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おい、早く

投稿者: mousoutanosiika 投稿日時: 2006/06/15 19:24 投稿番号: [2912 / 3669]
     ィ";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;゙t,
     彡;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
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     t;;;;;;;リ~`゙ヾ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ      i,;;;;;;!
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      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   オナニーやれよ、見ててやるからよ
      t゙ヾ;l    __,, .. ,,_     ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.    \____________
      ヽ.ヽ   ー=rtσフ= ;   ('"^'=''′   リノ  
    ,,.. -‐ゝ.>、   `゙゙゙゙´   ,'    ヽ     . : :! /
  ~´ : : : : : `ヽ:.     ,rf :. .   :.: j 、   . : : ト、.、
  : : : : : : : : : : ヽ、   /. .゙ー:、_,.r'゙: :ヽ. : :/   ヽ\、  
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Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 19:04 投稿番号: [2911 / 3669]
>近代教育とは西洋の科学的教育だ。それは明治維新以前において東洋には一切無かった西洋の概念、自然科学や社会科学だ。これらの科学的教育がなされ無ければ国家は発展せず、他国から良いようにやられる。現在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた

教育を取り入れる方法は国家が行うべきなのか
民衆があつまりどのような教育を行うか民衆の自治に任すという方法もあります。

佐野が述べようとしているのは日本に置いては富国強兵のために国家の意思を国民へ浸透させるために教育を行ったと主張している。

近代教育とは西洋の科学的教育だとのことですが、
なにもこの西洋の科学的教育を取り入れることに対して疑義を言っているのではない。

>在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。

原因は多く民族、多言語でそのうえ国家財政が乏しいし、大国のエゴに
振り回されている等   さまざまな原因があります。

>日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた

当時の列強には再度新しく侵略する力はなかったでしょう。
朝鮮が開国以前なぜ外国の武力行動に対し日本のように開国に応じず
追い払うことができたのか

それはもう列強には再度攻撃する力はなかったということです。
当時保持していた植民地の経営で経済力の大きな負担になり新しく領地を獲得する余力はなかったということです。

日本にはそれが分らず被害者意識が高く列強の植民地を逃れるためには
列強と同じく新しい領土をもつべきだとして朝鮮侵略を行いました。

ではあなたは右翼ですか

日本は素晴らしい国と何でも考え都合の悪いことは認めず
日本を非難するひとたちを左翼だと決めつけ   ある種の言論弾圧を
平気で行う。

軍隊や軍人に憧れ強ものが正しいう論調で罵倒する   これが右翼の正体

戦前の戦争もこのような右翼と軍人と金儲けだけ考える財閥が結びつき
日本を戦争へ向かわせた

右翼には何の価値もないと

何だ?ここは?

投稿者: mousoutanosiika 投稿日時: 2006/06/15 19:00 投稿番号: [2910 / 3669]
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      ト.;;;;;》    =ニー-彡ニ''"~´,,...,,.   レ')l.   <   ここは、鮮人のオナニー場所か?
      t゙ヾ;l    __,, .. ,,_     ,.テ:ro=r''"゙ !.f'l.    \____________
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船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテー2

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:37 投稿番号: [2909 / 3669]
後で個人的なことを話し合ったりして分かったことだが二人は同郷の人で1等舵手は3等航海士の家柄を知っていると言うから3等航海士はいぶかしく思い、休暇をとって下船した時お父さんに聞いてみると、1等舵手の名前を聞いて、‘昔隣の町に住んでいた下人の部落の人のようだ’との答えをきいたそうだ。1等舵手は海運公社の初創期から対米航路を走るKタイプの船舶に乗船したことにはなはだ自負心をもっていたそうだ。

当時海運公社が政府所有の船舶会社として発足した時、米国の‘余剰農産物援助計画’によって米国から夥しい量の米を長期間に渡って運んだ時期があった。韓国戦争が終わって何もなくて飢え死にするところに援助米が大切な庶民の糧として配給された時があった。それが米運搬を受け持った海運公社が国内ではほとんど唯一の船舶会社として急成長できた背景である。後で作曲家で元私立H大学長であるK氏が引き受けて民間企業として運営するようになった。K氏も海運事業でお金をたくさん設けて蓄積した財力で荘厳な家屋を建てたりして人目をひいたこともあった。

話がそれるが、そのK氏の財産を目当てにしたいか妖婦みたいな女がK氏の自宅に家政婦を志願、接近して誘惑したので普段、女が好きでスキャンダルを起こしていたK氏が嫌うわけがなかった。結局、女のシナリオどおり彼はあの女に手を出してしまって、噂を出すと脅迫されて、相当なお金をとられてその事件は終わった。あの女はおそらく近代韓国のそのすじの女の始祖だったのか。

当時、対米航路がめずらしかった時期だったから韓国で知られていた俳優など有名人たちはK氏に頼んで、海運公社の船で渡米することもまれなことではなかった。この頃になっては半日でソウルからAに行けるけどその当時は船舶を利用して2~3週かけていくことも平気に思う程外国に出かけること自体がものすごくむずかしかった。

その以降、朴大統領の開発独裁に便乗し、船舶会社がだんだん増えてきて海運公社は古い船舶だけでは競争しきれなくなって廃船とか売船で船乗りの仕事先が減ってくるとこの二人を含めた多くの船員たちがK船舶会社のユニホォムに着替えることになった。

二人はK海運へ移った後、再び同じ船舶に乗船するようになった。2等航海士へ進級し、B号をはじめ、乗船経歴を積んだ後、1等航海士で発令を受け、待機中、釜山の中央洞にある会社に寄ったとき、当直をいっしょにしていた1等舵手に出会った。1舵手もストーキ(英語でstore keeper, 甲板長補)へ昇進したが休暇を終えてからも船が取れなく会社に出て来て人事担当者と口喧嘩をしていた。“アイゴ、初士(1航士)、お久しぶりですね・・・俺、船に乗せてくれませんか?”印象派の顔をしたストーキが1航士に哀願した。人事担当者の海務代理は1航士の2年後輩であり在学中、内務訓練のとき、バットを打ちながら訓練した先・後輩関係だった。“船しらべてみろ”と先輩がいうのに拒否する後輩はいない。配置をしていたら、つい又、同じ船に乗るようになった。(つづき)

船窓夜話ー第二十五弾ードンキホテーその1

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:34 投稿番号: [2908 / 3669]
船窓夜話ー第25話ードンキホテーその1 2003/ 6/13 17:45
メッセージ: 4532 / 6027

投稿者: ilkuji
その船舶の1等航海士は子供の時から数学の天才だと噂されて 高校の時、数学時間に教師が黒板に問題を出すと、教師が解く前にライバルの友達と誰が早く問題を解くか試合をして負けたらプルパン(20年程前は食べ物があまり豊富でなくって、素朴な形で簡単にパンを作った。)を奢ってくれる賭事をよくしたものだ。頭はよいが、家庭の経済の事情がよくなくて、国のお金で衣食住が解決できて、授業料もほとんど免除される国立商船大の航海科を志望し、合格した。そして卒業と同時に当時、船舶会社の士官学校といわれた大韓海運公社に堂々と3等航海士と発令を受けた。乗船する日、白い帽子にユニホォムも伊達に着飾ってトラップを踏んだものだ。

始めの日、航海当直をするためにブリッジに上がると相当年取った1舵手が立っていた。挨拶をして船舶の位置を海図上で確認した後、見視のためにヴュウスクリンで前方を眺めていた。1舵手はもう乗船経歴20年の古参船員として年から見て新参3等航海士のお父さんくらいの年代だ。しかし、命令に生き、命令に死ぬきびしい階級社会の商船の世界では年齢なんかかまうものか。

1等舵手は前日飲んだお酒からまだ醒めていないらしく、まどろみはじめた。学校から原則少尉として教育を受けた3等航海士がそれをただでおくはずがない。“1等舵手、居眠りしないで前を見て進行しましょう”、でも1等舵手は自分の息子くらいの年齢の当直士官に叱られていい気持ちいるはずがない。“見ていますよ”と答えてすぐまた今回は前向きに凭れてまどろみ始めたものだ。“気をつけて、真っ直ぐに立ってください”怒りはじめた3等航海士の催促もただことじゃなかった。

初めの当直4時間を神経戦で過ごした1等舵手が愚痴をこぼしながら次の当直舵手の2等舵手に仕事を引き渡して下に降りては船員用の食堂にどっかと身を投げって座って3等航海士の悪口をいいはじめる。釤息子くらいおさないやつがくそ、口だけ多い。畜生“ 近くで食事中の若い3舵手に”おい、これからは君が3等当直にあがれ、わしと当直を変えよう“といいながら当直をかえることを要求する。

元々、商船の当直の体系は経験のない3等航海士が経験の豊富な1等舵手と共に当直をして、2等航海士は2等舵手、1等航海士は3等舵手と一緒にすることになっていた。航海士と舵手が経歴の相互補完体系で当直をするが、新参の3等航海士が乗るといつもトラブルが起きて相当年取った1等舵手としてもなかなかうまくやっていきそうもなかった。それで3等航海士が2、3ヶ月船の生活になれてきてある程度融通がきくようになるとその時を待って自分の元々の当直の時間に戻っていくパタンーをとった。それからお酒を一緒に飲むチャンスも作ったりして私的にも親しくなると当直がずっとしやすくなったりもある。

(続き)

近代日本の教育と朝鮮 ⑤

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 18:34 投稿番号: [2907 / 3669]
ここでは、そのようなこれまでの教育研究が欠落させてきたものの一つとして、日本の旧植民地、特に朝鮮における
「教育」を取り上げて見る。

方法としては、植民地朝鮮の「教育」の場における、日本人と朝鮮人の制度的差別と、そこにおける日本人教員の
姿を明かにしていく。

このことは、植民地という形で、日本の「教育」が「地域的」な拡張をしていること、そこにおける「教育制度」
は朝鮮教育史の中で位置付けられるものではなく、あくまで日本人にとっての問題としてとらえられるべきもの
であること、その意味で植民地朝鮮における「日本教育史」を見なければ、「日本教育史」は完結しないことを示して
くれる。

特に本章では、初等教員養成政策を軸に考えて見る。

当時の教員養成制度は、官費養成による就職義務がともなっており、一種の教員雇庸政策的側面をもあわせてもっていた。

そのため、そこに日本の「支配」の「浸透」と、その形態を、明かに見ることが出来る。

また、その教員雇庸の形態を通して、初等教育のあり方も観察することができる。

なお、師範学校は制度の建前としては、日本人・朝鮮人を共に受け入れる学校となっていながら、
その実態は差別的に構成されていた。

このことも、植民地における「教育制度」の本質を明かに示すであろう。

教員養成制度を探ることのもう一つの意味として、次ぎの点を挙げることができる。

今までの研究では教員に関して明かにされているとはいえない。

そこで教員養成制度を明かにしていくことが、その姿に接近する一つの手がかりともなり、同じ制度を経ながらも、
大きく違っている日本人教員と朝鮮人教員の姿を見ることには、我々に植民地朝鮮における日本の教育制度が、
日本の問題としてとらえられねばならないことを明かにしてくれる。

近代日本の教育と朝鮮 ④

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 18:32 投稿番号: [2906 / 3669]
一、植民地朝鮮における日本の教育政策

従来、教育研究は、国家、民族等を単位として行われてきた。

しかし、そのために他地域、他民族との交流についての考察が、軽んぜられたことはないだろうか。

具体的に日本教育史研究の場合で考えてみよう。

他民族との交流のうちでも、受けたものと与えたものではその扱いが違う。

例えば古代における朝鮮、中国からの文物の輸入、新しくは占領期教育改革等、他との交わり
が、その域内における変化の要因となったものに関しては、それを語ることを欠くことはない。

しかしその反面、自らが他に影響を及ぼしたことについては、どれだけ反省的でありえたであろうか。

例えば、植民地支配という関係にあった日本と朝鮮の場合である。

日本教育史研究と朝鮮教育史研究はまったく別個に行われており、それには相応の根拠も存在はする。

しかし両者で扱いは違う。

植民地と去れていた側、ここでいえば朝鮮の歴史が記述される場合には、其の抵抗運動に主眼が置かれるなり、
植民地支配の虚構性がいわれるなりという形であっても、とにかく何らかの形で植民地支配の存在は
語られている。

それに反して、その植民地支配を行った側、日本の歴史を語る場合には、その植民地支配を行ったことに
対する言及がないままに、その歴史が記述されることが少なくない。

このような歴史のとらえ方は、その対象を地域、民族に限定する場合であっても、正当なものとなり得る
であろうか。

植民地支配に関しては、次の諸点を考えてみても、植民地支配を行った側において植民地支配を
記述することの重要性がわかるであろう。

一.植民地支配を押し進めた政策決定過程には、それを進めた為政者におけるそれなりの必然性があるはずである。

   そこには国内外におけるすべての情勢が反映し、そのすべての政治、経済、社会活動によって
   植民地支配は成立したといえよう。

   そうであれば、植民地支配という結果をもたらした当時の日本の状況、歴史を語るときに、その結果を抜きに語る
   ことはできないはずである。

   このことは教育の分野についても妥当するであろう。

ニ.植民地の存在は、必然として、植民地人民の植民本国への流入、移入を生んでいる。

   研究を地域的に限定する場合でも、植民地をもっている以上、他民族との関わりを無視することはできない。

   具体的に日本の場合でいえば、在日朝鮮人・台湾人の存在であり、彼らがどのように処遇されたかという問題である。

   多くの日本教育史研究、特にその教育政策としての研究は、日本国民の大多数を対象とする教育政策・制度に
   その意味、特質を求めようとした。

   そのため植民地における政策への言及だけでなく、国内における問題であっても、在日朝鮮人・台湾人の教育、
   アイヌの教育など、その社会に存在する多くの「少数者」の問題を切り捨ててきた。

   しかし、このような「周辺」からこそ、近代における「教育」の形態である、国家によって組織される
   「教育」の本質は明かにされ得ると考えられる。

船窓夜話ー第二十四弾ーバットと酒と男と

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:31 投稿番号: [2905 / 3669]
船窓夜話ー第24話ーバットと酒と男とサウジ 2003/ 6/ 5 18:14
メッセージ: 4512 / 6027

投稿者: ilkuji
「海上を飛ぶ首」という題名の絵を見たことがある。文字とおり海上を人間の首が飛んでいるひやっとする絵だった。画家の名前は忘れたが何故こういう絵が生まれたかその事由を調べたらば遠洋漁船に乗って出ていった船員が失足、溺死したのに船は死体を捜し出せなく帰って、一人ぼちの溺死者の霊魂が故郷がこいしくて、首だけ海上を飛んでいくとの話を素材で描いたとのことであった。

私は商船の航海士生活だけやったので漁船の状況はよく知らないが、近海または遠洋漁船ではとんでもないことが度々起こるという。なので、この話は筆者の体験じゃなく漁船出身の商船の普通船員たちの体験談を聴いて移したことである。陸地と遠く離れて孤立した世界で漁労をするのは先ず苦労で苦しい状況を頻繁に接する。何件か思い出すまま移してみる。

釜山の南港で出航する漁船では五六島を曲がって出るとき紐バット儀式がある。当直者以外の全員が甲板上に集合したら船長がバットを持って現れる。そして一等航海士の尻を打つ。そしたら今度は一等が2、3等と甲板長を打ち、甲板長が甲板員たちをバットで殴る。これを「五六島バット」というのだ。苦しい漁労をする中で気合がないと仕事ができないので最初から気合を入れさせてやるとの意味だろう。商船の場合、円筒形上下構造だが漁船は士官以下の船員はみんな同じ職責なので船上反乱など問題が発生する確率が高いから。

カムチャカ半島から遠くない北太平洋上で漁労作業をしていた韓国国籍の漁船が一隻あった。ある日、その水産会社の会長が漁労実態を視察するため、飛行機を数回乗換え、その漁船を訪ねたことがあるけど日が暮れて船で寝ることにして船員たちと酒パーティを開いた。ところが海上で長く浮かんでいたため、出航するとき載せていった焼酎はすぐ払底し、パーティが洒落気がなく割れる状況だった。

このとき、あるボケ船員一人が自分なりの忠誠心を発揮し、一つ提案した。「工業用メチルアルコールを機関室で使ってるけどそれでも持ってきて飲もう」と。誰かが「それは人体に危険だから駄目だ」と止めようとしたが既に酒に酔っていたため、もっと飲みたいとの一念だけだったので大丈夫だから取りあえず持って来るように合意した。結局それを飲んだ後、会長と何名が即死し、残りの船員は重態に落ちてしまった事件が起こった。

酒話になったので思い出したが、筆者が商船で働いたときも酒のために経験したエピソードがある。7月の暑さが猛威を振っていたとき中近東のサウジのダンマン港に入ったけど回教国家なので飲酒はさておき、酒製造自体が禁止されている国なので酒は載せて行ったものの、飲むことができなかった。自国の法律はともかく外国人にさえ飲まないようにするって笑わせる国である。入港したとだん、税関員が来て全ての酒を倉庫に入れ、封してしまった。そして銃を肩にかけた軍人二名が乗船しては一名は廊下で、もう一名は食堂で目を怒らして監視しているので敢えて飲酒はできない状態だった。

上陸もできずに毎日45度を維持する猛暑に酒も飲まさないなんて耐えられなかった。酒好きの一等航海士は「チンポみたいな奴等」と呟いては夜間にサロンを呼んで作戦を立てた。倉庫のある廊下で監視している軍人の奴を一旦誘引し、部屋に入れてはタバコをやりながら話し掛けて時間を稼いでいる間、他のチームが紙で封した倉庫の戸を開けて焼酎を出した後は再び紙を貼っておいた。そのあと皆、秘密裏に一等航海士の事務所に集まり、冷凍マグロをつまみにして酒を飲んだ。まるで戦利品を分けで楽しむような気持ちだった。

船窓夜話ー第二十三弾ー3機士と1機士

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:28 投稿番号: [2904 / 3669]
船窓夜話ー第23話ー3機士と1機士 2003/ 5/24 17:16
メッセージ: 4456 / 6027

投稿者: ilkuji
香港船主のリベリア船籍の本船。3等機関士(以下機士)は人間性が良く
男前なので人気があった。彼は木浦商船学校出身で甲種免許であった。反面、
1機士は釜山のFAO(国連傘下の食糧機具)船員養成所出身で乙種だった。
狭い空間で荒い男だけの生活なのでストレスが溜まってお互い神経が高ぶって
喧嘩するケースが多い。特に1機士は人に言えない劣等意識を隠すために自分の
職位を誇示したりして船員同士に反感を持たせたりした。特に細かいことで
いつも3機士と衝突した。結局用便をして遅く機関室に降りていった3機士を
口喧嘩の末に殴った事件が起こった。

不満を吐露する3機士を卑劣にも、いきなり顔面を殴りかけては逃げたのだ。
顔が脹れ、鼻が潰れた3機士は追いかけていったが、1機士は機関長の部屋に
入っては機関長の後ろに隠れて救援を要請したのだ。2、3航士と2、3機士に
電気師が集まり、船長と1航士に1機士の処罰を強力に要求するように決めた。
しかし1航士は筆者が「水士」という別名をつけたほど主体性もないくせに
部下に威張るビンシンだった。それに1機士と同じ養成所出身の2機士があとで
裏切ったために「当事者二人共、上陸禁止」という軽い処罰で終えようとした。
筆者は腹が立って「チンポみたいな処罰処置を無視しろ」と助言し、
インドネシアのスラバヤに入港したとき、3機士を連れて出て女を買ってHを
させたり楽しく遊んだ。

顔に痣が出来たまま女に出会って、それでも喜んで笑う3機士の姿が
可笑しかった。スラバヤは全国のホステス集散地であり、奇麗な女が沢山いた。
売春街に行って一人づつ買っては三輪自転車(運転手が後ろでペダルを踏み
運転)に乗せ、市内を縫いかけた。そしてその店に戻っていって朝までやり
まくった。筆者の女はあまりにも陰門が小さくて挿入に苦労した。珍しいケースで
中国人と原住民の合いの子だったな。後で聴いたらあの女は既に船長と
やったとか誰かが言ってた。いわば穴兄弟だったのか。いい気分ではないが
知らんぶりをするしかない。

とにかく船長と1航士も3機士の上陸禁止処置の違反を知らんふりをするしか
なかった。3機士が無実だと知っていたので。反面、1機士は3機士が恐くて
自分の部屋から出られなく、鍵を締めて寝る状況だった。私は厚顔無恥の
あいつの行為にどうしても耐えられなく、夜遅く1時頃1機士部屋のベッドが
ついてる壁を外から靴の足で力一杯で蹴った後、寝室に戻って来て寝ようとした。
そしたら1機士がノックして入っては「寝てるのに誰かがいきなり壁を蹴って
行くので驚いて起き、出て見たら後ろ姿が君らしかった」という。しらばくれて
「あなた何いってるんですか」と反問したらば、こっそりとドアを閉じて出て
いくのだった。未だ乗船生活を続けてたら機関長になっているはずの1機士。
今はどんな姿で生きているだろうか。

船窓夜話ー第二十二弾ーサイクロン

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/15 18:26 投稿番号: [2903 / 3669]
船窓夜話ー第22話ーサイクロン 2003/ 4/21 15:34
メッセージ: 4093 / 6027

投稿者: ilkuji
豪州北部、ポート・ヘドランドを離れた本船は気勢強い嵐を正面に受けながら船首をアフリカ大陸の東南部を向かっていた。1月中旬、サイクロンが海賊のように豪州北部を攻める時期だった。案の定、振れる船舶を飲み込むように波がだんだん荒くなり、もう山を作りはじめた。船は既に左右30度に揺れながら疲れた旅に立っていた。もう陸地はレーダー上からも消えていて印度洋の真ん中を落葉のように浮かんでいる模様だった。ただし落葉と違うなら微弱ながら白い泡沫を起こしプロペラーが回ってるくらいかな。

2―3日その状態で進行したが海は納まる気配は見えずにベッドに横なってる船員たちを床に落しながら青い筋肉質で本船を揺り動かしていた。ある程度船乗りに履歴のあると思っていた船員たちももううんざりしていた。船長がブリッジで前方を眺めながら船首にぶつかる波が船首を超えて甲板が水に沈むたびに“アイグ、アイグ”と悲鳴たけ上げていた。大自然の力の前で人間はいくら偉くてもただの微物に過ぎないのだ。

昼間に雨が少し止んで波たけ船舷を打っていたとき、船尾に結んでいたロープが波に荒らされて海に落ちてしまって末だけ甲板のビットについてる状態になった。海に落ちたロープがプロペラーに巻き込まれたら船は転覆される。一等航海士は急いで甲板部全員を船尾に呼び、ロープを揚げていた。昼食後、船尾に出て来た機関部船員たちがその光景を見ながら爪楊枝で歯を刺していた。ロープがほぼ半分上がって来たとき、いきなり巨大な波が船尾を撃った。というより船がピッチングをし、船尾が水面まで降りてきたとき、波が溢れてきたのだ。あっという間にロープを取っていた甲板部船員4名と機関部3名が波に荒らされ海に落ちた。

非常ベールを押して全員を集合させ失踪された人たちの名前を呼んでも既に誰も海上には見えない。こんな状況で船を止めたらすぐ覆るはずだ。なぜなら推進力が波を突破して進む役割をするので推進力が切れたら船は波により転覆するのだ。船長は悲壮な表情で継続前進を命じた。その状態で一日が過ぎたら皆負けず嫌いしか残らない。それから我らだけが生き残ったという罪意識に耐えられないほどだった。生きても、死んでも一緒にすべき同僚じゃないか。我らだけ生き残って死んだ遺家族を何の顔で対面するだろうか。

甲板長は一等航海士に船長との面談を要請し、甲板部船員たちと一緒にブリッジへ上がってきた彼は、失踪した船員たちを捜し出すまでには行けないから船を戻どうと提案した。そしたら他の船員も皆泣きながらこのまま行くより皆一緒に死のうと叫んだ。筆者も胸がいっぱいになり「船長!このままじゃ行けません。帰りましょう!」と言った。船長は暫く耐え難い表情で遠い眼をしてから舵手に命じた。「船首を回せ」と。波を船首でぶつかってる状態でっ船首を回すと三角波が来たらそのまま転覆する。舵手は少しづつ舵を回しはじめた。大きな円を描きながら船舶が針路を変えて道を引き返した。そして今度は波を後ろから受けながら進んだ。

丸一日を走っても失踪した人たちの姿はみえない。もうサーチを諦めるしかない。貨物荷役予定日に合わせて目的地に到着できないと船主はその分の損失を弁償しなければならない。予定日より二日遅く到着し、荷役を終えた後、次の寄港地の台湾へ向かった。キーリュン港で失踪者の代わりに乗船交替しに来た船員たち。その連中の中では前航海のとき、起こった事件について話だけ聴いては航海中恐くて海の見える廊下を歩けなく、のっそのっそはる者がいた。そして船長にどうぞ下船させてほしいと哀願し、乗船一ヶ月ふりに次の寄港地で降りたのだ。

釜山の影島に行けば太宗台公園の入口に船員慰霊搭が立っている。全世界を航海途中、殉職した船員たちの霊を慰めるタワーという。陸地に住むように作られた人間が海で惜しい命を犠牲した同僚たちのことがこれで清算できるかと思うと胸が痛くなる今、この頃である。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/06/15 15:51 投稿番号: [2902 / 3669]
>だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。

事実を全く無視。当時の朝鮮には西洋の自然科学、社会科学を体系的に教育できるものがいなかった。なぜって?そういう教育を受けてないのが教師になれるはずが無いのは自明の理。

>日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていないということではなかった。

近代教育を行うのが愚民化とは恐れ入ったね。馬鹿だよこの佐野は。史実さえも無視している。愚民化とは西洋列強が植民地で原住民の教育を受けさえなかったことを言う。

>植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。

ほう、日韓併合時代に小学校は各邑に一校という目標を制定し、日本敗戦までの間にほぼ0に近い数から5千数百校出来たがそれは無視か。

それから高等学校や更に最高学府の京城帝国大学を1924年に創設したことは無視か。それのみならず、優秀だが貧困家庭の子弟で上級校に行けぬ生徒の援助制度や留学制度もあった。朴元大統領も日本人教師の推薦で学費援助をえて上級校へ進んだ。

白薔薇君、いい加減な駄文をこれ以上乗っければ笑われるだけだから止めたほうが良い。それとも佐野の屁理屈でなくきちんとした資料を基に、自分の言葉で反論できるかい。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/06/15 15:25 投稿番号: [2901 / 3669]
佐野通夫と言うのは売文サヨクで松山地裁に首相の靖国参拝がこの世界秩序を否定することであり、自分達サヨク等が積み上げてきた共同研究を破壊すると言った原告だね。確か敗訴したはず。

こんな奴は今のまともな日本人は全く相手にしていない。

だからイデオロギーありきの↓のような表現をする。

>国家によって統轄された近代教育は、それ自体が国家による民衆の支配である。

近代教育とは西洋の科学的教育だ。それは明治維新以前において東洋には一切無かった西洋の概念、自然科学や社会科学だ。これらの科学的教育がなされ無ければ国家は発展せず、他国から良いようにやられる。現在でもアフリカ等の発展途上国は教育行政さえ満足に出来ず苦しんでいるのが実態。日本は明治維新後必死になって西洋の概念、近代科学を取り入れ列強の植民地支配を免れるべく努力してきた。

そのサヨクが信奉する過去、現在の共産主義国家、ソ連、東欧諸国、中国、北朝鮮、ベトナムなどは国民の教育を国家が行わなかったのかねぇ。共産主義国家は国家じゃないのかね。

だから佐野は自己崩壊している。それから近代教育の何たるかも判ってない。ただ日本の侵略のためのものとしている処に悪質な意図が感じられる。

こんな駄文を載せるとは、愚かとしか言いようが無い。

>国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」
のような反乱も起こった。

新しい物にたいする無知ゆえの不安からくる反発、朝鮮でも無学な親はなかなか子供を小学校に行かせようとしなかった。

しかし、この佐野通夫は韓国が受験大国で大学進学率が高いことを知らないのかね。韓国は佐野流で言えば国家による民衆の支配になる。全く、現実無視の観念論とはいえぬ自己のイデオロギーを正当化したいが為の屁理屈文あり、およそ書物とは言えない。

Re: 巡査の居る風景一の3

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:47 投稿番号: [2900 / 3669]
  電車は昌慶苑前で下りた。
  横町では強いアセチリンの光に肺病やみの売卜者の顔が闇から浮び上った。古本屋の店先で手をぶるぶる慄わせながら、老人が声を立てて諺文を読んで居た。
  角を一つ曲がると、突然彼は向うから来た一人の男にお辞儀をされた。彼も一つ鸚鵡返しに頭を下げてから見ると猟虎の襟の外套をつけた立派な紳士だった。
  ――一寸お尋ね致しますが。――と、その人は彼に非常に丁寧な言葉で、××氏――総督府の高官――の住居を尋ねたのだ。(××氏の所へ行くなら此の人も高官かもしれない。)紳士にそんな丁寧な言葉をかけられたことのない彼は、一寸まごつきながらその××氏の住居を教えた。彼の返事をきくと一度丁寧に頭を下げて教えられた方に曲て行った…………。
  と、その時だった。彼はある一つの大発見をして愕然として了ったのだ。
  ――俺は、俺は今知らない中に嬉しくなって居はしなかったか。――と彼はぎょっとしながら自分に尋ねて見た。
  ――あの日本の紳士に丁寧な扱いを受けたことによって極く少しではあるけれども喜ばされて居たのだ。丁度子供が大人に少しでもまじめに相手にされると、すっかり喜んで了うように、俺も今無意識の中に嬉しがって居たのだ………………。もう先刻の青年も笑えなかった。府会議員の候補のことも云えなかった。
  ――これは俺一人の問題ではない。俺達の民族は昔からこんな性質を持つように歴史的に訓練されて来て居るんだ。
  ふと横を見ると男が道傍にしゃがんで小便をして居るのだ。彼は何げなく「立小便」することを知らない此の半島の人達の風習を考えて見た。
  ――此の一寸した習慣の中にも永遠に卑屈なるべき俺達の精神がひそんで居るのかも知れぬ。――彼はそんなことを、ぼんやり考えて見た。

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Re: 巡査の居る風景一の2

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:46 投稿番号: [2899 / 3669]
  電車の中は混んで居た。スケートをぶら下げた学生。鼻を真赤にした会社員風の男、買物包をかかえた奥さん。子供を尻にのせたオモニ、厚い茶色の毛皮に襟を埋めた両班達。
  しばらくすると、突然其の中から何か言い争う声が聞えて来た。乗客の視線は一斉に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な姿をした一人の日本の女と、その前の吊革につかまって居る白い朝鮮服をつけた学生らしい青年とが言い合って居るのであった。
  ――折角、親切に腰かけなさい、いうてやったのに。――と女は不平そうに言って居るのだ。
  ――併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ、――
  ――だから、ヨボさんいうてるやないか、
  ――どっちでも同じことだ。ヨボなんて、
  ――ヨボなんていやへん。ヨボさんというたんや、
  女には何も分らないのだ。そして怪げんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかの様にあたりを見まわして、
  ――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいうてやったのに何をおこってんのや。
  車内には所々失笑の声が起った。青年はもう諦めて了って、黙って此の無智な女を睨みつけた。教英は又しても憂鬱になって行った。   何故此の青年はあんな争論をするのだ。此の穏健な抗議者は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを恥じねばならないのだ。………彼は其の日の午後の出来事を思い出した。
  其の日の午後、府会議員の選挙演説を監視するため、彼は同じ署の高木という日本人の巡査と共に会場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演説についで、たった一人の朝鮮人候補の演説が初まった。商工会議所の頭もやったことのある、内地人の間にも相当人望のあるこの候補者は巧みな日本語で自分の抱負を述べ立てて居た。が、その最中に、一番前に居た聴衆の一人が立上がって「黙れ、ヨボの癖に。」と怒鳴ったのだ。二十にもならぬ位の汚ないなりをした小僧であった。高木巡査はいきなり、其奴の襟首をつかまえて場外に引ずり出して了った。と、その時此候補は一段と声を高くして叫んだのだ。
  ――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
  すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
  彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
  事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
  では、何故怖いのだ?   何故だ?
  その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
  彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。

巡査の居る風景一の1

投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/06/15 14:44 投稿番号: [2898 / 3669]
中学時代をソウルで過ごしたことのある中島敦の短編−巡査の居る風景−を紹介します。
場所は1923年のソウル。ある朝鮮人巡査の眼を通して、街のスケッチとともに朝鮮人であることの悲しみを描いています。

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巡査の居る風景
中島敦

―   一九二三年の一つのスケッチ   ―



  甃石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った。
  町角には飲食店の屋台が五つ六つかたまって盛に白い湯気を立てて居た。赤黒くカチカチに固くなった乳房を汚れたツルマキの上から出した女が一人、その前に立って湯気を吹きながら真赤に唐辛子をかけた饂飩を啜って居た。
  署から帰ろうとして巡査の趙教英は電車を待ちながら、それをぼんやり眺めて居た。彼の前を急いで二人の浅黄服を着た支那人が、天秤棒をかついで過ぎて行った。彼等の籠の中には売れ残りの大根が白く光って居た。そろそろ潮の様に人混みが出始める頃であった。薄氷を張った様な暮方の空の下で、仏蘭西教会の鐘が寒む寒むと響き出した。
  趙教英は寒そうに鼻をすすって首を縮めると、制服の詰め襟の前を一度かけなおして電線の青白い火花を見上げた。その電車が行って了った後の線路を背の高い男が一人大股に歩いて来た。彼の署の課長であった。彼が恭しく敬礼すると、其男も鷹揚に一寸手を挙げて、又人混みの中に紛れ込んで了った。

  電車に乗ると、職業上無料の彼はいつもの様に運転手台に立って、両手をズボンのポケットにつっこんだ儘、硝子に倚りかかった。彼は電車に乗る度に屹度一人の日本人の中学生のことを思い出すのだ。………ある夏の朝だった。署に出る途中彼がいつもの運転手台に立って居ると、登校の途中の其中学生が乗り込んできたのだ。そして多分涼しい風にあたりたい為らしく、其中学生は運転手台に立って居て中に入らなかった。が、元来立つべき所ではなし、運転の邪魔にもなるというので、運転手は中学生に中に入ってくれと言ったのだ。所が彼は傲然として運転手に喰ってかかった。
「オイ、其の人を。」と、中学生は其処に立って居た巡査の彼を指さして、
「其の人を中へ入れないんなら、俺もいやだよ。」――(勿論、其の運転手も朝鮮人であるからなのだ。)――そして当惑した運転手と巡査との顔を面白そうに見比べながら其処に立続けたのであった………。彼は今も此の中学生の目付を思い出して不愉快に思った。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/15 14:22 投稿番号: [2897 / 3669]
>(近代日本の教育と朝鮮   佐野   通夫著   社会評論社発行)

佐野通夫かあ。(笑)

白薔薇ちゃんの意図が読めました。

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青丘文庫月報・174号・2002月10月1日
<巻頭エッセー>
真の名   佐野 通夫

2002年9月17日に小泉首相が北朝鮮を訪問することになっています。不思議なことは、日朝の国交回復という、日本が過去100年の間、朝鮮半島に対してどのようなことを行なってきたのか、ということを反省しなければならないときに、「拉致」疑惑云々が言われることです。最近有本惠子さんなる人物が主に登場していますが、「拉致」だと主張している人たちの話によっても、ロンドン留学後、自宅に「仕事が見つかる   帰国遅れる   恵子」という電報が届き、そしてヨーロッパを経由して、朝鮮に滞在しているらしいとの話です。この話がなぜ「拉致」なのでしょうか?「拉致」とは手もとの国語辞典では「むりにひきつれてゆくこと」とあります。英国の警察はそのような粗暴犯として事件化したのでしょうか。確かに朝鮮行きの背景には「北朝鮮工作員」の接触があったのかもしれませんけど、それがあったとしても、成人が自分の判断で、居住地、仕事を選択しています。これが「拉致」だというならば、アメリカ合州国に「拉致」されている日本人の方がはるかに多いはずです(人によっては「頭脳流出」という言葉が使われます)。
  同じように不思議なのは2002年9月4日の「不審船」騒動です。日本の排他的経済水域の外を共和国旗をあげて航行している船がなぜ「不審船」なのでしょうか。これも同じく日本近海にはアメリカ合州国や日本の「不審船」の方が多いはずです。

http://72.14.203.104/search?q=cache:sixwa8pqG9UJ:www.ksyc.jp/sb/200210geppou.html+%E4%BD%90%E9%87%8E%E9%80%9A%E5%A4%AB&hl=ja&ie=UTF-8

近代日本の教育と朝鮮 ③

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 14:00 投稿番号: [2896 / 3669]
民衆が学校を「受容」するとは、どのようなことを意味するであろうか。

鄭承博の「奪われたことば」は、1923年生まれのこの作家の自伝的小説である。

普通学校三年になった主人公が、(であるから1930年代半ば)、学校の中で朝鮮語
を使ったことをきっかけに退学となり、日本人の牧場で働き、そして日本へ渡っていく
物語である。

学校に通う主人公にとっては、「日本語と朝鮮語を自在にあやつって、偉そうな管吏や
むずかしい世間を、冷ややかに見下ろす。

この素晴らしさ」と日本語使用による実利的側面が意識されている。

しかし、この「利便性」を通じて主人公は、父母や祖父の待つ朝鮮人としての意識、
民族性から離れていってしまう。

例えば「色服着用」について、主人公は白い朝鮮服を着ようとする人々の思いが理解できない。

「白地の朝鮮服を止めて、命令通りに、日本服と同じ色(カ−キ色)に染めれば良いのである。

真っ白が自慢で、洗たくに明け暮れする女たちが、むしろ滑稽でならなかった」
と否定する評価しかできない。

これに対して母は言う

「ゆくゆくお前も流れ者になるのさ。学校を中退して家に居着いた者はいないよ。
川下にある酒屋の一人息子は、ちゃんと卒業したに、それでも家出した、いまだ行方が
わからないんだもの。
だから学校なんか反対だったんだよ。」

祖父も言う

「そうだ。漢文こそが本当の学問だ。寺子屋をやめたのが間違いだ。田を耕し蒔を取るのが
人間の営みである。

明日からでも、野良へ出て働きながら、寺子屋に戻りなさい。それが幸せというものだ」。


日本国内の学校も、学校の基本的構造は故郷を捨てる教育である。

学校は地方の人材の中央への吸い上げ機構として働く。

明治以来の「立身出世」の構造である。

植民地において、其れは民族を捨てる教育として働く。

学校へ行ったことで、少年と父母、祖父母との間には文化観の断絶が生じている。

現在においても、こどもたちにとって、あるいは大人にとってさえ、学校は大きな権威をもっている。

「奪われた言葉」に示されている体罰のような直接暴力は、学校制度としては本来へたな統制方法だといえるだろう。

支配者はこどもたちが違和感無く、自ら支配に服する「半島の子ら」の世界を理想としていたはずである。

植民地という場にあって、その支配を行った日本人と朝鮮人の明確な賃金差別、教育条件の差別、朝鮮人に対しては初等教育中心(あるいは初頭教育まで)という教育内容の差別、
何よりも言葉を奪って
二重言語状態においたという、植民地教育の問題点は明らかである。

しかし、現代日本の教育の支配の中で、現代日本の子供たちも、植民地朝鮮の子供たちと同様に、
人間性、人格、さらには生命まで破壊されている。

「同じ」民族による教育の支配が、現在これほど多くの問題を生じている。

日本においては、当初から教育による民衆支配が意図された。

それでも、山間の地、極貧世帯など、その費用の過大なところは、教育免除地、等として切り捨てられた
(1961年学校教育法改正まで)。

国家による教育支配という観点から見れば、植民地朝鮮における教育も、この費用のさらに過大な地という
扱いであったのではないか。

日本においては、寺子屋の切り替え等で、学校を作ることができた。

植民地朝鮮においては書堂は、例えば教員の問題があって、そのままでは植民地学校とはならなかった。

また、日本化教育のための多数の日本人教員を一度に移入することができなかった。

植民地朝鮮において1930年代末、40年代になって学校拡大が図られたことの原因を次ぎの二点に求める
ことが出来るのではないだろうか。

一つには日本の対外侵略戦争の激化により、朝鮮人を日本人の補充に使う必要が高まったという、
日本国内において学校制度がつくられた初期に似た状況が生じた。

第二には植民地化後一世代た経ったこどで、植民地支配者は朝鮮人をも朝鮮人児童の日本化教育の教員として
用いることができると考えた

(しかし、これが支配者の誤算であったことは、第Ⅰ部にみてほしい)。

この意味で、植民地教育は、民衆にとぅて国家支配の一環でああるという近代公教育の本質を備えている。

しかし、それは近代公教育のもう一つの特質である国民国家形成という影響はとれない。

植民地本国における民衆支配と、植民地における民衆支配の異同を、さらに明かにしていくことが課題として残っている。

Re: 意味がわかりませんが

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/15 12:59 投稿番号: [2895 / 3669]
>どのような体験されたのでしょうか   良ければお聞かせください。

自分は都合が悪い問いかけからは逃げ回るくせによく言うよ(嘲笑)

意味がわかりませんが

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 12:57 投稿番号: [2894 / 3669]
>白薔薇さんの投稿は,そうした人間の体験とかは無視したものですね.

後知恵でモノを言うのは見苦しい.

意味が分りません。   書物の内容を紹介しているだけですが

>私の祖父は大正時代から朝鮮で教員をしていましたが

どのような体験されたのでしょうか   良ければお聞かせください。

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: grosser770 投稿日時: 2006/06/15 05:43 投稿番号: [2893 / 3669]
私の祖父は大正時代から朝鮮で教員をしていましたが,

白薔薇さんの投稿は,そうした人間の体験とかは無視したものですね.

後知恵でモノを言うのは見苦しい.

さっさと,おやめなさい@G

Re: 近代日本の教育と朝鮮 ②

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 03:45 投稿番号: [2892 / 3669]
●では植民地朝鮮において、学校はどのように成立していったのであろうか。

植民地朝鮮の場合も同様に、植民地支配権力は、植民地の民衆に支配者日本への従順を植え込むために、
学校が主要な道具であることは当然認識していた。

だからこそ、例えば、旧韓末の植民地化過程においては、日本人主導による「学校整備」、
すなわち普通学校への日本人教員の配置等を行い、其の植民地体制の構築を準備していった。

日本の植民地教育初期をさして「愚民化」ということもあるが、この政策も民衆が民族の知識から
切り離されるという意味での「愚民化」であり、民衆にまったく「教育」を与えることを考えていない
ということではなかった。

被支配の意識の植え込みには腐心していたといえる。

だだしその費用、効果の問題を考え、逆に民衆自身の教育活動の抑圧に意を用いていた時期であるということができるであろう。

朝鮮における日本の教育の導入時期には、日本における抵抗と同じく「日本人教師は、生徒を教育して卒業の後は日本に
拉致して兵卒となすのであるとか従僕奴隷となすのである」等の抵抗の声が上がり、学生募集は困難であった。

しかし学校が開設され、社会の中である程度定着してしまうと、日本の中では就学率は上昇し、貧困等により不就学に
なることはつらいことだ、との意識が民衆の中にも出てくる。

この間、学校の本質自体は変わるところはない。

ではこの学校の民衆への浸透、支配力強化は何に由来したのであろうか。

同じ現象が、植民地朝鮮では、どのように展開しただろうか。

日本において「学制」までの主な教育機関であった寺子屋は、近代学校の義務設置、義務就学のため、急速に
近代学校制度に取って代わられていった。

植民地朝鮮の場合、義務教育制度はついに実施されなかった。

朝鮮では1910年5月の段階で、日本支配の教育機関在籍者が一万二千名余りであった一方、学部設立認可済私立学校には
八万名が在籍し、伝統的教育機関である書堂も引き続き存続していた。

書堂の学生数は日本植民地下において、1911年の十四万人から1916年の二十六万人へという増加をみせている。

このため、朝鮮総督府の初期の教育政策は、それらの民族的教育機関の取り締まりが主であった。

このように朝鮮民衆にとって近代学校は、近代学校としての国家支配と、植民地の異文化支配を示すものとして、
二重に外的なものとして登場した。

しかし、日本の支配の浸透の中で、ただ民衆と無縁のもとしてだけは存在していない。

一方で、作られていった学校は事実として存在し、人々の中にもそのことを事実として認め、それを求める動き
もでてくる。

例えば「東亜日報」1922年1月の記事は、忠清南道の高等普通学校の開設位置について道内で争奪戦のあったことを、
同じく5月の記事、その高等普通学校定員100名に対して、190名の応募があったことを、報じている。

(近代日本の教育と朝鮮   佐野   通夫著   社会評論社発行)

近代日本の教育と朝鮮 ①

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/15 03:42 投稿番号: [2891 / 3669]
序論   教育の支配と植民地の支配

国家によって統轄された近代教育は、それ自体が国家による民衆の支配である。

日本の場合、明治政府は国民国家形成の方途として、1872年、まだその権力
掌握過程にありながら、「国民皆学」を掲げた「学制」を発布し、各地に
学校を作らせた。

以後、その就学率は1873年の28パ−セントから35年の歳月を要して、1908
年頃に、98パ−セントへと上昇していく。

国家による教育はまず、国家語である共通語、すなわち「国語」の普及を
第一の課題とし、同時に国民イデオロギ−を注入していく。

最初の目的は対外侵略の兵隊作りであり、そのため、まず男子就学率が上昇し、
其の後に工場労働者形成のため、女子就学率が上昇するという経緯をたどった。

一方で、教育は、もともと人間の生活それ自体として存在し、人間が生活実践
を通して自然に働きかけ、社会関係を取り結んでいく中で、自然をかえ社会を
変革していくとともに、自らつくりかえていく、人間の自己形成の意図化されたものとして
も存在する。

そのような教育の組織化として、明治政府の「学制」以前にも、寺子屋等、さまざまな
形態での教育機関が存在した。

明治国家の学校形成過程は、この民衆の教育機関の自らの権力のもとへの取り込みであるとも、
いうことができる。

事実、「学制」によって作られた学校の中には、それまでの寺子屋の校舎等を転用したものも少なくない。

国家のもとに統轄された教育は、国家によって作成されるカリキュラムと、国家によって資格をあたえられた、
あるいはそのもとで訓練された教員の存在をもって完成する。

日本における義務教育の普及に40年近い年月が必要であった事の一端には、この教員養成の問題も存在する。

明治政府の学校設置の動きに対して、国家に支配された学校の必要を感じなかった民衆の中からは、「学校一揆」
のような反乱も起こった。

Re: 隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: imp_mania_jk 投稿日時: 2006/06/14 17:10 投稿番号: [2890 / 3669]
おい、それ全部朝鮮の教科書の内容じゃないか。

そんなのが、現在通用すると思ってるのは、世界中で朝鮮族だけだよ。

Re: 隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: bottomlineshock 投稿日時: 2006/06/14 16:42 投稿番号: [2889 / 3669]
>貴殿は朝鮮人により何か被害をうけたことがあるのでしょうか

貴殿自身は日帝の支配とやらで何か被害を受けたのですか?(笑)

隣国を非難するのでしょうか?

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/14 16:41 投稿番号: [2888 / 3669]
貴殿は朝鮮人により何か被害をうけたことがあるのでしょうか

日本は明治以後1870年代から1945年まで   隣国朝鮮に大きな苦しみ、被害を
与えましたが、朝鮮は日本に大きな被害をあたえましたでしょうか

日本が与えた被害

1.米の収奪

  朝鮮を日本への米の供給基地として米を買占め内地へ移出した。

2.土地の収奪
  高利の貸付により土地を収奪した。

3.低賃金・長時間労働で朝鮮人労働者を酷使した。

4.日清、日露戦争において武力で無理やり戦争に協力させ
  朝鮮の土地を収用し、朝鮮農民を酷使した。

5.朝鮮人の私学等をほとんど認めず   朝鮮は日本の弟というような
ありもしない歴史をおしえた。

6.日本人教師を朝鮮人教師の上位におき
  朝鮮語の学習時間を減少させ日本語の国語の授業時間を増やした。

7.朝鮮語の使用に制限を加え公的書類、入学試験などはすべて日本語であり
  朝鮮語を奪った。

8.武力を背景とした商売や言論統制を加え朝鮮人の意思を蹂躪した。

9.日本人の住む住宅地域のみ税金を投資し、朝鮮人の住む住宅地域は何ら改善しなかった。

10.多くの朝鮮人独立運動家を弾圧し、根拠地の町を焼き払い一般朝鮮人まで
虐殺した。

簡単に思いつくだけでも日本や日本人が行った過酷な朝鮮支配の実体がこれだけある。

人口が増加したのは生活向上とは何ら関係ない。
増加が生活向上の証明となるなら   現在日本は人口減少に転じていますが
日本は生活低下しつつあるのでしょうか?

日本が朝鮮支配の費用は特別会計で毎年1200万投資しただけ。
あとは日本の借款である。

つまり朝鮮に金を貸しつけ利息をとって朝鮮から利益をあげたということ

港の整備、鉄道の建設等の近代化は朝鮮を兵站基地として、又朝鮮から収穫
物を日本へ移出するためになされたことであり。
朝鮮人にとっては何ら役立つものではなかった。

これだけひどい目に合いながら朝鮮人は在住日本人約70万が引き揚げるときは
何ら日本人に被害をあたえず、約1年ほどで日本人の大半は帰国できました。




植民地朝鮮の日本人  ⑧

投稿者: whiterose20051 投稿日時: 2006/06/14 04:15 投稿番号: [2887 / 3669]
1877年後半期から82年前半期の日本の対朝鮮輸出貿易総額は、約460万円で
その約88%がイギリス製の金巾(カナキン)など綿布を中心とする外国製商品であった。
また、輸入総額は約510万円で、その30%が米、19%が金地金、16%が皮革及び
毛皮、11%が豆類であった。そこで、当時の日本と朝鮮との貿易を「綿米交換体制」と呼んでいる。

日本人の輸出入に関税自体を認められていなかった朝鮮政府は、1877年9月、豆毛浦に海関を設
けて輸出入を取り扱う朝鮮商人に課税することにした。

すると、対馬出身者を中心とする居留民170〜180人は、「不当課税反対」を
叫んで、海関と役所におしけた。
そうして、課税を撤廃させた。

貿易商・仲買を金融面から支えたのは銀行であった。
1878年6月、日本政府から営業資金として銀銅貨10万円の貸し付けを受けて
、渋沢栄一は釜山に第一銀行の支店を開設した。

また、1880年には元山に、1882年には仁川に、1887年には漢城に出張所を開設した。

そして、「日韓貿易に関係した短期の商業金融業務を主として営んでいた」

具体的に言えば、十二分にある資金を貸し出して米の買占めをやらせ、綿製品
を輸入させたのである。
また銀行は植民地金銀の吸収にも務めていた。
第一銀行支店は1884年から朝鮮政府に借款を供与することになった。

1902年には銀行券を発行し、1905年には発券銀行である韓国銀行に発展し、
朝鮮併合後は朝鮮銀行になっていった。

船窓夜話ー第二十一弾ーバスラ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 14:19 投稿番号: [2886 / 3669]
船窓夜話―第21話―バスラ 2003/ 3/31 18:29
メッセージ: 4069 / 6027

投稿者: ilkuji
鏡みたいなペルシャ湾を滑るように走って到着した川、内陸にあるバスラ港へ繋がる川である。パイロットを乗せてその川を溯りはじめた。川水は黄色く濁水で、川の幅は相当狭くて少しでも間違えて操舵したらすぐにでも一方にぶつかるようにみえた。川の両側の堤の上に家屋が堤を従って並んでいて住民たちが出て航海する本船を見つめたり、子供たちが群れで走ったり遊んでいる。

ある老人が捨て物を持って家を出ると孫くらいの少年がそれを奪うように取って行く。長幼有序とは儒教の影響を受けた東アジアだけにあるものではないと感じた。川の床が浅かったらどうしようとの心配もあったのに船は順調に川の上流まで上がっていった。埠頭に近づいたらそれなりの港町らしいバスラ港が姿を現す。

接岸をしてから一休していたら埠頭労務者たちが甲板に上がって来る。みんな頭にターバンを回してきて荷役を開始した。暫くしたらみんな持って来た狭いカーペットを開いて正座で座る。そしてコランを呟きながら礼拝をはじめた。イスラム教の礼拝時間になったのだ。15分くらい続けた後、作業を再開、昼食の後、また午後礼拝が始まり、そして夕方また礼拝する。一日礼拝ばかりで終るんじゃないかと思うほどだった。

上陸もできず、食堂に集まりTVをつけたらチャンネルをどこに回しても礼拝の姿と経典勉強の中継だ。夜になってやっと娯楽時間というのが女たちが1メートル長さの髪の毛を垂らして唄に合わせて頭を左右に振るだけ。彼女らにとってはそれがダンスである。しかしその動作だけ繰り返し、腕を振るとか脚を動く動作は全くない。歯痒くてならなかった。

カサブランかでも感じたことだがイスラム国家では男たちが小便してから必ず亀頭を水で洗うことがあまりにも可笑しかった。団体用便ができる水洗式用便台は小便した後、壁から流れる水を左手で取って亀頭を洗うけど、そしたら座便器でどうやって洗うかな。宗教意識は生活全般に染みているような印象を受けた。

翌日、日本人技術者が三人上がって来て“もしかして日本の本とか何かヌードの本無いですか?”と聞く。多分イラクに派遣に来た技術者らしい。給料はたくさんもらうとしても、こんな退屈な国に来て女の写真を探すなんて可哀相な思いもした。イラク人としては宗教だから仕方ないとしても人間の基本欲求の噴出さえ拒否された異邦人たち。いっそ金玉を紐で結んで異性が恋しくなくなれば彼らの異国生活もそんなに疲れてだるくないはずだ。

バスラはイラク唯一の港として生活用品と油類を輸出入する窓口役割をするのに湾岸戦争のときも連合軍の集中ターゲットになり目茶苦茶破壊されたのに今回の米英との戦争にもう一度徹底に攻撃された。本来イラク領土の一部だったクウェイト地域を米英が1920年代に勝手に独立させ、多くの油田を失ったイラクが今度は本土さえ米英に渡す運命になるなんて。もしクウェイト地域に油田がなかったら分割されたはずか。財産無しで暮らすのがよいとの言葉が実感する国である。筆者が訪ねた当時、何も知らずに遊んでた天真爛漫な子供たちや無実な埠頭の人夫たちは戦争の時に死んだか生存したか。二回の戦争でもう本来の姿は捜し出せない哀しい運命のバスラよ。

船窓夜話ー第二十弾ータンパにて

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 14:17 投稿番号: [2885 / 3669]
船窓夜話―第20話―タンパにて 2003/ 3/19 18:32
メッセージ: 4038 / 6027

投稿者: ilkuji
ある日、秋の風がかなり寒くて冬を予告するように吹いてたとき、アメリカのフロリダ州のタンパに寄港するようになった。当時は静かで小さな田舎の町だった。治安問題でひとりで上陸しないように薦められたが、荷役が遅く終ったため、帰国お土産を買いに埠頭近所のスーパーに一人で行った。腹が減ったせいかお土産より食料品を多く買ったのでいっぱいなった分量を持ってカウンターにいったら黄色い紙のパックに入れて両腕を開かせた後、その上においてくれる。

両腕でそれを持って外へ出たら埠頭まで歩いて行くことが大変だった。人が通らない暗い道を歩いていたら旧型乗用車が来て隣りに止まった。中の黒人女二人が俺に乗せてくれるそうだ。少し恐かったけど仕方がなくて乗った。船員といったら埠頭まで乗せてやるから友達一人を呼び出して4人でグループセックスをしようと誘われた。彼女らの年は20代程度でみえたが、もしかして強姦でもされるかを考えたら恐くなった。信じない読者もいるはずだが。埠頭に到着して待たせて帰船したが、行こうか辞めようか迷ったが一緒に行ってくれる人がいなくて諦めて足洗ってから寝た。

翌日にも夕方暗くなってから同僚二人と外出した。道の両側に葦の茂る人道を歩いていた。しばらく歩いたら後ろから乗用車が矢のように走ってきて車道に近く歩いていた機関士を一機に引いてバンパーの上に載せたまま走った。あっという間に起こった出来事だった。女子運転者がスピード違反して走ってて不注意で人道を歩いていた人を引いてしまったのだ。その車は被害者を落してからそのまま逃げた。落ちたところを走っていってみたら動いてなさそうだ。一旦負ぶってタクシを呼んで病院にいったところ、既に死亡した後だった。警察に申告したが別に事務的な態度にもっと腹が立った。自国民がやられても同じ態度だっただろうか。

翌日の朝、現場に行ってみたら既にブルド―ジャーで現場の周りの葦を奇麗に除去した後だった。現場保存のためにもそのまま置いとくのが常識なのにわざと現場を毀損したのだ。捜査を助けるために?いわば全部車道なので車道を歩いてた被害者が悪いようにさせるためだった。数日を待っても容疑者を取ったとの連絡はなかった。そもそもそういう態度で捜査をして取れるもんか。取れないんじゃなく、とらなかったかも知れない。

死んだ機関士は筆者と仲のいい友で韓国には年寄りの両親しかいない一人息子だったのに、既に死んだ人は仕方ないとしても老父母は誰が扶養するかを考えたらヤンキーたちの無誠意で傍観的な態度がもっと憎かった。補償は全然もらえずに本船はそこを離れるしかなかった。

帰国後、同窓会に寄って事件顛末を打明け、老父母を助けるために募金を始めた。一人息子が外国で横死したあと、彼らは毎日を涙で夜明けしていた。ある程度募金して伝えてからも同窓会では持続的に助けるようにした。船に乗りながら多くの友達と同僚を失った。しかし誰かがやらないといけないこと。今はもっと便利な世の中になり後輩たちの船乗りも楽になったと聴いた。しかし先輩たちの血と汗で立てた海運立国の過去を忘れてはいけないと思う。

船窓夜話ー第十九弾ーサロンボイ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 14:15 投稿番号: [2884 / 3669]
船窓夜話―第19話―サロンボイ 2003/ 2/26 19:17
メッセージ: 3994 / 6026

投稿者: ilkuji
全船員の半数が交替されたその船舶は職位別引継ぎと引受けで目茶苦茶忙しかった。学校のとき軍事教育団の制式訓練担当の軍曹が言ったことが思い出す。忙しすぎることを何といえば一番いい表現になるだろうか?それは「放尿してから亀頭をはたく暇がない」とのことだ。

とにかく私も前任二等航海士から引継ぎしてもたっらものの、船内雰囲気が悪くてちょっと働きにくいといわれて少し心配した。前任者たちが離船してから次の日、いわば乗船の次の日の朝、船長が呼ぶのでいってみたらサロンボイが泣きそうな顔をしていて、船長が代理店の人に連れていくように言った。サロンボイとは船長、機関長、1航士、1機士および通信長の食事の厄介をみたり部屋掃除を担当している職位だけど、昨日一緒に乗船したサロンが一日ふりに降りるなんて何か間違ったことをやったんで船長が退去させようとするらしい。

一旦代理店の人と一緒に船を降りたサロンは半日過ぎて帰ってきた。規定により乗船一日では退去が不可だそうだ。船長は渋い表情をしたがサロンは振り向いて笑ってる。多分船長が飴を食わされたのが面白いとのことか。船長が怒った理由を聞いたところ、乗船の日の夜、埠頭近所の酒場にいってメスサロン(女サロンじゃなく2―3航海士・機関士の面倒をみるサロン。サロンの下)と酒を飲んでるのに船長も奥のテーブルに座っているのをみつけて、カウンターで酒代を払うとき手の親指で後ろを刺してはそのまま出て行ったとのことだ。

あとで船長がサロンの酒代を払わせられ、来たばかりのサロンが敢えて無礼なことをしたと興奮して追い出そうとしたのだ。後でわかったことだが、上陸して船長に酒場で出会ったら無条件逃げるのが上策だそうだ。なぜなら自分が払うのはさておき、船員たちに酒を奢ってくれと押されるなら誰も好きじゃないはずだ。最初はイタズラだと思ったのに、それがそうじゃない船長の癖だった。そんな船長に敢えてサロンの奴が酒代を代納させられたら興奮するのも可笑しくないだろう。

始めから憎みを売ったサロンは船長に毎日苛められながら生活した。後ほど少し直ったけど今度は逆にサロンが船長にそろそろ飴を食わしはじめた。船長がTシャツを渡し、アイロンをかけるように命令したら、べつにアイロン要らないほど綺麗だと下級船員の食堂で(当時本船には階級群別に食堂が4つあった。サロン、メスサロン、甲板部、機関部船員用)楽しく遊んだ後、アイロンかけずにそのままそのシャツを持って帰って「船長様、アイロンかけました」という。まるで昔、中国の秦始皇が死んだ後、その息子が執権したら大臣など部下たちが彼に飴を食わすために彼が馬をみて馬と呼んだらば「違います、陛下。それは犬です」と無理押ししたとの古事があるけどその様だ。

自分の奥さんの自慢は常に口につけてる。結婚式のとき、式場の入口に立っていたら女優みたいな女が近づいてきて自分の腕を組んだって。びっくりしてどちら様ですかと聞いたところ、自分の新婦だとやっとわかったとか。そのサロンが乗船6ヶ月経っていきなり船長に帰郷したいといったら今度は船長が許可しないという。憎みが変ったのかは分からないものの状況が逆転されたというべきか。

そのまま又何ヶ月経ってから今度こそ帰らなければならないそうだ。事由を聞いたところ、奥さんが浮気して逃げたとの消息を家族からの手紙で知ったそうだ。そんなに自慢してたお嫁さんなのに結局逃げたのか。とにかく我らと同期乗船したけど我らより一、二ヶ月早く降りた。船を継続乗船したら今ごろ調理長になっているはずのあの男。この頃みたいに楽しみがないときに偶々思い出す男である。

船窓夜話ー第十九弾ー漢江

投稿者: red_mangou 投稿日時: 2006/06/13 12:49 投稿番号: [2883 / 3669]
投稿者:犬屑

ソウルへ遊びに行ったとき、好奇心で漢江の遊覧船に乗ったニダ。初夏の風は、優しくウリの身を包んだニダ。
ひとりデッキで、これまで売り飛ばした同胞女性の暗い未来を祈りつつ、たたずんでいたら、どこかの白人男がやってきて、
ウリを河に投げ込んだニダ。何か叫んだやつの
言葉は、聞き覚えのあるコックニー。
思い出したニダ。奴はウリの、一度だけ客だったニダ。たぶん、ウリが売りつけた商品(韓国人女性)が
気に入らなかったために、うらんだに違いないニダ。
「ウリが、一見の客に誠意を見せると思ったニカ?   ウリをなめるなニダ!!」
ひとしきり叫んだため、あおりを食らって漢江の水をひとしきり飲むハメに陥ったニダマン、身も心も腐りきった
ウリには、その水は一服の清涼となったニダ。多幸だったニダ。

船窓夜話ー第十八弾ー熱砂のサウヂ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 12:18 投稿番号: [2882 / 3669]
船窓夜話―第18話―熱砂のサウヂ 2003/ 1/30 18:06
メッセージ: 3938 / 6026

投稿者: ilkuji
7月熱いある日、サウヂのダンマンという所に寄港してセメントを降ろした。
毎日摂氏45度。一日も曇った日はなく、火達磨のような太陽が登るとその日の
苦労がはじまる。接岸施設が落後で一週間を待って入った埠頭には古い起重機
一台だけがぽつんと立っていた。

日が登ると、あえて荷役は意欲さえも出しえなく人夫たちは皆帰ってしまう。
そういうわけで荷役は日が沈んでから登るまでの夜間作業である。たまに風が
吹くがそれこそ熱風だ。昼間に風吹くときがもっと働きにくい状況だった。
船の貨物倉庫に降りていって働く人夫は皆インド人であり、南アフリカでいう
いわゆるクリー(苦力)である。日本語で3K職種というか。餓死賃金をもらって
も危険できつい仕事を断われない人たち。

ところで貨物を受取る会社の人たちがみんな本国人である。いわば中近東進出
ブームで建設分野で出て来た人たちが本船に上がって来ててんから食堂で暮らす。
食堂にはエアコンが稼働するからだ。一日ずっとみんな食堂に座ってて食事時間
には各自が持参してきたラーメンを煮て食べながら船員たちが座る椅子を占拠
して故郷の消息を聞く。

船員たちには不便だが同族なので仕方がない。彼らも金を稼いでみようと1―2
年づつ雇用契約し、もしくは前借りして出てきた立場なのでいくら熱くて苦労
しても今更中途で帰ろうとはいえないのだ。年齢も多様で20代、30代、
甚だしくは50代までいる。我らも苦労だが同病相隣の情を感じた。あの人たちが
そのように苦労してドルを送金しているのにその子供たちは父親のその苦しさを
わかっているだろうか。彼らの話によると暑さのためにある日、いきなり四肢が
ねじれて体が麻痺され中途に帰国したケースもかなりあるそうだ。その場合、
前払いした金を全額返却し飛行機代さえ換えさなければならないそうだ。

彼らの中で偶然見知りの顔がいた。名前は知らないが前の船舶会社で瀬戸内海
航路を走ってたとき、釜山の埠頭荷役中、乗船しコンテーナーの検数を担当した
男だった。筆者はラーメンを煮て渡しながら慰めた。

回教国家なので酒は当然、販売禁止と知っているものの、本船にまで軍人たちが
銃をかけてきて食堂と廊下に立って監視した。酒を飲むかどうかを。上陸も
禁止だ。出ていっても見ることもないはずだが、航海に苦しだ船員たちが陸地に
接岸しても上陸ができないってなかなか苦しい。仕方なくみんなさおを垂れて
釣りながらつれづれを慰める。それも昼間にはみんなエアコンが稼働する食堂に
集まっていて日が暮れてから外に出るけど温度はあまり変りない。ただし
火達磨のような太陽がないとの差だ。

3等機関士は機関士1年生として当年24才。水泳に自信があり学校のときは
選手生活もしたとの若い人。 船尾でギターを弾きながら歌ってた彼が突然上着を
脱いでちょっとだけ泳ぎたいといって海にダイビングした。5分くらい
経ったのか。彼がいきなり水中であっぷあっぷしていた。ロープを投げたけど
潮流が強いらしくだんだん遠く流れてしく。案外に潮流がつよいのを
見過ごしたのだ。警察と代理店に知らせライフボートを降ろし捜索したがもう
見えない。

三日後、死体が浮かんできた。拾って清めた後、帷子を着せた。できるなら
棺に入れてそのまま飛行機で運区したかったが熱砂の国で金属製の棺に入れ
20時間も飛んで本国に到着したら高温で
惨たらしい水だけ残るそうだ。埠頭の
片角を借りて死体を火葬しながら人生無常を殊更に感じた。白くて美しい骨を
箸でとって箱に入れて封じた後、船員総員が集合、簡単な礼を揚げてから
代理店の人に引渡した。引渡すときになってそれまで耐えていた涙が溢れ出た。
3等機関士よ、さようなら。

熱砂の土地で同僚を失い本船は憂鬱な心でダンマン港を離れた。船長の命令で
長い汽笛を鳴らし、別れた霊魂を慰めながら。

Re: ◆コリア関連書籍◆

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 12:16 投稿番号: [2881 / 3669]
ビンシンもいろいろ、サルもいろいろだね。w

本来相姦トピに連載していたシリーズをこのコリア書籍トピに

移し、継続連載するように提案したのはこのトピの

構成員たちだった。いまさら現れて「追い出しなさい」と

哀願してもお前自身を「自分は間抜けにだ」と

宣伝することだ。このビンシン・チョーダセキ。

船窓夜話ー第十七弾ーカサブランカ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 12:11 投稿番号: [2880 / 3669]
船窓夜話―第17話―カサブランカ 2003/ 1/11 14:27
メッセージ: 3884 / 6026

投稿者: ilkuji
映画の舞台で有名なモロコのカサブランカに寄港することになった。
北アフリカの地中海沿岸の絵の様な都市。白い建物が多く、うみと一緒に
異国的なアンサンブルを形成していた。地理的には北アフリカだが人種、
文化的にはやはり中近東に近い。

落花生、まめなどを乾燥して売っている店が多く、あう店に入ろうとして
ドアーを押すと落花生をいっぱい入れて乾燥している大きな籠を倒してしまって
店の床は落花生だらけになった。言葉が通じないので謝るのもできなく、
そのまま帰るしかなかった。あの店のおやじ、このトピに頻繁に登場する、
ビンシン、サルないしチョンとかと悪口しただろうかな。

夕食の後、上陸に出て皮製品がいいといわれ、皮コートを全財産で買った後、
ナイトクラブに入った。しばらくしてある金髪の若い女が近づいてきて
いいかける。娼婦かと思って断ったが「自分にはお金は要らない、ただ人生を
楽しんでるだけだ」という。しかたなく一緒に遊ぶようになった。

ふたりでホテルに入った、というより引かれたなあ。部屋に入ったとだん、
女が熱烈なキス攻勢をしながら私をベッドに倒した。そしたら女性上位の姿勢で
呼吸ができないほどキスをされつづけた。一方、一手でアレを触りはじめた。
その行為を繰り返し、しばらくしてから女が私に手を出す。花代を要求するのだ。

「先、金はいらないと言ったジャンか」などいっても馬鹿にされるだけだろう
から黙ってたが、コートを買って、ホテル代も払ってしまったので金が無い私は
あわてた。財布をみて金がないのを確認した女が「待つから金持って来るよう」
にいう。立ちはじめたアレが可哀相だったので一旦女を連れて外に出てホテルの
前で再び会う約束をし、タクシにのって船に帰ってきた。

タクシ代を払った後、運転手に戻ってくるからそのまま待て」といって中から
金を持ってきたらそのタクシは行ってしまった。夜も遅く、埠頭を走る車も
ないので諦めて船の部屋で寝た。二日後、そのクラブに寄るとまたあの女が
きてなんで来なかったかと聞く。

あの女はやりたがったが、連中がいるから諦めて買い物だけやって帰ってきた。
カサブランカ。ほろ苦い思い出の都市。もう23年前の話だ。

船窓夜話ー第十六弾ー南浦洞スヤ

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 12:09 投稿番号: [2879 / 3669]
船窓夜話―第16話―南浦洞スヤ 2002/12/31 18:20
メッセージ: 3856 / 6026

投稿者: ilkuji
船舶の一部船員交替により釜山から飛行機で日本の福岡へ、そこで乗換えて大阪へ行き、待っていた代理店のバスに乗り、一晩走って到着した富山の新港というところ。船はそこで荷役をしていた。疲れた体を休めることなく引き続き仕事に入り忙しく一日を過ごした。夜遅くぐったりとなってベッドに入った。

ぐっすりと寝ていたのに誰かが入ってきてライトをつけ“起きろ”言う。目を覚ますと背が高く黒い顔には頬髭がはやした40代なかばの男が立ていた。時計は夜中の3時。多分前からいた船員らしい。始めの言葉が「あなた傾いて駄目だ」だった。酒を飲んでいたようだ。下級船員らしいが酔っているようなので叱るよりやさしく言い行かせようと思って「酔っているから後で話しましょう」と言葉をかけた。軍隊で下士官が新入少尉を手懐けるように新入3等航海士を手懐けに来たようだ。

しかし彼は私の言葉を聴かずに喧嘩を売りはじめてソファに座り無礼な言葉を使いはじめた「お前、何才か?」から始めてぎりがない。いきなり「なにか渋いか?喧嘩しようか」と言ってくる。ここで負けたら下級船員たちに足元を取られ仕事ができなくなると判断した私は「よし、一度やろう」と答え彼が前に立ち船尾へ出ていた。その後ろを付いて行くと彼は先に拳をとってポーズを取る。

年上の人を殴るのは決して愉快なことではない。しかし当時20代なかばの元気旺盛な年に原則で教育を受けた筆者としては許せない下刺上だった。拳は強くはないものの憤怒が破裂したらおさえられなくなり、その船員を殴り倒してしまった。翌日朝、彼がまた来て睨みながら「年上の人をそんなに殴ってもいいんですか?」という。一旦和解しようと握手をして座らせた。「はじめから態度が生意気なので下級船員たちが軍紀を取るようにいうから自分が来た」との答えだった。年の多い人を説得することは易しいことではない。

本来その船は前の会社が人力送出を担当したとき船員たちの給料も払わなく船長が手当を着服するなどの問題が多かったらしい。その為船員間の雰囲気が険悪な状態になったようだ。賃金未払い問題は新たな会社が引き受け解決されたものの、既にめちゃくちゃになった紀律が正常に戻れない状況だった。その夜侵入したその船員は甲板長補として自分の言葉によると下級船員たちの軍紀を取るように会社が送ったそうだ。ところが士官軍紀を取ろうと私の部屋まで突入したって苦笑せざるを得なかった。

本来、釜山の南浦洞で七星組のメンバーとして拳を振るったという。皆自分を南浦洞スヤといえばわかるという。下の名前がミョンスなのでスヤと呼ばれたようだ。その後の航海で、甲板長と甲板上で一戦を開いたときは拳の飛ばし方が未だ生きていた。急所だけ選んで手早く拳を飛ばすのに比べ、甲板長は空殴りばかりだった。結局、甲板長が倒れたらその首を足で踏んで降伏はしてもらったが、下刺上の罪で船内紀律部長の1等航海士の主催で開かれた軍紀委員会で上陸禁止処分を受け、皆の前で公開謝罪する恥辱を経験した。

喧嘩の理由は過度な作業割当てに下級船員たちが反発し、南浦洞スヤが船員を代理して甲板長に反発したのがきっかけだった。処罰は受けたが、男として義理があると思った。しかし1年の乗船契約期間が満了する1ヶ月前から毎日昼間から酒を飲んで作業に出ず怠けてばかりだった。甲板長も諦めた状況だったので一人で休暇をとっていた。義理もいいが下船するまで自分の義務を至って降りたらよかったのに。

南浦洞スヤ。今はどこで軍紀をとっているだろうか。

Re: ◆コリア関連書籍◆

投稿者: koshien21c 投稿日時: 2006/06/13 11:31 投稿番号: [2878 / 3669]
トピ主さんイルクジの貼り付け駄文削除をヤフーに依頼願います。

トピの趣旨とは全く無関係ですので。

船窓夜話ー第十五弾ーダイアナ妃、その他

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 11:27 投稿番号: [2877 / 3669]
船窓夜話―第15話―ダイアナ妃、その他 2002/12/ 3 17:57
メッセージ: 3812 / 6026

投稿者: ilkuji
地球を半分回って約1ヶ月の長い航海のすえに英国のウェイルズ州のバリドック
という小さな港町に着いた。州都カーディフの隣にあるこの町は田舎だが百年
経った木製水門のある歴史のある港である。上陸しても何も無いので汽車で
近所のカーディフまで遠征上陸に出かけた。昔の城が未だに残っててその前に
展開する広い草原がなにより精神的に安定感をあたえる。24時間機械音しか
聞こえない船内と比べたら天国に来たように平和そのものだった。

当時上映を始めたばかりのジェイムス・ボンド映画「For your eyes only]を
鑑賞した。そして「エックスカリバー」も観た。「No sex please! We are British」
というドラマの題名から推測して保守的だとの話は聴いたものの、
表情が皆深刻で暗い印象を受けた。晴れた日のほとんどない天気のせいかな。

都合よくチャールズ皇太子とダイナナ妃の結婚式間近くになり、街はどこに
行っても祭りの雰囲気だった。皇太子とダイアナの顔写真のポスターが貼り付け
られてて、両人の顔写真の付いたカバン、皿、お菓子などが氾濫し、特に皇室
結婚の記念コインーが売られてるので買ったこともある。あのコイン、今は誰の
手に入ってるかな。当時ただ二十歳だった妃はもういない。そんなに華やかで
国民的な祝祭だった両人の結婚が今は一人は死亡し、もう一人はいろんな
セックススキャンダルに包まれてる現実をみて人生の虚しさを感じる今この頃だな。

ある日は一人で汽車に乗り5分程走ってたら、いきなり止まってしまう。なにか
車内放送があったと思ったらみんな早速降りてしまうので理由を聴いたところ、
IRA(アイランド人革命軍)が車内に爆弾を装置したとの情報が警察に入り、
乗客を疎開させ、その爆弾を探索中だそうだ。過激派の代名詞、IRA。日本の
右翼が「兄貴」と呼ぶほど攻撃的なテロリスト団体か。しかし彼らなりの結成
理由があるのだ。

18世紀、英国の植民地になった北アイランドの人々は農業に適当な低地帯を
英国人移住民に取られて山の中で貧民生活をしていた。主食は山間で栽培して
いるじゃが芋だけ。それを食べたり売ったりして生活していたのにある年、
大々的な凶作になってしまった。そこで約150万名のアイリッシュが餓死した
のだ。

根本的に英国政府の植民地政策に問題があると不満を持ってた人達が英国の
退去を要求したが、政府は聴かない。そこでそのリーダーの人が時限付断食
ストライキに入った。結局、要求事項が受け取られず、彼は餓死した。平和的な
方法では英国に勝てないとわかったひとたちが結成したのがこのIRAなのだ。
原則は無差別的な暴力闘争かな。面白いのは英国人に聞けばアイリッシュ人は
独立を願ってないというのだ。

話が飛んだがそのじゃが芋飢饉(英語でPOTATO FAMINEかな)は世界的にも
大規模の民族移動の切っ掛けとなった。おおくのアイリッシュがアメリカへ
移住し、また同じくたくさんの人がオーストラリアに移民した。現在豪州白人の
3分の1がこのアイリッシュの後裔なのだ。豪州ではアイリッシュは性格が
悪いとのイメージがある。

筆者がタックシを運転してたとき、乗ってたアイリッシュもすげぇだった。
あまりにも文句おおいので一言言った。「お前らの民族は可哀相だ」と。
そしたら少し静かになったなあ。在日もそのわけか?いや、これをいうと
勘違い君が必ず出て来るからやっぱりやめよう。とにかく在英のフッカー氏の
コメントが楽しみですね。

船窓夜話ー第十四弾ースエズ運河

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 11:23 投稿番号: [2876 / 3669]
船窓夜話―第14話―スエズ運河 2002/11/23 15:17
メッセージ: 3757 / 6026

投稿者: ilkuji
日本の水島で古鉄を載せ、2週間ノン・ストップで走って到着したスエズ運河。
一旦入口で停泊しながら運河通過の手続と順番を待つことになった。運河の幅と
水深が限られていて一機に10台くらいの船が一列で通過したらば今度は反対
側からこちらへ来る船が同じ方式で通過するのだ。連日続けた航海で皆疲れた
気配だが、やがてこの運河の入口で順番を待ちながらやっと暇を持つようになった。

船内の娯楽だとしても音楽を聴いたり読書、もしくはフラーというカード
ゲームをやる程度だ。フラーとはセブンブリッジ・ゲームだけど韓国では海軍
下士官の昇進試験に出題されるほど海軍や商船で普く楽しんでいる。筆者も
運が良かったか同僚士官たちとのゲームではかなり勝つほうだった。掛け物は
主に免税で買ったタバコで、わざと買う必要のないほど勝ってた。あるときは
食事時間以外には連続三日間寝ずに継続したこともある。一度没入したら
時間の流れを知らないほど続けるのがこのゲームである。とにかく当時は体力が
良かっただろう。

たまにはブリッジ(運転室)にあがっていって停泊中の他船と無線電話(VHF)
で通話をしたりする。程よく韓国船員たちが乗船した船舶が本選の近所に
停泊中なのでその船の1等航海士と通話をしたところ、穀物を満載して運河に
着いたのに吃水(船体に当たる水面線)が運河の水深より深くてその状態では
通過不可との判定を受けたそうだ。貨物担当の1航士の手落ちだった。問題を
解決するにはbargeを呼んで、吃水が浅くなるまで貨物を汲み取るか、それとも
運河通過を諦めてアフリカ大陸を数千マイルにかけて回っていくしかない。

運河の土手道を従って道路と鉄路が平行で走るので船舶が運河を通過するとき、
陸路と海路上の交通手段が並んで走る面白い現状もみれる。4日経ってから
パイロットが乗船し、通過を始めた。各船舶にパイロット一名づつ乗って、
船舶間距離1KMを維持しながら運河に入った。ところで本船に上船した
エジプト人のパイロットはブリッジのVHFを取って他船のパイロットと話する
ことで無我夢中でちゃんと操船しているか不安だった。決まった針路をちょっと
だけ外れたら運河壁とぶつかってしまう。

中間まで入ると再び停泊させる。本来湖水数個所を人工水路で連結したので
湖水に入るといきなり水域が広がる。そこでパイロットが交替され、アレック
サンドリアを左にして運河を抜け出た。約10時間かかった長い水路だった。
そこから波が荒くなる地中海に入り、ジブロ・オルターを向かって全速力で
走りはじめた。

双眼鏡で観る絵のような都市アレックサンドリア。昔アレックサンドリア大王が
立てたとの由緒深い都市に入れなく惜しかった。先輩に聴いた話ではそこに
入港し、郵便局で10枚以上の手紙を送ってくれるようにカウンターに頼んで
から出たけど、もう一枚郵送したくて再び入ったところ、さきに任せた手紙に
付いている切手を同じ職員が全部はずしていたとか。切手がそんなに高いかは
知らないものの、根性のよくない所だったという。まあ一人をみて全部を評価
するのも正しくないはずだろう。

船窓夜話ー第十三弾ー瀬戸内海ーX

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 11:21 投稿番号: [2875 / 3669]
船窓夜話―第13話―瀬戸内海 最終編

投稿者: ilkuji
接岸後、中央洞にある会社に寄った。3航士は医薬担当なので救急薬品を
取りにいったのだ。我ら船員は船で苦労しているのに事務所では花のような
OLたちがたくさんいた。別に仕事もせずにのんびり雑誌とかを読んだり女同士で
喋ったりして楽しんでいた。男だけの船生活とは別の世界みたかった。事務所で
海務代理をやっている先輩に頼んでOL二人をデートに誘った。西面に連れて
いってスタンドバーで飲んだ。その一人が可愛かった。

商業高校を卒業して働いてるそうだ。二人が一緒に来てるのであの子だけを
誘うのも無理だし、その夜はあきらめた。というより先輩の紹介なので何か
下品なことをやられたと噂でも広がったら困ったのだというのが本音だろうか。
いや、それよりこれからの船の生活を考えたら、陸上の一般人のようにしょっ
ちゅう会えなく、いつも恋慕うのも辛そうだし、離れている間、他の男に
盗られるのも悔しいはずだ。

情をあげてもどうしても別れるなら、その傷口が大きくて耐えられないはず。
未練を残さないように前もって情をあげないほうがいいだろうと思った。
どちらかというとやはり船乗りには情熱を一晩で燃やして翌日は再会の約束なんか
なしで未練なしで別れるタイプの恋が似合うかもしれない。

瀬戸内海辺のある小さな町に上陸したときの出来事が思い出す。昼間は仕事で
上陸は考えられなく、夕食をしてからやっと外出許可を得て7時頃一人で
町に出たが、スナック一軒見当たらない田舎だ。そこから電車でちょっと走った
ところに都会があると聴いたのでとりあえず電車に乗った。15分くらい
走ったら、なるほど、かなり大きな町が現れた。スナックで一人酒をした。

ある程度酔ったと思って時計をみたら10時半過ぎていた。酒の後は必ず食事を
する癖があり、うどんを売ってる屋台に寄ってラーメンを注文した。かなりの
分量なのでゆっくり汁を飲んで麺を食ってたらバスが来た。あのバスが最後なら
乗らないといけない。あせてまだいっぱい残ってるラーメンをあきらめてバスに
乗った。その残したラーメン、いまでも惜しくて堪らないな。

バスに乗って奥のほうに進んだら一人で座ってる若い女の子がいた。OL風の
子で多分21才くらいで物凄く奇麗だった。日本には奇麗な女が少ないと
聴いたので少し驚いた。馬鹿のように隣に座って片言で言いかけはじめた。
なにを聞いても「はいはい」と優しく親切に答えてくれた。

母と二人暮しで高校卒業後、会社で勤めてるそうだ。今度は簡単な韓国語を
教えてくださいと向うがいうので挨拶の言葉とか紹介したり、船乗りだけど
寂しいとか馬鹿な話もした。終点まであっという間に着いた。

一緒に降りてから酔いを武器に誘ってみた。一緒に行かないかと。彼女は
「ちょっと待て」といって近所の公衆電話ボックスに入る。私は「そうだ。
今夜外泊だから家に待たないように言ってるんだ」と推測した。

電話を切ってボックスを出た彼女、意味深い微笑を浮かべる。そのときはまだ
その微笑の意味がわからなかった。私は近づいて「くちづけしましょう」と
いった。どう思っても大胆な提案だった。そんな勇気は以前も以降もなかった。
彼女は軽く避けた。

しばらくして黒い色のセダンが我らの前に止まった。そうしたら彼女は
「さようなら」といって早速あの車の中に姿を隠した。運転は彼女の母親らしい。
車はすぐ暗みの中へ消えた。一本頭を打たれたような気持ちだった。

彼女は多分、電話で「馬鹿な痴漢がしつこく付いてくるから早く車もって来い」と
母に頼んでたのに違いない。それも知らずに私との一晩を想像して楽しくて
笑ってるかと思ったのだ。マドロスならやっぱり酒場で死ぬまで飲むのが
ふさわしいのだ。

錯覚だったがその瞬間だけは幸せだった。瀬戸内海は今夜も静かに月を照らし
ながらそこに溜まっている。まるで私の傷を無言で慰めるように。(瀬戸内海編終了)

船窓夜話ー第十三弾ー瀬戸内海ーIX

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 10:45 投稿番号: [2874 / 3669]
船窓夜話―第13話―瀬戸内海 IX 2002/11/ 9 14:42
メッセージ: 3695 / 6026

投稿者: ilkuji
実家のある釜山が遠くから夜景を現した。夜間入港のときはいつもレーダーを
つけて位置を確認しながら無線電話で釜山港湾統制所に入国を告げる。レーダー
上で釜山港湾と隣の海雲台海水浴場の海岸線があまり区別がつかない。そこで
船長初年のある人のエピソードが思い出す。釜山港に入ろうとしたが間違えて
海雲台海水浴場の海岸に座礁したけど夜なので知らずにエンジンを使っても
前へ進まない。

朝になってみたら船底が海水浴場の砂に摩擦され、海草など接着物が外れて
きれいになったとか。あの船長、ドッキング(船舶検査のための定期船体修理)
が要らなくなって会社から表彰をされたかは知らないけど。

海雲台は学校のとき、思い出がある海辺である。土曜日、外出して同期生と
一緒に頻繁に行った。理由はひとつ。女刈りには最適なところなんだ。海辺を
ひとりか二人散歩している女の子はまるで「アタシを誘ってよ」との様なもんだ。
気違いのように近づいて「お時間ありましたら紅茶でも」と誘ったら、まず
素敵な(?)制服の男なのでほとんど遠慮なしで付いてくる。

そしたら喫茶店に入って「お名前は?趣味は?」からはじめて連絡先を交換
したり気前のいい女なら当日Hもできる。制服に弱いのが女なのか。醜男の私も
制服のお陰でたまに肉報施をうけたのをここで告白する。

ある日は、といってももう夕方7時頃、暗くなったとき、二人で海辺をぶらぶら
歩いてたら、女の子が一人付いてきて、「あの・・・友達があなたにお話が
あるそうですが」と話かける。振り向いたらもう一人の女の子が電柱の後ろに
隠れていた。

通例の通り、喫茶店で紅茶を飲み、西面まで出た。 同期生と先話し掛けた
女の子は其々そのまま帰ったようだ。女の子は友達と二人で工場で働いてる
そうだ。寮の生活していてせっかく外出に出て、男刈りをしたようだが。金の
ない学生がホテル入れるわけはないし安い旅館にその子と投宿した。

1週間経ってから彼女から手紙が来た。「外宿した罪で何週間外出禁止された。
責任取りなさい」との内容だ。鉛筆で綴りも間違えた書き方だった。多分
田舎から金稼ぎに都市に出たケースであり、いわば産業戦士である。なんと
なくわるい気がした。一晩の快楽に将来をかける女なんて今はいないはずだが。

先ず外港に錨を降ろし、すぐ通船が来る。そしたら船長、機関長、1航海士
たちはさっそく上陸のため乗る。家庭があるから早く家族に会いにいくだろうが、
私など末端士官は停泊当直なのでそのまま本船で寝る。たまに埠頭が混んでて
次の日も接岸できないときは、また拘束される。

そこである日、同じ級数の機関士の誘いで二人で無線電話で通船を呼んで陸地に
逃げた。残った当番は甲板部見習と機関部見習だけ。船長や1航海士がわかったら
物凄く怒るはずだが仕方がない。会社が提供する定期通船なら無料だが個人的に
呼ぶからかなり高い。日本から持ってきた物を売っても通船代を払ったら残りは
ない。まるで通船代を払いに貿易(?)するような感じだ。(つづき)

船窓夜話ー第十三弾ー瀬戸内海ーVIII

投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/06/13 10:44 投稿番号: [2873 / 3669]
船窓夜話―第13話―瀬戸内海 VIII 2002/11/ 4 17:16
メッセージ: 3620 / 6026

投稿者: ilkuji
関門海峡がまた近づいてくる。門司港を過ぎるときあの岬に銅像が立っていた。
私の記憶が正しかったら、ある男の傍に犬が一匹立っていたかな。何か船島
みたいに事由でもあるかと思った。遠洋船に乗ったとき、この門司港に入港し、
荷役作業をしていたら、ある爺がタラップを上がってきて、1航士に日本語で
船内古物を売らないかと聞いた。そうすると、なぜか1航士は物凄く怒って
あの爺に「帰なさい!」と叫ぶので事情を聞いたところ、あの爺は在日だけど
日本人ぶりをして聞くのが1航士の機嫌を損ねたらしい。何故正々堂々に
韓国人として韓国語で聞けないのかが私にも疑問だった。

爺は爺で「貴方が韓国人だと知らなかったよ、ねえ。なんで怒るんですか?」と
今度は日本式の韓国語で反問していた。なんとなく悲しい気がした。他国に
住んで差別されてると自分の身元を隠して日本人ぶりをする在日が一人二人では
ないはずだが、出身国を隠すほど我らの国が恥ずかしい存在なのか。

在日の皆さん、どう思いますか。他国にすんでも最小限自分のルーツのある
祖国にプライドを持って、日本人に堂々に行動し、元祖国を自ら侮辱する行動は
止めてください。海外に住んでる1―3代は多いけど在日ほど元祖国を怨んで
罵倒する同胞は他にそんなにいないでしょう、勿論みんなではないでしょうが。
たとえ元祖国が憎くても貴方が、もしくは貴方の先祖が生まれた故郷じゃない
ですか。自分の故郷を罵倒するのは自分自身を否定することと同じですね。
門司港で在日啓蒙をしてしまいました。ごめんなさい。

商船では、たまにロープや鉄ワイヤーなど古くて使えないものを買いに来たり
小遣いにしようと売りに行くこともある。日本語のできない一般船員たちを
連れてある古物屋に寄って「船のワイヤー買いませんか」と片言で聞いたらば、
応対に出たばばが「すね?」「ねえ、すねのワイヤー買うの?」と中のだんな
さんに振り向いて聞く。「すねのワイヤー要りません」と答えた。ふねを
「すね」ともいうのだとわかった。どこの地方の方言かは分からないものの
確かにいろんな方言やなまりを使うのは日本も例外ではなさそうだ。

海峡だとしたらなんとなく悲しみと共に寂しさを感じるようになったのもその頃
以降かな。吉幾三の唄、「海峡」をを思い出さなくても海峡は別れとか恋しさを
象徴する単語に決着したわけか、主に愛する二人を分ける地形的な特徴で唄にも
自然に別れを恨ませ、もしくは恋しさを重ねさせる役割をするだろうな。

この海峡を通過するときに限って経歴の一番長い1舵手に舵柄を取らせるのも
やはり潮流の強さやカーブの激しさを上手く取扱いできるからだろう。一旦
海峡をクリアーして海が広がるとそこから玄界灘である。怪物のように
曲がってる島、蓋井島を右にして船首を釜山に向かわせる。(つづき)
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