Re: 軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/30 23:52 投稿番号: [14830 / 18519]
>前回も書いたように、太政官や外務省の公文書における欝陵島の名称は「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」で終始一貫しています。(中略)日本ではその島を竹島と呼ばず、竹嶼と呼んでいたことが明瞭です。
ご指摘を有難うございます。私は従来より天城で鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と調査された一方で、後にどうして「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」と記されたのか謎だったのですが、氷解しました。
私が竹嶼=竹島と理解したのは「天城艦乗員海軍少尉三浦重郷等廻航の次松島に至り測量し其地即ち古来の鬱陵島にして其北方の小島竹島と号する者あれ共一個の岩石に過ぎさる旨(竹島考証, p.268)」ですが、ご指摘は受け入れたいと思います。
なお、私の論旨には全く変化はありません。
>イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかったようです。
それでよろしいかと。
>一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島についてまったく記載しませんでした。
水路部が二島について正確な認識を持つようになったのは1870年代後半からであると考えられます(堀和生も同様の理解の模様。p.105)。
>外務省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」すなわち存在しない島と認識していました。
それでよろしいかと。一方で松島は朝鮮の鬱陵島との認識もなされていたようです。
>たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。
「偶然の一致」ですか…。
「大日本全國略圖」の二島の位置がアルゴノート・ダジュレー島の位置にほぼ一致することについては「偶然の一致」で、大きな誤差のある大谷家地図が「近い」となさる視角は、ごり押しにしか見えませんよ。
>たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するのではないでしょうか。
何か勘違いなさっておられるようですが、勝海舟の地図も大谷家地図も相反するものではありません。それぞれ矛盾なしに共通の理解で考えうるものです。
内務省が大谷家地図を見て二島を勝海舟の地図の竹嶋・松嶋に比定したとしても何の違和感もありません。事実、それは「大日本全國略圖」にもつながるものです。
疑存にこだわる方もいらっしゃいますが、「大日本全國略圖」を確認する限り、勝海舟の地図の竹嶋を排除する必要はありません。アルゴノート・ダジュレー島の認識と言う点では文部省や陸軍の地図にも見られるように勝海舟の地図だけにこだわる必要もありません。
>文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。
それらの地図は、当時の明治政府の理解を考えるための傍証として提示しているもので、だからどうだと言う気はありません。しかし、これらがすべて私の理解では整合的に捉えられるのも事実です。
半月城さんの理解では文部省の地図も、陸軍の地図も、内務省の地図も、勝海舟の地図も、すべて間違いで、太政官だけは「彼らはそれほど無能ではなかった」のか正しく鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と理解したということのようですね。
半月城さんの話は、どうにも私には物語の域を出るとは思えませんよ。具体的な証拠をあげても「偶然の一致」ですし…。
相変わらず、半月城さんの問題点は解決されないようです。
ご指摘を有難うございます。私は従来より天城で鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と調査された一方で、後にどうして「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」と記されたのか謎だったのですが、氷解しました。
私が竹嶼=竹島と理解したのは「天城艦乗員海軍少尉三浦重郷等廻航の次松島に至り測量し其地即ち古来の鬱陵島にして其北方の小島竹島と号する者あれ共一個の岩石に過ぎさる旨(竹島考証, p.268)」ですが、ご指摘は受け入れたいと思います。
なお、私の論旨には全く変化はありません。
>イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかったようです。
それでよろしいかと。
>一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島についてまったく記載しませんでした。
水路部が二島について正確な認識を持つようになったのは1870年代後半からであると考えられます(堀和生も同様の理解の模様。p.105)。
>外務省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」すなわち存在しない島と認識していました。
それでよろしいかと。一方で松島は朝鮮の鬱陵島との認識もなされていたようです。
>たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。
「偶然の一致」ですか…。
「大日本全國略圖」の二島の位置がアルゴノート・ダジュレー島の位置にほぼ一致することについては「偶然の一致」で、大きな誤差のある大谷家地図が「近い」となさる視角は、ごり押しにしか見えませんよ。
>たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するのではないでしょうか。
何か勘違いなさっておられるようですが、勝海舟の地図も大谷家地図も相反するものではありません。それぞれ矛盾なしに共通の理解で考えうるものです。
内務省が大谷家地図を見て二島を勝海舟の地図の竹嶋・松嶋に比定したとしても何の違和感もありません。事実、それは「大日本全國略圖」にもつながるものです。
疑存にこだわる方もいらっしゃいますが、「大日本全國略圖」を確認する限り、勝海舟の地図の竹嶋を排除する必要はありません。アルゴノート・ダジュレー島の認識と言う点では文部省や陸軍の地図にも見られるように勝海舟の地図だけにこだわる必要もありません。
>文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。
それらの地図は、当時の明治政府の理解を考えるための傍証として提示しているもので、だからどうだと言う気はありません。しかし、これらがすべて私の理解では整合的に捉えられるのも事実です。
半月城さんの理解では文部省の地図も、陸軍の地図も、内務省の地図も、勝海舟の地図も、すべて間違いで、太政官だけは「彼らはそれほど無能ではなかった」のか正しく鬱陵島=竹島、リアンクール岩=松島と理解したということのようですね。
半月城さんの話は、どうにも私には物語の域を出るとは思えませんよ。具体的な証拠をあげても「偶然の一致」ですし…。
相変わらず、半月城さんの問題点は解決されないようです。
これは メッセージ 14825 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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