竹島2 ◇日本側の論拠♪
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/30 18:45 投稿番号: [9680 / 18519]
◇論拠
問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、「東国文献備考」の分註が正しいのかどうかです。
于山島を竹島とする言説は、1696(元禄9)年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が、帰国後「松島は即ち于山島、此れ亦我国の地」と証言したのが最初です。「東国文献備考」には「輿地志に云う」とあるので、1656年に成立した「輿地志」でそれを確認し、分註を検討できればよいのですが、それには二つの問題点があります。
一つは「輿地志」が現存しないこと。もう一つは「東国文献備考」が別の文献からの引用であったことです。そこで、その底本に当たってみたところ、底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。この意味は、于山島と鬱陵島は同じ島(の別の呼び方)であったということで、松島(現在の竹島)については一言も触れていません。つまり韓国側が依拠した「東国文献備考」は、引用される際に改ざんされ、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>となったわけです。これで韓国側の論拠が一つ崩れたことになります。
しかし、于山島を松島(竹島)とみなす韓国側は「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」の中の于山島を竹島とし、そこに記された「見える」の一文を鬱陵島から竹島が見えると読み、竹島を固有の領土と主張したのです。
ですが、300年ほど前、日本と朝鮮が鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮側は同じ文献を、朝鮮半島の蔚珍(ウルチン)から鬱陵島が「見える」と解釈し、鬱陵島の領有権を主張しました。同じ文献が、鬱陵島と竹島それぞれの領有権を主張する根拠にされていたのです。この韓国側の自家撞着(どうちゃく)は解釈に問題がある証拠です。
そこで「東国輿地勝覧」と「世宗実録地理志」の編さん方針を見ると、島の場合は、管轄する官庁からの距離や方角を記すことになっています。鬱陵島だと、管轄する蔚珍県から遠く離れていて実測が困難なため、蔚珍県から鬱陵島までは「見える」距離にあると表現しているのです。すると、「東国輿地勝覧」などに見える于山島は、鬱陵島近くの小島となります。事実、安龍福は于山島を鬱陵島の北東にあると言っています。地図を見ていただけば分かりますが、竹島は鬱陵島のほぼ東南にあります。ですから、安龍福が見た于山島は鬱陵島付近の竹嶼(現在のチクトウ)だったことになるのです。
Okino:
1656年の「輿地志」がすでに現存してないこと。そして
「東国文献備考」が別の文献からの引用
で、その底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。つまり韓国側が依拠し根拠にした「東国文献備考」は、引用される際に、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と改ざんされたのです。これは大変なインチキですね。このインチキ「東国文献備考」に記された于山国は松島を根拠にするから、全ての論がメチャメチャになったのですよ。♪
問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、「東国文献備考」の分註が正しいのかどうかです。
于山島を竹島とする言説は、1696(元禄9)年6月、鳥取藩に密航した安龍福という人物が、帰国後「松島は即ち于山島、此れ亦我国の地」と証言したのが最初です。「東国文献備考」には「輿地志に云う」とあるので、1656年に成立した「輿地志」でそれを確認し、分註を検討できればよいのですが、それには二つの問題点があります。
一つは「輿地志」が現存しないこと。もう一つは「東国文献備考」が別の文献からの引用であったことです。そこで、その底本に当たってみたところ、底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。この意味は、于山島と鬱陵島は同じ島(の別の呼び方)であったということで、松島(現在の竹島)については一言も触れていません。つまり韓国側が依拠した「東国文献備考」は、引用される際に改ざんされ、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>となったわけです。これで韓国側の論拠が一つ崩れたことになります。
しかし、于山島を松島(竹島)とみなす韓国側は「東国輿地勝覧」や「世宗実録地理志」の中の于山島を竹島とし、そこに記された「見える」の一文を鬱陵島から竹島が見えると読み、竹島を固有の領土と主張したのです。
ですが、300年ほど前、日本と朝鮮が鬱陵島の領有権を争った際、朝鮮側は同じ文献を、朝鮮半島の蔚珍(ウルチン)から鬱陵島が「見える」と解釈し、鬱陵島の領有権を主張しました。同じ文献が、鬱陵島と竹島それぞれの領有権を主張する根拠にされていたのです。この韓国側の自家撞着(どうちゃく)は解釈に問題がある証拠です。
そこで「東国輿地勝覧」と「世宗実録地理志」の編さん方針を見ると、島の場合は、管轄する官庁からの距離や方角を記すことになっています。鬱陵島だと、管轄する蔚珍県から遠く離れていて実測が困難なため、蔚珍県から鬱陵島までは「見える」距離にあると表現しているのです。すると、「東国輿地勝覧」などに見える于山島は、鬱陵島近くの小島となります。事実、安龍福は于山島を鬱陵島の北東にあると言っています。地図を見ていただけば分かりますが、竹島は鬱陵島のほぼ東南にあります。ですから、安龍福が見た于山島は鬱陵島付近の竹嶼(現在のチクトウ)だったことになるのです。
Okino:
1656年の「輿地志」がすでに現存してないこと。そして
「東国文献備考」が別の文献からの引用
で、その底本では<輿地志に云う、一説に于山鬱陵本一島>と記述されていました。つまり韓国側が依拠し根拠にした「東国文献備考」は、引用される際に、<輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり>と改ざんされたのです。これは大変なインチキですね。このインチキ「東国文献備考」に記された于山国は松島を根拠にするから、全ての論がメチャメチャになったのですよ。♪
これは メッセージ 9679 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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