竹島

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軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識1

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/30 20:57 投稿番号: [14825 / 18519]
   半月城です。
   ahirutousagi2さんの曲解はまだつづくようです。今回は、その一部のみ指摘しておきます。

   ahirutousagi2さん、No.14806
>   ましてや、その後、すぐに鬱陵島=松島、竹嶼=竹島と正式に認定されているのです。太政大臣も禁止令でそう言及しています。つまり、この時期の二島認識は、結局は鬱陵島・竹嶼に収斂されたという事実があるのです。

   前回も書いたように、太政官や外務省の公文書における欝陵島の名称は「日本称 松島 一名竹島 朝鮮称 蔚陵島」で終始一貫しています。ましてや太政官が「竹嶼=竹島と正式に認定」したという記録はありません(注1)。
   また、外務省の付属文書においても「竹嶼=竹島」という表現は見られません。添付文書である北沢正誠「竹島版圖所属考」にはこう書かれました。

  「明治十三年 天城艦の再び松島に航するに及び 該島東岸に假泊の地を発見し 又 松島は古代韓人称する處の欝陵島にして 他に竹島と称する者あるも サイ爾たる小島に過ぎざるを知り 事情愈(いよいよ)明了なり
   由此 觀之は 今日の松島は即ち元禄十二年 称する所の竹島にして古来 我版図外の地たるや知るべし(注2)」

   この文章は、一読しただけでは難解です。元禄時代の竹島と「サイ爾たる小島」の竹島との関係が明了ではありません。文脈からすると、「竹島と称する者」は元禄時代の竹島ではなく、一見「今日の竹島」をさし、それが「サイ爾たる小島」であると結論づけているようにみえます。
   しかし、それではつじつまが合いません。当時、北沢は「今日の竹島」がしばしば欝陵島をさすことを十分承知済みであり、その例として、戸田敬義の「竹島渡海之儀」資料一切を『竹島考證』でたっぷり紹介していたくらいでした。

   もちろん、そこにいう竹島は「サイ爾たる小島」ではなく、朝鮮の欝陵島であり、そのために「竹島渡海之儀」が却下されたことを北沢は承知していたのでした。
   そうした背景を考慮すると、「竹島と称する者」はどうやら「今日の竹島」ではないようです。それが何をさすのか、この疑問に対する解答は『水路雑誌』にあるようです。1880年、海軍は天城艦を再び欝陵島へ派遣しましたが、その記録が『水路雑誌』第41号にこう記されました。

  「竹嶼 [朝鮮人 之を竹島と云ふ]を除くの外 一岩嶼の岸より二鏈半を出る者なし 竹嶼は此島の近海にして最大・・・(注3)」

   さらに『水路雑誌』には丁寧にも欝陵島東岸の地図が挿入されましたが、その地図で今日の韓国名「竹島」は「竹嶼 Boussole Rk」とだけ記され、竹島の名はありませんでした(注3)。
   北沢は、その地図を海軍の『水路雑誌』ではなく「水路報告第三十三號」から入手して『竹島考證』にのせましたが、その時に朝鮮人がいうところの「竹島」が「サイ爾たる小島」にすぎないことを知ったのでした。
   したがって、上の文章にいう竹島は「今日の竹島」というより「韓人称する處の」竹島とみるのが妥当なようです。さらに、海軍がわざわざ竹嶼に [朝鮮人 之を竹島と云ふ]という割り注を入れたことから判断すると、日本ではその島を竹島と呼ばず、竹嶼と呼んでいたことが明瞭です。
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