竹島

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『大日本史』

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2005/05/29 22:32 投稿番号: [9640 / 18519]
   半月城です。

   VIVA_VIVA_21さん、RE:9599
>つまり幕府は鬱稜島を自国領と見なし開発許可を与えたということです。

   斉藤豊仙が、江戸幕府から朱印をもらった大船が島の開発にあたる実例を知っていたのなら、あるいは上のような解釈も考える余地が少しはあるかも知れません。しかし、斉藤豊仙にかぎらず、1667年以前にそんな実例は皆無ではないでしょうか?

   VIVA_VIVA_21さんは『隠州視聴合記』をどうしても上記のように解釈したいのでしょうが、資料を取捨選択すればいかなる結論も可能です。
   前に書いたように『大日本史』の著者は『隠州視聴合記』からは松島、竹島が「我が版図」になったとは解釈できず、『隠岐古記』などから「我が版図」になったと解釈しています。VIVA_VIVA_21さんは、この資料は素通りですか?

外一島について(2)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/29 18:11 投稿番号: [9639 / 18519]
なるほど、島根の書類にある竹島・松島がもしも半月城さんのいう「正統日本地図」の大きさに合致すればそれなりに説得力はあるかもしれません。しかし、どうもこれはあてはまるようではありません。

この「正統日本地図」の土台となるのは長久保赤水のものですが、そこでの竹島・松島は必ずしも島根の書類に一致する大きさではありません。また、島根の書類における竹島・松島の周囲の比率は40km:3.3kmですが、この比率も長久保の地図とはずいぶんと違いがあることが分かります。

つまり「正統日本地図」にしたところでたとえば勝海舟の大日本沿海略図などよりも若干竹島・松島が小さく描かれただけに過ぎません。

むしろ、当時、太政官が竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーの位置で認識したとする可能性の方が大きいといえることでしょう。

証拠としては、陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)、文部省の日本全図(1877)、そして内務省の大日本全図略図(今回アホさんと議論)が地図資料としてあげられるでしょうし、その傍証として1880年の天城の調査によって鬱稜島が松島と確定したことなどがあげられそうです。

太政官は島根県の提出書類を参考としつつ「竹島・松島」を「判図外」とした。しかしそこに地理的理解は正確には伴っておらず、結局、それは1880年の天城の調査で確定したように、松島=鬱稜島でしかなかったということです。

位置的な認識はともかくとして太政官は二島説をとり「竹島・松島」を「判図外」としたのだから、両島がどこに位置しようとすでに松島は放棄されていると見ることも可能でしょうが、私はいずれにしても明治政府の理解は天城の調査で確定したものとさしあたりは考えるわけです。

以上、私見です。

外一島について(1)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/29 18:07 投稿番号: [9638 / 18519]
半月城通信を読むと、半月城さんは当時における地図の混乱を把握しつつ、一方で太政官が判断した竹島は鬱稜島であり、松島が現竹島であったことを断言していらっしゃいます。
----------------------
   以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島をさしたり、架空のアルゴノート
島をさしたりしました。同時に、松島は竹島=独島をさしたり、鬱陵島をさし
たりしました。明治期すら絶海にある無人島の正確な認識はいかに容易でない
かを示したものといえます。
   ちなみに、内務省や太政官が1877年に放棄した松島は、島根県の伺い書
で周囲30町(3.3km)と記載されているので、現在の竹島=独島をさすことに疑
問の余地はありません。また、同時に放棄した竹島は、周囲およそ10里
(40km)と記されているので、現在の鬱陵島をさすことはまちがいありません。
正統日本地図の認識を引き継いでいたといえます。
   ところでここの会議室ではワラにもすがる思いからか、あるいはつまらぬ
裁判ごっこのいきがかりからか、明治政府は架空の島を含んだ松島、竹島を放
棄したと主張している人がいますが、荒唐無稽です。
   内務省や太政官は架空の島を放棄するほどいい加減でもないし、愚かで
もありません。版図(領土)の取捨は「重大事件」との認識から、両島の位置
や大きさなどを把握し、具体的に樹木の有無や種類、島の産物などを知ったう
えで、慎重に竹島(鬱陵島)と松島(竹島=独島)の放棄を決定しました。こ
の事実は、偏狭な「竹島死守派」にとってはなかなか認めがたいようです。
(竹島、松島の島名混乱
Yahoo! 掲示板「竹島問題を考える」#2423
http://messages.yahoo.co.jp/
2001年9月02日)
----------------------
私は前から疑問だったのですが、つまり半月城さんが太政官が判断した竹島は鬱稜島であり、松島が現竹島であったことを断言なさるのは、結局は以下の理由に過ぎないようです。

1.島の大きさ
2.内務省や太政官はいい加減でも愚かでもない

2はあまり理由にはならないでしょうから、結局1、つまり島の大きさが島根県提出の書類が現実(あるいは正統日本地図)に即しているから太政官が判断したのも鬱稜島と現竹島であるということでしょうか。

ちなみに、島への距離は島根の資料は大きくずれています。また、産物や樹木の多い少ないは太政官が隠岐の向こうにある島を二島とするか三島とするか、またそれがどの位置にあるのかという問題とは関係がありません。

☆竹島(島根県隠岐郡)の歴史 2

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 17:11 投稿番号: [9637 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11141143459477/

1787         フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)     「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年)   フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858         ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860         ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861         ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
1867         勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html
*以上、誤解、間違いから大混乱が生じ、文献上の島名の取り扱いに注意が必要に。

1870(明治3年)   「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」
            “松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類もない”   松島≠現・竹島

1875         江華島事件。朝鮮開国。開化派・独立党が日本に接近。
           日本統治以前の韓国は絶望的な奴隷社会。
           http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134635711075/
1876         日朝修好条規。閔氏一族は当初改革派であり日本と連携して諸改革に取り組む。
1877         太政官指令「日本海内竹島外一島〜〜本邦関係無之義」*外一島=現・竹島との証拠なし。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/taittou.html
*「松島の議」「松嶋巡視要否の儀」現・竹島は日本領と認識。ただ「現竹嶼→松島、現鬱陵島→竹島」解釈も存在。

☆竹島(島根県隠岐郡)の歴史 1

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 17:06 投稿番号: [9636 / 18519]
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11141143459477/

1145         「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/shiragi.html
1471         「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/15C/sesyuu.html
1438         韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481         「東国輿地勝覧」<一云武陵   一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
           http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/rekireki.html
1614         「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617         米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年)   大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
           「竹島渡海由来記拔書」   http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/tokai.html
1643         鬱陵島に続き、竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
           遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656         『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667          隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
           http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/onsyu.html
1692(元禄5)     朝鮮人漁民が「竹島(鬱陵島)」に出漁を始める。
1693          日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の現・竹島韓国領虚言がいつの間にか韓国史実に。
1696          幕府「竹島(鬱陵島)」への渡航を禁止。鬱陵島は韓国領で決着。現・竹島には言及なし。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html
宝暦年間51-64   「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。
1770         『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
           に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
           所謂松島なり>   http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
           安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)で知った、
           「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島(現・竹島)の
           所在を未把握のため、その後「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134630755165/
           長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
           http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/nagakubo.html
1785         林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。

>隠州視聴合紀・ソウル大写本

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/29 16:04 投稿番号: [9635 / 18519]
kikousidayoさん

> kikousidayo の情報は何によるものでしょうか。

お名前に敬称を付け忘れました。お詫びして訂正します。

隠州視聴合紀・ソウル大写本

投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/05/29 16:01 投稿番号: [9634 / 18519]
kikousidayoさん

> 名古屋大学大学院文学研究科教授池内敏氏は
> ソウル大付属図書館所蔵の「隠州視聴合記」の
> ものは下記のように、「按神書所謂五十猛歟」が
> 割注として追加されているといわれています。

次の URL を見ると、池内氏はソウル大の写本について下記のように書いています。
http://www.jkcf.or.jp/pub/news/no31/8.pdf

----------------------------------
今ひとつは、割注部分に「按神言所謂五十猛歟」とする部分があることです。
----------------------------------

これによると「神書」ではなく「神言」です。kikousidayo の情報は何によるものでしょうか。

また、上の池内氏の記述を見ると、「按神言所謂五十猛歟」はあくまでも割注部分の一部分である、つまり割注部分はもう少し広い範囲のようです。

どこからどこまでが割注か池内氏の文章からは分かりませんが、#9311に書いたように「続々群書類従」では「俗言磯竹島多竹魚海鹿」が割注であることを考えると、「俗言磯竹島多竹魚海鹿按神言所謂五十猛歟」が割注であると考えることが妥当な気がします。

半月城通信 No.93 に書かれているテクストは、池内氏の文章の内容と合わせて考えると、川上健三氏が1966年に使用したテクストだろうと推測します。

海東地図、1750年代鬱陵島の小六島

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 15:51 投稿番号: [9633 / 18519]
転写:
http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/photo/haedong.jpg

その一つには「所謂于山島」と明記

>所謂于山島

投稿者: seonsaeng 投稿日時: 2005/05/29 13:51 投稿番号: [9632 / 18519]
>一つが于山島とは、これで観音島が于山島の可能性でてきた

ichibachoさんのご指摘は画期的な発見だと思います。

「所謂于山島」と書いてある島は、今の Jukdoと考えるのが妥当でしょうね。韓国の言う「三峰島」も Jukdoで、「可支島」は鬱陵島ですね。

http://www.daea.com/dokdo/dokdo.asp

このサイトのように根拠のない事(嘘)を平気で言う点は、韓国政府及び半月城・AHO(半月城の分身)も同じですね。

伊能忠敬(1745-1818)

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 13:44 投稿番号: [9631 / 18519]
転写

http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_037.htm

伊能忠敬

伊能忠敬(1745-1818)が"流行"っていますね。
彼が日本測量の旅(1800)に出て200年目にあたるからです。"伊能ウォーク"と言って彼の足跡をたどるイベントも行われたり、ゲーム付き万歩計「平成の伊能忠敬」なんて言うのも売り出されたりしました。

彼は病弱だったのですが、50歳まで千葉の佐原で家業に名主にと力を尽くし、隠居後江戸に出て55歳から71歳まで、17年、3736日に及ぶ測量をしたことです。その間、歩いた歩数、なんと四千万歩。
「中高年の星」、江戸時代の老人パワー、恐るべし!
しかも、最初の測量は、要した金の多くを忠敬は自分で出しています。

彼は、代々酒造業を営む伊能家の養子となり家業の建て直しをはかります。
そして、米穀の取引を行い、江戸に薪炭問屋も開いています。
明和・天明の飢饉には窮民の救済につとめ藩主から苗字帯刀を許されました。

ところで、彼が測量したデーターをまとめようとした時、実はずれていました。なぜでしょう?
そう、地球は丸いので、それを平面に書き写すことが出来ないのです。
勿論、彼はそれを修正し、今見ても完璧といえる地図「大日本沿海輿地(よち)全図」(「伊能図」)を完成したのです。
緯度の最大誤差でも1/1000だそうです。

この、「伊能図」は一般市民は使いませんでした。幕府が極秘としたのです。
一般には長久保赤水の作った地図が使われました。
伊能図が真価を発揮したのは、明治になってからです。
伊能図が我が国の地図の近代化に果たした役割はきわめて大きいといえます。

極秘の「伊能図」が、シーボルト事件を引き起こします。
幕府の天文方、高橋景保がシーボルトから洋書を譲り受けたお礼に「伊能図」の写しなどを渡したのです。
1828年景保は逮捕され翌年獄死、シーボルトは国外退去処分になります。
「伊能図」はシーボルト事件の後(1840年)にヨーロッパで出版され、高度な地図の技術水準が外国でも評価されました。
(シーボルトの項の蛇足参照)

長久保赤水(1717-1801)

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 10:18 投稿番号: [9630 / 18519]
転写

http://www.geocities.co.jp/Bookend/4373/vol_037_01.htm


長久保赤水

■長久保赤水(ながくぼ   せきすい:1717-1801)
あまり聞いたことが無いでしょうが、彼の作った地図は驚くほど良く出来ています。

赤水は、現在の茨城県高萩市の農民の子として生まれ、52歳で認められて、水戸藩に出仕し、61歳のときには藩主の治保(はるもり)公に講義をする侍講(じこう)にまでなりました。

赤水は、多くの日本地図や世界地図を作りました。

それまでの日本地図は、日本の形や全国を構成する国の形がなんとなくわかるといったものでした。
しかし赤水が作成した『改正日本輿地路程全図』(1775年)は、それまでの普及版日本図に比して図形が飛躍的に正確となったことです。
また、「一寸十里」(1296000分の1)という縮尺をそなえ、刊行図として、はじめて経緯線を取り入れました。
これで蝦夷地(現北海道)を除く日本の形がほぼわかるようになりました。

もちろん、正確さでは実測をもとにした伊能忠敬の『伊能図』(1821年)に劣りますが、赤水の地図はそれまでの地理学を検証して作成されたもので、実測によるものでは無いだけに、驚くべき研究の成果、労作といわれています。

「州」は「す」が一番にあう

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/29 00:33 投稿番号: [9629 / 18519]
「州、しゅう」は行政上のくぎり「州、す」は、しま   小生は「す」と読むことにしました、それは当時のインテリーは「す」と呼んだのではないだろうかと推測、島は俗世では、島おくり、島流し、島ぬけ、にも使われますね、此州を長久保赤水、子平両先生は「嶋」と記しました、つまり両先生は「す」と解釈したのです、斎藤豊仙は「す」即ち嶋と書いたのでは。

>捏造、改竄、冷汗・三千升

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/29 00:06 投稿番号: [9628 / 18519]
【訂正】

  【正】 ------ ⑧
  【誤】 ------ ⑨

    恥じ入ってます・・・・・   <(_ _)>

于山島は鬱陵島小六島の一つか

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 23:38 投稿番号: [9627 / 18519]
>皇城新聞の記者は1750年代の地図「海東地図」も参考

沖の:
鬱陵島の小六島は1750年代、朝鮮で、すでに知られていたんですね
その一つが于山島とは、これで観音島が于山島の可能性でてきたな

捏造、改竄、冷汗・三千升

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/05/28 23:35 投稿番号: [9626 / 18519]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm093.html#No.671
(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)
  隠州在北海中故云隠岐島 従是 南至雲州美穂関三十五里 辰巳至伯州赤碕浦
四十里 未申至石州温泉津五十八里 自子至卯 無可往地 戍亥間行二日一夜有松
島 又一日程有竹島(俗言磯竹島多竹魚海鹿按神書所謂五十猛歟)此二島無人
之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣


http://toron.pepper.jp/jp/take/jpn/onsyu.html
隠州視聴合紀の竹島関連の部分

① 隠州在北海中故云隠岐島、
② 従是南、至雲州美穂関三十五里、
③ 辰巳至泊州赤碕浦四十里、
④ 未申至石州温泉津五十八里、
⑤ 自子至卯、無可往地、
⑥ 戍亥間行二日一夜有松島、
⑦ 又一日程有竹島、
⑧ 俗言磯竹島   多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟
⑨ 此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、
⑩ 然則日本之乾地、以此州為限矣


⑨でどの部分が割注か分からなかったので、素直に転写しておけば良かったのですが
半月城さんの(注1)斎藤豊仙 『隠州視聴合記』(1667年)から早合点して、番号を抜き
勝手に書き直してしまいました。捏造と言わずに改竄と表現して下さったお優しい皆様
にお詫び申し上げます。どうかお許し下さいませ。(冷汗・三千升)

>Re:此州を以て国境と為す

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2005/05/28 23:34 投稿番号: [9625 / 18519]
Okinoさま

「此の州」の「州」は、雲州、隠州の「州」と同じような意味とするよう、
並列させて用いられたものと考えます。

読み方については分かりません。意味合いからは「しゅう」になりますが、
音読みよりも、訓読みがよさそうであり、「す」,「しま」,「くに」などが
想像されます。私は「しま」と読んで「しゅう」の意に受けとめています。

                          shuku_remus

>Re:此州を以て国境と為す

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 22:48 投稿番号: [9624 / 18519]
shuku_remus様へ

shukuさんは「此の州」の「州」を「しゅう」と読まれているのか、それとも「す」と読まれているのか、どちらでしょうか

以此州為限矣

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/28 22:45 投稿番号: [9623 / 18519]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&action=m&mid=&mid=6389

半月城特有の「外務省が日本領の有力な根拠としてきた『隠州視聴合紀』は、実は逆に不利な材料になってしまい、固有領土の主張が根底から危うくなりました」という妄言に対して、seonsaeng氏を初め、皆さん同じような結論ですな。

            /
           /               
          /     日本の限り        
     高麗    /       ||           
        /       此の州          
       /       (此の二島により構成)   
      /        ┌───┐         
     /         │□ 竹島(鬱陵島)     
    /          │     │         
   /           │    □ 松島(竹島)    
  /            └───┘         

Re:此州を以て国境と為す

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2005/05/28 22:30 投稿番号: [9622 / 18519]
Okinoさま

私の理解する原文の意味は下の絵のようになっています。日本の限りは日本
の北西の地の果ての行政区域である此の州(松島,竹島)となります。海に
国境線を引くとすれば竹島(鬱陵島)と高麗の間にあるのはご指摘の通りです。

                          shuku_remus

            /              
           /               
          /     日本の限り        
     高麗    /       ||           
        /       此の州          
       /       (此の二島により構成)   
      /        ┌───┐         
     /         │□ 竹島(鬱陵島)     
    /          │     │         
   /           │    □ 松島(竹島)    
  /            └───┘         

此州を以て国境と為す

投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/05/28 21:22 投稿番号: [9621 / 18519]
>高麗を見るとした地点は竹島(鬱陵島)からでしょうが、日本の限りを述べるにあたり、地理でなく領土を表明するべく

Okino:
日本の北西の地(つち、陸、大地、場所、領土)即ち日本の北西の領土、此の竹島を以て国境と為す・・・の方がなんかすっきりしますね、なぜなら国境線は一本ですから、もし此の州が松島,竹島なら国境線はどこに引けばいいのだろうか

>>>隠州視聴合紀の此州

投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/05/28 20:59 投稿番号: [9620 / 18519]
隠州視聴合記   (松江藩士・斉藤豊仙著   1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

『続々群書類従』収録分は上記の通りです。名古屋大学大学院文学研究科教授池内敏氏はソウル大付属図書館所蔵の「隠州視聴合記」のものは下記のように、「按神書所謂五十猛歟」が割注として追加されているといわれています。

隠州視聴合記   (松江藩士・斉藤豊仙著   1667年)
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、「按神書所謂五十猛歟」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣

1.「俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟」とするものは初耳ですので、kana_ikeuchiさんの
#9597のものは半月城氏のものに近い改竄でないかと思われます。従って# 9600 のte2222000さんの論拠に私も同意します。

2.#9604のshuku_remusさんの考え方
>高麗を見るとした地点は竹島(鬱陵島)からでしょうが、記述では此の二島からとしていますので、地域・諸島の意味として、此の二島(松島,竹島)から(此の二島のある地点から)高麗を見ると文字通りするべきでしょう。
  此洲を竹島・松島の二島にとるか文意から竹島に限定すべきか私にはよく分かりません。何れにしろ斉藤豊仙は両島を日本領と受け取っていることは言い得るとおもいます。
今後の御議論を期待しています。

蛇足:   ATOK16で   ”しま”   と入力して州と変換できる事を今日たまたま発見しました。余計なことで申し訳ありません。

おまけ

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 18:48 投稿番号: [9619 / 18519]
大日本全国略図に記された竹島・松島はどうやら島根県提出の由来による隠岐→松島が80里、松島→竹島が40里という記述に距離的にもあわないようですね。島根県提出書類から大日本全国略図が導けないことはこれからも明らかです。

とにかく

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 18:03 投稿番号: [9618 / 18519]
鬱陵島が竹島と松島に描かれており現在の独島は描かれていないとされる陸軍参謀局の朝鮮全図(1875)と文部省の日本全図(1877)にあわせて「外一島」の理解のために大日本全図略図は貴重な資料となりうるかもしれません。

その点で資料のご提示に感謝いたします。

微妙に違いますか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:45 投稿番号: [9617 / 18519]
家鴨と兎さんの見解として、西洋人の地図に限らないと云うことで了解しました。

愚生の見解としては、測量のバックデータの欠落した地図単体では、地名の参照程度がせいぜいだろうと云うことであり、これは既に指摘したように、内務省地理局の由来と、当時の法令から考えてそうだろうと云うことです。

>リアンクール=松島との認識があれば大日本全図略図に竹島・松島があのように描かれる可能性はありません。松島をダジュレーとした、そこに二島認識と三島認識の微妙な混乱が見て取れるということです。

その様な限定条件を付せばと云うことですね。何故その様な限定条件が付くのか、またそれがどの様な因果関係でその様な結論になるのか良く分かりませんが、これも家鴨と兎さんの見解として承ります。

>そうですか

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 17:36 投稿番号: [9616 / 18519]
>つまり、どの様な地図かは分からないけれども、不特定の「西洋人の地図」に影響されたかもしれないと仰りたいわけですね。

微妙に違いますね。西洋人の地図に限りませんので。

私が申し上げたのは、大日本全図略図の竹島・松島は島根県の提出書類にのみよったものではなく他の資料を総合的に勘案した結果の記述であるということであり、その背景においては他の地図(西洋含む)を排除しないということです。

>「では、当時の政府が三島認識していたことを客観的に裏付ける根拠はなんですか」とお尋ねしているのですが。

リアンクール=松島との認識があれば大日本全図略図に竹島・松島があのように描かれる可能性はありません。松島をダジュレーとした、そこに二島認識と三島認識の微妙な混乱が見て取れるということです。

>「たまたま似たような位置に描かれたための錯覚でしょう」と云うことです。

そうですか。「錯覚」と言われたらどうしようもないですね。アホさんが定規で調べろというからわざわざ私も定規を取り出して律儀に確認したわけですが…。

一旦整理

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:31 投稿番号: [9615 / 18519]
ここで一旦愚生の考えを整理しておきます。
内務省地理局の見解には今のところ三島認識を裏付ける資料は提示されていないが、愚生自らが9574で指摘したように略図の元となった「大日本全国図」を確認する必要は残されている。
従って、現時点で内務省が三島認識をしていたとは言えず、日本政府が三島認識していたことを裏付ける客観的な根拠は他の根拠も含めて提示されていない。

そうですか

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:19 投稿番号: [9614 / 18519]
つまり、どの様な地図かは分からないけれども、不特定の「西洋人の地図」に影響されたかもしれないと仰りたいわけですね。

リアンコヲルトロツクについての家鴨と兎さんの見解9558では、「当時、明治政府は竹島・松島の二島認識があったことでしょう。もちろんそれ以前の歴史的にもそうです。しかし、三島認識(アルゴノート、ダジュレー、リアンクール)も出てきていた。」と仰るから、「では、当時の政府が三島認識していたことを客観的に裏付ける根拠はなんですか」とお尋ねしているのですが。

9583については、愚生の見解は既に述べましたが、改めて簡略に申し上げますと、「たまたま似たような位置に描かれたための錯覚でしょう」と云うことです。

>勿論

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 17:07 投稿番号: [9613 / 18519]
>しかし家鴨と兎さんが「アルゴノート、ダジュレーに地理的に一致する」と仰るならば、それがどの地図なのか特定して頂かないと分かりませんね。

私はさしあたり大日本沿海略図を参照したので、それでもどうぞご覧になってください。リアンクールが記されていないことについては、私の考えはすでに解答したとおり。

>さて、当時の内務省地理局が入手が可能であったあらゆる地図のうち、どの様な「西洋人の地図」を参照したのですか?

さあ、分かりません。現実としてあるのは大日本全国略図が島根県の提出書類だけでは説明できないこと、それが大日本沿海略図のアルゴノート・ダジュレーとほぼ一致することだけです。

あとは、それにいたった背景となる地図を具体的に特定することは今の段階では不可能でしょう。そこにおいては私は西洋の地図を排除しないというだけの話です。

さて、それはともかく、9583についてはどうお考えですか。

もしかして

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 17:01 投稿番号: [9612 / 18519]
川上健三氏の仮説がそうだから、それを無批判に迎合しているだけでしょうか。

愚生の推理はこうです。
島名の混乱は恐らくあった。
しかし、それは単純なものではなく、日本政府官僚組織の縦割り弊害との相乗効果で発生した。
アルゴノートが記載された地図は、或いはDP(位置が疑わしい)として或いは存在そのものが疑わしいとして記載された英国海軍の水路誌などにはあったろう。
しかし、恐らく内務省地理局は水路誌は守備範囲外として参照していない。
それを参照したとすれば海軍だろう。

勿論

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 16:50 投稿番号: [9611 / 18519]
現在の国土地理院が保有する地図は、厳密には何時購入したものなのかまで検証しなければなりませんが、今のところそこまでする必要もないでしょう。
また国土地理院は内務省だけでなく陸軍省の資料も引き継いでいますから、国土地理院が保有しているからと云って、それが当時の内務省が保有していたのか迄は蔵書印まで確認しなければ分かりません。

しかし家鴨と兎さんが「アルゴノート、ダジュレーに地理的に一致する」と仰るならば、それがどの地図なのか特定して頂かないと分かりませんね。
確かに仰るように国土地理院は『大日本沿海略図』を保有しています。
しかし測量データも併せて引き継いだ伊能図とは異なり、測量データの裏付けのない地図単体では地名の参照程度にしか使いようがありません。
そうして現に内務省地理局はリアンコヲルトロツクを除外しているのですから、明らかに『大日本沿海略図』は否定されているわけでしょ。

さて、当時の内務省地理局が入手が可能であったあらゆる地図のうち、どの様な「西洋人の地図」を参照したのですか?

>>>引き続き検証

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2005/05/28 16:14 投稿番号: [9610 / 18519]
>随分と曖昧なことを仰るのですね。「西洋人の地図」を特定して下さいな。

曖昧に決まっているではないですか。分かっているのは大日本全国略図が島根の提出書類だけによる地図ではないということ、そしてそれがアルゴノート、ダジュレーに地理的に一致するということだけです。

なお、私が西洋人の地図も含ませたのは入手が可能であったあらゆる地図を地理局が参照した可能性を排除しないためですがそれにあたってはことさら今の国土地理院の古地図コレクションにこだわる必要はないと思いますよ。

どうやら国土地理院の古地図コレクションには大日本国沿海略図も入っているようではありますが。

>内務省地理局の発行した地図では、松島の形状は『大日本沿海略図』のように鬱陵島ではなく、獨島の形状が描かれました、

ご提示いただいたサイトの地図ではとてもそこまで確認できませんでしたが、そうなのですか?島根の提出書類だけによったものでないという私の論旨から申しますと、形状は別にどうでもいいことですが。

>更に『大日本沿海略図』に描かれたリエンコヲルトロツクも描かれませんでした。

回答済み。

>位置関係については、隠岐島との距離が大日本国沿海略図と全く一致しないことが実証されたはずです。

申し訳ありませんが何が「実証」なのか意味が分かりません。私は緯度・経度からほぼ一致すると申し上げました。また大日本全国略図が島根県の提出書類によったものではないとする根拠はすでに9583で示しております。

>実証的に検証されていない仮説に、曖昧な思いこみを加え、それを太政官の判断にまで適用するわけですか。

これは仮説ではなく根拠を示したものです。繰り返しますが、私は大日本全国略図が島根県の提出資料だけで作成されたものでなく、また、その位置関係はアルゴノートとダジュレーにまったくもって一致すると、それぞれ「根拠をあげて」申し上げたのです。

『韓国水産誌第一集』

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 16:05 投稿番号: [9609 / 18519]
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40034161&VOL_NUM=00001&KOMA=102&ITYPE=0

島根県の秘密告示が徹底しなかったことは、統監府政治下の韓国に於いても1908年の時点で依然として獨島を韓国所属島嶼とする政府公刊物が発行された事実によって裏付けられる。
島根県の秘密告示は、島根県関係者以外は誰も知らなかったのだろう。或いは、告示そのものが後世のでっち上げかもしれない。

くだらない証拠

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/28 16:05 投稿番号: [9608 / 18519]
>韓国所属島嶼として記載された事実を挙げています。

その島名は独島でなかったと自爆か、AHO。

公開資料から

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 15:56 投稿番号: [9607 / 18519]
獨島事件の報告書から、獨島を朝鮮領とする根拠の第一に、1908年に韓国農商工部水産局が公刊した『韓国水産誌第一集』の110頁から111頁にかけて、韓国所属島嶼として記載された事実を挙げています。

注:『韓国水産誌』第三集以降は総督府から公刊された。

国家記録院、獨島関係資料公開

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 15:06 投稿番号: [9606 / 18519]
http://www.archives.go.kr/gars/dokdo_home/

1948年6月米軍機による漁民爆撃事件時の公文書や、平和線を無視して突入した犯罪者の写真などが閲覧できる。

その他、注目されるのは
独立前の1947年6月には慶尚北道知事から民政部長官宛に獨島の領有確認が出されていた事実が確認される。
また、現在原文を確認できない1906年の沈郡守(文書では島長と表記)の報告書が引用されている。

AHOが実証すべき仮説

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/28 14:59 投稿番号: [9605 / 18519]
「外一島=独島」

>実証的に検証されていない仮説に、曖昧な思いこみを加え

これは、お前に当てはまる事だな。

>>隠州視聴合紀の此州

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2005/05/28 13:48 投稿番号: [9604 / 18519]
[原文抜粋]

此二島無人之地 見高麗如自雲州望隠州 然則日本之乾地以此州為限矣

[現代語訳案](括弧内は解釈により追加)

此の二島(松島(竹島)、竹島(鬱陵島))は無人の地であり、雲州より隠州
を望むが如きに(如きに彼方に)高麗を見る。然らば(これより先は高麗
なので)即ち、日本の北西の地、此の州(松島,竹島)を以て限りと為す。

[補足]

高麗を見るとした地点は竹島(鬱陵島)からでしょうが、記述では此の二島
からとしていますので、地域・諸島の意味として、此の二島(松島,竹島)
から(此の二島のある地点から)高麗を見ると文字通りするべきでしょう。

解釈では「然則」を生かすよう「ここから先に行くと高麗に入ってしまう。
然らば即ち、帰結として、ここが日本の限りである」としています。

日本の限りを述べるにあたり、地理でなく領土を表明するべく、行政区域
としての用語 "州" を使用し、「此の二島」を「此の州(松島,竹島)」に
改めています。

>>引き続き検証

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/05/28 13:10 投稿番号: [9603 / 18519]
>私は竹島・松島に限って申し上げて来ました。測量データがあるところは仰るとおりでしょう。しかし、竹島・松島について言えば「大日本沿海略図」ほか、他の地図(西洋人の地図も含みます)の影響も受けていると思いますよ。

随分と曖昧なことを仰るのですね。
「西洋人の地図」を特定して下さいな。
内務省地理局は陸地測量部を経て現在の国土地理院ですが、その国土地理院が保有する19世紀以前の「西洋人の地図」には愚生の知る限り次のようなものがあります。

1.『アジア図』(1635年頃、ブラウ)
2.『世界図』(1730年頃、ゾイッター)
3.『韃靼図』(1676年頃、ド・ウィット)
4.『世界地図帳』(1683年頃、サンソン)
5.『韃靼図』(1595年頃、オルテリウス)
6.『日本図』(1606年頃、メルカトール・ホンディウス)
7.『日本六十六州図』(1658年頃、レランド、オッテンス)
8.『アジア図』(1602年、メルカトール・ホンディウス)
9.『世界図』(1792年、ド・リール)
10.『アジア図』(1716年頃、J.B.ホーマン)

>なお、島の形状についてのご指摘がありましたが、これは大日本国沿海略図よりも小さく描かれましたが、私は当局がさまざまな資料の総合的な判断によって大日本府県分割図を作成したと考えており、したがって、それが必ず大日本国沿海略図と一致しなければならないことはありません。

内務省地理局の発行した地図では、松島の形状は『大日本沿海略図』のように鬱陵島ではなく、獨島の形状が描かれました、更に『大日本沿海略図』に描かれたリエンコヲルトロツクも描かれませんでした。
家鴨と兎さんはどの様な「総合的判断」が行われたのかについての裏付けを一切お示しになりませんが、その判断から『大日本沿海略図』は除外されているように見えますね。
したがって、それが必ず大日本国沿海略図と一致しなくて当然なわけです。

>確かなことは「略図」が島根県の提出資料だけで作成されたものでなく、また、その位置関係は大日本国沿海略図と同じく、アルゴノートとダジュレーにまったくもって一致するということです。

何を以て「確かなこと」なのか全く不明ですが、家鴨と兎さんが「確かなこと」と断定するだけで曖昧な事柄が確かな事柄に変貌するわけではありません。
位置関係については、隠岐島との距離が大日本国沿海略図と全く一致しないことが実証されたはずです。

>おそらく、明治10年に太政官判断で下された「外一島」も、ほかでもなくアルゴノートとダジュレーの地理的認識であり、それが明治13年の天城の調査による鬱陵島=松島への確定に結びついたのでしょう。

実証的に検証されていない仮説に、曖昧な思いこみを加え、それを太政官の判断にまで適用するわけですか。

なるほどね。

Wストリート 「対日要求は横柄」

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2005/05/28 12:19 投稿番号: [9602 / 18519]
日中摩擦、Wストリート・ジャーナル紙論評   「対日要求は横柄」

反日の動機「国連や台湾」
  【ワシントン=古森義久】中国の呉儀副首相が小泉純一郎首相との会談を突然、中止して帰国したことなど日中間の摩擦について、米国大手紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は「小泉氏の土下座拒否」と題した社説(二十五日付)で、中国からの靖国参拝中止などの対日要求を「横柄」と批判し、呉副首相の言動も中国側の圧力戦略だと評した。
  同社説はまず、呉副首相の唐突な会談中止について「北京からの間断ない長広舌にもかかわらず、小泉首相が拡張する中華帝国への土下座を拒否していることに対する中国政府部内の不満の高まりの証拠」と位置づけ、「他のアジア諸国も注意すべきだ」と警告。「中国は自国の存在をアジア諸国に認めさせようとしており、台湾と日本がその圧力をまず最初に受けたのだ。もし中国がその方針に固執すれば、他のアジア諸国民もまた横柄な扱いを受けることになる」と指摘し、中国の対日要求を明確に「横柄」と批判した。
  同社説は、中国当局が今回、小泉首相が靖国問題での反論に孔子の教えを引用したことなどに怒ったとし、「小泉首相は靖国には戦犯とされた人たちだけでなく一般の将兵の霊が祭られていることを明確にしている」と強調した。
  同社説はまた、中国は一九三〇年代の日本の侵略の記憶をいまも新鮮にしておこうと努めているが、日本は既に極めて大きな代償を払い、六十年間も国際社会で好ましい地位を保ち、特に中国にはない自由と民主主義を享受してきたとしたうえで、小泉首相の四月のアジア・アフリカ首脳会議での謝罪声明まで紹介。中国の「歴史問題」をめぐる主張の非を指摘した。
  同社説は反日デモについて日本大使館などの破壊を許容した点で「中国当局は明白に間違っていた」と述べ、中国当局が反日行動は自然に発生したかのように主張することは「有罪」だとし、中国政府がインターネットの「地下工作員」を使って世論を誘導するという最近の情報を紹介している。
  反日行動の動機について同社説は、「歴史」や「靖国」ではなく、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りへの動きや中国の台湾への軍事脅威に対する日米共同の懸念表明を挙げた。
  同社説は、中国の対日戦略として(1)政府が無力を装って大衆を動員する義和団方式(2)道義的により高い立場を目指すアピール−を挙げ、「その二つとも失敗したため、中国はいまや新しい策略を試みている」と指摘。呉副首相が訪日中にトヨタ自動車の奥田碩会長らに日中関係の政治面での悪化は経済面に悪影響を及ぼすという趣旨の警告をしたことを、「小泉首相の頭ごしに日本の財界に訴えようとする新策略」だと述べている。
  同社説は結論として、この種の中国の策略は「危険なゲーム」だとして、日本国民の92%が中国の日本への対応に納得できないという読売新聞の世論調査結果を引用し、「中国は日本が民主主義国家であり、その政治家は国民の意思に耳を傾けねばならないことを理解しなければならない。呉副首相の会談拒否は礼節を重んじる国では、よく受け取られない」と論評した。

(産経新聞) - 5月28日2時59分更新

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050528-00000003-san-pol

所謂于山島

投稿者: ichibacho 投稿日時: 2005/05/28 09:09 投稿番号: [9601 / 18519]
http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/photo/haedong.jpg

鬱陵島の小六島の件ですが、皇城新聞の記者は1750年代の地図「海東地図」も参考にした可能性が大きいと思います。

この地図では、小島が六つ描かれていますし、その一つには「所謂于山島」とご丁寧に明記していますからね。
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