竹島

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『高宗実録』と鬱陵島検察3

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:08 投稿番号: [1525 / 18519]
   鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにしますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。
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   その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれていくことになった。
   83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。
   その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わったが、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加した。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命されたのである。
   このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまった朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。
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   その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおいおいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。

(注1)『啓本書』
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無觶導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
(注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P97

   (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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