Re: 近代日本の教育と朝鮮 ⑦
投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/16 13:42 投稿番号: [2945 / 3669]
B 1910年〜1919年(3・1独立運動)
この期は、政治的・経済的「支配」のためのむきだしの暴力支配の時期である。
朝鮮人は政策的外形の上でも統治の対象としてのみ見られ、この後の時期の
ような形式的な同一視もなされなかった。
「教育」の特徴は、「併合」前に引き続く、短い教育年限の「愚民化」に端的に
現れ、朝鮮人教員も補助としてしか認められなかった。
植民地人の養成としての総督府の「教育」方針は、自立を希求する朝鮮人の姿を
「徒に空理を談し」ととらえ、この地に設定されるべき「教育」の目的を
「実に就き(略)勤倹の美風を涵養する」とする、「併合」の公表された
1910年8月29日の統監寺内正毅の論告に明かにされている。
その「愚民化」ともいえる「教育」制度の枠組みはすでに完成されていた。
そのため、すぐに植民地教育制度を宣言することなく、「朝鮮に於ける朝鮮人
の教育は本令に依る」という「朝鮮教育令」は、翌1911年8月23日になってから
公布された。
この時点における日本人・朝鮮人の「教育」の目的の違いは、制度としても明らかであった。
普通学校4年、高等普通学校4年という短い教育年限は、せいぜい社会において日本人の
下で日本語を話す朝鮮人を養成しようとするものであった。
そのことは師範学校を認めず、日本人と同じ資格をもつ教員とはしないということにも
現れていた。
かたや、日本人の補助としての地位には朝鮮人を必要としていた。
普通学校教員でいえば、日本人の校長の下に、朝鮮人教員を配置するという構成である。
それがために、高等普通学校、女子高等普通学校に、師範科、教員速成科を設け、本科卒業後
、一カ年の師範科を経て訓導とし、あるいは本科二学年修了後、教員速成科を経て副訓導とすることとしていた。
高等普通学校を経由するという経済的負担を前提とし、かつ経済的条件を通じて日本の「支配」への
従順さをみるという形で、選別がなされたことがうかがわれる。
また、初期の官立高等普通学校の生徒は、旧韓未の高等学校を承継していたためか、1914年までは師範科も設置せず、
それまでは朝鮮人は訓導となることも認めず、副訓導に留める方針であったことが感じられる。
なお、この他に「廃止せられた旧官立漢城師範学校の事業及び生徒を承継した」ものとして、
「京城高等普通学校附属臨時教員養成所」があった。
三カ年であることから、資格はやはり副訓導とされたものと思われる。
この養成所は、1913年には日本人中学校卒業者をも受け入れ、普通学校の日本人教員と合わせ
養成するようになり、後の京城師範学校第二部(普通学校教員養成)の基ともなる。
日本人の場合は、中学校卒業後一年間の教育であったので、資格としては訓導となり、
養成所卒業後一〜ニ年で校長として朝鮮人教員の上に立つようになっていた。
また、朝鮮内における日本人教育に関しては、早くも1911年に「朝鮮総督府中学校附属臨時小学校教員養成所」が
設置されている。
これは1921年、に「朝鮮総督府師範学校」となり、翌1922年には、「(第二次)朝鮮教育令」の公布とともに、
京城師範学校第一部(小学校教員養成)となっていく。
朝鮮において朝鮮人の教育より、日本人の教育が優先する課題として考えられている事は、これまた
「植民地」の「教育」の一つの特徴といえよう。
この期は、政治的・経済的「支配」のためのむきだしの暴力支配の時期である。
朝鮮人は政策的外形の上でも統治の対象としてのみ見られ、この後の時期の
ような形式的な同一視もなされなかった。
「教育」の特徴は、「併合」前に引き続く、短い教育年限の「愚民化」に端的に
現れ、朝鮮人教員も補助としてしか認められなかった。
植民地人の養成としての総督府の「教育」方針は、自立を希求する朝鮮人の姿を
「徒に空理を談し」ととらえ、この地に設定されるべき「教育」の目的を
「実に就き(略)勤倹の美風を涵養する」とする、「併合」の公表された
1910年8月29日の統監寺内正毅の論告に明かにされている。
その「愚民化」ともいえる「教育」制度の枠組みはすでに完成されていた。
そのため、すぐに植民地教育制度を宣言することなく、「朝鮮に於ける朝鮮人
の教育は本令に依る」という「朝鮮教育令」は、翌1911年8月23日になってから
公布された。
この時点における日本人・朝鮮人の「教育」の目的の違いは、制度としても明らかであった。
普通学校4年、高等普通学校4年という短い教育年限は、せいぜい社会において日本人の
下で日本語を話す朝鮮人を養成しようとするものであった。
そのことは師範学校を認めず、日本人と同じ資格をもつ教員とはしないということにも
現れていた。
かたや、日本人の補助としての地位には朝鮮人を必要としていた。
普通学校教員でいえば、日本人の校長の下に、朝鮮人教員を配置するという構成である。
それがために、高等普通学校、女子高等普通学校に、師範科、教員速成科を設け、本科卒業後
、一カ年の師範科を経て訓導とし、あるいは本科二学年修了後、教員速成科を経て副訓導とすることとしていた。
高等普通学校を経由するという経済的負担を前提とし、かつ経済的条件を通じて日本の「支配」への
従順さをみるという形で、選別がなされたことがうかがわれる。
また、初期の官立高等普通学校の生徒は、旧韓未の高等学校を承継していたためか、1914年までは師範科も設置せず、
それまでは朝鮮人は訓導となることも認めず、副訓導に留める方針であったことが感じられる。
なお、この他に「廃止せられた旧官立漢城師範学校の事業及び生徒を承継した」ものとして、
「京城高等普通学校附属臨時教員養成所」があった。
三カ年であることから、資格はやはり副訓導とされたものと思われる。
この養成所は、1913年には日本人中学校卒業者をも受け入れ、普通学校の日本人教員と合わせ
養成するようになり、後の京城師範学校第二部(普通学校教員養成)の基ともなる。
日本人の場合は、中学校卒業後一年間の教育であったので、資格としては訓導となり、
養成所卒業後一〜ニ年で校長として朝鮮人教員の上に立つようになっていた。
また、朝鮮内における日本人教育に関しては、早くも1911年に「朝鮮総督府中学校附属臨時小学校教員養成所」が
設置されている。
これは1921年、に「朝鮮総督府師範学校」となり、翌1922年には、「(第二次)朝鮮教育令」の公布とともに、
京城師範学校第一部(小学校教員養成)となっていく。
朝鮮において朝鮮人の教育より、日本人の教育が優先する課題として考えられている事は、これまた
「植民地」の「教育」の一つの特徴といえよう。
これは メッセージ 2920 (whiterose20051 さん)への返信です.
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