Re: 明治政府の島名…(質問です)
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/07/31 00:42 投稿番号: [14832 / 18519]
>西洋人がアルゴノート島と言う島の和名は竹島である。西洋人がダジュレー島と言う島の和名は松島である。そういう意味ですか。
日本では二島認識がありましたから、それが地図において三島になったときに混乱が生じ、それぞれの島に名前が比定されたわけです。
>西洋人がアルゴノート島と言う島の、地図上の和名は竹島であり、西洋人がダジュレー島と言う島の、地図上の和名は松島である。
和名というのはちょっと合わないような気がします。
>1877年の太政官の役人が、現・ウルルン島の当時の正式名称は松島だけれど、旧称あるいは俗称が竹島であることを知っていたとしても、何も不思議は無いと思います。
それを裏付ける根拠があれば、の話です。私は知らないのですが、1877年に太政官が鬱陵島の正式名称は松島であるが旧称・俗称が竹島であることを知っていたとする根拠は何ですか。
むしろ、周辺の資料は1878年まで、それを確定できない状態であったことを示すものばかりです。外務省の甲論乙駁がその象徴とも言えるでしょう。
>ahirutousagi2様説では、太政官判断は名称の一致を最重視して、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の竹島・松島と理解したと解釈し、半月城様説では、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の松島・リエンコヲルトロックと理解したと解釈されているのだと思います。
私が竹島・松島をリアンクール岩と考えないのは、名称の一致というか、当時日本において「竹島・松島」がどの位置で理解されたか。それに中心がおかれています。それによって太政官判断を考えればよろしいのだと。
半月城さんはもとより、勝海舟の地図はあまり考慮対象にはされていないようですよ。
私は個人的には、
1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年 同上
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
という流れから、太政官の理解を整合的に考えているに過ぎません。
>大きさや点線・実線の区別を含めた地図情報等から総合的に読み取りことができる程度の読図技術を持っていたと考えるのか、その違いですね。
内務省地理局「大日本府県分轄図」が発掘されたことで、私は基本的には太政官判断における「外一島」は一件落着したとさえ思えます。
この地図をご参照いただき、太政官判断での二島が鬱陵島とリアンクール岩と理解した結果であるかどうかをご確認いただければと思います。私はその認識ではなされなかったと理解しています。
日本では二島認識がありましたから、それが地図において三島になったときに混乱が生じ、それぞれの島に名前が比定されたわけです。
>西洋人がアルゴノート島と言う島の、地図上の和名は竹島であり、西洋人がダジュレー島と言う島の、地図上の和名は松島である。
和名というのはちょっと合わないような気がします。
>1877年の太政官の役人が、現・ウルルン島の当時の正式名称は松島だけれど、旧称あるいは俗称が竹島であることを知っていたとしても、何も不思議は無いと思います。
それを裏付ける根拠があれば、の話です。私は知らないのですが、1877年に太政官が鬱陵島の正式名称は松島であるが旧称・俗称が竹島であることを知っていたとする根拠は何ですか。
むしろ、周辺の資料は1878年まで、それを確定できない状態であったことを示すものばかりです。外務省の甲論乙駁がその象徴とも言えるでしょう。
>ahirutousagi2様説では、太政官判断は名称の一致を最重視して、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の竹島・松島と理解したと解釈し、半月城様説では、島根県伺い書の竹島・松島を、地図上の松島・リエンコヲルトロックと理解したと解釈されているのだと思います。
私が竹島・松島をリアンクール岩と考えないのは、名称の一致というか、当時日本において「竹島・松島」がどの位置で理解されたか。それに中心がおかれています。それによって太政官判断を考えればよろしいのだと。
半月城さんはもとより、勝海舟の地図はあまり考慮対象にはされていないようですよ。
私は個人的には、
1867年 勝海舟「大日本国沿海略図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1875年 陸軍参謀局「朝鮮全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 文部省「日本全図」(鬱陵島が二つに分かれて竹島・松島)
1877年 太政官判断。
1878年 外務省、鬱陵島=松島。(竹島言及なし)
1880年 同上
1881年 内務省地理局「大日本府県分轄図」(アルゴノート・ダジュレーが竹島・松島)
1883年 太政大臣三条実美、同上令において「北緯37度30分、東経130度49分に位置する日本称する松島、一名竹島、朝鮮称する鬱陵島」と記録。
という流れから、太政官の理解を整合的に考えているに過ぎません。
>大きさや点線・実線の区別を含めた地図情報等から総合的に読み取りことができる程度の読図技術を持っていたと考えるのか、その違いですね。
内務省地理局「大日本府県分轄図」が発掘されたことで、私は基本的には太政官判断における「外一島」は一件落着したとさえ思えます。
この地図をご参照いただき、太政官判断での二島が鬱陵島とリアンクール岩と理解した結果であるかどうかをご確認いただければと思います。私はその認識ではなされなかったと理解しています。
これは メッセージ 14827 (lib_1964_1982 さん)への返信です.
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