竹島

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再掲:世界鬱陵滞在記

投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/03/18 01:24 投稿番号: [1542 / 18519]
鬱陵島という島についての最も古い記録は三国史記の記述である

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三国史記巻四 智證王
13年(AD512)夏6月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。于山国は溟 州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。この島は、百里四方ほどで、それまでは交通が困難で あることをたのみとして服属しなかった。伊喰の異斯夫が何瑟羅の軍主となった。かれは、于山国の人 たちは思慮が浅くて気性が荒々しく、武力だけでは降伏させられないが、計略をもってすれば、服属させるこ とができると考えた。(そこで)多くの木製の獅子像を作り、戦船にわけてのせた。その国の海岸につくと、 偽って次のように言った。
「お前たちがもし服属しないならば、この猛獣を放って、踏み殺させるぞ」
(このことを聞いて)この国の人々は恐れおののいて、降伏した。
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一見、問題の無い記述のように見えるが、よく読めば重要なポイントがあることに気づかれるかと思う。

それは、于山国すなわち鬱陵島の住民は朝鮮半島の国家、民族から見て異民族の支配する土地であったという事実である。
古代において、朝鮮半島の民族と違う民族であり、日本海で勢力を持った民族、というと、答えは自明であろう。

また、もう一つ重要なポイントは三国史記が作られた時代とその背景である。
三国史記は1145年に編纂されたと言われている。これは、既に高麗王朝の時代であり、512年からは数百年後の時代の記述である。また、史書が編纂される理由としては国家としてのidentityを強固にする必要に迫られたという背景があることも見逃せない。

高麗史にも以下の記述がある。

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『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
鬱陵島:県の真東の海中にあり。新羅の時に于山国と称された。ときに武陵、ときに羽陵ともいう。島は百 里四方で新羅の智證王12年(ママ)に降伏した。(高麗初代)太祖13年(930) にその島民は白吉と土豆を遣 わし、貢ぎ物を献上した。
・・・
一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができ る。
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奇妙なのは『一説に于山と武陵は本来二島という。お互いの距離は遠くなく、天気が清明であれば望み見ることができる。』という記述である。
仮に竹島のことであると仮定しても「遠く」ないと言う表現にはならないはずである。

これは即ち高麗史編纂当時には、まだ実効的支配が及んでいなかったと考えるのが自然である。

また、高麗時代に鬱陵島の存在を認知していたとしても、支配がその後継続されたかどうかという点が問題となるのは当然のことである。

李氏朝鮮と高麗王朝の間には儒教の国教化や仏教文化の弾圧に代表されるように、文化や政治の面での断絶があるのは歴史を少し学んだ人には周知の事実であろう。

事実、李氏朝鮮は鬱陵島に空島政策を実施し、実効的支配を放棄している。
このとき、鬱陵島は国際法で言う「無主の地」となったわけである。

上記の歴史的経緯と、実効的支配の期間を考慮すれば、鬱陵島の領有権については、一般的な見解とされてきたものとは異なる見解が、実は正当なものであると結論付けることができる。


(shoudoshima通信)
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