竹島

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それにしてもスゴイこじつけ。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 18:44 投稿番号: [1560 / 18519]
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  李は、住民の話等から、于山島の名前を鬱陵島「近傍」の小島or鬱陵島本島として確認しました。
  晴れた日に登って、「鬱陵島近傍に島がないこと」を確認しました。つまり、輿地勝覧の言うところの于山島が、鬱陵島本島or近傍の小島の別名以外にあり得ないことを李は確認したのです。
  史実は「近傍の小島以外に輿地勝覧のいう于山島に該当する島はなかった」です。
  そしてこの結論(笑)↓

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。

理解不能

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 15:37 投稿番号: [1559 / 18519]
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ここで住民の話を整理してみよう。于山が島を指していることも明らかです。どう見ても、転んでも↓ですね。

<「中立」の視点>
鬱陵島近傍の小島の呼び名=竹(島)、松(島)、于山(島)

  しかし、半ケツさんにはこの住民の話が「鬱陵島、松竹島以外に于山島がある」と聞こえるらしい。(笑)
  この小島が、観音島を指すのか、松竹島と推定した小島(chukdoでしょう)を指すのかは不明です。しかし、松竹島及びこの小島が、鬱陵島の「近傍」であることには変わりがありません。

  そして李は律儀にも、王の三島説に起因する「近傍の小島以外の島」を確認するため、高台に登った。その結果が「ひとかけらの石も一握りの土もなかった。」です。そんな島は存在しなかった。済州の例えも入れて、「近傍の島以外の島」の存在をはっきりと否定しているのですね。

  何の具体的な記述をあげることなく、于山島の存在を認識していたと盲目的にとらえる人がいますが、それは半ケツ式の飛躍というものです。
  その論法を推し進めると、登ってまで確認し、「鬱陵島近傍の小島以外の島」の存在を否定し、出発前に認識していた松竹島を「一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」とした李の報告をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

  もう一度書きます。史料には、李及び住民が鬱陵島「近傍」の小島又は鬱陵島本体以外に「芋山島」を推定した記述は一切ありません。
  この報告を受けた王が再度疑問や再調査を呈した史料がない限り、于山国(島)には「鬱陵島近傍以外に島はない」との李の報告に王も同意したと考えて差し支えないでしょう。

もっと変だな.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/24 07:56 投稿番号: [1558 / 18519]
考えてみれば,更に変だ.

>出発前に認識していた松竹島の存在

って,下記のことだけど,

>李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

という認識が,

>高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかった

ことと,そもそも矛盾するのか?距離は30数里(1.2km)の小島なら,
ちゃんと有るだろう.

>下条うんぬんといった

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/24 07:44 投稿番号: [1557 / 18519]
そこ,読み飛ばしていました.これですね↓

>なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。

まず,誰が「李奎遠は于山島の存在を認識していなかった」と
短絡的に捉えているのでしょうか.少なくとも僕はこの記述は
正しいと表明していますが.

更に,論理的におかしいのは下記ですね.

>その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

上記の反論は背理法に依っていると思われますが,背理法が成り
立つためには,導き出される結論が明らかに「偽」である必要が
ある,と高校で習いました.

「李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまった」
という命題は,明らかな「偽」なんでしょうかね.

背理法の結論に議論の対象を持ってきてどうする.

校正やり直し.

> 『高宗実録』と鬱陵島検察の校正

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/24 01:34 投稿番号: [1556 / 18519]
何も変えてないじゃん。下条うんぬんといった理論にならない言い訳と国・島の話を追加しただけかな。まさに半ケツ式。

「自称」中立かつ、史料解釈能力があるけれども、見落としが玉に瑕のnochonggakkちゃんの意見が、重ね重ね聞きたいな〜。

これも反論しとこ.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/23 22:46 投稿番号: [1555 / 18519]
誰かJAVAで自動応答ソフト作ってくれないかなあ.

>その一方で明治政府はこれらの島、鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を日本領として認識することは一九〇五年までほとんどなかった。

嘘吐き.松嶋之議読んでるくせに.どうして鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を
同列に語るかな.

>然ルヲ洋客竹嶋ヲ認テ松嶋ト為シ更ニ竹嶋ナル者ヲ想起セシ者ノ如シ而テ此ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=911

師匠と一緒に自爆してみる?

>『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正)

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/23 21:06 投稿番号: [1554 / 18519]
別に校正しなくてもいいんですけど.どうせ無駄だし.
どっちを半月城通信に掲載してもいいんですけど.
どうせ半月城通信だし.

でも反論はしておきます.あなたの投稿は放っておくと有害なので.

>すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

というからには,鬱陵−于山のケースと済州−耽羅のケースとでアナロジーが
成り立つ必要があります.判りやすく言うと,鬱陵−于山について述べた真の
命題の,鬱陵に済州を,于山に耽羅を代入しても真である,ということです.

代入してみましょう.

于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

代入 → 耽羅国=済州島+??島+耽羅島

????

耽羅国って,済州島と耽羅島(ともう一島)から構成されていたんですか?

正しいアナロジーは以下です.

耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+近傍の小島


どちらの説の方が説得力が有るのかは,ROMの皆様に判断して頂きましょう.

島名の混乱と竹島=独島認識3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:22 投稿番号: [1553 / 18519]
  その一方で明治政府はこれらの島、鬱陵島とリアンクール島(竹島=独島)を日本領として認識することは一九〇五年までほとんどなかった。それを物語るかのように、明治政府が国家事業として制作した地図は一八九四年に民間から『大日本管轄分地図』として発刊されたが、そこに両島は記載されなかった(25)。これは、島嶼など水路の測量を担当した海軍がリアンクール島などを日本領でなく朝鮮領として認識していたためであろう。
  海軍が同島の領有をどのように考えていたのかは、九二年以降発刊されるようになった海軍の『日本水路誌』『朝鮮水路誌』により知ることができる。堀によれば『日本水路誌』の扱う範囲は、日本の領土・領海に限定されていた。そこには九五年の下関条約による日本の新領土である台湾や澎湖島、さらには千島列島北端の占守島まで載せられているが、反面、台湾の対岸やカムチャッカ半島は全然含まれていない。また、リアンクール島にも全く触れていない。
  他方、海軍の『朝鮮水路誌』九四年版と九九年版には、鬱陵島と並んでリアンコールト列岩が載せられている。つまり、十九世紀末に日本海軍の水路部当局が竹島=独島を朝鮮領と認識していたことは、疑いのないところである(26)。

(20)堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集』第二四号、一九八七年、一〇四頁
(21)川上健三、前掲書、一二頁
(22)北澤正誠『竹島考證』(復刻版)エムティ出版、一九九六年、一九〇頁
(23)同右書、二五三頁
(24)同右書、二七三頁
(25)清水常太郎『大日本管轄分地圖』一八九四(影印版、日本地圖選集刊行委員會『大日本管轄分地圖』、人文社、一九九〇)
(26)堀和生、前掲稿、一〇六頁

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

島名の混乱と竹島=独島認識2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:21 投稿番号: [1552 / 18519]
  こうした島名の混乱が始まるなかで、鬱陵島開拓の目的で「松島開拓の議」「松島開拓願」などが外務省に、「竹島渡海之願」が東京府に七六年から七八年にかけて相次いで提出された。
  このなかで「松島」開拓願いを受けた外務省は、「松島」なる島の所在をめぐって混乱した。記録局長の渡邊洪基は「其松島『デラセ』嶋ナル者ハ本来ノ竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名『ホル子ットロックス』ナルカ如シ」と述べ、開拓願いの松島は古来の竹島(鬱陵島)であり、古来の松島はホルネットロックス(竹島=独島)であろうと推測していた(22)。
  一方、公信局長の田邊太一は開拓願いの松島を「朝鮮ノ鬱陵島」と断定し、開拓願いに却下の意見を付した。ただし「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べ、古来の松島は鬱陵島付属の于山島であると理解していた。
  このように、外務省では古来の松島と開拓願いの松島をおおむね見分けていたようだが、誰も確信を持てない状況であった。それを明確にするために実地調査しようとする意見が根強くあった。しかし、これは朝鮮領を巡視することになり、外交上好ましくないとする田邊太一局長の次のような意見により一時保留となった。

  「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ 文書往復ノ末 永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ 今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム 此ヲ他人ノ寳ヲ數フトイフ 況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類シ 我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カン事 尤交際家ノ忌ム所ナルベシ(23)」

  保留になった「松島」の実地調査は、やっと八〇年(明治十三)年になって軍艦天城を廻航して行われた。その結果「松島」は元禄時代の竹島、すなわち朝鮮の鬱陵島で日本の版図外であることが判明し、外務省はこう結論づけた。

  「明治十三年 天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ 其地ニ至リ 測量シ始テ松島ハ鬱陵島ニシテ 其他竹島ナル者ハ一個ノ岩石タルニ過キサルヲ知リ事始テ了然タリ 然ルトキ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ 古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ(24)」

  報告書で竹島は鬱陵島近辺の「岩石」にされてしまったが、これを契機に日本では鬱陵島が公文書でも次第に松島と称されるようになった。それだけ古来の松島(竹島=独島)は存在感が薄かったのである。その結果、古来の松島は本来の島名を失ってしまい、かわりに欧米名そのままにリアンコールトあるいはリアンクール、リヤンコ、ホーネットなどと称されるようになった。
(つづく)

島名の混乱と竹島=独島認識1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/22 22:20 投稿番号: [1551 / 18519]
   半月城です。
   前回予告したように、今回は島名の混乱について書くことにします。これは、以前書いた竹島=独島問題レビューのつづきにあたります。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三   島名の混乱と「松島」開拓願い

  元禄時代の竹島渡海禁止令以降、日本から松島、竹島への渡航は密漁などをのぞき途絶えたので、次第に両島の所在があいまいになりだした。明治時代、文明開化で日本が欧米文化を積極的に取り入れるようになると、両島に関する欧米の間違った地図が流入するようになり、ついには松島、竹島の島名すら混乱する事態に発展した。
  混乱の遠因は、一七八九年、イギリスの探検家コルネットが鬱陵島の位置を本来より朝鮮寄りに見誤ったことにあった。コルネットはそれをアルゴノート島と名づけたが、この誤った知識にもとづき作成された地図がのちに日本に混乱をもたらした。
  正しい鬱陵島の位置は、欧米では一七八七年にフランスの軍艦により確認されており、確認者にちなんでダジュレー島と命名されていた。結果的にひとつの島が二島と認識され、ふたつの名前がつけられてしまった。
  やがて、アルゴノート島は存在しないことがロシアの軍艦パルラダ号により一八五四年に確認された。この確認に、じつに六五年もの歳月がかかったのである。絶海にある無人島の正確な位置の確認は、一九世紀なかばになっても容易ではなかった。

  アルゴノート島が存在しないことが確認される前、日本になじみの深いシーボルトはそれらを別々の島と考え、あわせて古来の日本地図を参照し、朝鮮寄りとされた架空の島を「Takasima I.Argonaute(ママ)」、本来の竹島(鬱陵島)を「Matsusima I.Dagelet」と記入した誤りの地図を一八四〇年に作成した。当時、欧米の地図で竹島=独島はまだ知られていなかったので、シーボルトの比定はやむを得ない面もあったが、この誤りが島名の混乱に拍車をかけた(21)。
  一方、竹島=独島が欧米で知られるようになったのは、一八四九年、フランスの捕鯨船リアンクール号による確認が最初であった。ついで、一八五五年、イギリスのホーネット号によっても確認された。これから同島は、のちにホーネットとかリアンコールト、リアンクール、リヤンコなどと呼ばれるようになった。こちらは位置の測定が正確だったのか、別々な島として認識されることはなかった。

  こうした知識は、日本遠征をもとに一八五五年に作成されたペリー提督の「日本近域図」やハイネの「中国 日本近海図」に反映され、三島(実質は二島)は和訳で「アルゴノート 存在せず」「ダジュレー マツシマ」「ホーネット 一八五五」と記入された。ここで竹島の名前が松島に入れ替わってしまったが、ペリーたちの情報はまだしも正確なほうで、ほかの欧米地図では架空のアルゴノートが一八九四年ころまで存在し続けたものもあった。
  そうしたまちがった欧米の地図に惑わされ、日本でも鬱陵島を松島、架空のアルゴノートを竹島と記入した地図が次第に出回るようになった。そうした地図の一方で、もちろん従来どおり鬱陵島を竹島、竹島=独島を松島と正しく記した地図も多数存在した。これらは、江戸時代後期を代表する長久保赤水の『日本輿地路程全図』の系統によるものである。ほかにアルゴノートを記載しないものの、欧米式に鬱陵島を松島と記した地図などもあった。以上のような混乱の結果、竹島は鬱陵島を指したり、架空のアルゴノートを指したりまちまちであった。同様に松島は竹島=独島を指したり、鬱陵島を指したりした。
(つづく)

韓国が日本を侵略している

投稿者: lu5mf8vd7xw 投稿日時: 2003/03/22 18:05 投稿番号: [1550 / 18519]
竹島は日本の領土です。どんな経緯があるにしろ、これは国際法上正しいことです。

この日本の領土に対しての韓国の行為は侵略以外の何者でもありません。

けれども、日本人の多くはこの事実を知らないのです。政府やマスコミはもっと国民に知らせる義務があります。

国民の多くがこの事実を知り、世論が形成されるのを望みます。

『高宗実録』と鬱陵島検察3(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 21:00 投稿番号: [1549 / 18519]
   実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

   他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました。その過程で李は島においてマジョリティである全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。
   日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
   鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにしますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれていくことになった。
   83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。
   その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わったが、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加した。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命されたのである。
   このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまった朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおいおいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。これが朝鮮の後の行政に受けつがれましたが、その詳細はあらためて記すことにします。

(注1)『啓本書』
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無觶導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
(注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P97

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:59 投稿番号: [1548 / 18519]
   王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
  王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島

   単に鬱陵島というと、鬱陵島本島をさす場合と于山島など付属の島を含めていう場合のふたとおりあったことがわかります。つまり、于山島と松竹島は鬱陵島の付属扱いにされる場合がありました。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われ注目されます。
   1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを住民の伝聞という形で確認しました。王の3島認識は島に住む住民の証言で裏づけられたことになります。
   なお、文中に「耽羅」が登場しますが、済州島の別名である耽羅は高麗に吸収された耽羅国をさします。ここで注意すべきは、耽羅は国名であり島名ではありません。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ており、于山は鬱陵島の別名になりました。それらを整理すると、この時代の認識は下記のようになります。

  耽羅国=済州島+近傍の小島
  于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

   結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの踏査は行われず、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
   なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。
   その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。
(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察1(校正)

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:57 投稿番号: [1547 / 18519]
   半月城です。
  「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
   ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
   1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければならない。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにする。
   考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりである。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきである。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがであろうか。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この提案は承認され、検察使の李奎遠は王に召されましたことが『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への提言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
   さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」

  李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察の校正

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/21 20:53 投稿番号: [1546 / 18519]
   半月城です。私の書き込みに対していただいたコメントを参考に<『高宗実録』と鬱陵島検察>を校正しましたので以下にアップします。後日、こちらを半月城通信に転載します。

浦島太郎の感想

投稿者: nochonggakk 投稿日時: 2003/03/19 10:13 投稿番号: [1545 / 18519]
しばらく日本を離れているあいだに随分と話が展開していたので、なかなかフォローするのが大変ですね。
『日本海と竹島』は未入手ですが、例示された部分を読むだけでも、史料を読む訓練がされていないように感じます。2800円出して買うかどうか考えどころです。
前近代の鬱陵島については、李奎遠の「鬱陵島外図」を参照するのが良策だと考えます。私は鬱陵島には2回だけ渡航しました。といっても島に滞在したのは通算しても四泊だけですが。聖人峰の山頂にも行きましたが、別に登山用具を持参したわけでもなく、ジーンズにスニーカー履きでした。島の周囲を1時間ほどで巡る観光遊覧船が日に二回就航していて、これも二度乗船しました。海上から鬱陵島の周囲を眺めた感想は、李奎遠「鬱陵島外図」の様相がそのままに遺されているということです。ただ、とにかく島内の道路事情が悪いので島の周囲の海岸を徹底的に埋め立てて周回道路を建設中でしたから、遠からずそうした観察が出来なくなるものと思います。なお、鬱陵島にある独島博物館にも数回足を運び、学芸員の方とお話しをしましたが、展示の一部は歴史的事実とははなはだ相違が目立ち、残念でした。博物館とはいっても、サムスンかどこかの寄付で建設された民間施設でもあり、プロパガンダの役割をさほどでていないのではないかという懸念も感じました。ただ、近代史料の複製品(主として外務省外交史料館の史料・国会図書館の新聞史料)は大量に集められていて、執念だなあ、とも感じました。

>>成宗実録の解釈について

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/03/18 11:20 投稿番号: [1544 / 18519]
レスありがとうございます

>正直、これ以上調べるには、現地に行くしかないという感想です(笑)

全く同感です。実は私も最近特に鬱陵島と竹島に行って自分の目でいろいろ確かめたくなってきました。また単純に鬱陵島って魅力ある島だなあ、なんて思ってます。

>私は西は泊まっただけで、望み見るにはかかってないと考えます。東に移動し、観音島付近から北から南へ一望したとの認識です。そうすると、順番が、中島の西の島だけ異なってきます。これは、他の島が目前に見えたが、西の島だけ奥まって見えたせいだと考えます。

なるほど、それも可能ですね、この辺の解釈は他の方の意見も参考にしたいですね

>   韓国のサイトをあれから調べたのですが、観音島を東からみた写真は確認できませんでした。観音窟という洞窟があるのは確認できましたが・・・。浸食を受けやすい地質なのでしょう

南に岩が無かったとしても、文章の記述順序がそこまで正確だったかという疑問もありますね

解釈の一説としては孔岩なんてのは?これはちょっと苦しいですか(笑

http://member.nifty.ne.jp/VEA02651/ullungdo_2.htm

>成宗実録の解釈について

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/18 01:46 投稿番号: [1543 / 18519]
正直、これ以上調べるには、現地に行くしかないという感想です(笑)

■疑問2
<llllowollllの見解>
島の北に、3つの岩が列立しているのが見えた。また次に行くと小島があり、次には巌石列立し、次には中島がある。中島の西にはまた小島がある」
と読めば、上述の疑問は解消される

私は西は泊まっただけで、望み見るにはかかってないと考えます。東に移動し、観音島付近から北から南へ一望したとの認識です。そうすると、順番が、中島の西の島だけ異なってきます。これは、他の島が目前に見えたが、西の島だけ奥まって見えたせいだと考えます。

■疑問3
・観音島とチュクドの間に「巌石列立」しているのか?

<llllowollllの見解>
・実はこれが一番の疑問です。henchin_pokoider01 さんの以下発言にある、観音島のすぐ南に小さな島or岩が本当に実在していれば問題ないのですが、、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835 396&mid=1514

  韓国のサイトをあれから調べたのですが、観音島を東からみた写真は確認できませんでした。観音窟という洞窟があるのは確認できましたが・・・。浸食を受けやすい地質なのでしょう。

--------------------------------------------------------
成宗実録には関係ないのですが、鬱陵島の写真を見ていると、海岸沿いの山がかなり切り立っていることがわかりました。今まで、鬱陵島から竹島が見えるかの議論で、鬱陵島の最高峰を前提にしてましたが、登山の装備も貧弱な時代に、最高峰に登れたのかという疑問が出てきました。これも現地でないと検証できないのでしょうが。

再掲:世界鬱陵滞在記

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/03/18 01:24 投稿番号: [1542 / 18519]
鬱陵島という島についての最も古い記録は三国史記の記述である

-------------------------------------- -
三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟 州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難で あることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人 たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させるこ とができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、 偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
-------------------------------------- -

一見、問題の無い記述のように見えるが、よく読めば重要なポイントがあることに気づかれるかと思う。

それは、于山国すなわち鬱陵島の住民は朝鮮半島の国家、民族から見て異民族の支配する土地であったという事実である。
古代において、朝鮮半島の民族と違う民族であり、日本海で勢力を持った民族、というと、答えは自明であろう。

また、もう一つ重要なポイントは三国史記が作られた時代とその背景である。
三国史記は1145年に編纂されたと言われている。これは、既に高麗王朝の時代であり、512年からは数百年後の時代の記述である。また、史書が編纂される理由としては国家としてのidentityを強固にする必要に迫られたという背景があることも見逃せない。

高麗史にも以下の記述がある。

-------------------------------------- -
『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百 里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣 わし、貢ぎ物を献上した。
・・・
一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができ る。
-------------------------------------- -

奇妙なのは『一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。』という記述である。
仮に竹島のことであると仮定しても「遠く」ないと言う表現にはならないはずである。

これは即ち高麗史編纂当時には、まだ実効的支配が及んでいなかったと考えるのが自然である。

また、高麗時代に鬱陵島の存在を認知していたとしても、支配がその後継続されたかどうかという点が問題となるのは当然のことである。

李氏朝鮮と高麗王朝の間には儒教の国教化や仏教文化の弾圧に代表されるように、文化や政治の面での断絶があるのは歴史を少し学んだ人には周知の事実であろう。

事実、李氏朝鮮は鬱陵島に空島政策を実施し、実効的支配を放棄している。
このとき、鬱陵島は国際法で言う「無主の地」となったわけである。

上記の歴史的経緯と、実効的支配の期間を考慮すれば、鬱陵島の領有権については、一般的な見解とされてきたものとは異なる見解が、実は正当なものであると結論付けることができる。


(shoudoshima通信)

成宗実録の解釈について

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/03/18 01:04 投稿番号: [1541 / 18519]
henchin_pokoider01 さんのおかげで、成宗実録の解釈について、ほぼ、三峰島=鬱陵島であることが確認されたと思います

【成宗実録72巻 世宗7年10月丁酉】
前略
西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇
後略


少なくとも現時点において、もっとも特徴的と思われる「島北にある三石列立」の解釈において、圧倒的に三峰島=鬱陵島派に説得力があるので、その点において、既に三峰島=現竹島解釈は成り立たないことに違いはありません

三峰島=鬱陵島派 > サムソナム(三仙岩)

-- サムソナム(三仙岩)http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/photo/samsunam.jpg

三峰島=現竹島派 > 東島東端にある一風穴(独立門岩)、もしくは上空からみてアルファベットの3に見える平たい岩

-- 独立門岩写真   http://www.idokdo.or.kr/html/dataroom_text_dokdo13.html


ただし、確かにいくつか疑問もあるので、ここでその見解を明確にしませんか?
韓国領派と違って、日本領派は主張と関係なく資料と事実をきちんと検証することを明らかにしましょう(笑

■三峰島=鬱陵島派の見解(llllowollllの認識)

・有三石列立=サムソナム(三仙岩)
・次小島=観音島
・次巌石列立=観音島のすぐ南に小さな島or岩?(不確実)
http://magicseed.nayana.cc/date/images/map.jpg
・次中島=竹嶼(チュクド)
・中島之西又有小島=チュクド南西、鬱陵島東岸中央にある小島
http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/pic/urd_map.gif
http://myhome.shinbiro.com/~shkimhp/urd/photo/jukdo_jd.jpg


とりあえず以上のとおり認識してます。間違いないですか?>henchin_pokoider01 さん


さて、現時点での疑問点は以下のとおりです

■疑問1
・端っこなのに中島? (師匠発)

<llllowollllの見解>
・鬱陵島=大島という認識が当然存在すると思われるので、次に大きな竹嶼が中島と比定されるのは非常に自然である

■疑問2
・西距島七八里許到泊 望見則   とあるので、サムソナム以外の観音島、チュクドなどは見えない

<llllowollllの見解>
・確かに停泊した位置で望み見ることは出来ないと思われる。ただし、この文章を解釈すると、望み見えるのは「於島北 有三石列立」までで、それ以降は「次**、次**、、」と表現しているので、位置関係を記しているものと解釈できる
つまり、「島の西方七八里に船を止め、望み見たところ、島の北に、3つの岩が列立しているのが見えた。また次に行くと小島があり、次には巌石列立し、次には中島がある。中島の西にはまた小島がある」
と読めば、上述の疑問は解消される

■疑問3
・観音島とチュクドの間に「巌石列立」しているのか?

<llllowollllの見解>
・実はこれが一番の疑問です。henchin_pokoider01 さんの以下発言にある、観音島のすぐ南に小さな島or岩が本当に実在していれば問題ないのですが、、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=1514

■疑問4
・中島之西又有小島に関して、鬱陵島東岸中央にある小島は西ではなく南よりである

<llllowollllの見解>
・西方であることに間違いはないので、特に問題は無いのでは?


いくつか疑問点と勝手な見解を述べてみました。ぜひご指摘お願いします。

狡猾さの正体

投稿者: blastahff 投稿日時: 2003/03/17 22:53 投稿番号: [1540 / 18519]
についての考えです。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdcbfma4oi4baqa4aba4imha4bfa4na4a ba1a9&sid=1835396&mid=6758&thr=6737&cur=6737&dir=d

>半月城さんって

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/17 21:55 投稿番号: [1539 / 18519]
かわいそうな人だから、生暖かい目で見守ってあげましょう。
笑いのネタ及び史料提供マシーンと理解しておきましょう。

>>続きはあるのかなあ.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 20:40 投稿番号: [1538 / 18519]
nochonggakk 氏ですか.

安龍福が見た島を隠岐と判断するのは無理があるんじゃない? と
言いつつ,現竹島と判断することには異論無しの彼ですね?

どう考えても半月城氏の別HNじゃないでしょうか(笑)

>続きはあるのかなあ.

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/17 18:39 投稿番号: [1537 / 18519]
 ---------------------------------- -
少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
 ---------------------------------- -

とありますから、続きは勅令に行くのではないでしょうか、以下のような小説かと霊視します。

------------------------------
さて、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったところで、その後の近代法に基づく領土編入を1900年の勅令で行いました。勅令では、松竹島を石島としておりますが、これは、当時の漁師が独島を石島と呼んでいたためです。
------------------------------

ここで、「一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」との記述が、200里以上離れた、岩石の島「独島」にワープします。プリンセス天功も真っ青のillusionです。(kunitaka氏のHPでは、10里になってるけどどっちが正しいのやら。朝鮮の1里って0.4kmではなかったっけ?)

  あと、今回の半ケツ氏投稿について、中立で史料解釈の力量があるけど、重要な部分を読み飛ばしてしまう、おっちょこちょいなnochonggakk氏の感想もお聞きしたいですな。





百済トピでも

投稿者: chonkanchigaiyarodomo 投稿日時: 2003/03/17 15:17 投稿番号: [1536 / 18519]
  唯我独尊を貫いているようです。

  書いてある内容はコピペレベル。

  長々と書いてあるが、議論に参加しないので、結局の所、資料の羅列にすぎず、なにが言いたいのかサッパリわからない。

  確か半月城氏は読売に連載をしていたはず。
  向こうで相手にされなくなったら、ヤフーに来るのでしょう。

師匠とは芸風が違うということでしょう.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 15:04 投稿番号: [1535 / 18519]
議論の中で変幻自在に主張を変える師匠に対し,どんな資料から
でも「整理すると」「要約すると」「わかり易く解説すると」
(以上全て,それはさておき,の意味)という言葉を駆使して
予定通りの結論に持っていき,反論には全て無視を決め込む
半月城氏.芸の領域を住み分けてるということでしょう.

主張のためなら正しい資料解釈なんかどうでもいい,という点は
共通していますが.

続きはあるのかなあ.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 14:59 投稿番号: [1534 / 18519]
さて,鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が
明確になったところで,

とか言って,続きを書くんでしょうか.
実はわくわくしてたりして.

半月城さんって

投稿者: damister1200da 投稿日時: 2003/03/17 14:40 投稿番号: [1533 / 18519]
全然議論に参加しませんね。
ただの言いっぱなし野郎って感じですね。

というか確信犯なんですかね?

これも笑える。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/17 14:20 投稿番号: [1532 / 18519]
そして、胡散臭さを誤魔化すために、鬱陵島開拓の話しを間に挟み、頁を変えて、最終結論。

------------------------------------
この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。
------------------------------------

これなに?半けつさんの脳味噌内に限り、明らかになったようです(笑)

やはり狡猾でしょう.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 13:22 投稿番号: [1531 / 18519]
うまくいかないから滑稽になるだけで(笑)

>「やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります」こう思ったのは誰でしょう?

半月城さんですよね(笑)

李は終始,鬱陵島=于山島という疑いを捨てていません.それを
確認するために高台に登って,最終的な判断を下したのでしょう.

それにしても,これも凄いですね↓

>結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの、その位置はあいまいなままでした。

「すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとく
である」と明確に言ってるのになあ.どこがあいまいなんだろう.

狡猾ではなく滑稽でしょう。

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/17 12:54 投稿番号: [1530 / 18519]
これもね。
   ---------------------------- -
李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを伝聞の形で確認しました。やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります。
   ---------------------------- -
  史書の記述の間に、出所不明な記録(推定?)を、いかにも事実のように書く(住民の話)、それを根拠に断定的な推定が行われる(王のほうが正しい)。正史のみから、その答えが導きだされたような印象を与える。
  あと、文の主語、主体を曖昧にしているのも特徴。「やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります」こう思ったのは誰でしょう?半ケツさんですか?前の李が主語の文章と繋げることにより、李がそう思ったような印象操作を行う。

ここで、もう一度、史書の李の記述に立ち返ると、あら不思議!!李は于山島が鬱陵島であると断言している。登って確認し、済州のたとえ話まで入れて、于山が鬱陵の別名であると言っている。王のほうが正しかったなんて記述は一切ない、類推することも困難。Miracle!!

前に昔から歌にうたわれていたというのもあったな〜(笑)

よく読むと狡猾です.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 11:56 投稿番号: [1529 / 18519]
これは一種の才能ですね.味わってみましょう.

>なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、もちろんこれは誤りで、目視しなかったことと認識していないこととは別です。李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

上記の文章は全く正しいです.于山島の存在を認識していたからこそ,
高台から捜したのです.何故于山島の存在を認識したのかというと,
検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認したからです.

ただし,高台から捜した結果,島影が見付からなかったので,
于山島とは鬱陵島のことを指すのだ,と結論付けたわけです.

つまり,なんとなく疑問に感じている読者に対して,実は論点と
関係無い別の事実(事実であることが重要)を指摘して煙に巻いて
いるわけですね.

見事です.

普通に整理すると

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 08:03 投稿番号: [1528 / 18519]
っていうか,整理する必要も無いんだけど.

>鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

鬱陵=于山
済州=耽羅

それとも,半月城氏の言う「整理」って,別の意味なのかしらん.

凄いなあ.

投稿者: yusura_sdhk 投稿日時: 2003/03/17 07:57 投稿番号: [1527 / 18519]
半月城さんも芸風炸裂ですなあ.特にこれが凄い↓

>松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

>(注)
>文中に「耽羅」が登場しましたが、これは高麗に吸収された耽羅国をさします。のちに耽羅国は済州島の別名になりました。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ていますが、

ここまではOK.凄いのはここから.

>整理すると両国は下記のようになります。
>
>   耽羅国=済州島+近傍の小島
>   于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

于山島なんか無い,と耳元で言われても聞こえないんだろうなあ.
凄いなあ.
見事だなあ.

師匠と仲良くしてくれ.

今回はとびきり苦しいね〜

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2003/03/17 02:01 投稿番号: [1526 / 18519]
っていうか、意味不明なんだけど。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」
  李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」
  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」
  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


  王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
王   鬱陵島、芋山島、松竹島
李   鬱陵島=芋山島、松竹島=竹嶼島

  そして、2回目の李の報告に対して王は、再調査を命じませんでした。即ち、李の報告に暗黙の了解をしたことになります。
ここで、
王、李   鬱陵島=芋山島、松竹島=竹嶼島
と認識が一致致しました。


        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  そして、晴天の日に確認したところ、周りに島がないことがわかりました。耽羅、于山の両国を整理すると下記のようになります。
  耽羅国=済州島+近傍の小島
  于山国=鬱陵島+近傍の小島(竹嶼)


少なくとも19世紀末ころに于山が、鬱陵島+竹嶼と確認されたことがはっきりしました。

『高宗実録』と鬱陵島検察3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:08 投稿番号: [1525 / 18519]
   鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにしますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれていくことになった。
   83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。
   その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わったが、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加した。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命されたのである。
   このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまった朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおいおいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。

(注1)『啓本書』
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無觶導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
(注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P97

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

『高宗実録』と鬱陵島検察2

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:06 投稿番号: [1524 / 18519]
   王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
  王(3島認識)、鬱陵島、芋山島、松竹島
  李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島

   これを見るかぎり、陸軍所属の李奎遠は出発前に東海にある島の実情をよく知らなかったとみえます。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われます。
   1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを伝聞の形で確認しました。やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります。
   なお、文中に「耽羅」が登場しましたが、これは高麗に吸収された耽羅国をさします。のちに耽羅国は済州島の別名になりました。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ていますが、整理すると両国は下記のようになります。

  耽羅国=済州島+近傍の小島
  于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

   結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
   なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、もちろんこれは誤りで、目視しなかったことと認識していないこととは別です。李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

   他方、李奎遠の本来の踏査は詳細になされました。その過程で島に住む全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:03 投稿番号: [1523 / 18519]
   半月城です。
  「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
   ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
   1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければなりません。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにします。
   考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりです。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきです。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがでしょうか。
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   この提案は承認され、李奎遠は王に召されました。そのときの様子が『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への上言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
   さて、李奎遠は鬱陵島へ出発前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」

  李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

  王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

  李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(つづく)

竹島の位置は、

投稿者: tommy_arry_tommy 投稿日時: 2003/03/16 09:41 投稿番号: [1522 / 18519]


  ここですか。
    ↓
http://www.yeah.ne.jp/~niku/nikujiru/cgi-bin/img-box/img20030129233001.gif
 

ネタだったのか

投稿者: llllowollll 投稿日時: 2003/03/16 08:43 投稿番号: [1521 / 18519]
アラビア数字の3かあ、なるほど、今度は磁極ではなく空を飛んでみたわけだ。(笑
この人全部ネタだったんだね、、今までマジレスしたのが恥ずかしい(笑

でも今回のネタはちょっとうけましたよ。師匠!
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