竹島
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Re: 大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/25 23:24 投稿番号: [16170 / 18519]
これは メッセージ 16166 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議5
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/25 21:08 投稿番号: [16169 / 18519]
また、彼女は「彼(安龍福)が見たのは竹島ではない」としていますが、これも誤りです。彼を拉致した大谷家は竹島(欝陵島)へ往復する際に松島(竹島=独島)を航路の目印にしており、あるいはそこで若干の漁をしていたので、安龍福を拉致した際にも松島へ寄ったと考えられます。
さらに、安龍福自身も帰国後にそのような趣旨の供述をしました(注6)。したがって、安龍福は拉致される途中で竹島=独島を実際に見たようです。国会図書館の塚本孝氏もそのように解釈しました(注2)。
そのような体験があったので、1696年にみずからの足で日本へ来たときに、竹島・松島を書き入れた「八道の図」をわざわざ持参し、隠岐の役人に松島は子山島であり、朝鮮の江原道にあると訴えることが可能だったようです(注7)。その時に竹島と松島の間は50里と語っているので、安龍福の語る松島は竹島=独島であることは疑いの余地がありません。
3.おわりに
上記以外にも朴裕河氏の誤認は『和解のために』の随所に見られます。それらをすべて指摘すると長くなりすぎるのでこの辺で切りあげますが、朴裕河氏は数多くの誤認をもとに、砂上の楼閣のような独島論を築きあげたようです。
その挙句、彼女はこう提案しました。
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独島をどちらか一方が占めつつ さらに数十年、あるいはもっと後の世代にまで不和の火種を遺すよりは、互いに歩み寄り共有することのほうがはるかに勝ることだろう。
かくして独島が韓日間の平和を象徴する「平和の島」になりうるとしたら、その日は韓日両国がまことの和解へと向かう道に、かつてない大きな一歩を踏み出す日となるに違いない。
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朴裕河氏が竹島=独島問題に関して正しい歴史認識をもっているのならまだしも、彼女自身も認める「乱暴」な論説の締めくくりとして竹島=独島の日韓「共有」を提案したのでは、彼女に率直に耳を傾ける人は少なくとも韓国ではほとんどいないことでしょう。
かくも「乱暴」な論説が受賞するなんて、大佛次郎論壇賞の名が泣くのではないでしょうか。ちなみに、同賞の趣旨はこう書かれました。
「論壇賞は21世紀の幕開けを機に、日本の政治・経済・社会・文化・国際関係等をめぐる優れた論考を顕彰すべく設けられました」
誤謬の多い『和解のために』は、日韓両国の「和解」に寄与するどころか、韓国人の憤激を買い、かえって対立を煽りたてることになると憂慮されます。まず問われるべきは、日韓の歴史認識問題ではなく、彼女自身の歴史認識問題であるようです。
(注1)堀和生「1905年 日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第24号,1987,P103
(注2)塚本孝「竹島領有権の経緯」『調査と情報』第244号、1994年、P4
(注3)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版、2000、P131
(注4)舩杉力修『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』2007、P156
「磯竹島略図」の解釈についてであるが、以下のことが指摘できる。
(1)一連の文書では竹島外一島は日本領でないと書いてあるが、現在の竹島が朝鮮領であるとは書かれていない。現在の独島を韓国領であると日本政府が認めたという解釈は明らかに間違っている。日本領でないと規定しただけである。・・・」
(注5)内藤正中「答えに窮した?
内藤教授の反論」
http://www.han.org/a/half-moon/hm130.html#No.952(注6)『邊例集要』巻17、欝陵島、1694年1月
(注7)村上家文書『元禄九年丙子 朝鮮舟着岸 一巻之覚書』
(半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 16168 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議4
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/25 21:07 投稿番号: [16168 / 18519]
2.安龍福拉致事件
朴裕河氏の誤認は太政官指令だけにとどまりません。元禄時代の1693年、竹島(欝陵島)で漁をしていた朝鮮人の安龍福を米子の大谷家が拉致して鳥取藩へ引渡すという拉致事件がありましたが、この重要な安龍福拉致事件についても彼女は「日本側の主張」を間違ってこう理解しました。
「安龍福は鬱陵島に向う途中で竹島の存在を知ったというが、・・・・彼が見たのは竹島ではない。当時交渉の末に伯耆藩の藩主が朝鮮領と認定したふたつの島というのは、鬱陵島と竹島ではなく、鬱陵島と竹嶼島であった」
まず、朴裕河氏は「伯耆藩」と書いていますが、伯耆国はあっても伯耆藩は存在しませんし、そのように書いた日本人もいません。外務省が一時「伯耆州」なる語を使いましたが、批判を受けて取り消したようです。伯耆藩は鳥取藩の誤りです。
つぎに、彼女は「当時交渉の末に伯耆藩の藩主が・・・」と書きましたが、「交渉」とは鳥取藩主とだれとの交渉を指すのでしょうか?
文脈からすると、多くの韓国人学者が主張しているように、交渉相手は安龍福を指すようです。しかし、日本では外務省も多くの学者もこぞって鳥取藩主は安龍福と交渉した事実はないと主張しました。もちろん、安龍福にふたつの島が朝鮮領と認定した事実はないと主張しました。朴裕河氏は韓国側の主張と日本側の主張を完全に取り違えるという、信じられない誤りをおかしているようです。
あるいは「交渉相手」が仮に幕府だとします。一時、鳥取藩は幕府から質問を受けてそれに回答したことがあったので、それを彼女が「交渉」と勘違いした可能性が少しはあるかも知れません。
しかし、この場合でも彼女の論説は成り立ちません。鳥取藩は幕府へ竹島・松島のふたつの島が自藩領でないと回答したのであり、朝鮮領と認定したことはありませんでした。
また同藩は、「ふたつの島」について「福浦より松島へ80里程」「松島より竹島へ40里程」と幕府へ回答したので、ふたつの島はまぎれもなく欝陵島と竹島=独島を指し、竹嶼ではあり得ません。
さらに想像を働かせれば、朴裕河氏は、あるいは「伯耆藩」と「幕府」を取り違えていたのかも知れません。
しかし、この場合でも少し無理があります。幕府は、鳥取藩の回答を重視し、竹島(欝陵島)を朝鮮領と認定し、同島への日本人渡航禁止を朝鮮へ対馬藩をつうじて伝えました。この時、朝鮮へ伝えたのは「ふたつの島」ではなく、争点になっていた欝陵島のみでした。そもそも幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったのでした。
そのうえ、さらに鳥取藩が回答書でついでに松島も自藩領でないと付記したので、幕府は松島に領有意識を持ち得なかったことはいうまでもありません。
結局、朴裕河氏の理解は、あらゆる勘違いの可能性を考慮しても彼女の論説が成立する余地はありません。
(つづく)
これは メッセージ 16167 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議3
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/25 20:46 投稿番号: [16167 / 18519]
つぎに「日本側」として考えられる可能性があるのは日本人学者です。しかし、学者たちの見解は、次のようにほとんど「外一島」を松島(竹島=独島)とみました。
1.堀和生教授、「外一島」は松島(竹島=独島)(注1)。
2.塚本孝氏、「外一島」は松島(竹島=独島)(注2)。
3.内藤正中教授、「外一島」は松島(竹島=独島)(注3)。
4.舩杉力修教授、「外一島」は松島(竹島=独島)?(注4)。
一連の文書で現在の独島を日本領でないと規定
5.下條正男教授、毎年のように見解が変わり定見がない。
ちなみに下條氏の「外一島」に関する変説の遍歴は下記のとおりです(注5)。
2004、5年、「外一島」は竹島=独島かどうか不明。
2006年、
「外一島」は現在の竹島=独島とみられる。
2007年3月、島根県のいう「外一島」は「磯竹島略図」の松島、すなわち竹島=独島。
太政官のいう「外一島」は欝陵島。
2007年9月、島根県のいう「外一島」は欝陵島。
学者以外では『日本海と竹島』を出版した(医)厚生医学会理事長の大西俊輝氏が「竹島外一島」を竹島(アルゴノート島、武陵島)、松島(ダジュレー島、于山島)としました。アルゴノートは架空の島、ダジュレー島は欝陵島を指します。
他に、竹島=独島問題で積極的な発言をしている国際法学者の芹田健太郎氏や朝日新聞社の若宮啓文氏、櫻井よしこ氏などは太政官指令については口をつぐんでいるのが現状です。
以上のように、太政官指令の「外一島」を朴裕河氏のいうように「鬱陵島の横にある小さな島」とみている人は、日本では誰もいないといっても過言ではありません。
それも無理はありません。『公文録』に掲載された太政官指令の「外一島」は松島を指しますが、同書付属の地図「磯竹島略図」で「鬱陵島の横にある小さな島」は「マノ島」と書かれ、竹島=独島は「松島」の名で記載されました。朴裕河氏の理解は重大な誤謬と言えます。
(つづく)
これは メッセージ 16166 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議2
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/25 20:44 投稿番号: [16166 / 18519]
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「独島めぐる太政官指令、日本が存在認めるも解釈留保」
聯合ニュース(韓国)2006/11/20
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聯合ニュースは9月中旬、日本の麻生太郎外相と自民、民主、共産、社民、公明の各党代表あてに「1905年の日本閣議による独島の島根県編入決定に関する質疑書」を送った。主な質疑内容は
▼1877年の太政官指令書が存在する事実を知っているか
▼知っているならば独島領有権に関し 非常に重要な文書である太政官指令書に1度も言及しなかったのはなぜか
▼太政官指令書に従えば、「17世紀半ばまでに竹島領有権を確立した」という日本政府の主張は虚構となるがどのように考えるか
▼1905年の独島編入の過程では太政官指令書を意図的に無視したのか――などとなっている。
これに対し日本の外務省は数回にわたり、検討中のためしばらく待つよう答えた末、11月13日に「太政官指令書の存在は知っている」「歴史的な事実などに対しては現在調査、分析中で、現時点では日本政府の立場でコメントできない」という返答を送ってきた。日本政府が太政官指令書の存在事実を公式に認めるのはこれが初めてだ。韓日両国は1950年代初め、独島領有権をめぐり政府レベルで文書を交わしながら激しい論争を続けてきたが、太政官指令書は取り上げられていない。
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外務省が答えられないのも無理はありません。外務省は半世紀以上にわたって「竹島は日本の固有領土」と言いつづけてきたので、明治政府が竹島=独島を日本領外としたとなれば、同省の「固有領土」の主張が根本から覆るだけに「解釈保留」を続けざるを得ないものと思われます。
現在、外務省のホームページにおいて、太政官指令は一言半句もふれられていません。重要事項に関して沈黙しているのは情報隠しともいえます。
朴裕河氏のいう「日本側」が日本政府でないなら、それは当事者ともいえる「島根県」かというと、そうでもありません。島根県は日本の公共機関では唯一「外一島」が竹島=独島であると認めました。2007年に島根県が県内の全戸に配布した「竹島特集」のパンフレット『フォトしまね』161号にこう記されました。
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地籍編纂のため、内務省から1876年に竹島(現在の鬱陵島)に関する照会受けた島根県は「山陰一帯ノ西部ニ貫付(所属)スベキ哉」と回答したものの、同省が最終的な判断を仰いだ太政官は、同島と外一島を「本邦関係無之」とし、日本領でないとの認識を示した。外一島とは、現在の竹島とみられる。
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朴裕河氏のいう「日本側」が政府や自治体でないのなら、日本の世論を指すのでしょうか?
しかし、日本では太政官指令自体がほとんど知られていないので、世論は論外です。
(つづく)
これは メッセージ 16165 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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大佛次郎論壇賞『和解のために』に異議1
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/25 20:44 投稿番号: [16165 / 18519]
半月城です。
来る1月29日、朝日新聞社の大佛(おさらぎ)次郎 論壇賞の贈呈式が行なわれ、朴裕河氏が受賞することになりました。彼女は韓国ソウルにある世宗大学で日本語を教える教授ですが、この賞を外国人が受賞するのは初めてです。
受賞対象になったのは彼女の著書『和解のために』ですが、早速この本を読んだところ、特に第4章「独島」は問題が多いことがわかりました。彼女は「(韓国は)日本の主張をきちんと聞いてみるべき」と書いているので、日本の主張を充分研究したつもりなのでしょうが、事実誤認がかなり多いのが実状です。
本人もそれを自覚してか、同書の「はじめに」において「第四章で試みた要約があまりにも乱暴に映るかもしれない」と書いたくらいでした。
これは本の性格によるのでしょうが、タイトルが日韓両国の「和解」をうたい文句にしているので、その前提のためにはどうしても日本と韓国がいかに対立しているのかを際立たせる必要が生じます。
そのためか、同氏は「日本側の主張」とか「韓国側の主張」などという曖昧な用語を多用し、いかにも韓国側の主張と日本側の主張が竹島=独島問題でことごとく対立しているかのような論説を展開しました。
同氏は「韓国側の主張」についてはある程度知っているようなのでまだしも、「日本側の主張」に至っては誤謬が多く見られ、とうてい論壇賞にふさわしい論説には思えません。そうした誤謬を具体的に重要事件でみることにします。
1.太政官指令の「竹島外一島」
明治10(1877)年、現在の内閣に相当する太政官が「竹島外一島」すなわち、当時は竹島と呼ばれていた欝陵島と、同じく松島と呼ばれていた竹島=独島を日本の版図外としました。竹島=独島問題において最重要なこの指令に関し、同書は177頁にてこう記しました。
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日本側の主張は、以下のようなものである。
1876年に朝鮮が日朝修好条規ならびに日朝通商条約を締結し、「日本人漁民処遇規則」がつくられた。・・・・
このとき島根県が鬱陵島の所有権に対して明治政府に問い合わせたところ、明治政府は鬱陵島ともう一つの島が朝鮮領だとの判断を下したが、このときの言及にあるもう一つの別の島とは竹島ではなく、鬱陵島の横にある小さな島のことであった。
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まず基本的なことですが、島根県が明治政府に問い合わせたのは「鬱陵島の所有権」ではなく、「竹島外一島」の「地籍編纂」処理に関してでした。明治政府は近代的な土地台帳を明確にするため、全国土の地籍編纂事業をおこなったのですが、その時に島根県は竹島・松島の地籍を同県に編制すべきかどうかを内務省に問い合わせたのでした。
その問い合わせを受けた内務省は、江戸時代の記録などを調査し、問題の「外一島」を日本の版図外と判断しました。そのうえで「版図の取捨は重大の事件」との認識から念のために国家最高機関である太政官に伺書を提出し、竹島・松島を版図外とする太政官指令を得たのでした。
朴裕河氏は、この「外一島」は「鬱陵島の横にある小さな島」すなわち竹嶼(韓国名、竹島)であると「日本側」が主張していると理解しているようです。
しかし「日本側」という語は漠然としていて、何を指すのか曖昧です。日本側というと日本政府を指すと思いがちですが、この場合、日本政府は当てはまりません。日本政府は太政官指令に関しては下記のように判断を保留しています。
(つづく)
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/25 11:23 投稿番号: [16164 / 18519]
正確には、「示している」とも云えます。
すなわち地誌には、郡と島々との相関関係について郡の真東方向の海の中にあると書いてあるわけで、実際に郡の管下にない謂わば直轄地としては、その程度で十分でしょう。
下条教授が痛いのは、一般的な規式を無批判に当てはめて、誤読しているわけです。
ですので、下条教授の仮説を他の論説に応用することは全く無理との結論で差し支えないと思われます。
これは メッセージ 16160 (chaamiey さん)への返信です.
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Re: 規式について
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/25 10:57 投稿番号: [16163 / 18519]
隠岐の古い記録と同様ですが、どうしても現代人は現代の感覚を過去に照射する癖があります。
隠岐の範囲外であるのならば、日本ではないのか?
そんなことはないわけで、同じ事が旧朝鮮の場合にも云えるでしょう。
郡県に赴任する官吏が、どこまで管理するのか。
郡守なり地方に赴任する官吏が、空島政策により数年に一度だけ中央から直接派遣される官吏が訪れるだけの離島まで管下に置くなどありえない。しかし地誌には、その郡県の遠い沖合にあると記述する。
それだけのことですね。
これは メッセージ 16161 (kana_ikeuchi さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/24 23:33 投稿番号: [16162 / 18519]
husenoyajiさん
早速のコメントを有難うございます。
>相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。
下條正男氏は次のように書いておられます(『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004)。「『慶尚道地理志』では、興善島は「陸地相去ること、水路十里。人民来住して耕作す」と記された。それが『新撰八道地理志』を経て、地誌の最終段階である『世宗実録地理志』では「水路十里。[分註] 人民来住して農作す」に落ち着いた。『世宗実録地理志』では「規式」である「陸地相去ること」の一節が削られたのである。」
『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日芿明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。
>東國輿地勝覧ですが、梢や渚が見えるというのを海上から見た話しだとすると、そんなの当たり前ですから、書く価値がないです。
『新筯東國輿地勝覧』の「峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」は、その後の「欝陵島地誌」である、『陟州誌』に「山木森然可望山下皆白沙」や、『西溪雑録』に「沙汀樹木歴々可指」など、同様な表現を生みました。
『臥遊録』「欝陵島地誌」にあるように、欝陵島の海岸の大部分は「皆壁立萬仞」の海蝕崖に囲まれ、植生に乏しいですが、一部に「衆峰青く群がり」即ち鬱蒼とした森林に覆われた峰々や、「山下皆白沙」の海岸の見える所があります。これらの場所は、欝陵島に近づいて海上から見たとき、強く印象に残ったので、記されたものと思います。当たり前で「書く価値がない」ことは書かなかったでしょう。
これは メッセージ 16157 (husenoyaji さん)への返信です.
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Re: 規式について
投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2008/01/24 23:17 投稿番号: [16161 / 18519]
規式のことはおいといて、郡県の管下になければ大韓国の版土の
外で、行政区域外の単なる無人島なのでしょうか?
棄民ならぬ棄島なのですか?
これは メッセージ 16156 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: chaamiey 投稿日時: 2008/01/24 23:15 投稿番号: [16160 / 18519]
>本土からの距離を示す必要がない。
とおっしゃいますが、よく分からない各地方のことを分かりやすく整理するとすれば、義務報告事項であろうと特記事項であろうと、島の場合には本土からの距離というものは重大な関心事項ではないですか。「示す必要がない」と断言できるとは思えません。
これは メッセージ 16158 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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竹島の車窓から 『渡海達書』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/24 21:57 投稿番号: [16159 / 18519]
これは メッセージ 16143 (senkaku_islands さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/24 12:20 投稿番号: [16158 / 18519]
>相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
>二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
>したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。
それは無理ですね。
まず第一に本土からの距離を示す必要がない。
規式に従えば、郡県から道に報告するわけですから、どの郡県にも所属しない于山島欝陵島の二島は郡県が報告する対象ではなく、上級レベルで編集の過程で特記した事項と解釈するのが合理的です。
このことを考慮せず、于山島欝陵島の二島にも郡県が管理する島嶼と同じ基準を無批判に適用するのは如何なものか。
これが郡県の管下にある陸地に近い島であれば、相は本土からの距離になりますが、于山島欝陵島の二島の場合は、二島間距離になるでしょう。それが規式です。
これは メッセージ 16157 (husenoyaji さん)への返信です.
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Re: 『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/24 10:44 投稿番号: [16157 / 18519]
横から失礼。
>二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日
二島が主語ですよ。東國輿地勝覧もそうです。
相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。
東國輿地勝覧ですが、梢や渚が見えるというのを海上から見た話しだとすると、そんなの当たり前ですから、書く価値がないです。
東國輿地勝覧も、二島まとめて説明して、風がよければ2日で到達するとひとくくりにしています。
つまり、二島がべつに書くほどの旅程の差がないということです。
ところが、この差は、韓国の島の感覚では最大級ですので、于山島が獨島だとするとまったく不自然です。
すくなくともこれらの地誌を解釈した当時の人たちは鬱陵島の直近に于山島を書き込んだのです。それは間違いないことです。
これは メッセージ 16154 (ararenotomo さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16157.html
規式について
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/24 09:13 投稿番号: [16156 / 18519]
下条さんらは拘って居られるようですが、郡県の管下にあるのならば、確かに陸地からの距離を明示しなければならないでしょうけれども、そもそも当時の欝陵島は郡県の管下にはないのだから、規式に従わなければならない理由はなく、下条説は全く成り立たないでしょう。
下条さんは最低限、郡県の管下にない島嶼が規式に従わなければならない理由を明らかにすべきですね。
これは メッセージ 16127 (yabutarou01 さん)への返信です.
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Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/23 22:47 投稿番号: [16155 / 18519]
yabutarou01さん
ご意見有難うございます。私も一般論としてはyabutarou01さんのお考えと殆んど同じです。ただし、yabutarou01さんの個別意見に対し、納得できかねる事例について私の考えを述べます。
>ararenotomoさんの主張どおりならば鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記しているはずで、明記していないならば寧海から見たと解釈するのは間違っているのでしょうか。
「鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記している」とよいのですが、なかなか明記してくれないので、いろいろな解釈が生れます。
私は、「欝陵島地誌」冒頭の欝陵島の記述「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」で、最初は「登高望之」が、最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈していました(Nos.16124, 16125)。しかし、ahirutousagi2さんとyabutarou01さんの指摘を受け、「登高望之」は「- - 南峰稍低」までしか係らず、「日初出時風恬浪靜則 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観が相応しいと思い、前説を撤回しました(No.16154)。このように「登高望之」と、どの位置から見たかを明記していても、それがどこまで係るかにより幾つかの解釈が可能になります。
「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至于山島勢卑不因海氣極芿朗不登最高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則尋常可見」について、私は、yabutarou01さん同様、「盖二島 - - 風可至」を「二島(于山と欝陵)は此(寧海)から甚だ遠くはないので、ひとたび風に乗れば至ることができる」と解釈しました。しかし、次の「于山島 - - 不可見」の于山島は、獨島=現竹島あるいは竹嶼であれ、「此(寧海)」からは見えないので、海気が極めて晴朗ならば欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。また、「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は「風浪息則」とあるので、朝鮮半島の高所よりはむしろ海上から見たとしました。もちろん、寧海から見たとの解釈を否定する訳ではありません。
『新筯東國輿地勝覧』についてyabutarou01さんは、「どこから見たのか文中を探ってみると「二島在縣正東海中」の縣(蔚珍縣)からとしか解釈できません。また地誌の書式を規定する「規式」のルールにば島嶼の場合には、陸地からの距離を明記するという原則があったことを考慮しても朝鮮本土である蔚珍縣から見たと解釈するのが適当です。」と書かれました。
しかし私は、『新筯東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」では、「陸地からの距離を明記」した部分は「風便則二日可到」で、「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見」は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の景観を描写したものと解釈します(No.16154)。
許穆(1595〜1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1662-cheokjuji-ulleungdo.html『西溪雑録』に対しyabutarou01さんは、「朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。」と述べておられますが、『西溪雑録』は欝陵島の地誌ですから「寧海から」見たという部分を省略してしまえば、「欝陵島から」見たと読み手は解釈するでしょう。
『西溪雑録』『臥遊録』の欝陵島記事は非常に優れた欝陵島の地誌です。しかしその中には、当然のことですが、曖昧な表現の文章があります。そのような文章は、各人が自己の所説に、それぞれ適合するように解釈すれば良いのではないかと思います。
これは メッセージ 16127 (yabutarou01 さん)への返信です.
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『地理志』二島を本土から見ていない
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2008/01/23 22:35 投稿番号: [16154 / 18519]
ahirutousagi2さん
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。
ahirutousagi2さん有難うございます。私の読み方は撤回します。
「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰青く群がり岩壑呈露す」「朝日に照らされ峰々は青く輝き谷底には露岩が現れる」は、日の出時、波静かな海上から見た欝陵島東岸の景観をよく表していると思います。峰々が青いということは鬱蒼とした樹林に覆われていることを示すのでしょう。yabutarou01さんも指摘されていますが、「風恬浪靜則」や「風浪息則」などの表現は「海」に関わることがよく分かりました。ahirutousagi2さん・yabutarou01さん有難うございました。
私は、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)が「『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。」と述べていることに疑問を感じます。
『高麗史地理志』蔚珍縣の條には次のように書かれています。「有鬱陵島(以下分註)在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(百二十余字略)然多岩石民不可居遂寢其議一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」
川上氏の解釈、即ち「「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、」とするには無理があるように思います。欝陵島は、「在縣正東海中」として、既に一島説に基づいて詳しく説明されています。川上氏が述べたように、「一云于山武陵本二島」との一節は、一説として二島説のあることを最後に挿入したものです。それ故、「一云于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」から、武陵(欝陵島)だけが、どうして「欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できる」との意味になるのか、私には全く理解できません。
私は、「于山武陵本二島相距不遠風日芿明則可望見」は、于山と武陵はもともと別々の二つの島であり、于山と武陵の二島は相距ること遠からず、風日清明ならば互いに望見できる、と解します。同様な記述である『世宗実録地理志』蔚珍縣條の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日芿明則可望見」からも、「欝陵島が本土と相去ること遠からず」との解釈は出てこないと思います。
従って私は、川上氏のように「(『輿地勝覧』)では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」という表現に改めている。」とは考えません。
「空島政策」とはいえ、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していました。『輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」からは、欝陵島について、かなり明確な具体像が把握されていることが分かります。この箇所は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の自然景観を描写した、正しい記述だと思います。
一方、于山島については、どれほど具体像が把握されているかは不明ですが、『世宗実録地理志』と『高麗史地理志』の「二島相去不遠風日芿明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日芿明ならば望み見ることのできる島、と明らかに于山島(獨島=現竹島)を認知していることが分かります。
古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。
これは メッセージ 16126 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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朝鮮の官撰史料は信用できるか
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/23 21:14 投稿番号: [16153 / 18519]
半月城さんは、[ No.16102 ]において、次のように述べられています。
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朝鮮では古くから朝鮮の東海に二島あることが知られていました。二島とは欝陵島と于山島ですが、欝陵島は時には武陵島、蔚陵島など様々な名前で呼ばれました。両島は15世紀の官撰地理誌である『世宗実録』地理志にこう記されました。
于山と武陵の二島が県の真東の海中にある。
お互いに遠くなく、風日が清明であれば望見することができる。
新羅の時に于山国と称した。一説に欝陵島と云う。
その地の大きさは百里という。
欝陵島近辺には無数の岩や島がありますが、天候が清明の時にだけ望見できる島は竹島=独島しかありません。したがって、この文章における于山島は竹島=独島とみることができますが、その位置や大きさなどは記載されませんでした。
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-
この地理誌には、鬱陵島から見る独島は「風日清明則可望見」であるが、半島から見る鬱陵島の状況は記されていない。というのが半月城さんの解釈です。しかし、現代感覚では「鬱陵島から見る独島」よりも「半島から見る鬱陵島」が重要ですし、当時の地理誌フォーマットでも「半島から見る鬱陵島」の記載もれは許されません。すると、半月城さんは、この地理誌を書いた官僚がアホだったと言っているのでしょう。アホが書いた地理誌は、その内容を検討することなく却下するべきです。
1808年に発行された「萬機要覧」には、「輿地志云
欝陵
于山
皆于山國地
于山則倭所謂松島也」と記されています。これは、1770年の「東国文献備考」からの引用です。そして、この部分に関しては、下条氏から改ざん説が唱えられ、半月城さんが反論しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm107.html#No.785
----------------------------------------
-
(下条氏は、)于山島が松島であると考察した者は申景濬であり、それを『東国文献備考』ではさも『輿地志』からの引用であるかのように書いたのであり、これは『輿地志』の改ざんであると断言しました。
はたしてこの説は成立するでしょうか?
申景濬に引用された『輿地志』は、当時はもちろん実在し、知られていたことでしょう。そうした中で下條氏のいうような、容易に指弾されるような「改ざん」を学者がはたしておこなうでしょうか?
改ざんなどという発想は、下條氏ならではことではないでしょうか?
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この存在していないとされていた「輿地志」が近年発見されました。そこには、上記「于山則倭所謂松島也」の文言がありませんでした。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/index.data/shokun2007.9.pdf
すると、「萬機要覧」はソウル市内に在った「輿地志」を検討せずにその内容を引用したと認められます。この官僚もアホですね。このアホに鬱陵島の東を検証できる能力があるとは思えません。このアホが書いた萬機要覧は、その内容を検討することなく却下するべきです。
>
take_8591さんは、領有権論争においては官撰史料が最重要であると理解されて、明治時代の官撰史料に対するコメントを書いたのでしょうか。
上記の様に考える私は、朝鮮の官撰史料を信用することが出来ません。
私には、同じ官撰史料であっても、日本地誌提要と世宗実録(の韓国流解釈)・萬機要覧を同列に論ずることはできません。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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Re: 仕事で、、、
投稿者: toyopon40 投稿日時: 2008/01/23 12:23 投稿番号: [16152 / 18519]
よく釜山に、行きますが、どう見ても韓国に近い所です。思うに日本側の、
韓国に対する、日本政府の考え違いではないでしょうか?
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 思うに
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/23 09:29 投稿番号: [16151 / 18519]
覇権国家がきめたのに、「そんなの関係ねえ!!」とか言って占拠して盛り上がってる国があるだけです。
韓国に返還すべき領土から明確に獨島は省かれてます。
これは メッセージ 16147 (decem1203 さん)への返信です.
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Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/23 01:19 投稿番号: [16150 / 18519]
これは メッセージ 15526 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/21 22:51 投稿番号: [16149 / 18519]
take_8591 さん
>>1794年の報告と1807年の報告では、「孔巖」「錐山」という共通の地名を使用している一方で、周囲の島の記述には違いがあります。
1794年
前有三島
在北曰防牌島
在中曰竹島
在東曰瓮島三島相距
不過百餘歩1807年
北有于山島
周回爲二三里許
この両者の関係をどの様に考えれば良いのでしょうか。
一つは、1794年に「竹島」と呼んでいた島を、1807年には「于山島」と呼んでいると捉えられます。
私はそのように解釈します。防牌島を観音島に竹島を竹嶼にあてるのが日韓双方の研究者の多数意見です。
>>一方で、1794年に3島の報告が為されたことを前提に、加えて北方に1島あり「于山島」という。とも捉えることができます。
1794年の記録と1807年の記録は全くの別物ですからそうではないと思います。
>>尚、1794年の報告は、「防牌島・竹島・瓮島の3島があり、これらは鬱陵島から100歩も離れていない。」とでも訳すのでしょうか。
これは地誌の記述ではありませんから規式は関係ありません。「防牌島・竹島・瓮島の3島のお互いの距離は100歩余りにすぎない。」だと思います。
これは メッセージ 16139 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「答えに窮した内藤教授」の反論 2
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/21 21:24 投稿番号: [16148 / 18519]
宮本三平氏の日本帝国全図(明治8年)ですが、探したのですが見つかりませんでした。どなたかご存じの方がいたら教えて下さい。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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思うに
投稿者: decem1203 投稿日時: 2008/01/21 21:23 投稿番号: [16147 / 18519]
領有権は覇権国とその仲間が決めるものだと思うので
日本と韓国だけで
何を言ってるんだかな?と思います。
意味ないでしょ。
つまり常任理事国の許可が必要なのですね。
ルールですぅ
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Re: take_8591さんへ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/21 09:29 投稿番号: [16146 / 18519]
付記
16145の記事で地学雑誌201号とあるのは全く210号のことにして201号のことに非ず。
しかれども本付記は、16145の記事を全て否定するものに非ず。
これは メッセージ 16145 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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Re: take_8591さんへ
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2008/01/21 09:19 投稿番号: [16145 / 18519]
>
take_8591さんは、『日本地誌提要』に「松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス」と書かれている松島と「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ」と書かれた松島を同一であると考えているのでしょうか?
>
言い方を変えれば、島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
もし、そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
>
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
いえいえ、take_8591さんは地学雑誌201号の記事で、田中阿歌麻呂が隠岐国竹島の産物について記した記事の付記で、200号に記したそれは欝陵島の産物についてであって独島の産物ではなかったと書いたことを解読できず、200号の記事そのものを全てなかったことにしたいのかもしれません。
無理ですね。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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竹島プロジェクト2008
投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2008/01/20 21:02 投稿番号: [16144 / 18519]
こういうのやってます。
☆★☆★☆★☆
竹島プロジェクト2008始動!
☆★☆★☆★☆
竹島プロジェクト2008(桜日和)
http://sakurasakurasakura3.blog53.fc2.com/blog-entry-342.html 今年もネット有志による竹島奪還プロジェクトが始動しました。
思想の左右や老若男女、そして普段のブログの内容を問わず、ブログを持って
いる人は是非参加しましょう。個人のブログがない人も、参加者のブログにコ
メントしたり各種掲示板やmixiで竹島問題を取り上げたりして盛り上げていき
ましょう。
極左たる共産独裁国家ですら、絶対に自国の領土を他国に譲ったりしません。
つまり 竹島を韓国に譲るべきなどと吹聴するのは、左派ですらない単なる売
国スパイだけです。
このプロジェクトをより多くの人に知らせ、竹島問題について考えていきまし
ょう。
----------------------------------------------------------------------
竹島問題について関心が高まるのはとても良いことです。
この運動が竹島問題の解決につながるといいですね。
これは メッセージ 16143 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16144.html
竹島の車窓から 『大谷家由緒実記』
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/20 14:56 投稿番号: [16143 / 18519]
これは メッセージ 16142 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16143.html
竹島の車窓から 「鳥取市〜米子編」
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/01/20 14:15 投稿番号: [16142 / 18519]
これは メッセージ 16097 (senkaku_islands さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16142.html
Re: take_8591さんへ
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/20 10:27 投稿番号: [16141 / 18519]
半月城さんへ
レス、ありがとうございます。
レス、あるとは考えていなかったので感激です。
>
島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
との事ですが、仮に私がその様に誤解して投稿していたとしても、半月城さんがその様に解することが驚きです。
日本地誌提要は、77個の袋に分類されています。50番目の袋は隠岐と命名されています。この隠岐の袋を開けると、領域・形勢・・・海峡・島嶼・暗礁・・・と多くの袋が表れます。この島嶼の袋を開けると、「島津島・・・」「本州の属島」「又西北に方リテ松島」の袋が表れます。この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は袋が違いますから、松島を「本州の属島」の外と解することに問題はありません。しかし、この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は、「島嶼」の袋の中に入っていますから、松島を本州の「島嶼」内と解するのが相当です。
>
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
との事ですが、田中阿歌麻呂は、地学雑誌210号で「本誌200号に掲げた記事は、全くの間違い」としているものと解していますので、「どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取る」必要性を感じていません。その必要性を感じていた半月城さんが、どうして[ No.16105 ]の記事を投稿されたのでしょうか。
>
そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
この言葉は、そのまま半月城さんにお返しします。
これは メッセージ 16140 (ban_wol_seong さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16141.html
take_8591さんへ
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/01/20 09:36 投稿番号: [16140 / 18519]
半月城です。
take_8591さんは、領有権論争においては官撰史料が最重要であると理解されて、明治時代の官撰史料に対するコメントを書いたのでしょうか。
take_8591さん、No.16134
>
田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。
take_8591さんは、『日本地誌提要』に「松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス」と書かれている松島と「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ」と書かれた松島を同一であると考えているのでしょうか?
言い方を変えれば、島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?
もし、そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/20 09:36 投稿番号: [16139 / 18519]
ゲーリー氏は、1794年の検察報告をUPしています。
http://www.occidentalism.org/?p=361
1794年の報告と1807年の報告では、「孔巖」「錐山」という共通の地名を使用している一方で、周囲の島の記述には違いがあります。
1794年
前有三島
在北曰防牌島
在中曰竹島
在東曰瓮島
三島相距
不過百餘歩
1807年
北有于山島
周回爲二三里許
この両者の関係をどの様に考えれば良いのでしょうか。
一つは、1794年に「竹島」と呼んでいた島を、1807年には「于山島」と呼んでいると捉えられます。
一方で、1794年に3島の報告が為されたことを前提に、加えて北方に1島あり「于山島」という。とも捉えることができます。
尚、1794年の報告は、「防牌島・竹島・瓮島の3島があり、これらは鬱陵島から100歩も離れていない。」とでも訳すのでしょうか。
これは メッセージ 16138 (yabutarou01 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16139.html
「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2008/01/19 22:47 投稿番号: [16138 / 18519]
山陰中央新報の記事です。
「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称と主張する于山島が、現在の韓国・鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であることを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地図を基に指摘する「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初めて。
文献は、一七六〇−一九一〇年の朝鮮王朝の国政全般を記した官撰(かんせん)の「日省録」。韓国で竹島問題を研究する米国人ゲーリー・ビーバーズ氏(52)が、インターネット上で発表した。
日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百−千二百メートル)、との内容を示す「北有于山島周回為二三里許」の記述があった。
鬱陵島周辺でそれだけの周囲があるのは、同島の北東に隣接し、南北七百メートルに及ぶ細長い竹嶼のみ。竹島は鬱陵島から九十二キロ離れた南東に位置し、ビーバーズ氏は「于山島は鬱陵島の隣接島(竹嶼)としか考えられない」と結論付けた。
竹島問題研究会の座長を務めた下條正男拓殖大教授は「地図から見て、于山島は竹島ではなく竹嶼であるのは明白だったが、文献で示されたことは意義深い」と評価している。
竹島問題で韓国側研究者はこれまで「地図より文献の記録を重視すべき」と同研究会の主張に反論していたことにも触れ、下條教授は「研究会の見解が正しいことが裏付けられた」と述べた。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=493162004この「日省録」についての記事のゲーリー・ビーバーズ氏の解説と私の日本語訳がこちらにあります。訳に問題があったら教えて下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/01/1807512.htmlこの文献は私が最初に発見して2006年6月3日にこの掲示板に書き込んだものです。
新資料発見?『于山島が鬱陵島の北に ある』
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=14549実は今月に入ってある人を介してWEB竹島研究会から協力を要請するメールが来ました。
これに対して私はあくまで自由な立場で竹島問題を研究していきたいという理由でこれを断り、ただし私がネット上に書き込んだ文章については自由に使って構わないと回答しました。
私は最初から自分の書いた文章はパブリックドメインであると考えて書き込んでいます。したがってどのような立場の人でも自由に使って構いません。できれば日韓友好のために有意義に活用していただきたいものです。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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「答えに窮した内藤教授」の反論 3
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/18 09:55 投稿番号: [16137 / 18519]
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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Re: 久しぶりにコメントNo.1から読み直して
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2008/01/16 23:31 投稿番号: [16136 / 18519]
こんばんは
>もしかしてずっと同じような事が続くのでしょうか??
もちろん続きます。
在日や日本人の多くにとっては議論かもしれませんが、韓国人にとってはこれは言論による国土防衛戦争です。
だから、有利なところだけで戦うのは当たり前です。
詭弁だ非論理だとか言ってネタにして終わりにしちゃいたくなりますが、彼らがそれだけ本気なんだということをキモに命じるべきでしょうね。
だから、私もつたない知識でつっこめるところはいつでも何回でもつっこみます。返事があろうがなかろうが。
これは メッセージ 16133 (boshind さん)への返信です.
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続きです。
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/16 18:10 投稿番号: [16135 / 18519]
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
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明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。
その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
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-
半月城さんは、「地誌提要」と「地学雑誌」を主たる証拠をしてリャンコ島が日本の領土外であると主張し、太政官決定は「その一例」として紹介しています。
しかし、上に述べた様に、「地誌提要」と「地学雑誌」は、その全体をみれば日本の領土外であることを示していないにも関わらず、その部分のみを抽出すれば都合の良い部分があったので引用したと認められます。すると、「その一例」たる太政官決定でも同様の誤謬を犯していると考えられます。
これは メッセージ 16134 (take_8591 さん)への返信です.
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「答えに窮した内藤教授」の反論 2
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/16 18:03 投稿番号: [16134 / 18519]
私は、「この主張に対する有効な反論は為されていません」と述べました。
以下、私が有効ではないと考える反論を紹介します。
半月城さんは、[ No.16105 ]において、次のように述べられています。
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『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。
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一方、田中さんは同じ部分を次のように紹介しています。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chishiteiyo-1874/
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島嶼
島津島。・・・
松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス。・・・・・・
大森島。・・・
○本州ノ屬島。知夫郡四拾五。海士郡壹拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壹百七拾九。之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云。
○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町
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-
このように官撰地誌において竹島・松島が「本州の属島外」とされましたが、これをもって「明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味する」と半月城さんは主張しています。これは重要です。
田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
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-
明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。
「明治初年に到り、正院地誌課にてその島(竹島=独島)が本邦の領有を完全に非認したので、その後の出版された多くの地図はその所在を示さないようである。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全図にはこれを載せても、帝国の領土外に置き塗色せず」
----------------------------------------
-
一方、田中さんは「地学雑誌」を次に紹介しています。
地学雑誌 第200号
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chigaku-1905/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka44/chigaku-1905/05.pdf
地学雑誌 第210号
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chigaku-1906/
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka45/chigaku-1906/06.pdf
田中さんのHPによると、田中阿歌麻呂は地学雑誌210号で、「本誌200号に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し。」と半月城さんが紹介した記事を訂正しています。もっとも、私程度の知識でも、200号の記事を読んで「リャンコ島とダジュレー島を混同しているな」と感じることが出来ました。
半月城さんの[ No.16105 ]は更に次のように続きます。
----------------------------------------
-
明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針をその後も一貫して堅持しました。
その一例として明治政府の地籍編纂事業をあげることができます。明治10(1877)年、竹島(欝陵島)の地籍が問題になった時に内務省は元禄期の「竹島一件」を考慮し、竹島外一島を日本の領土外と判断しました。
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半月城さんは、「地誌提要」と「地学雑誌」を主たる証拠をしてリャンコ島\xA4
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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久しぶりにコメントNo.1から読み直してみた
投稿者: boshind 投稿日時: 2008/01/16 12:55 投稿番号: [16133 / 18519]
もう随分と長い間、竹島問題について議論されてきているはずなのに、
一向に収束しようとしないのは何故なのかと思って1週間かけて一番最初から
読み直してきました。はぁ疲れたw
で、あたらめて思い知らされたのが、韓国側主張の論客であるはずの半月城氏は、日本側主張の重要な問題となる質問や反論については、予想通りほとんど答えていないという事実でした。
半月城氏がこのスレに登場するのはNo.538からですが、当初のKunitaka氏の警告も無視して質問にも答えず参加している訳なのですよね。
以下ずっと日本側主張の有利な点については殆ど無視ですから、あきれたものです。もしかしてずっと同じような事が続くのでしょうか??
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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Re: 「答えに窮した内藤教授」の反論
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2008/01/14 22:30 投稿番号: [16132 / 18519]
ご主張に賛同いたします。
さきに、16110で、ずっと前に14831で記した年表を提示しました。
この流れは個人的にはかなり大切であると思っています。
******
1867年
勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年
陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島[アルゴノート・ダジュレーか])
1877年
太政官判断。
1878年
外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年
天城による調査。鬱陵島=松島。(竹島は傍[北方]の小島)
1881年
内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年
内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年
鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年
鬱陵島渡航禁止
1883年
太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
*1880年の部分が「同上」という表記になっていましたので、これではまずいと思い、より具体的にあらためました。
******
つまり、1877年に太政官判断。その翌年には外務省が鬱陵島=松島と規定しており、さらに1880年には軍艦天城で鬱陵島=松島として調査までなされています。
一方、1881年、内務省から「外一島」についての照会が外務省になされましたが、当然に反応する必要もありませんでした。「外一島」は鬱陵島までの朝鮮側の島を「版図外」としたに過ぎないからです。
そして、その後の鬱陵島への渡航禁止、さらに1883年の太政大臣三条実美による「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録につながります。
こうした流れがあるわけで、1877年の竹島・松島が何を意識したものであったかについては、ここから明らかに読み取れるわけです(鬱陵島=松島)。
地図でも同様です。
当時の政府関係の地図においては、私の知る限りにおいて、竹島・松島は日本地図に描かれていないか、またはアルゴノート・ダジュレーの位置でそれぞれ記されたものしか、存在しません。
そうした中で、島根県・内務省が太政官に地図を添付して文書を上げた。
そこには、竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの積極的な根拠は見出せない。だから、竹島・松島=ダジュレー・リアンクール岩なんだ。現在の目から見てそう判断できる、というのはすでに言ったように後づけ解釈に過ぎない無意味なものです。
じゃ、政府が「磯竹島略図」など提出文書以外の地図を見た証拠を出せ。これは小学生の論理でしょう。
私は、当時の政府の見方を整合的に考える、ということ。とりわけ上に記したような流れからして、あるいは地図に記された両島の認識から考えるときに、当たり前に竹島・松島=アルゴノート・ダジュレーの位置で考えられたとしか取りようがないと考えています。
内藤氏については、個人的にはちゃんとした学者でいらっしゃると思っていたのですが、かなり失望しました。今回の反論には学者としての謙虚さも、議論の本質をとらえる真摯さも感じられなかったからです。残念でした。
私は内藤氏をかなり高く評価していたのですが…。無念です。
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/16132.html
訂正
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/01/14 13:53 投稿番号: [16131 / 18519]
>
磯竹島略図において、「隠岐後福浦より松島を距る乾位80里許」と記されています。隠岐とリャンコ島の距離は約160km・隠岐とダジュレー島は約250kmですから、1里=4kmとすれば、80里=240kmとなり、磯竹島略図の松島がダジュレー島を示していると解することに支障はありません。
磯竹島略図において、「隠岐後福浦より松島を距る乾位80里許」と記されています。隠岐とリャンコ島の距離は約160km・隠岐とダジュレー島は約250kmですから、1里=4kmとすれば、80里=320kmとなり、磯竹島略図の松島がダジュレー島を示していると解する方が、磯竹島略図の松島をリャンコ島と解するよりも有力です。
これは メッセージ 16130 (take_8591 さん)への返信です.
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