外一島について(2)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/29 18:11 投稿番号: [9639 / 18519]
なるほど、島根の書類にある竹島・松島がもしも半月城さんのいう「正統日本地図」の大きさに合致すればそれなりに説得力はあるかもしれません。しかし、どうもこれはあてはまるようではありません。
この「正統日本地図」の土台となるのは長久保赤水のものですが、そこでの竹島・松島は必ずしも島根の書類に一致する大きさではありません。また、島根の書類における竹島・松島の周囲の比率は40km:3.3kmですが、この比率も長久保の地図とはずいぶんと違いがあることが分かります。
つまり「正統日本地図」にしたところでたとえば勝海舟の大日本沿海略図などよりも若干竹島・松島が小さく描かれただけに過ぎません。
むしろ、当時、太政官が竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーの位置で認識したとする可能性の方が大きいといえることでしょう。
証拠としては、陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)、文部省の日本全図(1877)、そして内務省の大日本全図略図(今回アホさんと議論)が地図資料としてあげられるでしょうし、その傍証として1880年の天城の調査によって鬱稜島が松島と確定したことなどがあげられそうです。
太政官は島根県の提出書類を参考としつつ「竹島・松島」を「判図外」とした。しかしそこに地理的理解は正確には伴っておらず、結局、それは1880年の天城の調査で確定したように、松島=鬱稜島でしかなかったということです。
位置的な認識はともかくとして太政官は二島説をとり「竹島・松島」を「判図外」としたのだから、両島がどこに位置しようとすでに松島は放棄されていると見ることも可能でしょうが、私はいずれにしても明治政府の理解は天城の調査で確定したものとさしあたりは考えるわけです。
以上、私見です。
これは メッセージ 9638 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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