犯罪数は開戦2年間で
5,221件にのぼり、うち   戦地では3,147件にも
達していた。(大本営陸軍部研究班   昭和十五年十一月)
この犯罪数は   憲兵隊が把握し、とり扱ったものだけであり、
「実数ハ之ヨリ増加スベシ」   と付記されている。

また、非違の発生件数は、3万2,964名にも達し、
しかも   「刑法処分ニ処スベキモノ本人ノ功績ト犯行ノ
情状トヲ酌量シテ行政処分ニ附シタルモノ相当数アリ」
「シカモ軍紀上相当悪性ナルモノ多数発生シツツアルニ於テオヤ」
とされている。

つまり、軍法会議に付された犯罪、懲罰権者の処罰ですませた
非違の双方とも、日中戦争下で   軍紀風紀犯罪が多発している
という調査結果が   示されているのだ。
こうした犯罪のなかで、もっとも多かったのが   掠奪だった。
上海から南京への追撃戦は   補給を無視しての   急進撃で、
給養は   ほとんどすべて   現地徴発に頼った。
徴発といっても、そこは   敵国であり   実態は   掠奪だった。
兵士たちの日記には、ほとんど例外なく、毎日無人の集落から
何を徴発したかが   書かれているが、それは   無統制に、兵士が
勝手におこなう   掠奪であったことを   具体的に示している。

徴発するには   国際法があり、規則があった。
しかし、中国戦線で   それが守られることは   ほとんどない
という実態にあった。
次のような南京攻略戦のさいの第九師団経理部将侯の記述がある。

   徴発品の代金の支払は如何にされて居つたか、
   軍隊は強盗でも山賊でもない。
   必ず代金を払って買はねばならないのである。(中略)
   後日所有者が代金の請求が出来るようにして置かねばならない
   故に徴発書はかねて印刷配付して所要の事項を記入すればよい
   ようにして(中略)ある。しかるに後日所有者が代金の請求に
   持参したものを見れば其記入が甚だ出鱈目である。
   例へば○○部隊先鋒隊長加藤清正とか退却部隊長蒋介石と書いて
   其品種数量を箱入丸升とか樽詰少量と云ふものや
   全く何も記入してないもの   甚だしいものは単に馬鹿野郎と
   書いたものもある。   全く熱意も誠意もない。

でたらめな記入をした徴発書では、代金の支払いは   できない。
中国の人々は、食糧などの物資を   だまし盗られたことになる。
国際法規も無視し、中国人民を侮蔑して   略奪の対象としか
みなかったことが、南京での残虐な行為の誘因となっていった
と考えれば、その理由が   はっきりと   理解できるだろう。

 
 

検証・虐殺の背景にある軍紀風紀の頽廃

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:18 投稿番号: [1245 / 2250]
組織的な虐殺が実行された事件の背景には、前述したとおり
幕僚層の   国際感覚の欠如や   モラルの低下が存在していた。
さらに、それに加えて   戦争の経過とともに   日本軍の全体に
軍紀風紀の頽廃が   深刻化していたことを   忘れてはならない。
戦争の拡大と   兵隊の大量動員が、軍の素質低下を   もたらした。
それにともなって、軍の規律がゆるみ、軍紀風紀が乱れたことが
犯罪非行を   続出させる原因となった。

大量虐殺は、軍の組織的行為である   捕虜の殺害や敗残兵狩りで
起きた集団犯罪だが、この他に   軍紀の乱れから   兵士個人による
行為によって起こった犯行も多出し、いっそう事件を   大きくした。
この点は   軍上層部でも認めており、南京事件が   国際的な非難を
浴びたのを受けて、南京占領直後の38年1月4日付で   参謀総長は
中支那方面軍に対し、次のような要望を   おこなっている。

   顧ミレバ皇軍ノ奮闘ハ半歳ニチカシ(中略)
   然レ共一度深ク軍内部ノ実相ニ及ベバ未ダ暇謹ノ
   スクナカラザルモノアルヲ認ム
   就中軍紀風紀ニ於テ忌々シキ事態ノ発生近時漸ク繁ヲ見
   之ヲ信ゼザラント欲スルモ尚疑ハザルベカラザルモノアリ
   惟フニ一人ノ失態モ全隊ノ真価ヲ左右シ   一隊ノ過誤モ
   遂ニ全軍ノ聖業ヲ傷ツクルニ至ラン   (中略)

   遡テ一般ノ情特ニ迅速ナル作戦ノ推移或ハ部隊ノ実情等ニ
   考ヘ及ブ時ハ   森厳ナル軍紀節制アル風紀ノ維持等ヲ困難
   ナラシムル幾多ノ素因ヲ認メ得ベシ
   従テ露見スル主要ノ犯則不軌等ヲ挙ゲテ直ニ之ヲ外征部隊ノ
   責ニ帰一スベカラザルハ克ク此ヲ知ル
   然レ共実際ノ不利不便愈々大ナルニ従テ益々以テ之ガ克服ノ
   努力ヲ望マザルヲ得ズ   (後略)
   (中支那方面軍参謀長「軍紀風紀ニ関スル件通牒」)  

同じ内容の要望は   北支那方面軍にも出されているが、
これは   軍紀風紀の粛正が、この時期の   日本陸軍にとって、
大きな問題であったことを   示している。
参謀総長から   このような要望がでたことは、異例のことだった。
それだけ   在中国軍の   軍紀風紀の頽廃が、軍中央部にとっては
頭の痛い問題だったということだ。
 
 

検証・虐殺の背景にあった日本軍の体質

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/04 09:04 投稿番号: [1244 / 2250]
これまであきらかにしたように、さまざまな記録資料や証言を
検証していくなかで   南京大虐殺につながった   原因としては、
旧日本軍の国際感覚の欠如、中国人民への蔑視と敵愾心の増幅、
日本軍の資質の低下など   様々な要素が   絡んでいたことが解る。
ここで、その誘因の一つと考えられる当時の中堅幕僚層の性格や
国際感覚の実情を示す資料を   みてみよう。

第十軍司令部が   1937年11月30日に   作成した
「南京攻略ニ関スル意見」(丁集団参謀部『南京ヲ急襲ニヨリ
奪取シ得サル場合ノ攻略案』)   という文書が   残されている。
湖東会戦を終了したあと、南京にむかって追撃している時期に
軍司令部が作成した   この意見は、第一、第二の両案に分かれ、
第一案は   追撃の態勢のまま   一挙に南京を急襲奪取するもので、
第二案は   急襲が成功しなかった場合で、次のように述べている。

   南京ヲ急襲ニヨリ奪取シ得ザル場合ノ攻略案
   此ノ場合ニ於テモ正攻法ノ要領ニヨリ力攻スルコトヲ避ケ左記
   要領ニ依リ攻略ス
   急襲案ト同一要領ニヨリ先ヅ南京ニ急追シテ包囲態勢ヲ完了シ
   主トシテ南京市街ニ対シ   徹底的ニ空爆特ニ   「イペリット」及
   焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行シ南京市街ヲ
   廃墟タラシム

   右方法ニヨルモ   敵若シ要塞ヲ死守スル場合アリトセバ軍ハ
   努メテ僅少兵力ヲ以テ包囲態勢ヲ持続シ敢テ力攻スルコトナク
   前要領ノ空爆ヲ続行シ敵ノ自滅ヲ図ルモノトス   (中略)
   本攻撃ニ於テハ徹底的ニ毒瓦斯ヲ使用スルコト極メテ肝要ニシテ
   此際毒瓦斯使用ヲ躊躇シテ再ビ上海ノ如キ多大ノ犠牲ヲ払フ如キハ
   忍ビ得ザルトコロナリ
   (『陸支密大日記』昭和十三年陸支密受5267号防衛研究所所蔵)

猛毒のイペリット使用を含め、市街に対する   無差別爆撃を、
なんの躊躇もなしに、計画を   たてていたのだ。
「徹底的に毒ガスを使用すること極めて肝要」   と強調するのは、
その使用を躊躇して「再び上海の如き多大の」   損害を受けるのは
困るからだ   としている。   上海戦での想定以上の苦戦が、南京で
より苛烈で   残虐な攻撃作戦立案に   結びついていたことがわかる。

結果として、第一案の急襲が   成功したため、無差別空爆も
毒ガス使用も   実施しなかったが、こうした   攻撃計画があり
準備されていた事実が   証明するのは、当時の   幕僚層の感覚、
つまり   国際法にも人道にも無関心な体質が   軍上層部にあり、
それが、大虐殺の背景に   存在していた   ということだ。

 
 

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造④

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:19 投稿番号: [1243 / 2250]
当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の「世界と日本」の中で次のように述べています。

「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだとされている。

ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。

そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。

住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。

こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。

それがさ も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。」

当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しています。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造③

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:18 投稿番号: [1242 / 2250]
当時の国民党や八路軍の連中がどれだけ酷いことをしてきたか。

ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

そしてこの12月7日に、蒋介石や馬超俊市長は、自分たちだけさっさと飛行機で逃亡しているのです。

つまり、蒋介石や馬超俊市長は、それまで南京を国民党の本拠地としていながら、日本軍が近づいたと知るや否や、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして、そくさくと逃亡している。
あまりにも無責任です。

一方、南京攻略をした松井軍司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。
実際、14日に安全区の視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒(しゅんきょ)されて果たせなかったという東京裁判の供述もある。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのです。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べている。

「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ
「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べている。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

それほどまでに日本軍は、市街地の統制をきちんと取り計らっていたのです。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造②

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:18 投稿番号: [1241 / 2250]
南京に従軍した村田和志郎氏(第18師団歩124歩兵伍長)の日記に、こんな記載がある。

<引用>

湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。

城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。

とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。誠に見るも無残な有様であった。

街には人影がみられない。

それでもどこからか若い女が三人でてきた。

我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。

助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。

我々は三名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。

一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。

それでも恐怖に怯え、彼女ら三人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。

体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。

また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。

支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。

夥しい出血で苦しんで訴えている。

すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。さて助かったかどうか。

このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。

<引用終わり>


当時の支那には、政府がありません。

清が滅びて、地方軍閥による内乱状態にあった。

内乱状態の中で、被害を受けるのは、決まって武器を持たない一般市民です。

そして武器を持った支那の軍閥の代表格が国民党だった。
彼らは、支那の都市を襲い、市民に対して好き放題の乱暴狼藉を働いていた。

日本は行きがかり上、やむなく、彼らを追い払っていたのです。そしてそのひとつが、南京だった。

南京市は、乱暴狼藉軍団である国民党が、勝手に乱入して本拠地にしていたから、日本は叩いたのです。

そして市民の生活に平安を取り戻した。

なかには、市民にまぎれて、日本軍に悪さをしかける国民党のスパイや、共産党のスパイがいた。

こうした連中は、市民の協力を得て、日本軍は逮捕し、国際法上適法な範囲で軍紀に照らして処罰した。そういう連中は治安維持のために殺害した。これは当然のことです。

◆南京大虐殺という嘘・デタラメ・捏造①

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:15 投稿番号: [1240 / 2250]
だいたい、戦いの最中にドンパチやりながら、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と、何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければならないのが日本の軍隊です。
それだけ日本軍は物資に乏しかった。

そのあたり、使っている武器にも、その性格がよく出ています。

日本軍の主力銃は、三八指揮歩兵銃です。
この銃は、いわゆる元込め式の単発銃です。
弾を一発一発込めて、装填してから撃つ。
いわゆる「乱射」や「集団虐殺」のようなこと自体、なじまないのです。
ハナからそういうことを想定した銃ではない。

だいたい単発銃で、30万人をいったいどうやって殺すのか。

30万人に、1発ずつ銃弾を撃ち込んで殺すとしても、それには30万発の弾薬がいります。
そんな弾薬、日本軍は持っていません。

機関銃で殺したに違いない?!

バカなことを!

当時の日本軍の機関銃は、米国製の1秒間に何発という高性能機関銃ではない。

パン・・・パン・・・パン・・・と断続的に撃つのが精いっぱい。1分間に打てる弾はおおむね40発。しかも5分も撃ったら過熱して、砲身を冷やさないと、焼き付いた。

お暇な方は計算してみてください。それで30万人殺すには、いったい何日かかるのか。

かつてそのことを指摘した人がいます。
そしたら支那いわく「日本兵は日本刀で、何万人も斬り殺した」

バカをいっちゃぁいけません。日本刀はたしかに切れ味鋭いけれど、3人も斬ったら、脂にまみれて斬れなくなる。人間の体というのは、脂にまみれて斬れなくなった刀でも通せるほどヤワじゃないです。

加えて、当時のシナ人の便服というのは、めちゃめちゃ生地が厚い。銃剣で突き刺そうとしても、素人では刃が立たなかったというのも、有名な話です。

◆平和甦る南京 大虐殺という真っ赤な嘘

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 22:08 投稿番号: [1239 / 2250]
いまでは真っ赤な左翼になっている朝日新聞も、入城した12月13日から12月30日までの1ヶ月足らずの間に、5回にわたって半ページ大の組写真の南京特集を連載しています。

その第1回が「平和甦る南京」(17日)で、早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっている。

第2回が「きのふの敵に温情」(22日)、支那軍負傷兵を治療、投降兵に給食などしている写真、
第3回が「南京は微笑む=城内点描」(25日)、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性など。

第5回「手を握り合って越年」(30日)、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、「日に深む日支親善風景」が写されている。

南京陥落と同時に入城した新聞・雑誌記者、カメラマンは、外国人記者を含めて約150名といわれていて、他にも大宅壮一、野依秀一、杉山平助、木村毅、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった著名な評論家、詩人、作家等が入城し、東京都世田谷区よりも狭い南京城内外(約40平方キロ)を取材し、視察しています。

そしてそのうちの誰一人として、非戦闘員の虐殺などは見ていないのです。

松井大将は12月23日、平穏に復帰した市内を視察して上海に帰り、2回にわたり外人記者団と会見をしているが、その席でも“虐殺事件”など話題にものっていない。

そして日本軍は、12月30日には、南京市の住民による自治委員会を設置し、1月1日付でこれを公示、1月3日には、南京自治委員会の結成式を中山路の鼓楼で行っています。

この日、鼓楼前には、南京市民約3千人が、5色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福しています。

さらに、朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、
「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大きく報道し、
「建設の首途(かどで)を飾り/光と水のお年玉/萬歳・電燈と水道蘇る」と題した1月1日発の近藤特派員の電報をのせています。

そのリード文には「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎へて蘇ったやうに力強い息を始めた。
大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々に思いがけない電燈がつき、それと同時に水道まで景気良くほとばしり出たのである」とあります。

つまり国民党軍が敗退時に破壊していった水道や変電所などの電源を、日本軍と中国の労務者が協力して年末ぎりぎりには復興までしているのです。

南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となっていたのです。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手した。

技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだといいます。

朝日新聞はその日本軍技術者と中国人技術者が協力して電気・水道の復旧作業に取り組んでいる半ページ大の組写真を掲載しています。

それがなんですか。日本軍が侵略して南京で30万人の市民を虐殺した?

冗談じゃないです。ま逆です。日本軍は南京を攻略して、乱暴者無法者集団である国民党を追い払い、20万人の無辜の市民を救い、彼らの生命と財産を守ったのです。

それを、まったく正反対のねつ造史を、さもあったことのように偽装する。言語道断です。

◆なぜ南京大虐殺は捏造されたのか

投稿者: newdendenmaru 投稿日時: 2011/12/03 21:51 投稿番号: [1238 / 2250]
「南京大虐殺」も「従軍慰安婦強制連行」も反日が国是である中共や朝鮮、そして、これらの国に媚び諂うイカレタ反日サヨクの捏造であり、嘘・出鱈目と言うことは衆知の事実であるが、

いまだに、日本と日本人を何としてでも悪者にしたいwadatumi_voice21のような脳腐れの反日工作員共が必死に嘘と捏造の投稿を繰り返しているので


  おさらい   の意味も含めて

  「なぜ南京大虐殺は捏造されたのか」を振り返ってみましょう。



   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


   http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


  汚い反日の屑どもの妄言・狂言にはくれぐれも騙されないでほしい。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(5)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:51 投稿番号: [1237 / 2250]
南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
歩兵第六十五聯隊基幹Y支隊は、12月14日に捕獲した
14,777名の捕虜を、いったんは   学校に収容した。
支隊長の   日記によれば、15日に   捕虜の処置について
軍司令部と   打ち合わせしたこと、結果、皆殺しにせよと
指示があったことが   記されている。

そして、18日に支隊総出で「捕虜ノ仕末」に「精一杯」で
取り組み、支隊長はその様子を   「江岸ニ之ヲ視察」した。
それでも終わらなかったらしく、19日の午前中も   総出で
「捕虜仕末」を続行したため「出発延期」   になったとする。

この日記には、捕虜の「仕末」についての   具体的な方法は
記述されていないが、「江岸」   で実行されたことはわかる。
支隊が総力を挙げて精一杯取り組んでも   一日では終了せず、
かなり大変な作業となったようだ。
軍司令部の指示により   捕虜を殺害したことは   明白であり、
「捕虜仕末」の具体的方法が   記述されていないこと自体が
その残虐な実態を   物語っている。

他の幹部や兵士の記録によれば、「捕虜仕末」   の方法は、
捕虜を揚子江岸まで引き出し、数十人単位で刺殺し、遺体は
川に投げ捨て、さらに   死にきれない者は、銃殺したことが
記述されている。
一支隊だけで、少なくとも   1万数千人の捕虜を   殺害した
という事実が   分かる。

第九師団については史料が乏しいが、入城後の敗残兵剔出で、
歩兵第七聯隊戦闘詳報では6,670、同聯隊長の日記では
6,500を「処断」した   と記されている。
南京に至る間の   戦闘や入城時に   同師団のその他の部隊が
まったく   捕虜を殺していない   ということは   あり得ない。
犠牲者の総数は   膨大なものになった   と考えるべきだろう。

第十軍の第百十四師団では、歩兵第六十六聯隊第一大隊の
戦闘詳報が   残されている。   そこでは、12月10日から
13日のあいだに   捕虜1,657人を   捕らえたこと、
この捕虜を   旅団命令で14日に   すべて殺したことを、
具体的に記述している。
その記述によれば、数日間にわたって   収容していた捕虜を、
上部の命令で、組織的に虐殺したことがあきらかにされている。
以下に   13日の記事の一部を   抜粋してみよう。

   八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    イ.旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ  
     其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
    ロ.兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シテ置クベシ
    ハ.聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
     貴大隊ノ任務ハ前通リ
 
やはり   捕虜の大量殺害は、偶発的に発生した事件ではなく
日本軍の中国人に対する侮蔑、国際法規を無視した侵略行為
という背景によって引き起こされた   組織的な犯罪であった。
この事実を踏まえ、野蛮な戦争を   二度と起こさない決意と
人権の大切さ、平和の尊さを   胸にきざむべきだ   と思う。

検証・南京虐殺は組織的な犯行なのか(4)

投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/03 21:50 投稿番号: [1236 / 2250]
南京攻略戦に   直接参加した部隊の中で、上海派遣軍では
第十六師団の   歩兵第三十三聯隊と   歩兵第三十八聯隊、
第九師団の   歩兵第七聯隊、
第三師団の   歩兵第六十八聯隊   第一、第三大隊、
第十軍では   第百十四師団の歩兵第六十六聯隊第一大隊と
歩兵第百五十聯隊、国崎支隊、歩兵第四十一聯隊の第三大隊、
同第十二中隊の戦闘詳報が、防衛研究所に   所蔵されている。

また、このほかに   数多くの関係将兵の日記が残されている。
第十六師団長の日記によると、同師団は12月13日だけで
2万4千〜5千人の捕虜を「片づけた」   と記録しており、
同師団の旅団長も「我支隊のみで二万以上の敵は解決した」
と記録している。
また、同師団隷下の   歩兵第三十三聯隊の   戦闘詳報では、
13日に捕虜2,896を「処断」した   と記録している。
第十六師団だけで、また   たった1日だけで、少なくとも
2万人を超す捕虜を殺したということが   証明されている。

上海派遣軍のなかで、もっとも組織的に   捕虜の大量殺害を
実行したのは、第十三師団   歩兵第百三旅団が指揮する
歩兵第六十五聯隊基幹の   Y支隊である   とされている。
同支隊は、12月14日に   幕府山付近で14,777名を
捕虜にした。

この人数は、当時の   国内の新聞にも   報道されており、
同支隊の幹部や   兵士の日記にも   記録されているものだが、
17,000名とか   20,000名という   記述もある。
上海派遣軍参謀長の   12月15日の日記にも、「支隊ノ俘虜
東部上元門附近ニ   一万五、六千アリ、尚増加ノ見込」とあり、
14日以降も   捕虜は   増え続けていたことがわかる。

Y支隊は、この大量の捕虜を   いったんは   収容したが、
隊の兵力の   数倍にのぼる数で、その給養にも   困惑した。
支隊長の日記によると、14日には「恰モ発見セシ上元門外ノ
学校ニ収容セシ所、一四七七七名ヲ得タリ」
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」、
15日には、「捕虜ノ仕末其他ニテ騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ
連絡ス   皆殺セトノコトナリ」   と記されている。

支隊長の日記には、捕虜の処置について   軍司令部と
打ち合わせしたこと、その結果、皆殺しにせよとの指示が
あったことが   記されている。   捕虜殺害は一部の兵士が
感情に任せて行なったのではなく、組織的犯行だったのだ。
支隊長の日記は、さらに   以下のとおり   記述している。  

18日   「捕虜ノ仕末ニテ隊ハ精一杯ナリ、江岸ニ之ヲ視察ス」
19日   「捕虜仕末ノ為出発延期、午前総出ニテ努力セシム」
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