『高宗実録』と鬱陵島検察2
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/03/16 22:06 投稿番号: [1524 / 18519]
王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
王(3島認識)、鬱陵島、芋山島、松竹島
李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島
これを見るかぎり、陸軍所属の李奎遠は出発前に東海にある島の実情をよく知らなかったとみえます。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われます。
1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
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于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを伝聞の形で確認しました。やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります。
なお、文中に「耽羅」が登場しましたが、これは高麗に吸収された耽羅国をさします。のちに耽羅国は済州島の別名になりました。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ていますが、整理すると両国は下記のようになります。
耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+松竹島+于山島
結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、もちろんこれは誤りで、目視しなかったことと認識していないこととは別です。李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。
他方、李奎遠の本来の踏査は詳細になされました。その過程で島に住む全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
(つづく)
王(3島認識)、鬱陵島、芋山島、松竹島
李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島
これを見るかぎり、陸軍所属の李奎遠は出発前に東海にある島の実情をよく知らなかったとみえます。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われます。
1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
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松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
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于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを伝聞の形で確認しました。やはり、王の3島認識のほうが正しかったことになります。
なお、文中に「耽羅」が登場しましたが、これは高麗に吸収された耽羅国をさします。のちに耽羅国は済州島の別名になりました。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ていますが、整理すると両国は下記のようになります。
耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+松竹島+于山島
結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、もちろんこれは誤りで、目視しなかったことと認識していないこととは別です。李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。
他方、李奎遠の本来の踏査は詳細になされました。その過程で島に住む全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
(つづく)
これは メッセージ 1523 (hangetsujoh さん)への返信です.
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