Re: 明治政府の島名混乱の収束3
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/26 17:36 投稿番号: [14801 / 18519]
以下、関連年譜。
1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島認識。
1880年 同上
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1881年 内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年 鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年 鬱陵島渡航禁止
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
半月城さんが言うのはつまりこういうことでしょうか。
1877年、太政官・内務省は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていた。1878/1880年、外務省は鬱陵島=松島、竹嶼=竹島とする一方、内務省の正しさを認識。照会(1881年)でも納得して異議をとなえなかった。
1881年内務省地理局「大日本府県分轄図」は「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じで、やはり内務省の理解は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島であった。
ところが1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」を受けて太政官は内務省へ根回しをする。それにより「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」の認識が太政官、外務省、内務省、水路部間で一致することになった。
そうなのでしょうか。以下、私の理解。
太政官が判断したのは「松島・竹島」を版図外としたということ以上には何も確言できることはない。鬱陵島=松島、リアンクール岩=松島という認識は考えにくい。
一方、外務省では1878年・1880年に鬱陵島が松島(竹嶼=竹島)と実測された(「古来の竹島」についての理解もなされた)。ただし、鬱陵島が松島である以上、内務省からの照会にも異議を唱える必要は無い。
その後、1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」の提出に伴い太政官は外務省の理解をそのままに踏襲。内務省も然り。
では、太政官はそもそもどんな地理認識から竹島・松島を版図外と定めたか。それについては陸軍・文部省の地図が参考になり、また1881年の内務省地理局の地図、1883年の三条実美の言及などを整合的に見ればよろしいと。
つまり、アルゴノート・ダジュレー島の位置で理解されたと考えるのが自然。結局「外一島」で版図外とされたのは地理的には鬱陵島までの位置認識であったと。それが結局は鬱陵島と竹嶼に収斂されたと。
半月城さんの理解では以下の部分が不自然です。
1)1877年、太政官・内務省が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていたとの根拠が何も無い。
2)内務省地理局「大日本全國略圖」が大谷家地図と近いとの強弁。普通に見ればこの地図の竹島・松島はアルゴノート・ダジュレー島の位置でしょう。
3)太政官が慎重に二島を規定したにもかかわらず、外務省の認識を受け入れて内務省に根回しし、元来の「鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島」の認識を変化させ「鬱陵島=松島(一名、竹島)」(太政大臣)と認識の変化を見せること。
私の理解では、
1)根拠なしにそれを規定すべきではない。
2)「大日本全國略圖」は内務省地理局が鬱陵島の位置までを「版図外」としていた地理認識の証左。(この地図はアルゴノート・ダジュレー島の認識をうかがわせる)
3)太政官判断の「外一島」で確定しているのは二島を版図外としたことだけ。具体的な地理認識は前後の資料を整合的に考えればよい。太政官はもとより現在の鬱陵島の位置までの二島を版図外と想定したと考えられる。
という感じでしょうか。
1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島、竹嶼=竹島認識。
1880年 同上
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1881年 内務省が外務省に鬱陵島照会。外一島資料添付。反応なし。
1882年 鬱陵島への日本人渡航について朝鮮政府から抗議。
1883年 鬱陵島渡航禁止
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
半月城さんが言うのはつまりこういうことでしょうか。
1877年、太政官・内務省は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていた。1878/1880年、外務省は鬱陵島=松島、竹嶼=竹島とする一方、内務省の正しさを認識。照会(1881年)でも納得して異議をとなえなかった。
1881年内務省地理局「大日本府県分轄図」は「竹島外一島地籍編纂方伺」付属の「大谷家地図」に描かれた磯竹島(竹島)・松島の位置とほぼ同じで、やはり内務省の理解は鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島であった。
ところが1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」を受けて太政官は内務省へ根回しをする。それにより「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」の認識が太政官、外務省、内務省、水路部間で一致することになった。
そうなのでしょうか。以下、私の理解。
太政官が判断したのは「松島・竹島」を版図外としたということ以上には何も確言できることはない。鬱陵島=松島、リアンクール岩=松島という認識は考えにくい。
一方、外務省では1878年・1880年に鬱陵島が松島(竹嶼=竹島)と実測された(「古来の竹島」についての理解もなされた)。ただし、鬱陵島が松島である以上、内務省からの照会にも異議を唱える必要は無い。
その後、1883年、外務省の「朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件」の提出に伴い太政官は外務省の理解をそのままに踏襲。内務省も然り。
では、太政官はそもそもどんな地理認識から竹島・松島を版図外と定めたか。それについては陸軍・文部省の地図が参考になり、また1881年の内務省地理局の地図、1883年の三条実美の言及などを整合的に見ればよろしいと。
つまり、アルゴノート・ダジュレー島の位置で理解されたと考えるのが自然。結局「外一島」で版図外とされたのは地理的には鬱陵島までの位置認識であったと。それが結局は鬱陵島と竹嶼に収斂されたと。
半月城さんの理解では以下の部分が不自然です。
1)1877年、太政官・内務省が鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と分かっていたとの根拠が何も無い。
2)内務省地理局「大日本全國略圖」が大谷家地図と近いとの強弁。普通に見ればこの地図の竹島・松島はアルゴノート・ダジュレー島の位置でしょう。
3)太政官が慎重に二島を規定したにもかかわらず、外務省の認識を受け入れて内務省に根回しし、元来の「鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島」の認識を変化させ「鬱陵島=松島(一名、竹島)」(太政大臣)と認識の変化を見せること。
私の理解では、
1)根拠なしにそれを規定すべきではない。
2)「大日本全國略圖」は内務省地理局が鬱陵島の位置までを「版図外」としていた地理認識の証左。(この地図はアルゴノート・ダジュレー島の認識をうかがわせる)
3)太政官判断の「外一島」で確定しているのは二島を版図外としたことだけ。具体的な地理認識は前後の資料を整合的に考えればよい。太政官はもとより現在の鬱陵島の位置までの二島を版図外と想定したと考えられる。
という感じでしょうか。
これは メッセージ 14792 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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