竹島
Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー
>>te2222000君
投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/07/09 22:02 投稿番号: [10120 / 18519]
早く云うと、受け売りばかりで何も知らないと云うことか(W
これは メッセージ 10117 (te2222000 さん)への返信です.
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参考になるかどうか
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/07/09 14:36 投稿番号: [10119 / 18519]
ご質問の件なのですが、実はよくわかりません。皆さんに史料のありかを伺いながら、自己流に解釈している状況ですので、申し訳ないです。
ただ、隠岐古記集が発掘されてから30年以上経ち(とれぞうさんの記述を参考にしました。)、また、斉藤の著書の発掘は随分以前だと思うのに、島前・島後の方向の記述の違いが重要視されないのが不思議なのです。
半月城さんは、「往と住」の関係で、後世の史料の記述をもとに下條教授やクニタカさんの読み方を批判されていましたが、今回の件が誤記かどうかについては、寡聞にして論考があったことを知りません。
しかし、よく考えてみると、往と住は字がよく似ているので、書き間違い、写し間違い等が生じやすいが、坤と巽では字が違いすぎ、単純ミスとするには余程の根拠(同時代の直接的な根拠)が必要だからではないでしょうか。要は、私では、可能性が低いとも高いとも判断が付かないという情けない状況です。
私としては、単純ミスの可能性は捨てきれないけれども、隠州の広がりに対する両著者の認識の違いが原因であるとする方が素直な解釈の仕方だと思うのです。隠岐古記集に松島・竹島の記載がなければ、更にこの解釈が補強されると、史料も探さずに空想しています。
なお、この解釈(個人の地理的認識の解釈)の真偽が、領有権の行方に影響を与えるとは元々思っていません。
これは メッセージ 10118 (te2222000 さん)への返信です.
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>戦々恐々
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/09 08:48 投稿番号: [10118 / 18519]
「あり得ない」という表現は不適切だったようなので、質問し直します。
島前が南東、島後が東と記された理由について tuutuu32 さんは #10097 で
a. 竹島も隠州の一部という意識から、方角を考える基点がずれている
としか考えられない旨をおっしゃっています。
一方、私は
b. 著者が書き間違えた
という可能性を考慮する必要があると思っています。
#10097 を見る限り、tuutuu32 さんは b の可能性はがなり低いと考えていらっしゃるように思えます。この認識は正しいでしょうか。正しい場合、なぜ b の可能性が低いと考えるかの理由を教えていただけませんか。
よろしくお願いします。
これは メッセージ 10115 (tuutuu32 さん)への返信です.
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>te2222000君
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/09 00:00 投稿番号: [10117 / 18519]
> te2222000君。隠岐古記集原典をお提示して頂きたい。
池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」の史料三です。
> その出自等についてもお示いただきたい。
上記論文をご覧いただくのがよいかと思います。私が答えたところで、そこに書かれている以上の回答はできませんので。
これは メッセージ 10114 (torezojp さん)への返信です.
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・・・ブーメラン効果
投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/07/08 21:19 投稿番号: [10116 / 18519]
これは メッセージ 10115 (tuutuu32 さん)への返信です.
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戦々恐々
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/07/08 20:38 投稿番号: [10115 / 18519]
とりあえずということなので、次にどのような御質問があるのか戦々恐々です。さて、今回のお尋ねの件ですが、私は「単純ミスがあり得ない」とは考えておりませんし、そう主張しているものでもありません。
あり得ることを説明するのは比較的簡単かも知れませんが、有り得ないことを説明するのは、「宇宙人がいることなどあり得ないこと」を説明する困難さと同様、非常に難しいでしょう。また、今回のような問題であっても、数百年を経て説明するのは
①斉藤が誰かと議論した史料がある。
②斉藤が別の著作では「坤」としていた。
など、同時代の斉藤自身に関わるこの問題の直接的な記録でもない限り、少なくとも私には無理と自覚しています。
以前、私は「住」と「往」の問題で、誤記かどうかは考えるまでもないと記述したことがありますが、素直に読んで意味が通るなら最初の記述の方を信頼するとの趣旨であり、誤記の可能性を全否定した訳ではありません。
これは メッセージ 10111 (te2222000 さん)への返信です.
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te2222000君
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/08 18:14 投稿番号: [10114 / 18519]
>>島後が震で、島後からみて島前は坤ですね。
>はい、隠岐古記集の記述はそのようですね。
「隠岐古記集の史料は1970年代に姜萬吉氏により
収集されたことになっているが、その出所、典拠が
定かにされていない。」池内敏氏
te2222000君。隠岐古記集原典をお提示して頂きたい。
その出自等についてもお示いただきたい。
これは メッセージ 10111 (te2222000 さん)への返信です.
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引越しおばさんに竹島に移住してもらう
投稿者: keroko26 投稿日時: 2005/07/08 14:37 投稿番号: [10113 / 18519]
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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議論しない朝鮮人
投稿者: konnma01 投稿日時: 2005/07/08 11:47 投稿番号: [10112 / 18519]
少なくとも竹島問題について、朝鮮人は変なこじつけを一方的に強弁するだけでまともな議論には応じようとしないみたいですね。
・国際司法裁判所に付託しよう
→自分の嫁を俺の嫁だといってきた人間に裁判で決着つけようと言うのか!
…向こうから言ってきたら応じますが。
日本((注)朝日的左翼)・中国・韓国共同編集のトンでも歴史本ですら竹島問題には触れられていない。
「取り上げるほど大きな問題でないから」だと。
議論したら負けるのはわかってるんでしょうねえ。
これは メッセージ 10005 (pe_yonzyunn さん)への返信です.
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>島後は坤
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/08 07:56 投稿番号: [10111 / 18519]
>島後が震で、島後からみて島前は坤ですね。
はい、隠岐古記集の記述はそのようですね。
さて、以下のご意見ですが、
> 当面保留すべきでない重要事項ですね。
> 私は、短絡的なのかも知れませんが、
> 斉藤の認識する隠州の範囲は、鬱陵島まで
> 広がっていて、それがために隠州の中心が
> 鬱陵島方向に引っ張られたとしか思えません。
ご自分でもお認めになっているように短絡的だと思います。
とりあえず、著者が単純な勘違いや書き間違いをしたことはありえないと考える理由を教えてください。
これは メッセージ 10110 (tuutuu32 さん)への返信です.
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島後は坤
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/07/08 02:45 投稿番号: [10110 / 18519]
ご教授ありがとうございます。島後が震で、島後からみて島前は坤ですね。鬱陵島などについての認識が違えば、こうするのは当然だと思います。
これは メッセージ 10098 (te2222000 さん)への返信です.
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鬱陵=独島
投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/07/07 20:10 投稿番号: [10109 / 18519]
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
1.独島は歴史的にも朝鮮の不可分の領土
(略)・・・倭人たちの鬱陵島侵略策動は、その後、対馬島主が亡くなり、新しい島主
が江戸に行き、関白(将軍)に「竹島は朝鮮に近いのでお互い争ってはならな
い」と勧告した後に一悶着あったが、結局は朝鮮政府の頑強な態度により、
1696年1月、江戸政府が「竹島とその外の一島(独島)」が朝鮮領であること
を認定し、日本人の鬱陵島水域出入りを禁止する命令をだすようになり、1698
年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認
定し、1699年には文書交換が完了し一旦終りになった。
その後、双方はこの島に出入りする倭人を侵犯罪(越境罪)で取り締まる
ことを約束したが、「空島政策」の余波をついて個別的な倭人たちの不法な出
入りや、その水域への漁労は継続された。倭人たちは巡視制度の間隙を利用し、
群をなして押し寄せ、追い出されても追い出されても再三押し寄せ・・・(略)
----------------------------
http://www.han.org/a/half-moon/hm098.html#No.722>1698年には鬱陵島と独島が「一島二名(ひとつの島にふたつの名)であることを認
定し、1699年には文書交換が完了し一旦終りになった。
と言うことは鬱陵のことを独島と呼ぶ訳だね。鬱陵=独島
朝鮮は鬱陵他6小島以外
知らなかったのだからこれは正解。
日本の松島(現・竹島)日本のものだ。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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論点を正確にお読みください
投稿者: kaebul 投稿日時: 2005/07/07 09:15 投稿番号: [10108 / 18519]
>地図を正確に書くことの難しさが解っていないようだ。知っていれば書けることにならない。現在の君に自明なことでも当時の人々には極めて困難なことなのだよ。
隠州視聴合記に付されているのは、緯度・経度を正確に踏まえた精度の高い地図ではなく、「報告書の内容理解を助ける」程度の略図ですよね。報告書のなかで、「竹島(鬱陵島)」が日本の北西境界である、とするほどの「重要な」指摘をしていた場合、「にもかかわらず」その竹島を付図に載せなかったのは不自然だ、ということなのです。この点について、如何お考えですか、と問うたのです。きちんとご理解ください。
なお、蛇足ですが、隠岐国が日本の北西境界であると斎藤豊仙が考えていたとすると、付図があのような形であることはたいへん自然だと思います。
もう一つ蛇足ですが、やはり史料は、自然に理解できる読み方が正確だということです。数ある「州」のうち、国代記冒頭部分の一つだけは読み替えなければいけない、とか、ほぼ同時代の類似の史料には国代記の「此州」に当たる部分が、「此国」となっていたり、隠岐国であることが明示されているのに、でも、この部分だけは「島」と読み替えて良いのだ、とするのは、不自然きわまりないと思います。そして不自然な読み方というのは、ほぼ100%誤読です。
これは メッセージ 10106 (torezojp さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/10108.html
>愼教授の獨島問答 李奎遠ー2ー
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/07/06 23:36 投稿番号: [10107 / 18519]
メッセ1524を読む限り、
>松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。
したがって、李奎遠は、于山島が獨島を指していないことを確認したのです。
獨島などというものの存在はまったく登場してないのです。
>しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高い
ところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。
山とは、島の頂上で、高すぎたかもしれません。
しかし、本人としては誠実に観察した結果、遠くに何もないと確認したのです。
>すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
済州島とその近辺の島々を耽羅というように、鬱陵島とその近辺の島々を
于山と言うんだと結論してるのです。
つまり、于山島というような特別な島があるのでなく、
鬱陵島諸島を于山と呼ぶのだと、自説を確認しているのです。
にもかかわらず、半月城氏も、愼教授も獨島の存在は聞いて確認したような
記述をしています。
1524のコメントを読んだとき、私は、わけがわかりませんでした。
引用した李奎遠のコメントと半月城氏の解釈がまったくちがうので。
だれが読んでもわかると思うのですが。
よく、こういう文章がかけると思います。
教授の以下の記述はひどいですね。
>
李奎遠一行は、この過程で鬱陵島のすぐ近くにある岩島の竹嶼島(または
通称、竹島)を探しだし観察したが、鬱陵島から 49カイリも離れた于山島
(獨島)は鬱陵島滞在者から存在するという話だけを聞き、現地調査は風浪を
恐れ実行しなかった。
事実は于山島という名前を聞いただけ。ところが49海里も離れていることを
聞いたかのような記述です。
これは メッセージ 10103 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/10107.html
付図
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/06 20:12 投稿番号: [10106 / 18519]
>この図に盛り込まないのは不自然です。どこにあるか知っているのですから。
地図を正確に書くことの難しさが解っていないようだ。知っていれば書けることにならない。現在の君に自明なことでも当時の人々には極めて困難なことなのだよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1667年8月に書かれた隠州視聴合紀に付属の地図を見れば、その正確さに驚かされる。
幕命によって1724年に大谷、村川両家の作製した竹島松島之図というのがあるが、1667年に視聴合した知識から齋藤豊仙にも松島、竹島を含む地図を書けと云われるのかな?
1882年、朝鮮国の鬱陵島検察使・李奎遠の報告と鬱陵島外図をみれば、それがどれ程現実離れした要求で、1667年の齋藤豊仙に求めることが如何に無知で愚かしいことか理解できるはずだがなぁ。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/utsugaizu.html~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1779年(安永八年)になってやっと天才長久保赤水の手により竹島、松島が正確に記された「日本輿地路程全図」を世に出すことができたのだけどね・・・。
これは メッセージ 10101 (kaebul さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/10106.html
愼教授の獨島問答 禹用鼎ー2ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/06 18:03 投稿番号: [10105 / 18519]
引用:
http://www.han.org/a/half-moon/hm102.html#No.742愼教授の獨島問答 Q58, 禹用鼎報告書
Yahoo!掲示板「竹島」#3734
2004年2月22日
Q58.(禹用鼎報告書)
禹用鼎調査団一行が実際に調査した1900年当時、鬱陵島の実態はどうで
あったのか?
日本人が密入島し村をつくって住み、森林を伐採していたのか?
ANS.禹用鼎一行は1900年5月31日に鬱陵島へ到着し、6月1日から5日間鬱陵
島の実態を調査した後、帰京して調査報告書を提出したが、その要旨だけを抜
粋すると次のとおりである。
(1) 鬱陵島は長さ70里(28km)、幅40里、周囲が140-150里の島であるが、槻木、
紫檀、栢子、甘湯などの珍しい木々と各種の樹木がうっそうとしている。島民
が開墾した土壌は肥沃であり、こやしをやらなくても穀物がよく育ち、大麦、
小麦、黄豆、甘藷などを収穫し、余れば売っている。
その間に開墾した農耕地の面積は7700斗落あまりであり、戸数は400余、
人口は男女合わせて1,700余名である。綿花、麻布、紙屬なども外部に頼らず
自給している。凶年には鶴鳥という羽鳥と、茗夷という植物が救荒として用い
られるので飢餓をまぬがれられる。森林がうっそうとしていても、猛獣や茨の
樹木などによる害はない。ただ、地勢の傾斜が急で水田農業をできないのは惜
しいことである。
(2) 日本人の潜入残留者は57間に男女144名であり、停泊している日本の船舶
は11隻で、往来する商船は一定でなく、正確な数は把握できない。
昨年以来、日本人が不法伐採した槻木は71周で、その他に香木と雑木を盗
伐したのは枚挙が困難なほど多い。また、過去1年間に日本人が甘湯木の皮を
はぎ、生汁を運んだのが1000余桶にもなるが、かれらがさらに数年間住めば山
にあふれる樹木が必ずや枯渇してしまうであろう。
また、日本人たちは暴動と乱行がはなはだしい。しかし島監は単身素手で
これを禁じようとしてもできない状況である。日本人が鬱陵島に1日来て泊ま
れば、1日分の害があり、2日泊まれば2日分の害がある。
今回の調査時にかれらは渋々退去すると答えたが、元来日本人の潜入は条
約違反であり、日本公使に要求して撤去させた後にはじめて島民を保護し、森
林を守ることができる。
本調査委員の巡視中にも日本の商船4隻が入ってきたので、翌日聞き取り
をおこなったところ、オノやノコギリなどを装備した伐木の人夫40名とその他
に工匠など計70余名が上陸したという。
日本領事と議論して日本人が盗伐できないよう厳命をくだしたが、われわ
れの船が戻った後はどのような侵略と暴行を繰りひろげるのか心配であり、今
やすべて撤帰させなければならない。
これは メッセージ 10104 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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愼教授の獨島問答 禹用鼎ー1ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/06 18:00 投稿番号: [10104 / 18519]
引用:
http://www.han.org/a/half-moon/hm102.html#No.742愼教授の獨島問答 Q56-57, 鬱陵島の国際調査
Yahoo!掲示板「竹島」#3679
2004年2月15日
Q56.(日本人の密入島)
再赴任した鬱陵島島監の?季周と釜山港外国人税務司の鬱陵島実態調査はど
うであったのか?
ANS.かれらの報告によれば 1899年5-6月現在、鬱陵島には日本人数百名が
群をなして不法侵入し、村落を作って居住しており、引き続き森林を伐採し船
舶を運航して日本へ運びだし穀食と物貨を密貿易していた。
鬱陵島に移住した韓国人がこれを少しでもとがめると、日本人は刀を抜いて
振り回し暴動を起こすので、韓国人の移住民はみな驚愕し、恐れて安堵できな
い実状であると報告書は指摘した。
あわせて鬱陵島島監の?季周は、鬱陵島に不法に入ってきた日本人や、かれ
らの行状はけっして軽視すべきでなく、これを中央政府の命令で厳重に取り締
まらなければ、鬱陵島に移住してきた韓国人が離散してしまうので、取り急ぎ
これを報告するとともに中央政府が積極的に処置するよう要請した。
こうして実態を知るようになった大韓政府は、外部大臣が駐韓日本公使に公
文を送り、鬱陵島に不法密入島した日本人を期限を定め本国に送り返すことと、
開港場でない港で密貿易した罪を「朝・日修好条約」(1876年)の約定により
調査、懲罰し、後日の弊害を永久に根絶することを要請した。
一方、ロシア側は 1899年9月15日付で大韓帝国の外部大臣に公文を送り、日
本人が鬱陵島に不法に入島して村を作って住み、森林を伐採し狼藉を働いてい
るので、開港場でもない鬱陵島に不法密入島した日本人たちを刷還するよう日
本公使館へ強力に要請するよう大韓政府に圧力を加えた。
Q57.(国際調査団)
大韓政府は日本人の不法入島と森林伐採および不法な行状を禁止することを
強力に要求してきたロシア側の圧力にどのように対応したのか?
ANS.当初、大韓政府は日本公使館をつうじて日本人を撤収させようと日本
公使に公文を送った。しかし、日本公使の回答は傲慢不遜にもほどがあった。
たとえば、万一、日本人の違法行為があれば韓国の官憲が逮捕し、近くの日本
領事に引き渡すよう「朝・日修好条約」に規定されているので、韓国官憲はそ
うしろというものであった。
これに大韓帝国の内部当局は、根本対策の樹立が必要なのを痛感し、1899年
12月、内部官吏の禹用鼎を鬱陵島視察委員に任命し、日本側と第三国の外国人
を含めた調査団を派遣し日本人の不法侵入と森林不法伐採の実態調査をし、そ
の後、鬱陵島・獨島の行政官制を改定、格上げし、その行政管理を強化するよ
うにした。
大韓政府は鬱陵島にもっとも近い日本領事館である釜山の日本領事館の責任
者を同行させ、日本側と交渉した。
こうして大韓帝国政府は内部官吏の禹用鼎を責任者にし、韓国側の釜山監理
署主査・金〓秀と封辧の金聲遠、日本側は釜山駐在の日本領事館副領事である
赤塚正助と警部一名、第三国人は釜山駐在税務司の英国人 ラポルテ(E.Raporte,
羅保得)らで調査団を構成し、1900年5月25日、鬱陵島に出発した。
これは メッセージ 10103 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/10104.html
愼教授の獨島問答 李奎遠ー2ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/06 17:47 投稿番号: [10103 / 18519]
引用:
http://www.han.org/a/half-moon/hm102.html#No.742愼教授の獨島問答 Q48, 鬱陵島検察
Yahoo!掲示板「竹島」#3137
2004/ 1/18
Q48.(鬱陵島検察)
鬱陵島検察使・李奎遠が鬱陵島に入り現地調査を実行した結果はどうで
あったのか?日本人たちが実際に鬱陵島にこっそり侵入し伐木していたのか?
ANS.日本人と本国人多数がこっそり入島し、木材を伐採したり、船を造っ
たり、漁をしていた。
鬱陵島検察使・李奎遠は3隻の船と 102人で構成された大規模な現地調査
団を編制した。李奎遠一行は 1882年陰暦4月29日、3隻の船に分かれて乗り、
江原道 平海 邱山浦を出発し、4月30日、鬱陵島西面小黄土邱尾に到着した。
5月1日から満6日間、徒歩で鬱陵島内を現地踏査し、ついで2日にわた
り船で鬱陵島海岸を一回りし、海岸調査を実施した。
李奎遠一行は、この過程で鬱陵島のすぐ近くにある岩島の竹嶼島(または
通称、竹島)を探しだし観察したが、鬱陵島から 49カイリも離れた于山島
(獨島)は鬱陵島滞在者から存在するという話だけを聞き、現地調査は風浪を
恐れ実行しなかった。
李奎遠一行は出発当初から風浪を恐れ、鬱陵島に到着後はいつも明け方に
風浪を鎮める山神祭を行っていた。しかし、李奎遠は古代の于山国の基盤が鬱
陵島・竹嶼島・于山島(獨島)の三島で構成されていたと確信し認識を強固に
して戻った。
鬱陵島検察使 李奎遠一行が鬱陵島の現地調査で検察した内容のうち、鬱
陵島・獨島再開拓と関連したいくつかの事項をかれの日記と報告書でまとめる
と次のような事実が特に目を引く。
(1)鬱陵島に入っている本国人(朝鮮人)は全部で 140名だが、出身道別に
みれば、全羅道が 115名(全体の82%)、江原道(平海)が 14名(10%)、慶尚道
が 10名(7%)、京畿道(披州)が1名であった。
全羅道出身は南海岸の島や沿岸に居住する人たちが1隻の船に 13-24名ず
つ乗って来ており、集団別にテントを張り滞留しながら木を伐り船を造ってい
た。
(2)本国人の職業をみれば、木を伐り船をつくる人が 129名(全体の 92.2%)、
朝鮮人参など薬草を採る人が9名(6.4%)、竹を伐る人が2名(1.4%)などであった。
全羅道(115名)と江原道(14名)から来た人たちは 13-24名がひとつの集
団をなしてテントを張って暮らし、材木を切り船(船舶)を造り、時にはワカ
メ採りをしたり漁をしたが、船(船舶)ができると、その新しい船にワカメと
魚を積んで帰った。
慶尚道の慶州から来た7名と咸陽から来た1名(全錫奎)、京畿道の披州
から来た1名は朝鮮人参と薬草を採り、慶尚道の延日から来た他の2名は竹を
伐っていた。
(3)鬱陵島に侵入した日本人は全部で 78名であった。かれらはみな材木を
切って積みだすために来たのであり、材木を切り板材を作る所が海岸に18か
所あった。
日本人と筆談をしてみたところ、その答の要旨は
(A) 日本の東海道、南海道、山陽道の人たち 78名が今年4月に鬱陵島に入り
テントを張って伐木をしており、
(B) 今年8月に日本から船舶が来れば木材と板材を積んで帰る予定であり、
(C) 朝鮮政府が鬱陵島の材木伐採を禁止しているのを知らないばかりか、
(D) 鬱陵島が「日本帝国地圖」に松島と表示されており、日本領と理解してい
ると答えた日本人もおり、
(E) 二年前にも鬱陵島に入り材木を伐採して積んで行き、
(F) 鬱陵島南浦には鬱陵島を「日本国松島」と書いた標木が立っている、
とのことであった。
(4)検察使一行が鬱陵島の長斫之浦に行ったところ、海辺の石だらけの道に
長さ6尺、幅1尺(30cm)の標木が立っていた。その標木の前面には「大日本国
松島槻谷」と書かれ、左辺には「明治二年二月十三日 岩崎忠照 建立」と書か
れていた(注)。日本人が 1869年に鬱陵島に入り、日本国の「松島」という
標木を立てていたのである。
(5)鬱陵島を再開拓して邑をつくる場合に住居地としては羅里洞が長さ10里、
周囲が40余里にて数千戸を居住させることができるし、このほかにも 100-200
戸を収容できるところが6−7か所あることを調査した。また、浦は 14か所
と比較的豊富で、代表的な物産として 43種をあげ報告した。
朝鮮の中央政府はこの現地調査報告書にしたがい、1882年5月鬱陵島の実
態を正確に把握するようになった。
(注)原文では「明治二年二月二十三日 崎岩忠照」とあるのを訂正。
これは メッセージ 10102 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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愼教授の獨島問答 李奎遠ー1ー
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/07/06 17:42 投稿番号: [10102 / 18519]
引用:
http://www.han.org/a/half-moon/hm102.html#No.742愼教授の獨島問答 Q47, 空島政策の再検討
Yahoo!掲示板「竹島」#2875
2004/ 1/11
Q47.(空島政策の再検討)
日本が軍艦を派遣して鬱陵島を実測調査して「竹島」だの「松島」だの
「リアンクール岩」などの名前を勝手につけ、海岸と領土をねらっていたとき、
朝鮮政府は何をしていたのか?
ANS.朝鮮政府も徐々に覚醒していた。鬱陵島に対する「空島政策」を廃止
して鬱陵島に国民移住を許可し、鬱陵島および獨島を再開拓しようとする動き
もでてきた。
1868年、日本で徳川幕府政権が崩壊し、明治維新政府が樹立され「征韓論」
と対外膨張が積極的に鼓吹されるや、徳川幕府時代末までは国境を越えて鬱陵
島・獨島に渡れなかった日本人の中には、今度は国境を越え鬱陵島にこっそり
入り、木材を伐り漁をする輩が次第に増えていった。
1881年、この事実を鬱陵島の巡視・捜討にやって来た朝鮮の捜討官たちが
摘発し、江原道の観察使をつうじて中央政府に報告した。
朝鮮王朝が開港したのちに設置された新行政機構である統理機務衙門はこ
の問題に対し、(1)日本政府に抗議文書を送り、日本人の鬱陵島不法侵入に
対する禁止令の実施を要求し、(2)鬱陵島防衛と守護のために副護軍の李奎
遠を鬱陵島検察使に任命し、詳細な現地調査を実施したのちにその報告を検討
し、鬱陵島「空島政策」廃止の是非と「再開拓」の是非を決定することにし、
この対策を国王に建議した。国王も統理機務衙門の建議を允許し、李奎遠を
1881年5月23日「鬱陵島検察使」に任命した。
鬱陵島検察使の李奎遠は、もし発令後に準備を整えて出発すれば、伐木の
季節が過ぎ日本人が撤収してしまうので、出発予定日を翌年にした。その結果、
李奎遠が鬱陵島の現地調査のために実際にソウルを出発したのは陰暦 1882年4
月10日であった。
李奎遠は出発に先立ち、4月7日に国王に謁見し出発の挨拶をしたが、そ
の場で国王は鬱陵島の東30里(12km,半月城注)程度に「于山島(獨島)」が
あり、また「松竹島」という島もあり、島が三つという説もあるので、これも
調査してくることと、鬱陵島の現地調査時に、人を移住させ邑を設置しうる候
補地を調査してくるように命令し、鬱陵島「再開拓」の意志を強力に示した。
コメント:李奎遠が王と面談した会話は下記に記したとおりです。
<『高宗実録』と鬱陵島検察>
両者の鬱陵島や周辺の島に関する認識は下記のとおりで、王のほうが李よ
り正確だったといえます。
王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松
島+竹島
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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付図
投稿者: kaebul 投稿日時: 2005/07/06 12:59 投稿番号: [10101 / 18519]
>エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。
隠州視聴合記の付図をめぐって、あなたの趣旨とはズレますが、確認したいことがあります。この付図は、報告書の付図である以上、報告書の内容理解を助ける意図で付けられたものですよね。その図は、誰が見ても明らかなように、「隠岐国」の全体を示すものであり、竹島・松島が載っていません(蛸木浦沖合の松島は載っていますが、これは論点となる松島とは違いますので無関係です)。
付図に、なぜ竹島・松島が載っていないのですか?それは、隠州視聴合記の主題が「隠州=隠岐国」であって、「竹島・松島」は、あくまで従属的な位置づけでしかないからでしょう?国代記冒頭部分にある「此州」が鬱陵島のことを指すのだとしたら、この図に盛り込まないのは不自然です。どこにあるか知っているのですから。
これは メッセージ 10100 (torezojp さん)への返信です.
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隠州視聴合紀「国代記」
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/06 07:23 投稿番号: [10100 / 18519]
隠州視聴合紀の「国代記」
1667年8月、出雲松江藩の隠岐郡代・齋藤豊仙が、約2ヶ月を掛けて隠州を巡察した際、「視て」「聴いて」採録したものを記した近世隠岐の地誌である。
--------------------------------
1.隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、
其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、
2.従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、
3.戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、
4.此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、
1.隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。
(割注)「按ずるに、倭訓に海中を遠幾(おき〉というゆえの名か。」
南東にあるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
東にくらいするを島後という。周吉郡・穏地郡これに属す。その府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
2.これより南は、出雲国美穂関に至ること三十五里、南東は、伯耆国赤碕浦に至ること四十里、南西は、石見国温泉津に至ること玉十八里、北から東に至る往くべき地無し。
3.戌と亥のあいだの方角(概ね北西方向)へ行くこと二日一夜にして松島あり、そこ(松島)からさらに一日ほどで竹島あり。
(割注)「(俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、多し。)(按ずるに、神書にいういわゆる五十猛か。)」
4.この二島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。そうであるならば、則ち、日本の北西の地はこの州をもって限りとす。
1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と隠岐の国の位置関係を述べた部分
1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も同じ)の方位より45度から60度弱位、時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。ということは、斉藤豊仙に依り加えられた文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
このことより「日本の北西の地はこの州(くに)をもって限りとす。」から、則ち、「日本の北西の地はこの嶋(竹島)をもって限りとす。」との結論が導かれる。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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「此二島無人之地」が割注でない理由
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/06 00:46 投稿番号: [10099 / 18519]
隠州視聴合紀のテクストは一部が割注、つまり小さい字で注として書かれています。しかし、ネット上で見かけるテクストは、私の #9648 もそうですが、割注を明示していないことがあり、意識せずに読んでいる人もいるかもしれません。
以下に割注を明示して、国代記のうち隠州の地理的特性について述べた部分(以下、国代記地理部)を掲載します。角括弧[ ]でくくった部分が割注です。テクストは池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」の史料四に基づいています。
--------------------------------
(a) 隠州在北海中故隠岐嶋
(b) [按、倭訓海中言遠幾故名歟]
(c) 其在巽地言島前也
(d) 知夫郡・海部郡属焉
(e) 其位震地言島後
(f) 周吉郡・穏地郡属焉
(g) 其府者周吉郡南岸西郷豊崎也
(h) 従是南至雲州美穂関三十五里
(i) 辰巳至伯州赤碕浦四十里
(j) 未申至石州温泉津五十八里
(k) 自子至卯無可往地
(l) 戌亥間行二日一夜有松島
(m) 又一日程有竹島
(n) [俗言磯竹島]
(o) [多竹・魚・海鹿]
(p) 此二島無人之地
(q) 見高麗如自雲州望隠岐
(r) 然則日本之乾地、以此州為限矣
--------------------------------
さて、ここで (n),(o) を見てください。
(n) [俗言磯竹島]
(o) [多竹・魚・海鹿]
この二つの文は竹島についての補足情報であり、隠州についての情報でもなければ、地理的特性についての情報でもありません。国代記地理部の主題である「隠州の地理的特性」からは明らかに外れた内容なので、本文ではなく割注として書かれたのでしょう。
では、次に (p) を見てください。
(p) 此二島無人之地
これも隠州についての情報ではありません。また地理的特性についての情報でもありません。その点で (n)(o) と同じです。それにも関わらず、(p) は本文として書かれています。なぜでしょうか。(n)(o) と (p) では何が違うのでしょうか。
「此州」が隠州を指すと考えると、この疑問について、以下のようにすっきり説明できます。
○ (p)が割注でなく、本文として書かれている理由
------------------------------------
-
(p)〜(r)は、隠州が地理的特性として「日本の北西国境」という性質を持つことを説明した段落である。隠州の日本における位置を端的に示して、国代記地理部を締めくくっている。
この段落は、(p)(q)で竹島と松島が日本と言えない理由を示し、それを受けて(r)で結論を下す構成になっている。すなわち、(p)松島と竹島は無人島であり、(q)雲州から隠岐を見るように朝鮮を見ることができる。[日本から二日航程以上離れていて、無人の、したがって日本人が住んでいない島を日本の領土とは言いがたい。朝鮮が、見える程に近いのであればなおさらそうである](r)したがって、日本の北西の地は隠州が限界である、という構成である。
(p)の一文だけ見ると、隠州についての記述でもなければ、地理的特性についての記述でもないようだが、実際はこのように隠州の地理的特性を記述した段落の不可欠な構成要素である。そのため本文として書かれている。
------------------------------------
-
なお、この解釈をした場合、無人島である竹島と松島は朝鮮領ともみなされないであろうことを付言します。
さて、「此州」が竹島(あるいは竹島と松島)を指す場合にはどのような説明が可能でしょうか。私は適切な説明を思い付きません。この点からも、私は「此州」が隠州を指す可能性が高いと考えます。
もっとも、単に私が間抜けで説明を思い付かないだけということもありそうなので、掲示板をお読みの方で (p) が割注ではない他の理由を思い付いた方は是非教えてください。
よろしくお願いします。
これは メッセージ 10041 (te2222000 さん)への返信です.
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>>島前が巽(南東)で、島後が震(東)
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/06 00:36 投稿番号: [10098 / 18519]
> ところで、隠岐古記集では、島後は、どの方向と
> されているのでしょうか。また、是ヨリとは
> どこからのことなのでしょうか。
池内敏氏の「前近代竹島の歴史学的研究序説」は半月城通信で公開されているのでご自分で確認されるとよいと思います。URLは、#9950 に書かれています。
これは メッセージ 10097 (tuutuu32 さん)への返信です.
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>>島前が巽(南東)で、島後が震(東)
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/07/05 20:45 投稿番号: [10097 / 18519]
当面保留すべきでない重要事項ですね。
私は、短絡的なのかも知れませんが、斉藤の認識する隠州の範囲は、鬱陵島まで広がっていて、それがために隠州の中心が鬱陵島方向に引っ張られたとしか思えません。
隠岐古記集の著者は、斉藤のような認識がなかったから、修正したのだと思います。これも当然のことでしょう。
ところで、隠岐古記集では、島後は、どの方向とされているのでしょうか。また、是ヨリとはどこからのことなのでしょうか。
これは メッセージ 10092 (te2222000 さん)への返信です.
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>Re:lib1964_1982君に
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/05 18:53 投稿番号: [10096 / 18519]
【引用開始】
以下は感想。
「南、南東、南西、北から東、北西」の順に述べられている記述を、「南、南東、南西、北から東」と「北西」を分離して、前者は隠岐国外、後者は隠岐国内と読むべきであるとの解釈には賛成しかねますが、私が、その可能性が無いと言っているわけではありません。
【転写】
従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。と言うことは、斉藤豊仙に依る文書は、2.以降の部分の記載であろう。
…見聞が加わり地誌に3.〜4.の記載が加わったものと考えられる。
【転写終】
2.〜3.の方位が、ほぼ現在の方位と同様であり、2.以降が同一人物によって書かれたことは、そのように推察できると思います。
2.が先に成立し、3.以降があとから成立したのか、同時に書かれたのか。それは、私にはなんとも言えません。
torezojp君、自らそれを実証し、学会に発表したらいかがかな。
【引用終了】
お手前と違って愚老は寺子屋しか出てないもので、掲示板か、せいぜい会議室が似合っておるわ。(苦笑)
学会発表するまでもなく、今回の池内論文以外は
隠州在北海中故云隠岐島、
従是南、至雲州美穂関三十五里、辰巳至泊州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島
多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
のように斉藤豊仙の「隠州視聴合紀−国代記」でこの部が引用され論じられることが多いわな。愚見では1.歴史的記述の部分と、2.〜4.の部分が区別され、1.を除く部分が江戸時代の(松島発見後)書かれた斉藤豊仙の記載であることが先の「方位のズレ」などから自明のこととして議論されていたものと考えておるわ。定説以前の問題であろうよ。げに、門外漢は、己の分を守り掲示板で吠え合うぐらいが身分相応でないかな、lib1964_1982猊下。サマと云ってみたり君付けにしたりしてみたり、”徒に己を貶めるでないヨ。”
これは メッセージ 10095 (lib1964_1982 さん)への返信です.
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Re:lib1964_1982君に
投稿者: lib1964_1982 投稿日時: 2005/07/05 13:37 投稿番号: [10095 / 18519]
torezojp君へ
このような記事に反応することは気が進まないのだけれど、名前を呼ばれたので、しかたなく応答しましょう。
>お手前の解釈は凡て誤っており、勝手読みと云うべきものである。
古文書解釈は背景となる文化の理解が必須であるため、私自身は解釈しないことにしています。私にできることは事実の列挙と、自分の感想だけです。
独自解釈をした場合、学会誌に発表するなりして、学会の議論を経て定説になってゆく必要が有るでしょう。インターネットの掲示板には、まだ、それだけの力は無いでしょう。
torezojp君も、自信のある、まともな新解釈であるならば、学会に発表する事が良かろうと思います。
私も、自分の専門分野では稀に学会誌に寄稿したり、シンポジウムで発表したりしていますが、歴史が専門でない者が、独自な新解釈をしても無意味と思っております。
【転写】
1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と隠岐の国の位置関係を述べた部分
【転写終】
4に付いては、高麗と書いてあるが、国とは書かれていない。高麗は朝鮮半島を意味するのか朝鮮国を意味するのか、両説あると思う。
2に付いては、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の方向のうち、子丑寅卯辰巳午未申の方向について述べています。これらはすべて、隠岐国の外側のことです。2の記述には、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の方向のうち酉戌亥の方向については記載されていません。
torezojp君が『4方位』をどのような意味に使用しているのかは知らぬが、東西南北方向に付いて述べているわけでもなく、また漠然と周囲一円に付いて述べているわけでもない。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の方向のうち、子丑寅卯辰巳午未申に、ついて述べていることは事実である。詳しく言うと、南、南東、南西、北〜東の順に述べられているわけである。
2.で欠落している戌亥の方向については3で述べられています。
以上、事実の列挙です。
以下は感想。
「南、南東、南西、北から東、北西」の順に述べられている記述を、「南、南東、南西、北から東」と「北西」を分離して、前者は隠岐国外、後者は隠岐国内と読むべきであるとの解釈には賛成しかねますが、私が、その可能性が無いと言っているわけではありません。
【転写】
従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。と言うことは、斉藤豊仙に依る文書は、2.以降の部分の記載であろう。
…見聞が加わり地誌に3.〜4.の記載が加わったものと考えられる。
【転写終】
2.〜3.の方位が、ほぼ現在の方位と同様であり、2.以降が同一人物によって書かれたことは、そのように推察できると思います。
2.が先に成立し、3.以降があとから成立したのか、同時に書かれたのか。それは、私にはなんとも言えません。
torezojp君、自らそれを実証し、学会に発表したらいかがかな。
これは メッセージ 10089 (torezojp さん)への返信です.
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RE: 島前が巽(南東)で、島後が震(東)
投稿者: lib1964_1982 投稿日時: 2005/07/05 09:25 投稿番号: [10094 / 18519]
島前と島後の方向は、両者の中心を基準にすれば、180度異なります。方位の基準がどうであっても、関係有りません。また、経緯線を基準にすれば、島前と島後の方向が、90度か180度、異なることになるでしょう。
島前は南西、島後は北東といったならば、両者の中心を基準にしていると推定されるし、島前は南、島後は東といったならば、経緯線を基準にしていると考えられるでしょう。
島前を巽(南東)、島後を震(東)、と記述しているので、両者の角度は45度になります。45度であることの説明は、方位の基準では不可能です。(この意味分りますか。一方をある角度回転させると、他方も同じ角度回転するので、両者の差は相殺すると言うことです。)
著者が、何故に、両者の角度を45度に書いたのか、私には分りません。
しかし、もし90度だとすると、ちょっと困ったことが起こります。島前を巽(南東)と記述し、そこから90度のところは鬼門です。まるで、魑魅魍魎の世界のようになってしまいます。
島後を震(東)として、そこから90度回転させると、島前は午(南)になります。当該文章の後のほうで、隠岐国の外がどのようになっているのか、南から戌亥まで説明しているところが有ります。このなかで、南だけは午と言わずに、南となっているでしょう。
午は陰陽道で火の位です。このため、午と言うと火災の難が連想されます。「ヒノエウマ」はその極端な例です。
著者が、島前を巽(南東)、島後を震(東)と記した理由は、私には分りませんが、鬼門(東北)と午(南)を避けて記している点に、著者の細やかな情が感じられます。
島前を南西にしなかった理由は全く分りません。
これは メッセージ 10088 (tuutuu32 さん)への返信です.
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>>無人島を領土として認識したか
投稿者: puracyaka 投稿日時: 2005/07/05 08:22 投稿番号: [10093 / 18519]
斉藤豊仙の書きぶりは、無人島には領有権は成立しないと考えているように思えます。隠州視聴合記の解釈としては、竹島松島は①日本領である、②無帰属地である、③朝鮮領である、の3種でしょうが、③だけがあり得ないのです。なぜなら、husenoyajiさんが指摘しているとおり、「日本領を限定したのですから、朝鮮領であると考えるならそう書く方が自然」だし、無人島に領有権が成立しないのであれば、当然朝鮮領でもあり得ないからです。当時が鎖国時代であることを想起すれば、③があり得ないのは当然なのですが、韓国人は「日本領でない=朝鮮領」という意図的なすり替えをやってきますからご用心。なお、幕府が無人島にも領有権が成立すると考えていたことは、小笠原諸島探検を見ても明らかだと思います。
これは メッセージ 10076 (te2222000 さん)への返信です.
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>島前が巽(南東)で、島後が震(東)
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/05 06:29 投稿番号: [10092 / 18519]
私も以前疑問に思って #9311 で質問したのですが、回答はありませんでした。
その後、池内敏氏が「前近代竹島の歴史学的研究序説」註6で以下のように述べているのを見つけました。
−−−−−−−−−−−−
なお、隠岐嶋のうち島後が震(東の方向)に位置するというのはともかく、島前が巽(南東の方向)に位置するというのは実際の位置関係(南西)からすると疑問が残るが、この点については当面保留しておく。
−−−−−−−−−−−−
結局「変だけど、解釈に影響しそうにないから、今は深く考えない」ということですね。
なお、隠州視聴合紀を底本にして増補したといわれる隠岐古記集が、同論文に史料三として掲載されていますが、そこでは「是ヨリ坤地に位するを嶋前といふ」と修正されていますね。
これは メッセージ 10088 (tuutuu32 さん)への返信です.
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>te2222000さんへ
投稿者: te2222000 投稿日時: 2005/07/05 06:10 投稿番号: [10091 / 18519]
> >日本の領土から一日以上離れており、外国が、見える程に近いところにある無人島を領土として認識したか。
>
> ま、そういうことではありますが、獨島からは外国が見え
> ませんし、隠岐のほうが近いはずです。
まず、「一日以上」と書いたのは「二日以上」の間違いでしたので訂正します。
さて、島の位置が実際にどうであるかということと、隠州視聴合紀の著者がどう思っていたかということは分けて考えないといけないと思います。隠州視聴合紀を読む限り、松島が朝鮮と隠岐のどちらに近いとも認識されていません。
また、隠州視聴合紀の記述が竹島と松島の所属を別に考えているとは到底思えません。松島は日本領だが、竹島は領土外というような読み方は不可能でしょう。
私は、松島から朝鮮が見えるという解釈さえできると思っていますが、これはなかなか同意しない人が多そうだし、議論を進める上で不可欠な論拠ではないので、今はこだわりません。
> 日本人がもっぱら往来していれば日本領と認識して不思議はないですね。
> そう言う時期もあったようですから。
> 安龍福を拉致した漁民たちは少なくとも日本領といわない
> までも、なわばり程度にはかんがえていたことは確実です。
不勉強なので断言はできませんが、妥当な考え方のような気がします。
ところで、現在の議論は、husenoyajiさんが#10036で「竹島と松島は日本領として記述されているとしか読めない」と書かれたことに対し、私が #10041 で「位置や無人島の記述を考えれば日本領でないという読み方が可能」と答えたことが始まりです。
なので、私としては「竹島と松島が日本領でない読み方が可能」であることを示せば十分だと思っています。もう少しくどく書くと「竹島と松島が日本領だとする読み方と、そうでないとする読み方の両方が可能」であれば、私の主張としては十分です。
husenoyajiさんが上で示された考え方は、竹島と松島が日本領だとする読み方を支持しますが、別に日本領でないという読み方を否定するものではないので、私としては特に反論しなくても良いと思っています。
これは メッセージ 10083 (husenoyaji さん)への返信です.
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tuutuu32さん
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/05 00:28 投稿番号: [10090 / 18519]
>其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、其位震地言島後
>島前が巽(南東)で、島後が震(東)というのは一体どういうこと?隠州の中心は島後と島前の中間ではないわけ?
貴重な御指摘を頂き心より感謝しております。
これは メッセージ 10088 (tuutuu32 さん)への返信です.
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lib1964_1982君に
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/05 00:19 投稿番号: [10089 / 18519]
【転写】
1.は隠岐国自体の説明です。
2.は隠岐国の外に何があるのかを各方向ごとに、説明しています。
午(南)
雲州美穂関
辰巳
伯州赤碕浦
未申
石州温泉津
子丑寅卯
なにもない(・・・略)
3.は戌亥の方向の説明をしています。松島、竹島があるとの説明です。
さらに、4.で松島、竹島の説明が有ります。高麗(朝鮮半島あるいは朝鮮国)に近いとの説明がなされています。
torezojpさまは、2.と3.を分けていますが、これらは共に、隠岐国の外に何があるのかを各方向ごとに、説明している一環でしょう。
このように、隠州視聴合記を詳しく見ると、松島、竹島は隠岐国の外であることは容易に理解できると思います。
【転写終】
それは違うだろうな。
1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と隠岐の国の位置関係を述べた部分
1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も)の方位より60度弱時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスは隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。と言うことは、斉藤豊仙に依る文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
故に、お手前の解釈は凡て誤っており、勝手読みと云うべきものである。
これは メッセージ 10086 (lib1964_1982 さん)への返信です.
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島前が巽(南東)で、島後が震(東)
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/07/04 19:51 投稿番号: [10088 / 18519]
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、其位震地言島後
島前が巽(南東)で、島後が震(東)というのは一体どういうこと?隠州の中心は島後と島前の中間ではないわけ?
これは メッセージ 10087 (lib1964_1982 さん)への返信です.
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Re2:『隠州視聴合記』の新解釈
投稿者: lib1964_1982 投稿日時: 2005/07/04 12:35 投稿番号: [10087 / 18519]
補足です。
隠州視聴合記の著者は几帳面な人だったのでしょう。以下の文章で、順番を見てください。
南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島
1、南
2、辰巳(南東)
3、未申(南西)
4、自子至卯(北から東)
5、戌亥(北西)
方向を示すことを「指南」というように、方位の基準は南でした。だから、最初に南の記述があります。また、東と西では東が先です。この順にしたがって、南東、南西の順に記述されています。残りは、北から東と、北から西です。これも、東が先に書かれています。
このように見ると、戌亥以下が後年になって加筆されたものとは考えにくく、『南〔ノ方〕至雲州』と一体のものであると考えたほうが自然ではないでしょうか。
これは メッセージ 10086 (lib1964_1982 さん)への返信です.
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Re:『隠州視聴合記』の新解釈
投稿者: lib1964_1982 投稿日時: 2005/07/04 09:47 投稿番号: [10086 / 18519]
torezojp さまは書きました(後半を省略しました。すみません。)
>1.隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。(以下省略)
>2.これ(隠岐国)より南は、出雲国美穂関に至ること…(以下省略)
>3.(隠岐国より)戌と亥のあいだの方角(概ね北西方向)へ行くこと二日一夜にして松島あり…(以下省略)
>4.この二島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し…(以下省略)
torezojp さまの隠州視聴合記の分析は完璧だと思いますが、さらに分析してみます。
1.は隠岐国自体の説明です。
2.は隠岐国の外に何があるのかを各方向ごとに、説明しています。
午(南)
雲州美穂関
辰巳
伯州赤碕浦
未申
石州温泉津
子丑寅卯
なにもない
この説明では、隠岐国の外に何があるのかを説明しているのに、酉と戌亥の方向が欠落しています。
3.は戌亥の方向の説明をしています。松島、竹島があるとの説明です。
さらに、4.で松島、竹島の説明が有ります。高麗(朝鮮半島あるいは朝鮮国)に近いとの説明がなされています。
torezojpさまは、2.と3.を分けていますが、これらは共に、隠岐国の外に何があるのかを各方向ごとに、説明している一環でしょう。
このように、隠州視聴合記を詳しく見ると、松島、竹島は隠岐国の外であることは容易に理解できると思います。
では、松島、竹島がどの国の領土であると認識していたのか、無人島のためどこの領土でもないと認識していたのか、あるいは、特に何も考えていなかったのか、隠州視聴合記だけでは分りません。
しかし、隠州視聴合記の記述をがどのようなものであれ、領土問題とは直接には関係ないことです。
一例をあげると、日本最北端の地は宗谷岬であると、現地に書いてあります。だからといって、それよりも北にある択捉島の領有を日本が放棄したことになりません。なぜ、宗谷岬が日本最北端なのか。宗谷町関係者に聞いてみたところ、「これ以外観光資源がないんです」だそうです。
隠州視聴合記の「然則日本之乾地、以此州為限矣」には、どこか隠岐国のお国自慢を感じます。
これは メッセージ 10081 (torezojp さん)への返信です.
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>torezojp さん・・・
投稿者: kikousidayo 投稿日時: 2005/07/04 00:11 投稿番号: [10085 / 18519]
>「日本の北西の地はこの州(くに)をもって限りとす。」から、
則ち、「日本の北西の地はこの嶋(竹島)をもって限りとす。」
の結論が導かれる。(# 10070)
要は同じじゃないの・・・
これは メッセージ 10084 (kana_ikeuchi さん)への返信です.
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torezojp さん・・・
投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/07/03 23:05 投稿番号: [10084 / 18519]
torezojpさんは「州は嶋と読む」から
「州と読む派」に衣替えですか?
これは メッセージ 10081 (torezojp さん)への返信です.
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te2222000さんへ
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/07/03 21:55 投稿番号: [10083 / 18519]
>日本の領土から一日以上離れており、外国が、見える程に近いところにある無人島を領土として認識したか。
ま、そういうことではありますが、獨島からは外国が見え
ませんし、隠岐のほうが近いはずです。
日本人がもっぱら往来していれば日本領と認識して不思議はないですね。
そう言う時期もあったようですから。
安龍福を拉致した漁民たちは少なくとも日本領といわない
までも、なわばり程度にはかんがえていたことは確実です。
これは メッセージ 10076 (te2222000 さん)への返信です.
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kikousidayoさんへ
投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/07/03 21:49 投稿番号: [10082 / 18519]
類似例の指摘ありがとうございます。
日本領のすぐ近くであれば、当然領土と考えたでしょうね。
しかし遠く離れた海のなかにぽつんとある島については、領土と考える必要もなかった可能性も考えています。
今の領土概念とは違いますからね。
これだけでは結論は出ませんね。
これは メッセージ 10075 (kikousidayo さん)への返信です.
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改訂『隠州視聴合記』の新解釈(III)
投稿者: torezojp 投稿日時: 2005/07/03 19:56 投稿番号: [10081 / 18519]
隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、・・・(中略)
1.隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。(割注)按ずるに、倭訓に海中を遠幾(おき〉というゆえの名か。(隠岐国のうち)南東にあるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。(隠岐国のうち)東にくらいするを島後という。周吉郡・穏地郡これに属す。その(隠岐国の)府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
2.これ(隠岐国)より南は、出雲国美穂関に至ること三十五里、(隠岐国より)南東は、伯耆国赤碕浦に至ること四十里、(隠岐国より)南西は、石見国温泉津に至ること玉十八里、(隠岐国より)北から東に至る往くべき地無し。
3.(隠岐国より)戌と亥のあいだの方角(概ね北西方向)へ行くこと二日一夜にして松島あり、そこ(松島)からさらに一日ほどで竹島あり。(割注)俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、多し。(按ずるに、神書にいういわゆる五十猛か。)
4.この二島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。そうであるならば、則ち、日本の北西の地はこの州(くに)をもって限りとす。
1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と隠岐の国の位置関係を述べた部分
これらの記載は隠岐国の地理的特性を述べるに際して締りをつける部分にあったている。こうした点に鑑みて史料を素直に解釈しようとすれば、4.にある二島が何に属し、「此州」が何を指しているかは自ずから明瞭であり議論の生じよう筈もない。云うまでもなく、それは隠岐国でなければならぬ。
按ずるに後年、竹島(鬱陵)の領土紛争が生じるとは当時としては予見されたり、考えられなかったため、隠岐国のこれまでの歴史的構成に、新しく始まった鬱陵の開発経営と新規に発見された松島(大谷文書)の見聞が加わり地誌に3.〜4.の記載が加わったものと考えられる。
【終了】
これは メッセージ 10080 (torezojp さん)への返信です.
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