竹島

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太政官は竹島外一島を鬱陵島・現竹島と認識

投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/08/16 23:19 投稿番号: [18362 / 18519]
ahirutousagi2様、ご返事ありがとうございます。

少し誤解しておりました。確かに、ahirutousagi2様が述べておられるのは、太政官は竹島と松島を版図外にした、だけですね。大変失礼いたしました。

私が誤解したのは、ahirutousagi2様が、「結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった」と書かれたからです。これはahirutousagi2様の解釈ですね。

私は、内務省や太政官が、島根県提出の資料から、松島をダジュレー島に比定したとは考えません。島根県提出資料は、No.18332で示したように、古来の竹島・松島について詳述しており、松島=ダジュレー島を示唆するものは何もありません。

1876年10月16日付で、島根県が提出した資料は古来の竹島を鬱陵島とは言っていませんが、内務省は1877年3月17日に、『旧政府評議之旨意』(一号文書)等を加えた『日本海内竹島外一島地籍編纂方伺』を太政官に提出しました(内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社, 2007)。一号文書には所謂「竹島一件」で幕府が竹島=鬱陵島(蔚陵島)を放棄したことが明記されています。

ahirutousagi2様はまた、「その松島はほかでもなく、現在のまさに鬱陵島の位置で理解されていた、」と述べられました。『原由之大畧』の「松島」の位置は、「現代の視角」から見ると鬱陵島の近くになります。しかし私は、『原由之大畧』の記事から、内務省・太政官はその「松島」を隠岐から竹島へ行く途中にある島と理解していた、と思います(No.18332)。さらに、内務少輔前島密は、「古来の松島」が勝海舟識『大日本國沿海畧圖』で「リエンコヲルトロック」となっていることを知っていた、とahirutousagi2様が紹介された「ウィキペディア:竹島外一島」は記しています。

私は「ウィキペディア」の「竹島外一島」の項目を前に読んだことがありますが、何とも歯切れが悪い曖昧な文章が多く、どうもよく理解できませんでした。それでも、「竹島外一島」は鬱陵島と現竹島を意味しない、という日本の一部にある主張に、根拠を与えようと懸命に努力されていることは分かりました。ahirutousagi2様の優れた文章力によって、この項目が一読して理解できるようになればと期待しております。

「ウィキペディア:竹島外一島」には、「明治10年頃の状況、内務省の立場、情報を纏めると、」として、“(6)前島密ら明治政府は欧米列強各国からの相次ぐ情報から、幕末時に勝海舟が編纂した『大日本国沿海略図』では鬱陵島が二重描画になっていて「竹島」は架空島で、海図上の「松島」が鬱陵島である蓋然性が高いことを知っていた。(7)前島密らは欧米列強各国からの相次ぐ情報で、シーボルト海図以前の徳川時代に「松島」と呼ばれていた島は、『大日本国沿海略図』では「リエンコヲルトロック」となっていることを知っていた。”と記されています。

前島密は、箱館の諸術調所で武田斐三郎に航海術を学び、1859〜1861年に函館から日本海を南下し太平洋岸に出て函館に戻る航海や、ロシア領ニコライエフスクへの航海等を行っています。また、鹿児島・対馬から北海道まで日本全土を何度も旅行し、地理には精通していましたから、上記の「ウィキペディア」の記述は頷けます。
http://www.japanpost.jp/corporate/founder/index02.html

太政官は、1877年3月17日に提出された「竹島外一島本邦関係無之」とした内務省からの「伺」を審議し、1877年3月29日、内務省からの「伺」どおり、「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と指令しました。竹島外一島は、上述の記事から、竹島は鬱陵島、外一島は古来の松島=リアンクール岩=現竹島であることは明らかです。
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