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シドニーブルース−4−新婦拉致

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 14:25 投稿番号: [2952 / 3669]
シドニーブルース−第4話−新婦拉致 2003/ 9/17 19:12
メッセージ: 5479 / 6027

投稿者: ilkuji
世界的な新婚旅行地で脚光を浴びてる豪州。特にシドニー、ゴルドコスト
もしくはケアンズには多くの日本人新婚さんたちで混んでいる。最近はどこにも
サースのために閑古鳥が鳴いているが。てんから新婚旅行を兼ねて結婚式を
ここに来て揚げて帰る日本人も多い。生涯一度のイベントとして多くの親戚と
友人たちを招待して成婚宣言をする従来の結婚式の概念が変わっていくという
べきか。国内で礼式を揚げるには式場レンタル費用と披露宴などたくさん経費が
かかる。勿論一生一度の行事なので借金をしてもやりたいなら仕方ないけど
費用も節減できて当事者二人たけで外国に来て異国的な雰囲気で挙式しアルバム、
ビデオなどを作ってもらって帰ることが日本では若い世代の新たな結婚慣習
として落ち着いた。祝儀なら本国に帰って披露宴を開き、ビデオとアルバムを
見せながら集金するパタンである。少し余裕のある家庭なら両家の父母を連れて
くることもあるが。

某夫婦は日本で結婚式を揚げたあと、皆がやってるようにシドニーへ新婚旅行に
来た。ホテルにチェックインしたあと、二人は市内観光を兼ねて買い物に出た。
どころがショッピングセンターから新婦がいきなり消えた。一人に残された新郎は
いくら待っても連絡がなく、警察に行方不明届けを出した。比較的に治安がよく、
観光地でいい評判を持ってる旅行業界は勿論、警察の立場でも深刻な問題で
あった。今まで積んできた安全な旅行地のイメージに大きな打撃を受けるように
なった。そういう渦中に消えた二日後、新婦から新郎に電話がかかってきて
「自分は拉致されて今、ゴルドコストに来ている」といわれた。警察は特別斑を
構成、現地へ急派する一片、シドニーでの本人の行跡を捜査しはじめた。連日、
新聞では「新婚旅行中、拉致され」との題名の記事が特筆大書され、放送も
負けずに捜査速報を伝える状況へ発展した。

拉致され一週間経って、新婦がシドニーのある郊外にあるモテルで発見された。
発見というより警察が見つけたというべきか。拉致というのも嘘であり、何より
モテルの部屋で他の日本人男と投宿中だったのが判明された。警察は勿論、現地
言論たちはイメージ回復次元で本人たちに記者会見を提案し、彼らはそれに
応じた。会見中、女は顔を揚げられなく、始終一貫頭を下げた姿勢で座って
いるぶりが、まるで人のパーティに強制動員された鶏みたかった。反面、男は
怒った顔で正面を見つめている写真が新聞第一面の半分を占有していた。
記者たちの追及に遂に女が告白した。実は結婚前から付き合っていた男がいた。
その男と離れて今の夫と結婚はしたが、どうしても前情が忘れられなく密かに
隠し男を連れて新婚旅行に来たのだ。勿論、新郎の男は女が内縁の男を連れて
来るなんて知らずに、後ろから刺されたような形だった。それも3人で同じ
飛行機で来たとか。

ホテルには一旦新郎と投宿したが、女は機会を覗いていてショッピング途中、
逃げたのだ。そして連れて来た男とシティから遠くない郊外のモテルに投宿し
二重の新婚旅行の気分を満喫したのだ。女が拉致されゴルドコストにきている
との電話をかけたのも、警察力を分散させ捜査網から抜け出るためのトリック
だった。ある女の幼稚なイタズラのおかげで治安が良いシドニーのイメージに
損傷を受けた警察が執拗に追跡して揚げた凱歌だった。二人はその足で日本に
帰った。後日談によると日本に着いた途端、二人は別れて各自の実家へ直行し、
十日後、女のほうから先に男の家に電話がかかって来たそうだ。「この間は
ご迷惑をかけて大変申し訳なく、責任を痛感、結婚の破棄を提議いたします」
との内容のメッセージを受けて男側は「そうしよう」と即時応答、二人は別れた
そうだ。

その事件があってからシドニーでは black joke が流行った。「男一人連れて新婚
旅行来るには寂しいからもう一人付けて来い」類の。

シドニーブルース−3−a blue night−2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 14:23 投稿番号: [2951 / 3669]
韓国女の要求により結婚式を揚げてから女だけ一旦韓国に帰った。永住権を取るためだった。女が帰ってから筆者に来て大使館に出す手紙を作成してくれるように頼むから助けたことがある。、筆者に会う度、これから浮気しないで奥さんのために生きていくと誓ったりした。そうだ。これからいたずらじゃないから以前のように別れないで仲良く暮らすように激励した。食品店は前の女が完全に引き受けたのでこの男は一人暮らししながらワイフが戻ってくるのを待っていた。

1年ほど経ってからその食品店を寄ったとき、彼の前妻がいうには韓国女学生は永住権を取って帰ってきたのに暫くして彼と別れたそうだ。驚いて理由を聞いたところ、たまに女学生が店に来ていうには「自分には学歴差のため、話が通じない。大学院生の私が中卒の男とふさわしいわけない」などと不平したそうだ。最初から学歴差を知らずに付き合ったわけでもないし、それも自分が選択した道なのに今更そんなこというって、多分最初から永住権取得の目的で馬鹿みたいなこの男を利用したんじゃないか。

その後、キングスクロスに行ったが偶然にあの男に出会ったら自分に家にいこうと誘うので付いていった。同じ年頃の男数名がシェアーするマンションだったが暮らしが修羅場だった。「兄貴!糞食う?」というんでなにかと思ったら大麻草を巻いて水瓶にパイプを入れて吸っていた。水瓶の水がフィルト役割をするらしい。女と別れてそのマンションで暮らしながらたまに麻薬を飲んだ女を誰かが連れて来たらグループセックスをしながら住んでいるそうだ。仕事は?と聞いたらあの洗濯場で人の服を洗ってやるそうだ。あの洗濯場も実は前妻の日本人女の再婚相手の韓国人男が運営する所である。

与えられた環境の影響を受けるのも人間だし、それによって人より不利なときもあるものの結局自分の道は自分が決めることじゃないか。そんな馬鹿な男を利用した女も悪いが、そうだと自己放棄して大麻草などを吸いながらなんの希望も無しにただ末梢神経の快楽だけに耽溺するぶりをみながらその場を出る筆者の足が、その夜に限ってとても重かった。

シドニーブルース−3−a blue night−1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 14:22 投稿番号: [2950 / 3669]
シドニーブルース−第3話−a blue night 2003/ 9/ 9 20:51
メッセージ: 5468 / 6027

投稿者: ilkuji
シドニーの歓楽街、キングスクロスの裏道には海外から旅行に来たバックパッカーたちのためのモテルが整然と立ち並んでて彼らを相手にする洗濯所が一軒ある。今日も寝不足の眼をして働きにくる中年にはいった男がいる。洗濯所だとしても韓国の洗濯屋みたいに服にアイロンをかけたりドライクリニングをしてくれる所じゃなく自分の服を持ってきてコインを入れ洗濯機で洗って脱水機で乾燥させ持っていくぐらいだが。この男には彼なりの公開したくない事情がある。

韓国で中学校に通うとき家でオーストラリアへ移民いくという話を聴いて、移民行けばどうせ同じ教科課程を1年間繰り返すといわれ、のらくらしはじめた。最初は学校にいって様子をみて逃げたが後ではてんから学校にいかずに毎日たまつき場で同じ年頃の子供たちと玉をついたり遊んだりしたらあまりにも楽しかったそうだ。ところですぐ行くといわれた移民が延期に延期を重ねてる間、数年間遊びばかりしていたら同じ年齢として履修する学校課程に遅れてしまった。やっと移民は来たけど自分より何歳年下の級友たちと交わうのもできず、何より基礎学力を積む時期を逃がしてしまい、進度を追いかけて行くのが簡単じゃなかった。そのわけで中学過程を1年ほど通った後、中退してしまった。

とにかくオーストラリア市民なので豪州と日本間のビザ協定によりWHビザで日本にいってある女を付き合った。そしてその女を連れてシドニーに戻って来ては日本食品店を開いた。結婚でもなく同居しながら二人で食品店を経営したが、近所に英語学校が何軒がありその学校に通ってる日本人女の子たちが誘うとおりフリーセックスも楽しみながらそれなりに楽しく過ごした。ある日は近所の英語学校の日本人女子学生が彼に惚れて、一晩のセックスを要求した。男にとっては損することはないが「同棲女に聞かないと」と一旦断わった。そしたらあの学生が彼の同棲女に「ちょっと彼を貸してもらいたい」と打ち明け、許可を取ったそうだ。とにかくセックスの運はある男というべきか。その際、同居していた女と仲がわるくなり結局別れることになった。

別れる直前、女の要求により結婚式を揚げてすぐ離婚した。豪州法に従って女に店を全部渡して空手で出たのだ。しかし引き続きのため、ある期間いっしょに店を運営したのに近所の英語学校に通っていた韓国女学生を付き合うようになった。その女は韓国で音楽大学を卒業しオーストラリアにきて英語を学びながら大学院進学を計画していたのに毎日二人で狂乱の夜を過ごしながら未来を設計した。(つづき)

Re: >朝鮮の教育制度

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 14:21 投稿番号: [2949 / 3669]
tripさんありがとうございます。

>朝鮮国にも我邦の小学校を真似たる公立小学校あれども

妓生学校はともかく日本の真似をした小学校ですか。
こんなのを期待してたんですが。
http://www3.plala.or.jp/seon/desk/edojuku.htm

シドニーブルース−第2話―新婦強盗

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 14:18 投稿番号: [2948 / 3669]
シドニーブルース―第2話―新婦強盗 2003/ 9/ 4 17:45
メッセージ: 5457 / 6027

投稿者: ilkuji
シドニーの韓国人社会でよく膾炙される有名な実話がある。結婚適齢期の男が
ソウルに出た。そして一級ホテルに部屋を取った後、有名日刊紙に広告を出した。
「豪州で暮らしている僑民医者が新婦を求めている」と。豪州に住んでいて
医者だというから全国的に閨秀のある家では非常状態になった。

一日数百回の問合わせ電話で電話機には火が付き、ホテルは毎日志願者たちで
満員謝礼だった。来るなら来るとおり一名づつ面接をした。そしてその中で
父親が建設会社社長の美人閨秀を選んで豪州に戻って来て結婚式を揚げた。

医者というんで信じて、ついて来た新婦は一・二ヶ月経ったら少しづつ夫の
ことについて疑いはじめた。医者なのに何故朝、仕事に行かずにいつも夕方に
なり、のんびり起きて仕事に出る準備をするのだ。不思議に思って夫に聞いて
みたところ、医者初年生なので夜間当直が多いとの答えだった。

そうかなと思ったが、いくら待っても朝出勤する気配はない。ある日、夫が夕方
出勤するとき、この新婦が尾行をしてみた。医者なら当然病院へ行くべきなのに
大路上の病院を全部通り過ぎて裏道へそっと入る。後ろをついていったら、
そこはある韓国食堂だったそうだ。

実はその男、そこで厨房補助をしていたとの話。騙されたと泣いて胸を打っても
もう遅い。今ごろなら引き返しに女の家族が来て実家へ連れて行くのも茶飯事
だが、その新婦の家は頑固なところがあり、一度お嫁に行かせた娘を引き返す
のはできないと放棄したそうだ。そして女の家から資金を出し彼ら自身の食堂を
開業した。

その際、子供も生まれ、可愛いし自営業なので、それなりに幸せだと女は自慰した。
その男、名字が白なので僑民社会では「白強盗」という別名がついたとの話だ。

>朝鮮の教育制度

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/16 14:04 投稿番号: [2947 / 3669]
>朝鮮の教育制度って何があったの?
>正直書堂しかしらないのだが。

明治37年出版の書物にこういう記述がありました。
参考までに。

-------------------------------------------------- -
近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
タイトル : 世界の婦人
出版事項 : 東京:現代社,明37.1
著者標目 : 小林,秋子

『(六〇)朝鮮婦人と妓生学校
○亡半死の朝鮮国にも我邦の小学校を真似たる公立小学校あれども、校勢何れも振はず、其最も盛大と称せらるる校舎にても、在校生徒僅か三十名にして、日々実際登校するものとては、僅々十数名に上らず、○○教育の有様いとも憐れなるに、之れに反して其勢いの隆々たるは妓生学校なり、妓生教育とは妓生を養う所にして、一校各百名以上の生徒あり、彼の小学校は無月謝なるに三十名に充たず、妓生学校は多額の月謝を貪るに、○○且つ此くの如く多数の生徒を有するは他なし、朝鮮にては一般平民と、郡守観察使の如き役人とは、其懸隔甚だしく、恰も維新前我国に於ける百姓町人と大名との如き○にて、到底青雲によぢ登るなどは、一般平民の望む○はざる所なれば、妓生学校を卒業して官妓となり、以て大官高位の人に接近し、○○艶言を以て其心を左右し、而して俄然平民に○らんと欲するが故なりと云ふ、所謂半亡国に於ける出世の近道とは浅間しき話にあらずや』
(印字がにじんで読めない字が多く、○で表示しました。なお旧漢字は現代当用漢字に。)

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/16 14:02 投稿番号: [2946 / 3669]
>教育内容が日本より低く、終業年限も当初4年であったことから愚民化と
>いっている。

はあ?愚民化ってのは、西欧のアジアアフリカ植民地支配のように、
馬車馬のように働かせて搾取するようなやり方を言うんだよ。

だいたい、日本と同じじゃないから恨むってどうなんよ?
乗っ取られたり、買収された会社の社員と、親会社の社員が同じ待遇なんてあるか?
そんなの当たり前のことだろ。

あんたのご先祖は日本に土下座するしか能がなかったくせに、
後になって『日本人と同じじゃなかった。。日本と何から何まで同じじゃなきゃヤダ』って恨むのがおかしいんだよ。
慈善事業じゃないんだからさ。

おかしいよ、あんたの頭は。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ⑦

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 13:42 投稿番号: [2945 / 3669]
B 1910年〜1919年(3・1独立運動)

この期は、政治的・経済的「支配」のためのむきだしの暴力支配の時期である。

朝鮮人は政策的外形の上でも統治の対象としてのみ見られ、この後の時期の
ような形式的な同一視もなされなかった。

「教育」の特徴は、「併合」前に引き続く、短い教育年限の「愚民化」に端的に
現れ、朝鮮人教員も補助としてしか認められなかった。

植民地人の養成としての総督府の「教育」方針は、自立を希求する朝鮮人の姿を
「徒に空理を談し」ととらえ、この地に設定されるべき「教育」の目的を
「実に就き(略)勤倹の美風を涵養する」とする、「併合」の公表された
1910年8月29日の統監寺内正毅の論告に明かにされている。

その「愚民化」ともいえる「教育」制度の枠組みはすでに完成されていた。

そのため、すぐに植民地教育制度を宣言することなく、「朝鮮に於ける朝鮮人
の教育は本令に依る」という「朝鮮教育令」は、翌1911年8月23日になってから
公布された。

この時点における日本人・朝鮮人の「教育」の目的の違いは、制度としても明らかであった。

普通学校4年、高等普通学校4年という短い教育年限は、せいぜい社会において日本人の
下で日本語を話す朝鮮人を養成しようとするものであった。

そのことは師範学校を認めず、日本人と同じ資格をもつ教員とはしないということにも
現れていた。

かたや、日本人の補助としての地位には朝鮮人を必要としていた。

普通学校教員でいえば、日本人の校長の下に、朝鮮人教員を配置するという構成である。

それがために、高等普通学校、女子高等普通学校に、師範科、教員速成科を設け、本科卒業後
、一カ年の師範科を経て訓導とし、あるいは本科二学年修了後、教員速成科を経て副訓導とすることとしていた。

高等普通学校を経由するという経済的負担を前提とし、かつ経済的条件を通じて日本の「支配」への
従順さをみるという形で、選別がなされたことがうかがわれる。

また、初期の官立高等普通学校の生徒は、旧韓未の高等学校を承継していたためか、1914年までは師範科も設置せず、
それまでは朝鮮人は訓導となることも認めず、副訓導に留める方針であったことが感じられる。

なお、この他に「廃止せられた旧官立漢城師範学校の事業及び生徒を承継した」ものとして、
「京城高等普通学校附属臨時教員養成所」があった。

三カ年であることから、資格はやはり副訓導とされたものと思われる。

この養成所は、1913年には日本人中学校卒業者をも受け入れ、普通学校の日本人教員と合わせ
養成するようになり、後の京城師範学校第二部(普通学校教員養成)の基ともなる。

日本人の場合は、中学校卒業後一年間の教育であったので、資格としては訓導となり、
養成所卒業後一〜ニ年で校長として朝鮮人教員の上に立つようになっていた。

また、朝鮮内における日本人教育に関しては、早くも1911年に「朝鮮総督府中学校附属臨時小学校教員養成所」が
設置されている。

これは1921年、に「朝鮮総督府師範学校」となり、翌1922年には、「(第二次)朝鮮教育令」の公布とともに、
京城師範学校第一部(小学校教員養成)となっていく。

朝鮮において朝鮮人の教育より、日本人の教育が優先する課題として考えられている事は、これまた
「植民地」の「教育」の一つの特徴といえよう。

シドニーブルース−第1話−悲恋−2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:58 投稿番号: [2944 / 3669]
シドニーブルース−第1話−悲恋−2 2003/ 8/26 20:21
メッセージ: 5390 / 6027

投稿者: ilkuji
その食堂にある日、異変が発生した。顔が小さく体が細い奇麗な20代のウェイトレスが入ったのだ。日本人社会では肉の味よりもうあの娘さんを見にいくという話がでるほど人気者になった。彼女は韓国で女警察出身であの店のオーナーのめいだそうだ。男はみんな用事もなく誰もが彼女にいいかけたりデート申請もする。筆者の会社の広告を出しているある日系新聞社の営業担当者は同行した筆者に通訳を頼んで熱心にデート申請をした。この男、結婚指輪を指からそっと引張りだしポケットに入れたあと、野菜皿を持って来た彼女に「週末にはなにをするのか」と聞いた。その娘は乗馬練習しに行くと答えたところ、男曰く「私が馬になってやれば駄目か」と懇請した。

筆者との記者のインタービュー記事が韓国系新聞に載ったあとからこの娘さんの態度がすこしづつ友好的に変わるのを感じだ。たまたま「酒を飲みすぎると良くないよ」とか心配の言葉もかけてくれた。当時独身だった筆者はある日、日本女性のお客さんを連れていった。なかなか美人だったがそのウェイトレスが我らを見た一瞬、表情が冷たく変わる。それからその日に限ってとても不親切に筆者を待遇した。わけが分からなかったが仕方なかった。次にいったことろ、他の女従業員が耳打ちしたことは、その娘さんが実は筆者のことが好きだったが奇麗な日本人女性を連れて来たのでとても傷ついたそうだ。多分恋人だと誤解したらしい。その後、その娘さんがみえなくなり、みんなわけを知りたがったが、噂によるとお嫁にいったそうだ。傷ついたままに。

ある日は日本人秘書を連れていって食事をしながら酒を飲んでいたら隣のテーブルに一人で座っていた男がこちらに声をかけた。韓国語はしゃべっているものの、少し片言だと思ったら、自分は日本人で奥さんが韓国人だと自己紹介をした。隔意なしに対話をしていたら、この男、みんなで一緒にカラオケボックスに行こうと提案した。そこでいっしょに出ていって彼が住んでいるコリアタウンに行って奥さんを呼び出した。階段を織りて来る奥さんはあのウェイトレスだった。筆者も慌てたが向こうもとても慌てたらしい。暫くあの二人で話してから日本人男が筆者に来て奥さんが行かないというと伝えた。ぼっとした状態で車を運転して帰って来た。お嫁にいった相手があの男だったのか。わけがわからない秘書は「せっかくここまで来たのに」とぶつぶついう。

あと数年経って、筆者も結婚して家族を連れてコリアタウンへドライブにいって韓国ビデオ屋に寄った。子供を抱いてテープを借りにカウンターに立っていたらある中年女性が子供を抱いて入口を入り筆者に挨拶をする。別に会った記憶がないと思って無視したのに近づいて隣に立つのをみたらあのウェイトレスだった。挨拶をして簡単に話したら自分の子供も2才だそうだ。いきなりビビアン・リー主演の「草原の光」という映画の場面が思い出した。

死ぬほど愛してたが運命は二人を分けておいて最後には他の女と結婚した男が子供を抱いてビビアン・リーに会って挨拶だけ交換してまた別れるのが最後の場面だと憶えているけど、彼女と筆者も偶然に予期してないときにそんなところで会ったが二人共それぞれ子供を抱いてお互いをぼっと見つめることで終わった。たとえ映画みたいに熱烈な愛の表現はしなかったものの、内心お互い好んでいてても終にそれぞれの道を歩いていってしまったのだ。帰って来る車の中で悔恨が満潮のように押し寄った。草原の光よ、花の栄光よ。

シドニーブルース−第1話−悲恋−1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:57 投稿番号: [2943 / 3669]
シドニーブルース−第1話−悲恋−1 2003/ 8/26 20:19
メッセージ: 5389 / 6006

投稿者: ilkuji
愛も名誉も名も残さず一生涯進もうとの熱い誓い。
同志は消え、旗だけ翻って新天地が来るまで動揺するな。
年月は流れても山川は知っている。起きて叫ぶ熱い歓性。
先に立って進むので生者よ、従え。 先に立って進むので生者よ、従え。

シドニーの韓国領事館と米国領事館の前で拳をぐっと握って力一杯歌ったこの歌。白起完先生が作詞したこの歌は本来死んだ人の立場で「先に立って行くので」という歌詞だたが後で「進むので」へ変わった。韓国で拳闘選手として60年代を風靡し、隠退後、拳闘解説家としてTVに週末拳闘番組を定着させたA氏はシドニーへ移民を来た。またB選手のコーチとして韓国拳闘界の巨木だったC氏も豪州に移民を来てシドニーに定着した。今はお二人共古希を眺める歳だがシドニーに韓国拳闘界の二巨木が住んでいるのは偶然だろうか。

当時B選手のコーチとして活躍したC氏はその選手が日本遠征競技中、薬物中毒説を提起し側近としてその事件に連累され韓国の中央情報部に引っ張られものすごい困辱を受けた。競技がはじめるとき、なんとなく力がなくなったと選手がコーチに訴えたがコーチは多分疲れただけだろうと耳を貸さなく競技を続行させ結局負けだのだ。それを後で選手が薬物に中毒されたろうという噂が流れ、そのコーチが相手方に買収され薬物を選手を飲ませたとの疑いを受けたのだ。でも証拠がないので有耶無耶で釈放された。ところが何故情報部がそんなことまで関与するかときくかも知れないが情報部は当時無所不為の権限を持っていてなんでもできだ。スポーツさえ統治手段で利用した朴政権にとってはコーチ一人引っ張って拷問することはなんでもないことだっただろう。

ノテウ執権当時、国内状況は林秀卿の訪北事件や白骨団によるデモ学生殺害、それによった抗議焚身などなど連日、難政局だった。シドニーに住んでいた留学生と血気旺盛な居留民の青年たちが奮起したのは自然的な現状だった。当時タクシ運転をしながら生計を立てていた筆者は偶然に彼らのノテウ政権への反対運動消息を接してカンタベリにある彼らの本部を訪ねた。

みんな学校に通ってて留学生活に経済的に貧乏な彼らが運動をしていることに感銘を受けて参加を決心した。一銭でも稼いでいる筆者が焼酎でも一本持っていて彼らを慰め、助言し、自分自身も知らなかった事実もたくさん学んだことを否認できない。後ろで物心両面で我らを助けてくれた巨木お二人に感謝と敬意を表したいと思う。

当事、林秀卿の 訪北事件に連累し拘束された我らのメンバーのために本団体が情報部の国際課の要注意対象になり、情報部の奴等が直接巨木の一人に自宅に行って数日間いろいろの狼藉を働いた。今振向いても正に情けない国の情けない奴等だった。

そういう渦中に拳闘解説家だった方が生計を立てるために食堂二階にあった倉庫を改造し簡易食堂兼酒場を開いた。天井をきれいに修理し、ゴミが積んでいた倉庫を掃除、ドラム缶を改造し食卓を作り、炭火をつけ、肉を直接焼いて食べるようにした。前代未聞の食堂だけどお肉が美味い。わずかドラム缶3―4個で始めた事業だった。最初は運動メンバーたちの会食で通ってたがその頃コンサルティング業務をはじめた筆者が何回か日本人お客さんを連れていって試食をさせたところ、口コミで伝えられ、もうお客さんの中、日本人が半数を上回るときもある。案外にそういうスタイルの酒場がシドニーの日本人社会でヒットしたのだ。

今は内部を拡張し階段も改築して、ままわるくない食堂になった。筆者は車で40分かかるそこまで日本人お客さんを頻繁に載せてやって、もう常連客も多い。その食堂が開かれて商売がいいといわれ、韓国人社会で同じ業種が続いて立った。しかし元祖には勝てないはずだ。まだ他の店でそんな味を味わったことはない。(続き)

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 11:45 投稿番号: [2942 / 3669]
>教育内容が日本より低く、終業年限も当初4年であったことから愚民化と
いっている。

これを差別というなら分かるが普通愚民化とはいわないんじゃないの。

>0ではない。朝鮮は文明3000年の歴史を誇る国家です。
当然教育制度もあり日本が0からすべて学校を作ったと言うことは間違い

朝鮮の教育制度って何があったの?
正直書堂しかしらないのだが。これは私営でしかも漢文しか教えていないと思うが。
日本だと庶民には寺子屋があり、各藩には藩校があったけど朝鮮には藩校に対応するものがあったの?

>学校を作っただけで朝鮮人は貧しさのために就学率は30%前後と言われている。卒業性も入学時よりはるかに少ない

確か併合末期には50%を超えたと思うけど、併合中期まではそんなものかな。
で前の4年制の話だけど貧しくて就学率30%だったら6年制にするのはかわいそうなんじゃないの?もっと勉強したければ上の学校だってあったわけだし。

>施設を作っただけで義務教育制度は1943年に1946年より実施するという計画
があっただけです。

これも就学率が低い段階で教育を強制する必要は無いと思うが。
また1面で最低1校できれば2校ぐらいないと義務にするのは無理だと思うけど。
1946年実施というのはやっと学校の数が整った結果じゃないの。
ちなみに簡易国民学校へいけば学費は無料でした。まあ授業数は少なかったけど。

船窓夜話シリーズを終えながら

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:37 投稿番号: [2941 / 3669]
船窓夜話シリーズを終えながら 2003/ 8/23 16:32
メッセージ: 5355 / 6027

投稿者: ilkuji
2002年9月6日に海洋手記という題名で始めたこの手記はほぼ1年に

かけて読者の方々と哀歓を一緒にして来ました。喧嘩と和解を繰り返した年月。

拙作でありながら良い友人を切っ掛けになりました。友情のある建議、

アドバイス、忠告、叱りなどなど去った1年間は民間次元での韓日友好について

色々考えさせるいい機会でした。日本に暮らしたことのない筆者がいかに

ネット上で真剣に友好関係を建ててゆけるか、それはお互い虚心坦懐な姿勢で

相手を理解しようと努力する態度から始めることじゃないですか。シリーズを

終えながら特に、暖かい友情で包容してくれたフッカー氏。氏は連載途中で

お仕事が忙しく書込みを中断されました。もう一度ネットで会いたいですね。

それから旅人木さん、マーボーおっさん。おっさんがいらっしゃらなかったら

船窓夜話も無かったはずです。感謝しております。あまり怒らないように

お願いします。(笑)その他、親旧犬鍋氏は出版のとき校正を提供しております。

深く友情に感謝します。ユスラ氏、漢字しりとき会、楽しみにしております。

サルチン氏、いい友でした。オリン妹、愛しているよ!
シブ教授、どうもありがとう。近いうちソウルで会って屋台で焼酎を

飲みましょう。その他、方々と楽しく、ときには喧嘩しながら
もお互い学ぶことはあったと思います。

拙作を出版するようになると来日しますんで、そのときは宜しくお願いします。(笑)

予告しましたとおり新しい連載物として「シドニーブルース」がはじまります

ので相変わらずご愛読、喧嘩をお願いします。(爆)簡単だけど、このしリースの

終わりにします。皆様どうもありがとうございました。


一求知より

船窓夜話ー第三十弾(最終編)―帰国−3

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:35 投稿番号: [2940 / 3669]
船窓夜話―第30話(最終編)―帰国―3 2003/ 8/23 15:13
メッセージ: 5354 / 6027

投稿者: ilkuji
さらに疑惑を呼んだのは当時事件の直前、問題の航空機では乗務員たちが意図的に客席の窓のシャッターを全部下ろしたとのことだ。夜なのでわざと下ろさなくてもいいのに何故そうしただろう。もしかしてソ連空軍機が出動することを予想し乗客たちに見せないためじゃなかろうかと。ゼイムスボンド映画のようにあの飛行機の機番が007だったのもアイロニだな。

話が back to the future みたいに未来に向ったが、日本の成田に到着したときは既に丸一日間飛行機に乗っていたのに気が付いた。成田から大阪まで国内線で着き空港の近所になるナラベというホテルに投宿した。遅くcheck inして疲れたが帰国前夜に異国で一杯しなくてはと思い、同僚といっしょにホテルの前にあるホルモン焼き屋によった。1年3ヶ月の乗船生活を振り向けば複雑な気持ちになった。歯に噛まれるホルモンは乗船生活ほど固かった。お酒を一本全部飲んだと記憶する。夜遅くホテル部屋に戻ってきて実家に電話をしようと手話機を取ったら女のうめく声が聞こえる。多分別の部屋の電話線と混線しているようでたまに男の声も聞こえる。その部屋では男女間の情交を楽しんでいるらしく、一人で寝る他人の心に葛藤を煽る。

翌日釜山行飛行機を取り帰国した。空港で荷物を持って市内バスに乗るとみんな変な目でみる。カバンに荷物標がついてるので飛行機から降りたのは間違いなさそうだけどタクシに乗らずに市内バスかとのことだろう。全てが終わったとの安堵のため息と共に二度と船には乗らないと決心したのもその頃だろうか。

(大尾)

船窓夜話ー第三十一弾(最終編)―帰国-2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:33 投稿番号: [2939 / 3669]
船窓夜話-第30話(最終編)-帰国-2 2003/ 8/23 15:10
メッセージ: 5353 / 6027

投稿者: ilkuji
パリー離陸後10何時間を飛行してアラスカのアンカリジについた。いったん着陸し、みんなで降りた。空港ロビーで2時間の休憩時間が与えられた。その間航空機は機内掃除および燃料供給をうけ再び離陸するようになる。空港ロビーの中でもかなり寒く感じた。こんな寒い国に住んでいる人口も少なくないとわかったとき人間の環境適用力の限界はどこまでかと思わせた。他ならないここでその3年後、さすがの航空機が離陸し世界の言論を集中させた事件が発生するようになる。

1983年5月ニューヨークの空港を離陸した大韓航空機1台がこのアンカリジに寄港、ソウルを向って再離陸したあと永遠に帰って来ない旅に立ったのだ。当時乗客リストには296名が搭乗したことになっているのに実際はもっと6名が乗ったという。その6名は誰だろうか。一説によるとアメリカのCIAというけど勿論、米国側は極口否認している。当時アメリカ人乗客の中には共和党の強硬派上院議員が乗っていたが執権党の共和党の大統領のレイガンはソ連空軍による民間航空機撃墜事件を「悪の帝国による蛮行」と規定し糾弾することで凄い政治的利得を取ったしソ連など共産国家に対する圧力カードで使うことで彼の軍備増強路線に力を載せてやる契機となった。

事件の経緯については、アンカリジ離陸後、飛行中コンピューター故障でソ連領空を侵犯したとのことが大韓航空の主張だが信じにくい。当時新聞にはカムチャカ半島とサハリンを混同して機長が領空を侵犯したことに気づかずに運行中というけどカムチャカ半島とサハリンは遠いので信憑性のない主張である。そしたら真実は何だろう。大韓航空機がソ連領空に入る3時間前、すでに同じ領空を侵犯した航空機があった。米空軍戦略爆撃機が同じ領空にはいって大きく8字を描きながら飛行した。カムチャカにあったソ連空軍基地では超非常がかかり、戦闘機が発進待機中だった。そうするとあの米空軍機は公海上へ逃げたのだ。

そういう超非常状態で今度は大韓航空機が同じ領空に入ったのだ。例のソ連空軍機が出動し民間航空機であるのを探知し、左右でエスコートしながら問題の航空機に無線、発光信号などを送り着陸するように指示したそうだ。しかし大韓航空機はこれを無視、最後に空軍機が動体信号さえ送ったそうだ。これは他の手段が通じないとき最後の手段として翼を振って着陸を指示することだ。そかし民間航空機は着陸する意図をみせずに飛び続けたそうだ。そこで空軍機は地上の本部に下命を要請、本部は撃墜しろとの命令を下達したのだ。こういうことで北海道にあった日本航空自衛隊の基地レーダーのスクリン上であの航空機は永遠に消えてしまったのだ。

アンカリジの空港ロビーで問題の航空機に搭乗しようと待機していたある韓国人家族と偶然に同じソファに座っていたあるアメリカ人中年男子がその家族の中、8才ぐらいの女の子を見て「お前、可愛いね。お名前は?」と聞いたことがある。その男は目的地の違う他の飛行機に乗ったので別れたが後でその事件が起きたのを新聞で読んで「あの可愛い子供がそんな惨事に会ったとは」と哀痛していたそうだ。運命の擦れ違った悲運の遭遇というべきか。

アメリカ側は事故後、飛行機の black box を太平洋上で回収したが大韓航空側に渡さなかったし、記録を公開していない。そもそも乗客リストに無い6名は何故搭乗したし black boxの返還を拒否している態度に対し多くの人たちが疑問を提起しているのも事実である。米国がソ連の防空網をテストするためCIA要員を載せて機長にわざとソ連領空へ入るように要求したとの説が有力だが、これに対してアメリカ側は「そしたら何故民間航空機を入れたろうか」と反問する。しかし疑問を提起した側は「むしろ民間航空機なのでまさか撃墜はしないだろうと計算したんじゃないか」との反論も手強い。(続き)

船窓夜話ー第三十弾(最終編)―帰国-1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:32 投稿番号: [2938 / 3669]
船窓夜話―第30話(最終編)―帰国-1 2003/ 8/23 15:06
メッセージ: 5352 / 6027

投稿者: ilkuji
ヨーロッパ航路に投入され、北海と地中海を縫い走っていた頃、1年の乗船契約期間がほぼ完了する時点で船長が船員を一人一人呼んで契約期間を延長しないかと誘っていた。船員を全員交代させるには本国から新たな船員を送出すべきで帰国する船員たちの費用もかなりかかるのでできれば既に採用していた船員を継続雇いたいからだろう。筆者にも昇進してやるからそのままいるように誘ったが、家にも行けずに苦労したのにもう一年乗るのが想像もつかないので一言で断った。2等航海士は1等にしてやるというから嬉しくて継続乗船すると言ったらしい。大体そのようにして半数は残り、半数は離れるようにしたのに、残るグループは大体船長や1等航海士と衝突しトラブルを起こした側というのがアイロニだった。

どころが下船1週間前、会社から電文が来て「人力送出会社が替わったので全船員交替になった」とのことだ。新たな会社側から自分たちの船員を乗せるとの意味である。トラブル起こし実力もないのにこの機会で昇進しようとした船員あちの夢が霧散されたのだ。フランスのセルブール港で全員交替した。セルブールとは映画「セルブールの傘」の舞台になったところだが観光もできず新船員たちとの引き続きと引き受けが終わったあと、みんな待機中のバスに乗りパリーを向って出発した。バスに乗り走りながら今度こそ帰国するのかと思い安堵の息をついた。

6時間ぐらい続けて走り、夜遅くパリーの市内に到着した。パリーの市内は車道が建物より低くなっていてノンストップでバスや乗用車が全速疾走するのが異彩だった。ホテルに荷物をおいて帰国のお土産でも買おうとショッピングに出た。当時はフランスなら有名ブランドのランコム化粧品を買うべきだといわれ、コンパックトと口紅をいくつか買った。店の女性店員が「ジャポン?ジャポン?」というから何だと思ったら日本人かとの質問だった。コリアと答えたら「あ、コレー」という。他の店で東洋人店員がいるので日本人かと聞いたところベトナム出身だけど日本語もできるというので何ができるかと聞いたらば、「スズキ、ホンダ、トヨタ」というのでみんな笑った。

翌日荷物を持って降りてきたら食事をしようというのでロビーに繋がっているレストランに入った。何かが出るのでさっさと食べてみんな起きるのに又何かが出てくる。再び座って食ってから立ったのに又座るようにいわれた。後でわかったのが前菜、メイン、デサートの順で出てきただけだ。メインだけ食べてた癖があり田舎者に見えたはずだ。常に果物ぐらいは食後、食べたけどな。パリーの空港で飛行機に乗った。

日本航空のせいかほとんどが日本人乗客だった。当時はソ連領空を過ぎないように北極を通過、アラスカ経由、日本到着で乗換える旅程だった。食事が終わると乗務員たちが窓のシャッターを全部降ろす。北極を通過する航路なので夜は無く毎日昼間だけ持続する白夜現状があり、シャッターを降ろさないと眠れないわけである。映画ばかり観るのも退屈なので寝ようとしたら再び食事、食事の後、睡眠、食事の順番が繰り替える。下を眺めたら雪に覆われた白い氷しかみえない。継続座っていたら足に痺れが来そうで後ろにいって大きな窓を通じて下をみていた。

傍にある日本女性が立っているのでことばをかけてみた。団体で1週間のヨーロッパ観光を終えて帰るOLだそうだけど優しく答えてくれるので好感を持ち簡単に自己紹介をしたあと彼女の連絡先をもらった。30分ぐらい経ってから再びあの窓にいったら先のあの女性が近づいて来て、さき渡した自分の住所を返してほしいという。自分は帰ってすぐ結婚するからもしかして他の男から手紙が来たら夫が疑うからだと言って「すみません」という。わかったと住所の書いた紙を渡すと握手をされた。毎時に細心な女性の繊細さを感じた同時に少しほろ苦い気分だった。最初に試した機内恋愛はそういうわけで失敗裡に終わったのだ。(続き)

船窓夜話ー第二十九弾―NZのカモメ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 11:29 投稿番号: [2937 / 3669]
船窓夜話―第29話―ニュージランドのカモメ 2003/ 7/29 18:36
メッセージ: 5169 / 6027

投稿者: ilkuji
総トン数1万トンを超える大型貨物船、M/V Asia Graceは日本で年次ドック修理および検査を終えてニュージランドへ向かった。今回の航程で山の中の鬱蒼な雨林から生産される抱えを越す原木を日本へ運搬する任務を任せられた。高級家具の材料で使われる原木は大人二人が腕を開いてやっと手を繋げるほど大きな木である。鏡みたいに静かな太平洋。運のいい航海だった。

常に12ノットが精一杯だった船が一時間に15ノットで走った。ドック中、羽の切られたプロペラーを新しいものに交換したためだった。ところで筆者の当直時間には18ノットで走る。不思議だなと思って機関室のコントロールルームに電話をかけたら三等機関士がわざとRPM(分当回転数)を上げたという。パイプも漏れるので治療を受けたくてもっと早くNZに着くためだと平気にいう。陸地で買春したのがネックでパイプから濃が出るのでかなりつらいらしい。そうだとしてもETA(入港予定時刻)よりは早くついても荷役作業に入るまで滞船料がかかるのでいいことではない。いったんスピードをダウンさせ、正常速度を維持した。Mountain Manganui という入港予定地を目指して二等航海士は海図に航路を描き、巨大で速力のいい船は南太平洋を気勢よく切った。

朝はやく田舎っぽいちいさな港に到着、錨を降ろし、入港手続を待っていた。さて2時間ほど経ったのに又出港のスタンバイベルが鳴る。間違ったポートに入ったとの電文をエイゼントからもらったのだ。NZには処女航海の船長および二等航海士の手落ちにより本来予定地より北の方にあるMangonuiに入ったのだ。地名が似ていたので混同したのだ。Mountain Manganuiとは正式名称じゃなくTaurangaというポートにある島の名であるが、慣例的にそう呼んでいたのだ。船長は恥ずかしくなり、顔が真っ赤になってその夜、サロン士官たちを呼び、ウィスキーを暴飲した。

船員なら誰でもNZに行きたがる。それは荷役施設が不十分なので人力にもっと依存していてその分、荷役期間がもっと長くかかるし、労働組合により統制される陸上人夫たちは少しでも雨が降ったり強風が吹いても作業を中断し帰ってしまうから船員たちはゆっくり余暇を楽しみながら上陸もできる。もうひとつ良い点は遊び女たちが船に乗船、同居もするとの、当時では破格的な話を聴いたからである。NZは人口3百万ぐらいで人口より羊も数が多く、結婚できない男が羊と獣姦をするとの信じにくい伝説を持ってる国。聴いたとおり接岸したあと、 本船に女たちがさっさと集まり始めた。原住民のマオリ族と白人の混血女がいるかと思ったら金髪の純粋な白人女もいる。みんな家ではやることのない女性だろうか。年齢も20―30代ほど。不幸に彼女らは筆者のような幹部船員は好きじゃないという。なんとなく官僚的な雰囲気がするからかなぁ。

上がって来た女たちは皆ベッドルームの下にある一般船員たちと各自パートナーを決めてから同居をしはじめた。そして船員が外出するときは一緒に出かけて買い物もするしDBバーで踊りながら人生を楽しむ彼女ら。非難する必要はないはずだ。今度は一等航海士が何かをみせてやった。外出してバーで付き合った女性に誘われ、彼女の家で一泊しながら交接を楽しんだことまでは良かったけど、朝、いきなり入って来た若い男が夫だと思って驚いたらしい。けどその男は彼女の息子だったそうだ。お母さんの新たなセックスフレンドに挨拶しに入ったという。でも、どうしても年齢帯も似ているあの息子が気になって朝ご飯も断わって逃げて来たそうだ。夕方にはみんな本船に戻ってきて食堂でディスコパーティで徹夜しながら船員たちは楽しく遊んだ。

2週間の荷役を終えて出港するときは涙の離別の場面もみえる。そして次の船が入ったら又新たなパートナーを作り、楽しく遊ぶ彼女ら。NZのカモメと名づけてみた。

船窓夜話ー第二十八弾―助平女―3

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 10:14 投稿番号: [2936 / 3669]
船窓夜話―第28話―助平女―3 2003/ 7/26 17:19
メッセージ: 5158 / 6027

投稿者: ilkuji
入った途端、女がまた特有の性欲が発動したらしく手が荒れの辺りに来る。恥ずかしくてルームのライトを暗くしたら女がびっくりして明るく戻す。理由を聴いたところ暗くしたらそれこそ外から怪異と思い、覗くかも知れないとのことである。エンジョイはするけど周りを徹底に意識して行動するぶりが、どうみてもプロである。堪らないのか、女はパンティを脱いで 自分のハンドバックに入れてからソファーに横たわってフェラを要求する。当時には女性として大胆な要求だった。恥ずかしすぎるけど仕方なくアソコを舌で愛撫してやったら女は耐えられないのか短い悲鳴を上げる。やはり塩分の多いせいか塩辛かった。到底堪らないと女は立ち上がって出ようという。

後ろをついていくと女はスカートの中にノーパンのまま、立っていて私にサックを買って来いという。スカートは便利なもので他人は知るはずがない。しかし昼間にサックを買いに薬局に入るのが恥ずかしくて惑っていたら女が堂々に薬局に入りそれを買って来る。そして二人で松島行きのバスに乗った。

海辺の絶壁の上に立っているこざっぱりした旅館にチェクインした。赤色の煉瓦屋だったと憶えている。部屋に入ったら女は早速ヌードになる。勿論ノーパンなので脱ぐのも簡単だろうが。サックを差し込み正常位で挿入した。その当時騎乗位とか、後背位、駅弁などは想像もつかなかった。ところが別に膣壁に触れる気配がない。アソコを使いすぎで伸びたのか。いわば茫々大海に船一隻みたいなもんだ。それにルームサロンで飲んだ酒のせいかなかなか出ない。仕方なく女が手で射精させた。そして外にでて別れた。女は未だノーパンのままでバスに乗る。女がある日、性交を頻繁にする女は太股が細いといったけど多分自分のことだとわかった。

数日後、再び喫茶店で会うと女がにやりと笑いながら‘(その行為は)無かったことにしよう’という。その後にも女は発情するたび電話で私を呼び出し、私は性の奴隷になり出ていくしかなかった。ビザが下りて出国する日、空港に出る直前に女から又電話がかかって来た。来いという。オーストラリアに行くと言っても信じない気配だ。そして別れた。1年経ってから一時帰国したらその間、女から何回か電話がかかってきたと家族にいわれた。今はどこで性を満喫しているだろうか。(終)

巡査の居る風景五

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 10:13 投稿番号: [2935 / 3669]


  趙教英はぼんやりと、暗い旧アメリカ領事館の前を歩いて居た。彼は考えるともなく、昨夜来の事を考えて居た。
  ………昨夜家に帰ってから、又急に署長から呼び出しがあったのだ。彼は急いで署に行くと、恐る恐る署長室に這入って行った。署長は黙って彼に一枚の紙と日割の給料の袋とを渡した。ははあ、来たなと思った。四五日前、徽文高等普通学校の生徒とK中学の生徒とが大勢で喧嘩をした。その懲戒について彼は課長と少し言い争ったのだ。
  彼は黙ってその紙切れを受けとって表に出た。それから(家には帰らないで)灯の中を暫くさまよって、其の金を握ったままふらふらと、S門外の淫売屋にはいって行った。そして今晩の今になって、やっと出て来たのであった。…………
  彼は今それを遠い昔のことの様に思い出した。
  薄い霧が低く這って居た。街燈の光が街路樹の枝を通して、縞になって鋪道に落ちた。「一体、どうしろと云うのだ。」と、彼は濁った頭の奥で、何だか他人のことでも考える様に考えた。
「彼等はどうなるのだ。」妻子の青白い顔が目前にちらつき初めた。
  と、ふと彼は、彼の知って居る裏通りのある二階屋の一室のことを思い浮べた。
  其処には粗末な椅子が五六脚と、手製のテーブルが一つ置いてある。テーブルの上には蝋燭が二本立って居る。蝋燭の光はそこに集った同志達の顔をおぼろげに照し出す。赤い顔をして卓を叩くもの。髪をかきむしって考えて居るもの。黙って紙の上に鉛筆を走らせるもの。みんなが前途の希望に燃え立って居るのだ。やがて彼等の間からひそひそした相談が洩れる。「京城―上海―東京」「…………………」…………………。
  彼はぼんやりとこんな有様を画いて見た。そして自分自身の惨めさをそれに比べて見た。「どうにかしなくてはいけないのだ。とにかく。」

  気がつくと何時の間にか殖産銀行の横に来て居た。冷たい扉を閉した此の大きな石造建築の柱の蔭にはチゲの群がその担架を横に捨てたまま石ころの様に眠って居た。
「オイ、オイ。」彼は煙草臭い彼等の中に身を投ずると、その中の一人を揺り起そうとした。「………………。」何か訳の分らぬことをいいながら、其のチゲは脂だらけの眼を眠そうに一寸開けたかと思うと、直ぐに又閉じて了った。うるさそうに痩せた手を動かして、教英の手を払いのけて一つ寝がえりを打つと、白い田虫に囲まれた其の口から長い煙管がコトンと鋪道に落ちた。
「お前は、お前たちは。」突然何とも知れぬ妙な感激が彼の中に湧いて来た。彼は一つ身を慄わすと、彼等のボロの間に首をつっこんで泣き初めた。
「お前たちは、お前たちは。此の半島は………此の民族は………。」
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http://www.wao.or.jp/library/nakajima/junsa.htm

船窓夜話ー第二十八弾―助平女―2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 10:12 投稿番号: [2934 / 3669]
船窓夜話―第28話―助平女―2   2003/ 7/19 16:56
メッセージ: 5061 / 6027

投稿者: ilkuji
その際、私は下船してオーストラリアに行くためビザ手続をしていた。ソウルを何度も往復を繰り返していたら何週間後、女から又電話がかかってきた。出てみたら、まま奇麗な顔をした女の友を連れて来ていて‘暑いから2泊くらい3人でバカンス行こう’と誘われた。釜山にも海水浴場はあるけどいつも混んでいるし水が汚いので静かな海に行きたいというから学校のとき、同窓生たちといっしょに行ってた鎮河にいくことにした。

女の友がいうには女が二人、男は一人で自分に不公平だと不満そうにいうけど、いきなりもう一人の男をどこかから連れてくるのも無理なので三人で行こうというと、そしたら‘男の私を公平に剃刀(かみそり)で切って分けよう’という。剃刀の話が出たら男のアレを切られた事件などが思い出してひやっとしたがしょうがない。上手くいくと女二人を連れていって3Pをする幸運もあるはずだと期待をしたかどうかは憶えていない。

剃刀話がでたら思い出す事件がある。一時期「女子高校時節」という歌で人気歌手になった女がいた。一方当時に放送社に人気DJがいて彼が育てて人気歌手になったケースがかなりあったのにその女歌手もこのDJが育てた。無名の歌手を一躍人気歌手へ上乗させた功もあるので大川海水浴場に連れていって遊びながら女に体を要求したらしい。そしたら女は剃刀を取出してアレを切ってしまい、自分も死ぬと騒いだ事件である。とにかく女刈りに上手いのはいいが剃刀には気をつけないとあの方面の人生が終ることもあるからな。

約束日の朝、あうようにした釜山駅の広場にルックサックを負って行ったけどいくら待っても女たちが見当たらない。一時間広場を徘徊したが無駄で家に帰ってきた、後で女に会ったらむしろなんで来なかったと怒る。どこで待ったかと聞くと駅の待合室で待ってたが来ないので寝ばかりしたという。本当かどうかはわからない。

ある日は二人でバスに乗り走ってたところ、人たちは一人二人皆降りてしまって後ろの席に座った二人だけ残ってたのに女が小遣いあるかと聞きながらいきなり私のズボンのポケットに手を入れてお金を探すぶりをする。その手でそっとアレを触るので自分も無意識的に‘うん、気持ちいい’というとそのまま触り続ける。バス運転手がバックミラーで見ては怪訝な顔つきをする。女の手の動作はみえないけどなんか表情で分かったかな。その日も排泄できなく可哀相なアレだけ冷かされた。

ある日会ったときは女がきっと観たい映画があるというので南浦洞の釜山劇場にいって当時のアメリカ映画「The postman rings bell twice」をみることにした。韓国題名が「郵便集配人はベルを二回鳴らす」であり、内容はあるごろつきが人の家に仮に居住していたがあの人妻と不倫関係を結び、ふたりで逃げ出したが女が横死するとの内容である。その映画が韓国で上映をはじめたら全国の郵便集配人たちが決起した。“我々が人妻を誘うごろつきか”と上映を中止しろと。

実はアメリカでは postman は郵便集配人の意味じゃなくごろつきなのに題名翻訳が間違えて起きた寸劇だった。米国英語と英国英語の違いがここにあるというべきか。あの映画の場面の中、ごろつき役割のジャック・ニコルソンが主婦の女と台所の調理台の上で開く激しいラブシーンを女は観たかっただろうが。映画が終わり、喫茶店に座ってる女は暫くその場面を反芻するように戦慄していた。そしてまたルームサロンに行こうと誘う。(続き)

船窓夜話ー第二十八弾―助平女―1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 10:10 投稿番号: [2933 / 3669]
船窓夜話―第28話―助平女―1 2003/ 7/18 19:41
メッセージ: 5057 / 6027

投稿者: ilkuji
遠洋船で世界を一周した後、再び対日船で勉めていた頃の出来事である。釜山から日本の神戸まで一度往復したら三日、また三日休んで出港するので家族のある人は家庭生活ができる。停泊当直中、逃げて家に行って来たり外で誰かに出会えるので遠洋船と比べて個人的な時間が持てるのが便利だった。南浦洞で市内バスに乗った。始発点から出たばかりのバスなので中はほとんど空いていて習慣的に一番後ろの左側窓際の席に座った。

次の乗場に着いたら若い女性三人が上がって来て二人は私の傍に、もう一人は私の前の席に座り、休む暇もなくぺちゃくちゃしゃべる。形勢をみたら三名の女に囲まれた状態だった。そろそろ痩せ我慢が発動した。海兵隊の訓練所での中尉のいったことが思い出した。‘バスの中で好きな女が見つかったら先ずは彼女の目を直視しながら足を踏め。それが彼女には相当の衝撃療法で効くはずだ。そしたら女が慌てて降りるはず。そのとき追いかけて降りろ。その後は能力により食うか食われるかだろう。’これ、無料で女刈りの講義をしているのね。

座っているので足を踏むのもおかしいので、とりあえず“お嬢さん!”と呼んだ。三名の視線が一斉に私に集中した。“面白い話、私も入れてください”というと“いいわよ”と答える。その後は1対3でこちらから対話をリードしていた。大体三名の身分を対話と服装をみて判断、全部当てた。驚いた彼女らは“どうしてそんなによくも当てるの?”と聞く。それで“女性心理学を勉強したいる”と答えた。実はその中尉から教えてもらったこともあるし、制服時代の刈り経歴もあるが・・・乗客はだんだん増えてきたが対話の花はバスの後ろで満開した。皆、羨ましさ半分、嫉み半分の目付きで我らを見つめていた。私も海兵隊の赤い名刹を付けてみた者なので気おされるわけにはいかない。

暫くの間、話をしていたら降りるところに近づく。名刺を持っている身分でもないので紙に自分の名前と電話番号を書いた。みんなが見つめているところで三名全員に渡そうとしてもカサノバみたくて駄目だ。誰に渡すかを悩んでたら傍の傍に座ってる姉ちゃんが一番気に入るので後ろから渡した。あの女性は“そしたら、ここで降りましょう”といったけど、少し息抜きをしたほうがいいと思って‘連絡して’と言ってから皆の視線を受けながら満員バスから降りた。

十日ほど経ってからあの女から電話ががかって来た。会おうというので出て見たら西面にあるルームサロンだけど一番奥のルームで待っていた。座ったらすぐ私のアレに手が来る。慌てたが気分が悪くはなかった。しかしながら軍事訓練の際に女刈り方は学んだが刈った後、食べる方法は学んでないのがあまりにも惜しかった。ただ女の手がズボンの上からアレを冷かすままにおいとくしかできなかった。旅館でやるなら基本動作くらいは知っているものの、いつ、誰もが入るかわからない所で何かをするなんて未だ想像が付かない状態で葛藤だけ増えて来る。その日はビールだけ飲んで別れた。(続き)

船窓夜話ー第二十八弾―中央洞にて―2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 10:09 投稿番号: [2932 / 3669]
船窓夜話―第27話―中央洞にて―2 2003/ 7/12 17:52
メッセージ: 5003 / 6027

投稿者: ilkuji
外国人が来たとき、その国の初めの印象は税官員であり彼らをみたらあの国が分かるというけど当時、税官員たちは相当腐っていた。船員たちが袋を取って埠頭を出るとき、お金やお土産やをもらって通過させ、もし袋持っていないと面白くないからわけもなく船に来て言いがかりを付けたり脅迫する。そのわけで彼らも頻繁に替わるけど。

1級舵手も実家が釜山なので袋を売って小遣いにもするし、家に行くたびお金をすこし作っていく。会食をするときは女を触るくせがあり、酒場で触ってて外に連れて来てもさわりつづける。偶然に同じ村にある人参茶室のママが気に入って当直時間たびにあのママの話しかしない。その間、あのママと望みの性交が成功したらしく、物凄く誇っていた。

1航士は家が鎮海にあり、海軍水兵出身で性格が豪放で遊ぶときはあっさりした人である。反面、船長は全羅道出身で、出身は関係ないが小心で性格が鋭い人だ。タバコも酒も飲まない人で女好きかは知られていない。二人は常に対立し神経戦を開いたりした。ある日、日本から機械を載せて当時、造船所を建てていた玉浦に入るようになっていたが台風の余波で船があまりにも揺れてほとんど沈没直前だった。波がおそり込みブリッジの下まで水が上がって来て船は葉のように揺れた。そして心を空けた。死ぬなら死ぬと。そしたら恐れが消えた。

船長は1航士が見えないとわざわざ連れて来いという。寝ている1航士を連れていったら「この非常状態に当直じゃないって一人で寝むれるか」と叱る。翌日の朝、玉浦に到着したとだん、私だけ残って皆上陸に出てしまった。生返って来たとマッコリパーティにいったのだ。やっと生返ってきたのに一人で空いた船を守るのは辛かった。

釜山に寄港して酒場で飲んで女をさわり、傷を慰めながら上司を悪口したらストレスがすこし解ける。中央洞の裏道に無数に並んでたあの豚カルビ屋はまだあるのか。袋売って酒飲んで、交通費に女にチップ払ったらしたらポケットは又空く。そしたらまた来日を約束し袋を取りに行く。ごく一袋持ってきてルームサロンで渓谷酒でも飲めるなら幸せな暮しだろうか。

船窓夜話ー第二十七弾―中央洞にて―1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 10:06 投稿番号: [2931 / 3669]
船窓夜話―第27話―中央洞にて―1 2003/ 7/12 17:51
メッセージ: 5002 / 6027

投稿者: ilkuji
五六島の向うの水平線上に落ちる落照を眺めながら暫くぼっとしていた。ある年、年暇を取り、家で休んでいたとき、友といっしょに松島海水浴場にいったことがある。いきなり冬の海が観たくなったわけか、それとも海の上で見る海と陸地で眺める海は感じが違うからだろうか。多くの東西古今の有名詩人が海を歌ったが、彼らの海は船で見つめる海、すなわち自分がそこにいる海より、はるかに遠く、浪漫的な面が目立つ詩が多いのではと考えてみた。陸地で見る海には台風もなく、波の揺れもない。彼らがもし船上で詩を書いても同じ興奮と情緒に基礎した詩が作られただろうか。

とにかく誰もいない寂しい初冬の海を眺めながら浜を歩いてたらいきなり冷たい雨さえ降り始めた。雨はすぐアラシになり、取っていた傘をうるさく叩く。雨を避けるために近所の酒場に入った。酒場だとしてもテーブル二本くらいしかない小さなところだが、焼酎に魚鍋を頼んだ。土砂降りの海を見つめながら焼酎を飲むのも、それなりの韻致があった。特に唐からしをいっぱい入れて真っ赤に作った魚鍋はよく似合う酒の肴だった。

友と二人で焼酎を一本づつ飲み終えた頃、赤い傘をかけた女の子が一人で浜を歩いてる姿が目に入った。雨の海には貝が皮を開けるように女が現れるのか。誰が冷やかしをするかを友に聞いたところ、自分は恥ずかしくてできないそうだ。そこで海兵隊の訓練を受けた無敵海兵の精神で「俺が取りに行く」と公言して席を離れた。といっても酔ったのも勇気を煽る作用をしたんじゃないかな。

女の子に近づいて誘った。驚いたぶりをする女の子は静かに断わった。23才くらいかな。このとき先ずは断わらないと、それこそ女の魅力が半減するはずだ。もう一度誘ったところ、「縁があれば今度また会うでしょう」との答えだった。縁がなかったせいか未だに会ったことはない。あの女の子を思い出してタバコを吸っていたとき、電話ベルが鳴る。

一等航海士のどろりとした声が電話の向こうから聞えて来た。今すぐ中央洞の酒場に来るようにいわれた。出港がその夜なのに飲んでもいいか心配しながら埠頭を出てその酒場を訪ねた。1航士はホステスを抱いて私に一つ教えてやるという。タバコを口に噛んだまま女の口へ伝えるとのことだ。多分新入者の私の気をくじくためだろう。

新任航海士のとき、脚の裏に火が付くほど忙しく走りまくって働いていて、偶に中央洞にある船舶会社の事務所に寄ると全然違う世界みたかった。若い女たちがのんびり週刊誌を読んだり女同士で笑ったりする。そのとき、女に言葉をかけたのがきっかけで掴まって結婚した同期生もいる。

新任三等航海士として初めて乗船した船は対日船だった。当直は1級舵手と一緒だったが、30代半ばで腹が少し出た人だが、もの凄く女好きだった。 対日船で国籍船なので給料が少ないため、生活がきつい。船員たちは袋(物品)商売をする。日本に行って医薬品や、こま油、こま、味噌など農産品を少量買って来て売る。たまに規模の大きくやる者もいたが。(続き)

船窓夜話ー第二十六弾―薮医者

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:45 投稿番号: [2930 / 3669]
船窓夜話―第26話―薮医者 2003/ 6/21 17:12
メッセージ: 4610 / 6027

投稿者: ilkuji
甲板員たちの日課は主に貨物を載せたり降ろす起重機の運転、甲板および外板ペンキおよび掃除、貨物倉掃除および管理である。貨物を降ろした後、ゴミで汚くなった貨物倉を掃除しないと次の貨物を載せるとき困る。甲板長を作業番長にして甲板員全員が貨物倉に降りていって掃除し、ゴミを出した後、水ホースで洗う。少なくとも総トン数1万トン以上の貨物船は貨物倉の深さが70―100メターに至る。階段を降りるとき注意しないと床の上に墜落し死亡か身障者になることもある。

ある晴れた日、波一点ない明鏡之水みたいな南太平洋を航海していたとき、甲板員たちが水ホースで床を洗ってした。その中でも階級の低い4等甲板員がホースの先の鉄ノズルを取っていたのに重くて疲れるので暫くノズルをしばらく行かせた。そうするとノズルは水圧により揺れながらその甲板員の顔面を無慈悲に打ん殴った。

航海当直でブリッジで勤めていた筆者に急な連絡が来て降りてみたら右目の眉毛のあたりを鉄ノズルで強打され血を水道水みたいに流してした。医者のいない商船では簡単な救急処置で使う薬品しかない。船内医薬品担当航海士として筆者ができることは抗生剤軟膏を塗って包帯で巻くだけだった。処置を済ませて残りの当直を終えて部屋に戻って来た。そして書類業務をし夕食後、夜間当直に上がっていた。

しばらく夜の水平線を見つめていたら甲板員一人が再び上がって来てどうしても患者の血が止まらないと報告した。4甲員の部屋にいってみたら他甲板員二人が横になっている彼の顔を交代で血を拭いていたが止まらなくそのまま置いたら血液不足で生命の危険な状態だった。茫々大海で寄港する所もないし・・・

慌てて薬品倉庫に行って全てのクスリを調べたがほとんどスペイン語で書いてあって何が何かが全然分からない。前任航海士がスペイン寄港時に薬品を仕込んだようだった。長い間迷っていたとき、平たい缶を見つけて蓋を開けてみたら薬品の付いているガーゼだった。もしかしてという心でそれを患者の傷につけた。そうしたら嘘のように血が止まった。後で分かったけど、それがパラピンガーゼで止血用で使われるものだった。全く体験で学んだ医薬品知識というべきか。そういえば前任航海士との引続きのとき、スペイン語を勉強しなさいと言われたことが思い出した。スペイン語がわからないと患者が死ぬべきか。

ある日は下級船員同士で酒飲んで遊んでたがつい喧嘩が始まった。ところで喋っている途中で相手の拳で顎を打たれて自分の歯により舌が切断された船員がいた。舌が切られた人は喋られなく出血しながら吼えるから皆怖くて近づけなかった。二日くらいそのまま置いといたら唖子になるはずだった。

筆者は手術用針と糸の代わりに普通の服修繕用の針と糸を持ち、切られた舌の一片と本体を縫合してみようとした。麻酔剤があるわけないので患者は痛くてかんかんになって飛び上がる。そこで数人が手足をしっかり握って動かないようにさせて縫合手術を敢行するほかなかった。数日後、患者の口を開けてみたら幸いに舌は貼ってあった。難術だった。

船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー5

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:43 投稿番号: [2929 / 3669]
船窓夜話ー第25話ードンキホテーその4 2003/ 6/19 8:53
メッセージ: 4561 / 6027

投稿者: ilkuji
そのわけで日本に到着したとき、ストーキと1航士、それから他の船員数名といっしょに本船を降りた。当時3等航海士で彼らと同伴下船した筆者も大阪で飛行機で帰国した。飛行機の中で1航士とストーキは前後座席に分けて座った。

ストーキは離別酒から目覚したようで昔の海運公社のときの思い出を語っていた。1航士は前の席で彼の話を聴き、微笑みながら“それがストーキのいい面だぜ”と筆者にやや低く言った。ストーキは船をもう少し乗らないとと心配もした。彼には大学生の息子と娘たちがいる。子供たちが成長するまでもっと乗船しないといけないとの名残だった。ただし強制下船された記録があるから他船にでも再乗船がそんなに簡単ではないはずだろう。

1航士とストーキは航海士と舵手として出会って、お互い喧嘩しながらも10年以上、運命的にいっしょに乗り、いっしょに降りるのを繰り返した。小説でのドンキホテとサンチョが思い出す。どっちがドンキホテかは分からないものの、戦いながらも再び相手にしないとならない、目にみえない何かが二人を結んでいるのではないかな。(終)

船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー4

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:40 投稿番号: [2928 / 3669]
船窓夜話-第25話-トンキホテ-その3 2003/ 6/19 8:50
メッセージ: 4560 / 6027

投稿者: ilkuji
東南アジアを通じて中近東まで往復する航海なのでサウジを出港するときから副食がだんだん干始めた。常に副食費横領を疑われていて調理状態が不実だと怨嗟の的になっていた厨者(厨房長)なので今更副食倉庫の状況を知ったとしても納得する船員はあまりいなかった。印度洋を渡って帰ってくる途中、船長の令で傭船会社側に電文を浮かべた。シンガポルで副食を買うから入港を許可してくれるように。しかし会社側は埠頭滞船料を負担するのが嫌なので入港申請を却下し、日本に来て副食を載せるように提案した。船長は自分の申請を却下した会社側に歯ぎしりをした。

ある日、航海中に開かれた会食の場で数名の甲板部船員が厨者に副食状態について不満を吐露し、相席中のストーキが厨者の肩をもつ通信長(商船では厨房チームは司厨部と呼ばれ、司厨部の頭の通信長の指揮を受ける)と口喧嘩を開いた。酔ったこともあるし、ストーキは船員たちの立場を代弁するとの英雄心も作用しただろう。多血質のストーキは通信長に無礼を犯し、常によく泣く通信長はその場で泣きながら船長室に上がっていった。船長はサロン士官たちを招集、紀綱委員会を開いた。この席で通信長が未だ泣きながらストーキの無礼さを涙で訴えたし、船長は1航士に対策を聞いた。“ストーキをどうする?”1航士は自分が紀綱担当士官だから聞かれたというより自分が連れて来た船員がトラブルを起こしたのでどうするというように聞えた。

“行かせましょう”と1航士が答えた。下船させようとのことだ。系統上直系上司ではないが下級船員が司厨部の頭の高級士官に欠礼をしたのでいくら連れて来たとしても仕方がない。もし、その場で1航士がストーキを弁護したとしたら今度は1航士の勤務姿勢が裁判されるところだった。実は船長自身も義理の弟を甲板部員で連れて来た立場だが誰が敢えて船長を批難できるか。下級船員たちとしては偶には士官や船長の悪口もしたいけど同僚の中で船長の義理の弟がいるので悪口もできずストレスが凄く溜まる。

青春を青い波の上で流し、やがて甲板部一般船員の花と呼ばれる甲板長になる直前に下船処分を受けたストーキは茫然自失した。自分は船員達を代表して副食状態の不良を問い詰めるつもりだったのが酒のせいで 司厨部の頭を傷つけて泣かせてしまったので今更後悔してもしょうがない。ストーキはその日から意気消沈になり自分の部屋から出ようともしなかった。その数日後、ストーキはウィスキをいっぱい飲んでから夜中に船長室に上がっていて戸を叩いた。寝ていた船長は招待してないストーキの訪問を受け、困っていた。ストーキは声を出し“俺、大江(大洋)で飯食った者なのにこんな待遇をしていいんだ?”といって“一度許して!”と叫んだ。船長は翌日話そうと答えたがストーキは帰ろうともしなかった。“俺がいかにこの船のためにチンポが落ちるほど働いてたのにこんなことするのかよ?”といいながら拳で壁を打った。そしてウウンとトラが咆哮するように泣き出した。

ストーキの大声に驚いて走って来た1航士と2航士が船長室に入ってストーキくを止めようとしたら今度は1航士に飛び掛かった。“初士、お前が俺にこんなことしていいのか?”1航士は“早く出ていけ!”と引張って出そうとしたら髪の毛がストーキの手に掴まれ、あちこち引っ張られた。2航士が“ストーキさん、一旦降りていきましょう”と宥め、実習航海士まで飛び掛かって数人でストーキをやっと引っ張り出した。船長は怒って“黙っていたら甲板長昇進上申書を出してやろうとしてたのに駄目だな”と顔を顰めて呟いた。1航士は船長の商船大14年後輩だが全ての麺でお互い合わなく特にストーキの反抗事件などでこれ以上本船生活が不可能だと判断、船長に自ら下船届けを出した。(続き)

船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー3

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:39 投稿番号: [2927 / 3669]
仁川港で乗船することにして乗船前日、みんな仁川のある酒場に集まり‘仁川のマッチ工場♪’も歌い‘姉はきんちゃくマンコ、妹は白いマンコ云々♪’と歌い、箸で食卓を叩きながら遊んでいた。実家が釜にあるストーキは上さんを連れて来て旅館に泊まっていて相席したものの、その上さんが、気分良く躍りながら‘姉は・・・’を歌う1航士を苦虫をかみつぶしたような顔で睨んでいては唄が終ると‘若い人の唄が何それ?’と叱った。照れ臭くなった1航士が自分の座布団に座ると“この婆が男たちが遊んでる所に来て何やってるの?”とストーキが止めるふりをするけど上さんは“若い人があまりにも生意気しないで”と本音を出す。相手にする価値がないと思うが1航士の表情は固くなっていた。歳上の夫に上司格の1航士に密かにコンプレックスを感じていただろうか。

翌日、交替船員が全員乗船した後、その夜も1航士は酒パーティを開いていたのに酒に相当酔うとストーキに不満を暴発させた。妻教育を間違ってさせた罪でストーキは鼻白んで目の前の酒だけ飲んでいた。つい彼らが初めて対面した時節に話は溯っていて1航士が“最初当直をしていたとき、あまりにも居眠っているから前面をみていこう’というとストーキは‘みている’というが居眠りながらみえるはずないじゃ?”という。そしたらストーキも負けずに“見ているのにいつもみろというとどうしたらいいんだ?”と反問する。そこで1航士“よし。全部いいけど頭を傾けてみているというと目が頭についているとのことか?”といって皆大笑いをした。

東南アジアと中近東を向かって航路を決めた本船は先ず日本で雑貨を載せた。50代の甲板長が荷役作業中にはメガフォンを取って甲板員たちに叫びながら甲板を縦横無尽縫う。彼より2才上のストーキは悪口をしながらも従わなければならない。その際、甲板部会食でもあれば酒酔いふりをしたストーキは上司の甲板長に悪口をやりまくり喧嘩を売る。周りの人が止めないと力では甲板長が勝てないのでもう会食の席を避けながら一人で遊ぶ。ストーキの考えでは経歴にせよ歳にせよ自分が上なのに甲板長だと威張るのが目障りらしい。甲板長は酒も飲めず、喫煙もできない。ただしある港に入港したらあっという間に消えてしまう。調べたらどこかで取った情報を元にして女のいる家を早速捜し出し個人プレイをするそうだ。そういえば酒、タバコが駄目なら何か他のことでも趣味を持たなければならないだろう。

ストーキのうるさがらせるせいか個人事情があったわけか、ある日、東南アジアのどっかの港で甲板長が下船を宣言した。甲板部船員が全員集まった所で甲板長はストーキに言った。“この機会できっと昇進しなさい”と。突然の下船で会社では後任者を探して送る時間的な余裕もなく、韓国から東南アジアまで飛んでいく航空券代も手強いためか後任者なしで中近東まで行ってくるように電文を送ってきた。やがて皆の視線はストーキに集中された。今度こそ彼が甲板長昇進の0順位だと。そういえば経歴だけでも彼みたいな適任者は他にいない。それに1航士が連れて来たし1航士の後輩たちが会社の船員人事件を取っているから期待するのも無理ではないはずだ。(つづき)

いや、ここは

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/16 09:32 投稿番号: [2926 / 3669]
";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙t,
     彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
     イ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;r''ソ~ヾ:;;;;;;゙i,
     t;;;;;;;リ~`゙ヾ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ      i,;;;;;;!
     ゙i,;;;;t      ヾ-‐''"~´_,,.ィ"゙    ヾ;;f^!     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   ここは、倭寇の手淫場所だ。
      t゙ヾ;l    __,, .. ,,_     ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.    \____________
      ヽ.ヽ   ー=rtσフ= ;   ('"^'=''′   リノ  
    ,,.. -‐ゝ.>、   `゙゙゙゙´   ,'    ヽ     . : :! /
  ~´ : : : : : `ヽ:.     ,rf :. .   :.: j 、   . : : ト、.、
  : : : : : : : : : : ヽ、   /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/   ヽ\、  
  :f: r: : : : : : : : !丶   r-、=一=''チ^   ,/    !:: : :`丶、_
  : /: : : : : : : : :!   ヽ、   ゙ ''' ''¨´   /    ,i: : : l!: : : : :`ヽ、
  〃: :j: : : : : : : ゙i    `ヽ、..,,__,, :ィ"::     ,ノ:: : : : : : : : : : : :\
  ノ: : : : : : : : : : :丶     : : ::::::::: : : :    /: : : : : : : : : : : : : : : :\

巡査の居る風景四

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:04 投稿番号: [2925 / 3669]


  客を引く女が四五人、白粉の禿げた顔を震わせながら、例の横町の壁に倚りかかって居た。屈折した街燈の光の中で、立てかけた土管の影が黙々と囚人達の様に並んで居た。
  ――あんた、どう?   一寸。
  ――駄目、駄目。――男はズボンのポケットに手を入れて振って見せて笑った。毛糸の頭巾を帽子の上から冠ったその青年の顔が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、静まりかえった空気の中に、何処からか壁の破れる音がピンと響いて来るのだ。
           ×            ×            ×
  ――私?   何でもないさ、亭主が死んで身寄りがなくって、外に仕事がなければ仕方がないじゃないか。
  ――亭主って、何してたんだ。
  ――鐘路で毛皮を売ってたんだよ。
  淫売婦の金東蓮の部屋では、温突の油紙の上に敷いた薄い汚れた蒲団の下に足をつっこんで、色の白い職人風の男が話して居た。
  ――で、何時、死んだんだい?
  ――此の秋さ。まるで突然だった。
  ――何だ。病気か?
  ――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
  男は手を伸ばすと、酒の瓶を掴んでごくりと一ロ飲み込んだ。
  ――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
  ――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだ。
  男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
  ――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
  ――エ?   何を。
  ――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。

  一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照し出された顔がちらついた。
「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。

  数時間の後、やっと夜の明けた灰色の鋪道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
  ――みんな知ってるかい?   地震の時のことを。
  彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。
  ――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。
  到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。
  ――オイ、静かにせんか、静かに。
  彼女はその巡査に武者振りつくと急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。
  ――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………。

  彼女が刑務所に行って了ってからも、S門外の横町では、相変らず真黒な生活が腐った状態のまま続けられて行った。
  寒いというより、痛かった。身体の中で心臓の外はみんな凍死して了って居る様な気持だった。道傍には捨てられた魚の鰓が赤く崩れ、日蔭の雪溜りの上には生々しい豚の頭が噛り散らされて居た。屋内では人々は、溝から上る瓦斯の様な韮と、蒜で腐った空気を彼等の不健全な肺臓に呼吸して、辛うじて生きて居た。
  凡てが変らなかった。
  毎日四時頃になると、東蓮の友達だった福美がいつもの様に青い腕をまくって注射をした。そういう時だけ彼女は何処かに居なくなった東蓮のことをかすかに思い出すのだった。それから夜がくると、きまって、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油の切れた車輪の軋る様な音を立てて流して行った。
  明け方になると、まだ暗い中に、よく此処に来る背の高い支那人が此の横町から出て行った。
  ――おっかない星だな。――
  彼はまだ暗い空を見上げて、そう云った。それからポケットに手をつっこんで金を探して見た。
  ――ふん。おっかねえ星だな。
  も一度無意味に繰返すと、彼は又凍てついた路を、高く履の音を立てて、よろめきながら帰って行った。

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巡査の居る風景三

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:02 投稿番号: [2924 / 3669]


  漢江人道橋の上を、砲車がカラカラ勢よく駈けて行った。永登浦の砂の上で、龍山師団の兵士達の剣尖が青い氷を映して寒々と冬日に光った。夜毎夜毎に演習の野営が砂上に張られて、篝火が赤々と燃え盛った。

  [ノロ]を担いだ学生の一団が、街上を滑りながら走って行った。ショウ・ウィンドウの中では土偶の地下女将軍の赤い顔が重々しく笑った。半分以上出来上った朝鮮神社の鎚の音が、カラカラに乾いた空の下で高らかに響いた。

  高等普通学校の校庭では、新しく内地から赴任した校長が、おごそかに従順の徳を説いて居た。(今迄居た内地の中学校で、彼が校規の一つとして、独立自尊の精神を説いたことを、幾分くすぐったく思い浮べながら。)

  普通学校の日本歴史の時間、若い教師は幾分困惑しながら遠慮がちに征韓の役を話した。
  ――こうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。――

  だが、児童達の間からはまるで何処か、ほかの国の話しででもあるような風に鈍い反響が鸚鵡がえしに響いてくるだけなのだ。
  ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
  ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
           ×            ×            ×
  其の午後は冷たく晴れて居た。
  枯れた褐色の刺ばかりになった、アカシヤの立木が北風の中で鳴って揺れた。
  南大門駅の前には群衆が風にふかれて、立並んで居た。彼等は一様に駅の入口に眼を注いで居た。自働車は勢よくその降車口に馳けつけて出迎えの高官達を吐き出した。
  ――総督のお帰りなんだよ。
  ――総督が東京から帰られたんだよ。
  警官は、佩剣をがちゃつかせながら厳重にあたりを警戒して居た。趙教英も彼等の中にまじって人々の背後から附近を見廻わして居た。彼は風に吹きよせられた新聞紙を底の破れた靴でふみつけながら、いつかも見たことのある総督の白髪の童顔を思い浮べた。此の総督は今迄の総督達と同じ様に軍人出身ではあったけれども、今迄の誰よりも一番評判がいいようであった。鮮人達の中にも心服して居るという者が可成あるのだ。だが…………
  其時厚い黒い外套に包まれて肥満した総督の人なつこい童顔が降車ロから現われた。すると出迎えの役人達あ一斉に機械の様に頭を下げた。総督は鷹揚にそれに会釈して用意の自働車に乗りこんだ。続いて、ひどく痩せて貧弱な政務総監も次の車に乗りこんだ。そしてすぐに二台の車は、セブランス病院の角から南大門の方に滑り出した。
  すると其の時だった。突然群集の中から白衣にハンティングを着けた男が躍り出したかと思うと、矢庭にピストルを持った手を伸ばして前の車をめがけて引金を引いた。弾丸は発なかった。男はあわてて第二の引金を引いた。
  今度は轟然たる音響と共に弾丸が後の車の硝子を破壊して斜めに車内を横ぎって炸裂した。と気のついた二台の自働車は急に速力を増して、疾駆し去った。
  一瞬間、群集は呆然として、此の事件を眺めた。が、次の瞬間に、警官達は本能的に此の暴漢のまわりに馳せつけた。が、兇漢はまだピストルを持って居る。彼等は兇漢と睨みあった。兇漢は二十四五の痩形の青年だった。彼もピストルを握りしめたまま血走った眼でしばらく警官の方を睨んで居た。が突然帽子をとって甃石に力一杯たたきつけて、カラカラと自棄的に笑い出すと、いきなり手にした武器を群衆の中に抛り投げた。群集はさっと退いた。警官達も思わずギョッとして身を引いて、投げ出されたピストルを見た。………が次の刹那には彼等は既にとびかかって兇漢を押えて居た。彼は少しも抵抗しなかった。青ざめて幾分小刻みにふるえる口許に蔑すむ様な微笑を浮て彼は警官達を見た。青白い額には乱れた髪が長くたれ下って居た。眼にはもう周章と昂奮の跡が消えて、絶望した落着きと憐憫の嘲笑とが浮んで居るだけだった。
  彼の腕を捕えて居た趙教英はとてもその眼付きに堪えられなかった。その犯人の眼は明らかにものを言って居るのだ。教英は日頃感じて居る、あの圧迫感が二十倍もの重みで、自分を押しつけるのを感じた。
  捕われたものは誰だ。
  捕えたものは誰だ。

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巡査の居る風景二

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/16 09:00 投稿番号: [2923 / 3669]


  銅色の太陽は其凍った十二月の軌道を通って、震えながら赤く禿げた山々に落ちて行った。北漢山は灰色の空に青白く鋸形に凍りついて居る様に見えた。其頂上から風が光の様にとんで来て鋭く人の頬を削いだ。全く骨も砕けて了いそうに寒かった。
  毎朝、数人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切った鳶の蔓を浮かんだまま死んで居た。
  ある者は紫色の斑点のついた顔をあおむけて、眠そうに倒れて居た。
  漢江の氷の上では、爺さん達が氷に穴をあけて、長い煙管で煙を吹きながら寒そうに鯉をつついて居た。その岸の林からは貧しい人達が温突にくべる薪をどんどん盗って行った。薄青い山の様に氷を満載しても曳いて行く牛の顎には、涎が氷柱になって下って居た。
  雪は余り降らなかった。路はカチカチに凍り固まって了った。其路の上を色々な足が滑ったり、転んだりして歩いて行った。
  朝鮮人の船の様な木履。日本のお嬢さんのピカピカした草履。支那人の熊の足の様な毛靴。今にも転びそうな日本の書生の朴歯。磨き上げた朝鮮貴族学生の靴。元山から逃げて来た白色ロシヤ人の踵の高い赤靴。それから足も大分出かかった担手―荷物を背にのせて運搬する朝鮮人―のぼろ靴。まれにはいざりの乞食の膝から下の断たれた大腿部。その足は寒さのため、街頭で赤くはれ上って居た。
  一九二三年。冬が汚なく凍って居た。
  凡てが汚なかった。そして汚ない儘に凍りついて居た。殊にS門外の横町ではそれが甚しかった。
  支那人の阿片と蒜の匂い、朝鮮人の安煙草と唐辛子の交ったにおい、南京虫やしらみのつぶれたにおい、街上に捨てられた豚の臓腑と猫の生皮のにおい、それ等がその臭気を保ったまま、此のあたりに凍りついて了って居る様に見えた。
  でも朝方だけは流石に空気もいくらか澄んで居た。夜が明けかかって枯れたアカシヤの枝に鵲が鳴き初める頃になると、少しは清らかな呼吸も出来るのであった。いつも其の頃になると、此の横町から沢山の男がぼんやりして併し寒そうに手をこすりながら帰って行った。

  其処には色々な女が集って居た。金東蓮もそうした女の一人であった。彼女はまだ新米で友達がなかった。ただ彼女と仲がよかったのは福美という女だけだった。姓は誰も知らなかった。其の女はいつもひどく青い顔を――彼女達はみんなそうだが、殊に――して居た。「あの人は中々えらい人なんだよ。」とその女のことを隣の婆さんが彼女達に話して居た。併し、どう、えらいのだか誰も知らなかったし、彼女も又言おうとはしなかった。そして毎日きまって四時頃になると腕をまくって注射をした。
  東蓮には、どうして、此の女にそんな金がはいるか不思議だった。そこである時、聞いて見た。すると彼女は悲しそうに笑いながら言った。
  ――お前なんか、まだ新米だから、私みたいに稼げるもんか。――

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京城帝国大学

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 05:28 投稿番号: [2922 / 3669]
1924年の京城帝大設立は、朝鮮人による民立大学設立運動の事前遮断と、朝鮮人の高い教育熱が与える日本帝国に対する圧力という二つの要因が背景で作用したためだったが、それとは状況を異にする。



もちろん、城大にダークな部分があるのも事実だ。植民地朝鮮に建てられたとはいえ、やはりそれは、どこまでも支配者である帝国日本と日本人のための大学だった。それは、忠実な帝国臣民を養成して国家に貢献する人物を養成する大学であり、学問の独立と自由とは、距離があった。日本帝国は、朝鮮の秀才らに、この大学で教育を受ける機会を付与することで、植民統治に必要な支持層を作っておくのに成功する。教授陣は、100%日本人で、学生の数においては、日本人対朝鮮人の比率は、始終2:1[29]だった。

http://homepage2.nifty.com/tsukaken/koza-2.htm

ありがとうございます。

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 05:00 投稿番号: [2921 / 3669]
土下座外交などといいますが、日本政府は日韓協約等の条約は対等の立場で
合意の上締結、戦後の日韓条約締結においての援助も独立の祝い金であり
しかも分割の10年払いでお金ではんく役物等の提供です。
つまり日本政府はいまだに賠償などする必要はないという立場です。

「遺憾であった・・・」とのこのまるで第三者でもあるかのような言葉をいうだけでどこに土下座などしているといえるのでしょうか

嫌韓サイトは私も参考にしますし、ここでとりあげられている著作も読んでいます。
当然事実に反することを隣国から言われて認める必要はありません。
必要以上に謝罪する必要もありません。

イデオロギ−といいますが、この著作者の見方であり、これを読んでどう考えるかは当然自由です。

国家の支配と考えるかどうか   私はこのような考え方もあるのかとおもいましたが。

日朝の近代史は日本側にはプラスであっても朝鮮側にはマイナス面が多い
その結果反韓、反日になっていると思います。

京城大学に関しては具体的な数字の根拠とのことですが
分かり次第また投稿いたします。

ありがとうございました。

近代日本の教育と朝鮮 ⑥

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 04:11 投稿番号: [2920 / 3669]
教育制度にみる日本人・朝鮮人の差別的処遇

本節においては、植民地朝鮮における日本の教育を、教育制度と政治、経済、社会の変遷
を中心に時期区分し、其の中での日本人と朝鮮人の位置をあきらかにする。

時期区分に関しては教員養成制度にのみ着目すれば、自ずと別の区分もあり得るが、
教育政策全般の中でとらえ返したほうが、より位置付けしやすいと考えた。

各期の最初に、各時期の特徴を概観するので、各区分の意味はそこに譲る。

A.1894年(甲午改革)〜1910年(韓国併合)

この期は、いわゆる韓国「併合」以前であり、本来「日本教育史」として観察することは不遜なことである。

しかし、その後の準備過程として、明かに日本政府の意思が働いており、かつ1905年以降
に至っては、完全に「併合」後の施策に連続する政策をみることができる。

また植民地学務官僚の意識においてもこの時期は連続したものとしてとらえられている。

近代における日本と朝鮮の関係は遅くとも1870年から見て行かねばならないが、ここでは
近代的学校法令等がだされる1895年前後から見て行く。

ただし「大日本国大朝鮮国終好条規」が調印された翌1877年には、すでに釜山に日本人小学校が開設されていること、そのために、1927年には釜山及び釜山教育会によって「釜山教育50年史」
なるものがだされていることは、覚えておくべきであろう。

1894年、金弘集政権による「甲午改革」がなされた。

これは一面、封建的制約を取り除く「近代化」であったが、あくまでも日本の資本の利益のためのもの以外にはなり得なかった。

つづく1895年に「漢城師範学校官制」「同校規則」「小学校令」「小学校教即大綱」等、一連の近代学校法制が出されている。

しかし、このとき、庶政の改革にすでに日本人顧問が関与し、例えば「漢城師範学校規則」において
、その「教育の要旨」として示されているところを見れば、当時日本で通用していた1892年文部省令第八号
「尋常師範学校ノ学科及其程度改正ノ事」による尋常師範学校の教育の要旨との類似を見て取ることが出来る。

1905年、日韓協約により日本の介入は制度的にも確立され、学部には幣原担が参与官として参画した。

「統監府」の設置された1906年、学校制度も改編された。

この時点から普通学校(小学校を改称)の教科に日本語が加えられ、地理、歴史において「隣邦」が強調
される等、日本への隷属の意識がはかられている。

一方、教育年限の短縮に見られる「愚民化」など「「併合」後、朝鮮でおこなわれた日本の植民地支配の前提
となるようなものが、すべてこの過程でできている」といわれている言葉が、教育に関しても妥当している。

師範学校をめぐる法令をとり上げてみれば、先の「漢城師範学校規則」に代わる「師範学校規則」において
、その「教育の要旨」に新たに四項が追加され、日本の1892年尋常師範学校の教育の要旨と完全に一致して
しまったこと、「尊王愛国」の語が「尊君愛国」にかわっている点などに、日本の意図と、その法令整備の
過程がみてとれる。

また、「教育」の実質的担当者という側面からみるとき、各普通学校には朝鮮語も知らない日本人が「教監」
として派遣され、事実上校長として朝鮮人教員の上に力をふるっていた。

当時の言葉でいうところの「高等程度諸学校」すなわち成均館、法学校、漢城師範・高等・外国語・高等女学校.、
平壌高等学校等の教員構成を見てとれば、1908年、日本人32人対朝鮮人61人、1909年、42人対74人、1910年、
48人対71人と、日本人教員が三分の一を占める割合であった。

しかし、このように制度の制定に際し、日本が力をふるい、その意図を実現したといっても、未だそれは表層
に留まるともいい得るものであった。

1910年時点で普通学校は、官立一、公立五九、私立(補助指定私立学校-政府より日本人教員一人と朝鮮人教員もしくは
二人を派遣)四一、計101校、その生徒数は官公立あわせて12,732人、私立4,214人であり、その中には当局者が
「所謂模範教育の範囲に入らなかった」という「乙種公立普通学校」も含まれている。

それに反し、学部の設立認可済私立各種学校は2100余校、生徒数八万余、伝統的教育機関である書堂に至っては
1911年で16,540、生徒数141,604人と、普通学校など比較の対象ではなかった。

民衆の間では「子供を普通学校に入れると男の子は卒業後内地に連れて行って兵隊にして鉄砲の玉除けにするのだ。
女子は内地に連れて行ってカルボに売るのだ」という言われ、入学勧誘も困難であった。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①(追加です)

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/16 00:11 投稿番号: [2919 / 3669]
>明治政府の学校設置の動きに対して、国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」のような反乱も起こった。

学校設置に対して農民らの不満が発生したのは「国家に支配された学校の必要を感じなかった」からでしょうか。むしろ明治政府の政策全般への批判の一環であり、また重要な働き手である子供を学校に出し、さらに授業料まで払うとはとんでもないとの「国家の支配」とはやや問題が異なる、生活感情があったのではないでしょうか。

公教育=国家に支配され統括された教育であり、それは民衆とは相反するものであり、しかも最初の目的が「対外侵略の兵隊作り」、女性の就学は「工場労働者形成のため」のものであったという理解は、一定のイデオロギーのもとに規定された、きわめて図式的な歴史理解の枠組みを出ていないのではないか、という気がします。

どうも、一見この本はそれらしく見えつつも、よくよく読んでみると(部分しか読んでいませんが)、民衆の名を借りて自らの政治的な意図を目隠しした、粗末な部分があるように感じますね。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2006/06/15 22:56 投稿番号: [2918 / 3669]
>朝鮮も開国以後西洋の文化、文明を取りれることに努力し   教員を養成、学校も設立しました。調べればそれぐらい分るでしょう。

具体的に資料の提出を頼む。俺の知っている限り近代的初等教育の学校は無く、1905年に日本の保護国になった時点から始まったが、5年経過後の1910年にはわずか40校しかなかったくらい、のんべんだらりとした情況であった。
ま、一、二の極少数の例を取り上げ全体がそうであったような詭弁は止めろ。

君は近代教育がどんなものか、きちんと分かってカキコしてるのか。

其れまで東洋に全く無かった政治制度や社会制度などの考え方のみならず、
自然科学=即ち化学、工学、生物学、地理学、数学、水産学、農学、物理学等々、
社会科学=哲学、法学、社会学、教育学、心理学、人類学、考古学、経済学等々

これらは近代的学問は東洋には無かった。従って日本は国民に近代教育を施し、近代国家として独立する為、東洋に無い西洋の言語を日本語に翻訳するために苦労し、和製漢字を創出した。其れが哲学、科学、化学、経済学、共産主義、社会主義、国民、等多岐に亘り、現在中国語にある自然科学用語の殆ど、社会科学用語の70%は日本人が創った和製漢字である。当然朝鮮も同様で和製漢字をハングル読みにしたに過ぎない。

中国語の中に日本語漢字がある理由は、日清戦争でアジアの超大国が小国日本に敗れた原因が日本と比べ近代化が遅れたと気が付き日清戦争後10年間で2万数千名の留学生を日本に派遣し勉強し祖国に持ち帰ったことによる。これをして計画的に国家が留学生を大量に派遣した最初の例とされている。

清国人を欧米に送り、翻訳で苦労する時間と費用を考えれば同じ漢字を使った和製漢字であれば、中国人は喋る事は難しいが6ヶ月で読み書きできるという発想からであった。

中国語の中の日本語
http://web.archive.org/web/20030622024010/http://www.nichibun.ac.jp/text/fn91.html

文字化けしてる場合は、表示バーのエンコードの日本語自由選択をクリックすれば読める。

従って、この主要な要素を知らずか、無視した中国を含め朝鮮の近代教育問題における君のカキコは意味をなさず、単なる感情論。

>いいか日本は侵略し   朝鮮から絞りとり   朝鮮人を塗炭の苦しみに陥れたのだよ。

馬鹿が、他の日本人もつい最近資料を添付して説明したカキコがあるが、それを見ずに無視し、朝鮮から搾り取り途端の苦しみに陥れたとまだ言うか。

日本は絞りとったものは無い。寧ろ日本からは大金を投じて朝鮮に経済、社社会インフラ、教育インフラ、医療インフラ、近代的農法を朝鮮に投下した。併合前の朝鮮は経済的に破綻しそれらを整備する財資さえなく、民間には工業資本はおろか工業資本へ移行する前段階の商業資本さえ蓄積がなく、貨幣経済が発達せず物々交換経済であったことをしっかり認識しろ。朝鮮人が途端の苦しみにあったのは横暴な両班階級と人民の生活を考えぬ李王朝政府の奢侈と党争による。

併合より随分前の時代でも1492年に来日した朝鮮通信使は、その報告書の中で、「銭が盛んに用いられ、布や米による支払いを凌駕している。だから、千里の旅をするものであっても、ただ銭貨を帯びるだけでよく、穀物を携帯しなくてよい」 (『李朝世宗実録』巻46)

朝鮮王朝は経済から没落した。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=130000&biid=2004091845668

4人の外国人が見た併合前の朝鮮
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html

ついでに、併合前と併合後の朝鮮の写真集
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary

下へスクロールすれば併合前と併合後の写真がある。

これらの資料で君の言ってる事が嘘であると、君がまともな人間ならば認識できるだろう。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/15 22:20 投稿番号: [2917 / 3669]
>京城帝国大学も朝鮮人学生は非常に少なく内地からの日本人学生が多かった。この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府がそのような運動を押さえるためにやむおえず設立した。

なるほど日本人が多かったのはその通りですが、では数字としてはどれくらいでしょうか。ちょっと資料をご提示いただければ助かります。内地からの学生、朝鮮の日本人学生、朝鮮人学生、それぞれの割合、そして実際に京城帝国大学がその当時、帝国大学の中でどれほどの水準であったかも教えていただければ幸いです。

それから「この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府がそのような運動を押さえるためにやむおえず設立」とのことですが、民立大学期成運動のことでしょうか。これは第二次朝鮮教育令を契機として京城帝国大学創設の方針が確定してから期成会ができたとのことのようですが、運動そのものはもう少し前にありえたとしてもそれによって「総督府がやむをえず」というのは事実に即しているのでしょうか。教えていただければ幸いです。

>普通学校卒業後専門学校などの高等教育機関へは朝鮮人はほどんど少数しかいません。

専門学校などでは「比較的」朝鮮人学生の比率も高かったような印象が私にはあるのですが「ほとんど少数」だったのでしょうか。何か資料があれば幸いです。よろしくお願いいたします。

>そのような恩恵を受けることができたのはほんの少数

もちろん限界はありますし、人口比率で言えば微々たるものでしょう。しかし日本で学んだ朝鮮人留学生の数は相当の数にのぼったはずです。その後、大韓民国で活躍した知識人たちを見ても戦前の留学帰りの人士は少なくありません(自費留学が多いでしょうが)。

当時の状況はなかなか複雑な部分があるように思いますよ。

>嫌韓サイトの日本がいかにも善政をおこなったかのごとく書き立てているがほとんど間違いだよ。

私たちに必要なことは、過去を断罪したり土下座したりすることではなく、できるだけ正確に過去を把握し、それを自らの国の歴史として受け容れていくことであると思います。ただ、そこにはあくまで「できるだけ正確に」という但し書きがつくのです。

私は嫌韓サイトで必要な情報があれば受け容れればよいし、左翼本に受け容れる部分があればそれも受け容れればいい。幅広く、事象を追及して、吸収することが必要であると考えます。

私は個人的には、韓国の歴史観も日本のやや偏り気味の歴史観も、どっちもどっちであるという印象を持っていますよ。たとえば、韓国の竹島認識など普通に考えればひどいものです。

以上、横から失礼しました。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2006/06/15 22:15 投稿番号: [2916 / 3669]
横から失礼します。書き込み興味深く拝見させていただいています。ちょっと、いくつか意見と質問を申し上げます。(二回に分けます)

>佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

私はこれは佐野氏の考え方がおかしいと思います。(佐野の冒頭の「国家によって統轄された近代公教育(制度化された学校教育)は、それ自体が国家による民衆の支配である。」に関係します。)

日本の近代教育(学制)の原点にある「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」とする「被仰出書」の実学教育を中心とした理念をそのままに民衆支配へとつなげるにはどこかに無理があるのではないかと。

教育における国家の管理統制はもう少しあとの話です。

また、佐野は「最初の目的は対外侵略の兵隊作りであり」と書いているように、「富国強兵=対外侵略の兵隊作り」という認識のようですが、私は富国強兵とそれをイコールにすべきものであるとは思いません。

正直なところ、佐野は「民衆」と言う名を自らの理屈の都合のよいようにイデオロギー化して用いている嫌いがあるように感じます。

>原因は多く民族、多言語でそのうえ国家財政が乏しいし、大国のエゴに振り回されている等   さまざまな原因があります。

だからこそ、日本はその後、明治13年の改正教育令と教育勅語を経る中で富国強兵と、国語教育に重点をおいた教育へと転換したのではなかったでしょうか。

>それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。当時保持していた植民地の経営で経済力の大きな負担になり新しく領地を獲得する余力はなかったということです。

私はよく知りませんが、これは歴史学において、ある程度定説として認められているものでしょうか。ロシアの南下政策もこの時点ですでに余力はなかったと。ほかの列強も勘違いの日本以外は同様であったと。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: kohshien21c 投稿日時: 2006/06/15 21:38 投稿番号: [2915 / 3669]
>教育を取り入れる方法は国家が行うべきなのか
民衆があつまりどのような教育を行うか民衆の自治に任すという方法もあり
ます。

こういうのを詭弁という。ある程度の教育インフラが揃い近代教育を教える事が出来る教師が十分揃わない事には、教育をしようにも不可能に近い。

発展途上に於いては基本的な義務教育は国家が行う。又、官僚養成の為には国家が行うのは間違いではない。日本は当初お抱え外国人の教師を雇った。寧ろ民間に人材や其れを雇う資金が無い状態にあっては国家が教育に乗り出すのは当然の事。

東京大学は明治10年、1868年に法、理、文、医学部の4学部で発足した。しかし教師はお抱え外国人

私学の慶応義塾大学は私塾として明治元年に発足したが、文学、理財、法律の3科をおいて大学となったのは明治23年、しかし、私塾出身者で教師となれる者がおらず、内外の外国人教師を雇った。米国ハーバード大学総長エリオット博士の推薦によりリスカム(文)、ドロッパース(理財)、ウィグモア(法)の3名が教師となった。大学部を設けるまで23年を要し、しかも日本人教師はいない。それで明治32年に教員養成を目的とした海外留学生制度を理事会で決定したくらいだ。同じく私学の名門である早稲田大学は1882年に東京専門学校として発足し1902年に大学となった。教員養成にはそのくらい時間が掛かる。初等教育においても同様である。

従って、民衆の自治とかの議論は近代教育導入時期においての議論にはならない。民衆自身に近代教育が備わって無いからから自治なる発想も出来ない。

>佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

富国強兵策の何処が悪い。当時は欧米列強がアジアの植民地化に狂奔し、中国は欧州列強に蚕食され半植民地国家、米国はハワイ王朝を倒し、米西戦争で勝ちスペインの植民地であったフィリピンを植民地に、フランスはベトナムを、そして女真族の土地満州を実質支配したのがロシアと枚挙に暇が無い。日本が富国強兵策をとったのは、日本が欧米からの植民地化を防ぐ為。佐野は自己のみすぼらしいイデオロギーを満足させる為に富国強兵ーアジア侵略と言いたいのだろうが、当時の国際情勢を無視した屁理屈に過ぎない。他方、当時の国際情勢を無視した清国が半植民地化されたのも近代国家へ脱皮できなかった主たる理由。

>当時の列強には再度新しく侵略する力はなかったでしょう。
朝鮮が開国以前なぜ外国の武力行動に対し日本のように開国に応じず追い払うことができたのか

又国際情勢を無視してるな。例えば米国にしろフランスにしろ国内問題を抱え、特に米国は南北戦争に突入した再度朝鮮に迫る時間がなかった事と、さして資源的に魅力の無い朝鮮であったために放置しただけ。

従って、
>それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。

この言い分は史実に即さぬ観念論故却下。

>ではあなたは右翼ですか

君の右翼の定義は何?俺は右翼ではない。史実に基づき日本の伝統文化を守る保守派だ。

以下右翼に関する君のカキコも却下。

Re: おい、早く

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:35 投稿番号: [2914 / 3669]
恥じヲ知れ

馬鹿もん

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:33 投稿番号: [2913 / 3669]
>事実を全く無視。当時の朝鮮には西洋の自然科学、社会科学を体系的に教育できるものがいなかった。なぜって?そういう教育を受けてないのが教師になれるはずが無いのは自明の理。

そのようなことはありません。朝鮮も開国以後西洋の文化、文明を取りれることに努力し   教員を養成、学校も設立しました。
調べればそれぐらい分るでしょう。

>近代教育を行うのが愚民化とは恐れ入ったね。馬鹿だよこの佐野は。史実さえも無視している。愚民化とは西洋列強が植民地で原住民の教育を受けさえなかったことを言う。

教育内容が日本より低く、終業年限も当初4年であったことから愚民化と
いっている。


>ほう、日韓併合時代に小学校は各邑に一校という目標を制定し、日本敗戦までの間にほぼ0に近い数から5千数百校出来たがそれは無視か。

0ではない。朝鮮は文明3000年の歴史を誇る国家です。
当然教育制度もあり日本が0からすべて学校を作ったと言うことは間違い

学校を作っただけで朝鮮人は貧しさのために就学率は30%前後と言われている。卒業性も入学時よりはるかに少ない

施設を作っただけで義務教育制度は1943年に1946年より実施するという計画
があっただけです。

>それから高等学校や更に最高学府の京城帝国大学を1924年に創設したことは無視か。それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

普通学校卒業後専門学校などの高等教育機関へは朝鮮人はほどんど少数しかいません。

京城帝国大学も朝鮮人学生は非常に少なく内地からの日本人学生が多かった
この大学は朝鮮人が独自の大学を設立しようとしているのを知った総督府が
そのような運動を押さえるためにやむおえず設立した。

>それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

そのような恩恵を受けることができたのはほんの少数

少数に対し援助したから朝鮮人全体に対して行ったようにいうのは間違い

植民地にした日本人が朝鮮人のために朝鮮を運営するわけがあるはずがない。

いいか日本は侵略し   朝鮮から絞りとり   朝鮮人を塗炭の苦しみに陥れたのだよ。

嫌韓サイトの日本がいかにも善政をおこなったかのごとく書き立てているが
ほとんど間違いだよ。

日本の都合の悪いことはほとんど記載されていない。
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