竹島

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軍艦・天城による韓国名「竹島」の認識2

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2006/07/30 20:58 投稿番号: [14826 / 18519]
   しかし、日本が竹嶼と呼んでいたことを示す資料は他にはないようです。大谷家地図は同島を「マノ島」と記しており、竹嶼の名は見当たりません。また、海軍の主要な情報の入手先であるイギリス海軍の海図や水路情報では朝鮮名の竹島は"Boussole"と記されるのみで、竹嶼の名はありません。
   イギリス海軍の情報ですが、欝陵島は"Matu sima"、あるいは"Dagelet island"と記されました。イギリスの情報を金科玉条にしていた海軍水路部は、その情報から水路雑誌や朝鮮水路誌において一貫してダジュレー島を「欝陵島(一名松嶋)」として一項目を設けて記載しました。かつて、欝陵島が竹島と呼ばれていたことには知見がまったくなかったようです。
   一方、アルゴノートの存在ですが、イギリス海軍はすでに1850年代にはその存在を否定していました。これはフランスの海軍でも同様です。その影響を受け、水路部は同島についてまったく記載しませんでした。

   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん
>   また、『大日本全國略圖』が描かれた当時は、アルゴノートは烏有の島として、その存在を否定されており(描かれたとしても疑存の島として破線で描くのが通常)、『大日本全國略圖』の竹島をアルゴノートに比定できる可能性はゼロです。

   そのとおりです。かのペリー提督の「日本遠征記」(1856)に載せられた「日本近域図」では、わざわざ「アルゴノート   存在せず」と地図中に記入したくらいでした。外務省でも「松島開拓願」による混乱のころ(1877)、おっしゃるように同島を「烏有の島」すなわち存在しない島と認識していました(注4)。
   その十年前の1867年、勝海舟の「大日本國沿海略圖」ですら、アルゴノートに相当する「竹島」は島の輪郭の半分が点線で書かれました。これを「疑存」の島というのでしょうか。勝海舟すら島の存在を半分疑問視していたようです。
   ahirutousagi2さんは、そんな地図を主張の柱にすえ、内務省の地理局はそうした疑存の島の位置情報を信じたと考えるのでしょうか?   たとえ、内務省が作成した「大日本全國略圖」の島の位置が勝海舟の地図に似ていたとしても、それは単なる偶然の一致にすぎません。

   Re:14795、Am_I_AHO_1stさん
>   そもそもが『大日本全國略圖』が『大日本沿海略図』を参照したと思われる経緯もなく、また、参照すべき合理的根拠も考えづらい事から、両図を結びつけるべき理由すら不明とするのが、慎重な科学的態度と云うべきと思われます。

   そのとおりです。たとえ、内務省は勝海舟の地図を持っていたとしても、それよりも松島・竹島へ実際に渡航した大谷家地図に信頼を置き、勝海舟の疑存の地図を排除するのではないでしょうか。それとうらはらに、島根県をつうじて提出された大谷家地図を内務省が排除する理由は皆無です。
   また、ahirutousagi2さんは文部省の地図や陸軍の地図など、島嶼に関しては門外漢の部署の地図をしきりに強調しますが、それらの内容がどうであれ、それらを内務省地理局が島嶼の地図作成の際に活用することなど、およそ考えられないことでしょう。

(注1)「蔚陵島(欝陵島)渡航禁止の件」『日本外交文書』14-16巻,1881-83
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/tokou_kinshi.pdf
(注2)カタカナを平仮名に変換、「サイ爾」の「サイ」は草かんむりに最。デジタル版は(注1)。
(注3)『水路雑誌』第41号,P34、「欝陵島(一名松嶋)」の項
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/suiroshi/suiro_zasshi_41.pdf
(注4)北沢正誠『竹島考證』1881、影印版はエムテイ出版(1996)

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
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