竹島

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Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2006/08/03 22:25 投稿番号: [14839 / 18519]
  te2222000さん

  残念ながら隠州視聴合記の他の部分は読んでいません。国代記の冒頭、ほぼ関連
箇所の範囲で議論しています。

  #14601
|   当該部分の文脈から判断しますと、直前に「此二島」とありますので、「此州」を
|「竹島および松島」と受けとめることに難点はありません。私のもともとの受けとめは
|ここから来ています。文脈からこう受けとめた上で、#14557は別の切り口(動機的面)から
|の検証を試みたものです。

  従って、私の議論の進め方について、te2222000さんが「主に斎藤豊仙の気持ちの面から
アプローチする手法を取っている」とするのは間違いです。ご確認ください。

  隠州視聴合記の他の部分や、斎藤豊仙の人となり、経歴について、この議論に役立ち
そうな情報が何かあれば、ご教示をお願いします。te2222000さんとの今までの議論から、
#14557,#14601による私の理解は、既に検証されたものと考えています。


  #14654
|   斉藤豊仙(地元漁民)にとって「多竹魚海鹿」こそが重要です。しかし日本の
|国境を論ずるとき、「竹魚海鹿が多いからここまでは日本である。」では、国境
|を主張する何の "正当な" 論理にもなりません。豊仙は、「竹魚海鹿が多いから
|ここまでは日本である。」とあからさまに読みとられることのないないよう割注
|にしたものと考えました。

|   このような豊仙の筋の通し方について、私は「その気持ちよく分かる」とします
|が、te2222000さんは「辻褄があわない」ので分からないとしています。

  この文章で使われている「その気持ちよく分かる」と言うために、何故、隠州視聴
合紀の通読が最低限必要なのか、分かりませんでした。ご説明をお願いします。


>私には、斎藤豊仙が、信仰心厚く隠州の歴史と風土に深い愛情を持つ一方で、
>世俗の事柄への関心はやや薄い人のように思えます。

  同様に感じています。#14614で指摘しましたが「然則日本之乾地以此州為限矣」は
控えめな表現だと思います。

                          shuku_remus

Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/08/02 06:45 投稿番号: [14838 / 18519]
shuku_remusさん

本論に戻って、一点気になったことを書きます。

shuku_remusさんは、隠州視聴合紀を通読されたことがありますか。

こんなことを聞くのは、shuku_remusさんの論証が、主に斎藤豊仙の気持ちの面からアプローチする手法を取っているからです。

斎藤豊仙の「気持ちよく分かる(#14654)」と言えるためには、斎藤豊仙という人のことをよく理解していることが前提であり、そうでなければ、単に自分の都合に合わせて斎藤豊仙の気持ちを決め付けているに過ぎません。

そして斎藤豊仙という人のことをよく理解するために、隠州視聴合紀を通読するのは最低限必要なことだと思います。

たとえばshuku_remusさんは、隠州視聴合紀において隠州各地の景勝、神社仏閣、伝承が詳しく述べられる一方で、産業その他、隠州の民の経済活動については極めてわずかな記述しかないことはご存知ですか。

私には、斎藤豊仙が、信仰心厚く隠州の歴史と風土に深い愛情を持つ一方で、世俗の事柄への関心はやや薄い人のように思えます。

Re: 軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識

投稿者: yukitanhanatan 投稿日時: 2006/08/02 04:05 投稿番号: [14837 / 18519]
誤解もなにも、まさに妄想の世界ではないでしょうか。
あなたの妄想が妄想を生み、さらに、また妄想を生んでいるようです。
過去の史実はよく調査されているとは思いますが、
史実に対する見解は想像にすぎません。書いていて思いませんか?
史実はどうであってもいいのです。
韓国の武力による竹島支配に関する言い訳を考えたほうがいいのでないで
しょうか?返す理由はあっても返さない理由はないでしょう。
もし、自主的に日本に返還したらば日本は寛大な措置をとるでしょうけどね。

Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2006/08/01 00:06 投稿番号: [14836 / 18519]
  te2222000さん   #14634 →#14593 ですね。    shuku_remus

Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: shuku_remus 投稿日時: 2006/07/31 23:02 投稿番号: [14835 / 18519]
  te2222000さん   #14634

>>>>
>斉藤豊仙の狙いは、松島(現竹島)だけについてですが、
><<<

>すみません、これ、私の認識と随分異なります。
>よろしかったら、もう少しご説明いただけませんか。

  のような質問は、混迷なく、よいプロセスであったと思います。

                          shuku_remus

Re: 竹島の領域権原

投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2006/07/31 02:03 投稿番号: [14834 / 18519]
またまた釣られる脳内妄想か(檄藁

ポイ

Re: 竹島の領域権原

投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2006/07/31 01:54 投稿番号: [14833 / 18519]
>よくわかる 隠州視聴合紀「国代記」 2006/ 6/16 0:36 [ No.14639 / 14832 ]
> 投稿者 :
>torezojp

↑TREZOJP氏が、池内敏論文の頃から領土問題に触れたがらないわけはよくわかったよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>国際法自体は、時代と共に変化している。法が変われば、領有の権原(title)も変化
しなければならない。この理論から、過去に先占していたとしても、近代の実効的支配
に置き換えられなければ、法的な根拠を失うのである。(Palmas島の判例)

1.   「Palmas島を巡る常設仲裁裁判所の判決」
・19世紀以来支配的な見解では、未成熟な権原は、合理的な期間内に実効的支配に
よって補完されなければならない。

2.   「Minquiers and Ecrehos小島群を巡る国際司法裁判所の判決」
・中世の諸事情に基づく間接的推定は証拠価値を認めない。
・司法権、地方行政権、立法権の行使に関する直接的証拠を認める。
・直接的証拠とは、刑事裁判の実施、教区税・地方税の徴収、ECREHOS   岩礁を
ジャージーの範囲内に含めて扱った措置等である。

3.   「Ligitan and Sipadan島を巡る国際司法裁判所の判決」
・インドネシア及びオランダの両島周辺域の調査は、同島の実効的支配と認められ
ない。
・両島におけるインドネシア漁師の活動は、個人的なものであり実効的支配と認め
られない。
・1917年の法律に基づいマレーシアの両島における海亀保護活動は、実効的支配
と認める。
・マレーシアが1960年代に両島に灯台を建設し、インドネシアが抗議を表明すること
なく、維持していたことを実効的支配と認める。
http://212.153.43.18/icjwww/idocket/iinma/iinmacontent.htm

>竹島はどちらの領土か
2005年 03月 19日

http://kuyou.exblog.jp/1764655/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Tanaka_Kunitaka 氏の一連のHP整備の動きは、竹島の領域権原(title)の
エヴィデンスの補完だね。

中世の諸事情に基づく間接的推定は証拠価値を認めない以上、「松島伺い」
以後の国家主権の確立、すなわち司法権、地方行政権、立法権の行使に関
する直接的証拠の補完の時系列に基づくHP整理の目的だったのいか。

今回はブログ等含めて   kana_ikeuchi   さんにすっかり教えられたな。降参。。。。。

Re: 明治政府の島名…(質問です)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/31 00:42 投稿番号: [14832 / 18519]
>西洋人がアルゴノート島と言う島の和名は竹島である。西洋人がダジュレー島と言う島の和名は松島である。そういう意味ですか。

日本では二島認識がありましたから、それが地図において三島になったときに混乱が生じ、それぞれの島に名前が比定されたわけです。

>西洋人がアルゴノート島と言う島の、地図上の和名は竹島であり、西洋人がダジュレー島と言う島の、地図上の和名は松島である。

和名というのはちょっと合わないような気がします。

>1877年の太政官の役人が、現・ウルルン島の当時の正式名称は松島だけれど、旧称あるいは俗称が竹島であることを知っていたとしても、何も不思議は無いと思います。

それを裏付ける根拠があれば、の話です。私は知らないのですが、1877年に太政官が鬱陵島の正式名称は松島であるが旧称・俗称が竹島であることを知っていたとする根拠は何ですか。

むしろ、周辺の資料は1878年まで、それを確定できない状態であったことを示すものばかりです。外務省の甲論乙駁がその象徴とも言えるでしょう。

>ahirutousagi2様説では、太政官判断は名称の一致を最重視して、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の竹島・松島と理解したと解釈し、半月城様説では、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の松島・リエンコヲルトロックと理解したと解釈されているのだと思います。

私が竹島・松島をリアンクール岩と考えないのは、名称の一致というか、当時日本において「竹島・松島」がどの位置で理解されたか。それに中心がおかれています。それによって太政官判断を考えればよろしいのだと。

半月城さんはもとより、勝海舟の地図はあまり考慮対象にはされていないようですよ。

私は個人的には、
1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年   陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   太政官判断。
1878年   外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年   同上
1881年   内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1883年   太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。

という流れから、太政官の理解を整合的に考えているに過ぎません。

>大きさや点線・実線の区別を含めた地図情報等から総合的に読み取りことができる程度の読図技術を持っていたと考えるのか、その違いですね。

内務省地理局「大日本府県分轄図」が発掘されたことで、私は基本的には太政官判断における「外一島」は一件落着したとさえ思えます。

この地図をご参照いただき、太政官判断での二島が鬱陵島とリアンクール岩と理解した結果であるかどうかをご確認いただければと思います。私はその認識ではなされなかったと理解しています。

関連年譜(訂正版)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/31 00:03 投稿番号: [14831 / 18519]
半月城さんからのご指摘を受け、以下、関連年譜を訂正しました。

1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年   陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   太政官判断。
1878年   外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年   同上
1881年   内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島…半月城さん「偶然の一致」)
1881年   内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年   鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年   鬱陵島渡航禁止
1883年   太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。

Re: 軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/30 23:52 投稿番号: [14830 / 18519]
>前回も書いたように、太政官や外務省の公文書における欝陵島の名称は「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」で終始一貫しています。(中略)日本ではその島を竹島と呼ばず、竹嶼と呼んでいたことが明瞭です。

ご指摘を有難うございます。私は従来より天城で鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と調査された一方で、後にどうして「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」と記されたのか謎だったのですが、氷解しました。

私が竹嶼=竹島と理解したのは「天城艦乗員海軍少尉三浦重郷等廻航の次松島に至り測量し其地即ち古来の鬱陵島にして其北方の小島竹島と号する者あれ共一個の岩石に過ぎさる旨(竹島考証, p.268)」ですが、ご指摘は受け入れたいと思います。

なお、私の論旨には全く変化はありません。

>イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかったようです。

それでよろしいかと。

>一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島についてまったく記載しませんでした。

水路部が二島について正確な認識を持つようになったのは1870年代後半からであると考えられます(堀和生も同様の理解の模様。p.105)。

>外務省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」すなわち存在しない島と認識していました。

それでよろしいかと。一方で松島は朝鮮の鬱陵島との認識もなされていたようです。

>たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。

「偶然の一致」ですか…。

「大日本全國略圖」の二島の位置がアルゴノート・ダジュレー島の位置にほぼ一致することについては「偶然の一致」で、大きな誤差のある大谷家地図が「近い」となさる視角は、ごり押しにしか見えませんよ。

>たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するのではないでしょうか。

何か勘違いなさっておられるようですが、勝海舟の地図も大谷家地図も相反するものではありません。それぞれ矛盾なしに共通の理解で考えうるものです。

内務省が大谷家地図を見て二島を勝海舟の地図の竹嶋・松嶋に比定したとしても何の違和感もありません。事実、それは「大日本全國略圖」にもつながるものです。

疑存にこだわる方もいらっしゃいますが、「大日本全國略圖」を確認する限り、勝海舟の地図の竹嶋を排除する必要はありません。アルゴノート・ダジュレー島の認識と言う点では文部省や陸軍の地図にも見られるように勝海舟の地図だけにこだわる必要もありません。

>文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。

それらの地図は、当時の明治政府の理解を考えるための傍証として提示しているもので、だからどうだと言う気はありません。しかし、これらがすべて私の理解では整合的に捉えられるのも事実です。

半月城さんの理解では文部省の地図も、陸軍の地図も、内務省の地図も、勝海舟の地図も、すべて間違いで、太政官だけは「彼らはそれほど無能ではなかった」のか正しく鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と理解したということのようですね。

半月城さんの話は、どうにも私には物語の域を出るとは思えませんよ。具体的な証拠をあげても「偶然の一致」ですし…。

相変わらず、半月城さんの問題点は解決されないようです。

竹島の領域権原

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2006/07/30 22:56 投稿番号: [14829 / 18519]
★「竹島」は日本固有の領土です
『韓国、19世紀に独島を実効的支配』 2006/ 7/29 20:51 [ No.7931 / 7935 ]
投稿者 :
deatherto
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143582&tid=a1za1vcddega1wa4offckdc8gmada4nn neza4ga49&sid=1143582&mid=7931


別トピだけど、これ読んでごらんになったら。♪
ついでに、このブログもいかがでしょう♪
http://kuyou.exblog.jp/1764655/

Re: 軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/30 21:17 投稿番号: [14828 / 18519]
   半月城です。
   誤解のないように、文中の「今日の竹島」を<当時でいう「今日の竹島」>に訂正します。

Re: 明治政府の島名…(質問です)

投稿者: lib_1964_1982 投稿日時: 2006/07/30 21:02 投稿番号: [14827 / 18519]
ahirutousagi2様、ご解答ありがとうございます。文章で理解できなかった点は「=」の意味でした。A=Bと書いた場合は、Aと言う名称の島の集合は、Bと言う名称の島の集合と一致するという意味でお使いですか。それとも、西洋人がAと呼ぶ特定の島の和名がBであるというような意味ですか。どちらでもない、別の意味ですか?
  1つの島に、名称が複数あることが有ります。逆に、1つの名称が複数の島に宛てられることも有ります。「=」と書くと、この当たり混乱します。

>そう書いてあります。アルゴノート島=竹嶋、ダジュレー島=松嶋、リアンクール岩=リエンクールロック(?文字がよく見えません。)です。

  西洋人がアルゴノート島と言う島の和名は竹島である。西洋人がダジュレー島と言う島の和名は松島である。そういう意味ですか。

>>もし、前者ならば、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と名称をつけても何も不思議では有りません。
>ご指摘の意味がよく分かりませんでした。申し訳ありません。もしもよろしければまたご意見をお聞かせ下さい。

  以下の意味です。
  西洋人がアルゴノート島と言う島の、地図上の和名は竹島であり、西洋人がダジュレー島と言う島の、地図上の和名は松島である。もし、西洋人がリアンクール岩と呼ぶ島を、隠岐島民等には松島と俗称されていると認識したのであるならば、たとえ外一島がリアンクール岩であったとしても、その後、公式名称として、鬱陵島に松島、竹嶼に竹島と名前を付けても何も不思議はない。地図上の名称と地元民の呼称・俗称・旧称にずれが生じた場合、地元民の俗称に従って公的な地図上の名称を変更することは珍しくない。

  なお、山の名前では、近くの別の山が同一の名称であることは、特に珍しいことではないことを付言いたします。さらに、国土地理院の地図上の山名と、山に立っている道票の山名が異なったり、位置が多少異なることは、特に珍しいことではないことを付言いたします。(昭文社の山岳地図は道票とあまり違うことは無いと思います。)
  今の人は、現・竹島の旧称は松島だったと知っているけれど、現在は竹島が正式名称であることを知っています。1877年の太政官の役人が、現・ウルルン島の当時の正式名称は松島だけれど、旧称あるいは俗称が竹島であることを知っていたとしても、何も不思議は無いと思います。このような状況下で作成する地図では、当然に、正式名称は松島が付けられます。

  さて、大日本國沿海略図と太政官判断の島根県付属文書を比較すると次のようになっています。(伊豆大島程度の大きさとは書いていないけれど、そのように読めると言う意味です。)

大日本國沿海略図
  竹島:存在を否定する点線の島
  松島:伊豆大島程度の大きさの島
  リエンコヲルトロック:小島あるいは岩島

明治10年(1877)の島根県付属文書
  竹島:伊豆大島程度の大きさの島
  松島:樹竹の無い小島
 
  ahirutousagi2様説では、太政官判断は名称の一致を最重視して、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の竹島・松島と理解したと解釈し、半月城様説では、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の松島・リエンコヲルトロックと理解したと解釈されているのだと思います。
  結局、太政官判断は、地図上の名称と地元の呼び名は同一と誤解するようなレベルの低い読図技術しかなかったのか、それとも、大きさや点線・実線の区別を含めた地図情報等から総合的に読み取りことができる程度の読図技術を持っていたと考えるのか、その違いですね。

軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/30 20:58 投稿番号: [14826 / 18519]
   しかし、日本が竹嶼と呼んでいたことを示す資料は他にはないようです。大谷家地図は同島を「マノ島」と記しており、竹嶼の名は見当たりません。また、海軍の主要な情報の入手先であるイギリス海軍の海図や水路情報では朝鮮名の竹島は"Boussole"と記されるのみで、竹嶼の名はありません。
   イギリス海軍の情報ですが、欝陵島は"Matu sima"、あるいは"Dagelet island"と記されました。イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかったようです。
   一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島についてまったく記載しませんでした。

   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん
>   また、『大日本全國略圖』が描かれた当時は、アルゴノートは烏有の島として、その存在を否定されており(描かれたとしても疑存の島として破線で描くのが通常)、『大日本全國略圖』の竹島をアルゴノートに比定できる可能性はゼロです。

   そのとおりです。かのペリー提督の「日本遠征記」(1856)に載せられた「日本近域図」では、わざわざ「アルゴノート   存在せず」と地図中に記入したくらいでした。外務省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」すなわち存在しない島と認識していました(注4)。
   その十年前の1867年、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら、アルゴノートに相当する「竹島」は島の輪郭の半分が点線で書かれました。これを「疑存」の島というのでしょうか。勝海舟すら島の存在を半分疑問視していたようです。
   ahirutousagi2さんは、そんな地図を主張の柱にすえ、内務省の地理局はそうした疑存の島の位置情報を信じたと考えるのでしょうか?   たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。

   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん
>   そもそもが『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したと思われる経緯もなく、また、参照すべき合理的根拠も考えづらい事から、両図を結びつけるべき理由すら不明とするのが、慎重な科学的態度と云うべきと思われます。

   そのとおりです。たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するのではないでしょうか。それとうらはらに、島根県をつうじて提出された大谷家地図を内務省が排除する理由は皆無です。
   また、ahirutousagi2さんは文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。

(注1)「蔚陵島(欝陵島)渡航禁止の件」『日本外交文書』14-16巻,1881-83
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/tokou_kinshi.pdf
(注2)カタカナを平仮名に変換、「サイ爾」の「サイ」は草かんむりに最。デジタル版は(注1)。
(注3)『水路雑誌』第41号,P34、「欝陵島(一名松嶋)」の項
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/suiroshi/suiro_zasshi_41.pdf
(注4)北沢正誠『竹島考證』1881、影印版はエムテイ出版(1996)

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/30 20:57 投稿番号: [14825 / 18519]
   半月城です。
   ahirutousagi2さんの曲解はまだつづくようです。今回は、その一部のみ指摘しておきます。

   ahirutousagi2さん、No.14806
>   ましてや、その後、すぐに鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と正式に認定されているのです。太政大臣も禁止令でそう言及しています。つまり、この時期の二島認識は、結局は鬱陵島・竹嶼に収斂されたという事実があるのです。

   前回も書いたように、太政官や外務省の公文書における欝陵島の名称は「日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」で終始一貫しています。ましてや太政官が「竹嶼=竹島と正式に認定」したという記録はありません(注1)。
   また、外務省の付属文書においても「竹嶼=竹島」という表現は見られません。添付文書である北沢正誠「竹島版圖所属考」にはこう書かれました。

  「明治十三年 天城艦の再び松島に航するに及び 該島東岸に假泊の地を発見し 又 松島は古代韓人称する處の欝陵島にして 他に竹島と称する者あるも サイ爾たる小島に過ぎざるを知り 事情愈(いよいよ)明了なり
   由此 觀之は 今日の松島は即ち元禄十二年 称する所の竹島にして古来 我版図外の地たるや知るべし(注2)」

   この文章は、一読しただけでは難解です。元禄時代の竹島と「サイ爾たる小島」の竹島との関係が明了ではありません。文脈からすると、「竹島と称する者」は元禄時代の竹島ではなく、一見「今日の竹島」をさし、それが「サイ爾たる小島」であると結論づけているようにみえます。
   しかし、それではつじつまが合いません。当時、北沢は「今日の竹島」がしばしば欝陵島をさすことを十分承知済みであり、その例として、戸田敬義の「竹島渡海之儀」資料一切を『竹島考證』でたっぷり紹介していたくらいでした。

   もちろん、そこにいう竹島は「サイ爾たる小島」ではなく、朝鮮の欝陵島であり、そのために「竹島渡海之儀」が却下されたことを北沢は承知していたのでした。
   そうした背景を考慮すると、「竹島と称する者」はどうやら「今日の竹島」ではないようです。それが何をさすのか、この疑問に対する解答は『水路雑誌』にあるようです。1880年、海軍は天城艦を再び欝陵島へ派遣しましたが、その記録が『水路雑誌』第41号にこう記されました。

  「竹嶼 [朝鮮人 之を竹島と云ふ]を除くの外 一岩嶼の岸より二鏈半を出る者なし 竹嶼は此島の近海にして最大・・・(注3)」

   さらに『水路雑誌』には丁寧にも欝陵島東岸の地図が挿入されましたが、その地図で今日の韓国名「竹島」は「竹嶼 Boussole Rk」とだけ記され、竹島の名はありませんでした(注3)。
   北沢は、その地図を海軍の『水路雑誌』ではなく「水路報告第三十三號」から入手して『竹島考證』にのせましたが、その時に朝鮮人がいうところの「竹島」が「サイ爾たる小島」にすぎないことを知ったのでした。
   したがって、上の文章にいう竹島は「今日の竹島」というより「韓人称する處の」竹島とみるのが妥当なようです。さらに、海軍がわざわざ竹嶼に [朝鮮人 之を竹島と云ふ]という割り注を入れたことから判断すると、日本ではその島を竹島と呼ばず、竹嶼と呼んでいたことが明瞭です。

『内務省の通達』(1)「校正畏るべし」

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2006/07/30 11:44 投稿番号: [14824 / 18519]
「後生可畏」
三省堂 故事ことわざ・慣用句辞典

後生可畏,焉知來者不如今也。   論語・子罕篇
[原文] 「子曰(しいわ)く、後生(こうせい)畏(おそ)る可(べ)し。焉(いずく)んぞ
来者(らいしや)の今に如(し)かざるを知らんや

〔孔子が言われた、若い者はおそるべきものであり、将来どんな偉い者にな
るかわからない。彼ら若者の将来が、現在の水準に及ばないなどとどうして
言えようや〕」


「後世可畏」
『故事名言・由来・ことわざ総解説』(一九八三年・自由国民社)
「後生」が後には「後世」と書かれて,今後どこまでのびるかわからないという
意味に使われるようになった。「後から生まれてきた人つまり後進はあなどれ
ない」から「(この子は)ほんとうに後世おそるべしだなあ」の意に転用されるよ
うになった。

「後生可畏」
は、孔子のことばどおりでしょう。
「後世可畏」
は慣用句の変遷ですね。案外「校正畏るべし」が正解では   ♪

蛇足でしょうが、Kunitaka さんは安倍さんに世代交代してほしいようですね。

Re: 『内務省の通達』(1)

投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/07/30 07:21 投稿番号: [14823 / 18519]
大修館「新漢和辞典」改訂第二版より
============== =
【畏】
(1) おそれる(おそる)。
(イ)おじ恐れる。こわく思う。「後世可畏」
============== =

つまり、「後生可畏」は知っているけれど「後世可畏」を知らない人が頓珍漢な事を言った訳ですね。

Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/07/30 06:58 投稿番号: [14822 / 18519]
(前の記事から続きます)
>>>>>>
  先ずは相手の発言を理解すること。次に分からなかったら質問すること。これらを
飛び越えて、相手の発言を変形して言い直しするのは、新たな混迷の種をまくことに
なりかねません。
<<<<<<

「自分で理解したと思っても実際は誤解している」場合があることは、既に述べましたが、もう一つ別の点で弁解しておきます。

私は、相手の発言で分からない点を質問するする方法として、

・それは○○ということですか。
・あなたのご意見を○○と理解しましたが、この理解は正しいですか。
・つまり○○ということですね。

などの書き方をすることがあります。自分が相手の意見をどのように受取ったかを示すことは、相手から適切な回答を返してもらうために役立つと思うからです。

これらは shuku_remusさんのおっしゃる「分からなかったら質問する」ことに相当し、「これら(理解することと質問すること)を飛び越えて、相手の発言を変形して言い直しする」ことではないと思います。

----------------

>>>>>>
  ところで、元の発言を変形して言い直した後の文章の責任は、元の発言をした側と
言い換えた側のどちらにあるとお考えですか。或いは、te2222000さんはその責任を
元の発言をした相手に持たせようとしているのではありませんか。
<<<<<<

そのようなつもりはないので、そのようにはお考えにならないようお願いします。
また私も、そう勘繰られないような表現を工夫したいと思います。


>>>>>>
te2222000さんはこの誤解の責任はどちらにあるとお考えですか。
<<<<<<

ケースバイケースです。お示しいただいた状況に、更に詳細な条件を付け加えることで、以下のどの場合もあり得ると思います。

・主に元の発言者に責任がある
・主に受け手に責任がある
・両者に同じ位責任がある
・どちらにも責任はない
・どちらに責任があるかを論じること自体が不適切である


>>>>>>
  発言を変形して言い直しされた場合、元の発言者は、受け手は何故もとの発言の通り
に受けとめようとしないか。受け手はどのような意図で元の発言を変形して言い直して
いるか。変形して言い直しされた文章を認めた場合、のちに元の発言とは異なる意図を
主張していることにされないか。このようなことを考慮することになります。このような
ことを考慮させることはte2222000さんの本意ですか。
<<<<<<

本意ではないので、そのようにはお考えにならないようお願いします。
また私も、出来る限りそのような考慮をさせないような表現を工夫したいと思います。

Re: よく分かる『隠州視聴合記』

投稿者: te2222000 投稿日時: 2006/07/30 06:56 投稿番号: [14821 / 18519]
shuku_remusさん

遅くなりました。

もっとも、竹島と無関係の話題をあまり続けるのも好ましくないので、特にご要望が無い限り、この件について私が発言するのはこれで最後にしようと思います。

----------------

さて、#14720に書いたように、私の主張の根底には次の認識があります。

☆掲示板という文字だけによるコミュニケーションにおいて、
  相手が文章に込めようとした意図を 100% 理解することは
  そもそも不可能である

☆出来る限り相手の書いた文章に沿ってその意味を理解することは
  当然として、それでも、その理解内容が相手の意図とずれている
  可能性があることを覚悟しておく方が良い


どうも shuku_remusさんは、これら☆の認識自体に同意されていないように思えます。

たとえば、次の文章は「相手の発言を注意深く読み取って理解したつもりだが、実際には相手の考えを誤解している」場合について言及していらっしゃいません。これは、「十分注意深く読み取れば、そのような誤解は殆ど起こらない」とお考えだからだと推察します。

>>>>>>
発言を誤解することを防止するために、先ず相手の元の発言を注意深く、出来る
だけ正確に読み取ることが大切です。次に、相手の元の発言に分かり難い点がある
場合、どこが分かり難かったかを取り上げ、自分にとってより分かり易くなるよう
相手に発言を補足して貰うことです。このプロセスを繰り返すことによって誤解は
ほぼなくなります。これが普通です。
<<<<<<


また、以下のようにも述べていらっしゃいますね。

>>>>>>
「ふたえに曲げてくびに掛ける数珠」とあった場合、注意して読み取れば「ふたえに
曲げ、てくびに掛ける」と、「ふたえに曲げて、くびに掛ける」の二通りあることに
気付きます。
<<<<<<

恐らく shuku_remusさんは掲示板の標準的な参加者として、『注意すれば「ふたえに曲げてくびに掛ける数珠」という文に二つの意味があることに気付くことができる』という程度の知的レベルを持つ人を想定しているのでしょう。

しかし、正直に言って、それは私のレベルをはるかに超えています。これが謙遜でも韜晦でもないことは次の事実が示しています。

shuku_remusさんは#14557で以下のように書かれました。

>>>>>>
斉藤豊仙の狙いは、松島(現竹島)だけについてですが、それから200有余年後に
中井養三郎によって実行され、漸く島根県への編入が実現されたことに繋がるものと
想像しています。
<<<<<<

私はこの文章の解釈に悩み、最終的に以下のように理解しました。

「斉藤豊仙の狙いは、松島(現竹島)だけについてである。しかし、200有余年後に…実行され…実現されたことに繋がる」… (*1)

そしてこのような意味に取ったけれども、納得がいかず、質問したところ、ご説明をいただいて、次の意味に取るべきであることに気付きました。これなら納得がいきます。

「斉藤豊仙の狙いは、200有余年後に…実行され…実現されたことに繋がる。ただし、それは松島(現竹島)だけについてである」… (*2)

私は *1 の解釈では納得いかないと思いながら、*2 の解釈が可能であることに説明されるまで気付きませんでした。このような私ですから、初めに「ふたえに曲げて、くびに掛ける」という解釈で文章を読んでしまい、しかもその解釈に大きな難点の無い状況では、いくら注意深く読み返したところで、「ふたえに曲げ、てくびに掛ける」という解釈もあり得ることには気付かない可能性が非常に高いと思います。

私は私のレベルに合わせて物事を考えますので☆の認識を前提にします。それがshuku_remusさんの認識に合わないのであれば、それは主観の相違と割り切るしかないかと思いますが、私が☆の認識を持つということ自体は、事実として受け入れていただけると信じます。

(長くなったので、記事を二つに分けます)

つまり

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2006/07/29 23:18 投稿番号: [14820 / 18519]
最近の若者は、やたらと政治に興味を持って右翼的知識をしこんでいるので、将来の世のなかがどうなるか恐ろしいと言う意味ですよね。

Re: 『内務省の通達』(1)

投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2006/07/29 22:55 投稿番号: [14819 / 18519]
あなた方の言ってることが理解できない。
私は文字通りの意味で「後世畏るべし。」と言ったのだが。

四文字熟語だとか、論語だとか勝手に解釈する・・・

Re: 『内務省の通達』(1)

投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2006/07/29 22:30 投稿番号: [14818 / 18519]
>>後世畏るべし・・・・
>後生可畏・・・でないのか

子曰、後生可畏、焉知来者之不如今也
「この語源からすれば、どっちも変ですね。」と楽しませてもらってるワ♪

Re: 『内務省の通達』(1)

投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2006/07/29 22:14 投稿番号: [14817 / 18519]
>後世畏るべし・・・・

後生可畏・・・でないのか

Re: 『内務省の通達』(1)

投稿者: quo_vadis256 投稿日時: 2006/07/29 19:45 投稿番号: [14816 / 18519]
団塊以前の方は知っていても語ろうとしない。
一番知ったかぶりして嘘吐きが多いのが団塊世代。

意外と実証的で勉強しているのがポスト団塊
世代。小学生、中学生すら馬鹿にならない。

後世畏るべし・・・・

Re: 明治政府の島名混乱の収束3(訂正)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/29 13:48 投稿番号: [14815 / 18519]
訂正します。

誤)正確に言うと、この時期に江戸時代までの松島が正式の形でリアンクール岩へと変遷したことはありません。松島はダジュレー島であり、また、鬱陵島所属の竹嶼を指しています。

正)正確に言うと、この時期に江戸時代までの松島が正式の形でリアンクール岩へと変遷したことはありません。松島はダジュレー島(鬱陵島)であり、また、竹島はアルゴノート島、または鬱陵島所属の竹嶼を指しています。

れRe: 『内務省の通達』(1)

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2006/07/29 04:00 投稿番号: [14814 / 18519]
>歴史学者の秦郁彦

「南京事件」で、やはり他の評論家・歴史家みたいに、戦陣訓について誤解してますね。

『内務省の通達』(1)

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/29 03:43 投稿番号: [14813 / 18519]
今日の朝まで生TVは面白いですね。以前、歴史学者の秦郁彦・日大教授は「満州事変は8:2で日本が悪い、日中戦争は7:3で日本が悪い、太平洋戦争は6:4で日本が悪い」と田原総一朗との対論で言っていました。田原氏は「太平洋戦争は5:5じゃないの?」と秦氏に言ったところ、「負けた戦争をしたぶん、五分五分じゃなくて6:4で日本が悪い」と言っていました。

明日も私は仕事ですが、まだ起きてます。

さて、掲題の件ですが、下記に資料を記載します。

明治十年三月廿日

別紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件
右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也
御指令按
伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032/002.jpg
(後日HPにリンク予定)

※廿日は二十日のこと

資料が続々入荷しています。今回はよく分かるシリーズの第三弾を一週間程度に渡って書き込んでいく予定です。

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/29 00:21 投稿番号: [14812 / 18519]
>古来の竹島松島と確定で差し支えないでしょう。

だから、古来の竹島・松島と、この時期(太政官判断前後)の竹島・松島認識とは別物ですってば。名称はたしかに古来から二島があってきた。しかし古来のそれとこの時期の二島は、別の島を指している。

だから、天城の調査を経て鬱陵島たる松島は「古来の竹島」と言われたりしているわけです。

>1875年当時には位置認識の混乱は認められません。むしろ重要なのは、その時期に西洋伝来の考え方が流入したことによる、獨島の法的地位の混乱を考えるべきです。

岩という認識については私も注目していますが、この岩はこの時期(太政官判断前後)、竹島でも松島でもありませんでした。それを混乱として申し上げているのです。

>島の名称が表すように、江戸時代までの松島がリアンコート岩へと変遷したことを見落とすべきではありません。

正確に言うと、この時期に江戸時代までの松島が正式の形でリアンクール岩へと変遷したことはありません。松島はダジュレー島であり、また、鬱陵島所属の竹嶼を指しています。

大日本國沿海略図

投稿者: llluruurulll 投稿日時: 2006/07/28 21:43 投稿番号: [14811 / 18519]
これ、けっこう見やすくないですか。↓
http://www.globetown.net/~yesudian/Image1.jpg

少し待つ(Fileが大きいため)と拡大できて、文字もはっきりと読めます。

Re: 『磯竹島略圖』をアップロード完了

投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/07/28 21:16 投稿番号: [14810 / 18519]
現在私は『美しい国へ』を数日前から読んでいる最中でですが、彼の基本政策が端的に分かりやすく書かれております。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4166605240/249-4430261-7455509?v=glance&n=465392&s=books
皆さんも"次期総裁"の著書は既に読まれましたでしょうか?

さて、掲題の件ですが、『磯竹島略圖』サイトの構造を変更しました。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032/index.html

『大日本沿海略図』の拡大図も、今夏白黒からカラーに変更します。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/great-japan.html

竹島に行こう!!

投稿者: aki_samurai_daah 投稿日時: 2006/07/28 20:15 投稿番号: [14809 / 18519]
竹島は日本の領土なんだから勝手に行っても問題無いでしょう^^
韓国に捕まったら国際問題に発展して停滞気味の話し合いに何か影響を与えれるかもしれないですね^^

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2006/07/28 19:01 投稿番号: [14808 / 18519]
>イギリス、アイルランド、デンマーク、アイスランドが争ったロッコール岩
>の例もありますが、領有権を主張できない公海上の岩とする可能性をまった
>く考慮しないのは問題があります。

  領域権原と経済水域or大陸棚の権原の区別もできてないようで。

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2006/07/28 13:03 投稿番号: [14807 / 18519]
>重要なのは二島の帰属だけではありません。太政官判断では二島を鬱陵島・リアンクール岩と確定させる条件が満たされていないのです。

  古来の竹島松島と確定で差し支えないでしょう。

>背景として二島の位置認識に混乱がないこと。または太政官が鬱陵島・リアンクール岩を版図外とした何らかの根拠があること。そうでないことには二島の帰属認識は規定できません。

  1875年当時には位置認識の混乱は認められません。むしろ重要なのは、その時期に西洋伝来の考え方が流入したことによる、獨島の法的地位の混乱を考えるべきです。
  現在でもそうですが、島(Island)と岩(Rock)では法的地位が異なります。島の名称が表すように、江戸時代までの松島がリアンコート岩へと変遷したことを見落とすべきではありません。

  イギリス、アイルランド、デンマーク、アイスランドが争ったロッコール岩の例もありますが、領有権を主張できない公海上の岩とする可能性をまったく考慮しないのは問題があります。
  獨島に関しては、事実、20世紀に入ってからも領土の範囲内に含めなかった一方で、「韓国水産誌」には韓国東海岸の付属物として暗礁や浮標の類と併記されたように、その時期の法的地位に関しては、領有の対象たる島嶼として取り扱われなかった点も十分に検討に値します。

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/28 00:16 投稿番号: [14806 / 18519]
>俗信に影響された民図の殆どは、「大日本国沿海略図」には全く影響された形跡なく、竹島松島を一括して隠岐図に含める例が多いのだから、当時の日本には一般的に島名の混乱はなかったと見るのが妥当でしょうね。

古来からの島名は二つだけですから、その点では混乱はないでしょう。しかし、実際の地理としてそれがどこを指すのかは、この時期、外務省などの書類で伺えるように混乱があったとすべきです。

>太政官判断で重要なのは、島の位置ではなく、島の帰属と見るべきでしょう。この場合、島の位置そのものに、さしたる重要性があるとは思えませんが、アルゴノートに影響された明白な証拠は見いだせていません。

重要なのは二島の帰属だけではありません。太政官判断では二島を鬱陵島・リアンクール岩と確定させる条件が満たされていないのです。

背景として二島の位置認識に混乱がないこと。または太政官が鬱陵島・リアンクール岩を版図外とした何らかの根拠があること。そうでないことには二島の帰属認識は規定できません。

ましてや、その後、すぐに鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と正式に認定されているのです。太政大臣も禁止令でそう言及しています。つまり、この時期の二島認識は、結局は鬱陵島・竹嶼に収斂されたという事実があるのです。

アルゴノート島の影響の可能性については内務省地理局の地図だけでも論拠は充分です。ほかに傍証として勝海舟・文部省・陸軍の地図などをご参考ください。

>また、陸軍の地図では、私の記憶が確かならば、竹島は存在を疑う破線で描かれて(専門用語で「疑存」と云います。存在そのものを肯定する場合は「疑位」と云い実線で描くことになるでしょう。)いたと記憶しており、

破線の島については確か勝海舟の地図ではなかったですか。ほかにもあったかな。すでに書いている通り、陸軍地図は私は未見です。分かっているのは鬱陵島あたりに二島が描かれていることだけ。この地図にはリアンクール岩は描かれていません。

もしもこの地図で竹島が「疑存」とされているのであれば、日本海に島が一つしかないことになります。ですから、ここで申し上げている陸軍の地図は別物でしょう。

>政府レベルでも1875年当時にはアルゴノートの存在は否定されていたと見て差し支えないものと思われます。

これに対する私の反論は内務省地理局の地図だけでも充分かと思いますが、傍証としては文部省の地図、陸軍の地図をご参照ください。

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2006/07/27 23:36 投稿番号: [14805 / 18519]
>1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年   陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   太政官判断。

  ハッキリ云って不十分ですね。
  その当時は、一般的な日本地図として高い信頼を得ていた赤水図の劣化コピー版が出回っていた影響もあって、竹島松島とも一括して隠岐に含めるとする俗信も流布されていた時代です。
  俗信に影響された民図の殆どは、「大日本国沿海略図」には全く影響された形跡なく、竹島松島を一括して隠岐図に含める例が多いのだから、当時の日本には一般的に島名の混乱はなかったと見るのが妥当でしょうね。
  太政官判断で重要なのは、島の位置ではなく、島の帰属と見るべきでしょう。この場合、島の位置そのものに、さしたる重要性があるとは思えませんが、アルゴノートに影響された明白な証拠は見いだせていません。
  また、陸軍の地図では、私の記憶が確かならば、竹島は存在を疑う破線で描かれて(専門用語で「疑存」と云います。存在そのものを肯定する場合は「疑位」と云い実線で描くことになるでしょう。)いたと記憶しており、政府レベルでも1875年当時にはアルゴノートの存在は否定されていたと見て差し支えないものと思われます。

竹島で釣りを楽しもう!

投稿者: joka1631 投稿日時: 2006/07/27 20:35 投稿番号: [14804 / 18519]
っで、竹島周辺では何が釣れるの?

Re: 明治政府の島名…(質問です)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/27 20:23 投稿番号: [14803 / 18519]
私の文才のなさも恐縮ですが、ご質問の意味もちょっと分かりにくい部分がありますので、もしも的外れでしたらお許しください。

>この文章はどういう意味でしょうか。アルゴノート・ダジュレーに竹島・松島と書いてあったと言う事実を単純に指しているのでしょうか。それとも、アルゴノート・ダジュレー=竹島・松島との意味でしょうか。

そう書いてあります。アルゴノート島=竹嶋、ダジュレー島=松嶋、リアンクール岩=リエンクールロック(?文字がよく見えません。)です。

実際には、以下のページをご覧ください。
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/great-japan.html

>ahirutousagi2様は、この点、どのようにお考えでしょうか。

鬱陵島近辺の位置で竹島・松島が理解されたことは、文部省・陸軍・勝海舟の地図でそれぞれ共通しています。また、その後の内務省地理局の地図においても竹島・松島の位置はアルゴノート島・鬱陵島です。

従いまして、私は太政官・内務省は鬱陵島近辺で竹島・松島を把握していたと考えています。それは結局、鬱陵島と竹嶼に収斂することになります。リアンクール岩については、文字通り、「ロック(岩)」としてとらえられたか、または存在そのものにさほど注意を払われなかったものと考えます。

>また、半月城氏の考えらしきを、まとめられた文章では、「1877年、太政官・内務省は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていた」とお書きですが、これは、「太政官・内務省は、リアンクール岩を松島と呼ばれることがあると認識していた」と言う意味でしょうか。それとも、「松島と言ったら付近にはリアンクールしかない」と言う意味でしょうか。

私にはよく分からないのですが、半月城さんのこれまでの主張では大谷家地図や伺書の書類が現在の目から見てどう見ても鬱陵島とリアンクール岩に見えるから、当然に太政官もそう分かっていたとのことでした。

また、それはおかしいのではないかとの指摘については、太政官たるもの慎重に考えて判断を下したのであり、それを否定する見方に対しては「そんなに無能ではありません」との立場のようでした。

私はそれをそのまま踏襲してまとめたわけです。

>もし、前者ならば、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と名称をつけても何も不思議では有りません。

ご指摘の意味がよく分かりませんでした。申し訳ありません。もしもよろしければまたご意見をお聞かせ下さい。

Re: 明治政府の島名…(質問です)

投稿者: lib_1964_1982 投稿日時: 2006/07/27 10:12 投稿番号: [14802 / 18519]
横から失礼します。
ahirutousagi2様の文章の意味が分らないので、教えてください。

>1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)

  この文章はどういう意味でしょうか。アルゴノート・ダジュレーに竹島・松島と書いてあったと言う事実を単純に指しているのでしょうか。それとも、アルゴノート・ダジュレー=竹島・松島との意味でしょうか。
  当時、島の認識の混乱により3島認識があったとしても、名称は竹島・松島の2つしかないので、異島同名あるいは名称混乱と認識していた可能性が有ります。このため、アルゴノート・ダジュレーに竹島・松島と書いてあり、当時の太政官等が、アルゴノート・ダジュレーを竹島・松島と認識していたとしても、現・竹島を松島で無いと認識していたとの解釈は生まれないと思います。ahirutousagi2様は、この点、どのようにお考えでしょうか。

また、半月城氏の考えらしきを、まとめられた文章では、「1877年、太政官・内務省は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていた」とお書きですが、これは、「太政官・内務省は、リアンクール岩を松島と呼ばれることがあると認識していた」と言う意味でしょうか。それとも、「松島と言ったら付近にはリアンクールしかない」と言う意味でしょうか。もし、前者ならば、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と名称をつけても何も不思議では有りません。後者のような主張を私は聞いたことが無いので、ahirutousagi2様の文章が理解できません。よろしくおねがいします。

Re: 明治政府の島名混乱の収束3

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/26 17:36 投稿番号: [14801 / 18519]
以下、関連年譜。

1867年   勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年   陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年   太政官判断。
1878年   外務省、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島認識。
1880年   同上
1881年   内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1881年   内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年   鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年   鬱陵島渡航禁止
1883年   太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。

半月城さんが言うのはつまりこういうことでしょうか。

1877年、太政官・内務省は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていた。1878/1880年、外務省は鬱陵島=松島、竹嶼=竹島とする一方、内務省の正しさを認識。照会(1881年)でも納得して異議をとなえなかった。

1881年内務省地理局「大日本府県分轄図」は「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じで、やはり内務省の理解は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島であった。

ところが1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」を受けて太政官は内務省へ根回しをする。それにより「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」の認識が太政官、外務省、内務省、水路部間で一致することになった。

そうなのでしょうか。以下、私の理解。

太政官が判断したのは「松島・竹島」を版図外としたということ以上には何も確言できることはない。鬱陵島=松島、リアンクール岩=松島という認識は考えにくい。

一方、外務省では1878年・1880年に鬱陵島が松島(竹嶼=竹島)と実測された(「古来の竹島」についての理解もなされた)。ただし、鬱陵島が松島である以上、内務省からの照会にも異議を唱える必要は無い。

その後、1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」の提出に伴い太政官は外務省の理解をそのままに踏襲。内務省も然り。

では、太政官はそもそもどんな地理認識から竹島・松島を版図外と定めたか。それについては陸軍・文部省の地図が参考になり、また1881年の内務省地理局の地図、1883年の三条実美の言及などを整合的に見ればよろしいと。

つまり、アルゴノート・ダジュレー島の位置で理解されたと考えるのが自然。結局「外一島」で版図外とされたのは地理的には鬱陵島までの位置認識であったと。それが結局は鬱陵島と竹嶼に収斂されたと。

半月城さんの理解では以下の部分が不自然です。

1)1877年、太政官・内務省が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていたとの根拠が何も無い。
2)内務省地理局「大日本全國略圖」が大谷家地図と近いとの強弁。普通に見ればこの地図の竹島・松島はアルゴノート・ダジュレー島の位置でしょう。
3)太政官が慎重に二島を規定したにもかかわらず、外務省の認識を受け入れて内務省に根回しし、元来の「鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島」の認識を変化させ「鬱陵島=松島(一名、竹島)」(太政大臣)と認識の変化を見せること。

私の理解では、

1)根拠なしにそれを規定すべきではない。
2)「大日本全國略圖」は内務省地理局が鬱陵島の位置までを「版図外」としていた地理認識の証左。(この地図はアルゴノート・ダジュレー島の認識をうかがわせる)
3)太政官判断の「外一島」で確定しているのは二島を版図外としたことだけ。具体的な地理認識は前後の資料を整合的に考えればよい。太政官はもとより現在の鬱陵島の位置までの二島を版図外と想定したと考えられる。

という感じでしょうか。

Re: 明治政府の島名混乱の収束1

投稿者: henchin_pokoider01 投稿日時: 2006/07/25 20:35 投稿番号: [14800 / 18519]
PALMASの判例では、近接性は権原にはならないが「先占の場合、いきなり全ての領域を実効支配するのは困難なため、実効支配の範囲として群島(groups of islands)として近接性を考慮しうる」としてますな。実効支配の権原の場合は全ての領域で実行支配しなければならないともしている。また、先占の領有意志についてgroups of islandsの適用は記述されてないから、通常どおりspecificな証拠が必要でしょうな。

まぁミンダナオ島から90km程度離れたPALMAS島は個別の島(ミンダナオ島のgroups of islandsとは見なされない)であり、実効支配が必要とのことですがね。
竹島と鬱綾島の間も90km程度だよね。
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