竹島

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竹島=独島「領土編入」の秘密主義6

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 18:48 投稿番号: [9681 / 18519]
実のところ、1905年以降1945年までの地図で、竹島を島根県所属と表示した地図は、愚生の知る限り議論された試しはない。

『地圖區域一覽圖』(陸軍参謀本部陸地測量部、1936年)についても、この時期の陸地測量部は内務省地理局も統合していたのであり、1936年当時は単純な軍管区などではなく行政区画も司る日本では唯一の機関であったし、その後の国土地理院に継承された国家機関だったはずである。

実は1945年までの所謂「日本の実効支配」とやらも、ろくに実証的な検証を経ていない怪しげな代物なのかもしれない。

竹島2 ◇日本側の論拠♪

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 18:45 投稿番号: [9680 / 18519]
◇論拠

  問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、「東国文献備考」の分註が正しいのかどうかです。

  于山島を竹島とする言説は、1696(元禄9)年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が、帰国後「松島は即ち于山島、此れ亦我国の地」と証言したのが最初です。「東国文献備考」には「輿地志に云う」とあるので、1656年に成立した「輿地志」でそれを確認し、分註を検討できればよいのですが、それには二つの問題点があります。

  一つは「輿地志」が現存しないこと。もう一つは「東国文献備考」が別の文献からの引用であったことです。そこで、その底本に当たってみたところ、底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。この意味は、于山島と鬱陵島は同じ島(の別の呼び方)であったということで、松島(現在の竹島)については一言も触れていません。つまり韓国側が依拠した「東国文献備考」は、引用される際に改ざんされ、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>となったわけです。これで韓国側の論拠が一つ崩れたことになります。

  しかし、于山島を松島(竹島)とみなす韓国側は「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」の中の于山島を竹島とし、そこに記された「見える」の一文を鬱陵島から竹島が見えると読み、竹島を固有の領土と主張したのです。

  ですが、300年ほど前、日本と朝鮮が鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮側は同じ文献を、朝鮮半島の蔚珍(ウルチン)から鬱陵島が「見える」と解釈し、鬱陵島の領有権を主張しました。同じ文献が、鬱陵島と竹島それぞれの領有権を主張する根拠にされていたのです。この韓国側の自家撞着(どうちゃく)は解釈に問題がある証拠です。

  そこで「東国輿地勝覧」と「世宗実録地理志」の編さん方針を見ると、島の場合は、管轄する官庁からの距離や方角を記すことになっています。鬱陵島だと、管轄する蔚珍県から遠く離れていて実測が困難なため、蔚珍県から鬱陵島までは「見える」距離にあると表現しているのです。すると、「東国輿地勝覧」などに見える于山島は、鬱陵島近くの小島となります。事実、安龍福は于山島を鬱陵島の北東にあると言っています。地図を見ていただけば分かりますが、竹島は鬱陵島のほぼ東南にあります。ですから、安龍福が見た于山島は鬱陵島付近の竹嶼(現在のチクトウ)だったことになるのです。

Okino:
1656年の「輿地志」がすでに現存してないこと。そして
「東国文献備考」が別の文献からの引用
で、その底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。つまり韓国側が依拠し根拠にした「東国文献備考」は、引用される際に、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と改ざんされたのです。これは大変なインチキですね。このインチキ「東国文献備考」に記された于山国は松島を根拠にするから、全ての論がメチャメチャになったのですよ。♪

竹島 1 ◇韓国側の主張

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 17:05 投稿番号: [9679 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11118587116904/

  ◇韓国側の主張

  韓国が竹島を領土の一部とする根拠の一つは、1770年に書かれた「東国文献備考」という書物です。その一篇「輿地考(よちこう)」の中に<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と、于山島(うさんとう)が日本の松島だという分註(ぶんちゅう)があります。松島は、昔の日本での竹島の呼び名です。

  そのため、韓国側は「東国輿地勝覧」(1481年成立)や「世宗実録地理志(せそうじつろくちりし)」(1454年成立)に出てくる于山島も竹島のことと解釈しました。また、「東国輿地勝覧」によると、鬱陵島とその属島の于山島を含む于山国は512年に新羅に編入されたので、竹島は6世紀初めから韓国(朝鮮)領だった、というのが韓国側の主張です。

  一方、日本は松江藩藩士の斎藤豊仙(ほうせん)が著した「隠州視聴合記(いんしゅうしちょうごうき)」(1667年)を論拠としていたので、韓国側が論拠とする文献の方が200年ほど古いことになります。より古い文献に于山島の名があるので、歴史的に竹島は韓国固有の領土であるというわけです。

Okino:1770年「東国文献備考」の一篇「輿地考(よちこう)」に<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と、于山島(うさんとう)が日本の松島だという分註(ぶんちゅう)があります。・・・韓国の領有根拠の出発点がここから始まります、即ち、東国文献備考(第一篇輿地考)ですね、安の事件後ですよ。

必死だな

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/30 16:52 投稿番号: [9678 / 18519]
>1905年の島根県告示は、一般に対しては積極的に開示されていなかったようだ。

お前の言う事が正しければ、当時の「山陰新聞」の記事は何だったのかな、AHOよ。

>日本は保護国の領土を略奪する野蛮国との評判が定着するのを恐れて、島根県編入の隠蔽工作に入ったことも考えられる。

お前の勝手な想像。日本による野蛮国・韓国の併合は概ね歓迎されたのだ。

竹島=独島「領土編入」の秘密主義5

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 16:32 投稿番号: [9677 / 18519]
以上述べてきたように、1905年の島根県告示は、それが捏造若しくは改竄されているのではないかとの疑念を抱かせるほど、一般に対しては積極的に開示されていなかったようだ。

その理由として考えられることは、1906年に島根県の職員が鬱陵島を訪問した際の事件の結果として、日本は保護国の領土を略奪する野蛮国との評判が定着するのを恐れて、島根県編入の隠蔽工作に入ったことも考えられる。
まず、統監府統治下で常に政策が監視されていた韓国政府を利用し、内務部に敢えて島根県編入は事実無根とする指令を出させた。
これにより、日本政府が島根県編入の事実無根たるを黙認したかのような効果を及ぼすことが出来たであろう。
実際、その後韓国政府が発刊した『韓国水産誌』などにも竹島を韓国所属の島嶼として記載させるなど、その隠蔽は徹底した。
更には、島根県管轄図などにも竹島を一切させなかった。
この様に戦前は島根県告示は徹底的に隠蔽されたのであるし、積極的に竹島を島根県所属とすることはなかったようである。

AHOへ

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/30 16:26 投稿番号: [9676 / 18519]
お前も、嘘も百回言えば事実になると信じている朝鮮人だな。

日本の「秘密主義」と百回繰り返しても事実にはならない。1906年3月、鬱陵島を訪れた日本の視察団が秘密裏に訪れていたのなら、お前のでっち上げも分からないではないが。

okinotorisima君よ

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/30 16:15 投稿番号: [9675 / 18519]
君の意図は何だか知らないが、貼り付けるだけの投稿は止めて欲しいね。

竹島

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 16:07 投稿番号: [9674 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11118587116904/

竹島=独島「領土編入」の秘密主義4

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 15:16 投稿番号: [9673 / 18519]
戦前の島根県管轄図を見てみよう。

http://ltis.pref.shimane.jp/see_jpeg/ezu/ezu_shimane/shimane_p1.htm

これらの古地図を見る限り、戦前に島根県が竹島を所管していたとは思えない。
(しかし、他に戦前の地図で、竹島が島根県管轄下として描かれた図があるのならば、どちら様でも提示して頂きたい。)

取りあえず現時点で、1905年に島根県告示で竹島を領土編入したなどとは出鱈目と思われる。
むしろ、島根県は竹島を編入などしていなかったのではないか。

竹島=独島「領土編入」の秘密主義3

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 14:46 投稿番号: [9672 / 18519]
更には戦後、日本側の主張がころころ変わっている。

http://www.archives.go.kr/gars/dokdo_home/dokdo_sub01_list.asp?lgubun=1&mgubun=1

当初の日本側の主張は、境港に居住する個人所有地であるとの主張であった。
現在島根県等が主張しているような所謂海軍用地などと云う主張は全然無かった。
所謂島根県の告示及び関連文書一式を、戦後になって慌てて捏造したのではないだろうか。
中井が提出したと云われる履歴書上の矛盾によって、日本側の組織的捏造が暴かれ破綻するのではないかと思われる。

素直に読む

投稿者: kaebul 投稿日時: 2005/05/30 14:26 投稿番号: [9671 / 18519]
>然らば、「此二島無人之地見高麗如自雲岐望隱岐然則日本之乾地以此州爲限矣」は、「此二島=無人之『地』=日本之乾『地』=此州」と素直に読める訳です。

とは、ならないのです。「此州」は「隠州」としか読めないのです。詳しくは、池内敏教授の「前近代竹島の歴史学的研究序説―『隠州視聴合記』の解釈をめぐって」を読めば分かります。なお、te2222000さんの説は、すべて池内論文に書かれている内容です…よね?

竹島=独島「領土編入」の秘密主義2

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 14:14 投稿番号: [9669 / 18519]
島根県の告示を、そもそも無かった、後世の捏造ではないかと疑う第一の理由は、「貸下願」を出したと云われる中井養三郎が隠岐島庁へ提出した履歴書の附属書類に、「本島ノ鬱陵島ヲ付属シテ韓国ノ所領ナリト思ハルルヲ以テ、将ニ統監府ニ就テ為ス所アラントシ上京シテ種々画策中」云々と書いていることである。
中井が一九〇四年九月二十五日「りゃんこ島領土編入並ニ貸下願」を提出した当時は、統監府など影も形も存在しない。
恐らくは、後年都合良く話をでっち挙げるため、出鱈目な文書を捏造したのであろう。
また、告示が地方紙にのみ掲載されているのも妙な話である。
全国紙ならば読者も多く、掲載されていないものを後日になって掲載されたと捏造することは不可能だが、殆ど注目されない地方誌ならば捏造しても発覚しないと考えたのではないだろうか。
いずれにしても新領土の獲得は国家的な慶事であり、それを全国紙や官報が掲載しない道理はないのである。

決裁不要ですか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 12:23 投稿番号: [9668 / 18519]
何が何でもどちらかの領土に決めてかかりたい御仁が大勢おられることは見ての通りです。
先日は、竹島(鬱陵島)を在りもしないアルゴノートに根拠もなく強引に比定して、明治政府が存在しない島を放棄したのだと主張される方も居られました。
当時の内務省や日本政府が、その様ないい加減な決定をしたとは考えづらいことです。

さて、位置関係を明確にするために地図を付けたものと思われると御指摘頂きましたが、なるほどと思いました。

【松島=獨島】についての地籍編纂の伺いについては、日本領であったならば、再度の決裁は必要ないとの御指摘も、その通りなのだろうと思います。
1900年頃までに島嶼の地籍はあらかた編纂されているわけですし、その頃までに地籍編纂が行われたかが問題なのだろうとの心証です。

決裁は必要ないですが、、、

投稿者: jo_hauks_nobu 投稿日時: 2005/05/30 12:12 投稿番号: [9667 / 18519]
堀教授の論部が正しいのかどうかの判断は私の専門の範疇を越えます。
ただ、【竹島=韓国領】を導き出したい一心での我田引水が見られるような気がしました。もっとも竹島を日本領と言いたいが為に同じような我田引水をしている論者もこの掲示板にいたように思います。
要するにたぶんどっちにも確証がないんですね。しかも古い年代の資料は現在の常識から信憑性に欠ける部分も出てくる。
そうなると時代を新しくしていくしかないわけです。時代が新しくなると国際法が整備されてきた近代以降は日本側有利になるので、韓国側としては時代を古くして解釈論で正当化しようとするというのが、この問題の構図だと思います。

論がそれましたが、
瀬戸内海の島々の地籍編纂などを見れば分かりやすいのですが、地図が附属された書類が多々あります。これは岩のような小さな島も多々あるので図を付けないと言葉だけでは分からないという事情もあったと思いますが、島は位置関係をはっきりさせるためにも地図を付けたものと思われます。

地籍編纂の伺いについては日本領であったならばOKの決裁が出るはずなので、再度の決裁は必要ないと思います。

なるほど

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 11:54 投稿番号: [9666 / 18519]
jo_hauks_nobuさん

やはり専門のご意見を伺いますと、堀教授の論文が正しいとしても、かなり異例の処置だったことが良く分かります。

周辺広域図や概略図は添付されるのが普通だとすれば、【竹島と松島=独島の略図】を付すのは特別のことではないわけですね。

そうなれば、【松島=独島】については、改めて地籍編纂の決裁を求める必要があると理解して宜しいでしょうか。

多少の指摘させてください。

投稿者: jo_hauks_nobu 投稿日時: 2005/05/30 11:43 投稿番号: [9665 / 18519]
Am_I_AHO_1stさん

ご指摘の論文拝読しました。歴史学者の方とは土地制度の問題で争うことも多いのですが、この論文の中にも若干文句を言いたくなる部分がありました。(苦笑)
しかし、それは完璧にトピズレですので、関係ある部分以外はやめましょう。

仰せの点については、若干確認したいのですが、編纂しない方針とは言えないのでしょうか?
領土かどうか分からないので確認をした上で編纂をするというようにしか読めません。同じような例は南西諸島の地籍編纂でもあったように記憶しています。(島の名前までは出てきませんので暇があれば調べます。尖閣諸島でないのは確かです。)

むしろ、「日本海内竹島外一島地籍編纂方向」とあることから、1人の官吏名での決裁である可能性が強いとも考えられます。
だとすれば再三申し上げているように【外一島=竹島】とはなり得ないということです。測量主体の島根県が上げていると言うことですので、さらに強くそういえます。

それとこの論文にケチを付けるつもりはないのですが、【竹島と松島=独島の略図】を付したとか、書かれていますが、周辺広域図や概略図は添付されるのが普通なのに、わざわざ領土問題に関係する島の地図を特別に付けられたような記述になっています。さらに附属書類中に外一島を松島とする記載があると書かれていますが、これも明治期の決裁文書、たぶん現在もそうでしょうが考えられないことです。現在も当時も公文書の記述はルールがありますが、それを逸脱しているように見えます。
あるいは論文の書き手が資料の解釈を歪めている可能性があります。つまり松島という表現は他の文脈に関連するのをこじつけたように見えると言うことです。
さらに地籍編纂は【諸島】や【列島】などの地理的概念とは区別されると述べましたが、この論文では竹島と松島をセットであるなど地理的概念を念頭に置いた地籍編纂を行っているが如き論調すら認められます。

竹島=独島「領土編入」の秘密主義

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 11:31 投稿番号: [9664 / 18519]
官報の訂正記事も、「竹島」の所属は明らかにはしませんでした。
その後も政府レベルでは「竹島」の所属は依然として明らかにはしておりませんで、例えば1908年末迄の日本国内の境域の法的根拠を集積網羅した『府県及北海道境域沿革一覧』にも所謂1905年の島根県告示なるものは掲載されませんでした。

jo_hauks_nobuさん

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 10:51 投稿番号: [9663 / 18519]
早速のレスポンスを頂き、有り難うございます。

御指摘の通り、当時の法令制度に照らして、手続きとしてどうだったかを精査するのは大切なことだと思います。

しかし堀和男氏の論文(『朝鮮史研究会論文集』第24集1989年)によれば、太政官への伺いは内務省が版図外と判断した後に、念のため「版図ノ取捨ハ重大之事件」として出されたものであって、既に内務省としては地籍を編纂する方針ではなかったことが伺えます。
確かにお説のように、元々内務省が地籍を編纂する方針でお伺いを立てたのであれば、島名を特定しないのは例がないということは言えるのかもしれません。

http://www.kankoku.gr.jp/cgi-bin/spboard/board.cgi?id=osakahot_j&page=1&action=simple_view&gul=42

mattouyaへ

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/30 10:40 投稿番号: [9662 / 18519]
>東郷平八郎の報告に現われた「リヤンコールド」岩を、注もつけずに官報として発表し、後日、訂正号外を出していたという事実。

お前も、正体を現してきたようだな。

国家として号外を出してまで訂正する行為は、半月城がでっち上げる「秘密主義」とは矛盾する行為だとは思わないか、在日バボよ。

Am_I_AHO_1stさん

投稿者: jo_hauks_nobu 投稿日時: 2005/05/30 10:32 投稿番号: [9661 / 18519]
>しかし地籍編纂はしないことに決定しているので、両島を一人の担当官が同時に管轄することも有り得ないわけですし、両島が離れていることが特に問題にはならないようですが、如何でしょう。

地積編纂をしないことに決定したかどうかではなく、最初の地籍編纂許可を求める方も見る必要があると言いたいのです。
私は竹島問題については門外漢であり、興味はありますが、ただそれだけです。
日韓どちらの領土かについて興味はないというのが正直なところです。
明治期はどのような地籍編纂も決裁が行われています。
ただ地籍編纂や土地制度はたまたま専門であったのでちょっとおかしな書き込みは看過できなかったと言うことです。よって論戦に参加しようとか、領土権を示そうとかの考えはありません。

最初の決裁において【竹島外一島】を測量して地籍編纂作業を行って良いかという伺い決裁が上がってきたという記述を本トピ内で見ました。
それを検討した結果、【竹島外一島】は日本ではないという決定が出たという記述につながっておりました。
私は実は最近まで竹島とは鬱陵島のことだったとは知らなかったのですが、これを読んで今の竹島の周囲に小島があるのかという風景を想像しましたが、読み進めていくうちに【竹島=鬱陵島】で【外一島=竹島】という主張をしておられる方がいました。さらに両島が90kmも離れていると聞き、明治時代にこれだけの距離の離れた土地を1人の責任者が測量したいという決裁を上げるのはあり得ないし、【外一島】という表現から周辺の岩とか、かなり近い位置の島なのかと思いました。今の竹島は絶海の孤島であり、名前が分からないから外一島という表現になることはあり得ません。
私と同じような分野の人は恐らくみんなそう思うでしょう。
どっちにしても、【竹島外一島】=【鬱陵島+竹島】というのは、それはいくら何でも常識外れだなと思い書き込みしました。

この場合、同時期に官吏A名による伺い決裁で鬱陵島の測量と、官吏B名による伺い決裁で竹島の測量を行いたいという決裁が上げられることはありえます。
しかし、官吏AまたはB単独で【鬱陵島+竹島】の測量をしたいという決裁を上げることは、当時の交通手段などからも絶対にあり得ないと言うことです。

よって【竹島外一島】の伺いを1人の官吏名で伺っていれば外一島は鬱陵島周辺の小島と考えて間違いありません。もし、複数名の官吏がおり、官吏Aが鬱陵島、官吏Bが竹島の測量を行いたいとしていれば外一島が竹島の可能性も出てきます。

「州」の用法と解釈

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/30 10:10 投稿番号: [9660 / 18519]
>此二島無人之『地』・・・然則日本之乾『地』以此州爲限矣

「州」が「島の意味で使われている個所はありませんでした」との事には同意します。

ただ、「隠州」「雲州」の「州」は、「甲州」「播州」のように俗にいう地域、『地』を表す用語ですので、行政区画とは一致しない場合もありますね。

然らば、「此二島無人之地見高麗如自雲岐望隱岐然則日本之乾地以此州爲限矣」は、「此二島=無人之『地』=日本之乾『地』=此州」と素直に読める訳です。

>「竹島外一島」について

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/30 09:49 投稿番号: [9659 / 18519]
ご投稿を興味深く拝見しました。

jo_hauks_nobuさんのご見解としては、地籍編纂決定以降であれば「竹島外一島」と具体的な島名を明示しないのはおかしいと理解しました。

しかし地籍編纂はしないことに決定しているので、両島を一人の担当官が同時に管轄することも有り得ないわけですし、両島が離れていることが特に問題にはならないようですが、如何でしょう。

>「竹島外一島」について

投稿者: exorcist_lll 投稿日時: 2005/05/30 09:42 投稿番号: [9658 / 18519]
>結論として数キロ離れた島同士でも同じ区分にしないことが多々あるのに
>90kmも離れた竹島と鬱稜島がいっしょに扱われるというのは地籍編纂上は絶対にあり得ません。


なるほど、専門的に見て、そうなんですね。
素人的に見ても、90km以上離れた島を「外一島」で
表すなんてことは、とっても変だと思っていました。

「竹島外一島」について

投稿者: jo_hauks_nobu 投稿日時: 2005/05/30 09:26 投稿番号: [9657 / 18519]
すいません。
竹島問題は興味があっても専門ではないのですが、地籍を含めた土地については主要研究テーマでもあり、この観点から一言意見を申し上げたいと思います。
「竹島外一島」について文言とか解釈をめぐる話題は出ているようですが、ちょっと実務的にも制度的にもおかしな話が出ているようなので言わせてください。
つまりこの表現は地籍編纂の際して領土の確認をするために生じたものという点です。
まず、地籍編纂の歴史を簡単に見てみましょう。
我が国の地籍編纂の歴史は中国・唐の均田制を模して日本風にアレンジした班田収授法が始まりです。その後、太閤検地が行われたのは皆さんご存じの通りです。この時までは米の収穫量(石高)を中心に地籍が編纂されていました。
これが明治になり、地租改正が行われると、石高中心の地籍編纂が土地に対する権利というものが中心になります。これは、近代化の過程で西洋諸国の制度を模したものです。
石高から地券に中心が移りましたが、その本質は土地の戸籍を作ることでした。これは終始一貫変わっていません。
この地籍編纂に必要な測量は一筆単位でおこなわれます。分かりやすく言えば、メートル単位以下の細かい測量が行われるのです。そしてその測量は市町村単位以下で行われます。
以下と書いたのは、例えば現代で言えば、町内会で要望があるなどの場合はその町内会の範囲で行われる場合もあるからです。
作業が細かいので現在は市町村のように最小行政単位で行われます。この一筆単位の測量は太閤検地以前も同じで、古来、同じ測量単位です。
1900年までに小笠原諸島などの地籍編纂も行われていますが、島嶼での測量も、まさに一筆単位で行われます。
父島、母島みたいな話ではなく、小笠原諸島にある父島列島の弟島と周辺の小島という細かいところまで絞って測量しており、範囲として一括りにされるのは、地理学上の問題ではなく、弟島とその周辺の小島のように間近に視認でき、徒歩やボートなどですぐに行ける場所ということになります。よって、父島と母島では距離が離れすぎており、地籍編纂で同じ区分にして測量するというのはあり得ません。父島と弟島でもダメです。
つまり測量作業は【小笠原諸島】という括りではなく、【弟島とその周辺の小島】という作業になるということです。同じ【諸島】や【列島】でも距離がある場合は作業区分が分かれます。これは瀬戸内海での測量でも同じです。また、あくまで土地の権利を認めるものですので、測量後は登記所へ情報が行きます。
最近は衛星を使ったGPS技術が発展したので1km四方の測量も一括してできるようになってきましたが、明治時代であれば当然そんなことはできませんので、より狭い範囲での測量作業になります。
この「竹島外一島」は地籍編纂に際して、測量すべきか否か、要するに日本領土かどうかの確認のお伺いへの返答と聞いていますが、90kmも離れた島同士を一括りにして測量するなど地籍編纂の観点からするとちょっと考えられません。また、鬱稜島と竹島を1人で管轄し測量するというのもあり得ません。
よって地籍編纂上の立場で言えば「竹島外一島」の意味は「竹島(=鬱稜島?)」とそのすぐ近くの地籍を得られそうな島(地券が発生する島)という理解になります。もし鬱陵島に隣接する島があるならそこでしょうし、ないのなら水面に出ている近くの岩などです。
よく海岸から数十メートル離れた岩に神社などがあったりしますが、地籍はあります。
また、明治期の内務省の地籍編纂においては測量地を曖昧にしないので「外一島」というのは、島の名前が分からない、名前がまだ付けられていないなどの事情があったのではないかと思います。「○○島、○○島及び○○島」のようにすべての測量対象を内務省担当官名で記載するのが明治期の特徴です。現在は「別紙」に測量地を記載する方式です。記載名も担当官ではなく、担当部局長名です。
結論として数キロ離れた島同士でも同じ区分にしないことが多々あるのに90kmも離れた竹島と鬱稜島がいっしょに扱われるというのは地籍編纂上は絶対にあり得ません。このことだけは申し上げたいと思います。GPSを使えない明治時代ならなおさらです。
また、ある特定の官吏が90km離れた島同士を同じ時期に地籍編纂を管轄するというのも考えられません。兼轄するにしても同じ市町村内の別地区とか通常、1日の業務で移動できる範囲に限られます。

素晴らしいお2人

投稿者: mattouya 投稿日時: 2005/05/30 07:13 投稿番号: [9656 / 18519]
朝起きて開いてみて、半月城さんとte2222000さんの研究を読み、わくわくしました。

半月城さんが示された
東郷平八郎の報告に現われた「リヤンコールド」岩を、注もつけずに官報として発表し、後日、訂正号外を出していたという事実。

te2222000さんの隠州視聴合紀「州」の用法と解釈。

共に、とっても勉強になりました。
この掲示板のすごさを感じます。

ありがとうございました。

>隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (4/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 06:06 投稿番号: [9655 / 18519]
すみません、『隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (4/7)』の記事は、長過ぎて最後が切れてしまいました。以下のように補って読んでください。

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それでは、この「此州」は何を指すのでしょうか。

私には「隠州」を指すとしか思えません。つまり、斉藤豊仙は、この文章が隠州について述べていることを暗黙の前提としており、説明無しに「此州」と書けば隠州のことであると考えていたと推測します。
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隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (7/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 06:05 投稿番号: [9654 / 18519]
【5.2】b. 此州は竹島と松島を指す

1956年に日本政府が韓国政府に送った意見書における解釈です。この解釈については以下の疑問が浮かびます。

○疑問 b-1

隠州視聴合紀の他の個所では、「州」という字が行政区域としての国の意味でのみ使われている。行政組織のない無人島に対して「州」が使われているというのは不自然ではないだろうか。

○疑問 b-2

隠州視聴合紀の他の個所では、「此州」という言葉はいずれも隠州を指している。巻二の周吉郡・上西里の節のように、先行する文中に「隠州」という言葉が現れない文脈でさえそうである。まして、隠州の地理的環境を述べている国代記冒頭の文脈で「此州」と書いた場合、「竹島よび松島」のことではなく隠州のことだと誤解される恐れが極めて大きい。そのことは斉藤豊仙も認識できた筈である。それにも関わらず、あえて「此州」という言葉を使ったのはなぜか、


【5.3】c1. 此州は隠州を指し、竹島と松島は朝鮮領である

韓国政府の主張です。今回私が調べたこととは特に矛盾しないようですが、それ以外に隠州視聴合紀全体の記述を見た場合に次の疑問が残ります。

○疑問 c1-1

巻三・隠地郡・南方村の節で磯竹島への渡航について言及している。当時朝鮮への渡航は対馬経由に限定されていたこととの整合性をどう考えればよいか。

また、明確に疑問としては立てませんが気になる点として、「見高麗如自雲岐望隱岐」の記述が磯竹島と高麗を別のものと見ていることがあります。17世紀の日本において、「高麗」が「朝鮮国」として使われる例と「朝鮮地域・朝鮮半島」として使われる例のどちらがどの程度多いかに依る問題であり、できれば今後調べたいと思います。


【5.4】c2. 此州は隠州を指し、竹島と松島はどこの国にも属さない無人島である

#9365 で ahirutousagi2 さんが紹介して下さった解釈です。

今のところ、この解釈に対する疑問は特にありません。ただ、通航一覧の元和6(1620)年の項に「竹島   朝鮮國属島」と書かれている件や、寛永14(1637)年に対馬が朝鮮に対して竹島渡航は公儀御法度であると答えた件など気になることはあるので、今後勉強したいと思います。


【5.5】c3. 此州は隠州を指し、竹島と松島は隠州の一部である

#9247, #9248 で VIVA_VIVA_21 さんが紹介して下さった解釈です。これについては、以下の疑問が浮かびます。

○疑問 c3-1

国代記・地理では以下のように隠州が島前、島後の四郡から成ることを述べている。

隱州在北海中故云隱岐嶋
按倭訓海中言遠幾故名歟
其在巽地言島前也知夫郡海部郡屬焉
其位靈地言島後周吉郡穩地郡屬焉
其府者周吉郡南岸西郷豊崎也

ここに竹島と松島の言及がないのはなぜか。

○疑問 c3-2

国代記・地理の記述は、隠州から北西に二日行ったところに松島があると読める。これは隠州と松島を別のものと考えていることにならないか。


【6】おわりに

隠州視聴合紀に関する私の調査報告は以上です。

国代記で日本の北西の限りとされた「此州」が何か、そして竹島と松島はどこに属すると考えられているかについて、今のところ、私には断定できません。素人の予想として書くなら、「此州」は隠州を指し、竹島と松島はどこの国にも属さない無人島だという解釈が最も穏当そうですが、それを最終的な結論とするには、私の知識は足りません。

しかし、どの解釈を選ぶにせよ、その結論が説得力を持つためには、5章で述べた疑問点をきちんと説明できなければならない、ということは言えるだろうと思っています。

この小論が、今後、隠州視聴合紀の解釈について考えられる方の一助となれば幸いです。

(終わり)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (6/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:46 投稿番号: [9653 / 18519]
【4】島を指し示す言葉

次に隠州視聴合紀の中で、一度ある島について述べた後、もう一度その島に言及する際、どのような言葉でそれを指し示しているかを調べました。

その結果、島を指し示す場合は以下の四つが使われていました。

a.「此」… 11例
−−−−−−−−−−−−
例.(巻四・知夫郡・美田郷)
南に去ること三十間ばかりにして海に出たる小嶋あり
此を小山と云
−−−−−−−−−−−−

b.「其」 … 6例
−−−−−−−−−−−−
例.(巻三・隠地郡・津戸)
左の入海の前平につゞきて大形島有
其より西に白戸島賤木島と云あり
−−−−−−−−−−−−

c.「此島」 … 3例
−−−−−−−−−−−−
例.(巻二・周吉郡・蛸木浦)
又津戸に渡る半に篷島(とましま)と云あり
皆大岩なり
昔津戸蛸木此島をあらそふ
−−−−−−−−−−−−

d.「此嶋」 … 1例
−−−−−−−−−−−−
例.(巻四・知夫郡・知夫郡同別府)
河の南に見付嶋と云あり
蓋崎村より入来る船の先づ此嶋を見に依り
−−−−−−−−−−−−

念のため「此島」と「此嶋」を分けましたが、実際には「島」と「嶋」は全く区別無く使われています。たとえば島前について「島前」「嶋前」の両方の表記をしています。この二字については、筆写の過程でも容易に入れ替わると思われるので同じ字と見てよいと思います。

【5】考察

1章で、「此州」という言葉をどの程度重く考える必要があるかを調べたいと書きました。

前章までの調査結果に基くと、国代記・地理の「此州」は隠州を指すと考えることが他の個所での用例と一致することになります。従って、それなりの理由がなければ、それ以外の解釈をすることは避けるべきだと私は考えます。

このことを踏まえ、「此州」の各解釈について私の思いつく疑問を挙げます。

国代記・地理の「此州」の解釈としては、以下の可能性が考えられます。

a. 此州は竹島を指す
b. 此州は竹島と松島を指す
c. 此州は隠州を指す

更に c の場合は竹島と松島の所属によって、三つに分けて考えることにします。

c1. 此州は隠州を指し、竹島と松島は朝鮮領である
c2. 此州は隠州を指し、竹島と松島はどこの国にも属さない無人島である
c3. 此州は隠州を指し、竹島と松島は隠州の一部である

これらについて順番に検討してみます。


【5.1】a. 此州は竹島を指す

下條正男氏の『竹島は日韓どちらのものか』で主張されている解釈です。この解釈については以下の疑問が浮かびます。

○疑問 a-1

隠州視聴合紀の他の個所では、「州」という字が行政区域としての国の意味でのみ使われている。また、島を指すのに「此島」「此嶋」等を使い、「此州」という書き方はしていない。斉藤豊仙は本当に「州」を島の意味で使えると考えていたのだろうか。

○疑問 a-2

隠州視聴合紀の他の個所では、「此州」という言葉はいずれも隠州を指している。巻二の周吉郡・蛸木浦の節のように、先行する文中に「隠州」という言葉が現れず、代わりに「松島」という言葉が出てくる文脈でさえそうである。まして、隠州の地理的環境を述べている国代記冒頭の文脈で「此州」と書いた場合、竹島のことではなく隠州のことだと誤解される恐れが極めて大きい。そのことは斉藤豊仙も認識できた筈である。それにも関わらず、あえて「此州」という言葉を使ったのはなぜか、


「深い考えはなく、島の意味を持つ字の中から、たまたま州という字を選んだだけだ」という説明では、私は納得できません。

(続く)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (5/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:45 投稿番号: [9652 / 18519]
【3.5】好事者此州に雉の無事を愁て(周吉郡・蛸木浦)

最後は巻二・周吉郡・蛸木浦の節の記述です。節の冒頭から引用します。

−−−−−−−−−−−−
蛸木浦は申酉の濱邊にして左は山崎遠く出て糠谷の西より皆石山の山崎にて浦につゞいて重れり
右は又大岩ありて波に出没す
其につゞける島崎に石を疊んで小社あり
其仲に松島あり
上に松生て樹間に荒園あり
長事二町ばかり
昔好事者此州に雉の無事を愁て試に雲州より雌雄を渡して此に放つ
一年を經て終に亡と云

[訳]
蛸木浦は西北西の浜辺で左は山の岬が遠く張り出して、糠谷の西から皆、石の山の岬になっており、重なるように浦まで続いている。
右はまた大岩があって波に出たり没したりしている。
それに続く島の岬に石を畳んで小さな社がある。
その中に松島という島がある。
上に松が生えて、木の間に荒れた園がある。
長さは200メートル程だ。
昔、好事家がこの州に雉のいないことを愁えて、試しに雲州から雄雌を運んできてここに放した。
しかし一年後には、とうとう死んでしまったという。
−−−−−−−−−−−−

ここにも「此州」という言葉が出ています。これは何を指すのでしょうか。

まず前節と同様に「隠州」を指す可能性があります。それから、すぐ前に「松島」という言葉が出てくるので(蛸木浦にある小島のことで、竹島=独島のことではありません)、それを指している可能性もあります。

しかし、松島を指すとすると、好事家が愁えた理由が分かりません。隠州の他の場所に足を運べば雉は見られるのですから。さらに、わざわざ雲州から雉を取り寄せたことも理解に苦しみます。

無理やりこじつければ、隠州に雉はいるけれども、好事家はこの松島に特に思い入れがあって、松島に雉がいないのを残念に思い、なおかつ、何らかの理由で隠州の他の地域からではなく、雲州から雉を取り寄せたということになります。

解釈として不可能ではありませんが、好事家が松島に寄せる思い入れやわざわざ雲州から取り寄せた理由を何も説明せずにこのような記述をするのは、とても不自然です。「此州」を隠州と考えればそのような不自然さは全くありません。したがって、ここの「此州」もまた隠州を指すと思ってよいでしょう。

さて、この用例で重要なのは、先立つ文中に「隠州」という言葉が現れないけれど、「松島」という言葉は出てくることです。そのような文脈でも「此州」が隠州の意味で使われています。

斎藤豊仙はここで「此州」でなく「隠州」と書くこともできた筈です。それを「此州」と書いたということは、少なくともこの文脈で「此州」という表現を使うことが不適切だとは思わなかったということになります。もっと具体的に言えば、この文脈で「此州」という言葉が、松島のことと勘違いされる恐れはないと判断したことになります。

推測を重ねているので断言はできませんが、斎藤豊仙は島を指すのに「此州」という言葉は使えないと思っていた可能性が高い、と私は考えます。

【3.6】「州」の用法のまとめ

「州」の用法について分かったことをまとめます。

・「州」は行政区画としての国の意味でのみ使われており、単なる島の意味では使われていない。
・先立つ文中で隠州についての言及がないにも関わらず、「此州」が隠州の意味で使われる個所がある。
・直前に島についての言及があるにも関わらず、「此州」がその島のことではなく、隠州の意味で使われる個所がある。

(続く)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (4/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:44 投稿番号: [9651 / 18519]
【3.3】一州人以五郎君之年少晨夕遊宴(国代記・歴史5)

次は巻一・国代記・歴史5からです。

その後、寺本和泉らの計画が成功して、清家は殺され、五郎が領主となります。
人質先の芸州でその報に接した才又郎は、涙ながらに元就に訴え、百余騎の兵力を借りることに成功しました。そこから以下の記述が続きます。

−−−−−−−−−−−−
才又郎大絓到雲州笠浦覘於隱州動靜
雖然風波難期空送數日
此時一州人以五郎君之年少晨夕遊宴軍制相忘不問津口之出入也

[訓読]
才又郎、大いに絓んで、雲州笠浦に到り、隱州の動靜を覘う。
然りと雖も風波期し難く、空しく數日を送る。
此の時、一州人、五郎君の年少なるを以って晨夕遊宴し、軍制相ひ忘れ、津口の出入りを問わず。

[訳]
才又郎は大いに喜び、雲州の笠浦まできて、隠州の動静をうかがった。しかし、風波が思うようにならず、空しく数日を過ごした。
この時、一人の州人が、五郎君の年少であるのを良いことに朝夕遊んで酒を飲み、軍の規則を忘れて津口の出入りをきちんと調べなかった。
−−−−−−−−−−−−

ここに「一州人」と書かれています。この人は、軍の規則に基づいて津口の出入りを監視する人ですから、単に「島に住んでいる人」というよりも、隠州という支配機構に組み込まれた人というべきです。ここでも「州」は行政区域の意味で使われています。


【3.4】又此州之老或(周吉郡・上西里)

次は巻二・周吉郡・上西里の記述です。

巻一の国代記は漢文ですが、巻二〜巻四にある各地の見聞録は、漢字かな交じりの和文です。ただし、所々に漢文の記述が挿入されています。漢文の部分は、一段字下げして印刷されていますが、活字の大きさは本文と同じで、本文と注の中間的な扱いのようです。

さて、周吉郡上西里の節では土地の古老の伝える話を和文で記載しています。要約して紹介します。

昔、唐橋中将という人が左遷されてきて、この土地で死んだ。その後、中将の古跡を尋ねて蘆月という人が来た。蘆月が古い塚に向かって「天津風雲井に掛けし唐橋の」と上の句を読み、下の句を続けようとしたところ、塚の中から「通路たゆる森の下草」という声がした。この話を聞いた村人が異なことだと小堂を造ってまつり、今に至っている。

そして、この話の後に漢文で以下の記述が出てきます。

−−−−−−−−−−−−
昔鄭交題古塚曰塚上雨竿風吹常〓々
塚中有聲曰下有百年人長睡不知曉
于漢于和有似矣哉
又此州之老或有稱村上天皇之末孫而號村上某者
問其所由出則曰唐橋遺腹也
夫唐橋者村上之庶流也
野夫雖不知其所出以之稱之
則中将遊于茲或曾有之歟
恨不見正史
(〓は「島」の山を衣に変えた字)

[訓読]
昔、鄭交は古塚と題して曰く、塚上の雨、竿風吹きて常に〓々たりと。
塚中に聲有りて曰く、下に百年の人有り、長く睡りて曉を知らずと。
漢に和に似たる有るかな。
又、此の州の老の或るひとに村上天皇の末孫を稱して村上某を號する者有り。
其の由りて出づる所を問へば、則ち曰く、唐橋の遺腹なりと。
それ唐橋は村上の庶流なり。
野夫、其の出づる所を知らざると雖も、これを以ってこれを稱す。
則ち中将の茲に遊ぶ、或ひは曾てこれ有るか。
恨まくは、正史に見ず。

[訳]
昔、鄭交が「古塚」という題で「塚上の雨、竿風吹きて常に〓々たり」と詠ったところ、
塚の中から声がして「下に百年の人有り、長く睡りて暁を知らず」と言ったという。
中国にも日本にも似た話があるものだ。

また、この州の老人で村上天皇の末孫と称して村上某を名乗る者がいる。
その由来を聞くと唐橋の残した子孫ということだ。
確かに唐橋とは村上天皇の庶流である。
教養もない男がそんなことを知る筈もないのに、唐橋の子孫であることを以って村上を称している。
したがって中将がここに来たことも、あるいはかつて本当にあったのかもしれない。
残念なのは正史に記述がないことだ。
−−−−−−−−−−−−

また「此州」が出てきます。特筆すべきは、この「此州」の前には、隠州、雲州などの国の記述もなければ、島についての記述も一切ないことです。これは、上に引用した漢文の部分だけでなく、上西里の節全体を見ても、あるいはその一つ前の原田里の節を見ても同じで、国名も島名も全く出てこないのです。

つまり、上の「此州」は、以前に出てきた○○州あるいは○○島という言葉を指すのではないのです。

それでは、この「此州」は何を指すのでしょうか。

私には「隠州」を指すとしか思えません。つまり、斉藤豊仙は、この文章が隠州について述べていること

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (3/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:44 投稿番号: [9650 / 18519]
【3】「州」の用法

まず、問題となっている国代記・地理を除き、それ以外の部分で「州」がどのような意味で使われているかを調べました。その結果、以下のどちらかの意味で使われおり、島の意味で使われている個所はありませんでした。

a.「隠州」「雲州」のように国を表す固有名詞の一部 … 57例
  (内訳:序 2/国代記[地理を除く] 31/周吉郡 8/隠地郡 2/知夫郡 2/知夫郡焼火山縁起 10/文覚論 2)

b.行政区画としての国を表す一般名詞 … 5例
  ・隣州之盟主(国代記・歴史2)
  ・假元就威以至此州(国代記・歴史4)
  ・一州人以五郎君之年少晨夕遊宴(国代記・歴史5)
  ・又此州之老或(周吉郡・上西里)
  ・好事者此州に雉の無事を愁て(周吉郡・蛸木浦)

bの用法の検討は重要であり、数も少ないので以下に一つ一つ見ていくことにします。

【3.1】隣州之盟主(国代記・歴史2)

まず巻一・国代記・歴史2にある記述です。

戦国時代に入り、隠岐でも一族兄弟間の争いが起こって国が乱れたことを述べた後、以下のように書かれます。

−−−−−−−−−−−−
雲州刺史尼子伊豫守者佐々木之棟梁隣州之盟主也
聞隱州之物怱

[訓読]
雲州の刺史、尼子伊豫守は佐々木の棟梁にして隣州の盟主なり。
隱州の物怱なるを聞きて

[訳]
雲州の刺史である尼子伊予の守は、佐々木氏の棟梁であり、また近隣の州の盟主でもある。隠州が騒然としていることを聞いて…
−−−−−−−−−−−−

これは尼子の影響下にある近隣の国々のことを隣州と書いていると思って間違いないでしょう。つまり「州」は行政区画としての国の意味です。

ちなみに隠岐を支配していたのも佐々木氏の流れの一族です。


【3.2】假元就威以至此州(国代記・歴史4)

次に巻一・国代記・歴史4の記述です。

隠州の領主、為清が出雲で戦死した後、いまだ12歳の嫡子五郎に代わり、為清の弟、清家が領主となります。清家は毛利に対抗することの不可能を悟って降伏し、子の才又郎を人質として差し出しました。そして、毛利から安堵される形で隠州の支配を続けます。しかし、毛利からの戦費の要求が激しいこともあり税の取立ては苛酷で、家来の間に不満が高まってきます。そこに以下の記述が出てきます。

−−−−−−−−−−−−
於是爲芿之舊臣寺本和泉寺本中務(中略)等潜偶語而曰
芿家雖令弟本比肩之家人五郎君雖幼弱佐々木之根本也
而以才又郎假元就威以至此州
則吾儕皆渠之馬卒也

[訓読]
ここにおいて爲芿の舊臣、寺本和泉、寺本中務(中略)ら、潜かに偶ひ、語りて曰く、
芿家は令弟と雖も、本、比肩の家人、五郎君は幼弱と雖も佐々木の根本なり。
しかして才又郎を以って元就の威を假り、以って此州に至る。
則ち吾がともがら、皆かれの馬卒なり。

[訳]
そこで為清の旧臣である寺本和泉、寺本中務(中略)達が密かに集まり、次のように話した。清家は弟君とはいえ、元は我らと同じ家来にすぎない。五郎君は幼いとはいえ、佐々木氏の血筋の本流である。清家は才又郎を質に送って毛利元就の威令を借り、この州に支配を行き渡らせている。我らの仲間は皆、かれの馬卒にされてしまった。
−−−−−−−−−−−−

実は正直に言って「至此州」の「至」の解釈に、自信がありません。清家は元から隠岐に居る訳ですから、「到着した」という意味に取るのは不自然で、ひとまず「支配を行き渡らせている」と訳しました。諸賢のご批判を仰ぎたいと思います。

いずれにしろ、この「此州」は、寺本和泉らのいる地域のことですから、隠州を指すと考えて間違いありません。清家の支配について話しているのですから自然の地形としての「隠岐島」ではなく、行政区域としての「隠岐国」の意味で使われています。なお、上の文は家来の語る言葉として書かれているので、地の文として書かれている国代記・地理の解釈に適用するには注意が必要でしょう。

(続く)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (2/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:43 投稿番号: [9649 / 18519]
さて、私がこの問題で常々気にしていたのは「此州」という言葉にどこまでこだわるべきかです。

普通の感覚では「此州」は、それ以前に出てきた○○州という言葉を指すと考えるのが自然です。国代記の「此州」は隠州でないと主張される方も、一般論としてのこの意見には反対しないと信じます。

しかし、当時日本が朝鮮との往来を対馬経由に限定していたこと、そして隠州視聴合紀は磯竹島への渡航に触れた記述があることを考えると、隠州を日本の西北国境と言い切ることにも抵抗を感じます。

この対立する要素を踏まえてどう結論を出せばいいか考えると、「此州」という表現の持つ重みをどうとらえるか、つまり「『此州』と書いてある以上は州のことだ」と重く考えなければいけないか、それとも「『此州』が州を指していなくても別に構わない」と軽く考えて良いのか、というバランス感覚の問題になってきて、どうしても主観的な結論になりがちです。

そこで私は、隠州視聴合紀の上記引用部を除いた他の個所で「州」がどのように使われているか、また、島を指す場合にどのような言葉を使っているかを調べ、この問題にもう少し客観的な判断基準が得られないか考えてみることにしました。

以降の内容は次の通りです。
2章では調査に使用したテクスト、および隠州視聴合紀の章立てについて説明します。
3章では「州」の用法について具体的にテクストを引用しながら説明します。
4章では島を指す場合に使う言葉についての調査結果を示します。
5章では、調査結果を踏まえて「此州」の各解釈についての疑問点を提示します。
6章では、今の時点で結論できることをまとめます。

【2】テクスト

テクストとしては、以下に収録されているものを使いました。

  続々類書群従 第九
  編纂 国書刊行会
  発行 株式会社続群書類従完成会
  (昭和44年11月29日発行)
  (昭和59年10月20日第4刷発行)

これを選んだのは、最寄の公共図書館で閲覧可能だったということが理由の全てであり、学術的なテクスト批判は一切行なっていないことを申し上げておきます。

なお、著者名ですが、上の本には記載がなく、「三百藩家臣人名事典」(新人物往来社)によると、斎藤勘介、名は豊宣となっています。しかし、下條正男氏や池内敏氏など研究者による文章には斎藤豊仙と書かれているので、ここでもそれにならいます。詳細をご存知の方は教えてくださると幸いです。

次に、引用個所を示す便宜のためテクストの章立てを示しておきます。

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◇序

◇巻一
国代記

◇巻二
周吉郡(しきちぐん)
(西郷 津居村 犬来村 竈村 大久里 卯敷村 布施村 飯田村 東郷 飯尾湊 元谷村 中村庄
  湊村 西村 原田里 上西里 平村 国分寺 尼寺 大光寺村 有木村 護国寺 下西村 西田村
  今津湊 岸浜 箕浦 鴨里 蛸木浦)

◇巻三
隠地郡(をちぐん)
(津戸 都万県 那隅村 油井村 南方村 苗代田村 那隅路村 都万路村 小路里 那里
  山田村 一宮村 北方村 代村 酌村 伊後村)
島後の人口

◇巻四
知夫郡(ちふりぐん)
(知夫郡同別府 美田郷 浦郷 知夫湊)
海部郡(あまぐん)
(崎村 布施村 台浦 知々井浦 森郷 福居村 宇津賀村 豊田湊)
島前の人口
神名帳
国中仏寺
名所和歌
知夫郡焼火山縁起
文覚論
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巻一の国代記は長いので、便宜的に更に以下のように分けることにします。

- 地理(隠州在北海〜以此州為限矣)
- 産物(民部図帳曰〜堀尾氏之所定也)
- 歴史1[鎌倉室町](古老伝曰〜従是京極経世佐々木繁栄)
- 歴史2[清政](過元亨健武之世〜於是隠州又為一)
- 歴史3[為清](其孫判官為清〜不知何是矣)
- 歴史4[清家から五郎へ](初為清有子〜莫曽違於心者)
- 歴史5[五郎から才又郎へ](才又郎在芸州〜元就大喜焉)
- 歴史6[才又郎逃亡後](五郎君卒才又郎逃亡〜帰万々世)

ちなみに前章で引用した個所は国代記・地理に相当します。

テクストを引用する際は、読み易さのために適宜引用者の判断で改行を入れました。旧字体については、できる限りテクスト通りにしましたが、一部、文字が見つからなくて新字体で書いたものもあります。漢文の返り点は省略しましたが、訓読はテクストの返り点を踏まえたものです。


(続く)

隠州視聴合紀「州」の用法と解釈 (1/7)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/30 05:42 投稿番号: [9648 / 18519]
先日からこの掲示板に書いてきたように、隠州視聴合紀のテクスト全体を読んで「此州」が何を指すかを考えています。ひとまず現時点での考えがまとまったので投稿します。本小論だけで独立した記事となるように以前投稿した内容を再度書いた部分がありますが、ご了承ください。

なお、この掲示板で長文の投稿を連続して行なうことは初めてなので、最後まで投稿できるかどうか分かりません。途中で投稿できなくなった場合は、時間を置いて残りを投稿します。

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【隠州視聴合紀における「州」の用法と「以此州為限矣」の解釈】

【1】はじめに

隠州視聴合紀の巻一・国代記の冒頭にある以下の記述は、北西の限りとする「此州」の解釈を巡ってしばしば論争になります。

−−−−−−−−−−−−
隱州在北海中故云隱岐嶋
(中略)
從是南至雲州美穂關三十五里
辰巳至伯州赤崎浦四十里
未申至石州温泉津五十八里
自子至卯無可徃地
戊(ママ)亥間行二日一夜有松島
又一日程有竹島
俗言磯竹島多竹魚海鹿
此二島無人之地
見高麗如自雲岐(ママ)望隱岐(ママ)
然則日本之乾地以此州爲限矣
−−−−−−−−−−−−

この文章だけを見る限り、私は此州の解釈として竹島、隠州のどちらも可能だと考えています。試みにその両方の解釈を以下に示します。テクストに書いていない文を説明のため補った個所には《》を、二つの解釈で内容の異なる個所には●を、それぞれ付けてあります。

−−−−−−−−−−−−
A.此州を竹島とする解釈

隠州は、北の海の中にある。それ故、隠岐島という
《隠州から見てそれぞれの方位にある日本の領地について以下に説明する。》●
南に35里のところに雲州美穂関がある。
南東に40里のところに伯州赤崎浦がある。
南西に58里のところに石州温泉津がある。
北から東にかけては、行っても行ってもたどり着く土地がない。
北西に2日行くと、松島(竹島=独島)がある。
さらに1日行くと竹島(鬱陵島)がある。
これは俗に言う磯竹島のことである。竹、魚、アシカが多い。
この二島は無人島である。
ここから朝鮮国を見ると、あたかも出雲から隠岐を眺めるように見える。●
《つまり、朝鮮と向かい合う最先端の土地である。》●
なので、竹島(鬱陵島)が日本の北西の国境となる。●

−−−−−−−−−−−−
B.此州を隠州とする解釈

隠州は、北の海の中にある。それ故、隠岐島という
《隠州から見てそれぞれの方位にある土地について以下に説明する。》●
南に35里のところに雲州美穂関がある。
南東に40里のところに伯州赤崎浦がある。
南西に58里のところに石州温泉津がある。
北から東にかけては、行っても行ってもたどり着く土地がない。
北西に2日行くと、松島(竹島=独島)がある。
さらに1日行くと竹島(鬱陵島)がある。
これは俗に言う磯竹島のことである。竹、魚、アシカが多い。
この二島は無人島である。
ここから朝鮮半島を見ると、あたかも出雲から隠岐を眺めるように見える。●
《無人の、したがって日本人が住んでおらず、朝鮮半島が見える程に近い島を日本の領土とは言い難い。》●
なので、隠州が日本の北西の国境となる。●
−−−−−−−−−−−−

下條正男氏は『竹島は日韓どちらのものか』で、テクスト全体を素直に読めば、Aの解釈が正しいことが分かると主張していますが、私はこのようにどちらの解釈も成り立つ余地があると思っています。

なお細かく見ていくと、この部分の解釈は他にもいくつか考えられます。それらについては後の5章で触れることにします。

(続く)

見境なくペイントして反省しております

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 02:51 投稿番号: [9647 / 18519]
年表年代が順序よく表示されていたので、その流れが知りたくて、ついペイントしてしまったが、確かに幕府は竹島一件に関して竹島(鬱陵)のみへの渡海を禁じただけで、朝鮮領という承認は与えていませんね、私の認識不足でした。

>長久保は鬱陵島を日本領と誤認していたとは思えないのすがな、

Okino:
なるほど、私の勉強不足でした、よく検討せずに、貼り付けてしまった事を反省します。
そうなると、鬱陵島は放棄していないので、幕府としては、80年間実行支配してきたから、それを根拠にして、これからも日本は、鬱陵島を領有主張出来るものでしょうか、教えて下さい

座布団五枚

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/30 00:21 投稿番号: [9646 / 18519]
>東郷平八郎元帥個人がそう書いたからですね。

久しぶりに笑わせて頂きましたわい。

洒落のタネも尽き掛けて、ネタの質が
落ちると、せめて山葵だけでも利かせないとね。

東郷平八郎の報告

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/29 23:52 投稿番号: [9645 / 18519]
東郷平八郎元帥個人の報告に「リヤンコールド岩」と書かれていたのを其のまま官報が伝え、後日、別の官報で「竹島」と訂正したという話ですね。

>日本は3か月前にその島を領土編入して「竹島」と命名したはずなのに、政府の官報でその名前が使われず、なぜ「リヤンコールド岩」と書かれたのでしょうか?

「日本海海戦に関する連合艦隊、司令長官東郷平八郎の報告」と君が自ら引用して自爆している通り、東郷平八郎元帥個人がそう書いたからですね。

>竹島(島根県隠岐郡)の歴史

投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/05/29 22:40 投稿番号: [9644 / 18519]
>1696年    幕府「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島は韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
>http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
>http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134630755165/
>長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。  

ところでOKINOさん、愚老には 鬱陵島は韓国領で決着、長久保は鬱陵島を日本領と誤認していたとは思えないのすがな。幕府は竹島一件に関して竹島(鬱陵)のみへの渡海を禁じただけで、朝鮮領という承認は与えていないように受け取れませんかな。年取ると諄うなってしもうて・・・。

忌憚無いところをお聞かせ頂ければと存じますわい。上のURLの記載見直しても、渡海を禁じることにより、領有権問題は触れずに済ませているような、そのような決着と受け取れますわ。なにか、他に材料がおありでしょうや。大勢に影響が無いことで実際どうでも良いとは思われますけどな。

http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
① 元禄九年(1696年)に
先年松平新太郎因州伯州領知之節相窺之伯州米子之町人村川市兵衛大屋甚吉竹嶋江渡海至爾今雖致漁候向後竹島江渡海之儀制禁可申付旨被仰出之候間可被存其趣候    恐々謹言

正月廿八日
                           土屋相模守
                           阿部豊後守
                           大久保加賀守
松平伯善守殿
右御奉書之趣村川大屋両人江   申聞竹島渡海相止候事  
(池田文書)

②対馬藩に対しても、この幕府の姿勢を朝鮮政府に伝えるように指示した。元禄九年(1696年)十月、新藩主を祝うために来島していた同知(通訳官の官職)の卞延郁同知と宋裕養判事に其の方針を伝えた。両訳官は翌年・元禄十年(粛宗二十三年・1697年)正月に帰国した。
続いて、対馬藩は二月に、阿比留兵衛を渡鮮させ、東莱府使・李世戴に書を渡して、幕府の命により日本人の鬱陵島への出漁を禁じた事を知らせた。

③鬱陵島と竹島が同一の島である事、およびその朝鮮領たることを承認する件については言及しなかった。しかし、朝鮮政府としては、当面の問題である漁業禁止に満足して、翌元禄十一年(1698年)三月、礼曹参判李善薄の名をもって幕閣の決定に謝意を表し、併せて鬱陵島・竹島一島二名の理由を説明した。(「粛宗実録」二十四年庚子三月二十五日の条)

竹島=独島「領土編入」の秘密主義3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:37 投稿番号: [9643 / 18519]
   上記の「疑問への回答(1)」の立場からすると、訂正記事は海軍省や官報関係者の無知を単純に改定したということになります。
   一方「疑問への回答(2)」の立場からすると、日本政府はこの時点に至るや、リアンコールトの名前を容認するわけにいかなかったのか、その対応をしたと考えられます。
   官報の訂正記事は、活字も一段と小さく簡単に書かれたのですが、その効果は確実でした。マスコミは訂正記事にしたがって島名を変更しました。6月5日の東京朝日新聞は1週間前と同じ地図で「リヤンコイルド岩」の名を「竹島」に変えました(注5)。

   結局、この時も日本政府は竹島=独島の「領土編入」を公にすることはありませんでした。かつて水路部が『日本水路誌』でなく『朝鮮水路誌』に記述したリヤンコールト岩は、日露戦争時になぜか「竹島」になり、日本領のように扱われたということになります。その理由を日本国民が知ることはほとんどありませんでした。

(注1)カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に変換。官報の影印は下記URL。
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/etc/kanpou_050529.pdf
(注2)半月城通信<竹島=独島の領土編入>
http://www.han.org/a/half-moon/hm095.html#No.6985
(注3)島根県告示、第四十号
北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹嶋ト稱シ 自今 本縣所属 隠岐島司ノ所管ト定メラル
  明治三十八年二月二十二日
               島根県知事   松永武吉
(注4)山陰新聞記事、1904.2.24
○隠岐の新島
  北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島を距る西北八十五浬(ノット)に在る島嶼を竹嶋と稱し 自今 隠岐島司の所管と定めらると縣知事より告示せり 右島嶼は周圍十五町位の二島より成る 周圍には無數の群島散在し 海峡は船の碇泊に便利なり 草は生え居たるも樹木は無しといふ
(注5)東京朝日新聞、1905.5.30 & 6.5、影印
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/etc/asahi1905kaisen.pdf

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

竹島=独島「領土編入」の秘密主義2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:36 投稿番号: [9642 / 18519]
疑問への回答、その(2)
   日本政府は、領土編入の事実を隠しとおすために「リアンコールト」の名前を使用しつづけたのかも知れません。
   領土編入に際し竹島=独島が「無主地」であると強弁したのは、国境画定機関である水路部でした。竹島=独島の領土編入後、その水路部が上部組織の指示で領土編入の秘密を守り、それを海軍に情報提供していたのかも知れません。あるいは海軍が積極的に秘密を守ったのかも知れません。

秘密主義
   日本が竹島=独島の領土編入を秘密にしたかったのは、竹島=独島は「韓国領地の疑」があるからでした。領土編入の過程で内務省は「此時局に際し 韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむる」と反対していました(注2)。
   その内務省が、結局は「時局なればこそ其領土編入を急要とするなり」と主張する外務省の意見を受けいれて領土編入を閣議にはかりました。
   閣議決定に際し、日本は関係国である朝鮮との協議はおろか、政府レベルでの公示すら一切しませんでした。これは小笠原諸島の領土編入とくらべると対照的です。
   小笠原諸島の場合、日本は関係国であるアメリカなどと何度も十分な協議を重ねて相手国の同意を得て領土編入を行いましたが、それに反し竹島=独島の場合は政府内で秘密裏に処理されました。
   官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が県告示で公表したにとどまりました。その告示も単に島の位置や新名称、新所管を知らせるような内容で、とても領土編入をうかがわせるような内容ではありませんでした(注3)。
   これはマスコミも同様です。この告示を地元の山陰新聞のみが伝えたようでしたが、その小さな記事は雑報欄で県の告示内容を伝え、それにつけたしで新島の周囲を簡単に紹介するのみで、同島がかつての松島とよばれた事実の紹介などもありませんでした(注4)。いずれも「領土編入」という刺激的な語は意識的にか避けられたようでした。

官報の訂正
   日本海海戦の一週間後、官報に「リヤンコールド」岩を「竹島」に訂正する下記の記事がのり注目されます。これをどう解釈すべきでしょうか。

  <去月二十九日 官報号外本欄 日本海海戦の項 其三及 同三十日同日本海海戦続報の項 其五中「リヤンコールド岩」を孰も「竹島」に訂正す    官軍省副官(注1)>
(つづく)

竹島=独島「領土編入」の秘密主義1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:35 投稿番号: [9641 / 18519]
   半月城です。

   今日は何の日でしょうか? 答は、日露の歴史的な「日本海海戦」を報じる官報の号外がだされて百年目にあたる日です。号外は日露戦争の戦果をこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
○日本海海戦 戦報
   一昨二十七日以来 継続中なる日本海海戦に関する連合艦隊 司令長官 東郷平八郎の報告 左の如し(海軍省)
  ・・・
   其三   今二十九日午前著電
連合艦隊の主力は 二十七日以来 残敵に対して追撃を続行し 二十八日「リヤンコールド」岩附近に於て 敵艦「ニコライ」第一世(戦艦)、「アリヨール」(戦艦)・・・よりなる一群に会して之を攻撃せしに「イヅムルード」は分離して逃去せしが 他の四艦は須臾(しばらく)にして降伏せり 我艦隊には損害なし・・・(注1)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この号外で注目すべきは「リヤンコールド岩」の名です。これが竹島=独島をさすことはいうまでもありません。日本は3か月前にその島を領土編入して「竹島」と命名したはずなのに、政府の官報でその名前が使われず、なぜ「リヤンコールド岩」と書かれたのでしょうか?   しかも翌日になると、島の名前を「リアンコルド」として官報はこう記しました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   其五   同上(今三十日午後 著電)
連合艦隊の大部は前に電報したる如く 一昨二十八日午後「リアンコルド」岩附近に於て敗残敵艦隊の主力を包囲攻撃して其降伏を受け 追撃を中止し 之が処分に従事中 午後三時頃・・・(注1)
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   リアンコルドが外国の島なら、それがリヤンコールドと表記されようが、正式名はさして問題ではありません。海戦を伝える5月30日の東京朝日新聞は「リヤンコイルド岩」と記しました(注5)。島の名前はまちまちです。問題はその島が、なぜ「竹島」と表記されなかったのでしょうか?   それを考えてみたいと思います。

疑問への回答、その(1)
   海軍省や官報を作成する政府機関は「竹島」が日本領になったことを知らず、その島を外国の島と思い込んでいたのかも知れません。
   それも無理ないかもしれません。何しろ、竹島=独島の領土編入は政府レベルでは極秘になされたので、海軍省や官報の記事を発行する機関すら知らなかったとしても当然かも知れません。
   外務省はホームページに「1905年(明治38年)の、閣議決定及び島根県告示による竹島の島根県への編入措置は、日本政府が近代国家として竹島を領有する意志を再確認したもの」と記しましたが、官報の関係者すら知らないような秘密主義で領土編入するのが外務省のいう「近代国家」でしょうか。
(つづく)
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